信仰と迷信  文学博士 医学博士  富士川游述  日本民俗叢書  昭和三年初版  磯部甲陽堂蔵版  丙午歳生れ子のおしゑ書  丙午の歳に生るる子は成人の後に災ありといふこと何時の頃より始まりしか明かでないが、天明の丙午にはこの迷信のために迷惑をしたものが多く、丙午さとし話と題する辨妄の書も行はれた。その次の弘化の丙午には更に多くの辨妄の書が公にせられ、宣伝の錦繪数種行はれた。ここに挿むところのものはその中の一種である。  魔女を火炙にする図  西暦十七世紀の始に、仏国の某僧院にありたる尼僧が、多くの悪魔につかれたることを自白し、錯覚、幻覚、妄想、痙攣、強梗発作等を起し「ヒステリー」の症状を呈し、それが他の尼僧に感染して多くの病者があらはれた。これは全く悪魔につかれたものであるとせられた。又その悪魔を使ふものがあると認められた。それによりて劇しき宗教的の迷信が起り、さうしてそれがために火刑に処せられたものもあつた。ここに掲られてあるものは瑞西に行はれたる火狭の図である。  麻疹哭之図  文久二年麻疹が大流行をしたときにその予防及び治療の方法を宣伝するために一枝摺(又は二枚摺)の錦繪が幾十種となく発賣せられた。ここに挿むところのものはその中の一種で、特に麻疹にかからぬやうにする児とたとひ麻疹にかかつても軽くすむやうにまじなふ方法を列記したものである。  序  迷信は我々人類の精神生活にあらはれる現象の一とつに属するもので、それが現はれる動機は極めて多般であり、又それが認められる範囲も甚だ広汎である。それ故に迷信に就て叙述すべきことは種々の方面に渉り、それを研究することの興味はいろいろの学者が有して居る筈である。今余がここに公にするところの小篇は迷信と名づけらるる心理的現象の実情を明にすることを主としたもので、いふまでもなく通俗的に叙述したものである。それにこの書の紙頁には限があるために巳むことを得ず節略した点も勘なくない。又なるべく客観的の叙述につとめたために、無味乾燥に陥つたことと思はれる。これ読者諸子の諒解を願はねばならぬことである。  昭和三年一月上旬  鎌倉に於て  富士川游  信仰と迷信目次  序論  感覚  知識  信仰  誤診  迷信  素朴的信仰  智識的信仰  需要的信仰  民俗信仰  信仰と迷信  各論  靈魂  生靈  兇癘魂  怨靈  靈魂  鬼  幽靈  動物憑依  身体  人体の七曜配当  十二宮と身体  人体の五行配当  厄歳  相生  相克  有卦  丙午  妊娠及び娩産  誕生日  胎教  男女の判定  催生靈符  催生法  借地法  安?の神  安?のお守  祈願  育児  ちりげの灸  宮参  縁起玩具  疾病  病魔  悪魔  魔法医学  神気  疫病神  ?舞羅鬼  異鳥  療病  医術の変遷  追健  疫神を送る  神慰め  疱瘡神  哭符  奉納物  小繪馬  相法  宗教  自然的宗教  精神的宗教  序論  この小篇は民俗の信仰、殊に主として我邦に於ける事実を挙げたものである。それも『日本民俗叢書』の一部分として筆を執つたのであるから、単に民俗信仰の事実を挙げるのみでよい筈であるが、私はその信仰に対して、科学上の批判を加へることとした。それがために民俗信仰の多数のものに迷信の名をつけねばならぬやうになつたために『信仰と迷信』と題したのである。それにしても、迷信につきて詳細に叙述するのではないから、その名称は内容をあらはすに十分でないかも知れぬ。或は名称と内容とが相応せぬと評せられるかも知れぬ。しかしながら名称は兎も角も、余のこの小篇は単に民俗信仰の事実のみを、挙ぐるに止めるのではないから、各論に入る前に、少しばかり信仰といふことにつきて心理学的の事項を叙述することが必要であると思ふ。  認識  我々がこの世にあつて、身体的及び精神的に独立して生活するために第一に必要なることは、外界を認識するといふことである。外界を認識することが十分で、さうしてそれに適応して行くことが十分でなければ到底その生活を維持することは出来ぬ。それ故に、この意味から言へば、我々の生活は全く外界に適応するより外はない。我々にして若し善く外界に適応することが出来れば生活はますます発展するが、これに反して外界に適応することが十分でない場合には生活の上に故障を起し、若し全く外界に適応することが出来ないときには死滅するより外はない。かやうに外界を認識することは我々の生活の上に重要のことであるから、我々には外界を認識するところの第一の関門として感覚のはたらきが備はつて居る。  感覚  下等の動物にありてはその全体に感覚のはたらきをあらはすものであるが、我々人類にありては、感覚は分化して、一定の外界のものが、それに相当したる一定の感覚によりて感受せられるやうになつて居る。たとへば色や光を感受するものは視覚であり、音響を感受するものは聴覚であるといふやうに、感覚が分化して、特殊のものとなり、一定の感覚が外界の一定の部分を認識するやうになつて居る。すなはちその視覚は眼によりて営まれ、聴覚は耳によりて営まれる。その他、嗅覚は鼻により、味覚は舌により、觸覚は皮膚により、運動覚は筋及び骨により、内臓覚は胃、腸等の内臓によりて営まれる。それ故に我々の身体の全部が感覚の器管となつて、外界を認識するの関門となるのである。しかしながら感覚といふはたらきは脳髄の内で起るもので、すなはち我々の精神の内容である。精神の内容として感覚のはたらきが起ると、それが知覚のはたらきとなりて、個々に感受せられたる種々の性状などをまとめてそれを認識することが出来るやうになる。ここに観念といふものがあらはれ、それが聯合して、注意となり、記憶となり、判断となり、想像となり、それによりて結局、我々は何物かを知ることが出来るのである。それ故に、外界に適応するといふことは、すべての生物が、その生存の必要の上から必ず為さざるべからざるものであるが、しかしながらその身体及び精神の機能が簡単であるものでは、ただ自然に適応のはたらきが起るのみで、意識して、外界に適応することはない。我々人類にありてはさうでなく、自然のはたらきによりて外界に適応するといふだけでなく、自分で意識して、外界に適応することにつとめる。これは全く『知る』といふ精神のはたらきが我々人類に備はつて居るためである。それを名づけて知識といふのである。  知識  我々が外界の何物かを感覚したるとき知覚によりてそれを纏めて後に観念を造り上げるのであるが、その概念が聯合して注意となり、判断となり、記憶となり、想像となり、それが意識の内容としてあらはれるときに、我々は外界の何物かを知るといふ。知識と名づけられるものは、すなはちこれである。それ故に知識と名づけられるものは我々の感覚か第一歩として、精神の種々のはたらきが連続的にあらはれて、外界の何物かを認識するのである。言葉を換て言へば、知識といふものは我々の精神のはたらきによつて我々が直接に経驗することに本づくもので、この経驗は何時にてもそれを再試することが出来るのみでなく、何人にてもこれを証明することが出来るものである。固より知識は進歩するものであるから、昨日の知識と今日の知識と同しからず、又人によりて甲と乙とに知識の相異のあることは言ふまでもないが、これは経驗によりてこれを均等にすることが出来る。それ故に我々は常に経驗を重ねて、知識を増進することをつとめ、それによりて、善く外界に適応するやうに努力するのである。  信仰  ところが外界に限がなく、しかも我々の知識には限がある。それは言ふまでもなく、我々の知識の根本をなすところの感覚のはたらきに限があるからである。我々の感覚は見ることにしても、聴くことにしても、嗅くことにしても、味ふことにしても、觸れることにしても、又運動の感覚にしても、内臓の感覚にしても、皆十分のはたらきをするものでないから、これ等の感覚によりて直接にあらはれるところの覚及び観念には不十分なものがある。それ故に知識のはたらきのみによりては我々は外界を十分に認識することが出来ぬために、知識のみでは満足が出来ず、知識の範囲の外に出でて、直接経驗には本づかずとも、これまで経驗して得たる知識を延長して、何物かを認識する上に、推定のはたらきをせねばならぬ。すなはち我々は十分に外界を認識するためには知るといふはたらきの外に、信ずるといふはたらきを用ひねばならぬ。たとえば明日があるか無いかといふやうな場合でも明日といふものは我々の眼で見ることの出来るものでなく、我々の耳で聴くことの出来るものでなく、手で觸ることも出来ず、鼻で嗅ぐことも出来ず、舌で味ふことも出来ず、我々の感覚のはたらきではどうすることも出来ぬものであるが、明日が来るか来ないか、わからぬといふやうなことでは不安で、我々の生活を維持することが出来ぬ。そこで我々は直接経驗によるところの知識を離れ、しかも知識に本づき、これまでの経驗から推定して、昨日の次に今日があり、今日の次に明日が来るといふことを信じて疑はぬのである。これすなはち信仰と名づけられるものである。  誤謬  此の如くにして、我々が外界を認識するといふことは『知ること』と、『信ずること』との二たつのはたらきによるのであるが、『知る』といふことにはその要素が十分に備はつて居らねばならぬ。その要素といふは知覚の完全と、観念の完全とで、我々の感覚に次て起るところの知覚と概念とが十分完全でないときには知識は決して十分完全であることが出来ぬ。知覚の不完全なることは感覚の不完全に基づき、また観念の不完全なることは注意の不十分、記憶の不完全、想像の失当、判断の不確などに因るもので、その結果としてあらはるるものは不正の知識すなはち誤謬である。しかしながら知識といふものは前段にも言つた通ほりに、すべて経驗の範囲に属するものであるから、その経驗は説明することが出来る故に、他人がこれを批判して誤謬であることを指摘することが出来る。又本人が自から借りてこれを訂正することも容易である。  迷信  『信ずること』にも亦誤謬がある。これはこれまでの経驗に本づきて将来を推定するに方りてその推定の方法に不十分の点があるためである。精密に檢査をしないで、勝手に概括したり、又前後にあらはれたるものをば批判せず直ちに因果の関係をつけるやうなときにはその信仰には必ず誤謬を存すること言ふまでもない。しかしながら迷信と名づけられるものはこの誤信とは相異して、当代に於ける科学的の知識を無視し、当代に於ける信仰の正当と認められるものに矛盾し、又殊に当代に於ける宗教上の見解に背きたることを信ずることをいふのである。具体的に言へば、当代に於ける科学的の研究及び批判に拠りて信仰すべき価値ありと認められざるものをば、尚ほ客観的に実在するものであると信ずるのが迷信である。それ故に迷信とは文化の程度の進みたる場合に言ふべきもので、文化の極めて幼稚なる時代には迷信と名づくべきものは無い。しかしながら文化の幼稚であつた頃の人が信仰して居つたものを文化の進みたる今日に於て尚これを信ずるものがあれば、それはすなはち迷信である。  素朴的信仰  此の如く、迷信は信仰の正当を得ないものであるから、迷信のことにつきて説明しやうとするに方りては先づ信仰の種類を挙ぐることを必要とする。全体、信仰といふものは『知ること』によつて外界を認識することが出来ぬときに『信ずること』によつてこれを補ふのである。知ることの出来ないものをも知らねばならぬといふ内部の欲求のためにあらはれるもので、我々の日常の生活の上に極めて必要のはたらきである。さうしてこの信仰には数種を区別することが出来る。その第一種は素僕的信仰で、自分が知らぬものをば他の人の言ふが儘に信ずるのである。これは知識が不十分であるために何等批判を加ふることが出来ず到底信ずることの出来ぬやうなことを平気で信ずるものである。たとへば小児が何事を聞かされても、さうかと信じて疑はないやうなものである。しかしながらこの信仰は知識が進歩するときには全く止むべきもので、小児のときには素模的に信仰して居つたことも少しく年を取つてその知識が進むときはそれを信仰せぬやうになるのを見てもよくわかることである。  智識的信仰  信仰の第二のものは智識的信仰である。これには神々の類別がある。これは知識のはたらきによりて信ずべきものであると判断したものを信仰するのである。全体信仰といふことを心理学の上から見るときは、あるものが実際に存在するといふ観念をあらはすのであるが、それが実際に存在するか否かを判定するのは全く経驗の知識によるものである。すなはち経驗に徴して信ずべきものと知らるるものが信ぜられるのである。それ故にこれを経驗的信仰とも名づける。ところで、その観念が権威ある人によつて強く説かれるときには直接に矛盾するところの経驗をも押しのけて信仰せられることがある。これを権威的信仰と名づける。  需要的信仰  しかるに、我々の経驗によつては満足が得られない場合にも我々の精神の内部の需要が強くあらはれて、以前の経驗から類推して滿足が得らるべきことを信仰する。これは需要的信仰と言はれるものであるが、それは直接の経驗を離れて居るから、一にこれを感情的信仰と名づける。さうして、若し、この需要的信仰の成立が乙の人の知識に矛盾するときは乙の人はこれを指して迷信といふのである。言ふまでもなく、需要的信仰として、内部の要求から、これを信ずるものであるから、その人のためには決して迷信であるべき筈はない。しかるに乙の人がこれを見て、当代の我々の知識に相当せぬことを知りたるときに厳正に批判してそれを迷信とするのである。  民俗信仰  かやうに信仰の心理学的の状況を見るときは、種々の種類を別すべきであるが、民俗信仰といはれるものは多くはその素僕的信仰に属するものである。知識的信仰と名づけらるべきものも有るが、しかしながらそれは知識の程度の低級なるに相応して低級の信仰に属するものである。それ故に、民俗信仰はこれを心理学上から見るときには簡単のものであるが、しかもその対象の種々雑多なるに応じて、その形式が多般にあらはれるものである。又それが漸次に発展することなどにも興味を喚起すべき事項が多い。  信迷と仰信  かくの如く、信仰は我々の知識の不十分なるところを補ふためのはたらきであるから、知識の学とせらるるところの自然科学にも尚ほ信仰を必要とする。俗人の間には自然科学には信仰はないものと考へて居るものもあるが、これは大なる誤である。又信仰といふことを狭義に解釈して信仰といへば直ちに宗教上の信仰を指すものであるとする人もあるが、信仰といふものはさう狭い意味のものではなく、我々の日常の生活はこの信仰といふ心のはたらきによりて行はれて居ることが極めて多いのである。要するに信仰といふものは我々の知識の足らざるところを、補ふためのもので、知ることの出来ぬことは信ずることによりてこれを補充するのである。それ故に信仰といふものは我々が外界に適応して行く上に極めて重要のものであると言はねばならぬ。しかるに迷信は信仰の正当でないものであるから、それによりて知識の不足が補充せられることがなく、却て知識によりて進むべき我々の生活の上に著しい障碍を起すことが勘なくない。迷信と言つてもそれを信じて居る人に取りては決して迷信でないから、それを信じて居るものにはそれで善いではないかといふ人もあるが、これは人間の進歩といふことを考へないで言ふことで、人間の文化が進みて、知識が開けた今日、尚ほ知識の開けなかつた古代の考が活きて働いて居るといふことはその人のためにも決して利益ではない。又社會的に考へてもそれは決して漫然捨て置くべきことではない。  各論  靈魂  我々の精神の現象はまことに奇靈のものであるから、知識の幼稚なる人々の間に、それにつきて種々の信仰が行はれて居ることはむしろ当然であると言はねばならぬ。  印度の太古「ウェーダ」時代にありては我々人類の精神をば一種の精気と信じて、それを「アス」(Asu)と名づけた。「アス」とは呼吸といふ意味の言葉である。これは人が死亡すると直ちに呼吸が停止する事実を見て呼吸の中に一種の精気を認め、それが来往するによりて人の生死を致すものと信じたからである。さうして精神の現象(感情、意志等の継続)には別に「マナス」(Manas)の名がつけられて居つた。この「マナス」は心臓の中に居を占めて居るものと信ぜられた「リーグウェーダ」に記載せられたるものに拠ると、その人が死亡したる後にありては、「アス」と「マナス」とはもとの人格を備へて現在にありしときのやうなる生活をなすものであると信ぜられた。無論この精神は人の死したる後に他の動物や植物などに移り行くものであるとの信仰があつた。「ウパニシャド」時代になりて我々の精神は宇宙の精気が我々の身体の中に入りたるものであるとの信仰から「アトマン」といふ言葉を自己といふところに用ひたが、この「アトマン」もその語源は同じく呼吸の意味である。  希臘でも精神を指して「プシヘ」(Psyche)「アニマ」(Anima)或は「スピリッス」(Spiritus)などと言つて居るが、これも同じく精気の義で、印度の太古の人が呼吸を以て我々の生活の本態であると信じて居つたのと大体に於て同じ考であつた。  日本書紀の神代紀には魂の字を挙げてこれに美太万《ミタマ》と訓じてある。又仲哀天皇紀等には靈の字を挙げてこれに美太万《ミタマ》又は三加介《ミカケ》の訓が附けてある。それは靈は火なりとしてタマシヒの言葉があらはれたものであると言はれて居る。日本書紀及び萬葉集には精神及び心神の文字を挙げてこれにタマシヒの訓が附けてある。古事記には許許呂《ココロ》の言葉が挙げられて居るが、これは勿論ココロで、火凝の義であると言ふ説がある(和訓栞)。これ等の事実によりて見るに、我邦の古代には「タマシヒ」といふものとココロといふものが区別せられて居つた。それは古代の人の信仰には、我々の心は凝凝《コロコロ》としてとりとめのつかぬものであるから、といふ意味でその「コロコロ」を約め、「ココロ」と言つたのであらう。すなはち我々の精神作用を指て言ふのである。それに対してタマシヒといふのは心の主で、精神作用をあらはす或物を考へてそれにタマシヒの名称を附けたのである。これによりて見ると、我邦太古の人々の信仰は、印度及び希臘の人に異なりて、熱が生活の本態であるとしたのであらう。生きて居る間のみ呼吸すると同じやうに、生きて居る間のみ体温があるから、呼吸を以て生活の本態と信仰すると同じやうに熱火を以て生活の本態なりと信仰することは有勝ちのことである。そこで「タマ」の火といふ意味でタマシヒの言葉が出来たのであらう。  何れの人種に就ても同様であるが、文化の極めて幼稚であつたときには全く感覚人類と名づけてもよい位に感覚のはたらきは鋭敏であるが、それに反して思考の作用が十分でなく、事物の間に行はれて居る法則を見出すといふやうなことには注意せず、その概念の現実性といふことには顧慮することがない、全くすべてこの事物を主観的に見てその内に自己の感情を移入するのである。さういふ特殊の精神作用によりて、野蛮蒙昧の人種が精神の現象に就ての意見は種々雑多であつた。たとへば西アフリカの野蛮人種の内には自身の精神と野獣の精神と、陰影の精神(隱鬼)と夢の精神とを区別して居るものがある。古埃及人は五種の精神の存在を信じて居つた。尚ほ七個の精神の存在を信ずる人種もある(西アフリカのレーゴーに於けるアグー人)。しかしながら最も広く信ぜられて居るものは人類の精神が二個の種類より成つて居るといふことである。その一個のものは自身の精神と同じもので、他の一個のものは身体から遊離して存在することを得べきものである。その第一種のものは所謂身体精神(DieKarperseele)で、第二のものは所謂陰影精神(DieSchattensecle)である。この身体精神は一個の物質であると信ぜられ、それが身体の一定の部位に集中して強くあらはれるときにはその部分に精神を滅するものであると信ぜられた。陰影精神というのは身体から離れるところの精神があるものと信ぜられたので、この信仰は夢の現象によりて強められた。この精神は夢の中には現に自身より離れるものであるが、身体が死したる後にも尚ほ永久に存在するものであると信ぜられた。さうしてこの陰影精神は身体から離れて存在する場合にもそれが身体的に存在して居つたところの人類の模写であると信ぜられた。すなはち幽靈として、我々が死亡者につきて追想し得る限生存して居るものであると考へられたのである。  我邦の太古の時代にも大体同じやうな信仰があつた。「古事記」及び「日本書紀」に記載せられたるところを綜合して見ると、人には靈魂があつて、靈妙のはたらきをなし、現世にありては一身の主となりていろいろの精神現象をあらはす。さうしてこの靈魂はその身を離れても依然として存在して人世の禍福を主とするものであるとの信仰が行はれて居つた。さうして、現在の身にある靈魂に和魂と荒魂とを区別したることも見えて居る。これは後の世の心学に善玉、悪玉と言つたやうに霊魂に善いのと、悪るいのと、二たつの種類があるやうに考へたのであらう。  それから、「日本書紀」に記載せるところに拠ると、大己貴命が長い間共に国家の経營に当たられた少彦名命の亡くなられたので、これからどうしやうと愁嘆して居られたときに忽然として海上を学び来たものがありて、相共に国家を経營せむといふ、大巳貴命そのものに向ひて汝は誰ぞやと問ひ玉ひしに我は汝の幸魂奇魂なりと答へたとある。かういふ伝説があるのは上世の人が、人の靈魂がその身を離れて、しかも形相を備へて活動するものであるといふことを信じて居つたことを証明するものである。さうしてここに幸魂といふは『幸あらしめる魂』といふ意味、奇魂といふは『奇靈なる徳を備へて萬事を成就せしめる魂』といふ意味である。これは靈魂のはたらきを示したるもので、これを併せて和魂と名づける。善いはたらきをするところの靈魂である。それに対して悪いはたらきをするところの靈魂を名づけて荒魂といふのである。  この外に「古事記」に、伊邪那岐命が迦具土神の頸を斬つたときにその刀につける血から石拆神、根拆神、石筒之男神、甕速日神等八神を生じ、殺されたる迦具土神の頭、胸、腹、陰、左手、右手、左足、右足から、それぞれ神を生じたることが記載してある。これによりて見ると、我邦の上世の人は身体靈魂と、陰影靈魂との外に、臓器靈魂(Organscele)の存在を信じたものと思はれる。  我邦上世の人が靈魂に就て信じて居つたことは大略此の如くであつたが、それが段々と時代を経るに從て、支那から直接に、父は朝鮮を経て間接に伝はつて来た考や、仏教に伴なふて伝はつた印度の考やらが混交して、靈魂に関する種々の信仰があらはれたのである。  生靈  「和名鈔」に伊岐須太萬の語が挙げてある。さうしてそれに支那語の窮鬼が充ててあるが、これは窮鬼ではなくて、俗にいふ生靈である。靈魂が怨恨をふくみてその身から離れてはたらきをあらはすものと信ぜられたのである。「源氏物語」には「イキスタマ」が形相をあらはしたことが見え、「枕草紙」にはおそろしきものとして「イキスタマ」が挙げてある。「今昔各物語」に近江国の女の生靈が京に来りて恨み思ふ人を殺したといふ話を始めとして生靈の話が載せてある。  兇癘魂  大実令(喪葬令)に遊部といふものがあ挙げてあるが、令釈にこれを解して遊部は幽顕の境を隔て、兇癘魂を鎮むるの氏であると記してある。この兇癘魂といふのは死者の靈魂が癘り暴ぶるもので、それを鎮むるのものの氏が遊部であるといふのである。生靈は生きて居る人の靈魂がその身から離れて暴ぶるものであるが、兇癘魂は死したる人の靈魂がその身から離れたのである。  怨靈  「三代実録」に拠ると、貞観五年の五月二十日に御靈會といふものを修めて崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、橘逸勢、文室宮田麻呂等の靈を祭られた。これは此頃疫病が頻りに発生して多くの人が死亡したのを見て、時の人々が、崇道天皇以下の人々が事に坐して誅せられた冤魂が疫病を起したのであると信じてそれを宣伝したので、朝廷でも御靈會を行はれたのである。菅原道真が讒に遇ふて太宰權師に左遷せられて配所に死したるは延喜三年であつたが、その八年には藤原菅根が死し、九年には藤原時平が死し、十四年には京師に火災があり、延長元年には太子保明親王が薨去せられた。それで当時の人々は道真の怨靈が此の如き災をするのであると信じて大に懼れた。それで朝廷でも道真の左遷の宣旨を焚き捨てて本官に復し正二位を贈られた。さうして年號をも改められた。ところがその八年の六月清涼殿に雷が落ちて民部卿藤原清貫と右中辨平希世とが死亡した。天子も大に怖れたまひ五体不予とならせたまふた。それによりて遂に祠を北野に建てて道真の霊を祭ることになつたと伝へられて居る。かういふやうな伝説は外にも例の多いことで、平安朝時代には、ある人の怨靈が他の人に対して崇をなすといふ信仰は強く行はれて居つたやうである。  魂魄  「和名鈔」にも巳に魂神の語を挙げ、その註に許慎の語を引て、魄は陰神なり、魂は陽神なりとしてあるが、『魂魄この世にとどまりて』などと魂と魄とをつづけて、靈魂と同じやうな意味に用ふるやうになつたのは鎌倉時代以後のことであらうと思ふ。そうしてそれは鎌倉時代に支那から伝はつた『十王経』を拠として、我邦にて偽作せられたる『発心因縁十王経』に本づくものであらうと思はれる。少なくとも魂魄の言葉は「発心因縁十王経」の普及によりてひろく伝播せられたものと思はれる。「発心因縁十王経」には三魂、七魄が挙げてあるが、その三魂とは?靈、台光、幽精で、肝の下に在り、形人の如くにして青衣を著る、毎月初三日、十三日、二十三日の夜は人の身を離れて外に遊ぶといふ。七魄とは戸狗、伏矢、雀陰、呑賊、飛毒、除穢、?肺で、その形鬼神に類し、人をして多欲ならしめ、悪を外作り早く死せしむるといふ。無論これは仏教の思想ではない。これは全く精神の本態につきての知識が極めて幼稚で、それを独立の個体として存在するものと考へたのである。  鬼  「古事記」に載するところを見ると、伊邪那岐命が伊邪那美命を追て黄泉国に行かれたときに、伊邪那美命は予母津志許賣をしてそれを逐はしめたとある。「日本書紀」には泉津醜女と書いてある。これによりて考へると志許賣は醜女で、その形のおそろしく醜きをいふのであらうと思はれる。「日本書紀」の欽明天皇紀の條下に、佐渡国の海岸へ異様のものが漂著したことが記載せられて居るが、その時島の人々はそれを鬼魅であるとして近づかなかつたと記して、その鬼魅の文字に「オニ」と「シコメ」と二つの訓がつけてある。これによりて見ると、我邦の上世に「シコメ」と言つたものも、「オニ」と言つたものも、皆同じものであつたやうに考へられる。「和名鈔」には『鬼、和名於邇《オニ》、或説云、於邇者、隱音之訛也、鬼物隱而不欲顕形、故以称也』といひ、「周易」を引て人神を鬼といふと説明してある。その他、「日本書紀」などの中には時には神の文字にオニの訓がつけてあることもある、又魔の文字にも「オニ」の訓がつけてあることもある。それに反して疫鬼の文字には「エヤミノカミ」と訓がつけてある。これ等の事実に照して考へると、我邦上世の人の信じたところでは、人の死したる後に靈魂が身を離れて高天原に長く在《イ》ますのが「カミ」であるから、鬼といはるるものも、亦この靈魂のはたらきとして考へられたものであらう。さうして特に鬼と名づけられたるものは黄泉国にありてその国から出て来りて禍害をなすもので、形のおそろしきものであると信ぜられたことと思はれる。  元来に、支那にて鬼といふものは死したる人の精靈を指すのが主で、時には老物の精を鬼といふこともある。古代の支那人の説では、鬼は帰なり、人死すれば魂は上りて天に帰し、魄は下りて地に帰すると言つて、死んだ人の精靈を指して鬼といふのである。我邦の上世に於ける鬼もこれと同じやうなもので、後の世にいふところの幽霊と同じやうなものである。  しかるに、仏教の漸く行はるると共に、印度の夜又羅利の説が伝はり「今昔物語」には鬼が人を?つた話が多く載せられて居る。それに加へて円融天皇の永観二年に著はされた恵心僧都の「往生要集」に地獄のことが詳かに叙述してあるので、それがために牛角虎牙、人を?ふといふ鬼の考がひろく世に伝はつたものと思はれる「往生要集」は恵心僧都が円融天皇の皇后に献せられたもので、精緻の筆法で、地獄の恐るべき相が記載せられて居るが、皇后は痛く感心せられてこれを花山院に示されたところが、これを図に描くやうにと求められた。さうしてその図を宮中にかけられたが、女官はこれを見て恐怖のあまり、夜もよく眠ることが出来なかつたというほどであつたが、その図の中に赤鬼や青鬼が人を責めて居る図がある。かういふ風にして、鬼は到頭、牛角虎牙で、赤い顔や青い顔をして、虎の皮のふんどしをしめたやうなものになつて仕舞つた。  幽靈  鬼の存在が古くから信ぜられたると同じく、幽靈の存在も亦古くから信ぜられた。さうしてその始めは世に在りしときのその儘の相にあらはれるものとせられたのが、後には幽靈は白衣の装束で、柳の下にあらはれ、腰から下がなく、手を下げて髪を乱したる姿に書かれるやうになつた。これは勿論近代のもので、人々の考の中にも、幽靈といふものはさういふ姿にあらはれて居るであらう。しかしながら幽靈を画きたるものの中にはただ足だけを画いたものもあり、又全身そのままを画いたものもある。  靈魂につきての我邦の上世から今日に至るまでの間の信仰の大略はここに述べた通ほりであるが、今日の科学的知識の上から言ふときは、人の精神といふものは自然現象の一種で、理学的過程に属し、物質代謝の作用によりて化学的に制約せらるるものである。決して超絶的不可思議のものではない。通常我々が心と名づけて居るところのものは種々の感覚、たとへば寒、暖、痛、光、音、味、形、質等の感覚、それから観念、観念の聯合から生ずるところの注意、記憶、想像、判断それから種々の感情(喜、怒、哀、樂、愛、憎、等)などの個々の精神作用を綜合してそれにつけた名前が「心」である。さうして此等の作用は我々の身体殊に神経系統の機能としてあらはれるもので、それ以外に、別に靈魂ともいふべき独立の個体が存在するのではない。ただし学問的に精神の本態につきて尚ほ進みて深く考へることは出来るが、それは全く形而上的のものであつて、古昔の人の考へたやうに物質としての精神を説くのではない。  中に就きても、幽靈の伝説には種々の錯誤と、詭妄とが含まれて居るから、直ちに信用することが出来ぬ。若し正真正銘に幽靈の姿を見たものとすれば、それは心理学上及び精神病理学上に言ふところの幻覚である。この幻覚は皆、その当人の精神がそれを造り出すので、決して外部からあらはれて来たものではない。脳髄の作用によりて精神内で創造せられたものである。丁度醒覚して居るときに夢を見ると同じことである。今日の科学では客観的に存在するところの幽靈を確認すべき証明を得ることが出来ぬ。しかるにこの科学的の知識に背きて靈魂の存在を信ずるところに種々の迷信があらはれるのである。  靈魂の信仰に伴ふてあらはれるものに動物憑依の信仰がある。この信仰は固より迷妄の甚しきもので、その結果、社會に害毒を流すことの著しきものがある。  動物憑依  或る個人に或る精靈が移つたやうな形になつてその人の人格が変換することがある。医学上でこれを憑依現象と名づける。さうしてその憑靈と見るべきものが動物であると信ぜられるときにこれを動物憑依といふ。その内容には憑依したる精靈があらはれて居るが、それは他人の暗示や、自己の暗示によりて、その人の精神のはたらきとして自から作り出したもので、一種の妄想である、決してそのやうな憑靈が存在するのではない。しかるにその病症につきての知識が不十分なるがためにそれが迷信の種となるのである。  貉附《ムジナツキ》(佐渡)   貉が人につくとの迷信。一定の家系を有するのではなく、各所に貉が居てそれが人に憑くと信ぜられて居る。  風《カゼ》オリ(大島)   急に発熱して譫語を発し、たとへば何某の死したるは何々の崇なりといふ。狐憑と同種のものである。  河童《カツパ》(一名河太郎)(九州、山陽道)   水中に住む怪物。十歳位の小児の形で、頭上に凹処あり、これに水を貯へて居る。川に入れる人の尻を抜て殺すといふ。九州の河童はそれ以上に人を惑はし、又は狐の如く人に憑くと言はれて居る。佐賀の方言にはカワソー(川僧)といふ、獺から転じたものであらう。日向ではガリラといひ、山陽道ではエンコウ(猿猴)といふ。  山童《ヤマワラベ》(肥後)   河童と同種で、春の彼岸から秋の彼岸まで、川に入りて河童となり、秋の彼岸から春の彼岸まで山に入りて山童となると。  天狗附(四国)   平民は犬神に苦められ、士族は天狗に悩まさると。  外道《ゲダウ》(大分、備後)   大分の外道は、犬神の種類である。備後の外道は小鼬に似たる獣で、それが人に憑くといふ。  狸附(四国)   四国には弘法大師が封じたので、狐は居ない。その代りに狸が憑くと。  犬神(四国)   犬神附の家系がありて、その家のものが他人の所有するものを欲しいと思ふときそれを与へないと、その執念が人を悩ますといふ。その家系は他より擯斥《ひんせき》せられ、社交上孤立の状況に陥る。  人狐(出雲)   この怪物が棲むで居る家が定まつて居る。これを人狐持といふ。その家は血統を追て相続する。この家系に属するものは、厭忌する人に人狐をつかしめるとて、社會から擯斥せられる。  トウビヤウ(安芸、備後、因幡)   安芸、備後のトウビヤウは蛇の卵が正体であると言はれて居る。それが人に憑く。因幡のトウビヤウは人狐持に近いもので、一定の家系がありて擯斥せられる。  オサキ(埼玉)   尾のさけた小な狐である。オサキ持の家ではこれを使つて自分の欲しいものを他の家から持つて来さすと。  柴天(土佐)   その形、小児に似て野外にあらはると。  取附病(美濃)   犬神、人狐と同様のものである。その家は取附筋といつて他から擯斥せられる。  牛房種(飛彈)   狐附の家柄に名をつけて牛房種と名づける。チョットさはつてもすぐにつくといふことから来たのである。  テテ(飛彈)   その家柄の人は、その魂が獣から来たのであるとしてその家柄を擯斥する。  管狐(木曽)   美濃の取附筋と、出雲の人狐持と同じやうなものである。  動物憑依の中で、各地方に特別のものと認められたるものの例症をここに挙げたのである。狐憑の如きは全国到るところに行はれて居るものである。  身体  現代の我々の知識の上より言ふときは我々人類の身体はその構造から見て脊椎動物の特性を備へて居る。比較解剖学の上から言へば人類と他の脊椎動物との身体には本質的の差異は無い。又その機能を見れば人類と脊椎動物とに於て全然同一である。ただ人類の身体が他の脊椎動物に比較して遙かに優越して居るのは、遺伝と環境との作用とによりて漸次に進化したためである。外界に適応することのはたらきが脊椎動物よりも十分であるために現在の如く優越せる身体を造り上げたのである。決して始めからして人類の身体が特別に造られたものではない。さうしてその進化は全く環境(栄養、運動、空気、温度、社會的状況等)によるもので、それによりて各人各別の身体があらはれて居るのである。それ故にこの身体は固定したものでなく、現在にも、又将来にも変化しつつあることは言までもない。若しこの身体に吉凶がありとすればそれは過去の環境の吉凶の結果である。現在の身体を見て将来の吉凶などを判断することは勿論不可能である。  しかるに、身体の造構及び機能につきての科学的知識が足らないために、我々の身体につきて種々の誤まりたる信仰が行はれたことはひとり我邦のみでない。  人体の七曜配当  西洋にありて、太古、数の神秘が重く考へられたる時代には人体の上にも数が見られた。すなはち人が直立し、上肢及び指を水平の位置にするときは、それは方形をなし、中心点は腹の下方にある。若し下肢を広げて伸ばし、下肢を少しく低下し、中心点より頭と手と足とをつらねたる環を画くときは五点によりて環は五等分せられて身体は五大部分になる。さうしてそれが小宇宙であるから、その五大部分がそれぞれ宇宙に相当するものであると説かれた。  十二宮と身体  それから又、古代西洋で盛に行はれたる占星術の説に拠ると、十二宮の各星宿は人体の各部を支配するものであると信ぜられた。すなはちその十二宮は左の如く配置せられたのである。  頭部 白羊宮 頸部 金牛宮 肩、手腕 変女宮  心臓部 巨蟹宮 胃部 ?子宮 腹部 実女宮  腎臟部 天秤宮 陰部 天羯宮 大腿 人馬宮  膝 磨羯宮 下腿 寶瓶宮 足 雙魚宮  此の如くに、十二宮をば身体の各部に配当して、疾病が身体を襲ひたるとき、その日及び時によりて、それを支配する天宮の現象によつてその結果を判定し、又それを治療するの方法を立てたのである。まことに荒唐無稽の甚しいものである。  人体の五行配当  我邦にありても、円融天皇の永観二年に成りたる丹波康頼の『医心方』には支那の所説を伝へて五臓を五行に配当してある。すなはち  肝臓 木の精 心臓 火の精 脾臓 土の精 肺臓 金の精 腎臓 水の精  右の如く、五臓をば木、火、土、金、水の五行に配当して、その支配を受けて居るものとしてある。  七曜にしても、十二宮にしても、又五行にしても、古代の幼稚なる天文学の知識に本づき日と月と木、火、土、金、水の五星とが、宇宙間の一切のものを支配すると信じた。その信仰によりて身体をもその七曜若しくは五行が支配するものと考へたのである。  我々人類の身体を小宇宙と見てこれを大宇宙に比することは思索としては面白い点があるにしても、遺伝と環境とによりて漸次に進化しつつある身体をば固定的のものやうに誤生り考へて、しかもそれが天体の感作を受けるものであると信じたことは全く身体の造構及び機能に関する科学的知識の不十分であつた結果である。  厄歳  西洋にありて、占星術が盛であつたときには、一定時及び一定日は人体に対して星運がその勢力を及ぼすものであると信ぜられた。厄歳(Anniscansiles)の説はこれに基いて生じたのである。すなはち人には厄歳に於て身体の状態に変化を生じ、且つこれと同時に身体的生活に一新状態をあらはすものであると信じた。厄歳には二種ありて、その一種は七を乗じて得らるる数で、次の通である。  七、一四、二一、二八、三五、四二、四九、五六、六三(前厄歳)。  七〇、七七、八四、九一、九八、一〇五、一一二、一一九、一二六(大厄歳)。 他の一種は九を乗じて得らるる数で次の通である。  九、一八、二七、三六、四六、五四、六三、七二、八一、九〇、九九、一〇八。  この厄歳の中で、甚しく危険であると信ぜられたのは、二一、四二、六三、八四で、更に一層危険であると信ぜられたのは四九、五六である(マグヌス氏著DerAberglaubeiderMedizin.1903.に拠る)  支那にありては「素問」に厄歳を挙げて七、一六、二五、三四、四三、五二、六一として、件の歳は皆、人の大忌であるとしてある。  我歳にありては「和漢三才岡會」に、厄歳に就て、次のやうに記載してある。  「今の俗、男女の厄を分つ、男は二十五、四十二、六十一。女は十九、三十三、三十七。男は四十二、女は三十三を以て大厄となす、その拠を知らず、男四十二を大厄となし、前年を前厄といひ、翌年を排厄といふ、前後三年を忌む、或は四十一歳にして子を生むとき、則ち四十二歳の二歳子と云つて之を忌みて他姓を称し、以て他人の子とするの類、亦惑へるの甚しきものなり」  厄歳に正当の拠がないのは勿論、四十二は「死に」の音に通ひ、三十三は「さんざん」の音に通ふためにこれを忌むのであると言ふに至りては抱腹絶倒の至である。  固より我々の身体の造構及び機能がある一定の時期を劃して特別の変異を呈し、それがために危険であることは生理学上及び病理学上に認められる事実である。しかしながらこの身体の危険年始期は所謂厄歳といはれて居るものとは全くその本態を異にするものである。  相生  相生といふことは五行説から出たもので、世の中の一切のものは木、火、土、金、水の順序で勢が善くなつたり、悪るくなつたりすると説くのである。すなはち木は火を生ずる。火は土を生ずる。土は金を生ずる。金は水を生ずる。世の中の一切のものはこの順序で循環するものとして、年月日の吉凶、方角の吉凶をいひ、人につきても同じくこの理法を応用して、吉凶を判断するのである。たとへば縁談の時に方りて、火性の人は土性の人と相生であるから良縁であるといふの類である。世の中の一切のものが木、火、土、金、水の順序で相生するといふことが何等根拠のないことである上に、その根本を成すところの五行説が信ずるに足らぬものであるから、相生の記が取るに足らぬものであることは言ふまでもない。  相克  相剋も亦相生と同じく五行説から出たもので、始めは相勝と言はれた。木、火、土、金、水の中で水は火に勝る、火は金に勝る、金は木に勝る、木は土に勝る。世の中のことはこの順序で循環するものであるといふのである。勝るといふのは何か一とつづつ勝る性質を帯びて居るのであるから、その意味から言へば相扶くべきものである。それが後に至りて勝が克の字に変じ、それが又剋に変じて、昔とは反対に、相衝突するといふやうな意味に考へらるるやうになつた。その根本を成すところの五行説が信ずるに足らぬものであるから從て相剋といふことも何等価値のないものである。  有卦  有卦とは一定の性のものが、一定の年から一定の年の間幸福であるといふことで、有卦に入る年に当るものは人々これを祝し、その日に「ふ」の字の附きたるものの名を七つ寄せて祝ふことをする。この有卦の説は支那の隋唐の世に始めて行はれたもので、我邦にては貞享の頃始めて仮名暦に載せられたと伝へられて居る。  有卦無卦は、一に有気無気と書く。全く五行家の説である「五行大義」に拠るときは胎、養、長生、沐浴、冠帯、臨官、帝旺、衰、病、死、墓、絶と別に何等意味なきことを隨意に区別し、その前の七を王相の気としてこれを有気と名づけ、後の五を死歿の気としてこれを無気と名づく。この表によりて知らるる通ほりに、たとへば木性の人は酉年酉月酉日酉時より成、亥、子、丑、寅、卯の年まで七年、有気に入る、辰年辰月辰日辰時より巳、午、未、申の年まで五年、無気であるといふのである。  有気と言つたところが、無気と言つたところが、勝手に出放題の名称と意味とを附けたものであるから、その価値は正に零である。  丙午  寶暦頃の狂句に「蛤にせつせつ座る丙午」といふのがある。丙午の歳に生れた女は嫁して夫を殺すといふので、入つては殺し、殺しては出るので、一生涯の内に、幾度も花嫁となりて蛤の吸物に坐るといふ意味をあらはしたものである。又文化頃の狂句に「丙午しつかり重荷つけて来る」とある。午を馬にかよはせて、丙午のものは持參金が澤山になければ嫁入することが六ヶ敷といふ意をあらはしたものである。女子丙午の域に生るるものは必ずその夫を殺すといふ迷信は何時の頃に始まつたか、その歴史を明にすることは容易でないが、享保十一年丙午の歳と天明六年丙午の歳には懐胎の女子が流産の薬を用ひてそれが為に命を失つたものが多かつたと伝へられて居る。これより先き貞享三年に著はされたる「婦人養草」の中にも世俗丙午の生れの女子を忌むことが載せてあるから、享保十一年丙午の歳の以前から丙午を忌むことは巳に多くの人から宣伝せられて居つたものと見える。元来、丙も陽火である、午も陽火であるから丙午の歳には火災があるとして忌まれて居つたのであるが、それが何時の間にか人間の身体に及び、丙午の歳に生れたる女は嫁してその夫を殺すと言ひ伝へて丙午の歳に生れたる女子の縁談を困難ならしめたのである。文化二年刊行の「婚姻心得草」の内には『世俗丙午歳の女は男を殺し、丙午の男は女を殺すとて專ら忌めり、』と記載してあるのを見ると、男女共に丙午を忌むので、近頃のやうに女のみにこれを忌みたのではなかつたものと思はれる。  享保十一年丙午の歳にはどうであつたかわからぬが、天明六年丙午のときには「丙午さとし話」といふ書物が出来て、丙午の迷信を打破するやうにつとめられた。又弘化二年丙午の歳には「丙午明辨」と題する書物を始めとして、錦繪の一枚摺の宣伝書が数種刊行せられて、丙午の迷信を打破しやうとつとめられたのである。それが六十余年を過ぎたる大正の年間に及びて尚丙午の迷信のために縁談が纏まらなかつたり、又はそれを苦にして自殺する女の尠からず聞えしはまことに歎しきことである。ここには迷信の弊害の甚しいものがあるといはねばならぬ。  開運  世の中に若し運勢といふものが有りとすればそれを善くすると、せざるとはその人の心の内のはたらきであるべき筈であるのに、それをも外の方に求めやうとする人々の心の切ない有様は種々の方面はあらはれて居る。 笹野削掛人形   山形県上長井、笹野観音堂の祭日に賣る。これを神棚に祭りて幸福を祈る。 招の杓子  大阪市茶臼山稲荷。笹の枝に吊したる杓子に火の玉と茶臼山の焼印を押したるものを授かりて家に帰り、横に振り次に縦に振り「災難いやい福来い来い」と三遍唱ふれば福来たるといふ。 招猫  大阪府住吉神社。毎月初辰日に神社に参詣する毎に新にこれを求むれば福を得べしと。 福運達磨  摂津西宮。張子の達磨に昆布の著衣物をきせて水引をかけたるものを授与す。これを受れば開運の驗ありと。 開運撫牛  京都府伏見稲荷附近にて賣る。開運の驗ありと。 おもと人形  大阪府住吉。蛤貝の内面に著色の絵をかきたるものの内に彩色せる人形を納む。この人形を人に見せぬやうに貝に入れて持ちて居れは良縁を得ると。 姫達磨  熊本。善き男、善き女を得ると。 鉾  福岡県宮地嶽。神社より授るものは金色の小鉢、町内にて賣るものは鐵製の大鉾、開運の驗ありと。 融通のお守  大阪市北野太融寺内、庚申。財布の底にこのお守をまつり込で置くときは金融自在なりと。 柏の実  人気寄せの柏の実。大阪市、北野、太融寺。毎月三日、十八日、二十八日、又は毎日三粒づつくすべてよし、人気よせ、思ひごとかなふ祈念の驗が著しいと。  まことに人間の欲張つた、さうして得手勝手な願望をば露骨にあらはした有様がハッキリと認められる。文化史の上から見れば幼稚なる精神のはたらきが種々の形式にて現はれて居るところに一種の興味が感ぜられるが、しかしながら知識学的に批判すれば言ふまでもなく迷信の甚しいもので、全く自己の得手勝手なる願望を滿さむがために、信ずべきにあらざることを信じやうとするのである  妊娠及び娩?  妊娠及び娩?井に産褥に関する迷信は昔より今に至るまで何れの国民にも行はれた。その内には元来何等かの意味を有して居つて、実際妊娠のために役に立つものもあつたが、これに反して何等意味のない迷信が澤山にある。又昔はそれですむだにしても今日では実用に適せぬばかりでなく、妊婦のために却て有害なるものが少なくない。又娩?の間に将来生れ出づべき児の男であるか、女であるかを予知する方法が種々に説かれて居るが、これ等は科学上承認せらるべきものではない。  誕生日  西洋にては日曜日に生れたる小児は幸福である、殊に新年の日曜日に生れたるものは幸福であると言はれる。月曜日に生れたるものは直ちに死亡すると信ぜられる。火曜日に生れたるものは盗賊の傾向があると言はれる。木曜日に生れたる小児は日曜日に洗禮を行ふてはならぬ、若しこの日に洗禮をすると幽靈に出逢ふと信ぜられる。木曜日に病にかかるものは直ちに死亡すると言はれる。金曜日に生れたるものは日曜日に洗禮を行はねばならぬ。さうすると日曜日に生れたるものと同様に幸福のものとなると言はれる。多くの地方にあつて。信ぜられるところに拠ると、金曜日に生れたるものは一生涯の中に多く病気にかかると言はれる。東部ブロイセンでは土曜日に生れたる小児は偽善及び淫佚のものとなるの傾向があると信ぜられて居る。  新年の夜に生れたる小児は悪魔に出遇ふ。「クリスマス」の前夜に生れたる小児は幸福である。基督復活祭の前の木曜日に生れたるものは殺される。哀傷金曜日(復活祭の前の金曜日)に生れたるものは自殺をするか又は外傷にて死亡する。二月十四日(ワレンチン日)に生れたるものは不幸にして早く死亡する。四月に生れたるものは不幸の小児である。かういふ風に、一週日の日々に幸福と不幸とがあるばかりでなく、一年中の特別の日にも吉と凶とがあると信ぜられて居る。その他、占星術の上から小児が生れた日を見てその吉凶をいふことも行はれて居る。  胎教  人が生れから後に教を受るは常であるが、腹の内より善き道を知るやうにとて昔から胎教が説かれて居る。女身重くなりてから、平かに?し了るまで十箇月の間は、寝ぬるにもそばたつことなく、立つにもかた足だちせず、食するにも時いたらぬもの、五辛の類などの邪味を忌み、目にも邪なる色を見ず、耳にもよこしまなる淫声をきかず、一口に言へば品行を謹しみ、摂養を專にして胎内の子に善い影響を与ふることをつとむる。すなはち胎教と名づけられて、聖人君子の書き伝へられたものとせられて居る。今日の科学的知識から見ても胎児が母体より受くるところの影響は重大のものであるから、その感作を善くするために胎教を必要とすることは無論である。しかしながらそれは昔時の所謂胎教とは相違したものでなければならぬ。  古代の人々の信じたところでは?前に兎を食へば生まるる子が兎脣となる、狗を食へば生まる子が唖となる、海川の魚類を交へて食ふときは生るる子、かさ(瘡)を病む、生?を食へば指の数の多い子が生まれる。雀を食へば顔に黒子を生ぜしむ。蟹を食すれば横?とて生るる子倒まになりて生るるといふ。又庚申の夜に合歡して孕める子は長じて後に盗賊となるといふやうな類で、これ等は科学上何等根拠のないことである。しかしながら此の如き迷信的の妊婦修身法は支那にては唐時代(若しくはその以前)から巳に行はれたもので「産経」「養生要集」「食経」等には澤山の事項が記載せられて居る。試みにその二三を抜き出して言へば (イ)婦孕三月不得南面小便令児瘴痘」。 (ロ)婦孕三月不得兩鏡相照令児倒産」。 (ハ)婦孕、見?冊生児、其四目。 (ニ)婦人妊身勿食兎肉令子脣欠亦不須見之。 (ホ)又云、勿食生薑令子盈指。 (へ)又云、勿食雀肉丼雀脳令人雀盲。  略ぼ右のやうなことで、この説は不安朝時代には我邦に伝はつて居るから、それがその儘に信ぜられて今日にも遺つて行はれて居るのである。  西洋でも同じやうな迷信が行はれて居る。独逸にてはこれを「フェルセーエン」(Versehen)と言つて居るが、それは母親が何か不幸の事に逢ふか何か劇しき精神の刺戟を受けるやうなことがあるか、又は奇怪なるものを見て驚くか、若しくはいやなものを見るときに、生れた子がそれに相当する異変をあらはすものであるとするのである。婦人が妊娠の間にその顔を打つて赤斑を生じたときは、生れた子の頬嫁に同じやうな赤斑を生ずると信ずる。赤色を呈する母斑は母親が妊娠の間に火事を見たるために起るものであるとの迷信があるために一にこれを火事班点と名づける(我邦にても同じやうな迷信がある)。母親が若し欠けたる皿でスープなどを飲むときは生れた子に兎脣を生ずる。若し母親が泉の傍で仕事をして居るときは生れる子が水頭を生ずる。かういふ類の迷信は西洋にも随分澤山あつてその数は我邦に於ける迷信に負けないほどである。  此の如き迷信が起つて来る原因は、妊娠の間、母の腹の内にある小児の身体的及び精神的の性質が母親の上に及ぼす外界の影響によりて変化するものであるとの信仰に本づくものである。さうしてこの信仰は遺伝につきての知識が間違つて居るためである。遺伝といふものは素人の考へるやうに親の性質や疾病などが直接に小児に伝はるのではなく、遺伝物質が親から子に伝はることによりて身体及び精神の形式(傾向)がきまるのである。それが発達するのは環境のはたらきに適応するためで、遺伝せられる形式は外界の影響によりて変化するものではない。それ故に外界の影響たとへば火事が、それを目撃することによりて頬に母斑を生ずるといふやうになるものでは決してない。しかしながら此の如き信仰はひとり俗人の間にのみ行はれたものでなく、西洋にありても遺伝の研究がまだ不十分であつた間は医家の間にもそれに類したる信仰が行はれて居つた。今日の知識に照して言へばそれは全然迷信に属するものである。  男女の判定  支那の医書に、胎内の児の男女を知るの法が種々に記載してある。その一二を挙ぐれば妊婦をして南に向つて行き走らしめ、急にこれを呼かへすとき左の方に首をめぐらせば是を男子と知れ、右の方に首をめぐらせばこれを女子と知るべし。女胎は母をせなかにして懐かる故に母の腹軟かなり、男胎は母に向つて懐かる故に母の腹硬し。丈夫の乳房を探りて左の乳に核あるはこれ男子と知る、右の乳に核あるはこれ女子と知りべし。かくの如きの類、まことに荒唐無稽の説であるが、それが医書に載せられ、引て俗間の信仰となり、広く世に行はるるに至つた。斧を作り、刃を下の方になして人に知らせず、妊婦の床の板敷の下へ入れて十月までおけば男子となる。又鶏の雄の長き尾を敷き、男の髪の毛、手足の爪をきりて自から座下に置き、或は弓の絃を帯にすること百日なるべし、此の如くにまじないするときは女も男に変ずるといふ。香月牛山はその著「婦人壽草」にこの類の支那の所説を鈔出し、此の如き説は支那にて古昔から言ひ伝へ来りたる故に諸家の医書に皆倣て審せず、かく書き伝へたのであらう。本邦にもあまねく人の知りたることであるから巳むを得ずして記載するが、必ずこれ等のことを信用してはならぬと附言して居る。西洋にありても同じやうな迷信が行はれて居る。たとへばシュワーベン地方にありては後?を林檎の木の下に埋めるときはその次に女の子が生まれる、若し後産を梨の木の下に埋めるときは次に男の子が生まれるといふ。又婚禮の夜に、夫が人に知らさずして木製の斧を床の下に隱くし置くときは生まれる子は男であるとの迷信も広く行はれて居る。  催生靈符  娩産に臨みて小児の生れ出づることを催すには、手術を用ふることが最も正当であるといふことは常識でも知られることであるが、我邦にて産科に手術を施すやうになつたのは徳川氏の中世、賀川玄悦に始まつたので、それより以前は、それに対して種々の符呪や祈祷を用ふるのが常であつた。鎌倉時代の末期に著はれたる梶原性全の「萬安方」第三十四巻にも催生靈符が載せてある。萬安方は当時の医界の権威として認めらるべき医書である。それにも拘らず、靈符の効能が説かれてあるところを見ると、その療術が多くは迷信的であつたことは明かである。  娩産が安穩でないときに、次の靈符を朱にて書きこれを?室の北の壁に貼る。  産が安穩でないと思はるときには上の靈符を産婦の枕に貼る。  横産を治するの靈符は次の通ほりである。この符を朱砂にて書き、水にて呑む  次の四字の符を八月一日に墨にて鞋の底に書き、これを人に知らさずして、産婦の褥の下に置くときは安産する。  難産のときには、次の三字の符を墨にて書きたるものを呑ましめる。  産後に胞衣の出でざるを治する符  右の四字を朱砂にて書きて内服せしめる。  権威のある医書にてもこの通ほりの荒唐のことが説かれて居る。まして靈符を輯めたる書の中には無数の符が挙げられて居ることは言ふまでもない。精神的に安慰を得るの効があるとも言はれないことはないが、その根本は全然迷信である。  催生法  まじなひして?を安らかにするの方法も多く俗間に行はれて居る。元禄年間香月牛山が著したる「婦人壽草」に次のやうなことが記載してある。  『世伝に、臨産の時、人をして道路に遣はし、破草鞋を一隻尋ね来り、其耳を取り、灰に燒きて温酒にて調へ下すこと二錢、必ずよく難?の催生に驗あり』  これはもと支那の医書(女科準縄)に出でたるもので、迷信的療法の一とつである。それが我邦にち伝はりて俗間の一部に行はるるやうになつたのである。  借地法   安産のまじないに体玄子借地法といはるるものがある。それは次の通ほりである。  体玄子借地法  東借十歩 西借十歩 南借十歩 北借十歩  上借十歩 下借十歩 壁方之中肆拾錢歩 安?借地或有穢?或有東海神王或有西海神王或有日遊将軍白虎夫人遠去十丈軒轅招搖挙高十丈夫府地軸入地十丈令此地空閑?婦某氏安居無所妨碍無所畏忌諸神擁護百邪速去急急如律令勒  右の文を朱にて書き、臨月の一日に?室の正北の壁に貼るのである。この借地文はもとより支那に出てたるものであるが、我邦にては平安朝時代から行はれたもので「医心方」『万安方」等の医書にも載せられて居る。  安産の神  安産を祈る神は梅宮大明神であるといはれて居る。「繪入古実年中行事」に拠ると梅は産な りといふ、この神を勧請して安産を祈ることは京都地方にては古くから行はれたことと思はれる。その他安産を祈る神は処々にある。鎌倉の大巧寺内に?女靈神、俗に「おむめ様」といふものがある。この?女靈神の神体は高さ一尺許の水晶五輪塔であるが、靈神は秋山勘解由の夫人で、日棟上人の済度を受けたるものであるといはれて居る。「新編鎌倉志」に拠ると、大巧寺内に産女寶塔がある。相伝ふ、当寺第五世日棟といふもの道念至誠にして毎夜妙本寺の祖師堂に詣る、或夜来堂橋の脇より?女の幽魂出でて日棟に遇ひ、その回向によりて苦患を免かれたので、?女お禮として金一封を捧ぐ、日棟これを受けて、寶塔を造立したのであるといふ。今は安産の神としてこれを信仰するものが多い。この類の安産の神は諸処に存在して居る。  安産のお守  安産のお守として、各処の神社仏閣などから頒与するものはその種類が甚だ多い。ここに その二三のものを列挙する。  鈴の御守  京都山科三之宮。安産の守として盛に行はる。  布袋尊  京都東福寺内常楽庵。開山堂の本尊を換せるもの神棚に祭りて安産を祈る。  唐團扇  奈良県生駒郡都跡村唐招提寺。四月三日梵網會のときに頒つ。安産の守、又火難除、雷除の守として用ひられる。  おはつき銀杏  甲州上澤寺。安産の符。臨?内用。  犬守  奈良法華寺。寺伝によれば光明皇后の祈願によりて後山の土を採て製し、出産に苦しむ?婦に頒つものであると。  ボンボンヤリ(瓢箪)  仙臺市外原の町、三月六日春祭に賣る。安産の守として用ひらる。  青島雛  宮崎県宮崎郡青島神社。安産の守として神社より授与する。  御筆柿  明石人丸神社。安産の守、又歯痛を治するのまじなひとして頒与する。  豆草履  監獄囚徒が在監中、監守の目を盗みて製作し、これを監獄外に持ち出したるもの。「出たい所を無事に出た」といふ謎によりてお産の守とせられる。  祈願  木の葉猿  熊本県玉名郡木葉村。子抱猿、馬乗猿などがある。神棚に祭り又は神社に奉納して姙孕、安産を祈願する。又小児の息災ならむことを祈願するために用ひらる。  種貸さむ  大阪府住吉神社内種貸社。小児を得むとするもの、これを求めて神前に供へ、自宅に持ち帰りて神棚に祭れば効ありと。  牛  和歌山。奉納しある一体を持ち帰りて安産を祈る、効あるときに新に一体を添へて奉納する。  流し雛  鳥取市附近。舊暦三月節句に二組を求め、一組を神棚に祭り、一組を川に流して乳汁の出るやうにと祈願する。川に流すときには女達磨を添へるを例とする。  誕生石  大阪府下、住吉神社内。神社内にあるものを授かつて家に帰り、子が産まれたるとき御禮として新しきものを奉納する。  瓦猿  和歌山県海草郡四ヶ郷村山王社。奉納しある一体を持ち帰りて安産を祈り効験あれば新に一体を添て奉納する。  乳のおうばさむ  大阪市天王寺。石造の布袋尊、乳汁の出ることの少ない女、あんころ餅を持ちて參詣し、乳房から乳汁が迸りて居る繪馬と御供の米粒とを貰て帰る。それで乳汁が湧き出すと。  銀杏姥神  仙臺市外原ノ町。銀杏の老樹。乳房の状をなしたる枝が多く垂れ下りて居る。その傍に祭つてある小祠に布製の乳房を奉納して乳汁の出ることを祈願する。  この種のものは相州、東京市内、その他にも例が多い。  乳清明神  京都、大悲山峰定寺。鐘乳石。乳汁の出づるやうに祈願する。  女泣石  福島県信夫郡石合。尖端亀裂して男子の陰具に類す。懐胎を祈る女子が自分の肌をその石に抱著せしめて石が温まるまで続ければ必ず受胎すると。  育児  自分が産むだ児を愛撫し、それを育てて行くことはすべての動物の本能である。これは種族保存といふ自然の法則のために衝動的にあらはれるものであるから、人類にありても、動物に於けると同じやうである。しかしながら我々人類にありては動物に異なりて智力のはたらきが進歩して居るために、知識に本づきて育児の方法を講ずべきことを知つて居る。さうしてこの育児の方法は科学の知識の進歩すると共に段々と精しくなつて来た。ところで愛児が疾病に罹るか、又は養育の上に何等かの障碍が起つたときに方りて、或は神仏に祈り、或は種々のまじなひなどが行はれることは、まことに子故に迷ふ親心の切なるためであるから、同情すべきことではあるが、文化の進みたる人類の行為としては非難せざるを得ない。此の如きは多くは迷信に本づくもので害はありても利はないからである。  ちりげの灸  支那の古代の医家の説で、小児の病はすべて脾胃にありと考へたので、牌の兪(第十一の椎をいふ)に灸をすると病が起らぬと説かれたのである。我邦では春秋に多くは身柱にて九の椎と十一の椎とをすぢかへて灸す、身柱といふは俗にちりげと名づけるものである。ここに灸をして小児の無病を祈ることは本と医家の説から出て、元祿の頃には巳に広く俗間に行はれたもののやうに思はれる。医学の上から見て、何等の根拠もない妄説である。  宮參  『本邦の俗禮にて、男なれば三十二日、女なれば三十三日に当る日を宮參の日と定め、氏神又は産神《ウブスナ》に詣でしむることなり、此事いづれの代よりしそめたるやらむ、未だ考へず、宮參をなさば必ず遠き神社に詣ずること勿れ、乳母の懐によくいだかしめて、いかにも靜に尊与をかかす、高声することを戒め、風邪にあたらぬやうにして詣でしむべし、多くは児、宮參の日より風を引き、或は乗物にゆられて病を生ずることなり、よくよく心をつくべきことなり」。これは元禄年間に刊行せられた香月牛山の「小児必用記」に記載してあるものである。我邦には古昔より小児に関する儀式の行はるるものが多く、宮參の如きものも亦その一とつである。儀式としては一概に排斥すべきものではないが、その根拠とするところが迷信であり、その結果が小児に対して不良であるものはこれを廃することが正当であらう。  縁起玩具  縁起玩具と名づけられて居るものの中に、児童の生れるやうにと祈り若しくは児童の無事に生長するやうにと祈るために用ひられるものがある、縁起ものといはれるものがすなはちこれである。固より土俗玩具であるから、国内到るところに種々のものがありて、これを網羅することは容易でない。ここに挙ぐるものは、最も普通のもので、巳に広く世に知られて居るものの数例を挙ぐるに過ぎない。  柏崎達磨  新潟県柏崎。子孫繁昌を祝るために用ふ。  女達磨  伊予国松山附近。正月初買の時に求めて子孫繁昌を祈るために用ふ。  子育馬  一に三春駒といふ。福島県田村郡高柴。神棚に祭り、日に大豆三粒を供へて祈念すれば子を得ると。  福蔵矢  宮崎県佐土原町。男子出生の家に贈りて祝ふために用ひらる。  饅頭喰  京都府伏見、大阪府住吉。小児が悧巧になるやうに祈願する。むかし某処に悧巧なる子供が居りて、或人が父と母とどちらが善いかと聞いたところが、即坐にその手に持つて居つた饅頭を二たつに割つてどちらがうまいかと問ひ返したといふ伝説に本づいて造られたる瀬戸物の人形である。  一文狗  京都府紀伊郡深草村。虫除け。  一文でく(首人形)  静岡。男女又は十二支を作り、虫除のために氏神に奉納す。  虫切鈴  山梨県北巨摩郡宮本村金櫻神社。香川県琴平町。その他。小供の腰にさげる。  鶏  京都府紀伊郡深草村。小児の枕頭に置くときは夜泣が止むと。  一文牛  京都府紀伊郡深草村。土製の小牛、腹部に小き穴があけてある。これに飯粒をつめて川に流せば「クサ」(瘡)が治癒すると。  鯛車  一に「ビンビン」鯛といふ。近江国草津町。疱瘡病者の見舞に贈る。  猩々  同上、疱瘡病者の見舞に贈る。病が直ほれば川に流す。  赤馬  同上。一に「ピンピン」馬ともいふ。  愛嬌雛  金澤。夫婦一対にしてサンダハラに赤飯を一処に併べ、これを疱瘡病人の枕頭に置き三十一日間祈願し、これを川に流すときは疱瘡が軽いと。  ホーホー鳥  猿  猿乗馬  長崎県北高来郡古賀村。疱瘡除け。  彈き猿  宮崎県宮崎郡住吉村。疱瘡除け。  鳩  京都府八幡町。小児の食膳に供へて置けば食物が喉につまらぬと。  鳩  東京。食始のときに、食膳に供へる。食物が喉につまらぬやうにと。  仙臺堤馬  仙臺。子育のまじなひとして用ふ。又これを神棚に祭りて眼病の平癒を祈る。  括猿  大阪市北野太融寺。この厭符を小児の腰にさげて置くときは怪我をせぬと。  三疋狗  大阪府住吉。小児の虫封のまじないひとして用ひられる。  鶉車  宮崎県東諸県郡高岡。長命を祈るために小児のある家に贈る。  獅子頭  高松。小児の幸福を祈るために朔馬と共に飾る。  姫達磨  會津若松。一月十日に家族の数より一とつ多く求め。神棚に祭りて子孫繁昌を祈る。  子安地蔵  大阪府住吉。一名五大力尊ともいふ。虫封じのために寺に納める。  羽子板  宮崎県佐土原町。幸福を祈るため、初正月を迎へたる女子の家に贈る。  狗、鳥、達磨人形  岡山県吉備津神社。虫封のために用ひる。  犬張子  東京。子供の初宮詣の折、親族知人より幸福を祈るために贈る。  かくの如くの類は各地に行はるるもの、その数が甚だ多い。もとよりこの小篇にこれを網羅することは出来ぬ。  疾病  疾病は直接に人々の生命を脅かするのであるからすべての人は真剣の態度を以てこれに対するのである。さうして人々は先づ疾病の原因を探りて、それを除き去ることをつとめるのである。この場合必要なるは疾病の本態を観察することであるが、この観察が十分でないか、またはそれが正しくないことがあるときは、すなはち種々の迷信があらはれるのである。  多くの人々の間に普通に行はれて居るところの考は「疾病は健康の反対である」ということであるが、その実、疾病と健康とは絶対に反対せるものではない。生物の個体にありてその生活機能が正常であるときにはすなはち健康で、これに反してその生活機能が変常を致せるものを疾病とするのである。さうしてその生活機能の変常は、それによりて一定の障碍を起し、又それが持続することを條件とするもので、若しさうでなければ疾病とすることは出来ない。しかしながら変常といふことも固より個体の生活の範囲内にあるものであるから、疾病は外方より体内に入り来れるものでないといふことは明かである。かういふ次第であるから、我々が疾病と名づくるものは一定の原因(内因と外因と)によりて身体の組織に変常を起せるときに、それが治癒するまで、又は死亡するまでの間に起るところの異常生活機能をいふ。我々がそれを自覚したるときに『疾病に侵された』といふけれども、勿論、疾病と名づくる独立の個体が存してそれに侵されたのではない。  病魔  此の如く、現今の医学上の知識に拠るときは、我々が疾病と名づけて居るものは、身体が病外界より受けたる影響のためにその生活機能の異常を呈したものである。疾病と名づくる独立のものが存在してそれが身体の内に侵入するのではない。我々の身体の器官が異常を呈するためにその機能が異常を呈するものが疾病と名づけられるものである。しかるに古代の人は我々の生活の特性につきての知識が十分でなかつたから、従つて疾病の本態がわからず、その幼稚なる知識に相応して種々の臆測を逞くしたのである。殊に生活の特性につきての知識が少なければ少ないほど疾病の原因をば身体の外にある條件に求むることが多いために、未開の人民は疾病を起すべき精霊及び悪魔の類の多数が存在して居ることを信ずるのである。  西洋でも古代疾病は魔(Dinnonen)及び悪魔(Vampin)の所為であると信ぜられた。支那にても視S、邪鬼等が疾病を起すの説が行はれた。唐の時代、一行が撰述したる「七曜星辰別行法」の内に行病鬼の種類が挙げて、一定の日に、一定の行病鬼が一定の疾病を行ふことが詳かに記載せられ、それに行病鬼の図が加へてある。その鬼の名称と、それが行ふところの疾病は次の通ほりである。  (行病鬼の名)(発 病)  黒林尼    失音不語  多知蔡    悶熱煩乱  阿含国    忽言忽語  万松石    行不得  伏応參星   悪心嘔飜  行音風    卒倒不語  当日流    乾嘔心腸痛  多居耶    脚手不過  夜居山    患寒  安小啼    伝屍病  百歳公    失精魂  百黒山    陰腫  円又鶏    開眼不得  言破愛    悪痢  令尼居    脚痛  独指樓    大小便不通  百破     心頭冷  雲公共    小痢  阿之婆    患熱  憂夜多    独言独語  常無枉    夫妻相争  聞度直    忽倒地  難符     朝寒暮熱  木林音    夜間不独行  丘由田    卒倒不語  洪宅置    小便不出  常夜延    身体疼痛  奉又     後分疼痛  これは疾病と言つてもその実は疾病の症状のことで、個々の症状につきて一々それを起さしめる病鬼を挙げたのである。勿論想像によりて説かれたもので何等学術上の根拠があるのではない。  悪魔(Vampir)  西洋でも、古代には悪魔(Vampir)の信仰が広く行はれて居つた。今日でも露西亜の一部には尚ほそれが行はれて居るといふことである。西洋にて悪魔(Vampir)と言はれるのは、死したる人が、その墓の内に安んじて居ることが出来ず、夜出でて睡れる人を襲ふてその血を吸ふ、血を吸はれたものは病気に侵されて遂に死ぬるといふのである。  悪魔(Vampir)には種々の種類がある。その一二のものを挙ぐれば次の通ほりである。  「マル」(Mar)夜間出でて、睡れる人の背に負はれて、その頸を絞め呼吸を止める。英国にてはこれを「ナイトマル」(Nightmar)といひ、仏国にては「コウシュマル」(Cauchemar)といひ、古独逸語では「マラ」(Mara)といふ。悪魔「プロテウス」一千六百九十五年。独逸ニュルンベルグ。エラスムス、フランチスケー画)  「アルブ」(Alp)希臘人はこれを「エフイアルテス」(Ephialtes)と名づけ、羅馬人はこれを「インクブス」(Incubus)と呼むだ。「マル」に似て、睡眠を妨げ、呼吸を苦しくするところの悪魔である。  「トルト」(Trut)夜間出でて乳児の乳房を吸ふ、又大人の乳房を吸ふこともあると。  「ウェルウオルフ」(Werwolf)独逸人の信仰。生きたる人間が狼の形となりて人間の肉を割きてこれを喰ひ尽すといふ。  「ゴルゴネイオン」(Gorgoneion)これを目撃するときはその身体が石に化すると。  「リット」(猶太。Lilith)夜中飛行して小児を病ましめる。  「オイレン」(希臘。Eulen)夜間出でて小児の血を吸ふ。  「シルヴアヌス」(羅馬。Silvanus)夜間出でて小児の血を吸ふ。  「フェイリース」(愛蘭。Fairies)小児を病ましめる。  「モヴキー」(Moyki)洗靈を受けずして死したる小児が黒き烏となりて夕刻より飛び廻はりて中夜に及ぶ。露西亜の南部ではこれを「マフキー」(Mifke)と呼ぶ。  「ノルケ」(独逸。Norke)動物の幽靈。牛の瓦斯壊危病を起すといふ。  魔法医学  今日でこそ医学は進歩して科学的のものとなつて居るが、その発達の初期には魔法医学(Zaubermelizin)と名づけらるべき時代があつた。これは人類が動物の状態から離れて、間もない頃から始まつて、所謂「アニミスムス」の考が行はれて居つた時代に盛になつたのである。「アニミスムス」とは我々人類を囲擁するところの一切のものが皆精靈を有して居るといふ信仰である。さういふ精神状態であるために、何か疾病に罹つたときに、その原因を知らむとするに方りて原因と作用との関係につきて深く考へることなく、すぐに超自然的の精靈の所属に帰して説明しやうとする。すなはち魔法によりて秘密に富みたる原因の一切のものを解決しやうとするのである。さうしてここに考へらるる所の精靈は始めはただ死したる人の精靈で、しかもそれは悪魔であつたが、それが段々と変化して後には善魔も出来るやうになつた。  しかしながら疾病を起すものは悪魔のみでなく、人間の中にも魔法を行ふものがあつてそれによつて疾病を起すことがあると信ぜられた。一定の動物も或は人を迷はし、或は人を害し、甚しきは人を殺すものであると信ぜられた。生命のない物、たとへば「アルテミス」(狩獵女神)の像はそれに觸れるときは人をして病ましめると信ぜられた。太陽も、月も、遊星も皆魔力を人の身体に及ぼすものであると信ぜられた。  ただそれのみならず、一定の時日、又は一定の場所も我々の疾病の原因をなすものであると信ぜられた。又数の神秘も説かれて、一定の数は人の身体の上に不良の感作を及ぼすものであると唱へられた。  神気  我邦の上世にありても同じく病疾は精靈の所為に出づるものとし、神のなし玉ふ業であると信ぜられた。「古事記」水垣宮の段に『此大皇之御世、役病多起、人民死、為尽、爾天皇愁敷而坐神林之夜、大物主大神、顕於御夢、曰、是者我之御心、故以意富多多湿古而令祭我御前、神気不起、国安平』とあるのを見ると、疾病が神の意によりて起れるものと信ぜられたることは明かで、それによりて疾病のことを神気《カミノケ》と名づけられたのである。後の世になりて物気《モノノケ》の称があらはれたが、これは支那から傅はつたもので、支那では怪物を指して「物」といふので、死人か又は生人か、どちらにしても怪物が崇をなして疾病を起すものを指して物気と言つたので、奈良朝時代から平安朝時代にかけて専ら行はれたる言葉である。  疫病神  疾病の中にても疫病はその勢が猖嬢で、一時に多数の人が侵されるものであるから、人々をして恐れしむることが最も甚しいものであるから、その原因として所謂疫病神が挙げられるのは、文化の低度なる時代にありてむしろ当然のことであらう。  我邦の上世にはこれをエヤミノカミと名づけ、追儺《オニヤライ》の祝詞には疫鬼の文字が充ててある。疫鬼は支那の言葉にて、むかし顧項帝の子が三人ありて、それが死むでから鬼となり、その一人は江水に居りて鬼となり、その一人は若水に居りて魍魎となり、その一人は人の宮室に居りて小児を侵す鬼となつたといふことが伝へられて居る。属鬼と称せらるるものも亦同じことである。西洋の古代に於ける悪魔の類で、人の精靈に属するものと見るべきである。文武天皇の時に制定せられた大寶令に鎮花祭のことが挙けてあるが「令義解」にその註をして『鎮花祭、謂大神、狭井二祭也、在春花飛散之時、疫神分散、行広、為其鎮遇、必有此祭」と記載してある。それから七十余年を経ての後、称徳天皇の寶亀元年五月京師飢疫の時に疫神を京都の四隅、畿内の十界に祭つたといふ記事が見えて居る。それから後には度々疫神を祭つたといふことが伝へられて居る。しかしながら疫神の何物であるかといふことは明かでない。それにつきては種々の臆説もあるが、しかしながら常に疫を行ふところの一種の邪神があるといふよりも何れの精靈にても時によりて疫を行ふものであると信ぜられたのであらう。  それが後には懇靈の崇であるとせられ、怪異の物のなすところともせられた。「今昔物語」の中に、次のやうな話が出て居る。むかし天下に咳病が流行したとき、或家の台所の仕事をして居つた男が、用事をすまして夜遅く家を出たところが、門に赤き衣を著け、冠をつけた人が立つて居る。その人、男に向ひて、汝は我を知つて居るかと問ふ、その男存知せずと言ひたれはその人の曰く、我はむかし此国にありし大納言伴善雄といひしものである、伊豆国に流されて早く死むだが今は行疫流行神となつた。我は罪を犯して死むだのであるが、公に仕へてありし間、国の恩が多かつたから、今天下に疫病流行して、国の人が皆病死すべき筈であつたのを、咳病にして貰つたのであると語つたとある。これによりて見ると疫病神は死したる人の精靈である。  この場合、疫鬼はエヤミノカミであるから、目に見えざる靈であるが、このエヤミノカミが牛角虎牙の形を備へたるは平安朝時代のことである。鎌倉時代、延慶二年の跋文ある「春日權現驗記」第八巻に疫鬼の図が見えて居るが、それは赤色の身体で、犢毛褌を締め、腰に槌のやうなものをさして居る。惟宗充亮が著はしたる「政事要略」に載するところの疫鬼の図もこれと同じく地獄の羅刹と同じやうな形をして居る。  魔羯羅鬼  魔鶏羅鬼といふものは疱病を起すものであるとせられて居る。鎌倉時代に著はされたる「萬安方」第十巻の瘡病の部にこの魔鶏灘鬼の図が載せてある。その脇を見ると、この鬼は頭の状、鶏の如く、手に鐵杓を持ち、熱湯を酌みて病人にかけて居る。「萬安方」は花園天皇の正和四年に梶原性全が著はしたもので、当時代にありて権威を有せる医書であつたが、それにも拘らず、此の如き空想の病が挙げられて居るのは不思議と言はざるを得ぬことである。  異鳥  天保保十三年、肥前国平戸に何づくよりともなく、異鳥飛び来る、その啼く声を聞くに『我は御神の使なり年来凶作打ちつづき諸人の悲しみを憐み玉ひ、我を以て告聞せしむ、当年から七ヶ年の間、大豊年なり、しかしながら九死に一生の悪病流行して人多く死す、此度我姿を見るものは其病をのがれ、萬福長久なるべし」といふて、何処ともなく飛び去つたと伝へられた。その島は目元紅の如く、頬雪の如く、羽根青く身の丈五尺余、足のゆび五本を備へて居つたと、記載せられて居る。如何なる鳥を見誤りたのであるか、又は全くの錯視であるか、それとも架空の妄談であるか不明であるが、しかしながら、これによりて近代天保年間にありても、此の如き迷信が行はれて居つたことを証明することが出来る。  其他これに類したる迷信たとへば怪物、怪星、怪獣などが疾病を生ずるの魔力を有して居るといふことは種々の方面に、信仰せられた。  此の如く、疾病を全く身体の外から来るものとして、しかもそれを病魔の所為とすることは野蛮蒙味のものが信じて居るものと大差はない。たとへばボスニア人が信じて居るところの病魔は或は虫の状をなし、或は鼠の形をなし、或は鳥の形をなし、或は種々の怪物の状をなして居る。又シンガレーゼン人が信ずるところの病魔は異形のもので人身に近い状を成して居るその他、野蛮人の間に認められて居るところの病魔は大体これ等と同じやうなもの、若しくはそれに類似したもので、かくの如き異形奇体のものを案出してそれに疾病を起すの魔力があるものと信ずるのである。しかるに文化の進みたる人々の間にありて、尚ほ野蛮蒙味のものに於けると同じやうな信仰の存在して居るのは、野蛮蒙昧の時代の遺物が存在して ボスニア人が信ずる病魔 (a)ミンセスコル (b)リリー (c)トカリヂー (d)シラリー (e)ビトン (f)トレスコロ (g)ツロー (h)ロルミショ (i)メラロ 「マハーコラ・ヤクシャ」 シンガレーゼン人が信ずる病魔  中央のものが「マハーコラ、ヤクシャ」でその左右兩側にあるはそれに隣作する病魔である居るのであるといふよりも、その時代の知識を離れて、何物かを信仰するときには何時でも野蛮蒙味のものに於けると同じやうになると言つた方が正当である。  療病  疾病の治療につきての迷信は種々の迷信の中にてその数が一番多い。これは多くの人々が「死ぬる」といふことを恐れ、疾病に罹つたときにはどうにかして、その苦痛を免れ、壽命を保つやうにと念願するために、自己の知識(若しくは人間の知識)の及ばぬところをば、信仰によりて補はんとするために、動もすれば迷信に陥るのである。早い話が、たとへば時計にくるいを生じた場合、すぐにそれを時計屋に持て行つて專門家の手腕を信じて、その修繕を頼む、若し時計屋で直ほらなければ諦めて新しい時計を求める。決して神や仏に祈つてまで時計のくるつたのを直ほして貰うとはしない。自分の疾病の場合ではさうは行かない、疾病に罹つたときには先づ専門家の医師にその治療を頼む。それが思ふやうに運ばないと、医術に信頼することが出来ぬ。しかしながら人間にありては專門に治病の任に当るものは勿論医師であるから、その医師を離れるとすれば、すなはち神や仏に頼むより外はない。そこに祈願が行はれる。又医術が進歩したからと言つて、その力には限があるから、診断も正確でなく、治術も十分でないことがある。そこで医師以外のもの、治術を試みて萬が一を期することになる、偶まそれが効験ありと認められたるときには所謂理外の理とこじつけてそれを信ずる。すなはちここに迷信を生ずるのである。  医術の変遷  療病上の迷信につきて考へるには、先づ医術の変遷を明にすることを必要とする。我々人類が僅に動物の状態から離れた時代(即ち前人)には動物の医術が行はれた。たとへば唾液にて傷を甜める、草を食ふて吐く等の類である。それから原人の時代に進みて、その医術動物の状態より一歩を進め、薬品や器械(石器)を用ふるやうになつた。その方法は摩擦、舐嘗、穿刺等である。それが更に進みて、医術を専門に行ふものがあらはれた。この時代の医術は民間医術といはれるもので、単純の経驗によつて疾病を治療するものである。しかしながら治療に用ふる材料は澤山で、動物、植物、礦石、臓器等を薬籠中のものとなし、その他に、魔力を信じ、病鬼を信じ、それによりて祈祈、まじなひ等を用ゐた。この民間医術が最も著しく迷信的に行はれたのは魔法医術である。この時代には精霊の存在と威力とを信じ、魔語、魔符、魔数、魔字等によりて疾病を治療することにつとめた。  医術が專門のものによりて施され、それが進むで職業となりしは僧侶が医療を兼ねたるに始まり、同時に魔法医師があらはれたのであるが、それから人間の知識が進みて、治病の学術が研究せられることになりて、学校医術といふものが生じた。現代に行はれて居るところの学校医術は科学的のものである。数千年来の経驗によりて得たる知識を輯めて、それによりて治病の方法を整へたものである。科学的の医術は先づ疾病の本態を明かにして、それに病よりて治癒の機能がどういふやうにあらはれるかといふことを知り、それを方針として、疾病の治癒を助けるのである。固より現代の医術が十分の程度に達してゐないことは言ふまでもないことであるがしかしながら、我々人類の知識の限を尽して現代の状況にまで達したものであるから、それに信頼するより外はない。それにも拘らず自己の欲求が滿足せられないために自分勝手の考を起し、盲滅法界に治術を施すことは危険である。さうして現代の科学的医術の世界に前代の魔法医術の遺物が行はれてゐるのは明かに迷信に属する。  追儺  慶雲三年天下諸国に疫病が流行したときに追儺の執行があつたのを始として、宮中行事の一とつとなつて、年終に追儺の式が行はれた。これは方相氏と言つて、鬼の面に金にて四つの眼をつくり、身に赤きものを著け、手に矛楯を持ちたるものを首とし、官人これに從ふて疫病を逐ひ掃ふのである。この追儺の法は平安朝時代を通じて行はれたが、鎌倉時代を経て、室町時代に及びて漸次に衰頽し江戸時代の初に至りては巳に廢絶した。徳川時代の風習として除夜に、戸上に魚頭桐葉を挿み、炒豆を投ずるは追儺の遺風であるといふ説がある(松下貞林の「国朝隹節録」。しかし弘仁年間に僧景戒が撰びたる「日本靈異記」に載するところに拠ると、聖武天皇の御代に衣女といふものが居つて病を得たので、門の左右に百味を備へて疫神を饗応した。すると閻羅王の使の鬼が来て衣女を召し連れやうとしたが、その鬼が御馳走を見てこれを食つた。さうしてその娘が衣女に言ふには、自分は女の饗応を受けたからその恩に報ゆると言つて、召し連れて行く筈の衣女を地獄に連れて行くことを止めたといふ話が載せてある。さうして見ると魚の頭を串にさして門戸に挿むことは疫神に賂してその侵襲を避くるの意であるやうに思はれる。追儺に似たやうな式が年中行事として尾張の或地方の神社に行はれておつたことが「尾張名所図會」にも載つてゐる。  疫神を送る  疫神を送るといふことも隨分広く行はれたことであるが、安永元年六七月の頃、京阪地方に風邪が流行したとき、大阪にて、或町に風神送りに非人を雇ひて風神となし、若きもの三味線大鼓にてはやし、これを送つたのであるが、興に乗じて彼の非人を川中へつき落した。非人これを恨みに思ひ、夜に入りて、その若者共の町に来たり、戸毎に先刻の風神が又々立ち帰つたと觸れていやがらせたといふ話がある「武江年表」を見ると、享保十八年の風邪大流行のときに、藁にて疫神の形を造り、これを送るとて鉦太鼓をならし、はやし連れて海辺に至つたとある「鹽尻」に載するところに拠ると、正徳四年の疫病流行の時に、京都にては組を定め、人形を造り、夜に入りて数十人、金鼓を鳴して疫神を送つたと書いてある。  かういふやうに疫病の発生は神の所為であると信じて、その疫病の神をばその地方から送り出すといふ考は言ふまでもなく魔法医術の遺物である「日本紀略」に正暦五年六月二十七日、疫神のために御靈會が修せられたことが載つて居るがこの記事の内に、城中の人伶人を招きて音樂を奏し、都人士女幣帛を持つて禮をなし、それが了りて難波の海に送つたことが書いてある。疫神を送るといふことは巳に平安朝の頃に行はれたものである。  神慰め  文久二年麻疹流行の後に虎列刺病が大いに流行した。此の時江戸にては八月の半より町々木戸に齋竹《イシタケ》を立て、軒に奉燈の提燈を釣り、鎮守神輿獅子頭をわたし、神樂所をしつらくて柿をいさめ(慰め)この禍を祓はむとした。後には次第に長じて大なる車樂《ダシ》を曳渡し、おどりねりものを催して街頭をわたしたとある。京都でもその前、安政六年の虎列刺流行の時に、その病をのがれんと、神へ詣で、又はお守札を受けるものが多かつたが、町々によりては神社へ千度詣りをなし、または提灯を立て、燈明を献ずるものもあり、種々美事なる行燈を捧げ、鳴物を入れはやし立て、男女小供に至るまではでやかなる揃の半天にはゆかたを著て、思ひ思ひの姿にいでたち、或は女が男に仕立、神いさめとて腰に鈴鳴子をつけ、いさみすすみて神社へ參詣す、段々賑かになり、夜分遅くまで競ひ行くさま譬へんに物なしといふ有様であつたと伝へられてゐる疫神をなぐさめて、その機嫌を直ほして、それによりて疫病の行はるることを防がむとする。まことに幼稚の考である。それが安政から文久にかけて盛に行はれたといふことはいかにも不思議の話である。  疱瘡神  疱瘡が我邦に始めて現はれたるは天平年間又はそれよりも少しく以前であるが、特に疱瘡療神といはるるものは無かつた。徳川氏初世の頃にも疱瘡神の記載は発見せられず、概して疫神とせられたるものであらうと思はれる。しかるに元祿年間香月牛山が著したる「小児養育草」の中には「我邦の風俗上古より神明を貴ぶ国なれば、其家痘を煩ふものあれば、神の棚とて新にこしらへ、御酒、供物等をそなへ、祭ることあり」と記載してある。これによりて見ると、元禄の頃には疱瘡神を祭るの風俗は巳に行はれて居つたものと見える。しかしながらその疱瘡神といふものは何れの神であるか明かでない。住吉大明神は三韓征服の神で、疱瘡は新羅から渡つて来た病であるから此神を祭りて病魔の邪気に勝つべきことであるといふ説もある。或は出雲大社の末社に鷺森明神といふものがあつてそれが疱瘡神であるといはれて居る。何が何だかわからない。支那では疱瘡病者ある家に五郎神を祭る、これを花花五聖と名づくといふ。又娥眉山に三人の姉妹が居りて身に麻衣を著けて居るが、これは女仙人で、麻娘娘と名けらる。疱瘡を主宰するものであると言はれて居る。  咒符  西洋にて行はるる咒符に二種の別がある。その一とつは独逸語に「アムレット」(Amulett) といひて悪魔疾病等を防ぐために身体につけて居るもの(肌守)である。その一とつは「タリスマン」(Talisman)といひて金属又は石にて造り、これを所持するものである。これを所持するものは災難、疾病等に罹ることを免れるといふ。  (1)アブラカタブラ咒符  縦に同一の文字が並びて居る。各横行の最初の文字と最終の文字とにてABRACADABRAとなる。それに何等意味はないけれども文字の配列が不思議である。  この符を紙に書きて肌守とすれば熱病、癲?《てんかん》を治するといふ。この咒符は紀元二世紀頃巳に行はれて居つたものである。「アブラカダブラ」の言葉は次に記載する「アブラキサス」と同様の語源を有するものであらうと思はれる。  (2)「アブラキサス」石  石に人体及び動物の身体の一部を画き、又「アブラキサス」の文字を象徴的に書きあらはしたるもの、西班牙、伊太利、希臘等にありて、古くから肌守として用ひられて居る。 「アブラキサス」(Abraxas)は希臘数字で  a=1b=2r=100a=1x=60a=1s=200 総計三百六十五となる。すなはち一年を靈化したもので、その中に神が顕現すると信ぜられる。  (3)「サトール」符  この符は歐洲の各地にて古くから用ひられる。無意味の文字を列記して縦から読むも横から読むも同一としてある。頭痛を防ぎ、犬咬を治するの効力があると言はれて居る。ラーべ氏に拠ると、これは新ケルト語でSaotharは「疼痛」Arabaは「為めに」、tenneathは「火傷」、0bearは創傷、aは「の」、roddeasは「軽快なる投射」であるといふことである。この咒符の変種に「サタン」符がある。  (4)サタン符  この符は古ボヘミャにて行はれたるもので「アダマ」はヘブリア語の「土地」であるといふ。これはすべての災難除とも用ひられる。  (5)「ナトール」符  これは「サトール」符を変して犬咬に対して用ひられるものである。  (6)鉛板字符  これは古ボスニア人が頭痛を治するために用ひたる字符で「サトール式」字符の変法として見るべきものである。  (7)木製人形  ギルヤーケン人が肺結核を防ぐために用ふるもの。痩せて脊柱と肋骨とが著しく認められて居ることをあらはした人形である。  (8)「ヨハンネス」頭  木にて製し、頭痛を治するための護符として用ひられる。(南チロール地方)  (9)蘇民将来子孫也  我邦に於ける咒符の療病に用いられたるものは基だ多い。その中にて四五のものをここに挙げる。「拾芥抄」に疫病流行の時の咒符として「蘇民将来子孫也」の七字を書したるものを用ふることが挙げてある。  (ギルャーケン人が肺結核を防ぐために用ふる木製人形。痩せて背柱と肋骨とが著しくあらはれて居る。肋骨の数が甚だ多い)  木製人形肌守  これは「備後風土記」に出でたるもので「備後国風土記」は恐くは延長年中に著述せられたるものであらう。それによると、むかし武塔神がある女の許に尋ね行くのに、日が暮れた。その処に蘇民将来といふものと、巨且将来といふ兄弟が居つた。兄の巨且将来は富餞であつたが、惜しみて宿を借さなかつた。弟の蘇民将来は貧窮のものであつたが、快く宿を借した。その時、神が言はれるのに、我は須佐能雄神である。疫病が起るときは汝蘇民将来の子孫といひて茅輪を以て腰上に著くれば疫病を免るることが出来るぞと言はれた。この伝説に本づいて「蘇民将来之子孫也」の咒符が出来たのである。 (土にて造りたる人形。身体の全部に打撲によりて生じたる小隆起を存ずる。それを掻きて、自身の身体の疼痛を減ずると(古ペール人の間に行はれたるもの) 土製人形  (10)縫鱗乙  この字符は、支那から伝はつたものである。「病名彙解」に「群談探余」を引いて、その由来を説明して居る。それに拠ると、予章の南、数十里に舟渡がある。乾道八年三月八日、僧来りて岸に上らむとして津吏に告げていふやう、しばらくありて黄花を衣たるもの五人、籠を負て至るべし、必ず渡すことなかれ、これを渡さば禍あるべしと戒めて、筆を取りて三字を書いた、それは縫鱗乙の三字である。これを津吏に授けて、これをその五人のものに授くべしと言つて立ち去つた。果して五人の黄疹を著たるものが来た。津吏渡すことを許さず、五人のもの怒つて津吏を撃たむとするので、前の三字を書いたものを示したところが五人のものはそれを見て狼狽して走り去つた。その籠を岸の側に殘し置いたのでこれを開いて見たらば小棺三百具あつた。津史それを焼いてその符を伝ふ、予章の人家、家毎にこれを書いて貼つた、ところが当時江浙の地には疫病が流行したが、操章は無事であつた、この五人のものは疫鬼であつたと伝へられて居る。何時の頃よりしてか、我邦でも疫病流行の年に、この病文字を門戸に貼りて疫病を防ぐの咒符とするやうになつた。  (11)鎮西八郎為朝宿  疫病若しくは疾病をば邪鬼の所為であると信じたものがそれに対抗せしむるに人間界の雄士猛将を以てすることは考へられ易いことである。疱瘡及び麻疹の予防の咒符として「鎮西八郎為朝宿」と書いて貼つて置く類はまさにこれである。為朝のやうな猛士が内に居れば邪鬼もこれを襲うことが出来ぬと信ずるからである。福岡地方にて疱瘡を防ぐ咒符として笹野才蔵の人形及び画像を用ふるも同一轍である「小濱六郎左術門子」「ササラ三八宿」「品川松右衛門宿」など奇妙のものなくない。流行性感冒にお染風の渾名がつけられたとき「久松留守」と書いて貼つたなどは頗ぶる色気に富むだものである。この内には久松が居ないと知ればお染風は這入つて来ないと、謎のやうなことで疫病の伝染を防ぐことが出来ると考える。移精変気の一法といへば、幾分か意味があるやうでもあるが、その無智のほどはむしろ憫れむべきである。  (12)笹野才蔵  「笹野才蔵」と名づけられたる博多人形がある。一にこれを「三郎さむ」と名づける。疱瘡除けのまじないとして神棚に祭るのである。又「笹野才蔵」の像を紙に印刷したものがある。これは門戸に貼りて疱瘡除のまじないとする。福岡附近に浅く行はれて居る。笹野才蔵といふは加藤清正と併び称せられたる大兵強力のもので、本名を可児才蔵といふ。尾州可鬼山の人で、笹を指物として居つた。常に敵の首を取りて笹の葉を口中に捻込み、投げ棄てて後の証拠としたので、世の人が笹の才蔵と呼むだのであると伝へられて居る。鎮西八郎為朝宿と同じやうな意味で、豪力の名の氏名によりて病を防がむとするものである。  (13)一文錢  川崎大師境内にて賣る。これを所持するときは中風、肩の凝が起らぬといふ。  (14)神馬豆  大阪住吉神社。神馬に与ふる豆を授かりて噛むときは齒断が治癒するといふ。  (15)白南天箸  河内国石切『奥州の大社、しがきしかき村、きしく大明神きしく大明神』ととなへつつこの箸にて食事をするときは中風を免るることが出来るといふ。  (16)齒痛止めの箸  大阪市電偕行社前停留場附近の歯神大明神。明治の初年この辺の溝の中に居る狐が歯痛を治するに妙を得て居るといひ伝へ祭つたのであるといふことである。毎月二十一日齒痛止めの箸を授く、この箸にて一週間飯を食ふときは歯痛が止むといふ。  (17)麥藁蛇  寛永年間、江戸駒込の百姓喜八といふものが麥藁で造つた蛇を駒込の富士神社の縁日に賣り出した。すると其年大変疫病が流行したが、不思議にも蛇を買つた人の家には疫病がなかつたといふことから麥藁蛇は疫病除けとして行はれた。又これを臺所に置くときは虫が出ないと云はれる。  (18)梟笛  福岡。土製のもの。この笛を吹くときは老人ののどがつまらぬと。  (19)山城国宇治聯神社。毎年六月五日夜祭のとき、御旅所の門扉の閉鎖せらるる際、群集が争ふて御弊の一片を奪ふのであるが、それはこの玉串の紙片を得て祭るときは男女下の病一切を治するといふからである。  (20)紙衣さむ  大阪市天王寺境内仁王門西手の賓頭盧仏。紙のお守を授く。賓頭盧の前にかけてある木の槌にて鼻部を叩きて祈り、紙衣のお守を戴きて帰り、病人の浦團の下に敷くときは病が治すると。  (21)張子の虎  大阪市道修町、薬種商の私社。腹部に「薬」の印を捺して、葉のつるたる小さき竹の枝につけたる張子の虎を頒つ。流行病予防に効驗ありといふ。  (22)猫  大阪天王寺門の猫。疫病除として用ひられる。鼠除としても効驗がある。又この猫を室内に飾れば家内和合の驗ありと。  (23)歌の咒符  歌の咒符もある。その一二の例を挙ぐれば次の通である。  疱瘡除の咒符としてむかしよりやくそくなればもみじばも病とはしらず神垣の内   もみぢ川流れて清き水なればあくたはしづむぬしはさかへな    右の歌を紙に書いて戸に貼る。火傷には   さるさはの池のほとりにありけるがあじかの入道おふてこそ入れ  この歌を三べん唱へて後、火傷の処を口にて吹くまねをする。虫腹に対しては   秋すぎて冬のはじめは十月に霜かれだけは虫の子もなし   秋風は冬のはじめにたつものを木草かるる虫もしづまる  毒虫に刺れたるに、まじないとして   このみちに錦まだらの虫あらば山立姫に告げてとらせん  山立姫とは野猪をいふ、最もまむしを好むといふことである。肥前瘡を病みたるもの   加賀 武蔵 紀伊 駿河 美濃 肥前   かが むさし きのくに するが みの ひぜん   出羽 阿波 壹岐 甲斐   これでは あはれ いき がいもなし  この歌をよめば直ちに治すると。又疫病流行の時   かはらむといのるいのちはおしからでさてもりかれむことぞかなしき   いかでかはみもすそかはのながれくむひとにたよらじ疫病の神  この歌を門戸にはれば疫神入らずと。小児だましのやうなことである。  此の如き、無意味の咒符が、しかも真面目に多くの人々から尊信されたといふことは、まさに多くの人々が疾病の本態、從てこれを治療するの法則の根本を知らなかつたことを証明するものである。  奉納物  奉納物と名づくるものは神仏に祈願し、又は祈願がかなひたる御禮として神社仏閣に奉納するもので、それには種々のものがあるが、疾病の予防及び治癒を祈願するための奉納物も隨分その数が多い。これは神仏の意志によりて疾病の予防及び治癒が出来るものであると信じて、それによりて自己の欲望を充さむがためである。疾病の本態がわからなかつた古代にありてはまことに尤のことであつたにしても、今日のやうに医学が進歩して疾病の本態がよくわかり、又その治癒の機転が明かになつたときに方りて、なほ此の如き古代幼稚の思想があらはれるときにはそれが迷信に陥るのである。  奉納物(Voiue)  一定の疾病を予防するため、又一定の疫病を治するため又疾病が治癒したるを謝するために奉納物を捧ぐることは西洋にありて、古代から行はれたる風習である。  古代希臘及び羅馬にありては奉納物として臓器を木又は土にて造りたるものを本納物としたことがあるが、後の世になりてから、奉納物には多くは牛、犢《こうし》、豕《ぶた》、羊などの動物が用ひられて居る。  御供(犠牲)  御供には祈願の目的に用いられるものと、感謝の目的に用いられるものと、親近の目的に用いられるものとの種類がある。さうしてこの御供は疾病にして用ひられることが多い。西洋にありては太古の時代から行はれて、今日も尚ほその風習が行はれて居る。  御供は元来実物を用ひたのであらうと思はれるが、後の世になりてから、木や金属などにて実物を模したものが御供として用ひらるるやうになつた。これ乙に用いられるものは蟾蜍頭の形をしたる壺、牛、豚、羊、馬などである。その中で蟾蜍は子宮の象徴として用ひられそれによりて蟾蜍の御供は婦人の疾病、殊に癌腫を治するために用ひられる。  蟾蜍供御の製銀  我邦にありて、疾病の治癒又は予防を祈願するため又は病が治したる御禮としての奉納物は、その数が甚だ多い。ここにはその二三の例を挙げる。  梯子  山城国葛野村松尾東光山の延命地蔵尊。夜尿及び病人失禁の平癒を祈願するために梯子を奉納する。それ故に俗に梯子地蔵と唱へられて居る。傅ふるところに拠ると、往昔、この地蔵尊は松尾山の絶壁に安置せられたので、参詣するには梯子を要した。それで祈願者驗を得たときには梯子を奉納する例があつた。それが伝はりて、今でもその年齢に相応せる階段のある小さい梯子を造つてこれを奉納するのである。  牛のわらじ  京都北野天滿宮の境内に一小社がある。それを牛石神といふ。病気の平癒を祈願するもの牛のわらじを造りてこれを奉納す。  木札  山城国深草の大岩山に稲荷社と大岩大明神といふのがある。大岩大明神といふのは大小二個の巨石が神体と見へて、大岩大明神、小岩大明神と書いたものがある。萬病殊に肺病の平癒を祈願するものが多く參詣する。參詣の途中、竹や木の枝に無数の木札に奉納と書いたものが懸けてある。そこで祈願するもの、自己と同年齢の異性のものが奉納したる木札を探し求めて、これを神前に捧げて祈祈をたのみ、その木札を持ち帰りて病者の床上に置き、祈願が達すれば更に多数の木札を奉納するのである。  猿  京都八坂の庚申堂、脚気及び疝気の平癒を祈願するために猿を奉納する。  豆嚢  某所の地蔵。疣が出来たもの、この地蔵尊に參詣し、御水を疣に塗り、「疣がなほつたるときは豆二俵を奉納致します」といひ、治癒の後には約束の如くに豆二俵を奉納するのである。しかしながらそれはただ小さき木綿の袋に少しばかりの豆を入れたるものである。  唐辛  東京駒込追分の正行寺内にある地蔵。唐辛を奉納して祈願すれば咳の病、百日咳が平癒するとて、俗に唐辛地蔵と呼むで居る。深川の永代寺にも同じく唐辛地蔵と呼ばれる地蔵があつた。これも唐辛を奉納して咳病の平癒を祈る。この方には唐辛を奉納する山来が伝へられて居る。それは住職の某が一日、唐辛の一株を購ひて、根ごと糸に括りて何気なく地蔵の尊体にかけて乾した。ところが參詣の人がそれを見てこれは、必定、唐辛に深い縁故のある地蔵様であらうと推測し、我も願事あればとて唐辛を購ひ来りてしきりに地蔵の尊体にかけた。それから唐辛を奉納することが例となつたのであると。  錐  大和法隆寺、峰の薬師。耳の病のために悩むもの、錐の粗末なるものを造りて奉納し、それによりて耳の病の平癒を祈る。錐にてもみ通ほすといふ愚意であらう。  孔のある石  岐阜市外の加納町の水薬師境内の地蔵堂に祈願すれば、耳の病が平癒すると信ぜられて居る。そこに奉納してあるものは小さい孔のあいて居る小石に糸をつけて堂の扉に吊り下げてある。耳に穴のあくやうに耳がよく聞えるやうになりたいとの意味であるかと考へられる。  手甲  東京府下の某寺内の観音。手腕等に痛みの起つたとき、その観音に奉納してある木綿製の手甲を借り来たりてき所に当て、全快のときには手甲を倍にして奉納する。  足形の石  某処の小祠、足の病の平癒を祈りて効類があらはれたときには、御禮として足の形をなしたる小石を奉納する。  拍子木  東京深川西六間堀の俗称拍子木地蔵、一名汐時地蔵。咳を治するために祈願するものが多く參詣する。そこに奉納してある拍子木を頂いて帰り、咳の出る度に咳の数ほど拍子木を叩くときは咳がなほると、さうして咳がなほれば新しい拍子木の一本を添て本納する。  泥の餅  備中笠岡の一畑薬師、疣及び眼病等の治癒を祈願するもの、泥にて造りたる小さき餅を奉納する。広島材木町の瘡守さん。瘡毒を祈願するために小さい泥餅を供へる。これは外にも随分例の多いことと思はれる。  釘抜  京都千本通寺の内上る俗称釘抜地蔵。挫傷等の平癒を祈るもの多く參詣し、小さい釘拔を奉納する。  笠  丹後宮津附近の某神社「カサ」の治癒を祈願するものが多い。そのために奉納するものは竹の皮にて造りたる小さい笠である「笠」の音「カサ」が病名の「カサ」と相通ずるからである。  萩の箸  東京府南多摩郡由木村の某寺。歯痛治癒の御禮のために萩の小箸を奉納するものが多い。  草鞋  京都、黒谷不動。足の病の治癒を祈るために草鞋を奉納する。  乳房  岡山市内某寺院の境内にある乳房神社。乳汁の出ない婦人が、乳汁の出るやうにと祈願する。それに奉納するものは布帛にて造りたる乳房の形のものである。この種の奉納物は京都の某薬師、その他各処の地減などにその例が少なくない。  陰具  男女生殖器の病を治することを祈願するために、陰具を奉納する例はまことに多い。備後の中條辺にては瓦製の男子の陰具、備中倉敷在の「カサ」神樣では木製又は図にしたる男子の陰具、熊本県下の弓削の法王様では男子の陰具、埼玉県吹上在の三ッ木山王では猿の陰具を露して居る偶像(今は枕を抱くもの、小猿を抱くもの、御幣を持つものに、形が変化して居る)を奉納する。(この種の奉納物につきては巳に諸家の記載があるから、ここには省略する)  和歌山県日前宮内の小社、俗に「牛さん」と言つて、小児のくさ(瘡)を治癒するに操験があると言はれて居るが、この小社へ奉納するものは瓦製の牛である。これは牛が草(クサ)を喰ふといふことを文字つたものであらうと思はれる。  土馬  和歌山市松降寺「クサ」(瘡)の出来たるとき、寺より土馬を借りて持ち帰り「お馬さんクサを喰つて下さい」と言つておまじないをした後、全癒すれば新しき土馬を添へて奉納する。  藁馬  大阪府北河内郡牧野村瘡神社。「クサ」)の治癒を祈願し、瘡が治癒すれば藁製の馬を奉納する。前の土馬や瓦牛と同じく、馬や牛が草を喰ふに因んてすることである。  鶏  名古屋市大須門前三寳荒神。始め雄を奉納して、小児の夜泣が止むやうにと祈願し、それが叶ふたときには雌を奉納する。  鬼面  東京市麻布区箕町長谷寺夜又神堂。張子の鬼面。奉納しあるものを借り来りて祈願し、効驗あるときは一個を添へて奉納する。  木槌  下総国印幡郡瀧勝寺に奉納せる木製の槌は乳汁が出るやうにと祈願するためであるが、この場合に槌が用ひられるのはチチの音がツチとなまりたるがためである。  小繪馬  繪馬には大繪馬と小繪馬と二種あるが、その小繪馬と名づけられるものは疾病の予防及び治癒又は一身の幸福に関することを祈願するため、若しくはその祈願が叶ひたる御禮として神社仏閣に本納するものである。その多くは寶物の代りにそれを繪に書いたのであるが、中には祈願の意味をあらはしたものもある。又祈願とは別に直接の関係のないことを書いた繪馬を奉納するやうなこともある。次にその二三の例を挙げる。  逆松  和歌山逆松神凪、倒睫毛を治するために祈願す。逆松と倒睫毛と字音が相通ずるがためである。  鯰  大和法隆寺峰薬師堂。皮膚病の「ナマヅ」を病めるもの、魚の鯰(ナマヅ)の繪馬を奉納する。  赤?  大阪住吉附近広田神社。痔を患ふもの、「アカエイ」を断ちて、此神に平癒を祈り、病癒すればお禮にアカエイを画きたる繪馬を奉納す。或人の説に、此神はもと土地を守る神であるが、地所の地と病気の痔とその音が通ずるによつて痔疾平癒を祈ることになつたのであると。  婦人の足  野州足利の水使神社。腰より下の病気の治癒を祈願する。それが全癒して奉納する繪馬に婦人の赤の腰巻と足とが画いてある。  たにし  埼玉県幸手町在たにし不動。たにし(田螺)を断ちて病気を祈る。奉納の繪馬にはたにしが画いてある。  草刈籠  東京牛込通寺町薬師堂。眼病平癒のために祈願するもの草刈籠の繪馬を奉納す。  眼  眼病平癒祈願のため。眼を二たつ画き、又は澤山に画きたるもの。諸処にて見られる。  紀伊淡島神社。下の病一切の祈願のために用いられる。  女の心願  雛  武州鳩ヶ谷区郎様、下の病の祈願のために、女の心願を画いたもの。  病黒衣の下半身  博多の櫛田神社。腰より下の病の平癒を祈願するために黒衣の下牛身が画かれて居る。  めの字  諸処に見られる。眼病平癒の祈願のために奉納せられるもの。  饅  京都三島神社。安産の祈腕のために奉納せられる。  鮑  福島県石城郡草野村花園神社。鮑の繪馬を奉納す。下の病や、鞍の切れぬやうとの祈願。氏子のものは鮑を食はぬと。  相法  相法として昔から行はれて居るものに人相、骨相、手相、字相、家相などがありて、それが今日でも一部の人々から真面目に信じられて居ることは不思議である。  骨相術(Phenologie)  骨相術といふのは頭骨の表面の形状を観てその人の精神作用の特性を判断するの方術である。始めてこの方術を唱へたのは塊太利の解剖学者ガル氏(一千七百五十八年生、一千八百二十八年歿)である。ガル氏の説くところに拠ると、脳髄には理解、感情、衝動等個々の神神作用を営む部分が存する。それを精神器管と名づける。この精神器管の部分に相当する頭蓋骨表面の形状等によりて、外部からその発達の模様を窺ひ知ることが出来るといふのである。ガル氏のこの骨相の説は解剖学者スプルツハイム氏一千七百七十六年生、一千八百三十二年歿)によりて大に数衍せられ、精神器管の数揄チせられた。さうして、その巧妙なる宣伝によりてこの方術は歐洲より米国にまでも伝はり、遂に医家の手を離れて所謂骨相術者の仕事となりて、今日にても尚ほ俗間にその勢力を保存して居るのである。  骨相術の根本の法則とするところは  (一)脳髄は精神の中樞器管であるが、単一不可分のものでなく、その中に存する各個の精神器管の多数が結合してその全体を成すものである。  (二)精神能力の度はその精神器管の大小に比例する。さうして  (三)頭蓋の外表は内部に存する脳髄の表面に相当するものであるから、外部よりして内部の器管の発達を知ることが出来る。  といふのである。  此の如く、ガル氏の説くところは固より始から冥想的に考へ出されたものではなく、その解剖学上の研究の結果に本づいたものである。しかしながらその精神作用につきての知識が誤まつて居る。今日の科学的知識によりてはさういふことは承認せられぬことである。それにも拘らず尚ほそれを信じやうとすれば言ふまでもなく迷信に陥るのである。  輓近の生理学、心理学及び精神病理学上の研究の結果に拠るときは、すべての人々に普通にあらはるるところの精神作用(たとへば言語、運動、記憶等)が脳髄の一定の部位(所謂中枢)の作用としてあらはれることは明かに認められるところの事実である。この事実はその脳髄の一定の部分の障碍が一定の精神変化を呈するといふ事実を見て確かに証明せられる。たとへば言語の中枢に病変が起ると、言語のはたらきに変化を呈するものである。  しかしながら、骨相術でいふやうに統一とか、帰服とか、攻撃とか、綜合とか、親切とか、希望とかといふやうに個々の精神の作用が独立したる単一の能力として起るものではない。これ等の個々の精神の特性は各種の作用が複雑に結合して起るものである。それ故に一定の精神作用が一定の脳髄の部位のはたらきによつて起るとは認められぬのである。  精神作用の根本を成すところの神経細胞といふものは形態の上から見ても、又機能の上から見ても、全然独立したものではなくして、互に全く聯絡したものである。さうしてそれが特殊の作用をあらはすといふことは無い。  たとひ、神経細胞に特殊の作用があると仮定して、さうしてそれが脳髄の一定の部分にあらはれるものと仮定しても、外部の頭骨の形状と、その内部に位する脳髄の状態とは決して一致して居るものではない。従つて外方から観て脳髄の内部の発達の如何を知ることは決して出来ることではない。それ故にガル、スプルツハイム諸氏が挙ぐるところの精神器管といふものは現代の科学上に承認せられるべきものはない。從つてそれを根本として立てられたる骨相術が科学上の根拠を有して居ないことは言ふまでもない。ただしこれから後の科学的研究によりて新しい意味の骨相術が出来るといふことはたしかに可能性を有して居る。しかしながらそれはガル氏の骨相術とは全く相異したものである。(図あり)  人相術(Physiognomie)  西鮮で人相術と言はれるのは身体の外形、殊に顔面の状況によりてその人の精神の特性を判知するところの方術を指すのである。この方術は巳に古代希臘にありても大に行はれ、ピタゴラス、ソクラテス、プラトン等の諸家もその価値を認めた。アリストテレス氏は人相に関する著述をなして、人間の相と動物の相とを比較し、たとへば獅子に似たるものは獅子に類したる性質を有し、狐に似たるものは狐に似たる性質を有するものであるとした。かやうにアリストテレス氏の人相術は動物の形相の類似によつてその性質を類推しやうとするのである。それから顔面の線と星運との関係を想定してその精神の性質を判知するの方術を行はれた。これは占星術的人相術と名づけられるものである。それからずつと近代(十八世紀)になつてラヴアーテル氏の人相術が大に行はれたが、これは論理的の根拠があるのでなくして、全く想定的のものであり、殊にラヴアーテル氏個人の感情によりて定められたものであつた。  これ等の人相術はすべて科学上の根拠が欠けて居つたのであるが、一千七百九十一年和蘭の聖者カムペル氏が個人の習慣的なる感情によつて顔面にあらはるところの表情を本として生理学的及び解剖学的にその人の特性を判断すべきことを唱道してから、人相術は科学上の根拠を求むるやうになつた。殊に十九世紀の始に英国のチャーレスベル氏が「表情の解剖」(Anatomyofexpression)を著はし、次で一千八百六十五年にグラチオレト氏が顔貌の解剖及び機制につきて著述を公にしてから、この人相術はますます科学的の根拠を得るやうになつた。全体顔面の筋肉は精神作用の影響を受ることが著しいものであるから、精神の一定の作用が反複してあらはれることによつてあらはれたる筋肉の状態が持続して存するときはそれによつて精神の特性を判知することが出来る訳である。殊に疾病のためにあらはれる顔貌はその疾病の診断の上に補助となる。それ故にこの人相術(Phsiognomik)は将来ますます科学的に研究せらるべきものである。  読手術(Chiromantie)  読手術といふのは、手を相して予言するの方術である。すなはち人間の手の構造及び紋線の状態によつてその人の将来を換言するのである。この読手術は西洋にありて古代、猶太人の間には盛に行はれたもので、その根本は占星学的の概念にあるもので、人間の全身及び個々の器管は遊星及び他のもろもろの星運の影響を受るものであるとの信仰に基づくのである。この方術によると、手掌をばその紋線を区劃として七部に区分し、それを星に配当し、その大さ、形造、及び発育の良否等によりて共人の壽命、将来の吉凶を換言するものである。  手掌紋線の多少は年齢、栄養の状態、皮膚の厚さ、硬さ、井に皮下肢肪及び筋肉の発育如何によりて同じやうでない。又職業の種類生活の状態及び疾病等によつて変異をあらはするのである。それ故に手掌の紋線及び隆起がこれまでの種々の状態の結果であるといふことは言はれるが、それによつて将来を予言することは出来ない。  しかる読手術はこの科学上の知識と矛盾して将来の予言を敢てするのである。  人相  我邦にて行はれて居るところの人相も、西洋の読手術と同じやうなもので、身体の外形にあらはれたる標徴を見て、その将来の吉凶を予言するのである。その法は本と支那から伝はつたもので。宋の陳希南の「神相全篇」、明の表柳莊の「水鏡集」などがその根拠をなしたものである、宋の時代に盛に行はれたる性理説によりて、五運六気を以て宇宙の一切の現象を説明せむとするために、人体を以て一個の小天地として、陰陽五行に配当して、牽強附會の説をなしたものである。人の身体が外界に適応して発達するといふことは疑のない事実であるから、生活の状態、気象の変化、その他、直接及び間接に身体に影響するところの諸般の事項によりて身体が一定の変化をあらはすことは言ふまでもないが、しかしながら、人相家が言ふが如くに、現在の状態によりて将来の吉凶を下するが如きはいはれもないことである。  手跡学(Graphologie)  手跡学といふのは、手書によりて其人の性格を相するの方術を指すのである。元来我々の精神作用は意志として外方に現はるるもので、これは運動によつて認められるものである。さうしてこの意志の表現はその人の感覚及び思考等に本づくものであるが故に、各人にありてそれぞれの特性を有するものである。さういふ次第で、字を書くことによつて談話及び歩行等と同じく、其人の意志の状態が外に現はれるものである。この事由によりて若し或人が書きたる文字の大小、配列、墨色の濃淡、線劃の状態等を精査するときはその人の性格を制することが出来る。手跡学といふのはこの目的を達するために書字及びその性格に関する関係を心理学的及び生理学的に研究するものである。一千八百九十五年独逸のブライエル氏が『書字の心理』と題する著述を公にしてから、この手跡学は始めて正確なる心理学的及び生理学的の基礎を得たのである。  墨色  我邦には墨色と名づけたる一種の相法がある。これはある人に文字を書かしめて、その字画を見てその人の吉凶、禍福、善悪を判ずるの方術である。支那の唐の時代から始まつて明の時代に至りて盛に行はれたものである。我邦では元禄年間からこの術が漸く行はるに至つたということである。その方法は、文字を  八宮(乾、坤、巽、艮、震、牧、離、兄)  六神(白虎、句陳、玄武、朱雀、勝蛇、青龍)  五行(木、火、土、金、水)  等に配当して、その影響如何を見て、それによつて吉凶禍福を判せむとするのである。西洋の手跡学とは相違して、何等科学上の基礎を有するものではない。しかもそれを信ずることは明かに迷妄である。  ただし墨色の一種に性情点法と名つくるものがありて、これは墨色によりて其人の性格を判ぜむとするものである。西洋の手跡学に類するものであるが、この種の手跡学は固より科学的に研究せらるべきものである。  卜占  卜占といふのは本と太古淳撲の世に行はれたる鹿卜若しくは亀卜で、鹿骨又は亀甲に占はむとすることをいひて後に、これを灼きて生ずる割目によつて占ふのである。それが漸次に種々の方法となつて今日にも猶盛に行はれて居るのである。兎に角、右か左か二つに一とつの何れなるかを占めるので、偶中率は二分一である。それ故に、思慮判跡の定まらぬものが、これによりて黒白を決断するためには役に立つこともあるが、さういふことによつて自己の意志を決定するよりも、もつと合理的に智慧のはたらきを十分にする方がよろしい。ましてそれによつて吉凶禍福を判断せむとするが如きは全く非科学的の方法である。  辻占  今の世に辻占といふものは古代の夕占《ユフゲノウラナビ》の遺風である。夕占といふことは「萬葉集」の歌に多く見えて居るから、奈良朝以前の頃から巳に広く行はれて居つたものである。夕刻衛に出で、黄揚櫛を持ちて道祖神を念じながら、見え来る人の言葉にて、吉凶を定むるのである。小櫛の占といふも同じものである。  瓢箪山辻占  河内瓢算山の辻占といふものは随分有名のものであるが、そこで賣つて居る「焼きぬき占」といふものは一枚の紙に吉凶の文句が認めてあり、その中央に兩個の狐が火の字と間に対坐して居る。その火の字に火を点ずれば文字が焼けて吉凶の判断があらはれるのである。これは辻占ではなくして御聞の類に属するものである。  夢占  夢の内容によつて吉凶、禍福を占ふことは我邦でも、西洋でも古昔から行はれて居る。我邦にて夢占又は夢相又は夢判じと称せられて居るものは支那から伝はつたもので。周禮春官篇に六夢吉凶の占があるといふのを本として正夢(心に感ずるところなくして自から夢む)哭夢(心に驚くところあつて夢む)恩夢(常に願ひ思ふ心よりして夢む)喜夢(喜びあるの夢)窺夢(思ふところよりあることを夢む)懼夢(その心におそる、ことあるによつて夢む)の六種を別ち、それを吉凶に分類し、悪しき夢はこれを払ひ、又は夢違いと言つて悪夢を善夢に甦するの法が行はれた。しかしながら此の如き夢の分類も常識的のものである。その占法も多くは無意味のもので固より科学的根拠のあるものではない。  輓近の生理学及び心理学の知識に拠るときは夢は睡眠時に於ける意識の現象で、睡眠がまさに醒めむとするときに起るところの意識内容の経過に外ならぬものである。さうして夢にはその発生の状況に応じて(一)主として末梢の刺戟によつて起れる感覚を錯学化して表現するものと(二)主として中枢に於ける從前の記憶を再現するによつて起るものとの二種が区別せられる。睡眠中には精神の作用は筋肉と同じやうに地緩して居るために覚醒時の意識と夢の意識とは相違して居るが、しかその本質に於ては同一のもので、決して奇靈のものではない。たゞ夢は時間と空間とを超越し、順序もなく意味もなく現はれることがあるから動もすれば奇のものとして、それが迷信の原因をなした場合が少なくない。  近時精神分析学派の説に拠れば夢は潜在意識の発露するもので、晝間抑庄せられたる潜在意識が睡眠時、弛緩せる意識の中に自発的にあらはれるものであるといふ。それ故に夢の内容を調べてその潜在的願望を知り、それによつて原因不明の神経病などを治癒せらることが出来るといふことである。これ等のことは将来科学的に研究せらるべきもので、從来行はれたる占夢術とは全く別個のものである。  宗教  宗教といふことに就ては、古来種々の説が行はれて居つて、甚しきは宗教は迷信であると言ふ学者もある。しかしながらこれは宗教の本質に就て深く考へないためで、宗教は決して迷信ではない。又宗教の中に迷信を存する筈もない。多くの人は宗教といへばすぐに信仰といふことを考へ、信仰がすなはち宗教であるかのやうに思ふやうなこともあるが、これも大なる誤である。信仰といふ精神のはたらきには幾多の種類が存することは巳に前にも説いた通ほりであるが、宗教といふものは普通にあらはるるところの需要的信仰又は感情的信仰とは相異して、我々の自己意識を通ほさないで起るところの感情に本づくものである。全体我々の感情は自己意識を通ほしてあらはれるもので、自己の保存に都合のよいときには快感を生じ、それに反して自己の保存に都合のよくないときには不快感を生ずるもので、全く功利的にあらはれるものである。これは固より自己保存の目的を達するために必要のものであるから、それがすなはち自然の法則として存するのである。若しこの感情に本づきて信仰があらはれるものとすると、それは必ず功利的のものである筈で、從てその人の知識の程度に応じて功利的に信仰せられるのである。ここに迷信があらはれることは可能である。たとへば自分の勝手のためには無いものを有るが如くに信仰せむとし、又は自分の都合のためには我々の力に及ばぬ不可思議のものであると信仰しやうとするところに動もすれば科学上の知識に背きて迷信をあらはするのである。真実の宗教といはるものはさういふやうに、感情的に信仰することを指すのではなく、内部の要求によつてどうしてもさう信仰せねばならぬといふ心のはたらきが、我々の自己意識を通ほさないで意識の中にあらはれて来るのである。それ故に真実の宗教は決して迷信でなく、又その中に決して迷信を存することのない筈である。我々は知識の世界にありて、知識をはたらかして生活するために苦しみと迷とを生ずるものであるが、宗教はこの知識のはたらきを離れて、あらはれるところの感情に本づくものであるから、我々はそれによつて迷と苦とから免れることが出来るのである。  自然的宗教  原始の人類はその覚官のはたらきによつて僅に周囲のものを認識するに止まる。かういふ幼稚の精神のはたらきではまだ自然界に於ける精霊を認むることはない。これを前生気主義の時代と名づける。それが今少しく進むと、動物及び植物は無論のこと、日でも、月でも、風でも、雲でも、山でも、川でも、その他何物でも、皆自分と同じやうに生命を有して居るものであり、又靈魂を有して居るものと考へる。これを生気主義の時代と名づける。この時代にあつては、此等の物にある靈魂を威力と信じ、それが自己に対して恩恵を垂れ又は欲罰を加ふるものと考えるのであるから、それを恐れるとき、又はそれが自己よりも有力であると思ふとき、又はそれを崇拝することによりて何等かの利益が得らるると信じたるとき、又はそれに対して何等の希望を有して居るときなどにはそれを尊敬し、又はそれに阿諛して自己のためにしやうとする。ここに依憑の感情が起るのを自然的宗教の根本とする。それ故に、この時代には種々の崇拝の形式が認められる。すなはち著しく目に著き、さうして強い威力を有するものと信ぜられるところの事物、例之、石、山、樹、川、湖、海、大洋、風、雨、動物等の一切が崇拝せられる。それから更に一歩を進めると。それ等の物から離れて行するところの精靈が認められて、精靈崇拝が始まる。すなはち靈魂が或物に限られないで、それから離れて自然界に拡がりて各種の自然現象の内に入りてここにその作用を逞くするといふことが信仰せられる。ここに現はれるところのものが自然的宗教である。  精神的宗教  此の如き、自然的宗教は文化の進みたる国民の間にありても尚ほ依然として存在するるのである。ただ知識の進歩に從ひてこの形式が変化せられたまでのことである。これはどこまでも功利的のもので、知識の進歩によりて時に消長し、時に変化し、決して精神の安住を得るものではない。知識の進歩したる人々の間に行はる自然的宗教は固よりその形式に於ては整ふて居るやうに見えても、要するに、日常の生活を絶対化し、又それを理想化しやうとするに過ぎざるものである。ここに我々が宗教といふのはさういふ功利的のものを指すのではなく、我々の知識を離れ、又自己意識を通ほさないであらはれるところの感情に本づくところのはたらきで、それによつて我々の行為が不意識的にあらはれるものをいふのである。それ故に、精神的宗教といふものは我々の精神的生活を理想の上に置かうとする努力ではなく、又宗教のはたらきをあらはするのが冒涜の世界から神聖の世界に入るのでもなく、我々が常に絶対無限の中にあるといふことを感知するときに、功利的の理性によりて汚濁せられざる意志を得るのである。それ故に、我々はそれによつて迷と苦とから離れて精神の安住を得るのである。精神の状態がこの境地に至るものを名づけて真実の宗教とするのである。  仏教  釈尊によりて興されたる仏教は、実にこの精神的宗教である。漢訳の「法句経」に釈尊の金言が載せられてある中に次のやうな言葉がある。  『或多自帰山川樹神、廟立図像、祭祀求福、自帰如是非吉非上、彼不能来度我衆苦、如有自帰仏法聚衆道徳四諦、必見正慧生死極苦從諦得度、慶世八道、斯除衆苦、自帰三尊、最吉最上、唯独有是度一切苦」  世の中の多くの人々は山や川や樹木などを威力あるものとして崇拝し、廟を立て、絵像を造り、これを祭りて福を求むるが、これは安全なる帰依でなく、又最上の帰依でない。此の如き帰依によつては人は一切の苦しみから離れることは出来ないと言つて、釈尊は自然的宗教を排斥して居られる。釈尊が説かれたる教は苦の相を知ること、苦の原因を明かにすること、苦を滅すること、ならびに苦を滅するための八道内によつて迷を離れ苦を除くべしといはれるのである。かういふ精神的の宗教にありて迷信があらはれることは決してない筈である。  民俗信仰  仏教は固より精神的宗教である。しかしながらこの教が広く多くの人々の間に伝はる間に、その人々の知識に応じて、その人々に自然的宗教の形式があらはれることがある。これを狭義の民俗信仰といふのである。たとへば、仏教にて地蔵菩薩といひ、不動尊といひ、観世音菩薩といひ、又は薬師如来といはるもものはそれぞれ象徴的に一定の宗教的意義をあらはせるものである。しかるにそれに対して俗間に種々の渾名がつけられて居るのは、地蔵菩薩などが民俗信仰の対象となつた場合である。仏教として元来さういふ異名を有する訳はない。それ故にさういふやうに渾名がつけられて居るものは、それは最早、組織的仏教の意義を離れたものである。固より仏教にて奉ずるところの地蔵菩薩や、不動尊や、観世音菩薩や、薬師如来などでないことは言ふまでもない。たとひその名前が同じであつたにしても、又たとひその形像が同じであつたにしても、その信仰の対象としての意味が全く組織的仏教のものとは相違したものである。そこに動もすれば種々の迷信があらはれるものであるが、これは全くその人の宗教的意識が明瞭でないためである。  地蔵の渾名  仏教にて地蔵菩薩といはれるのは衆生に代りて苦を受けるといふ大悲の誓願を起して六道衆生の罪苦をすくふ菩薩である。しかしながらそれに渾名《あだな》がつけられて尊信せられて居るものを見ると、真面目に地蔵菩薩の功徳を讃歎するものではなく、どこまで得手勝手の願望を地蔵菩薩に向つて吐露して居る人々の功利的の心の有樣がありありと見えて居る。仏教の精神から離れ居るといふことは勿論である。  腹帯地蔵(京都)  妊婦帯を県て安産を祈る、或は云ふ、本尊の形相、内皮の帯あらはるるが故に名づくと。  世継地蔵(京都)  子なきもの祈願すれば靈驗ありと。  目疾地蔵(京都)  地域の眠ただれたる故に名づく。或は云ふ、病人に代りて眼を患ふ、眼病を治すと。  染殿地蔵(京都)  染殿后の帰依仏なるが故に名づく。染殿の名を誤まり信じて染物屋これを崇拝すと。  玉章地蔵(京都)  深草少将、王章をこの地蔵に奉納して小野小町に相逢ふの縁を祈ると。  草地蔵(京都)  病毒(皮膚疹)を患ふるもの、祈願して靈驗ありと。この渾名の地域は各地にある。  不燒地蔵(京都府)  火災の時独り飛で林木の中に坐して焼けなかつたと。  矢負地蔵(京都)  弘法大師に代りて守敏が射たる矢を負ふたと。  首斬地蔵(京都)  賊と思ふて首を裁つたところがこの地蔵尊であつたと。  獅子地蔵(京都)  獅子に化して人の命を助けたと。  釘拔地蔵(京都)  すべての病を釘がささつたものとしてその釘を拔て貰ふやふに祈願する。  梯子地蔵(京都)  御利益があると自製の小梯子(年齢と同じ階段を有するもの)を奉納する。  北向地蔵(京都)  北向に据りてある故に名づく。咳を治する靈驗あるが故に咳地蔵ともいふ。  縄かけ地蔵(京都、大阪)  心願あるもの、地蔵尊を縄にてくくり一七日の間に願望成就あらしめ玉へと祈念し、成就すれば縄を解いて拝する。  縄地蔵(東京)  前と同様  鬘掛《カツラカケ》地蔵(京都)  貧しい老婆が死亡したとき、この地蔵が僧に化けて山送りをしたので一名山送り地蔵といふ。鬘掛地蔵といふのはその老婆のかつらをこの地蔵が持つて居つたといふのである。  豆腐地蔵(東京)  寺の門前に豆腐屋があり、小童が豆腐を買ひに来て、帰つた後に賣溜の中に小石が交つて居るので、狐狸の変化ではないかと思ひ、或?小童が帰るとき庖刀にて肩先を裁つた。しかるにそこに石の破片が落ちて水が垂れて居るのでその水の跡を追て行くとこの地蔵堂にとまる。地蔵尊の肩を見ると切られたやうになつて居る。それで小童は地蔵尊が化現されたものとして寧崇せられる。  汐時地蔵(東京)  咳の治癒の願をかける。拍子木を借りて家に帰り咳が出る毎に拍子木を叩く、癒ると新しい拍子木を添て返上する。それ故に一に拍子木地蔵と名づける。  唐辛地蔵(東京)  唐辛を上げて願を掛ける。  泥打地蔵(伊予)  泥を打ちかけて幸福を祈る。  粉附地蔵(伊予)  參詣するものオシロイの粉をふりかける。子なきものに子を授けるといふ一説に粉附は子好の語から転じたのであると。  白粉地蔵(東京)  地蔵尊にオシロイを塗り、又オシロイを奉納して身体が美しくなるやうにと祈る。  とげぬき地蔵(東京)  昔一女誤まりて折針を呑みしに、この地蔵の尊影一枚を水にて呑み吐逆して針が出たと。  脚気地蔵(東京)  脚気を治するために願をかける。  親変地蔵(京都)  鳥辺野の無常所に近く、亡者を葬むる革哀働の声止まず、父母を失ふ童常にこの尊前に哭泣する故に名づくと。  裙帯地蔵(大和)  文徳帝の后染殿御産平ならず、后の御夢にあらはれたる裙帯の地蔵尊を念じ玉ひて皇子誕生せられたりと。  御陵地蔵(京都)  染殿皇后安産を祈り玉ふ故に子安地蔵と称す。この前に桓武御陵あるが故に御陵地蔵と名づける。  木屋地蔵(京都)  足利義滿、鹿苑院を創立するとき木屋を構へ、その中に安置せるより木屋地蔵と称すと。  網引地蔵(鎌倉)  昔、由比ヶ濱より漁夫の網にかかりて上りたまふ故に名づくと。  八釣地蔵(大和)  「フ」の字のつく病に効験がある、他の病でも「フ」の字のつく病だと思ふて祈れば験ありと。  道樂地蔵(遠江)  男女の仏が抱擁して居るが故に名づく。  腰折地蔵(紀伊)  石仏の腰より兩つに割れて居る故に名づく。腰痛に悩むもの祈れば驗ありと。  鼻曲り地蔵(岩手)  昔、源義朝の臣にヒタチカイドウといふものが居つて仙人生活をした、屡々正法寺といふ寺に參り住職と會談したがその素性を明かにしなかつた。境内の地蔵がそれを知つて佳職に告げた。或夜住職がそれをヒタチに話した。そこでヒタチは寺を出るときその地蔵の鼻を捻ぢ曲げたといひ伝ふ。  馬止め地蔵(京都)  石仏が土中に埋れたて居つた。平清盛駒にのつて其地を通ほりしに駒俄に止まりて進まず、不思議に思ふて掘らしめたところが、この石仏が現はれたと。  ?耳地蔵(下野)  みみだれを治すると。  麻疹地蔵(下野)  麻疹を治すると。  乳房地蔵(下野)  乳汁が不足のもの、供米を受けて食へば乳汁が出ると。  子育地蔵(各地)  子安地蔵(同)  子授地蔵(同)  小児に縁あるものとして崇拝せられる。  塁掛地蔵(大阪)  その願が成就すると墨汁を像にかける。  御茶湯地蔵(大阪)  祈願するもの茶湯を供へる。  頬燒地蔵(大阪)  一婦人の命に代りて、燒鐵を頬にあてられたと。  文づかひ地蔵(奈良)  一幼女のために、文をその父に渡して返書を取つたと。  長競地蔵  石仏が二像ある故に名づく。  ねむり地蔵(伊勢)  童女等のねむりの願をかける。  鹽嘗地蔵(鎌倉)  鹽賣が像をたほして鹽を嘗めさしたといひ伝へる。  夜泣地蔵(伊豆)  子供の夜泣を治するために願をかける。  前出し地蔵(鎌倉)  北條時頼が夫人と双六のかけをして負けたものは陰部を現はして双六盤の上に立つこととした。夫人負けたるによつて地蔵を念じたところ、忽ち地蔵が女体に変じて双六盤の上に立つたといふ。  田萎地蔵(山城)  一夜に田を萎したりと。  浴地蔵(尾張)  湯をそぎて祈願す。  毛替地蔵(尾張)  この地蔵尊に祈りて馬の毛の色がかはつたといふ。  銭塚地蔵(東京)  地蔵を磨り欠いた粉を神棚に祭れば金が殖えると。  ぬりこべ地蔵(京都)  歯痛に驗ありとて參詣者多く遠隔のものは郵便はがきに願文を認めて郵送す。  へのこ地蔵(豊後)  高さ一丈余の男根を祀り、土民崇めてへのこ地蔵と名づける。  夜這地蔵(武蔵)  若き女よき娘など有る所へ、おいでなされ、いたづらなさると申す。  夢ぶち地蔵(東京市外)  百姓が夢の穂を落とすのに、この地蔵尊がたたいて居つたと。  鼻取地蔵(東京府)  地蔵尊が小僧となりて、或百姓家の悪い馬の鼻を取つて耕されたといふ。  因果地蔵(東京)  祈願するもの、私は因果ものでござりますと願をかけるによりて名づく。  小便地蔵(下総)  小便をかけて男女の下の病の平癒を祈る。  笑地蔵(上総)  昔、その地の城が落ちたときに笑つたと。  化け地蔵(下総)  或武士が怪しい変化のものと見て、一刀兩断に切り捨てたが、翌朝よく見れば首のない地蔵尊であつたと。  抹香地蔵(大阪)  病気の平癒を祈り、御禮に抹香を上げる。  油懸地蔵(大阪、宇治)  祈願あるもの油を像にかける。  投地蔵(大和)  役優婆塞が投げたものであると。  日限地蔵(各地)  日限をつけて願をかける。  疣《いぼ》地蔵(下野)  疣を治すると。  雨止地蔵(京都)  異僧に化けて雨を止むるの法を説いたと。  出世地蔵(東京)  出世を祈りて驗ありと。  炮烙地蔵(東京)  笠の代りに炮烙を冠る。頭痛に悩む人炮烙と團子とを供へて祈願する。  髭地蔵(東京)  背は男根状をなし、前方は地蔵が髭をはやし、下駄をはいて錫杖を持つ、縁結び子授けの利益ありと。  味噌つけ地蔵(駿河)  祈願するとき味噌を一面にぬりつける。  子賣地蔵(伊賀)  四十二歳のとき、二蔵に当る子を忌み、この地蔵の前に連れ行き往還の際先登より二番目に行くものを親と称すれば子を愛して一生その因縁を忘れずと。  矢拾地蔵(鎌倉)  源直義の守本尊で、軍戦の時、僧と現はれて矢を拾ひ玉みたと。  紙張地蔵(尾張)  尊像に紙を張りて祈願し、成就するときは紙を剥ぎ去る。  言成《イイナリ》地蔵(伊豆)  子供の夜泣や悪戯を止めるために祈願す。  きりわら地蔵(京都)  とりわら、かるかや、たわしなどにて病みたる身体の部分に当る石像の部位を選びて石像に水をかけ、たわしの類にて地蔵を洗ふ。  ささら地蔵(東京)  前と同様。  味噌ねぶり地蔵(大和)  味噌が腐敗せむとするとき、この地蔵に甜めしめるときは腐敗が止むと。  此の如く、地蔵菩薩が種々の渾名をつけられて居る有様を見ると、第一に仏教にて奉するところの菩薩の中で、地蔵が最もよく民衆化せられたといふことが認められる。第二にかく民衆化せられたる地蔵菩薩はそれを信仰する人々の低級なる宗教的意識(迷信に属する)の対象となつて居るに過ぎないといふことが知られるのである。  薬師の渾名  薬師如来は具さに言へば薬師瑠璃光如来で、一に大医王仏ともいふ。十二の誓願を起して衆方の病患無明の痼疾を治するの法薬を与ふる仏である。その十二の誓願の内に衆患悉除転女成男の顔があるために、薬師法とて、除病延壽のため、転女成男のため、産婦安穩のために修するの法が行はれたほどに、地蔵菩薩に併びて広く尊信せられた。それ故に民俗信仰の対象となることが多かつた。  あらいたの薬師(近江)  一?童石仏にあてて鎌を磨くに石仏あらいたの声を発するによりて名づくといふ。  蛸薬師(京都)  昔、その寺内の僧老母が病みて蛸を食ひたひと望むによりてこれを求め筐に入れて来る、巳にして蓋を開くに魚なくして薬師経あり、さうして母の病は薬を用ひずして癒えた、よりて蛸薬師と名づく。又はいふ、蛸薬師の舊地に澤ありよりて澤薬師と称すると。俗に禿頭のもの祈願すれば靈驗ありといふ。  瘡薬師(京都)  頭瘡のもの祈願すれば靈驗ありとて、くさかみ薬師と称す。  啼薬師(鎌倉)  山の中に毎夜児の泣く声あり、その地を掘りて薬師の頭を得たりと。  懐妊薬師(大阪)  嗣子なきもの祈願すれば必ず懐妊すと。  亀薬師(京都)  金銅仏が亀甲の上に立ちて居る。故に名づく。  水薬師(京都)  堂後に泉がありて至て清冷である、よつて名づく。平相国入道淨海熱病にかかりしときこの水を汲て身体を浸したりと言ひ傅ふ。  不来乎薬師(京都)  寛喜二年疫病流行の時、院主の夢に「一切の衆生我前に来らば諸病悉く除くべきにこぬかこぬか」とありしより、その旨を言ひ觸し、參詣者群集するに至れりと。  蛸薬師如来(東京)  この本寧に祈願あるものは蛸を断ちてこれを念ずるに果して利益ありとて、繪馬にも蛸の形を画きて捧ぐ。  寅薬師如来(東京)  虎に化して安田某の狼の難を遁れしめた。それ故に名づくと。  蟹薬師(美濃)  行智尼といふものこの尊像に帰入し、生身の尊容を拝せむとして祈りしに、俄に風雨晦冥して一寸八分の薬師如来出現したまひ、数千の蟹これを囲繞して居つたと。  まら薬師(上野)  正月十四日に、近村の男女良縁を得むとて、木製の男子の陰具を奉納すと。  薬師如来の民衆化の程度は地蔵菩薩に及ばないことが認められる。それにしても薬師如来は疾病の治療を祈るといふ点に於て多くの人々から信奉せられたのである。  観音の渾名  観音は具さに言へば観世音菩薩で、一に救世菩薩、大悲施無畏者などと名づく。法華経普門品の中に『観世音菩薩、以何因縁、名観世音、云云、若有無量百千萬億衆生、受諸苦悩聞是観世音菩薩、一心称名、観世音菩薩即時、観其音声、皆得解脱』とあり苦難を救護する大慈悲の菩薩として、最も広く尊崇せられたる菩薩である。我邦に観世音崇拝が始まつたのは推古天皇の時代で、聖徳太子は大にこれを鼓吹せられた。奈良朝時代には大和長谷寺の建立があり、平安朝には京都に清水寺が建立せられた。空海より以后観音の信仰はますます盛大となり、花山法皇に至りて巡禮が始まり、西国三十三所巡禮の風が起つたといふ。かくの如くにして観音の像が国内至るところに安置せられて、地蔵と共にその信仰は民衆化するに至り、從て民俗信仰の対象となるに至つたのである。  帆柱観音(近江)  伝教大師唐より帰朝のとき難風に遇ひたまひしが、十一面観音を祈りて難を免がれたまふ、後その帆柱にてを像を彫刻せるによりて名づくと。  子安観音(山城)  安産を祈りて靈驗ありと。  子育概音(遠江)  この観音僧と現はれ赤子を賤女に頂け飴を以て養育せしめたまふと。  橋懸観音(山城)  行基菩薩、山崎大渡橋建立の時祈願のために自から刻する所あるが故に名づくと。  織姫観音(山城)  観音化して尼となり、浄土の境相を織具して中将姫に附属すと。  一言観音(山城、大和、武蔵)  ただし一言祈り申して靈驗あるが故に名づくと。  渡海観音(山城)  御所花方敵に捕へられて殺されむとするとき、平生尊信せる観音、海を渡り来りて其難を救ひ玉ふ、故に渡海観音といひ、又花方観音とも名づく。  水月観音(武蔵)  利生のあらたかなること名月の水底に落ちて影を宿すが如くなる故に名づくと。  立聞観音(近江)  蝉丸の琵琶を立開したる観音といひ伝ふ。  鎌作概音(武蔵)  空中より化人あらはれ鎌と御衣等を持つて隆臨し観音の像を刻みたりと。  身代観音(武蔵)  多くの人々に代りて疫病を受け玉ふと。  不焼幌音(安房)  火災に罹りて不思議にも焼けざりしが故に名づく。  腰布観音(武蔵)  一心にこの観音を念じて腰に衣をまとひ精進潔齋すれば願が叶ふといふ。  瘡神観音(上総)  行基菩薩が此所に休むだとき、笠の上に如来が出現した。その形を彫刻して笠上観音と名づけしが、其後遠藤某といふものその子の疱瘡これに祈りて効驗ありしによりて遂に瘡神と呼ぶこととなつたと。  観世音菩薩も地蔵菩薩に次ぎて、民衆化せられた菩薩である。それも現世の利益を祈願するといふ点に於て、殊に低級なる宗教的意識を有する人々の間に持てはやされたといふことが認められる。  稲荷  稲荷の神は五穀の神で、その本尊は倉稲魂命であるが、倉稲魂命は伊勢の外宮の豊受大神と同一の神である。もとより五穀の豊熟を守護する神として昔から尊崇せられたのである。それを稲荷と名づくることに就ては種々の説がある。始めてこの神を祭つたのが山城の伊奈利山であつたから、それでイナリといふのだとの説、智証大師が熊野へ參詣した還向の途中、一人の老人と二人の女とが居て稲を刈て居つた。この三人は化人であつたのでこれを稲刈大明神と言つたのが、後にイナカリがイナリに転じたのであるとの説、弘法大師の在世の時に荷田といふ不思議の男が居つて、その顔は龍の如く、顔面から光明を放つて夜でもあたりを照したが、弘法大師がこの男に逢はれたときに稲を荷つて居つたので稲荷として祭られたのであるとの説、荷田明神の地に倉稲魂を鎮坐し奉る故に倉稲の稲の字と荷田の荷の字とを合せて稲荷と称すといふ説、いづれも附會か、若しくは附會に近いもので十分に稲荷の意義を説明するに足りない。しかしながらそれは名称につきてのことで、稲荷の神が稲倉魂神であることには相違はない。  ところで、稲荷が稲倉魂命であり、五穀豊熟を守護する神であるといふことは忘れられて、稲荷といへば直ちに狐を聯想するやうになり「倭訓栞」に記載してあるやうに『鄙俗は狐を以て直ちに神とし、祭りて福を祈る事、天下風をなせり」と云はれるやうになつた。しかしながら狐が直ちに神として祭られるやうになつたのは後のことで、その始め狐は稲荷の神の使として尊崇せられたのである。俗説に拠ると、狐が稲荷として祭らるるまでには度々伏見の稲荷へ神位を受けにいつて次第に出世するものであると言はれて居る。かういふやうにて稲荷といふ名称は全く狐の神となれるものを指すものの如くに信ぜられ、又すべての狐が稲荷大明神とか正一位とかの神位を受くべきものと考へらるるに至つた。  元来狐は昔から不思議の動物で、人を魅するものとして恐れられた。従つて狐に関する迷信は平安朝時代の物語にも多く載せられて居り、近代にありても狐に関する俗信は種々のことが伝へられて居る。さうして稲荷の神に狐が結びつけられたのは稲倉魂命を三狐神と言はれるので、稲荷が狐になつたのであらうと言はれて居る。三狐神《ミケツカミ》は御饌津《ミケツ》の義であるから、狐ではないのであるが狐の字に誤られて、それを稲荷とするに至つたのであらう。  狐が魔性のものであると同じやうに、密教で説くところの茶枳尼《ダキニ》が奇怪なる魔性であるために、それが又稲荷と結びつけられて仏教の一部に茶枳尼が稲荷として祭られて居る。茶枳尼は印度の鬼神で仏教には崇拝せぬものであるが、それが我邦に伝はつたのは弘法大師以来のことであらう。さうして施福の神として、靈驗が著しいといふに至りては、正真の稲荷とは全く別物のものである。  澤蔵司稲荷(東京)  澤蔵司といふ所化が伝通院の学寮に入つて居つたが、或日熟睡した時に尾を出し、人狐なることが知れて稲荷に祀られたのであると。  瘡守稲荷(各地)  瘡毒の願掛をする。東京谷中感応寺にあるは笠森阿仙の茶屋で有名であるが、笠森と瘡守と字音の通ふによりて瘡毒の願掛をする。  鯖稲荷(東京)  鯖を断ちて祈願すれは効驗ありと。  疝気稲荷(東京)  大知稲荷といふ本名があるが、疝気の願が叶ふといふので疝熟稲荷と名づける。  秘密稲荷(東京)  神体を秘して厨子を開かぬ故に秘密といふ。  縁切稲荷(東京)  何でも縁を切る祈願に靈驗があると。  縁結稲荷(下野)  縁を結ぶ祈願を叶へると。  満足稲荷(京都)  左側の高麗狗の左の足に結紙して願をかけると走り人が遠くへ走らぬ足止めの願が叶ふと。  正一位五牛大明神(大阪)  榎の稲荷、土細工の手を捧げて小児のクサ(瘡)を祈る。  正一位鷺大明神(大阪)  これも稲荷で、小児の疱瘡に靈驗がある。神前の竹の皮の笠を借り受けて祈る。  ?千代稲荷(東京)  昔、住持某の夢に狐来りて、今住む所は不浄であるから、これを当地内に勸請せば?子を千代に守らむと告ぐ。  玉造稲荷(大阪)  昔、天笠から一匹の白狐飛び来り、背に三寸の玉がありて、その玉から童子三体あらはれた。この玉を封じ込めて稲荷を祀ると。  猫稲荷(大阪)  猫が他行して帰らぬとき、祈願して効があると、又神前に捧げられたる猫を請受けて家に置くときは鼠があばれぬと。  お玉稲荷(東京)  お玉といへる女、二人の男に思はれしを、我身の上を思いつめて池に身を投げて死したる靈を鎮めるために祭られたるものなりと。  白雪稲荷(尾張)  数百年前の老白狐を祀るが故に名づくと。  大黒  俗間に行はれて居るところの大黒の像は烏帽子狩衣を著け、福の小槌を持ち、財寶を負い、俵を踏むで居る、全く施福の神である。印度で摩訶迦羅《マカカラ》といふのも大黒であるが、この大黒は大自在天の化現で、生命の掠奪者、萬物の破壊者として知られて居り、その形像は明かに記されて居ない。それ故に種々の形像が画かれて居るが、概していふに忿怒の形相をした戦闘神である。ところがこの神は破壞の方面のみでなく、生成の方面をも持つて居るとしてそれが施福の神となつたのであると言はれて居る。  我国の大黒はこの摩訶迦羅とはその形像が相異して居る。神道家の説では大黒は大国主神であると言つて居る。通常大黒、夷《エビス》と併べていふが、その夷は事代主神で大国主神の子であるとせられて居る。「嬉遊笑覧」巻七に『大黒天の事は南海寄帰内法伝に西方諸大寺処、咸於食厨柱側、或在大庫門前、彫木表形、或二尺三尺、為神王状、坐把金襄、卻踞小状、一脚垂地、毎将油拭、黒色為形、號曰莫訶歌?、即大黒神也、古代相承云、是大(梵刀)天之部属、性愛三寶護持五衆、使無提耗、求者称情、但至食持、厨家?薦香火、所有飲食、隨列於前云々、これにてここに祭る大黒神に異なる有様なるを知るべし、大己貴命を大国主神とも申する大こくと称し、帝合したりとかや、この神袋を負給へる事、また鼠の仕へまつりしことなど古事記に出たり』と記載して、印度の大黒を我邦の大己貴命の一名を大国主神といふに附會したものであるといふ説を挙げてある。  或は伝教弘法の兩大師が今の世に行はるる大黒を造つたという説も行はれて居るがさうとも思はれぬ。天台宗の三面大黒はもとより今行はれて居る大黒とは全くその形像を異にして居る。いづれにしても大黒を施福の神として尊崇するに至つたのは藤原氏時代の末期の頃から後であらう。仏教が伝へた大黒と、神道家の大黒とが、始めは別々のものであつたのが、後に混同したのであるか、又は始めから大国主神を大黒としてあつたのを印度の大黒に附會したのであるか、よくわからぬ。しかしながら俗間の信仰はさういふ本来の意義には頓著なくただそれを福の神として尊崇するに至つたのであらう。大黒に鼠を配するは大国主命が素鹽嗚尊の許に居られたときに鼠の守護を受けたといふ話に本づくものであらうと思はれる。又大黒は印度にありては、寄帰伝にある通ほりに厨房をも守る神でありとするところから寺院の隠妻を大黒と称するに至つたものと思はれる。  道祖神  道祖神はもと支那の神で、行道の神として祀られたものである。祖といふは行路の難をさへぎるといふ意味で、旅立ちするといふ場合に、この神を祀り道途を餞したのである。その神徳が我邦の塞神《サイノカミ》に似て居るところから道祖神が塞神と一処にせられたのである。さうしてこの神が生殖器崇拝の対象であつたところから道祖神もまた生殖器崇拝の対象となつたのである。それも古いことで、現に「日本書紀」の中に来名戸《クナド》之祖神と書いて、それに「クナドノサイノカミ」と訓がつけてあるのを見ると、「日本書紀」が選述せられたる時代(養老年間、西暦紀元七二〇年頃)にありて巳に道祖神は塞神と同じものとせられて居つたといふことが認められる。  塞神  「古事記」に拠ると、伊邪那岐命が伊邪那美命を追て黄泉国に行かれたときに、伊邪那美命の爛れたる身体に蛆の集まれるを見て、伊邪那岐命が畏れて逃げ帰られた。さうすると伊邪那美命は我に辱を見せたと言つて追ひかけて来られた。それで伊邪那岐命は石を以てその道を塞がれた。その道を塞ぎたる石を道反《チカヘシ》大神と名づけ、又これを塞坐黄泉戸大神と名づけると記載してある。「サヤリ」は「サハリ」にて障り塞がる意味である。この石がすなはち後の塞神で、敵を防ぎ災難を除くものとして尊崇せられたのである。それから伊邪那岐命は黄泉国より還りてその身の穢れたるを禊ぎ祓はれしが、この時、杖を投げ棄てられた。その杖が衝立船戸《ツキダツフナド》神である「ツナド」は物を衝き立てて、これより来ること勿れと留める意味で、道饗祭の祝詞には久那斗とある。「日本書紀」にはこれを岐神と書いて、布那斗能加微といふと註がしてある。上古の人は常に道路を行くときには必ず杖を突いたのであるから、杖が道路の神となつたので、岐神も塞神と同じく、路傍に立ちて道路を守り、悪神の来襲を防ぎ、人々の幸福を保護する神として尊崇せられたのである。さうして石は女子の陰具、杖は男子の陰具を象徴的にあらはしたものとして生殖器崇拝の原始的の型が認められる。  さいのかみ  『さいの神は幸の神と書く、男女を幸し婚を結ぶ神なり』と「和訓栞」に説明してある通ほりに「サイノカミ」は生殖器崇拝に属するもので、我邦にはむかしから盛に俗間に行はれたものである。その根本を尋ねれば太古の神は前にも言つた通ほりに道路を守り、悪神を塞ぎ、人々の幸福を護る神であるが、石の塞神と、杖の岐神とが男女相合して、男女の間の幸福を司どるといふ意味に代りて、ここに生殖器崇拝の対象となつたのであらう。それ故に、俗間の信仰では塞神も、岐神も、支那から伝はつた道祖神も、皆「サイノカミ」(幸神)と一処にせられて、生殖器崇拝の対象となつたのである。『扶桑略記」天慶三年九月二日の條下に  『近日束西兩京、大小路衛、刻木作神、相対安置、凡厭体像髭髴丈夫、頭上加冠、髭辺垂楼、以丹塗身、成緋彩色、起居不同、遮各異貌、或所作女形、対丈夫、而立之、臍下腰底、刻陰陽、構三凡案於其前、置杯器於其上、児童猥雑、拝禮慇懃、捧幣帛、或供香華、號曰岐神、又称御靈、未知何、時人奇之』  と記載してある。これによりて見ると、平安朝の始の時代には岐神は明瞭に生殖器崇拝の形式を示して居る。  猿田彦  猿田彦命は天孫隆盛の時に先導をした神である「日本書紀」には衛神と言つてある。岐神として道路を守る神であるが、それが同じく道路に関係したものであるために塞神や道祖神と混同せられ、生殖器神となつたのである。  庚申  庚申は道祖神塞神、猿田彦と同じやうに路傍に祭られて居る。庚申は本と道家の説に、人の体内に三種の尸虫が居りてそれが常に人を害しやうとして居る。庚申の夜に寝るとその尸虫が天に上りて上帝にその人の罪過を告げるから庚申の夜は寝ずに居るので、これは我邦の俗間に広く行はれたものである。それが庚申の音が幸神の音と通ずるやうなことや、庚申の申が猿田彦の猿に通することやら、チョッとしたことが縁故となりて庚申が生殖器神となつたのであらう。それに仏教では庚申の本地を青面金剛とするのであるが、金剛青面といふは印度の生殖器神「シバ」が仏教に混入したものである。それが庚申と混同せられて路傍に立てられ、生殖器神として崇科せらるるに至つた。国内の諸所殊に奥州地方に多くある「コンセイ」様又は金精大明神も庚申からあらはれたものである。明治五年三月の太政官令に『從来遊女屋その外客宿等に祭りある金精明神儀風俗に害あるを以て自今早く取り捨て踏み潰すべし』とあるが、金精明神として祭られたるは張手製の男子の陰具である「和訓栞」には『コンセイ様とはさいの神のことなり』と説明してある。  淡島大明神  元禄の頃、あはしまといへる一種の乞焉が居つた。手に淡島大明神を安置せる小さき神棚に紅紫とりどりの小切を結びつけたるものを持ち、声高く淡島の縁起めきたるものを唱へ、市中を巡回して女人の腰気を悩めるものに祈願して病苦を免がれよと勧進した。  淡島大明神といふは紀伊国海草郡加太村にある加太神社のことで、もと同地淡島にありしを移したる故に淡島明神と名づける。女人腰気の病を守りたまふといふ信仰が俗間に行はれたのは伊邪那美神が国土を産みたまひしとき淡島を胞《エナ》としたまふたといふことと、又中古此地住吉神社の所領たりしことがあつたので、これ等を附會して淡島神社は住吉明神の妃であつたが、帯下の病によつて淡島に流されたまふ故に女人の病を守りたまふ誓願を起したのである。享保の頃よりして上方にては僧侶、江戸にては神主めきたる扮裝をして淡島明神さまの使者であると名乗りて市内を勧進したといふことである。  褌祭  明治八年頃刊行「報知新聞」第四百五十二號と題せる一枚刷の江戸繪に褌祭の図が画いてある画者は大蘇芳年で、女褌を神として祭り、諸人これを崇拝して居る有様が画かれてある。図の上に□冽漁人記の紀事が載せてある。それを見ると、『尾州知多郡崎といへる所は豪商軒を並べて多き中に地名を以て家名とする酒造家あり、這の家に褌祭といふことあり、如何なる故ぞと尋ねるに主人来今より三十年の前に富士山に登りしに絶頂に婦人の褌を棄てたるを見る、女人禁制の霊場に斯るものの有るべきやうなし、これ我運のひらくる時ならんと持ち帰りしが、鰯の頭も信心にや因たりけん、これより家道盛となり、財貨は富士の山なすまでに蓄へしかば、毎歳件の褌を廳の中央に安置して海肴山珍をならべ、參詣の群集に饗応する例にして一日に千金を費すといへり豈淫涜の祭ならずや』と記載してある。  墳墓崇拝  泰徐福墓  楽徐福は支那の東周の代の人であるが、我が孝靈天皇(西洋紀元前三百年代)に不老不死の仙薬を求めて我邦に来たり、遂に死亡したと伝へられて居る。その墓といはれるものが紀州の新宮にある。新宮にて漁夫が鯨を捕ふるときは先づその一部を徐福の墓に捧ぐといふ、又安産を祈るために詣づるものが多く、墓前には樒が一ぱいに捧げられて居ると。  甲斐徳本墓  永田徳本は知足齋と號す、古の所謂隱医で、出る所が詳でない。戦国の時代にありて俗紛を厭い、諸州を周遊して一処に留らず、しかもその間、甲斐に居つたことが多かつたので、世に伝へて甲斐の徳本といふ。寛永七年百余歳にして歿した。その墓は信州下諏訪在東堀村尼堂にあるが、碑石は頗る古雅である。疾病に悩むもの墓辺の小石一顆を取り来りて痛処を撫で、或は水煎してその湯を服すれば効驗があるといふ。効驗があるときはまた小石を二倍にして墓辺に奉納する。それ故に小石磊々として墓辺に堆く積まれてある。天保十一年刊行、小川子明の「換杏新話」にこの墓のことが記載せられ病者がそれに詣でて祈ることを挙げてあるのを見ると、昔から名医の墓として崇拝せられたものであらう。  北山壽安墓  北山道長、通称壽安、友松子と號す、古医方を以て当時その名を宣伝せられた人である。元禄十四年歿した。その墓は朽縄坂太平寺にあるが、それは生前に等身の不動の石像を造りて墓表としたものである。その不動の石像の背に自分の造つた銘が刻むである。  等身石像、爾生前是誰、吾死後是爾、断死和生、爾吾空也片、北山友松子並題  この石像の火焔が風に吹かれたるが如くなるを以て俗に風吹不動といいはやして、その実は北山壽庵の墓であるといふことを考へず、參詣して眼病を祈り、又災厄を除かむことを祈るものが多い。このことは伴蒿蹊の「畸人伝」にも出て居るから風吹不動の信仰は巳に古くから行はれて居つたものらしい。  二階明神  相州葉山附近に二階明神といふのがある。明神と言つても祠廟ではなく、墳墓にて、二階堂出羽入道沙弥行然の墓所であるといふ。  畠山大明神  畠山六郎名は重保、重忠の子北條時政の忌むところとなりて自殺した。その墓は鎌倉由比ヶ濱舊邸趾内にある。その墓に祈れば咳の病が治するといひ伝へて、多くの人々が茶を供へて祈願する。それを崇拝し幟を建てて畠山大明神といふ。  おしゆん伝兵衛墓  京都鳥部山本壽寺内にある、おしゆん伝兵衛の墓。縁結の祈願をするものが多い。  田中神社  岡山市にある式部少輔荘元資の墓。脚の病を祈るとて、草履の類を奉納する。  多賀花善兵衞墓  近江国石山共同墓地にある。百余年前に瀬田川で情死した柴屋町かき屋の女郎たが花とその情人たる同町服屋手代善兵衛との墓である。婦人病に効驗があると言つて祈願するものが多い。煎じて呑ませると肺病がなほると言つて卒塔婆をかいで持つて帰るものも少なくない、常に線香のたえる間もなく、小祠も建てられて居る。  真田与市碑  小田原石橋山麓。真田与市が大庭景尚を組み伏せたとき刀を抜くことが出来ず、家来を呼ばむとするに痰が引きかかつて声が出ず、敵の長尾為宗が来て与市を殺した。その時の与市の心持を察して、痰がのどにつまつて殺されたのは嘸々残念であつたであらう。その与市の靈に祈れば必ずなほして貰へると信じ、痰を患ふるものが願をかける。  おたつ様  下総印幡沼辺。おたつといふ女の主人竹若丸が悪人の為に殺されかけたときに乳母のおたつが窃かに竹若丸を連れ出して、真菰の中に隠れて居る場所をば、追手のものが今少しにて行き過ぎやうとしたとき、運悪く咳が出でて、発見せられて殺された。土地の人が小祠を建ててその忠義を表彰した。咳病のもの胡椒とお茶とを奉納して願をかける。  その他、この類に列すべき墓は少なくないが、その中で奇抜なるものは「陰徳太平記」に載つて居る話である。云く『安芸国山県郡新庄といふ所に吉川興経の像を祭りし社あり、オキツネといふより、所のもの、狐だと思ひ、オキツネ様とうやまひて、油揚をそなへて願をかくる』といふやうなことが載せて居る。まことに馬鹿気たことである。俗信の神や仏の中には此の如き類のものがあることは珍らしくない。  鐘馗  鐘馗の図像は、髭左右に生へ下りたる大臣、右の手に剣を提げ、一の小鬼を踏みて居る状をあらはしてある。この図を壁に掛け置くときは悪魔邪気を除くべしといふ。鐘馗のことは支那の「逸史」に出でて居るが、それによると、唐の高祖の時、鐘馗といふもの挙試に応じて落第したので階に觸れて死むだ。その後、明皇の夢に鐘馗があらはれて、天下厘耗の鬼を除くことを誓ふた。そこで呉道子といふものに命じて鐘馗の図像を造らしめた。それ以来鐘馗の図像は広く世に行はるるに至つたといふ。これによつて見るに、鐘馗は唐の明皇の夢から出たもので、妄談信ずべきものでないことは明である。  動物や植物の崇拝、石の崇拝などに関する類例は到るところにこれを発見する。しかしながらこの小篇はそれを列挙することを目的とするのでないから、一切これを省略する。  天文  天文に関する古代人の信仰は五行説として現はれた。この五行説は支那の占代に於ける哲学的思索の結果として出来上つたもので、その根本は「書経」の洪範に出づるものと言つてよろしい。固より当時の天文の観察に本づいたものであるが、その科学が極めて幼稚であつたためにその説くところは非科学的の空想に止まつて居る。それにも拘らず、爾来二千余年の間その生命を保ち居るといふことはまことに不思議の次第である。  輓近の天文学の知識に拠ると、太陽系は太陽を中心としてその周囲に水星・金星・地球・火星。木星・土星・天王星・海王星の八個の遊星と、この八個の遊星に附属せる二十七個の衛星と、その他無数の小遊星と慧星とから成立せるものである。しかるに古代の人が観察によつて知つて居つたのは日と月との外に木・火・土・金・水の五星だけであつた。さうしてそれを地球から見ると、その運行はまことに複雑で、その理由も明かに知ることが出来ぬ。そこでこれを人事現象の複雑なるに対照して、兩者の間に一定の関係があるものと考へ、その運行の実際から離れて抽象的に五行を案出したのである。かやうにして考へ出したる五行を天地間一切の現象に配当し、又これを人事にも応用して一切の思索の基本とするやうになつた。畢竟、天文に関する知識の十分でないために、その思索に誤りを致したので、天に五星ありとしたために五行の説をなしたのである。それ故に更に海王星及び天王星の二星があるを知つた後には七行と改めねばならぬ訳で五行の配当は根本より顕覆せられたのである。しかるに現代にありて何ほこれを固執すれば勢ひ迷信に陥らざるを得ぬのである。  占星術(Astrologie)  元来、大文学はその基礎を数学に置くもので、精密科学に属するものであるが、しかも観察によりて説明を要する点が多いために、その観察には誤謬あることを免れないから、從て迷信をその間に生ずるものである。西洋の古代の人々はその天文の観察の結果として、その延命を天体及びその運行に結びつけて考へ、太陽、月、惑星及び十二宮(獣帯)は人体の生治を司どり、その勢力は直ちにこの世界に及ぶものであると信じた。さうしてこの迷信は遂に占星術(Astrologie)を生じ、星運によりて人々の運命を決し、又疾病の発生をもこれにて証明し、治療の方式をこれに基づきて立案するやうになつた。十六世紀の頃までこの迷信は多数の人々の精神を支配して居つたが、科学の進歩と共に漸くその勢力を失つた。しかしながら、今日でも尚ほ西洋にありて、一部の人々の間にそれが勢力を保ちて居ることは我邦にありて五行説が尚ほ勢力を保ちて居ると同樣である。  暦及び方位  暦及び方位に関する迷信は、実際生活の上に多大の影響を及ぼすものである。さうしてこの種の迷信は徳川氏時代「三世相」と名づくる家庭用書のために根強く植えつけられて居る(明治五年、太陽暦頒布のときに、從来の暦に記載してあつた日の吉凶及び方位等に関する記事は一切禁止せられたのであるが、長い間養成せられたる迷信は一朝にして拭い去ることは出来ないと見えて、近時に至りても、尚ほ巳に禁止せられた日の吉凶などを掲載したる偽暦が多く行はれて居る。  干支  十干と十二支との信仰は広く行はれて居る。十干の説は「河図」に出で、十二支の説は「洛書」に出づるのである。木・火・土・金・水の五行に強弱を分ちて、その気の強きものを兄(エ)とし、弱きものを弟(ト)とする。これがすなはち「エト」である。すなはち   木(甲、乙) 火(丙、丁) 土(戌、巳) 金(唐辛) 水(壬、癸)  これを十干とする。干は幹である。この幹より生じたる枝を十二支とする。更にこれを八卦に配して   子(坎) 丑、寅(良) 卯(震) 辰、巳(巽) 午(離) 未、申(坤) 酉(兌)、 亥(乾)  右のやうにする。この十干、十二支を以て天地間一切のことを判断せむとするのが、干支の信仰であるが、元来に十干は一箇月を三分したる間の日を数ふるため、十二支は一年の月を紀するために附けたる記號であつた。それ故に昔は十日、十二辰と称して居つたのである。それが後の世に至りて、天の四時及び方位をも十二支に配当するやうになり、又干支に五行を配当し、又干支を組合せ、これによりて人事を判断せむとするまでになつた。しかしながら、単に思辨的のもので固より科学上の根拠があるものではない。  九星説  今日の俗間に九星説といふものが行はれて居るが、この九星説は「洛書」に本づいたものである。「洛書」といふのは支那の古代、夏の禹が洪水を治めたるときに洛水から出て来た、神から授つた穐の背に次の図のやうな模様があつたといふので、それを「洛書」と名づける。  この図を数字に直ほして見ると、左右、上下、交又の何れの行でも悉く合計十五の数になるので、これを不思議のものと信ぜられた。この数字の順序によりて数を列べたのが、九星の配当であるが、数字だけでは都合がよくないので、これに色をつけ、白と紫とを吉の方へ入れ、黒・赤・緑を凶の方に入れ、吉凶の色合をつけた。さうしてそれに五行の木・火・土・金・水を割合せたのである。固より何等の根拠があるのでなく、西洋にもあつたやうにただ数の神秘を信仰するのである。又これを九星と名づけても天文から割り出でた法ではない。  さうして、吉凶が常に一定して居つては都合が善くないから時によりて吉凶が循環するやうに真中に入るべきものが、年月日時それぞれの干支に座して交替するやうにしてある。それによりて年毎に、月毎に、日毎に、時毎に、九星の配当があるが、我邦で今日行はれて居るものは年と日とである。それに何等の価値のないことは九星説の起原を見れば明瞭である。  六曜占  六曜の説は今から六百年程以前に支那から伝はつたもので、大安、留連、連喜、赤口、小吉、空亡の六曜が月日と日と時とを通じて循環するものとして吉凶を占ふ法である。諸葛孔明から伝はつたといふことであるが、これは無論仮托である。五行説とは関係はないが、杜撰なることはそれと同様である。六曜の各称にも時代によりて相違があつて   足利時代にありては  大安、留連、速喜、赤口、小吉(又は得吉)、空亡であつたが、   徳川時代、寛政享和頃になりては  泰安、流連、則吉、赤口、周吉、虚亡   又は  先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口  となつた。近代の六曜占は最後のものが用ひられて居る。順序も亦勝手に変更したのであるからその元来の意義は失はれて居る。  六曜を配当するの法は、正月及び七月は一日を先勝とし、順次に繰返し、二月及び八月は一日を友引とし、それから順次に繰返す。その他はこれに準ずる。  先勝 正月、七月 先ずれば勝つといふ意味にて、諸事いそぐことによろし。 友引 二月、八月 相引きとて勝負なしの義。  先負 三月、九月 先ずれば負くるといふ意味にて諸事靜なるはよろし。  仏滅 四月、十月 何事にも凶。  大安 五月、十一月 何事にも吉。  赤口 六月、十二月 中間を吉、前後を凶とす。  天保六年刊行の「大雑書」に記載したる六曜は大安、留連、速喜、赤口、小吉、空亡が、挙げられて居る。先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の六曜が仮暦に載せられて広く行はれたるは天保の末年である。  友引  六曜の内にて問題とすべきは友引である。友引といふことは元来『相引きとて勝負なし」の意味であつたが、友を引くといふやうに読みて、この日に葬式をすることを忌むやうになつたのは天保年間より以後のことである。友引といはるるものは別の名称の方では、留連に相当するもので、『留連は事成り難し、官事はのぶるがよし、ゆく人はかへらず、病人はいのりてよし、孕めば男子なり、急にうつときは勝利あり」といはれて居る。友引の字が友を引くと書いてあるために、死んだものが生きた友を引くといふやうに解釈して、葬式を忌むといふことは滑稽の至である。さうしてこの滑稽至極なる迷信が今の世に広く行はれて居ることは何といふてよいかわからぬ次第である。  鬼門  方角の吉凶につきて八釜数言はれる中に、現代で尚ほ多数の人を迷はして居るものは鬼門の説である。さうしてそれが殊に家相の上に強く説かれて居るのである。元来、鬼門のことは支那の唐の時代の小説に始まつたもので、支那の東方の海の中に一個の島がありて、その島の東北の方に大きな木があつてそこに門といふものがある。鬼門といふのは鬼は死したる人の靈で、この靈が集まるところである。その鬼門の説が我邦に伝はつたときには仏教の地獄の羅刹を鬼と言つたから、それと混同して、元来支那の言葉では死したる人の靈であるべきものが羅刹となり、鬼門というものが恐しいものになつた。支那にても鬼門の號は唐暦通書等にも見えて居り、四隅四門の一個である。それを凶方とすることはどういふ理由であるかわからぬ。我邦で家相の祖ともいふべき松浦琴鶴が天保四年に著したる『家相一覧』巻下)には「鬼門の號は唐暦通書等にも見へて、素より備する所、四隅四門の一箇なり、然るを強て凶方とすること其正説審ならず、近世の家相家者流漫に是を恐れ殺気解除の為として正直の地を態と欠げ失ふの備となさしむるは頗ぶる謂はれなきことなり」と述べてある。又『或説に良宮は日輪地下を離る所ゆへ尊敬して萬事を恐る、鬼門にあらず、貴門なりといへり、又一説に鬼門は北方子丑の間なりと」と記して東北の方角のみでなく北方をも鬼門とするの説が挙げてある。  余論  以上に叙述したところは、その大多数が迷信の対象として用ひられたるものである。これによりて人々の信仰が世間の事物のあらゆる方面にありて正当を離れて居る場合が多くあることが認められる。しかもそれが人々の得手勝手の欲望に本づいて居るものが多いといふことはいかにも露骨に人々の心の浅間しい相をあらはしたものであるかと覚へず眉をひそめしめるものがある。さうして、此の如き迷信が大体に於て知識の不十分に基づくものであるといふことは明瞭であるが、それならば正信と迷信との区別は如何にしてこれを明にするかといふ疑問を提出する人が有る筈である。それは信仰といふことは知識を離れたるものであるから、知識を離れたる信仰の上には、知識の方面でいふところの「正」と「迷」とはない訳ではないかといふ極めて単なる論法に拠るものである。  信仰といふものは固より人間の知識の足らぬところを補ふための精神の作用である。しかしながら、個人の精神の作用の上につきて見るときは、その人の知識の足らぬところをば直ぐに信仰によりて補はむとするために、その信仰には、なほ知識の要素を備へて居る。すなはち人間の知識を離れて居ない。ただその人の知識を離れたのみである。それ故にこの場合の信仰は知識的信仰と言はれるので、この信仰には正しきものと、正しからざるものとがある。若しそれが正しからざるときにはそれを迷信とすべきである。然らば如何なるものが正しきか、正しからざるか、それを批判するのは当時の科学的知識に拠るものである。  宗教上の信仰に至りては更に一層の誤解を生じ易く、或は宗教上の信仰は一切迷信ではないかとさへ極言する人もある。これも宗教の本質につきての考が明瞭でないために此の如き考を起すのである。宗教はその人の知識を離れたるところに現はれるところの一種の感情に本づくものであるから、その信仰に迷へるものが有る筈はない。しかるに世の宗教と言はるるものに迷信に属するものが多く見られるのは、それは宗教ではなくして、宗教に似たる精神作用(自然的宗教の類)に属するものである。  何れにしても迷信は正しき信仰と明瞭に区別せらるべきものでありて、しかもそれは科学的に批判せらるべきものである。しかしながら、迷信そのものは知識のはたらきではないから、迷信に陥るやうな精神作用を有するものが、その迷信のはたらきから離れることは決して容易でない。又それが知識を離れて感情の方面にあらはれるものであるから、たとひ自身にはそれを信じて居らなくても周囲の人々が彼此といふ場合にはそれに反抗してまでも迷信を排斥することも亦決して容易でない。  ここに一例を挙けて言ふと、現に今日でも東京及び地方の日刊新聞紙に日日の九星配当を掲載して居るものがある。社會の耳目を以て自から任ずる新聞紙であるから、此の如き迷信も社會現象の一つであるからと言はばそれまであるが、しかしながら真面目に考へて迷信を鼓吹するといふことは却て社會に害毒を流すものであると言はねばならぬ。それもその新聞紙に載せられたるものを比較して見ると、   大正十五年九月七日   T東京発行某新聞   U地方行某新聞   V東京発行某新聞   五黄の人、運勢 五黄 奥歯に物の抉り 五黄 諸事思ふ程には行か   大によろしく、たる如き感じの生ずる ぬが努力すればするだけの   他より先するに 日。北と南と東が吉 効はある、開店施行吉、移   有利の日 転普請凶、吉方西、丑寅  出鱈目のものであるといふことはこれにて明瞭である。又方位吉凶につきて見るに   大正十五年九紫の人  甲にありて大吉とするものが乙になりて凶となり乙にありて吉とせるものが甲にありて凶とする。矛盾も亦甚しいものである。  かういふ荒唐無稽の妄談は知識の力を以てすれば信ずべきではないことがすぐにわかることに相違ないが、さて今日は凶日であるからと言はれると、心持が善くない。余程意志が強くないと、不快の感情に負けて、周囲の人々の言ふが儘になるのが普通の人の情である。この点から考へて、迷信といふものはつとめてこれを排除すべきものである。しかしながら迷信の対象となつて居るもの、たとへば丙午の如きものをば一々打破し去つたとしてもそれによりて迷信のはたらきが止むことはない。迷信のはたらきをあらはすべき精神のはたらきを改むることをせぬ以上、迷信は種々にその対象を代へて現はれるものであると思ふ。  信仰と迷信終  日本民俗叢書刊行の言葉 土に還れといふ合言葉からやがて日本に還れといふ標語が生れて来た。永い間見失つてゐた吾等が祖先と同胞の姿を見出し、其の環境の源に遡る時、吾等は吾等自身の行手に眼覚めるであらう。民俗の探究は其の為めに役立つのである。故に民俗とは必ずしも狭義の民俗学に限定するを要しない。広く吾等に親しき民習風俗を明し、来るべき時代を迎ふる炬火とするが好い。吾が「日本民俗叢書」は即ち此の意味に於て、極めて多方面から極めて多様なる研究題目を捉へ来り、之を今日及び明日の人々に示さうとするものである。  編輯者 昭和三年二月十二日印刷 昭和三年二月十五口発行  信仰と迷信 (定価金円七抬錢)