宗教の心理  文学博士 医学博士  富士川游著  東京天来書房発行  宗教の心理序説  一  花が美しく咲いて居る。鳥が朗かに歌つて居る。かやうな平和に見える世界の中にありて、角のあるものは他のものを突かうとする。歯のあるものは他のものを、噛まうとする。針のあるものは刺し、爪のあるものは引つ掻く。皆それぞれの武器を備へて、それを用ひて他と闘ひ、それによつて自己の生命を保存しようとつとめて居る。それがために勢ひ互に闘争して、強いものが勝ち、弱いものが負けるといふ生存競争の状態が生物の間にあらはれ従つて弱肉強食の惨憺なる情景を生ずる。人間もまた生物の一部としてこの適者生存の法則を免れることは出来ない。さうして、かやうなる生存競争の生活が根本となつて、我我人間の精神の上にあらはるるものが、すなはち、苦惱である。それ故に、我々人間の生活はこれを精神の上より言へば全く苦惱の世界である。この苦悩の世界にありて苦惱の現実の相を内観せるものに対して、その苦悩から離れしめるために自からにしてあらはるるところの精神の作用が宗教と名づけられるものである。普通に仏教にて仏の道を求めると言はれて居るのは全くこの宗教の心のはたらきを指すもので、宗教の心のはたらきによりて我我は苦悩の世界に住みて能く真実の道をあゆむことが出来るのである。  二  宗教は此の如くにして、我我の精神の尋常の作用に属するもので、決して啓示などによりて外から与へられるものでない、又決して他より注入せられて始めてあらはれるところの精神の現象でもない。我我の尋常の精神が内観によりて明かにせられたる苦悩の現相に対応してあらはるるところの特殊の精神現象である。さうして、この精神の現象は、心理学的のものとして、客観的にこれを説明することが出来るものである。しかし、現に今、宗教と名づけられて居るところの現象にはその現象の相異せるによりて明かに区別せらるべき二種類を存する。その一種は個人の態度が特殊で、その対象と態度の性質とによりて明かに他の現象と区別せらるべきものである。これを宗教性(Religiositit)と名づける。他の一種は超個人的の精神的形成物で、社会的の構成となり、神秘・教義・禮拝等をその内容とするものである。これを社会的宗教又は組織的宗教(SozialesinstitituonelleReligon)と称する。両者共に人間の精神の現象に外ならぬものであるが、純粋の宗教のはたらきとすべきものは、宗教性である。それ故に、個人的心理学の対象として客観的にこれを説明すべきものは組織的宗教にあらずして個人の宗教性である。  三  ここに挙げたる宗教性は言葉を換て言へば宗教の根本体驗である。さうして、この宗教の根本体驗にあつては自我が宗教的思考を対象としてその対象に対してあらはすところの態度を重要とする。全体、我我の精神生活には内容と行動とが存在するもので、感覚、観念内容・知識などはその内容であり、意志・思考、観念などは行動に属する。この行動の全人格的にあらはれるものが宗教性の自我機能と名づけられるもので、他の言葉にて言へば、一種の自我の態度である。個人の人格を全体のものとして見てその全体がその対象に対して一種の態度をあらはすことを自我機能と名づける。すなはちこの自我機能は一定の対象に対してあらはれるところの自我の反応で、それによりて自我の態度が特殊の状態を呈するのであるが、これを普通の心理学の言葉にて感情及び意志と称するのである。又その対象となるものは宗教的体驗の場合にありては特殊の思考(宗教的思考)である。仏教の上にて言ふときは仏につきての思考である。この仏につきての思考を対象としてそれに対してあらはれるところの自我機能(自我の態度)が宗教的体験である。  四  此の如く、仏につきての思考を対象として、その対象に対してあらはすところの自我機能は、深くそれに帰依すること(内的に自我が対象の中に沈没する)、対象をば自分のものにすること、対象のために自我は排斥せられることなどである。前に挙げたる宗教性とはかやうな自我の態度を指すもので、個人の宗教といふはかやうな自我の態度をあらはす場合を指すのである。さうして、それは精神の行動に属するものであるから、宗教はその根本を我我人間の感情及び意志生活に存するものであるといふことが出来る。しかしながらその対象たる宗教性思考がただ理解のみに止まつて、行動となつて居らぬときには決して宗教的の自我機能をあらはすものでない。尚ほ繰返して説明すれば、現に我我が経験するところの世界は、単に世界の一部で、それは我我の感情及び意志の要求をば十分に満足せしめるものでない。それ故に、我々人間の精神のはたらきは経験を超越したる世界を創造してこれによつて経驗世界の不十分なるものを補足して以て感情及び意志の要求を満足せしめるのである。さうして、此の如くにして創造せられたる超経験的の世界に対して我我が一定の感情と従つて一定の意志をあらはすところの精神の態度を指して、これを宗教性といふのである。この宗教的の感情に近似せるものは審美的感情及び倫理的感情であるが、しかも審美と倫理との感情は経験的のものをその対象とするによりて宗教的感情とはその趣を異にするのである。  五  個人の宗教性にありて、宗教的思考を対象として、それに対して自我が特殊の態度をあらはすことは前に説明せし通りであるが、それには自我が先づ一定の素地を造らねばならぬ。さうしてその素地は個人の先天的素質(傾向)の相異によつて多くの人人の間に不同であるが、何れにしても自我の意識が明瞭にあらはれて、自己が微力であること、虚仮であること、偉大なるものに従属すべきものであることなどの考へが十分にあらはれて居ることを前提の要件とする。仏教の言葉にて言へば煩惱具足・罪悪生死の凡夫であるといふことの意識が明瞭にあらはれて居るところに仏につきての思考が対象となつて確乎と自分の心にあらはれたるときに始めてよく宗教的自我機能があらはれるものであるといはねばならぬ。さうしてかやうな素地の自我が、対象として受け取るところの仏につきての思考によりて自我が、前に言つたやうな特殊の態度をあらはすによりて、思考によりて創造せられる仏は、極めて強き実在性を有し、客観的のものとして常に崇拝の対象となるものである。  六  以上説明するところの宗教性は個人の宗教の根本であるが、この個人の宗教性は個人の宗教の根本を成すのみでなく、それが他の文化と結合して、知識化せられ、倫理化せられ、又社会化せられて、個人を超越して、普遍的のものとなり、組織的のものとせられ、信條とか教義とか寺院とか教会とかといふやうなものが成立して、多くの人人が團体的にこれを奉ずるやうになるのである。さうなつて来ると、外面的の形式が八釜敷言はれて肝腎の宗教性は多くは隠蔽せられるのである。世間の人が現に宗教と言つて居るものは大抵この組織的宗教のことであるから、どうしてもその根本に立ちかへらなければ真実に宗教としての意味を見つけることは出来ぬのである。今この表題を「宗教の心理」として宗教と言はれて居るところの精神的現象を説明するのは、その目的一にこの体を明かにしようとするのであるので、固より体系的に宗教心理学を講述しようとするのではない。それ故に、仏教に入りて、真実の道を求むる人人のために、第一に心得て居らねばならぬ心理学的の事実を説示することを主として、普通の宗教心理学の著述に見るやうな各方面に?ての事項を挙ぐることをして居ない。殊に問答体に叙述したるは以上の目的を達するに便利なりと考へたからである。  七  宗教といはるる精神の現象が、その内容でなくして、行動に属するものであることは巳に上章にくわしく叙述した通りである。さうして、それを知識化し、概念化し、又普遍化することによつて社會的に広く宣布せらるることも亦前段に説明した通りであるが、此の如く普遍的に宣布せられたる組織的宗教の説くところを聞いて、その所説を知るといふことによりては宗教的の咸情及び意志があらはれるものでない。ただ知識化し概念化せられたるものを知識するのであるから、すなはち宗教の内容を明かにすることが出来るのみで、それを精神の行動として実際にそのはたらきをあらはすことがない。かやうなことからして、むかしより宗教は信ずべきもので、学ぶべきものではないと言はれて居る。それは固より一応有理であるが、しかしながら元来、我我が「信ずる」といふことは思考することの一種で、尋常の思考と異なりて、思考に際して強き快感情が伴なひ起りてその思考を金剛不壊ならしめるものを「信ずる」といふのである。さうして、如何なることを思考しても常に快感情が伴なひて起るのではないから、宗教的の感情が十分よくあらはれるやうな『思考をなすこと』が宗教の心をあらはす上に第一必要のことである。私のこの「宗教の心理」はこの事実を明かに示さうとして叙述したものである。但しその説明の点に於て不備なることも多多これあるべしと思ふが、またこの書が仏教に入りて真実の道を求めやうと志す人人に取りて、何かの便宜を与ふることもあるべしと信ずる。  昭和十年六月十一日  鎌倉の僑居に於て   富士川游 記之  宗教の心理 目次  序説  諸説  宗教とは何ぞや  宗教の本質  自然的宗教  宗教的感情  無我の状態  安心  安心と信仰  信心  宗ヘ的意識  刺戟語  主観的因子  個人的因子  内因と外縁  二種深信  主観的態度  創造的作用  神話  超越的世界  宗教的観念  象?的思考  宗教的象?  思考形式の客観化  宗教的実在  人格化  魔  自然神  神仏の特性  神仏を認める  理仏  報身仏  事仏  名號  不可思議  化身仏  己心の弥陀  禮拝の本尊  宗教的理解  宗教的思考  宗教性  宗教性の礎質  宗教性の発展  環境の影響  宗ヘ的行動  魔術的行動  犠牲  祈祷  浄清  芸術的作業  神仏の認識  倫理的行動  超越世界との結合  厭離穢土  宗教の進歩  智慧と宗教  道徳と宗教  組織的宗教  教義と宗派  宗教の心理  富士川游著  緒言  問 宗教は、どういふものであるか、御説明を願ひたい。  答 まことに六ケ敷い問題で、簡単にそれに御答へすることは出来ませぬ。全体あなたは何故にかやうな質問を提出なさるのでありますか。先づそのわけを承りたい。  問 実は私は不安の生活に堪えられませぬので、どうにかして、その不安を除かうと考へまして、もがいて居つたのであります。そこで仏教に志しまして名士の講演や大家の説教を聴聞いたして居りますが、どうも宗教そのものが私にはつきりわかりませぬので、まことにこまつて居るのであります。  答 その不安を除くために仏教に志したといはれまする位でありますから、あなたは宗教を以て不安の心を除くためのものであるとお考へになつて居るのではありませぬか。  問 さあ、それがどうもはつきり致さぬのであります。宗教に志したならば心の不安が除かれると、人の言ふことを聴いて仏教に志したまでのことで、宗教そのものにつきては、一向承知して居りませぬ。そこで段々と講演や説教を聴聞するに従ひまして、いろいろの疑が起り、宗教とは果してどういふものであるかといふことが、当面の問題となり出したのであります。  答 それは世間に似た例のあることであります。宗教といふものを煩悶の解決の道具としやうとしたり、又は死亡の恐怖を慰安するために用ひやうとしたりして、それに志しても、どうしてもそれによりてその心が落ちつかぬので、却て苦しむで居る輩が多いのであります。私はあなたがさういふ輩であるとはいひませぬが、しかし宗教のことにつきて、世間なみに間違つた考へを持つておいでになつたことと考へます。  問 いかにもさうであらうと、近頃自分にも考へがつきましたので、かやうな突飛な質問を提出いたしたのであります。  答 それはまことに結構のことであります。しかし、宗教とはどういふものであるかといふことは六ヶ敷い問題でありまして、それを説明することは容易のことでありませぬ。そこで私は『宗教とは何ぞや』といふ問題でなく『宗教と名づけられて居るものは何であるか』といふことに就て説明いたしませう。『宗教とは何ぞや」といふことは思索の上で論議せられますからその論議を纏めることは容易でありませぬ。さういふ思索上の問題でなく、精神現象の上の一個の事実としてあられて来るところの『宗教と名づけられて居るもの』は観察するのみで論議すべきものではありませぬ。事実を事実として見るのでありますから、これを説明することは決して六ヶ敷いことではありませぬ。  問 どうか、そのことにつきて平易に御説明を願ひたい。  答 早く申せば、宗教と言はれるところの精神のはたらきを説明するのでありますが、それに学術上の名前をつければ宗教の心理学であります。  問 私は心理学のことも一向不案内でお説を拝聴してもわからぬことが多からうと思ひますが、どうかその点を念頭に置いて御説明を願ひます。  答 承知いたしました。心理学と申しましても、今は専門学的に精しくお話いたすのではありませぬ。ただ多くの人人から宗教と言はれて居るところの精神の現象がどういふものであるかといふことを極めて通俗的に説明いたすのでありますから、十分おわかりになることであらと考へます。  宗教とは何ぞや  問 私は始め仏教の説を聞きまして、仏を信ずることが宗教であると考へましたが……  答 なるほど、西洋学者の説にも高等の精神的本態(神)にして、主に倫理的性質を有するものを信じて、それに従属し、その意志に本づきて行為するものを宗教といふ、と説明してあるものがあります。しかし、それが世の中で宗教と言はれてるもののすべてに通ずる定義ではありませぬ。現に世の人々が宗教と言ふものの内には種種雑多のものがありまして、さう一概に申すことは出来ませぬ。  問 左様なれば、現に今日、宗教と言はれて居るものは一定の定義を下すことの出来ぬほど雑駁のものでありませうか。  答 いかにも、雑駁窮まれるものであります。『宗教と言はれる』ものといひましても、下は、劣等の迷信的のものより上は高等の精神的のものに至るまで種種のものがありますから、宗教のことにつきて説明するには、先づそれを吟味して置かねばならぬのであります。  問 しかし、それを吟味するといふことは甚だ六ヶ敷いことでありませう。  答 無論それを思索の上にて彼此と吟味することは容易でありませぬ。しかしながら思索を離れて、宗教と言はるる現象を注視し、その状態を明かに知ることは決して六ヶ敷いことではありませぬ。さうして、実際に於てこの方面のことがよくわかるといふことが宗教に志す上に極めて必要のことであります。  問 しからば、宗教と言はれて居るものを観察して、その現象を見るときは、どういふことが我々にわかるのでありますか。  答 普通に宗教と言はれて居るところの現象を観察しますと、その現象には明かに二つの異つたものが認められます。その一とつは、人格の態度としてあらはれるものであります。よく宗教を体験したと言はれますが、その意味でその人の心持が宗教となつて居るのであります。その一つは超人格的の形成として、又社會的組織としてあらはれたものであります。たとへば神祕説、教義、禮拝等が宗教として見られるのであります。ミュルレル、フライエンフェルス氏はその甲の方を人格的宗教といひ、乙の方を組織的宗教と名づけて居ります。  問 しからばこの二つの現象はどちらも同じやうな価値を有するもので、つまり、宗教に二つの種類が存するのでありますか。  答 さうではありませぬ。厳密の意味にて宗教といふべきものは人格的宗教であります。宗教として我々が問題とすべきものはただ人格の態度であります。言葉をかへて言へば我々の心の現実の上にあらはれるところの特殊の状態であります。私は今、この人格的宗教のみを心理学の上にて説明しやうとするものであります。  問 しからば組織的宗教といはるるものは宗教ではありませぬか。  答 組織的宗教といふのは、人人の主観(心の内のはたらき)から全く離れたる精神的形成物としての宗教的現象であります。それは客観に認められるものでありますから、これによりて安心立命の目的が達せられる筈はありませぬ。  問 世間では今、組織的宗教といはれるものを、宗教として居るもののやうに考へられますが、それは如何でありませうか。  答 私は、さういふ組織的宗教といふものは宗教の本質を離れて、ただその形式の一種に過ぎないものと信じて居ります。徒らに形式の末に拘りて本質を顧みぬといふことは確かに間違つた考であると思ふのであります。  宗教の本質  問 さうすると、宗教の本質といふものが問題となるのでありますが、その宗教の本質といふものはどういふものでありませうか。  答 私ははじめから、そのことにつきて説明しやうと思つて居たのであります。『宗教とは何ぞや」といふことは思索上の問題として種種に論議せられるのでありますから、その論議をまとめることは容易でないが『宗教と名づけられて居るもの』は精神現象の上の一個の事実で、論議すべきものでなく、事実を事実として見るのであるから、これを説明することは決して六ケ敷いことではないと前に申したのであります。  問 その点はよくわかりました。精神現象として宗教を見るとき、それはどういふ現象でありますか。  答 それにつきては、これまで西洋の大家の間にも種種の所見がありました。くはしいことはここに申す必要もありませぬが、その主なるものを挙げますと、カント学派の考では宗教は意志のはたらきに属するものと説いて居ります。それからシュライエルマッヘルは宗教は感情の範囲に属するものとし、ヘーゲルは理性に属するものとし、フォイエルバッハ、ヴント及びマイエルの諸家は想像のはたらきに属するものとし、スターバック、ジェームス、フロイド学派及び近世の多数の諸家は下意識(潜在意識)のはたらきに属するものとして居るのでありますその外に、尚ほ折衷の説を立てる人もありまして、諸説が区区であると言つて差支へがありませぬ。  問 それ等諸家の説の中でいづれが正しいでありませうか。  答 私は宗教といふ精神現象は固より感情の範囲に属するものであると信ずるものであります。しかしながら、それは普通の感情に属するものでなくして、確かに一種特別の感情であると考へて居るのであります。  問 一種特別の感情と申せば、それはどうい感情でありますか。  答 それにつきては先づ感情のことにつきて一寸説明しなければなりませぬが、元来、我々が感情といふものは『我』といふ人格が外界よりの感作に対してあらはすところの態度に外ならぬものでありまして、たとへば夏の気候の暑いときに気温の上昇に対して『我』が取るところの態度は暑さに苦しむことでありまして、それを不快の感情といふのであります。同じ程度の暑さでも冬なれば快と感ずるのであります。普通に感情は快・不快の意識をあらはすによりて知られるもので、それは常に『我』に都合のよい場合に快と感じ『我』に都合の善くない場合に不快と感ずるのであります。さうしてこの感情は前に申したやうに外界の感作に次ぎてあらはれるものであります。これが普通の感情のあらはれでありますが、宗教といふ精神現象はこの種の感情に属するものではありませぬ。  問 さうすれば、宗教は神仏に依憑する感情であるといふべきではありませぬか。  答 前にも申したやうに、普通の感情は『我』に都合の善いと悪いとによりて快・不快を別ち、甚だ功利的のものでありますから、さういふ得手勝手の心持によりては宗教といふ心のはたらきは起らぬ筈であります。宗教は理性のはたらきによるものではなく、感情の範囲に属してただ神仏に信頼するものであるといふやうな説明はしばしば聞くところでありますが、それが普通の感情であるとすれば極めて功利的のものでありますから真に宗教のはたらきとして見らるべきものではありませぬ。「蓮如上人御一代聞書」の中に「聴聞心ニ入レ申サント思フ人ハアリ、信ヲトランズルト思フ人ハナシ、サレバ、極樂ハタノシムト聞テ参ント願ヒノゾム人ハ仏ニナラズ』と説いてあるのも、宗教が功利的の感情ではあらはれるものでないといふことを示したものでありませう。法然上人の「和語燈」の中にも『心のそみそみと、身の毛もいよだち、涙もおつるをのみ信の起ると申すはひが事にてあるなり、それは歓喜随喜悲喜とぞ申べき、信とは疑に対する意にて疑をのぞくを信とは申すべきなり』とありますが、これも宗教の心のはたらきが単純の歓喜の感情とは異なつたものであるといふことを示したものであります。それ故に私は宗教をば単純に神仏に依憑する感情のはたらきであるとするのは不当であると考へるのであります。  問 如何にも左様でありませう。自分の得手勝手に神仏を造り上げてそれに依憑することが宗教の心のはたらきであるとは信ぜられませぬ。お説の通ほりに、これは一種特別の感情でなくてはなりますまいが、さて、さういふ特別の感情はどうしてあらはれるのでありませうか。  答 さういふ一種特別の感情はたしかに有ります。前にも申したやうに、感情といふものは『我』が外界の感作に対して取るところの態度でありますが、その外界の或物が明かに知られるときには、それをば『我』の都合によりて取捨して快・不快の感情をあらはすのであります。これが普通の感情でありますが、若し外界の或物が全く知られないものであるときにはそれに対する『我』の態度が一種特別であります。独逸のヘッケル氏はさういふ感情に無内容の感情といふ名をつけて居りますが、或は無記の感情とも言はるるでありませう。つまるところ対象に対する感情は自分の勝手のよしあしによりて快・不快を別つものでありますが、その対象が意識に上ぼらないで、快感情のみが意識の中にあらはれて来るのが、すなはち宗教の心のはたらきであると私は信ずるのであります。  自然的宗教  問 そうしますと、神仏ありと信じてそれに依憑するのは宗教の心のはたらきではありませぬか。  答 神仏ありと信ずるといふことは極めて曖昧のことであります。固より理性のはたらきによりて神仏の存在を証明することは出来ませぬから、理性を離れて、感情の力によりてそれを信ぜざるを得ざるやうになるのが宗教のはたらきであると説かれましても、しかし神仏ありと信ずることは容易でありませぬ。それ故に、それに依憑するといふことも何かの欲望に本づきて祈願するためでありまして、多くは『極楽は楽しむと聞いて参らむと願ひのぞむ』類でありませう。それによりて宗教の心のはたらきが起る筈はありませぬ。  問 しかしながら、鰯の頭も信心からといふこともありますから、さういふ意味にて祈願することも安心立命の効果が無いとは限らぬものでありませう。  答 しかしながら、それは極めて幼稚の宗教的意識に本づくものでありまして、それを宗教としても、それは自然的宗教に属するもので、決して我々文明人種が奉ずるところの精神的宗教に属するものではありませぬ。  問 しからば、自然的宗教といはれるのは宗教ではありませぬか。  答 自然的宗教といふものは全く原始的のものでありまして、我々文明人種の間にあては決して宗教として安心立命の効力をあらはすものではありませぬ。自然的宗教といふものは自己の心の有様を見ることが十分でなく、又自然界の相を知ることが不完全であるために、あらはれるところの原始的の宗教のはたらきで、それが漸次に発展して精神的宗教となるのであります。固よりそれ故に自然的宗教が精神的宗教と全然別個のものであるといふのではありませぬが、自然的宗教は原始的のものであるから、それから発展したる精神的宗教のみが我々文明人種の宗教として用ひらるべきものであるといふのであります。  問 しかし、自然的宗教でも尚ほそれは普通の感情と異なれる感情によるものできるとすべきでありますか。  答 さうではありませぬ。自然的宗教にありては功利的の感情が、そのはたらきをあらはして居るのでありまして、それは決して真実の宗教ではありませぬ。真実の宗教のはたらきはどうしても功利的の感情を離れたものでなくてはなりませぬ。さうでなければ、功利的の考のために苦しみの世界を造つてそれに棲んで居る我々がその苦しみを免れることは出来ることが無い筈でありませう。  宗教的感情  問 感情がすべて功利的のものであるといふことは、いかにもさうであらうと思ひますが、しかし、それが我々の心の常であるとすれば、その感情によらずしてあらはれる宗教は我々日常の生活には関係のないものではありませぬか。  答 決してうではありませぬ。普通に、我々の日常の生活は意識せられる心のはたらきのみで出来るやうに考へて居る人が多いのでありますが、実際には、我々の日常生活の大部分は意識せられざる心のはたらきによるものであります。  問 さうすると、宗教をあらはすところの感情も意識せられぬのでありますか。  答 いやさうではありませぬ。感情としては意識せられるのであります。ただしその感情は普通のものと同じやうに何等かの対象と同時にあらはれないことが相異して居るのでありますこのことは既に前に申したやうに、普通の感情は暑いとか、寒いとかいふやうな対象と同時に感ぜられるものでありますが、宗教をあらはすところの感情は、同時に存すべき対象が我々に意識せられぬのであります。  問 心理学の書物に対象感情と記されて居るものがありますが、これは対象感情をあらはすべき事物に対して起る感情でありませう。さうすれば宗教は無対象感情に本づくものであるといはれるのでありますか。  答 このことにつきては、すこし説明を要しますが、今くわしく申すことは出来ませぬからざつと説明いたしませう。すべて我々の心のはたらきは外界の事物に対して起るところの反応でありますから、外界の事物と同時に意識に上ぼるのであります。しかるに、外界の事物が何であるか、我々に意識せられないで、その反応、すなはち感情のみが、意識せられることが多くあるのであります。私はこの特別の感情を指して不意識的の感情と名づけたいのであります。さうして、この感情が快感情となりてあらはれるとき、そこに宗のはたらきがあらはれるのであると申すのであります。  問 しからば宗教の心は常に快感をあらはすものでありますか。  答 宗教の心が快感情をあらはすのであるといふときには誤解が伴なひますから、快感情が何等の事由であるかを知ることなしに我々の心にあらはれるときにそれが宗教の心であるといふのが至当でありませう。  無我の状態  問 かやうに宗の心が快感をあらはすのはどういふわけでありませうか。  答 それは私にもよくわかりませぬが、私の考へるところでは、自己といふ意識がはつきりと心の中にあらはれて居るときにはそれが中心となつて何事も得手勝手に考へるものでありますが、その自己意識がなくなるときには、得手勝手の心が無くなりますから、それですべてが快感情をあらはすに至るものであると信ずるのであります。  問 さうすれば釈尊が無我を説かれたのは畢竟するにこの自己意識をなくすることを指して言はれたのではありませぬか。  答 私もさうであらうと思ひます。釈尊が無我を説かれたことをよくよく考へて見ますると自己意識を中心とする考へはすべて功利的のものであるから、それを離れねばならぬと言はれたのであるやうに思はれます。釈尊が我執とか渇愛とか言はれたものは全く自己意識を中心としてはたらくところの我々の心の有様に外ならぬものであります。  問 しかしながら親鸞聖人はあまり無我といふことを説かれなかつたやうに思はれますが、それはどういふわけでありませう。  答 いかにも親鸞聖人は無我といふことはあまり説かれなかつたのでありますが、そのかはり自力のはからひを離れるといふことを強く説かれました。それは左右のはからひをやめることで、左右のはからひをやめるといふことは無我の状態に外ならぬものであります。釈尊は修行の方面よりして無我と説かれ、親鸞聖人は内観の方面より自力を離れると言はれたのでありませう。  問 さうすると、結局この自己意識を無くするのが宗教の心のはたらきでありませうか。  答 さう簡単にいふわけにはまゐりませぬ。前にも申したやうに、我我の感情は普通、対象が外にあつてそれと同時にあらはれる意識でありますが、外方にある対象が我我にわからなくてそれに対する自我の態度だけが我々にわかることがあります。普通の感情が常に対象を明瞭に意識するときにあらはれるのに反して、この不意識的の感情は、どうして起つたか我我自身にこれを知ることが出来ぬのであります。宗教はこの種の感情でありますから、この場合には自己意識は明瞭にあらはれないのが常であります。  問 よくわかりました。しかしなほ疑はしい点は、その対象がわからぬとしても、何処かに何物かが存在するのではありませぬか。  答 いかにも、その疑は当然のことであります。しかしながら、それは到底我我には認識せらるべきものではありませぬから、何ともいふことは出来ませぬ。何物かが存在するか否かといふことを究めることは容易でありませぬ。恐くはそれはどうしても出来ないことでありませう。  問 果してさうとすれば、我我はこれを存在する或物と想像すべきでありませうか。  答 しかし、想像するといふことも、一とつの認識の作用であります。さういふ認識によりてはどうすることも出来ぬものに対しての自我の反応でありますから、到底我我の思考には及ばぬものであると申さねばならぬのでありませう。さうしてこの不意識的の感情は、一定の観念的内容と結合してあらはれるものではありませぬ。一定の観念内容と結合してあらはれるところの感情はどこまでも功利的のものでありますから、それによりて宗教的の感情はあらはれて来ないのであります。それ故に、若し神とか仏とかいふやうな観念をつくり上げて、それに対して信頼の感情をあらはすことが出来たにしても、それは真実の意味の宗教とはならぬのであります。  安心  問 観念の内容と結合してあらはれる感情は功利的であると申されましたが、しかし神とか仏とかいふものが観念の内容として確立して居たならば、それに対して常に歓喜の感情があらはれて、これによりて安心することが出来ることと思ひますが、いかがでせう。  答 観念の内容として神や仏といふやうなものが確立すればといはれますが、確立といふことは頗ぶる疑はしいものでありまして、それは畢竟、神や仏といふ概念をつくり上げて、それをば自分で決定して居るに過ぎないのであります。つまり決心して居るのでありまして、決し 安心の状態にあるのではありませぬ。  問 決心でもしつかりとして居れば善いではありませぬか。  答 決心と安心とは膨れたと肥えたとの相異のやうなものであります。見たところは似て居つたにしてもその実質は天と地との相異であります。安心といへば金剛不壌の心で、決して動揺せぬものでありますが、決心は思考のはたらによりてさう決定したに過ぎぬものでありますから思考の変化と共に当然変化するものであります。たとひ神や仏といふやうなものを認めて、それに信頼して居たにしても、その認識が動揺するときには信頼の状態はすぐに変動するものであります。それ故に、心といふことはいかに確立したといつても到底駄目であります。宗教の心のはたらきとしてはどこまでも安心の状態でなくてはなりませぬ。  問 さうすれば安心といふべきものはどういふものでありますか。  答 安心といふのはその心が安定してすこしも動搖せねことを指しているのであります。決心といふものも精神の安定に相違ありませぬが、それは一時的のもので、いかなることがありても動揺せぬといふやうな確固不動のものではありませぬ。  問 さうすると、安心と決心とはその心のはたらきが相違して居るのでありますか。  答 我我が決心するといふ場合には、何時でも、我我の心に、いろいろの観念があらはれて居るものの中に、主要なる目的観念といふものを取りて、その他の観念のはたらきを捨てるのであります。その目的観念といふものが確固として居れば決心が出来るのであります。しかしその目的観念といふものは時として動揺するのでありますから、我我の決心といふものは全く一時的のものであります。  問 安心といふ場合には心のはたらきがどういふ風になるのでありますか。  答 決心の場合にありてはその目的観念は自分の勝手によりて定められるのであります。自分の勝手の善いやうに心持のよい感情が本となりて、それが目的観念となりて他のいろいろの観念を捨てるのであります。それ故に決心の場合は何時でもそれが自分に都合よいやうに決定せられるのであります。安心の場合はそれに異なりて、目的観念といはるべきものが不意識的に自然にあらはれて来るのでありまして、それが自分に都合が善いからとして決定するのではありませぬ。  問 さうすると、安心といふものは自然におのづから決定する心でありまして、我我はただそれを感知するのみのものでありますか。  答 いかにもさうであります。決心といふものは、畢竟、思考の一種に属し、これに反して安心は決して思考に属するものではなくして、ただ感情の発露を意識するものであるといふことが認められませう。  問 さうすれば安心といふものには正しいとか正しくないとかいふやうなことはない筈に思はれますが如何がでありませう。  答 安心のはたらきに、それが正しいとか、正しからぬとかいふやうなことはない筈であります。  問 しかし、世の宗教家の間には往々異安心といふやうなことが問題とせられて居るやうでありますが、それは如何のものでありませうか。  答 宗教家の間に異安心と言はれて居るのは異解のことであるやうに思はれます。これまで異安心とせられたものは、大概その宗派の教義に関する説明の上に異説を立てた場合であります。それ故に、それは全く解釈が異なるものでありまして、決して安心が異なるのではありませぬ。  問 しからば、それは真面目に研究するために起るべきもので、寧ろ進むで歓迎すべきものではありませぬか。  答 教義につきて異解をした人人はこれまで皆熱心に道を求めた人でありました。さうして異安心を八釜敷いふ人々の中には無安心のものが多くありました。何れにしても安心といふものは我我の思考を離れて自からにしてあらはれるところの感情を感知するのでありますから、この安心に正否の差別がある訳は決してありませぬ。しかるに、異安心の問題が起るのはいろいろの條件のあることでありませうが、その根本は宗教をば我我の内的生活として取扱はぬことが主要のものであると私は考へます。宗教をば我我の内的生活として見ることなく、それを外的のものとして、これを知識の方面に移して彼此と議論するがためでありませう。  問 さうすると異解といふことは、安心の解釈が異なりたりといふ意味に考へてよろしいのでありますか。  答 それを説明するために浄土真宗の碩学の石泉師の説を引用してお話致しませう。石泉師の説には『心仏願に安ずこれを安心といふ』とありまして、仏の本願を聴いてそれによりて往生成仏と心を安ずることが安心であります。そのことを聖者が伝へて後の人に示されたものを後の人が研鑚してこれを宣揚するのを義解といふのであります。それ故に石泉師は『されば義解の趣とするところは安心を詮表するにあり」と説いて居られます。  問 しからば義解は研究すべきものでありませう。  答 勿論、義解はつとめて研究して、安心を詮表することを要するものであります。  問 しからば義解の異なりたることを唱道するものがあつたならば、それにつきてお互に研究して、これによりて安心を詮表することが肝要でありませう。  答 いかにもさうであります。異解は決してこれを排斥すべきものでなく、むしろこれを問題として更に研究を進めて以て安心詮表の道を講ずべきであります。  問 問題が少し横道に入つたやうでありますが、安心といふものは本より個人的のものでありませうが、それに詮表の必要を感ずるのはどういふ訳でありますか。  答 それは宗教をば社会的に宗教の必要を認めて多くの人々に宗教の心のはたらきをあらはさしめるために、これを詮表することの必要を感ずるものであります。  問 さうしますと、異安心といふことは要するに、この詮表の邪魔をするものとしてこれを排斥するのでありませうか。  答 皮肉な言ひ方でありますが、異安心といふことは一派の宗園がその安寧を害せられると考へてその異解を排斥するために用ひられる言葉であります。勿論、宗教の心のはたらきとは直接の関係のないことであります。  問 さういふことであれば、異安心といふものは安心が異なるのではなくして、安心を解釈することが相異するのでありますか。  答 安心を解釈するといひましても、その実、安心そのものを直接に説明するのではありませぬ。安心の心のありさまが起るべき精神の機能を説くのであります。それ故にその解釈の相違によりての効力に大小の差異のあることは無論であります。そこで異解につきて研究をすすめそれをしてその詮表の効力の多きやうにと、つとめることは必要でありますが、異解によりて安心が動揺するやうなことは決してある筈はありませぬ。若し異解によりて動揺するやうなものであれば、それは決して安心ではなくして、前に申した決心であります。思考によりて変化するところの一時的決定の心であります。  安心と信仰  問 世間の多くの人々は信仰といふことを、宗教の安心と同じやうに考へて居るやうでありますが、同じものでありませうか。  答 元来、我々が信仰するといふことは、我我の知識の及ばないところを補足するための心のはたらきであります。さうして、宗教は我我の知識の及ばぬところのものであるから、これを信仰するより外はないと説かれるのが普通であります。  問 いかにもさうでありませう。宗教で重要の問題とすべきものは神仏の存在でありますがそれは知識によりて説明することは出来ぬものとせられるのでありますから、これを信仰するより外はないことでありませう。  答 お説のやうに、知識によりて証明することが出来ぬから、これを信仰するより外はないといふことは、むかしからの常套の説でありますが、それは畢竟信仰といふものが思考の一種であるといふことに気がつかずして、知識によるところの思考が十分でないところのものをば信仰と名づくる他の思考によりて補足せむとするのであります。  問 信仰といふことは思考の一種であるといふことは始めて承はりました。私は思考と信仰とは全く別のものであると思つて居りました。  答 思考といふことは、改めて言ふまでもなく認識を本としてあらはれるところのものであります。知識はかやうな思考をあつめたものであります。ところでこの思考が十分でないからとしてその足らざるところを信仰で補ふといひましても、その信仰といふものは同じやうに思考であります。これまでに認識したる知識によりてまだ知らざることを推して考へるのであります。ただそれは普通の思考と違つて、さう考へることに多大の快感を伴なふものでありますから、どうしてもさう考へねばならぬのであります。  問 さうすると、信仰がたとひ思考であつてもそれに多大の快感が伴なふて居れば、知識に反したことでも信仰することが出来ませうから、宗教がそれに基きて居つても差支ないではありませぬか。  答 決してそうではありませぬ。信仰のはたらきによりて知識に背きたることが思考として確立したとしても、それは宗教として決して真実のものではありませぬ。  問 さうすれば、全体我我が信仰するといふことはいかなる心のはたらきによりてあらはれるものでありますか。  答 それにはいろいろの階段があります。先づ精神作用の幼稚なるものでありますと、他の人の言つたことをすぐにそのままに信仰するものであります。たとへば小さい児童がだれの言ふことでも亦どういふことでもすぐに信仰するやうに素朴的に信仰するものであります。それが知識の進むに從ひて、彼此と思考して、論理的に正当と考へたときにそれを信仰するのであります。これが普通に信仰といはれて居るものであります。  問 かやうな論理的信仰は無論我々の経験と知識とに基づきて未知のことを推定するのでありませう。さうすればそれは正確なるものとして尊重すべきではありませぬか。  答 いかにもさうであります。論理的信仰は、我我が信仰と名づけて居るものの最も普通なものでありまして、それは我我の経験的知識を本として推定したものでありますから、信仰としては正確のものであります。  問 正確なる信仰であるとすればそれでよいではありませぬか。  答 正確なる信仰であるとしても、それは畢竟するに、我我がさう思考するのであります。経験に本づきたる直接の思考が不十分であるために経験よりして推定したる思考を作り出したのに過ぎぬのであります。それ故にそれは決して確固不動のものではありませぬ。たとひ一時は堅固のやうに見へましても、それは知識の動揺すると共に動揺することを免かれぬものであります。  問 信仰が堅固であつたやうに見へた人がたちまちにしてその信仰の動揺を致したといふことがしばしばでありますが、それは全く論理的信仰であつたためでありませう。  答 それは必ずさうでありませう。論理的信仰といふものは我我の知識に本づきて論理的に正常なりとするところを信仰するのでありますから、堅固には相違ありませぬ。しかしながら我々の知識が進歩するために、その正否を判断することに相違が起るときに前に堅く信仰して居つたことも後に忽ちにしてくづれるものであります。  問 さうすれば論理的信仰といふものは、つまり決心に過ぎぬものでありますか。  答 さうであります。論理的に考へて、それが正しいと信ずるものでありますから決心であります。決心したのでありますからまことに堅固のものであります。素朴的な信仰のやうに無我夢中に人の言ふことを盲信するのではありませぬ。しかしながらその決心は自分を中心として自分に都合の善いやうに考へたものに過ぎませぬから、それが自分の利害に関する場合にはいかやうにも変動するものであります。宗教の心のはたらきとしては決心でなくして、安心でなければなりませぬ。  問 安心といひましても同じやうに我我の心の上でさう考へるのでありませう。  答 私が安心といふのは、前にも申したやうに、さう考へることが正しいと決定してそれを信ずるといふのではありませぬ。それが正しいとか、いいないとかいふやうな考を用ひずして、どうしてもさう思はねばならぬやうな心持になることをいふのであります。我我の心持が自然にさうなるのでありますから、自分の勝手を本として決心するのではありませぬ。  問 我我は平生よく安心したといふ言葉を使ひますが、今言はるるところの安心とそれと同様の意味のものでありますか。  答 我我が平生安心したといふ言葉を使ふときの心持と、今申した安心とはその心持が違ひます。普通に安心したといふ場合は、我我がいろいろと考へて、ああでもない、かうでもないと、いろいろの註文を出した後に、それがどちらかにきまつて自分の勝手が善くなつたときに安心したといふのであります。それ故にそれは、必ず、功利的のものでありますが、今ここに申す安心はさういふやうな計ふ思をやめて、そこに自から湧き出づる心持に安住することを言ふのであります。宗教の心のはたらきとしてあらはるものは、どうしてもこの意味の安心でなくてはなりませぬ。  信心  問 さうすると仏教にて信心といはれて居るものとさういふ意味の安心とは同じものでありますか。  答 いかにもさうであります。文字通りに解釈すれば、信心とは仏を信ずる心でありますが、宗教の心持から言へば、仏を疑はぬ心であります。信ずるといふことは疑はぬ心であります。いろいろのはからひをせぬ心でありますから、それが直ちに安心であります。  問 さう承はりますと、仏教の書物にただ不思議と信ずるのみであるとあるのも全く仏を疑はぬといふことと同一の意味でありますか。  答 ただ不思議と信ずるといふ言葉は、これを言葉通りに解釈するとき、仏はまことに不思議である。到底我我の智慧の及ばぬところであるから、ただこれを信ずる外はないといふ意味であります。しかしながら、さういふ場合、その心のはたらきは、仏の不思議を考へて居るのでありまして、ただ不思議と信じて居るのではありませぬ。それ政に全く仏を疑はぬ心と同一ではありませぬ。  問 しかしただ不思議と信ずるのは仏を疑はぬのでありませう。若しさうでなければ不思議と信ずることは出来ぬではありませんか。  答 さうではありませぬ。多くの人人が不思議とするのは、自分の智慧が足らぬときに奇妙不思議と考へるのであります。しかし、かういふ意味の不思議ではなくして、我我の智慧の及ばぬことであると知りて、それを不思議と信ずるといふのでありますが、それでも、なほそれは不思議と思議するのでありまして、決してただ不思議と信ずるのではありませぬ。  問 到底我我の智慧の及ばぬところであると知りて、ただそれを不思議と信ずる場合でも、同じく仏を疑はぬ心であるやうに考へられますが、どうしてそれが相違すると言はれるのでありますか。  答 それは実際同一でないから、さう申すのであります。不思議といふことは全く思議せぬことであります。奇妙不思議と考へることでないばかりでなく、不思議と信ずるの外はないと考へるのではありませぬ。彼れ此れとはからふ心をやめて、それをそのままに受取る心であります。たとへて申せば、仏の本願に随順して申せばよろしいといふ教を聞きて、しからば、我我はただ念仏申せばよろしいのでありますかといふとき、それはただ不思議と信じたのではなく、さう思議したのであります。  問 さうすれば、ただ不思議と信ずるといふ心持は、実際如何なる場合に我我の精神の上にあらはれるものでありませうか。  答 それは言ふまでもなく、一切の我我の智慧のはたらきを離れたるときにあらはれるものであります。一切の智慧はたらきと申すのは、思考や判断や想像などのすべてのはたらきを指して言ふのでありまして、それ等の智慧のはたらきが巳むときに始めてあらはれるものが何事をも疑はずしてただそれを信ずるといふ心持であります。  問 哲学の上に直観といふ言葉が行はれて居るやうでありますが、今の何事をも疑はずして不思議と信ずるのと同じものではありませぬか。  答 哲学で直観といふのは、思惟によりて間接に物を知るのではなく、直接に物を知るのであります。何等我我の作為を加へないで、そのままに物を受取るといふ意味であります。それ故に、心理学の上で、智慧のはたらきが巳みたるときにあらはれる心持であるといふのも全く同様の場合があることが確かであります。  問 しからば不思議と信ずるといふのは直観のはたらきによるものであると言つてもよいでしやう。  答 宗教的の思考が直観であるといふことは疑のないことであります。何れにしても我我の思考のはたらきにあらずして、さう信ぜねばならぬやうな心持の起るのをただ不思議と信ずるといふのであります。我我の思考の結果として、さう信ずべきであるからとして、それを信ずるといふのであれば、ただそれを信ずると言つても、決してただではなく、或は仕方なしにさう信ずるのであるか、或はさう信じて居る方が都合が善いといふやうなことで、さう信ずるのでありますから、決してただ信ずるのではありませぬ。直観的の思考は普通の思考に反して論理的のものではありませぬが、しかし、今ここにただ不思議と信ずるといふ心持は、どうしてもそう信ぜねばならぬやうな心持が自からその心の奥からあらはれるのであります。それ故にそれを不思議といふのであります。  問 しからば、さう信ぜねばならぬといふ心持が起るのはどういふ訳でありませか。  答 それは前にも申したやうに、不意識状態にてあらはれるところの感情であるからであります。不意識状態にあらはれるところの感情は全く功利的を離れたものでありますから、いかなる場合でもそれに対して信頼することが出来るのであります。  問 その不思議の感情はいかにしてあらはれるものでありませうか。  答 そのことにつきては前にも一寸申しましたが、いかにして不意識感情が起るかといふことを学理的に説明することは容易ではありませぬが、実際にそれが起る場合は明かに認められることであります。簡単に申せば、我我が一切の智慧のはたらきを離れることが出来たならばその時に意識せられるものが不意識の感我であります。さうして、この不意識の感情によりて我情は、その時に認めたるものを不思議と信ずるのであります。  宗教的意識  問 段段と承はりまして、宗教といふものの意味が、はつきりしたやうでありますが、さう致しますと、宗教といふものは、我我の言葉にては到底これを説明することの出来ぬものでありますか。  答 我我の言葉にて説明することの出来るのはその客観的方面であります。客観的方面といふのは、すなはち宗教的意識として、宗教的感情が意識せられるのであります。言葉を換へて申せば、宗教の心のはたらきが本となりて、我我の意識の上にあらはれて来るところの不可思議の現象であります。  問 さうすると、また再び不可思議といふことにかへりて質問いたすやうになりますが……  答 ちよつとお待ち下さい。私が今、不可思議と申したことにつきて、再び前の不審の問題が起つて来ては不都合でありますから、不可思議といふ言葉を止めて、別の言葉を用ひて、更に新しく説明いたしませう。  問 どうか、さう願ひませう。別の言葉で御説明が出来ることであるならばそれはまことに結構であります。  答 前にも一寸申したこともありましたが、我我の心のはたらきは、外界のものに対して、或は感じ、或は考へ、或は想像し、或は希望するなど、種種雑多のはたらきをするものでありますが、そのはたらき全体がすなはち自我であります。それ故に自我といふことは取も直さず我我の心のはたらきの全体を指して言ふものでありますが、その自我の態度の一種のものを宗教といふのであります。  問 自我の態度の一種といひますと、それはどういふものでありますか。  問 自我の態度は種種様様でありますが、それを大略に区別して、智能の方面と、感情の方面との二種とするのであります。さうして宗教と名づけられるものは感情の方面に於ける自我の態度に外ならぬものであります。  問 感情の方面に於ける自我の態度といふものは、どういふものでありますか。  答 それは感ずるといふことの方面で一種特別の状態が感知せられるのであります。  問 その一種特別の状態につきて今少しくわしく御説明を願ひます。  答 一種特別の状態と申す意味は、自我の態度が種種様様である中に、宗教と名づけられる状態は他の状態と相異して居ると申す意味でありますが、しからば、どう相異するかと申すやうな心のはたらきは、自我が外の方へとはたらくのであります。それに反して感ずるといふ心のはたらきは、心の内の現実の状態でありまして、すなはち自我の内面的の現状に外ならぬものであります。ところで、この自我の内面的の状態の中で、その状態が何によりて起つたのであるか、その由来が自分のわかる場合が常であります。それを普通に感情と名づけられて居るのであります。宗教といふのは、その状態が果して何に由来するものであるか、自分に明かに知られない場合であります。  問 御説明によりて、宗教が一種特別の感情であると言はれることかわかりました。それを不意識的の感情と申されるのでありますか。  答 さうであります。前にも申したやうに普通の感情は、それが或物につきて知るときに、同時にあらはれるのでありますが、宗教の感情の場合には、それが或物を知ることなしにあらはれるのであります。それ故に、宗教の心は我我の心の奥底から湧いて出るところのものであると言はねばなりませぬ。  問 感情といふものが自我の態度であるとすれば、どうしてもその態度をあらはすべき原因が存するものであると推定すべきでありませう。  答 無論、そこに何等かの原因があるのでありませう。ただそれが我我にわからぬまでのことであります。それ故に、それを不可思議のものであると言ふのであります。我我が思議することの出来ぬ或物によりて起りたるところのものが宗教の心のはたらきであります。かやうに感情といふものは自我が外界の或物に対してあらはすところの態度でありますが、生物学的に申すときはそれは外界に対してあらはれるところの自我の反応であります。その反応の一種特別のものが宗教と言はれるのであります。  刺戟語  問 反応と申すと、化学で言ふやうに外界に対して自我がその状態を変ずることを指すのでありますか。  答 さうであります。自我が外界に適応するためにその状態を変ずるのであります。しかしながら、その状態をあとはすところの外界が我我によくわからぬときにあらはれるのが宗教といばれるものであります。さうして生物学にては此の如き外界の或物を刺戟と名づくるのでありますが、宗教の心のはたらきもこの刺戟によりて起るものであるといふことは疑のない次第であります。  問 しからば、その刺戟となるものは何でありますか。  答 その刺戟が我我にはわからぬのであります。しかしながら、その刺戟を含蓄して居るものと認めらるるところのものがあります。たとへばお経の文句はたしかにその中に一種の刺戟を含蓄して居りまして、それによりて宗教の心のはたらきがあらはれるのであります。それ故に此の如きものを刺戟語といふのであります。  問 しからば、その刺戟語といふものはたとへば釈尊の言はれた言葉などを指すのでありますか。  答 さうであります。釈尊の言葉は宗教の心のはたらきをあらはすところの刺戟語として重要のものであります。しかし刺戟語といひましても広い意味でいふのでありますから、ひとり言葉のみに限るのではありませぬ。むかしの高僧や摯実なる信徒の態度や説教や音楽などもすべてこの刺戟語の中に入れらるべきものであります。  問 その刺戟語によりて宗教の心のはたらきがあらはれるものとすれば、それが直接にその刺戟となるのではありませぬか。  答 さうではありませぬ。言葉は同一のものでありましても、それに対してあらはれるところの自我の態度は人人により、又場合によりて相違するものであります。さうして、刺戟語の中に含蓄せるところの刺戟が果して如何やらのものであるかといふことは我我にはわからぬものであります。若しそれが我我にわかるやうなものであれば、決して真正の宗教の心のはたらきは起らぬのであります。  問 しかし、今申されるやうな刺戟語、すなはちたとへばお経の文句が八釜敷、宗教家から伝へられるではありませぬか。  答 実際、それはお説の通りでありますが、しかしながら、それは宗教心理学の知識に欠げて居るものと言はねばなりませぬ。刺戟語、たとへばお経の文句を傅へたところで、それをその文句の儘に受け取るのは知識のはたらきでありまして、結局それを理解し、且つ記憶するといふに止まるのであります。さういふ心のはたらきは前にも申したやうに自我が外の方へと進むものでありまして、自我の内面にあらはれたる現実、一言に申せば自分のものとなつたものではありませぬ。それが自分のものとなつたといふ場合は、刺戟語その儘でなく、その刺戟語に応じてそれぞれ特別にあらはれるところの状態でありまして、宗教といふものは全くこの特別の状態が意識に上るのを指すのであります。  問 刺戟語そのままでなく刺戟語に応じてそれぞれ特別にあらはれるところの状態でありとすれば、それは銘銘自分の心でつくるのでありますか。  答 自分の心で勝手につくり上げるのでなく、さういふやうに現れた心の状態が自から感知せられるのであります。  問 さうすると、銘銘の心に感ぜられることは、その人によるものでありませうから、どんな刺戟語でもよいといふ訳でありませう。  答 どんな刺戟語でも善いといふのではありませぬが、その人の心の状態が、ある一定の程度でありますと、それは如何なる刺戟語に対しても、宗教と名づくる特別の状態をあらはすものであります。既に繰返して申したやうに、宗教といふものは一種特別の感情でありますからその人の性質に感じてあらはるべきものであります。  問 さうすると、宗教といふものはその人が自分の心で創造するものでありますか。  答 もし創造の意味を狭く限りて用ふるならば、宗教といふものは創造であると言つても差へありませぬ。しかしながら無より有が生ずる訳はありませぬから、普通の意味にていふところの創造は想像のはたらきによりて既に知られる事実より更に他の事実を新しくつくり上げるものであります。心理学的に言へば観念の方向を転換するのであります。ただしさういふ想像の作用によりてつくり上げられたるものは真の宗教ではありませぬ。  問 どうも、刺戟語に応じて銘銘の心にその人の心をあらはすことが宗教であるかのやうに説明せられるのであると思はれますが……  答 決してさうではありませぬ。無論同一の刺戟語に対してあらはれるところの反応(自我の態度)は大体に於て同様のものでありますが、細かに見れば決して同様のものでなく、個人によりて千差萬別であります。たとへば、寒冷といふ刺戟に対して寒いといふ心持をあらはすことは人人同様でありましても、その寒いといふ心持は人によりて相異するものであります。それ故に寒いといふ言葉をば同じやうに使用しても、それを使用する人人の心持は決して同一でありませぬ。されば全くその人人の精神の作用がそれぞれ特別のもので寒冷といふ刺戟に対する態度が相異するものであるためであります。さうして、それは決して銘々の勝手でつくり上げたものではありませぬ。自からにしてさうあらはれるのであります。それ故に、この方面から申せば、宗教といふものは、ある特別の場合にあらはれるところの自分の相を発見することであります。発見するのでありまして、想像によりて造り上げるのでありませぬ。  問 さうしますと、刺戟語に応じて各別の自我の態度があらはれるので、それは十人十色のものでありませうか。  答 勿論十人十色であります。十人十色でありますから、単に刺戟語そのものものを伝へるのみでは宗教といふ心のはたらきは起らぬことがあります。  問 しかしながら、宗教が如法と言はれるのは、たとへば釈尊の金言を如実に伝へるといふことではありませぬか。  答 如法といふことはさうでありませう。釈尊の金言は、神聖犯すべからざるものとして、これをその儘に承認すべきものと説かれるのでありませう。その説明に無理はないとしても、それによりて宗の心のはたらきが起るかどうかは事実上の問題であります。八萬四千の法蔵を学すといへども後世を知ることが出来ないとは此辺の事実を語つて居るものであります。  問 しからば刺戟語といふものは宗教の心のはたらきを起すためには必ずしも必要のものではありませぬか。  答 さうではありませぬ。宗教といふ心のはたらきは刺戟語によりて起るものであります。刺戟語なしに宗教の心があらはれるのではありませぬ。ただその刺戟語が宗教のはたらきを起すのはこれに対する心の態度如何によるものであると申すのであります。  問 法をその儘受け取れば善いと言はれるではありませぬか。  答 さういふ説明は、十分に討論せらねばならぬ問題であります。刺戟語をその儘に受け取ると言ひましても、それは決してその儘に受け取られるものではありませぬ。十人が十人、各別の意味にて、しかもそれを自分勝手に取るのが、我我人間の心のはたらきの常であります。そこでむかしから応機とか対機とかいふことが説かれて居るのであります。  主観的因子  問 その応機といふことはどういふ意味でありますか。  答 機といふのは法を受け取る器でありますから。取も直さず、我我の心であります。その機に応ずるといふのは、要するに、刺戟語に対する自我の態度即ち主観的因子に注意することであります。それは法の真実はまことに疑ふべきものは無いにしても、それが機に応じなければ法の真実は決してあらはれぬからであります。  問 しからば、法はその機に応じて真実をあらはすものでありますか。  答 いかにも、さうであります。法は固より真実でありますが、それが我我の心にあらはれない限り、私のためには決して真実のものではありませぬ。真実の法が私を離れて向ふの方にあるといふことを知るのみでは決して宗教のはたらきとはならぬのであります。それ故に、如法と応機とは別別に離れたものでして、如法の刺戟語に対して自分があらはすところの態度が銘銘の宗教なのであります。  問 さうすれば機が法を受取るのに差別がありと見るべきではありませぬか。  答 それが肝要の問題であります。法を其儘受取るといひましても、普通の我我の心のはたらきでは必ずそれを得手勝手に取るのであります。蓮如上人の言はれるやうに、『心得たと思ふは、心得ぬなり』になるのであります。  問 さうすれば、応機といひましてもその機は普通のものと違ふのでありますか。  答 さうであります。宗教の心をあらはす場合の機は全く普通と相違するのであります。  問 かやうに宗教の心をあらはす場合の機は普通のものと相違するものであるといはれるは一体それはどう相違するのでありますか。  答 宗教の心をあらはすが、普通のものと相違するといふのは、宗教の心をあらはすべき機の主観的の因子が人人によりてそれぞれ相違することをいふのであります。さうしてそれは宗教的の体験を成立せしむるに特別のものであります。  問 しからばその主観的因子といふのはどういふものでありますか。  答 主観的因子といふのは、要するに、刺激語に対するところの主観的の態度であります。  問 それは、如何なる態度でありますか。  答 刺激語に対する主観的態度に大別して二種の差異があります。その一は開放的でありまして容易に帰依するのであります、その一は批判的でありまして容易に帰依せぬのであります。  問 主観的の態度が開放的であるといふのはどういふのでありますか。  答 主観的の態度が開放的であるといふのは、個人的の体験が、内的に開放せられて、外来のものを容易に我がものとするのであります。それに全く帰依するのであります。若しくは消極的に対象をば、直接につかむことを妨げるところの思慮をやめて直接の印象をそのまま受取るのであります。この開放的の態度は小児の信頼に比すべきものであります。  問 それから批判的の態度といふのはどういふものでありますか。  答 批判的の態度といふのは、対象に対して、批判的態度をあらはし、自分を開放することなく、我と対象との間に隔りがあるのであります。それ故に、この態度が著しき場合には宗教的体験の成立は困難であります。  問 主観的に此の如き差異のあると致して、それと刺激語とのみで、宗教的体験は成立するものでありますか。  答 ただそれだけではありませぬ。宗教体験の成立には、ただその外に、個人的因子といふものが重要の関係を有して居るものであります。  個人的因子  問 個人的の因子はどういふものでありますか。  答 個人的の因子といふのは、宗教の心をあらはすために、その精神の作用が特別の素因を有すること、それが発達するために特別のはたらきをあらはすことを指していふのであります。これを要するに、宗教的体験をなすための主観的予備条件であります。  問 然らば、それは我我が宗教的体験をするに必要なる特性と考へて差支ありませぬか。  答 さうであります。それは我我が宗教的経験をなすために銘銘が有して居るところの精神作用の特性であります。早く言へば、個人的の稟賦とか傾向とか素因とかいふべきものがすなはちそれであります。  問 さういふ個人の特性がありとすれば、宗教的体驗は人人によりてそれぞれ相違するものでありますか。  答 さうであります。宗教的体驗は個人的の因子によりて人人によりて互に相違するものであります。個人的の因子によりてこの宗教的験の成立・性質及び経過に差異のあることは、心理学上に証明せられたことであります。むかしから、頓機及び漸機といふ言葉がありますがそれは個人的因子によりて宗教的体験が早く成立するか、遅く成立するかを別つ言葉であります。頓機といふのは、忽ちにして宗教的体験が成立し、漸機といふのは、それが漸漸に成立するのを指すのであります。  問 しからば、この個人的因子といふものは全然人人が生れついた性質でありますか。  答 その傾向は固より生れつきのものであります。しかしただ生れつきの傾向のみではありませぬ。その人の過去に於ける一定の印象及び経験が集まりて、個人的の因子をなすものであります。それ故に、それはその人の過去の生活の如何に関係することが著しいものであります。  問 なるほど、個人的因子が人人の間に著しい差異がありとすれば、刺激語を受取る上にも亦それぞれの差異があることでありませう。さうすれば、宗教の心をあらはすべき機は、宗教性の機ともいふべきものでありますか。  答 いかにもさうであります。個人的因子が宗教の心をあらはすに都合のよい機が速かに且つ容易に宗教的体験を成立せしむるものであります。若しその人の個人的因子が宗教的体験の成立の上に都合がよくないときには、余程強い刺激語でなければ、それによりて宗教的体驗の成立を見ることが出来ぬのであります。それ故に、若し刺激語として法が説かれましても、それに対する機がそれを受取ることの出来るやうな個人的因子を備へて居なければ、それによりて宗教の心はあらはれぬものであります。  問 さうすると、宗教的体験の成立には、いつでも刺激語と、主観的因子とさうして、個人的因子とが必要でありますか。  答 さうであります。刺激語といふのは客観的予備条件であります。主観的因子と個人的因子とは共に宗教的体験の主観的予備条件であります。この三つの因子が共にはたらくによりて宗教の心はあらはれるものであります。その一つのみにては、決して宗教的体驗は成立するものでありませぬ。  内因と外縁  問 しからば、主観的予備条件はすなはち仏教でいふところの内因であり、刺激語はすなはち外縁であるとしても差支ありませぬか。  答 いかにもさうであります。刺激語はすべて外縁であります。この外縁は常に主観的因子及び個人的因子の内因に遇ふて、はじめて宗教の心をあらはすものであります。大乗起信論に説いてあるやうに、『木の中の火性はこれ火の正因』であります。木に燃えるといふ内因があればこそ、それに火を点ずればよく燃えるのであります『若し外縁の力ありと雖も、しかも内の法浄法、いまだ薫習の力あらざるものは亦、究竟して生死の苦を厭ひ涅槃を樂求すること能はず』と説いてあるやうに、刺激語の外縁と、機の内因とが相遇ふてはじめて宗教の心があらはれるものであります。  問 よくわかりました。宗教の心のあらはれることは、まことに内因と外縁とが相遇ふて出来るものでありませう。さうすれば外縁のみがありても内因が無ければ到底駄目でありませうか。  答 内因がなければ到底駄目であります。しかし内因が全然無いといふことは決して有りませぬ。ただ内面の状態がいろいろでありまして、時としてはそれが弱くして宗教の心を起すべき外縁に遇ふてもそれに影響せられぬことがあるのであります。すなはち機はさまざまでありますから、その機に応じて法を説くといふことが大切であります。釈尊はまさにこの心理状態を正しく見て居られたのでありませう。  問 いかにもさうでありませう。しかるに多くの聴衆を集めてそれに向つて一様に説法するといふことは宣教者の常でありますが、それは目的を達するためには不都合のやうに思はれますが、いかがでせう。  答 いふまでもなくその効果は十分でありませぬ。むかしから俗諺にも『人を見て法を説け』と言つて居ります。真にその人をして宗教の心を起さしめるためには、よくその人の内因を明かにして、それに対して相当の外縁を加へねばならぬものであります。  問 その外縁といふことにつきて説明を願ひたいものであります。  答 外縁といふのは客観的因子でありまして、心理学上の言葉にてこれを刺激語といふのであります。この刺激語は主観的態度とが十分に宗教の心をあらはすやうになつて居るところに刺激を与へて、その宗教の心をあらはさしめるものであります。  問 しからば、この刺激語が宗教の体驗の内容をなすものでありますか。  答 刺激語そのものが直ちに宗教の体験の内容をなすのではありませぬ。刺激語によりて主観的因子が刺激せられてここに宗教的の体験を成就せしめるのであります。  問 しからば、刺戟語はただ客観的因子として主観的因子を刺激するに止まるものでありますか。  答 さうであります。刺激語により主観的因子が適当の刺激を受けて、ここに始めて宗教的体験が成立するのであります。  問 いかにも宗教の心の起るのは必ず内因と外縁とを要するものであることは瞭解せられましたが、しかしその内因と外縁とのどちらの方が重要なのでありますか。  答 内因と外縁と、どちらが重要であるといふことは申されませぬ。内因のみによりて宗教の心があらはれるものでもなく、又外縁の力にのみよりて宗教の心があらはれるものでもなく又外縁の力にのみよりて宗の心があらはれるものでもありませぬ。内因と外縁とが相倚りてここに宗教の心があらはれるのでありますから、どちらか一方が他方よりも重要であるといふことは決してありませぬ。  問 しかし、内因と外縁とに強い弱いの差異はありませう。  答 それは無論のことであります。内因は人々の主観的態度(傾向)と主観的因子とでありますから、それが人々によりて強い弱いの差異があることは勿論であります。前にも申したやうに宗教の体驗者に頓機と漸機との差別があることは当然であります。内因に強弱がありますから、従つてそれをして宗教的体験の成立をなさしめるために必要なる外縁が弱くして十分なることがあり、又強くなければ宗教の心のあらはれることがない場合があります。  問 さうしますと、宗の心のあらはれるのに、先づ内因を必要とすることは無論として既に内因が備はつて居る以上は、一切は客観的因子のはたらきによるものでありますか。  答 いかにもさうであります。たとへて申せば、人々が内因として宗教の心をあらはすことが出来る素質を有するものとして、その人が南無阿弥陀仏といふ刺戟語に接して、そこに宗教の心をあらすことが出来るのは、南無阿弥陀仏といふことにつきての知識やそれに関する思考などが、従前の記憶と現在の知識とによりて、その心をそれに向はしめるためであります。早く言へば、どうしても、さう信ぜねばならぬやうになるのでありますから、全く客観的因子のはたらきによるといはねばなりませぬ。  問 客観的因子はこの場合何時でも同じやうに内因の上にそのはたらきをあらはすものでありますか。  答 さうではありませぬ。客観的因子は同一であつても、内因がそれによりてあらはすところの宗教の心の有様は常に相異して居るのであります。  問 さうすると、又疑問が元へもどるやうでありますが、仏の金言と申して塵ほども動かすことが出来ぬと説かれて居つた経文も、人人によりていろいろに受け取られるものでありませう。  答 いかにもさうであります。仏の金言と説かれるものでありましても、それが銘銘の心の内にはたらきをあらはしてこそ始めて銘銘の体験となるのであります。それを仏の金言として崇拝して居るのみでは、それは単なる知体でありまして、決してその人の心の上に宗教としてあらはれたのではありませぬ。いかにも金言であるからと言つても、ただそれを尊崇するといふことは宗教の上では何等意味のないことであります。  問 しからば仏の金言をば自分の勝手にこれを取捨するといふことになりはしませぬか。  答 自分の勝手に取捨するといふことは、自己中心の意識が強くはたらいて居るときのことであります。宗教の心のはたらきは、この自己中心の意識を離れて私のいふ不意識状態にてあらはれるところの感情でありますから、決して自分の勝手に仏の金言を取捨するやうなことはありませぬ。しかし、むかしから、仏の金言はありがたくこれを戴くのみのもので決して彼此と論評すべきものではないと言はれて居ります。宗教の心のはたらの上では彼此の論議をすることは決して無い筈であります。固よりただこれを仏の金言として戴くのでありますが、しかしこれを戴くといふところに人により異同が起るのであります。  問 人によりて異同が起るのはすなはち内因によるものでありませうから、内因の同じからざる人人が仏の金言をまちまちに理解しては、宗教の心があらはれまいと考へられますが、それはいかがのものでせう。  答 仏の金言を理解するのが宗教の心のはたらきではありませぬ。理解するのは智慧のはたらきであります。宗教はこの智慧のはたらきを離れて、そこに自からにしてあらはれて来るところの感情であります。そのことは前にくわしく申した通りでありますから仏の金言はすこしもこれを動かすことが出来ないと考へるのは人人の心理状態を知らぬ人の言ひ分であります。  答 どうもわかりにくい点がありますから、どうぞ卑近の例を挙げて説明を願ひます。  答 しからば、卑近の例を挙げてこれを説明致しませう。釈尊は八正道を説いて、この八正道を修めて涅槃のさとりを開くべしと勧められたのであります。この金言を聞いて、しからば八正道を修めて涅槃のさとりを開かむと努力する人人は釈尊の言葉をそのまま受け取りてただこれを行うとするのであります。それは正しく道徳の心のはたらきでありまして、決して安らかな心持ではありませぬ。しかるに親鸞聖人はその言葉を聞いて何れの行も及び難しと自分をみて居られるのであります。何れの行も及び難しと自分を見限りて居られるところに自己中心の意識から離れて、そこに自からにしてあらはれるところの正定と正念との心があらはれるのであります。これが宗教の心のはたらきでありまして、正しく安心立命的のものであります。  二種深信  問 内因外縁とが相倚て宗教の心があらはれるのであると致しますと、これまで仏教にて機の深信とか、法の深信とか説かれたものが、それに相当するものでありませうか。  答 お尋ねの意味は、法の深信が外縁で機の深信が内因であるかといふやうでありますが決してさうではありませぬ。法の深信といひましても、又機の深信といひましても、説教にては皆さういふことを刺戟語として聞くのでありまして、決して主観的態度となつたのではありませぬ。  問 しかし、自己が煩悩具足であり、罪悪深重であるといふことを信ずることは、法の深信を得るための主観的因子ではありませぬか。  答 法の深信と機の深信とを別けて説かれるのは、説明のための便宜でありまして、実際にこの二種の深信が別れて居る筈はありませぬ。理論的に心のはたらきを別けて言つたまでのことで、実際となれば、この心のはたらきは全く一とつであります。  問 全く一とつであるといふ意味はどういふことでありますか。  答 自己が煩惱具足・罪悪深重であると信知するときに、法の信知が出来るといふのは、結局機の信知そのものが法の信知に外ならぬのであります。それ故に、心のはたらきの上から見るときは法の深信と、機の深信とは全く一とつのものであります。さうして、この法を深信するといふことは、機を深信するといふことと、機を深信するといふことを聴聞することは、共に客観的因子としてそれによりて主観的因子を刺戟するのであります。  問 法の深信が客観的因子であることは言ふまでもありませぬが、機の深信が客観的因子であるといふことは合点がまゐりませぬ。  答 機を信ずるといふことは要するに自分の愚悪を知ることでありますが、多くの人人が、常に自分といふものは「考へたる自分」でありまして、「現実の自分」ではありませぬ。「私」といふものが別にあつて、そのものが愚悪であるとするものであります。それ故に、自分といふものもさういふ場合、全く客観的のものであります。  主観的態度  問 かやうに外縁と内因との関係はこれまで宗教家の方ではくわしく説かれて居ないやうでありますが、それはどういふ訳でありませう。  答 それは言ふまでもなく、宗教の心のはたらきを心理学的にくわしく見て行くことをしなかつたためでありませう。しかしながら、その事実は事実として存在するものでありますから、この事実に全く考がつかなかつたわけではありませぬ。  問 それは古者の時代にも巳に言はれたことでありますか。  答 親鸞聖人の言葉が「教行信証」に出て居ります。それは「徳號の慈父ましまさずば能生の因かげなむ、光明の慈母ましまさずば所生の縁そむきなむ能所の因縁和合すといへども信心の業識にあらずば光明土にいたることなし真実信の業識これすなはち内因とす光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を証す』とあります。これは光明を母にたとへ、名號を父にたとへて、光明の母、名號の父があるとも、報土にまさしく生るべき信心のたねがなければならぬ。信心を起して往生を求願するとき名號もとなへられ、光明もこれを摂取するのであると、かういふ意味であります。これは単に一例でありますが、かういふ風に内因と外縁との関係が考へられたのであります。  問 それが今ここで言はれるやうに、客観的因子としての刺戟が内因としての主観的因子を刺戟するといふことと同じことになるのでありますか。  答 さうではありませぬ。この例証にありて説かれて居ることは、光明と名號とは信心の上に受け取られるものであるといふことであります。私が申すところの内因と外縁とは、外方からの刺戟に対してあらはるるところの主観的態度につきているのであります。  問 いかにもさうでありませう。内に信心があり。外にあるところの光明と名號とを受け取ることが出来るのならば、それは何時でも同じことであるべき筈でありますが、外方よりの刺戟に対する主観的態度であるとすれば、何時でも同じことであるとはせられぬ筈でありませう。  答 全くさうであります。たとへば、善導大師の言葉に『不得外現賢善精進之相内懷虚仮』とあるのを、法然上人は『外に賢善精進の相を現して内に虚仮を懐くことを得ざれ』と読むで居られます。聖覚法師の「唯信鈔」にも同じやうに読むであります。その意味は我我の心は外も内も賢善でなくてはならぬ、ただ外にのみ賢善の相をあらはして内に虚仮を懐いて居つてはならぬといふことであります。それ故に法然上人や聖覚法印は善導大師の言葉をその言葉の表面に見ゆる意味に受け取て居られるのであります。しかるに親鸞聖人は全くこれに反して『外に賢善精進の相を現すことを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり』と受け取つて居られるのであます。善導大師の言葉は同じやうでも、それを受け取る人の個人的因子によりて、大なる相 異があることはこれにて証明せられるのであります。  問 法然上人の読み方の方が正しいのではありませぬか。  答 漢文でありますから、それを国文に訳するときは法然上人の方が正しいのでありませう。親鸞聖人の読み方は漢文の訳としては正しくないのでありませう。  問 しからば、正しい方の法然上人の読み方が善いのでありませう。  答 法のことを論ずれば正しくさうでありませう。しかしながら、宗教の心のはたらきとしては文法の正否によるべきものではありませぬ。  問 しからば、親鸞聖人がさういふ風に読まれたのは、どういふわけでありませうか。  答 自分の愚悪なることを徹底的に知つた親鸞聖人としては、内に懐仮を懐くものが外面に賢善の姿をつくろつても駄目だといふことが強く感ぜられたのでありませう。自分の愚悪を知りてその愚悪から離れやうとする心の強かつた法然上人には親聖人の読み方と相違した方が出来たのでありませう。  問さうすると、法然上人と親鸞聖人とにありて善導大師の言葉を受け取つた心持に相違があつたのでありませうか。  答 両者の間に相違があつたかどうかは分りませぬ。しかしながら、その表現の方法につきて申せば親鸞聖人の方が、現実的であります。自分の愚悪を見て、これを如何ともすべからず地獄一定を悲歎して居られるのであります。さういふ心持のときに、自己を中心とする意識は無くなるのでありますから、その時にあらはれる心のはたらきがすなはち宗教であります。  問 しからば、法然上人の心持は宗教ではないのでありませうか。  答 法然上人の心が宗教でなかつたと申すのではありませぬ。法然上人とても自己の愚悪を深く知りて、どうにかしてそれから離れやうと努力せられたのでありますから、結局は自己中心の意識から離れられたのでありませう。たださういふ表現の方法によりて、善導大師の言葉を受け取つたる多くの人には全く自分を棚に上げて、自分のために都合の善いことのみ考へることでありませう。さうなれば、それは決して真実の宗教の心をあらはすことはない筈であります。  問 お説を承はりまして、大分はつきりしたやうであります。よく考へて見ますと、これまで内と外といふことの意味がわからなかつたやうであります。  答 いかにもさうであらうと思ひます。内と外とを区分するのは自分の心を本としているのでありますから、内といふのは自分の心の現実のありさまに外ならぬものであります。外といふのはこれに対して自分の心を動かすものをいひ、又自分の心のはたらくことをも指すに外ならぬのであります。  創造的作用  問 かやうに承りますと、外縁と内因と相和して宗教の体験があらはれるといふことは明がでありますが、しかし、それにしても内因が主たるもので、結局、内因たる主観が宗教を創造するものでありませう。  答 いかにもさうであります。私はこれまで、宗教の心のはたらきは、客観的因子に対する主観の態度であると説明しました。それは固より分析的に客観的の刺戟と、主観的の反応とを区別して説明したのでありますが、実際宗教は具体的のものでありますから、刺戟語と、それに対する自我の態度とが別別にあらはれるものではありませぬ。この意味から、宗教は自我の内面的の現状を指すに外ならぬものであると申したのであります。  問 そう致しますると、宗教は人人の心のはたらきによりて、勝手に創造せらるべきものとすべきでありますか。  答 心理学の上から見れば、宗教は人人の心のはたらきによりて創造せられるものでありまして、宗教的体験の対象となるものは人人の創造作用の結果に外ならぬものであります。  問 さうすると、神や仏といふものも皆、人人の創造にかかるもので、心の外に神や仏が存在するものではないのでありますか。  答 固よりさうであります。六ヶい言葉にて申せば、宗教は人人が自分で創造するところの観念の中にその体験が客観化せられるのであります。決して超越的の客観性のものを人人の体験の中に主観化するものではありませぬ。  問 大層六ヶ敷しいことになりましたが、さうすると、宗教の心のはたらきは神や仏をも勝手につくり上げるのでありますか。  答 低級の宗教にありては、実際に神や仏を自分で勝手につくり上げて、それを崇拝して居るのであります。しかし、高級の精神的宗教ではさう自分の勝手次第に神や仏をつくり上げるのではありませぬ。さうして、この場合に於ける宗教的創造の過程は甚だ複雑のものであります。要するに宗教心理学は、この創造の過程を研究するに外ならぬのであります。  問 創造すると申しますと、何だか自分の勝手につくり上げるやうに思はれまして、かやうにつくり上げられたる神や仏はありがたいものではないやうに考へられます。  答 いかにも、伝続的に或る宗派の教義を信じて疑はぬ人に取りては、宗教が人人の創造作用に本づくものであるといふことは甚だ奇怪に思はれませう、さうしてそれは宗教の尊厳を冒涜するものであるやうに考へられることでありませう。しかしながら、それは全く心理学的に宗教のことを考へないためでありまして、私が前にしばしば繰返して申した通りに、宗教は不意識の感情であります。自我の内面の現状であります。客観的刺戟語に対する自我の態度に外ならぬものであります。分析的にかやうに種種に説明することも、具体的に総合して申せば、それは全く人人の宗教的創造作用の結果であるといはねばなりませぬ。  問 創造的作用といひますと、彼の芸術もさうでありませうが、しからば芸術と宗教とは全く同様の創造的作用によるものでありますか。  答 芸術も固より創造的作用によるものであります。それ故に、宗教の創造的作用も、芸術の創造的作用に似たものであります。概略に申しますと、芸術にありては感情といふものが根本となり、その感情が客観化せられるところに芸術が創造せられるのであります。たとへば晝間景色の善い山を見ると、そこにあらはれたる感情によりて、創造的作用が起りて、自分の気分に応じた山を描くのであります。それ故に実際に目撃したる山よりは多少相違したる山が出来るのであります。宗教の創造的作用も、大体これと同様のものでありますが、それと相異するところは、芸術の場合にありては、その想像の物が非現実のものであるといふことが意識せられるのであります。これに反して宗教の場合にありては想像の結果としてあらはれたるものが、全く実際性のものと考へられるのであります。  神話  問 今少し、くはしくそのことにつきて御説明を願ひたいものであります。  答 宗教的の創造作用のことにつきてお話しするには、その前階級であるところの神話を形成するところの創造的作用につきて申し上げることが必要であると考へますが、その神話と申すのは、経験によりて知り得たる事項をば想像の力によりて、超越的世界にまで高めるところの創造的作用であります。  問 しからば、かやうな神話は、いかにしてあらはれるものでありますか。  答 神話は固より感情に本づくものであります。しかも実際にそれは恐怖の感情に本づくことが甚だ多いのであります。芸術の場合には、この感情は意識せられるのでありますが、宗教の場合にありてはそれが意識せられずして、それに相癒したる事物(動物、自然対象或は特別の人など)に結合し、感情によりてその相応性を一層強くして、それによりてその事物を変更するものであります。すなはちある事物に対して恐怖の感情があらはれるとき、想像の作用によりその事物の恐怖性を亢進し、遂にそれに魔力を賦興して、その事物を神話的のものに変更してそれを悪魔とするに至るものであります。今日の我我より見れば、それは超越的のものに見えますが、原始的の人人にありてはそれが全く真実のものであります。  問 しからば、この神話はすべて宗教となるのでありますか。  答 さうではありませぬ。神話は宗教の前階級でありまして、宗教的創造作用に対して材料を与へるものであります。さうして、かやうにして形成せられたる神話と、それに対する人人との間に親密の関係が成立するときに至りてそれが始めて宗教となるのであります。言葉を換へて申せば、感情に本づくところの想像がその人の心の上に反応作用を及ぼすときにそれが宗教となるのであります。この意味から申せば、宗教といふものは創造性想像の形成(感情の象徴)があらはれ、それがその人の固有の生活を保持し、その人自身及び他の人人の上にその作用をあらすものであります。  超越的世界  問 かやうに承はつて見ますると、宗教の根本は創造にあるものと申して差支へありませぬか。  答 宗教を心理学の上から考へるとき、その根本とすべきものは、必ず創造の作用であります。  問 しからば多数の仏教の信者が考へて居るやうな淨土なども人人の創造によりて出来たものでありますか。  答 超越的の世界として浄土の実在を信ずることは伝統的に宗派の教義を株守して居る人人に取りては重大のものでありませうが、これを心理学の上から見るときは、それは浄土の実在性につきていふのでありまして、浄土が果して存在するか否かといふことを討議することは宗教の上には意味のないことであります。  問 その浄土の実在性といはれるのはどういふ意味でありますか。  答 前にも申したやうに芸術にありても、それは想像によりてつくり上げられるものでありますが、この場合、芸術家はその想像の産物が非現実的のものであるといふことを意識するのであります。ところが宗教にありては、我我の経験を超越したるものを想像的創造作用によりてつくり上げて、しかもそれが全く、超越的世界と考ふるものが実在性を持つて居るといふことを信じて疑はぬのであります。  問 さうすれば、結局、超越的世界として淨土は実在するものと想像するのでありますか。  答 浄土を実在するものと信ずることは、芸術の創造と同じことでありまして、それでは宗教のはたらきをあらはすものではありませぬ。我我が現に経験するところの世界を補充するために超越の世界を創造することは全く感情の幾揚によりて想像の作用を逞しくすることによるのでありまして、その感情の発揚はこの創造の世界の実在性を信じて疑はしめざるものであります。ここに宗教と芸術との差別が存するのであります。前にも申したやうに、芸術の場合にありては、想像の作用によりて創造せられたるものは非現実的のものであるといふことが自から知られ、若しくは少なくとも現実に相違して居るといふことが分から知られるのであります宗教の場合にありては、その創造は全く実在性のものと信ぜられるやうに感情が強くはたらくのであります。しかもこの場合にはその実在性は感覚によるものよりも更に一層強くあらはれるものであります。  問 実性といへば空間的に超越世界が存在するといふのではありませぬか。  答 さうであります。浄土が超越の世界であると申しても、それが空間的にこの現実の世界の外に存在するといふのではありませぬ。何れの宗教にありても、この超越的世界といふものは経驗的世界が全然区劃せられたものではありませぬ。超越的といふことは全く精神的に言ふのであります。  問 精神的と申すのはどういふ意味でありますか。  答 宗教的に超越的世界を創造して、たとへば、それを淨土とするのは主に評価の意味に本づくものであります。言葉をかへて申せば、宗教的の超越的世界は、その実在の感情に対して経験的世界を超越するのであります。感覚の世界に満足することを得ざる感情は、一切を超越的世界に投影するものであります。我我の経験の世界にあつては、見ることを得ざる真と善と美とをそこに求むるのであります。  問 さうすれば、宗教の上にて超越的世界といはるものは、最高の存在の概念であるといふべきものでありますか。  答 いかにもさうであります。  問 それが概念でありとすればその概念は漸次に発達するものでありませう。  答 勿論、それは漸次にして、常に理想的に形成せられるものであります。  問 どういふ風に形成せられるものでありますか。  答 文化が尚ほ幼稚なる時代にありては、超越的世界の優越は権力の上に認められるのでありまして、その超越の代表者と認められるところの悪魔又は神神は、高級の力を有するものとせられるのであります。しかるに、文化が進み、思考が発達するに從ひて、一切の美と真と善とが超越的世界へと伝達せられるやうになるのであります。それ故に、宗教は、人間の理想が萬足せらるべき世界と関係を有することを求むるものであると申してよろしいのであります。  宗ヘ的観念  問 かやうに説明せられますと、仏とか淨土とかいふものも、要するに一とつの宗教的観念に外ならぬものであるやうに考へられます。いかがでありませう。  答 さういふ質問にお答へするには、先づ宗教的観念につきて説明する必要があります。勿論宗教的観念につきては、くわしく説明せねばならぬのでありますが、今ここで、質問にお答へするためには、宗教的観念は、ある超越的世界をつかむべく努力することを、その特徴とするものであるといふことを挙げませう。超越的世界は、その本質より見て、人間の世界を超越するものでありますが、我我人間は、常にそれにつきての観念を形成すべく努力するものであります。これがすなはち宗教の事実であります。かやうにして、仏といはるるものも、浄土といはるるものも、宗教的観念として形成せられるものであります。  問 その宗教的観念と、尋常の観念との間にどういふ差異がありますか。  答 それは前にも申したやうに、宗教にありては実在性が極めて強くあらはれるものであります。宗教的の創造観念にありては彼の芸術に於けるものとは相異して、その劇しき感情のはたらきによりてその実在が疑はれぬのであります。  問 さうすると、宗教といふものは、超越的世界の観念に対する我我の感情の態度であると申して差支ありませぬか。  答 前にもくわしく申したやうに、宗教といふものは元来、感情のはたらきに本づくものであります。しかもそれは、前にも申したやうに不意識の対象に対してあらはれるものでありますから、まことに不可思議のものであります。しかしながら、我我の心のはたらきは、感情のみから成立して居るものではありませぬから、感情がはたらくといふと、それから想像や理解のはたらきが起り、観念が形成せられて、その感情によりてあらはれたものを遂に実存のものとして体験するやうになるのであります。  問 しかしながら、感情といふものは常に変化するものでありますから、永久にその実在を信ずることは出来ないではありませぬか。  答 固より感情によりてあらはれたるものは、ただ感情のはたらきのみによりてはこれを永久に保つことは出来ませぬ。そこで感情は思考のはたらきを催進して、感情に本づきてあらはれたるものに知識の内容を加えるものであります。超越的世界が創造せられるのも全くこの思考のはたらきが加はることによりて成就するのであります。  問 お話を承はりまして漸く、創造の観念といふ意味が分つたやうであります。  答 宗教は感情のはたらきであるといふことは無論のことでありますが、それには観念のはたらきが次ぎて起るものであります。観念のはたらきが起りて、始めて我我はつかむことの出来ぬものをつかみ、認むべからざるものを認むるのであります。宗教的観念と言はれるものはすなはちこれであります。  問 かやうな宗教的観念があらはれるのに何か特別の精神作用が存するのでありますか。  答 あります。それは象徴的の思考であります。  象?的思考  問 象徴的思考といふのはどういふものでありすか。  答 象徴的思考といふのは、我我が経験の世界にありて得たるものを象徴(シンボル)的にいまだ経験せざる世界に移すところの思考であります。この象徴的思考が宗教的観念の主なる材料となるものであります。さうして、我我はこの象徴的思考に一定の変化を与へて、それをまだ経験せざる世界に移すのであります。これを六ヶ敷しい専門の言葉にていふときは、経験世界を超えて進出しやうとする感情要求の客観化としてあらはれるところの観念であります。  問 さうすれば彼の神話と名づけられるものも、これに属するのでありますか。  答 さうであります。神話と名づけられるところの宗教的観念に、禮拝といふ行動が加はりて、そこに宗教的の行為があらはれるのであります。  問 宗教的観念があらはれるのに象徴的思考といふ特別の精神作用を要するとすれば、その象徴的思考といふものはどうしてあらはれるものでありますか。  答 象的思考といふものは、心理学的に見ると、まことは複雜のはたらきであります。それ故に、これを説明することも簡単には出来ませぬ。しかし、前にも申したやうに、宗教的観念を明かにすることは宗教の心理の上に重要でありますから、そのことにつきて大略の説明を致しませう。  問 十分にそれをはりたいのでありますが、その前にまづ象徴といふことにつきて御説明を願ひたい。  答 御尤であります。前に申したやうに宗教的観念といふものは、観念すべからざるものを観念するのでありますから、論理上の困難があります。そこでその困難に打ち勝つために論理を離れたる思考が成立するのであります。さうして、この思考の重要なる要素をなすものが、象徴(シムボル)であります。  問 象?といことは固より西洋の言葉の翻訳でありませうが、ある哲学の書物に標號と記してありますが、それでもよいのでありますか。  答 その意味から申せば、標號としても、若しくは記號、若しくは符號としてよいと思ひます。それは象徴(シムボル)といふものが、抽象的の観観念をば明かに見えるやうにするための記號に外ならぬものでありますから、これを記號又は符號としてもよいと思ふのでありま  問 さうすると、象徴といふものはある一定の観念を喚び起すための記號でありますか。  答 さう申しても差支がありませぬ。今お話して居る場合でいひますと、我我が経験世界にて得たる内容をば、超越的世界に移して考へやうとするところに、記號として用ひられるのであります。  問 さうすると、象徴的思考といふのは既知の事実によりて未知の事物を推定するのでありますか。  答 さう簡単にかたづけることは出来ませぬ。これまで思考作用の心理につきて説かれたところに拠ると、概念は個個の観念の聯合によりてあらはれるのでありますが、実際それはさうでなく、本来あらはれて居つた非論理的思考の解離によるものであります。個個の観念が細工のやうに、分れて我我の精神の中に存すると考へるのは間違で、始めは一処になつて居るところの観念から解離して個個の観念があらはれるのが事実であります。かういふ訳でありますから、象徴的観念といふものも、元来の非論理的思考から分離してあらはれるものであります。  問 六ヶ敷いことでありますから、まだ十分にわかりませぬ。そこで一寸伺ひます。我我の精神の幼稚なる場合にあらはれて居るところの非論理的思考が解離して、それから象徴的観念があらはれるのであると申されるのでありますか。  答 さうであります。例を挙げて申すと、たとへば原始的の人類が始めて猛獣を見るとするこの場合、先づそれを目撃し、それから後に聯合の作用によりてその威力を恐れることになるのではなく、猛獣を見た当初から恐怖の感情も巳に起つて居たのであるが、それが段段に解離せられて個個の観念をあらはすに至り恐怖の感情もあらはれて来るのであります。これと同じ事由で象徴的観念といふものも、その始め非論理的思考が解離して、そこにあらはれるものであります。  問 しからば、その非論理的思考といふものはどういふものでありますか。  答 それは、まだ論理的思考があらはれぬ前の複合的思考であります。いろいろの思考が複合して居るので、それが解離して論理的思考があらはれるのであります。それ故に、非論理的思考はむしろ前論理的思考といふべきものであります。  問 さうすると、論理的に思考することのはたらきが起らぬ前に、象徴によりて一種の思考が起るのでありますか。  答 前に申した通ほりある記號によりて一種の思考が起るのを象徴的観念といふのでありますから、それはいふまでもなく前論理的思考であります。畢竟ずるに、宗教的の感情が強くあらはれると、その感情の対象として、観ることの出来ないものをば観ることの出来るやうに、これを創造するのであります。論理的思考にかかはらずして、その感情が要求するところの超経験的の本質をば経験的の客体(対象)の上につくり上げるのであります。  宗教的の象徴  問 象徴的観念のことは大分わかつたやうであります。そこで尚ほ進むで宗教的の象徴につきて説明を承はりたいものであります。  答 段段と説明が込み入りて、お了解が困難であると考へますが、それは我慢して頂いて、も少し、説明するところをお聴き下されば、大抵おわかりになるであらうと考へます。我我の精神の普通のはたらきで、経験するところの客体(対象)は論理的に分析することが出来るものでありますが、我我の経験を超越するところの客観(対象)は固よりこれを論理的に追及することが出来ませぬ。しかるに、宗教の感情はこの超経験的のものを要求するものであります。そこで、この感情の要求がその人の本能(衝動)の特性如何によりて、宗教性の象徴が選ばれるのであります。かやうにして、積極的及び消極的の自己保存のための対象(事物)が超越的本質の象徴(記號)となるのであります。たとへば、重要の食物又は雷電或は恐るべき事物が超越的威力を有するものと信ぜられるに至るのであります。  答かやうな場合には、象徴すなはち雷電又は病気などが直ちに超越的のものと信ぜられるのではありませぬか。  答 精神作用の幼稚なる場合、たとへば野蛮人や小児にありては、かやうに、象徴そのものが象徴で、象徴の観念ではありませぬから、象徴に魔力ありと信ぜられるのであります。それ故に、此の如き幼稚の精神作用を有するものにありては、象徴と象徴化することは全く同一のものであります。  問 さうすると、象徴化することは段段と進歩するものでありますか。  答 固よりさうであります。文化の進みたる人間にありては始め対象(事物)の中に存すると考へられたる宗教的の威力は漸次にその事物から離れるのであります。すなはち感覚的の象徴から進みて精神的の象徴に移るのであります。  問 しかし、基督教では、今日でも「パン」と葡萄酒とに神が権化すると説いて居るではありませぬか。  答それは基督の昇華せる観念でありまして、原理としては、神の観念をば感覚的象徴からは離して居るのであります。  問 さういふやうに承はれば、たとへば陰具崇拝の場合に、尊崇せらるるところの陰具は全く宗教的の象徴であり、さうして象徴そのものが威力ありと信ぜられるのであるといふことがわかりました。  答 いかにもさうであります。象徴は記號でありますから、直ちにそのものに威力があるのではありませぬ。しかし、人人は超越的のものを要求するの感情が強くあらはれるために、象徴によりて現在の経験の世界に超越的の存在を考ふることをするのであります。象徴的観念といふものは、かやうにして、我我の宗教的観念の発呈に重要の位置を占むるものであります。  問 宗教的の象徴(シムボル)は大体いかやうなるものでありますか。  答 宗教的象徴は、前に申した通り、現在の世界に、超越的の存在を代表すると信ぜらるるところの記號と見るべきものでありますが、これを表面的に列べて見ますと、大凡次の通ほりであります。  (一)自然の事物及び自然の現象(天、地、星、暴風雨、火、河、樹木等)  (二)動物(狐等)  (三)人(英雄、死したる人の霊等)  (四)人工的客体(神の像等)  勿論、是等の事物そのものが宗教的感情の対象ではなくして、そのものが啓示すると考へたる超越的権力の記號(象徴)として信ぜられるのであります。  問 さうすると、いかなるものにしても、それが宗教的象徴とせられるには、何か特別の性質がなくてはならぬ筈でありませう。  答 無論さうであります。ある物が超越的存在の象徴となるには、それが人人の感情と想像作用とを発揚せしめるものであることを要するのであります。固より原理的には何等正確なる根拠を必要とするものではないことは言ふまでもありませぬ。殊に天とか星とかのやうに遠く隔りたるもの病気や性欲のやうに始終身体を侵すもの、人や動物が一時的に消失し又は永久的に消失する場合(死亡)には想像作用が強くあらはれて経験せる内容をばを超越せるものとすることが出来るのであります。  問 さうすると、宗教的思考はすべて象徴的のものでありませうか。  答 さうではありませぬ。宗教的思考は、前に申したやうにある一定の物をば、宗教的象徴として見る外にそれをば純精の経験的対象として認むるのであります。くはしく申せば、我我人間は、経験的対象の上に応用するところの思考の形式(範疇)をば、ただ感知するところの超越世界に移すことをするのであります。さうして、この場合、感情はこの思考の形式に対して何等の内容をも附興せぬものでありますから、思考そのものが内容となつて、結局、それが客観化せられるのであります。  思考形式の客観化  問 お説を承はりますと、宗教的観念があらはれるのに象的思考を必要とする外に、更に客観化するといふことを必要の条件とするやうでありますが、それは前に一寸承はつたことのある実存性といふものと同じではありませぬか。  答 結局は同じでありますが、思考の形式が、超越的世界に移されるによりて、その超越的世界が実在性のものとなるのであります。我我が経験するところの事物につき実在性を考へるのは全く思考の一とつの形式でありますが、超越的世界に移されるときには超越的世界が純粋の存在となるのであります。  問 さうすると、客観化のはたらきによりて、何でも実在性となるのでありますか。  答 この客観化のはたらきは宗教性的観念をあらはすところの必要なる条件でありまして、それによりて、尋常の思考の形式が実存性のものとなるのであります。たとへば因果法則は固より我我の思考法則でありますが、それが超越的世界に移されるときに、それ自体が本質的のものとなりて力又は権勢となるのであります。  問 さう承りますと、人格化するといふことも、同じく、客観化のはたらきに外ならぬものでありませう。  答 我の生活には人格化するとい といふことが必要でありますから、多くのものを人格化するのでありますが、宗教的観念の場合でも、人格化は超越的世界に移されまして、多くの人格的権勢が信ぜられるのであります。  問 しからば、空間や時間などの思考形式も、同様に超越的世界に移して応用せられるのでありませう。  答 いかにもさうであります。たとへば浄土とか極樂とかいふやうな、空間的に考へられる世界が、超越的のものとして、客観化せられるのであります。  問 段段とお説を承りまして、浄土の実在性といふことが、わかつたやうでありますが、前に承はつたところでは、超越的世界は感情の登場によりて創造せられるもので、創造せられたる超越的世界は強い感情によりて実在性のものと信ぜられるのであると承知したのでありますが、今の客観化の御説明と矛盾するやうではありませぬか。  答 決して矛盾するものではありませぬ。前に申したのも、感情のはたらきによりて一定の思考が強い実在性をあらはすものであるといふことを説いたのであります。ここに思考形式の客観化といふことを説明するのも全く同じことを他の方面から述べたのでありまして、決して矛盾したものではありませぬ。  問 象徴的思考と思考的形式の客観化とが、宗教的観念の根本であるといふことは、大体わかつたやうでありますが、それには固より幼稚のものと、進歩せるものとの別があることでありませう。  答 固より発達の程度に於て差異があります。高等ならざる宗教の中には思考形式の客観化が、象徴的思考と和合してあらはれ、従つて、経験によりて得たる内容があらはれて居るのであります。たとへば極樂の荘厳を説くに、現在の世界の状況に比してその美麗を形容するが如きはその一例であります。  問 しからば、進歩したる宗教にありては如何でありますか。  答 進歩した宗教と申せば、哲学的に、精練せられたる宗教性をあらはして居る場合でありますが、この場合には、思考形式の客観化を主として、なるべく象徴的の思考を分離することをつとめて居るのであります。  問 さうすれば、思考形式の客観化といふやうなことは低級の宗教にはあらはれぬことでありますか。  答 抽象的のものを、実在せるものとして、客観的に宗教的・超越的世界を創造することは、低級の宗教には固よりあらはれぬことであります。原始的の人類にありては何でも具体的でありまして、宗教的観念もまた具体的内容を主とするものであります。それ故に、野蛮人の間には、人間と接するところの神神がありて、これを尊崇するのであるが、これに反して、この思考の中に存在するところの最高の神は存在せぬのが常であります。  問 野蛮人には固より経験的の存在と、超越経験的の存在とを鋭く区別せぬのでありますから、宗教的・超越的世界の存在を信ずることは容易でありませうが、文化の進みたる人間にありては、それは容易に信ぜられぬことでありませう。別に何等かのはたらきがそれに加はるのではないかと思はれますが如何でせう。  答 御尤もであります。ここにあらはれるのが超越的世界の実在化といふことであります。前に申したやうにただ超越的世界の実在性があらはれるのみに止らず、更に進みて超越的世界を実在化することがあらはれるのであります。言葉を換て言へば、宗教的存在を実在化するのであります。しかも多くの場合、現実世界の意味に於て超越的世界を実在化するのであります。  問 しかし、さういふ意味の実在化は低級の宗教の場合にもあらはれるものでありませう。  答 しかしながら高等の宗教にあらはれるところの実在化は、低級の宗教に於けるものと相異して、これを精神的存在といふべきであります。  宗教的実在  問 お話が段段と六づかしくなりまして、理解に困難でありますから、ここに一寸、お使ひになります言葉の意味を伺ひたいのであります。先づ実在化といふことはどういふ意味でありますか。  答 お尤のことであります。説明に用ふる言葉の意味を明かにすることは無論重要のことでありますから、先づ実在といふことにつきて簡単に説明致しませう。世の中の一切の事物には固より我我が知覚することの出来ぬものもあります。これを観念的対象といふのであります。これに反して我我が知覚することの出来る事物も少なくないのであります。これを実際的対象といふのであります。かやうに、我我が知覚すると、せぬとに関せず、苟も我我が考へることの出来る事物は、実に有るとせられるので、これを実在と名づけるのであります。  問 さうすると、実在といふのは実際に事物が存在するといふことでありますか。  答 我我が知覚することを得るものは、それが実際に存在すると考へられるのが常でありますが、実在といふものはもつと広い意味で、苟も考へることの出来る一切のものに共通する。賓としての有であります。我我の感覚のはたらきによりて知覚するだけのものを指すのではありませぬ。  問 さうすると実在化といふのはどういふ意味でありますか。  答 それを簡単に説明するときは我我が単に考へたるものが実在であ るとするところの精神のはたらきを実在化といふのであります。  問 そこで承りたいことは、前に申された宗教的存在を実在化するといふことでありますが、全体それは、どういふ意味でありますか。  答 宗教的存在といふのは、宗教的実在と同じ意味の言葉でありますが、その宗教的存在といふのは、精神的存在であります。  問 その精神的存在は高等の宗教にありて始めてあらはれることを承りましたが、その宗教的存在の実在化といふことにつきて、くわしく御説明を願ひたいのであります。  答 宗教的存在の実在化といふことを説明するのには、具体的の浄土のことを例にしてお話致す方が善いと思ひますが、浄土又は極樂と申すのは、我我の感覚の世界を超越したる世界であります。私はこれまでしばしば超越的世界と申しましたがこの超越的世界であるところの浄土は全く実在性のものであります。  問 さうすると、浄土とか極樂とかといふ所が、我我の世界の外に別に存在するのではなくして我我の思考の形式によりて、さういふ所が有りとせられるのでありますか。  答 いかにもさうであります。我我の宗教的感情に本づきて現実の世界から離れて超越的世界を創造するのであります。  問 さうすれば我我が勝手に浄土又は極楽を創造するものでありますか。  答 勝手次第に我我がそれを創造するのではありませぬ。宗教的感情があらはれるときには我我の心のはたらきが、自からにして、さうなるのであります。前にも一寸申しました通り、原始人類にありては、その考がすべて具体的でありまして、宗教的観念も多くは具体的の内容を有して居るのであります。それ故に、神仏といはるるものがその思考の内の存在するといふやうな抽象的の観念に欠げて居りまして、神仏は具的に我我の外に存在して、それと我我とが直ちに接触することが出来るものと信じて居るのであります。それが段段と進歩して、精神の作用の発達と共に、現実の世界を超越したものが考へられるやうになるのであります。決して随意に勝手のものを創造するのではありませぬ。  問 さう致しますと、超越的世界すなはち浄土とか極樂とかといふやうな世界が我我の世界の外に存在して居るとするのが、原始人類の考で、それが段段に抽象的になりて、遂に具体的観念がなくなるのでありますか。  答 具体的の観念が、抽象的の観念となるまでには長い時日を要するものでありますが、精神のはたらきが段段と進歩する内に、具体的の観念が漸次に抽象的の観念となり、さうして、その抽象的の観念が実体化せられるのであります。  問 抽象的の観念が実体化するといふのは、どういふ意味でありますか。  答 抽象的の観念は固より具体的に存在するものではありませぬが、それが実体のもののやうに見られるのが、実体化であります。さうして、高等の宗教では、宗教的の存在として見られるところの超越的世界を実体化して、これを精神的存在とするに至るものであります。  問 しからば、淨土もまた精神的の存在でありますか。  答 無論さうであります。精神的といふのは霊的といふのと同じやうな意味でありまして、全く我我の思考の内容であることを示すのであります。  人格化  問 人格化といふことにつきて、今少しくはしく承はりたい、どうもはつきり致しませぬ。  答 小供や野蛮人のやうな精神の発達がまだ十分でないものは、何か一とつの事があらはれる(たとへば暴風雨が起ると)と、それが或る人格を持つたものの意志によるものであると考へるのが常であります、かういふことを指して人格化すると申すのであります。  問 多少の度に於て、明白なる主観として考へられるといはれたのは、さういふ意味でありますか。  答 さうであります。何かの事のあらはれる場合に、それがある何物かの仕業であるやうに考へるのであります。六ヶ敷い言葉で言へば、ある主観の表現であると考へられるのであります。平易に申せば、たとへば風が吹いて木の葉が動くのを見て、それを風といふ人間のやうなものがそれを動かすのであると考へるのが、人格化といはれるのであります。  問 よくわかりました。さうすれば人格化といふことには幼稚なる精神作用のものから、高等なる精神の作用のものに至るまで種種の階段があることであります。  答 勿論、その内容の如何が大に関係するのであります。そこで、前に申したやうに、宗教的人格化には特別のものがあるのであります。若し具体的内容が無くして、それが人格化せられる場合には、その超越的主観は形態のない観念として成立するものであります。魔といふやうなものは全くこの種の人格化であります。  問 具体的内容のないものとはどういふものでありますか。  答 たとへて申せば、何か非常におそろしく感ずることがありまして、それは人間を超越したものであると考へられても、しかしながら、具体的にどういふものであるかはわからないやうな場合は、具体的内容が無いのであります。魔といふやうなものは、この具体的内容のないものを人格化したのであります。  問 さうするとかやうな魔と真に宗教的の意味の神仏とは人格化の具合がどう違ふのでありますか。  答 それは重要のことでありますから、少しくはしく説明致しませう。前にも申したやうに宗教的の人格化にありては、超越的世界といふものの価値が十分明かに認められて居るのでありますから、それに相応して超越的世界の威力が十分明かに人格化せられるのであります。つまり具体的内容を持つて居るものが人格化せられて神仏があらはれるのであります。  魔  問 魔と神仏とは同じやうなものでありますか、又は全く違つたものでありますか。  答 といふことは魔と神仏とにありて同じことであります。どちらも、主観のものが人格を持つて居るものの如くに考へられることによりあらはれるのであります。しかしながらその根本となるところのものが全く相違して居りますから、魔と神仏とは全く違つたものであります。  問 しかしながら、魔も神仏も、共に人間を超越したものであり、人間にはとても出来ないことが出来る魔力を持つて居るものと考へられることは両者共に同じことではありませぬか。  答 さういふ風に考へられるところの神仏は、低級の宗教に考へられるもので、それは魔と違ふところが少ないものであります。魔といふものは元来が形態のない観念でありますが、人格化のはたらきが進みますと、それも主観的よりして個性的にまで発展するものであります から、さうなると、魔と低級の宗教の神仏とは差別のないものになります。  問 さうすると、低級の宗教の神仏といふものはどういふものでありますか。  答 前に人格化に種種の階級があると申しましたが、魔といふのは、その人格化の低度のもので具体的内容のないものであります。それ故に魔といふものは全く主観的で又不定のものであります。これに反して、その人格化が高度になると、個性的のものとなるのでありまして低級の宗教に於ける神仏は全く個性的のものであります。  問 しからば、個性的のものとなるのが高級でありますか。  答 さうではありませぬ。魔にくらべて高級であるといふだけで、個性的のものとならなければ高級でないと申すのではありませぬ。  問 さうすると、始め全く主観的であるものが個性的のものとなるのはどういふはたらきによるのでありますか。  答 そのことを簡単に申すと、人格化が象徴的の考とよく合ふときに、その象徴的の性質を取り上げるによつて、魔が具体的のものとして考へられて、個性的の神仏となるものであります。  自然神  問 魔から進みて神仏があらはれるとすれば、その神仏にもまた種種の階級があることでありませう。  答 無論さうであります。宗教的の象徴として第一に挙ぐべきものは、既に前に申した通ほりに、自然の現象であります。そこで、人人が、この自然現象の奥に何か人格的のものがあつてはたらくやうに考へるときに、そこに自然神をあらはすものである。そこで、天や、星や、電光や、雷や、山や、川や、木などの奥に人間に似たる形態を持つて居るところの神仏が存すると考へられるのであります。  問 此の如き自然神は魔よりも進歩したる考でありませう。さうしてそれから更に高級の宗教に向ふものでありませう。  答かやうな自然神か考へられるのは、精神の作用が尚ほ幼稚で、我我の周囲にあるところの一切のものがすべて我我と同じやうに精神のはたらきをあらはすものであるといふことを信じ、自然のすべてのものは人間と同じやうに考へ、感じ、又欲するものであると信ずる場合に起るものであります。宗教的の象徴の考が人格化のはたらきと合同して、此の如き自然神を造るものであります。それ故に、その自然神は魔と同じやうに、極めて低級の宗教に属するものであります。  問 しかし、此の如き自然神に対して、これを尊崇し、礼拝し、祈願することが行はれるのでありますから、それがすなはち宗教の特性をあらはすものではありませぬか。  答 なるほど、此の如き自然神に対して、それを我我人間と同じやうで、ただ我我よりもずつと高等のものであると考へるために、その自然神に向つて、祈祷したり、哀訴したり、或は犠牲を供へて、以て自分等の欲求を満足さして貰ふとするのでありますが、さういふはたらきは原始的の宗教の形式に属するものでありまして、これを真実の宗教と同一に見るべきものではありませぬ。  問 動物を神仏とし、又人間を神化することもありますが、それはどういふものでありますか。  答 動物の神仏化は多く見られるところでありますが、それは始め動物の崇拝があらはれ、それが後に動物の特性が個性的に人格化せられるものが多いのであります。人間の神仏化もその具合は略ぼ同じやうであります。どちらにしても、これを宗教の上から見れば、低級に属するものであります。  仏の特性  問 さうすると、神仏の特性といふものは全く、人人の宗教意識の程度に応じて種種であると申して差支ありませぬか。  答 さうであります。概して申せば神仏があらはすところの特性はその人人の文化の程度に相応するものであります。その人人の宗教感情が、倫理的・審美的及び論理的の要求と結合して居るときには、その度に相応して、その神仏は倫理的・審美的及び倫理的の性質をあらはして居るものであります。  問 段段と承はりますと、高級の宗教にありて神仏と名づけられるものは人人の意識の中に具体的内容を持つて居るものが、人格化せられたものであるといふことになりますが、それでよろしいのでありますか。  答 いかにもその通りであります。我我の心の中に、宗教的不可思議と考へられるものが人格を持つたもののやうに想定せられたときに、それが神仏と名づけられるのであります。このことをば主観が客観化せられると申すのであります。  問 しかし、世の中には、神仏は客観的のもので、始めから我我の心の外に存在するものであると考へて居る人人が多いやうでありますが、それは宗教専門の説に出でたものでありませう。  答 それはさうであるかも知れませぬ。たとへばお経の中に、西方の極樂に阿弥陀仏がましまして、現に説法したまふといふやうに説明がありまして、これをその文字通ほりな解釈して阿弥陀仏と申す仏が客観に存在して居ると考へられることもありませう。  問 さう考へても差支ないではありませぬか。  答 さう考へることは固より自由勝手であります。さういふ風に神仏を見てはならぬと申すのではありませぬ。しかしそれでは神仏が宗教上のはたらきをせぬものであります。神仏はありましても、それは我我が勝手の欲望を念願するための対象に過ぎぬのであります。  問 さうでありませう。しかし神仏は不可思議とせられるものでありませうから、さういふ神仏がないとは言はれぬ筈でありませう。  答 勿論お説の通ほりであります。神仏は固より不可思議のものであるとせられて居るのでありますから、神仏が存在するといふのも、それが存在するといふことを認めるのでありまして、決してこれを証明することは出来ぬのであります。又それと反対に、神仏は存在せぬといふにしても、それは神仏を知らぬといふのと同じことで、神仏が存在せぬといふことを証明したのではありませぬ。かういふ訳でありますから、神仏は存在するものであるか否かを証明することが問題でなくして、神仏を認めるか否かといふことが重要なのであります。  神仏を認める  問 さう致すと、我我が神仏を認めるといふのは、神仏ありと推定するのでありますか。  答 神仏ありと推定するのではありませぬ。よく人人の言ふことでありますが、我我の目には見えぬもので、実際に存在するものが少なくない。たとへばラヂウムや電気のやうなもので眼には見えぬが実際に存在して居る。それと同じやうに、神仏も実際に存して居りながら、我我の眼に見えぬのであるといふのは、全く神仏を推定するのであります。今私が神仏を認めると申すのはさういふ意味にて神仏の存在を推定するのではありませぬ。  問 しからば、神仏ありと信ずるのでありますか。  答 さうでもありませぬ。神仏ありと信ずるのは、要するに神仏ありと考へるのであります。我我の心の外に、神仏がありて客観的のものとして存在するのであると考へるのであります。到底我我の力にてはこれを証明することが出来ぬのであるから、これを信ずるより外はないとよく人人の言ふところでありますが、さういふ意味にて神仏を信ずるといふことは我我の思考の外に出ることは出来ぬのであります。これも同じく神仏を推定するに過ぎぬのであります。  問 しからば、神仏を認むると言はれるのはどういふことでありますか。  答 私が神仏を認むるといふのは、結局、神仏を創造することであります。このことにつきては前に一寸申したのでありますが、どうも伝統的の宗派の教義を信じて居る人人が多いので宗教が人人の心の創造のはたらによりてあらはれるものであるといふことには、甚だ奇怪の思をなすのであります。甚しきは、かやうに宗教が人人の心の中に創造せられるものであると説くことは宗教の尊厳を冒涜するものであるとさへ考へる人もあるのであります。しかしながら、それは全く宗教の心理を心得ぬ人でありまして、我我が神仏と名けて崇拝するところのものが全く我我の心の創造のはたらきによつて起るものであることは疑のない事であります。  問 その神仏が創造せらるるものであるといふことにつきて、更に平易に御説明を願ひたい。  答 前に宗教的創造作用が芸術的創造と以て居ることにつきて申しましたが、その通ほり、ある一定の感情が我我の心の中にあらはれますと、その感情が本となりて、想像などのはたらきが強くあらはれて、それが客観化せられるのであります。その客観化せられたものがすなはち神仏であります。  問 さうすると、仏教にて説かれるところの阿弥陀仏も実際には存在せずただ我我の心の創造によりあらはれて来るものでありますか。  答 全くさうであります。  問 しかし、お経に西方に極樂があり、そこに阿弥陀仏がましますと説いてあるのは、虚偽でありませうか。  答 それが、今申した通ほり、感情に本づいて想像のはたらきなどを盛にして意識したことを客観に打出したのであります。『西方の極樂に阿弥陀仏がまします』といふ主観のありさまをば客観的に表現したのであります。かやうに客観的に表現する場合、その人の心の中には『西方の極樂に阿弥陀仏がまします』といふ観念は立派にはたらいて居るのであります。しかし、その人の心の外に「西方の極樂の阿弥陀仏」がはたらいて居るのではありませぬ。  問 しかし、私がこれまで多くの人人から聴聞したところでは、客観に神仏ありてそれを尊信するところにありがたい心持が起るものであるといふやうに承はりましたが、それはいかがでありますか。  答 それは客観的のものを主観化しやうとするのであります。さういふことによりて真実の宗教のはたらきが起るとは決して考へられませぬ。  問 更にお尋ねしますが、さうすれば阿弥陀仏といふものが主観にあらはれるのはどういふ訳でありますか。  答 南無阿弥陀仏といふ心の現象があらはれるには、必ずその現象を起すべき相当の対象があるに相違ないと考へて、我我の心の内に阿弥陀仏があらはれるのは必ず我我の心の外に阿弥陀仏に相当する何物かが存在するのであらうと考へるのは哲学的であります。私はさういふ哲学的の考をやめて、我我の心の外に阿弥陀仏がましますか否かは我我にはわからぬがしかも不思議の力を感ずるといふので十分であると思ふのであります。  問 しかし、我我の心の外に阿弥陀仏がましますか否かわからぬと申されては、これを聞くものに取りは甚だ不安でありませう。  答 それは、客観に阿弥陀仏が実在するといふ考を否定するためにさう申すことであります。我我の心の中に阿弥陀仏が感ぜられるのは、必ず心の外に阿弥陀仏が実在するので、それに相当して阿弥陀仏が感知せられるものであるとの考が広く行はれて居りますからその考が正しくないことを示すために客観に仏があるかないかと論ずる場合その有無は我我にはわからぬものであると申すのであります。  問 しからば我我にわからぬものを指してどうして阿弥陀仏と名づけるのでありますか。  答 阿弥陀仏は、仏教にて説かれる通りに無量光若しくは無量壽といふ意味をあらはす言葉でありますから、阿弥陀仏といふことも、要するに、空間と時間とを超越したものであるといふことを示すものであります。我我が日常用ひて居る言葉では真理といふものに相当するのであります。それ故に、阿弥陀仏はさういふ意味に於て理仏に外ならぬものであります。  理仏  問 理仏と申すと、真理の仏といふ意味でありませう。しからば阿弥陀仏といふのはただ真理であるといふに過ぎぬのでありますか。  答 さうではありませぬ。真理の仏であるといふ意味は、仏教の言葉にて真如といふ意味であります。さうしてここに真如といふ意味は我我の想念と言説を離れたところにあらはれるものであります。それ故に、理仏は我我の心にも及ばず言葉もたえたものであります。しかしながら、それは真如でありますから、活動をするものでありまして、決して冷かなる真理としてのものではありませぬ。  問 真如が活動するといふのはどういふ意味でありますか。  答 真如が活動するといふのは、我我の想念や言語を離れたときに、そこに真如のはたらきがあらはれて、我我の心にそれを知ることが出来るのを指すのであります。真如は我我の言説を離れたものでありますから、我我はただそのはたらきを感知するのみであります。  問 そのはたらきは真如といふものが心の外に実存して、それが我我の心の中に入りてはたらくものでありませう。しからば真如が仏であるといふ以上、この仏は客観に存在するものではありませぬか。  答 さういふ風に考へるのが人人の常でありますが、それが我我の迷妄の心のはたらきであります。繰返して申しますが、真如と申しても、それは我我の想念と言語とを離れてあらはれるものでありますから、我我の心に真如があるといふのは、これを我我の言葉の上にあらはして説明するがためであります。決して客観にそれが存在すると申すのではありませぬ。又それが活動すると申すのは、阿弥陀仏として我我の心に感ぜられることを指すのであります。真如のはたらきとして我我の心にあらはれたる主観のものを客観化して阿弥陀仏としたのであると考へられば間違ありませぬ。  問 大分、事件が六づかしきことになりましたが、阿弥陀仏といふのはどういふ主観の状態でありませうか。  答 それは、普通に無量光若しくは無量壽と申して、光とは智慧、壽とは壽命、智慧と壽命とが無量であるといふことを、人格的に表現したものが阿弥陀仏であります。さういふ主観の状態が、客観化せられて、それは我我の心の外にあるところの真如のはたらきによるものと考へられるのであります。仏教にて法身といはれるのは真如でありまして、報身といはれるのが真如の活動によりてあらはるるところのものであります。阿弥陀仏はこの報身であります。  問 段段承はりますと、阿弥陀仏といふものは真如がそのはたらきをあらはしたものであると申すことでありますが、そのはたらきはどうしてあらはれるものでありますか。  答 それは全く我我の心により感知せられるのであります。我我の心の状態が南無阿弥陀仏といはれるやうなものになるによりて、さう感知せられるのであります。真如といふものが別にどこかに存在してそれが我我の心の中に入り込みて活動するやうに申すのは、全く主観を客観に化して言ふのでありまして、決して客観にさう認められるのではありませぬ。  問 しかし、真如の理が活動したものと考へて居る我我の心にては阿弥陀仏が人格的のやうでありますが、それはどういふ訳でありますか。  答 それが、前にも申した我我の創造の力によるのであります。真理はまことに冷淡なものでありますが、それが人格を持つて居るやうに思はれるときに甚だあたたかい心持となるのであります。宗教といふ心のはたらきは、さういふ創造の力によりて我我の心を正しく導くものであります。  問 さう致しますと、阿弥陀仏の実在につきて考へることは無用でありますか。  答 阿弥陀仏が果して実在するものであるか否かは我我にわからぬことでありますが、それにつきて彼此と議論をするのは宗教哲学の上の問題でありまして、形而上学的に、研究すべきものであります。無論、心理学の上にてはさういふことを問題とすべきではありませぬ。又実際の宗教としては、宗教の心のありさまを見るべきでありまして、心のはたらきの上の思考や推定などにつきて彼此と論議すべきものではありませぬ。  問 創造したる仏も、実在せりと考へる仏も、仏としてそれに対する我我の心持には相違ないことではありませぬか。  答 主観の仏を客観化するには、その仏に向つて進まねばなりませぬ。主観の仏を客観化するにはただその仏を仰ぐだけであります。  報身仏  問 阿弥陀仏のことはまづそれとして、しからば南無阿弥陀仏といふのはいかなる仏でありますか。  答 無阿弥陀仏とまうすのは仏教の言葉にていふところの方便報身の如来であります。理仏の阿弥陀仏は形もなく、色もなく。言ふことも、考へることも出来ぬものでありますが、その理仏が衆生を救はむとの願を起し修行してその願に報ひて形をあらはし名を示して衆生を導きたまふのが南無阿弥陀仏といふ仏であります。  問 さうすれば我我は阿弥陀仏の御形を知らぬから、その御形をたしかに知らせ玉はるのが南無阿弥陀仏でありますか。  答 さうであります。阿弥陀仏は久遠実成の古仏と申して、幾千萬年のむかしから、この宇宙に存するものであります。仏教でそれを法身とまうす。その阿弥陀仏が、無明の大夜をあはれみて、無量の誓願を起し、その願が成就して仏となり玉ふたのが南無阿弥陀仏とまうすのであります。仏教にてそれを報身とするのであります。  問 さうすれば南無阿弥陀仏の六字を仏の名號であるといはふのどういふわけでありますか。  答 名號といふことは名前といふ意味であります。阿弥陀仏が我我衆生をたすけるために活動したまふ報身の仏としての名称であります。  問 阿弥陀仏とまうすのもすでに仏の名前でありませう、しかるにその阿弥陀仏の名前が更に南無阿弥陀仏であるといふのはどうい訳でありますか。  答 名號といふことを簡単に名前であるとまうしたために、さういふ御疑が起つたのでありませう。名號といふのは、体を顕はすを名とす、名外に顕はれて天下に號令するを號とす」と講釈してありまして、つまるところ、阿弥陀仏の活動を示すところの名前であります。  問 阿弥陀仏以外の仏にもそれぞれ名號があることでありませう。  答 無論、いづれの仏にも名號はあります。しかし普通に名號といふときは阿弥陀仏の名號を指すといふやうに南無阿弥陀の名號が有名のものであります。それで単に名號といへば南無阿弥陀仏のことであると思はれるやうになつたのであります。  問 かやうにお話を承はりましたところでは南無阿弥陀仏のことにつきては、今まで御説明を願ひました事柄以上に理解することが六ヶ敷しいやうに思はれます。  答 これまで御話致した理仏に対して、南無阿弥陀仏を事仏とするのであります。さうしてこの事仏が我我の心にあらはれて宗教のはたらきをするのでありますから、これにつきて深く考へることが必要であります。  事仏  問 しからばその事仏といふのはどういふ意味でありますか。  答 仏教の説に仏に三身ありとしてあります。それは法身と報身と応身とでありますが、その法身を理仏とし、報身と応身とを事仏とするのであります。それ故に理仏といふのは一に実相身と申して、真如の理を持し、事仏は一に為物身と申して真如の理仏が物のためにはたらきをあらはすのを指すのであります。  問 南無阿弥陀仏が事仏であるとせられるのは、阿弥陀仏がそのはたらきをあらはしたものであるといふ意味でありますか。  答 さうであります。阿弥陀仏の真理が我我の心の上にそのはたらきをあらはしたのが南無阿弥陀仏と言はれるものであります。  問 しかし、阿弥陀仏は法身であるといはれることもあるやうであります。それは矛盾ではありませぬか。  答 なるほど阿弥陀仏が報身であると申されることもあります。それは真理としての仏は固より我我の言念を離れたものでありまして、これを阿弥陀仏とするのであります。それが我我の心の上にはたらきをあらはすとき、この阿弥陀仏は報身であります。さうしてその名號が南無阿弥陀仏であります。それ故にこの場合には阿弥陀仏も真理としての仏ではなく、報身としての仏であります。阿弥陀仏が法身であるといはれる場合は、かういふ意味に於て、理仏と説明するためであります。決して矛盾ではありませぬ。  問 さうすると、我我の心の上にはたらきをあらはすときには阿弥陀仏も南無阿弥陀仏も同一の報身でありますか。  答 さうであります。親鸞聖人などが南無阿弥陀仏と同じやうな意味で阿弥陀仏を挙げて居られるのも全く同じやうな意味になるものであります。つまり阿弥陀仏は報身仏の本体であり南無阿弥陀仏はその名號に外ならぬものであります。  名號  問 南無阿弥陀仏が阿弥陀仏の名號であると致しますと、それはただ仏の名刺のやうなもので、仏の本体そのものではないのでありませう。  答 無論さうであります。南無といふ梵語は支那の言葉に訳すれば帰命であります。阿弥陀仏の命に帰するといふ文章であります。命に帰するといふことには生命に帰るといふ意味と、命令に従ふといふ意味と、二つありますが、今その仰せ(命)に従ふといふ意味に取りて申せば、阿弥陀仏が仰せられるところに従ふといふことが南無阿弥陀の六字の意味であります。さうして、これは阿弥陀仏のはたらきが我我の心の上にあらはれたものであります。  問 さうするとそれは象徴的のものでありますか。  答 さうであります。それ故に、浄土真宗の教説にては『如来の願行を南無阿弥陀仏の六字にこめて、回向したまへるを、行者その名號のことはり、本願の生起本末を聞き得るによりて広大の回向をもらひうけて一念の信心となる』とか『六字のいはれは仏教の生起本末なり、これを聞き開きて、ただ名號のままに、領解決定するを本願を信じて疑はぬといふなり、この信既に名號のままなれば、六字のすがた、悉く一信中に印現す。行者造修せずして而かも自から成就する。これ他力の義なり」などと説かれるのであります。  問 浄土真宗にて説かれるところは、南無阿弥陀仏の名號を聞いて、阿弥陀仏の本願の生起本末を思ひ知ることが要旨であるやうでありますが、さうすれば仏としては矢張、阿弥陀仏であつて、南無阿弥陀仏はただその名刺のやうなものでありませうと思はれます。しかるに 阿弥陀の本体を捨てその名號の南無阿弥陀仏が本尊とせられるのはどういふ訳でありますか。  答 それは宗教の心のはたらきの上に大切なることであります。言ふまでもなく真如の理仏は我我の心にも及ばず、言葉も絶えたものでありますから、我我をして、それを知らしめむとてその形をあらはし、名を示されるが報身の仏であります。この報身の阿弥陀仏が我我衆生をすくはむために願を起し修行して、それが成就して仏となられたものが南無阿弥陀仏でありますから、我我のためにはそれが本尊であります。さうして、この場合には阿弥陀仏といひましても前に申したやうに報身の仏であります。  問 しかし、本尊といひましても、別に形や色のないものでありませう。  答 勿論さうであります。報身といひましても、法身と同じやうに、形も色もないものでありますが、しかし報身は法身に異なりし、その智慧あらはすために我我に感知せられるのであります。  不可思議  問 さうすれば、我我に感知せられるところによりて、それを本尊とするのでありますか。  答 まず、さうであると申してよろしいのであります。仏はまことに不可思議のものでありますから、我我の心に及ばず、言葉にたへたものでありますが、そのはたらきを感知することは出来るのであります。それを本尊とするのであります。  問 しかし、我我が感知するのは我我の心のはたらきによるものでありますから、いかなることを感知したにしてもそれは夢幻のやうなものではありませぬか。  答 無論、我我の迷妄の心のはたらきによりて感知するのでありますから、我我の心のはたらき相応に、変現したものであるには相違ありませぬが、しかしながら、さういふことを感知せしめるのは阿弥陀仏の力によるものと考へねばならぬのであります。むしろさう考へるところに、宗教のはたらきがあらはれるのであると申してよろしいのであります。  問 さうすると、実際にありて南無阿弥陀仏が感知せられるのは、宗教のこころのはたらきのあらはれたときであると申すべきでありませう。  答 さうであります。六ヶ敷申すと、我我の宗教性思考といふものは、情緒が神仏を見るまでに至るものでありますから、従つて宗教的意識といふことは実際に、神仏に帰依することに外ならぬものであります。かういふ点からいふと、南無阿弥陀仏と名づくべき心の状態が我我の心の中にあらはれたとき、それは取りも直さず阿弥陀仏の力を感知したのでありまして、そこに阿弥陀仏が意識せられたのであります。  問 さう致しますと、我我の心の中の主観のありさまが南無阿弥陀仏でありますか。  答 早く申せば、さうであります。我我の心が阿弥陀仏に南無するといふやうになると、それに対して阿弥陀仏を客観に認むるやうになるのであります。固より客観の実在として存するのではありませぬ。ただ我我の心の上にあらはれたる南無阿弥陀仏の対象として不思議の或物が考へられるものであります。  問 主観の対象として、客観の或物が認められるのであるとすれば、それは実在のものと考へられるのが至当でありませう。  答 いふまでもなく、我我の心が主観と客観とを区別するのは智慧のはたらきでありまして仏教にて申す不覚であります。くはしく申せば随染業幻とて我我がただ区別があるやうに思ふに過ぎぬものであります。その主観に相応する客観が実在する筈はないのでありますが、それが実在するやうに思ふのは我我の不覚によるのであります。  化身仏  問 しかし、客観に何かあつて、それに相応して主観があらはれるのでありませう。たとへて申せば、客観に空気の温度が上昇するといふことがありて、主観に温熱を感知するのでありますから、それと同じく、主観に南無阿弥陀仏を感知する場合には客観にそれに相聴する阿弥陀仏が実在するのではありませぬか。  答 さういふやうに客観の実存を考へるのは、前に申した随染業幻の所作でありまして、実在にないものをあるもののやうに誤まり考へるのであります。かういふ場合に意識せられる仏はすなはち化身であります。報身の仏は色もなく形もなく我我の心に及ばぬものであります。決して客観に実在するものではありませぬ。  問 しかしたとひ、それが随染業幻の所作であるとしても、現にさういふものが意識せられるとすれば、それが主観の南無阿弥陀仏の投影であるにしても差支ないことでありませう。  答 主観の投影としてあらはれたるものとすれば、それは言ふまでもなく客観に実在するものではありませぬ。しかし前にお話のあつたやうに、空気の温度が上昇するといふ客観の事実がありて、主観に温熱を感知するのと同じやうに、南無阿弥陀仏にも主観と客観の対立があるとすれば、その客観の対象は我我には不可思議のものであるとせねばなりませぬ。不意識とは、我我の意識に上らぬ何物かがあり、かやうに主観をあらはすものであると考へられるものであります。この不可思議のはたらきがすなはち南無阿弥陀仏であります。  問 さう承はりますと、南無阿弥陀仏といふのは全く不可思議なる或物が我我の心の上にあらはれるものであると考へられますが、いかがでせう。  答 いかにも、さう考へられるやうになるのか宗教の心のはたらきであります。それ故に心理学的に申せば、巳に以前に申したやうに、我我の心のありさまが大切なのでありまして、その心をどうにかすることが宗教のはたらきに属するものではありませぬ。今、あなたの言はれるやうに、全く不可思議なる或物が心の上にあらはれたりと感知せらるるとき、すなはちそれが南無阿弥陀仏であります。南無阿弥陀仏として表現せらるるところの我我の心のありさまであります。さうして、その心のありさまが自身の心のものでないと考へられるときに、それが他力といはれ、本願といはれ、またそれを尊崇して仏とせらるるのであります。  己心の弥陀  問 段段承はりますと、南無阿弥陀仏といふ仏は、全く我我自身の心のはたらきに外ならぬやうであります。さうすればむかしから己心の弥陀と申して自身の心がすなはち仏であるといはれて居りますが、それが正しいのでありませうか。  答 決してさうではありませぬ。我我が自身の心のはたらきによりて仏を感知することは固より言ふまでもないことでありますが、その心のはたらきがすなはち仏であると申すのではありませぬ。我我の心のはたらきはどこまでも迷執のもので、その見るところも、考へるところもすべてが夢幻のやうなものであります。さういふ迷妄の心が仏であると申すのではありませぬ。たださういふ迷妄の心の上に、迷妄を離れたる心のありさまが感知せられるのが仏の心であると申すのであります。それ故にこの場合阿弥陀仏でなくして南無阿弥陀仏が問題となるのであります。  問 さうすれば禅宗にて説かれるやうに是心是仏と申しても差支ないことでありますか。  答 南無阿弥陀仏といふのは、我我の迷執の心の上に、迷執でない心のあらはれることを感知するのであります。それ故に、迷執の心も、これを観ずれば仏であると申すのとは全然相異して居るのであります。早く申せば、我我の心は仏でない、また仏になることが六ヶ敷いと考へるところに南無阿弥陀仏の心の状態があらはれるのであります。  問 しかし、仏教の説から申せば煩悩即菩提・生死即涅槃でありますから、衆生も仏もみな同一のものでありませう。さうすれば是心是仏と説き己心弥陀と申す方が正当ではありませぬか。  答 その説が正しいとか、正しくないとかといふことは宗教のはたらきの上には申すべきことではありませぬ。さういふやうに真仮や正不正を争ふことは智慧の上の問題であります。さういふ智慧のはたらきを離れたるところに宗教のはたらきがあらはれるのであります。それ故に、宗教の上では、我我の智慧を離れたる不可思議が感知せられるか否かといふことが問題であります。宗教上の思考を伝ふるところの論説が、いかにありても、それによりて不可思議を感知するところに宗教の心があらはれるのであります。  禮拝の本尊  問 宗教の本尊とすべきものが南無阿弥陀仏であるといふことの意味はどうやらわかつたやうであります。さうすれば淨土真宗にて禮拝するところの仏像は無形の阿弥陀仏を有形にしたものでありませうか。  答 浄土真宗の宗派にて造られるところの本尊がいかやうなものであるかといふことはその道に居らざる私の知るところではありませぬ。しかし、さういふ宗派的の意味を別にして本尊のことにつきて申すならば、浄土宗の本尊と真宗の本尊とには差異があると言はれて居るのであります。  問 どういふ差異があると言はれて居るのでありますか。  答 無量壽経の中に、仏が阿難と韋提希夫人とに同つて苦悩を除くの法を説かれたときに空中に無量壽仏が住立し観世音大勢至の二菩薩が左右に侍立して光明が熾盛であつたと説いてある。浄土宗ではこの事実に本づきて無量壽仏と観音と勢至との三尊を立像とし、この三尊が衆生を来り迎へる意味のものを本尊とせられるのであると言はれて居るのであります。しかるに浄土真宗にては来迎の義を説かぬのでありますから、来迎仏の像でなく、阿弥陀仏が念ずるところの声に応じて顕はるるものとして、応声即現の仏の像をつくつたのであると傅へられて居るのであります。  問 浄土宗と浄土真宗の宗義の相異に相応してその本尊に差異のあることは道理至極であると思ひますが、さういふ宗派の上からの考でなく、宗教の上から見て、本尊はいかやうに考へるべきものでありますか。  答 それは言ふまでもなく南無阿弥陀仏を形にあらはしたものであります。全く象徴的のものであります。それ故に、蓮如上人が言はれたやうに他流にては名號よりは繪像、檜像よりは名號と、なるべく抽象的な記號を用ふる方がよいとせられるのであります。現に真宗にては六字の名號、九字又は十字の名號として南無阿弥陀仏、帰命尽十方無碍光如来などが本尊とせられて居るのであります。  問 しからば、檜像又は木像は、その南無阿弥陀仏を有形のものとしたのであるやうに思はれますが、いかがのものでありませう。  答 その通り、南無阿弥陀仏の心を心を我我の目に見えるやうにに図にし、像にしたものであるといふて差支ありませぬ。  問 もしさうであるとすれば、観無量壽経を主なる依拠とするところの浄土宗に異なりて、浄土真宗にては、大無量壽経に説かれるたところに拠るべきものと思はれますが、いかがでせう。  答 素人の我我までも、すぐにさういふ疑問が出るのであります。むかし本願寺の学者の中にも、真宗の本尊は大無量壽経にある阿難所見の阿弥陀仏であると言つて、物議を醸したこともありました。大無量壽経の仏は法を説いて居るのであるから坐像でなくてはならぬ。立像は摂取の姿であるなどといふ議論もあつたのであります。しかし、我我から見ればそれは見戯に等しい議論で、法を説くに必ず坐るといふこともないのであります。  問 いづれにしても、南無阿弥陀仏を形にあらはしたものを本尊とすると致して、その南無阿弥陀仏は要するに銘銘の心の相でありませうから、結局、自分の心の相を崇拝することにはなりませぬか。  答 南無阿弥陀仏が自分の心の相であることは言ふまでもありませぬが、その心の相は、阿弥陀仏に觸れたときの相であります。前にも繰返し申したやうに、南無阿弥陀仏といふべき境地に自分の心が向つたとき、その時阿弥陀仏が客観の或物として感知せられるのであります。  問 さうすれば、阿弥陀仏を本尊とするのが正当ではありませぬか。  答 ちよつと考へると、さう思はれますが、深く考へて見ると、南無阿弥陀仏と名づくる主観の状態は全く我我自身の心のはたらきではなくして、阿弥陀仏の力のあらはれたものであると感ずるのでありますから、宗教の上で本尊とすべきものは南無阿弥陀仏であります。  問 どうも奥歯に物がはさまつたやうな心持がしてはつきり致しませぬが、客観の対象としての本尊とせずして主観の心の相であるところの南無阿弥陀仏を本尊とするのはどういふ訳でありますか。  答 譬喰を以て申し上げませう。その方がよくわかるであらうと思ひます。たとへば阿弥陀仏は月であり、明皎々として四方を照すところの天上の月のやうなものであります。ところで今ここに数十個の小皿に水を入れて置くと、その水の上に一とつ一とつ月の影が写る、それが南無阿弥陀仏であります。それ故に南無阿弥陀仏は月の力のはたらきであるといふべきであります。しかもそのはたらきは一とつ一とつの皿の水にはたらくのでありまして、その一とつ一とつの南無阿弥陀仏が我々の本尊であります。又たとへば親といふものは子を持つものでありますからあまねく世間に満て居るものでありますが、私の親は私一人のためのものであります。それと同じやうに私の本尊は私のための南無阿弥陀仏であります。  問 よくわかりました。  答 多くの人は、神と申すと、すぐに我我の心の外にある何物かを考へるのでありますから、それ故に、真実の意味に於ての仏の理解が十分に出来ぬのであらうと思ひます。  問 しかし、我我の心の外にある実在の仏なればこそ、これを本尊としてありがたく感ずることも出来ますが、自分の心の相を禮拝することはどうでありませうか。  答 それは宗教の心のはたらきのあらはれぬものが、単純に理智的に考へることであります。宗の心のはたらきが十分にあらはれて来れば必ず南無阿弥陀仏の名號に対して十分感謝の心を起するのであります。むかし石州の妙好人おはつがお寺にお錢を上げる心は自分の心でなく仏から賜はつたものであるからと言つて、お錢を頂いてそれをお寺に上げたといふ話がありますが、いかにもさうであります。南無阿弥陀仏といふ心の相は敬虚のものであります。そこに偉大なものに対してお禮を申さねばならぬ心持が起るのは当然のことであります。  問 さうすれば心の外にある仏に対して何となくありがたい心持が起るのはそれは真実のものではありませぬか。  答 ありがたいと言ひましても、その心持にはいろいろありまして、たとへば子供が人から菓子などを頂いてありがたいと思ふのは、欲心の満足のためでありますからただ一時的のものであります功利的な考の一とつであります。しかし仏に対して起るところのありがたいといふ感じは決して功利的のものではありませぬおのづからありがたくなるのであります自然に心の奥から湧いて出るところの感情であります。どうして起るかわからぬといつてよい不可思議のものであります。  宗ヘ的理解  問 かやうに承りますと、宗教のはたらきは神秘といふものではなくして、すべて理智的に理解せられるものでありませう。  答 といふことには固より種種の意味がありますが、普通に人人が言ふところの神仏に想像のはたらきによりて現実の経験をば超越的世界にまで延長するものでありますから、これは宗教の前の階級であるとせられるものであります。文化の進みたる人人の宗教にはかかる神仏は無く、すべて理的にそれが理解せられるものであります。  問 理解するといへば無論、理智的のものでありませうが、さうすれば宗教は全く理智的のもののやうに聞えますが、いかがでせう。  答 宗教が理智的のものであるといふのではありませぬ。宗教はどこまでも、感情のはたらきでありますが、それが意識の上にあらはれるときには理智的に、宗教そのものを理解することが出来るのであります。  問 さうすると、宗教を理解するといふことも、普通の理解と同一に推理的に理解するのでありますか。  答 宗教の理解は決して推理的のものではありませぬ。宗教的の理解と普通の理解との間には著しい差別があるのであります。  問 しからば、その差別はどういふものでありますか。  答 その差別を大略申しますと、普通の理解は理智的のものでありますが、宗教的の理解は主に直観的のものであります。直観的といふのは尋常の理解のやうに論理的に思考することによりての理解ではなくして、早く言へば、我我の思慮詮索を離れて全く人格的に、内面的にあらはれるところの理解であります。言葉をかへて言へば、思慮詮索によりて間接に事物を知るのではなくして、その事物をば直接に知ることであります。我我の心が思慮のはたらきを経ずして直接に事物を映ずるのであります。  問 さうすると、この宗教的理解があらはれるのはどういふ次第でありますか。  答 かやうな宗教的の理解は深密理解とも言はれるものでありまして、既に普通の理解によりて知られて居るところの内容が、更に新しく理解せられるのであります。たとへて申すと、普通の理解は単に一個の眼にて物を見るやうなものでありますが、宗教的の理解は、愛の眼と理解の眼と兩個の眼にて物を見るやうなものであります。普通の理解はその人格には関与せず甚だ冷静なるものでありますが、宗教的の理解はこれに反して、全くその人格に関係し自我と結びつきて全く内面的のものであります。  問 さうすると、彼の神秘と言はれるものも、またこの宗教的理解に属するものではありませぬか。  答 神秘と言はれるものは、前にも既に申したやうに、宗教の前階級に属するものとせられて居るので、しかもそれは普通の理解の領域に属するものであります。丁度不思議といふことは思議せざることであるのに、これを思議して不思議とするのと同じやうなことでありまして、普通の意識状態の内にあらはるるところのある意識の状態であります。宗教的の理解といふものは、さういふやうに普通の意識の過程としてあらはれるものでなくして、さういふ思議詮索なしにあらはれるところの自我のはたらきであります。  問 さうすると、以前に段段御説明を承はりました神仏の観念といふものも全くこの宗教的の理解のはたらきと考へるべきものでありますか。  答 このことは前にいろいろと言葉をかへて説明致した通り、純粋に心理の上から言ふと、神仏の観念は我我人間の精神が、直観的に創造したものであります。それ故に、我我が神仏を知ることは、全く宗教的の理解によるものであります。  問 それが理解であるとすれば別に客観的に神仏が存するのと相異してこの神仏は時として我我の理解にあらはれたり、又は隠れたりすることがあるやうに思はれますが、いかがであろませう。  答 勿論さうであります。我我が神仏を知ることは我我の直観的思考によりて、これを創速するのでありますから、それは常に個人の意識の内に新しくあらはれるものであります。  問 さうすると、「安心決定鈔」に自力の人は仏をさしのけて西方に置くとありまして、ありがたいとおがむときには仏があり、しからざるときには仏はないといふやうなことが説いてありますが、それと同じことではありませぬか。  答 「安心決定鈔」に書いてあるのは我我の心を離れて、心の外に独立して存するところの仏であります。所謂客観に存在する仏でありますから、それに対向することを要するのであります常には我我と離れて居るところの仏であります。今ここに創造するといふのは、我我の心の内に何時でもあらはれるので、しかもその仏は、随時随処に新しきものであると言ふのであります。  問 しかし、それは実際に於て大体同様のことではありませぬか。  答 決して同じことではありませぬ。仏が我我の心を離れて外に存するといふ考は、全く両者を別のものとしたるものでありまして、仏教で申す機と法とを別けてその機と法とを合体せしむることを期するのであります。しかるに、今ここに申す仏は機と法と一体であることをいふのでありまして、我我の宗教的直観によりて創造せられる仏は、実際には、我我の自我生活の法則を定めるものであります。さういふ力が常に新しく創造せられるのであります。  宗教的思考  問 序でありますから、宗教的思考といふことに就て、今少し、くはしく御説明を願ひたいものであります。  答 今、宗教的思考に就てお話すことは、宗教のことを心得るために都合のよいことと考へますが、それに就てくはしくお話致すことは、許されないことでありますから、ここにその大略のことを申し上げませう。  問 宗教的思考はどういふやうにあらはれるものでありますか。  答 それにつきてはギルゲンゾーン氏の説があります。それに拠りますと、宗教的思考といふものは凡そ次の四種類としてあらはれるものであります。  一、宗教的思考が、場合に応じて、感情の形式としてあらはれる。たとへば感激若しくは帰依。  二、形像的に考へること(理智的のものは形象的に考へることが尠ない)  三、種種の感情移入  四、特殊の言葉にて宗教的思考を表出すること。  ギルゲンゾーン氏の説は固より精細のものでありますが、ここに挙げたものは、その思考の特別なものであるといふことを示すだけのものであります。  問 さうすると、前から段段とご説明を承はつて居りまする神仏といふもものも全く宗教的思考として表現せられたものでありますか。  答 さうであります。神仏そのものは固より不可思議のものでありますから、我我の言説を離れたものであります。今それにつきて彼此と申すのは、全くそれに関する宗教的思考に外ならぬのであります。  問 さう致しますと、宗教的思考といふものは、我我の普通の思考とは全く相異したるもののやうに思はれますが如何でせう。  答 無論さうであります。我我の普通の思考は推理的のものでありまして、全く意識の明かなる中にあらはれるものであります。理屈づめに段段と考へを進めて、論理に合ふやうにまとめるのであります。宗教的思考といふものはさういふ推理的のものではなく、全く直観的のものであります。尋常の思考のやうに意識の明かなる中にあらはれるものではなく言はば半意識の間に起るものであります。  問 半意識の間に起るといひますと、夢うつつといふやうな意味でありますか。  答 半意識といふのは、思考の過程がはつきりと意識せられず、先づ意識せられざる思考の過程がありまして、それが後に意識に上ぼりて、さう感ぜられるのをいふのであります。単に夢うつつといふやうなボンヤリしたことをいふのではありませぬ。  問 さうすると、我我の日常の経験に於て、別に何とも考へないことが偶然、ふと考の上に浮び出ることがあります。それがこの直観的思考といふものでありますか。  答 さうであります。直観的の思考は、芸術のことや、音楽のことなどにつきて、よくあらはれるものでありまして、推理的思考のやうに順序がたたず、又論理に合ふといふこともなく全く創造的のものであります。宗教的思考は全くこの直観的思考に属するものでありますから従つてその思考は創造的のものであり、自由のものであり、又天才的のものであります。  問 なるほどよくわかりました。前にくわしく承はりました神仏の観念は、かやうにして起りたる宗教的思考に外ならぬものでありませう。  答 そのことを、前にくはしくお話いたしたのであります。神仏と申すものは、かくの如き直観的の宗教的思考に基づくもので、全く半意識の状態にあらはるるものであります。それ故にそれは不可思議のものであるといふことが適当であります。ただし、それを心理学的に説明致しますと、神仏の思考は最深の直観でありまして、我我人間に出来る限りに於ての精神的綜合に外ならぬものであります。  問 さう致しますと、さういふ神仏が果して実在するか否かといふことは問題にはならぬのでありますか。  答 かやうに直観的に考へられたる神仏が果して実在に相当して真実に存在するものであるか、又は別に対象といふものが無くして単に思考によりてあらはるるところの精神的形成物に外ならぬものであるか否かといふことは、心理学にて決定せらるべきことではありませぬからそれは問題とはならぬのであります、さういふことは認識論の範囲に属するものであります。  問 認識論の範囲に属するものであるから問題とならぬと言はれますのは、問題にせぬでもよいといふことでありますか。  答 問題にせぬでもよいといふのではありませぬ。問題とすることが出来ぬといふのであります。  問 しからば、これを問題とせぬでも事がすむと言はれるのでありますか。  答 さうであります。認識論の上から、この問題につきて研究することは別のことであります。認識論にていかやうにそれが決定しやうとも、さういふことは宗教の心のはたらきの上には大した関係のないことであります。宗教の上にては、此の如き、宗教的思考が微妙なる精神的作業として、我我の宗教的生活の本をなすといふことであります。  問 しからは、どういふ風にして、それが我我の宗教的生活の本をなすのでありますか。  答 簡単にお答することは困難でありますが、ざつと申せば、此の如き宗教的思考は、普通の我我の思考に於ける一定の限界を超えることが出来るからであります。これによりて我我の尋常の理解を超えて、偉大なる力の存在を尊崇することが出来るからであります。  問 さうすと、宗教的思考によりて我我は我我が自から創造したる神仏の存在を仰ぐことが出来ると言はれるのでありますか。  答 簡単に申せば全くさうであります。普通の推理的思考でありますと、たとひいかに理屈に合ふたる神仏の観念が出来たにしても、それを仰ぎ奉るといふことは出来ませぬ。しかるに宗教的思考にありては、自からが創造したる神仏の観念に対しても、それを偉大なる力として 尊崇することが出来るのであります。さうして、それ故に、此の如くにして、あらはれたる神仏はよく我我の精神生活を導くことが出来るのであります。  宗ヘ性  問 宗教がいかなるものであるかといふことにつきて、くはしい説明を承はりましたが、更に進むで、此の如き宗教の心のはたらきは、我我の心の中に、いかやうにして現れるものであるかを承はりたい。  答 前から段段とお話致したことは宗教といふものを主観的(自我)の態度として説明したのであります。しかしながら、この主観的(自我)の態度は言ふまでもなく、客観的に現はれて、文化的現象となるものであります。さうして、それ故に、文化的現象としての宗教には低級のものから高級のものに至るまで種種の階級がありますから、一概に宗教として説明することは容易でありませぬ。  問 勿論さうでありませう。しからば、先づ宗教の低級か高級か真実か仮偽か、若しくはその妥当か否かを穿鑿《せんさく》することが必要でありますか。  答 さういふことは、しかしながら宗教哲学に属するものでありまして、心理学の問題ではありませぬ。心理学の上ではただ宗教と名づけられるところの精神の現象をありのままに説明するのであります。  問 さう致すと、前に段段と説明して頂いた宗教の心のはたらきが、いかやうに起つて来るかといふことを説明して頂くのでありますか。  答 誤解のないやうに申し上げて置きたいことは、宗教の心のはたらきが如何にして起るかといふことを心理学上からお話致すので、これまで世に行はれたる宗教の形式が如何にして発達したかといふことを説明するのではありませぬ。  問 よく分かりました。宗教と称せらるるところの精神のはたらきの起る具合を説明せられるので、それか世に行はれて居るところの客観的宗教の教義に一致するか否かを論ぜぬと申されるのでありませう。  答 いかにもさうであります。簡単に申せば、宗教性をば個人の発生心理学の見地よりして説明しやうとするのであります。  問 宗教性といはれるのは何でありますか。  答 宗教性といふのは、宗教と名づけれられるところの主観的態度をあらはすべき精神のはたらきを指していふのであります。  問 さうすると、さういふ宗教性はその人の生れつきにあるものではありませぬか。  答 さうであります。人人の心の中に、生れつき、特別の傾向がありまして。宗教と名づけられるところの心のはたらきをあらはすのであります。それを学問上の言葉で礎質と申すのであります。この礎質は、我我人間の体験の個人的の根本の方向でありまして、それが、宗教性の芽をなすのであります。  宗教性の礎質  問 さうすると、人人には宗教性の芽をなすところの礎質といふものが備はつて居り、それからして、宗教性が発展するのでありますが。  答 その通り、人人には一定の礎質といふものが生れつき備はつて居りまして、それが環境の影響によりて段段と発展するのであります。  問 然らばその礎質といはるるものはどういふものでありますか。  答 我我の生活感情の根本には、統一することとか、分裂することとか、歓喜するとか、疑感するとか、求むるとか、嫌ふとかいふやうな、色色の混乱状態が存するものでありますが、宗教性の礎質といはるるものは、これを導いて歓喜の方向に認めるものであります。無論これは宗教のはたらきを客観的に説明してさういふのでありますが、言葉を換て、簡単に言へば、宗教の心のはたらきをあらはすべき先天性の礎質が人人に備はつて居るものであります。  問 この礎質は固よりすべての人人に備はつて居るものでありませう。しからば、宗教の心のはたらきは、誰人にもあらはるべきものでありませう。  答 無論さうであります。この礎質は生れつきのもので、誰人にも備はつて居るものでありますから、環境の影響が適当であれば誰人にも宗教性はあらはれるものであります。  問 しかるに、世の中には宗教に無関心のものがありますが、それはどうでせう。  答 それは宗教性が弱いか、宗教性の上に影響を及ぼす環境のはたらきが弱いか、どつちかであります。仏教で機根の熟したるものと、熟せざるものとを挙げて居るのは全くこの礎質の強弱を指しているのでありませうと思はれます。  間 しからば、近頃世間で八釜敷い宗教否定といふやうなことは出来ることではないやうに考へられますが、いかがでせう。  答 宗教性は生れつき備はつて居るのでありますから、それを否定することは固より出来ませぬ。しかし、環境の影響によりてその宗教性を発展せしめないやうにすることは出来ます。又世間で宗教否定の高いのは、客観的宗教、早く言へば既成宗教の形式を排斥することでありまして、宗教性を否定することではないでせう。既成宗教の形式を排斥することと、宗教性を否定するといふこととは全く別の問題でなければなりませぬ。  問 しからば、何のために宗教性が人人に生れつき備はるのでありませうか。  答 さういふことは、心理学の上で説明することは出来ませぬ。しかしながら、宗教性は他の飲食や性欲のはたらきと同じやうに、自己を保存するための本能に属するものであるといふことは出来ます。それ故に、自覚したるものは、必ず相当に宗教性のはたらきをあらはすことは当然のことであります。  宗教性の発展  問 段段と説明をはりまして、よくわかつたやうであります。礎質のことはそれだけにして、その礎質の発展を助けるところの環境のことにつきて説明を願ひます。  答 礎質の上に影響を致して、その宗教性を発展せしめる環境は種種でありますが、理解し易いために、既成宗教の教義や形式などをその環境の主なるものとして説明しませう。その前に先づ小児の宗教性のことにつきてお話致しませう。  問 小児の宗教性は、早くからそのはたらきをあらはすものでありますか。  答 それはむかしから問題となつて居るものであります。宗教と名づけられる心のはたらきが小児にあらはれるのは思春期以後であります。さうしてその宗教性は外方から注入せられるのでなく、内部から特徴的にあらはれて来るものであります。  問 さうすると、小児の宗教は小児自身にその形式をつくるのでありませうか。  答 さうではありませぬ。宗教性は固より小児の心の内から特発するものでありますが、その形式は固よりこれを大人の宗教の形式から取るのであります。それ故に、小児の宗教の形式は大人のと同じやうに見えても、その内容は互に相異して居るのであります。  問 その相異は如何やうでありますか。  答 小児の宗教は、その精神作用の分化せぬと同一に、分化して居りませぬ。又小児の精神的構造に相応して、小児の宗教は自己中心的のものであります。事物の因果を知ることが十分でないから、単一の恐怖や幸福の動機などが本となつて宗教のはたらきがあらはれるのであります。  問 小児の宗教は、分化して居らぬと申されましたが、それは小児の精神作用が幼稚なるに連れて、その宗教も幼稚であるといふ意味でありますか。  答 さうであります。小児の宗教は小児自身の形而上学的の思考に相当してあらはれるのでありますから、それは甚だ幼稚のものであります。  問 そのことにつきて、今少しくわしく説明を願ひたい。  答 小児はすべて自から見とめることの出来る一切のものは自分のために目論見られたものであると見るのであります。さうして、一切の事項の関聯につきては、これを考へることがないから。生活の契機はすこしも拘束せられず、ただ著しく感動したことが宗教性の性質を帯びてあらはれるのであります。たとへば、単一の恐怖や幸福などが、その宗教性を表現する本となるのであります。それ故に小児の宗教は、何かを求むる宗教であります。時としては幸福を感謝する宗教であります。又多くは恐怖の宗教であります。  問 しかし、かやうな宗教は、大人にもこれを見るものでありませう。  答 若し大人にありてなほ、此の如き種類の宗教を見ることがあれば、それは無論、幼稚なる宗教であります。小児の精神作用が、大人に至りてもなほその儘に残つて居るものであると言はねばなりませぬ。  問 その外に小児の宗教に特有のことがありますか。  答 あります。小児が有するところの宗教性の観念は人類形態的であります。人類形態的の観念といふのは、この場合宇宙を支配すると信ぜられるところの権力が人間のやうなものであると考へることを指しているのであります。具体的に申せば神や仏と言はれるものが、丁度人間のやうなもので人間と同じやうに行ふものであると信ぜられるものであります。さうして、かういふ思考は、すべてのことを魔法的に考へるに至るものであります。  問 さうすると、魔法的に考へるといふこともまた、小児の宗教の一とつの特長でありますか。  答 さうであります。小児にありては、すべての事項は一定の秩序の下に行はれて居るといふやうなことは考へぬのでありますから、神や、悪魔などが、魔法的の作用をあらはすものであることを信じて疑はぬのであります。  問 いかにもさうでありませう。しかし、さういふやうに、神や仏が人間と同じやうなものであり、又その魔力によつて、賞めたり罰したりするといふことは、道徳上善いことではありませぬか。  答 道徳といひましても、それは原始的のものでありまして、精神の作用が発達したる大人には通用することのないものであります。  問 さうすると、かやうな小児の宗教性は将来の宗教の発達の上に何等の役にも立たぬものでありますか。  答 さうではありませぬ。小児に於ける宗教性の発達は、全く此の如き小児の宗教的態度を本として、それにその周囲の宗教的様式が這入り込むのであります。  環境の影響  問 なるほどさうでありませう。そこでさきほど、環境の影響が礎質の発展を助けるといふ意味がよくわかりました。  答 小児の宗教は此の如く幼稚のものであり、それが多くは感情にのみ本づき、自己中心的であり、人類形態的の観念によるものであり、又魔力を信ずるものでありますが、その基本の上に、環境の宗教の形式が、その影響を及ぼして、それによりて、此の如き幼稚の宗教が漸次に発展するのでありますから、何れにしても、小児の宗教性が十分にあらはれて居るといふことは重要のことであります。  問 そこで承はりたいのは、環境の影響如何といふことであります。  答 それには種種の差別があります。第一に挙ぐべきは、小児が既に一定の宗教性をあらはして居る上に、その環境に形式的の宗教が行はれて居つて、その宗教の空気の中に生長したものでありますと、一定の年齢に達するときは、伝統によりて伝へられたる宗教の思考と儀式とにつきて、その正常の理論を見出さうとつとめるのであります。  問 それは、凡そ何年位の頃でありませうか。  答 大概は思春期でありますが、それより早く、既に十一歳か十二歳頃にこの思考があらはれるといふ学者もあります。さうして、この種の思考は、人格的に客観的宗教に近かうと求めるのであります。  問 さういふ思考は永く続くものでありますか。  答 永く続かぬのが常でありまして、却てそれに反して、伝統的の宗教的思考に疑を懐くやうになり、それを排斥するやうになることがあります。  問 実際さうでありまして、多くの宗教の教義の上で説かれるところの神の奇蹟や、地獄極楽などにつきて素朴にこれを信ずることが出来ず、殊に近代のやうに自然科学の思考が広がつた時代にはますますさういふ宗教の形式に対して反抗するものが多いやうであります。  答 学問が進み、知識が開けて来ると、真理を求むるの意志が強く、倫理の契機が明かに知られて来るのであるますから、奇蹟とか再生とか、といふやうなことが虚妄の話としか考へられず、神や仏の存在などもこれを疑ふに至るのであります。  問 宗教の儀式を盛にする家庭からしてその宗教の形式から脱出するものが世の中に多く見受けられますが、それは如何のものでありませう。  答 家庭が熱心な宗教の儀式を行ふものである場合、そこに主要のものとして尊奉せられる義統の教義が少年をして著しく反抗の心を起さしめることが多い。元来伝統は歴史の神秘を重んずるのでありますが、少年には、歴史そのものを神聖と感ぜられず、既に行はれて居る固定の形式は少年の動揺する内的生活とは相違しないのであります。それ故に、かやうな形式から出でて、自から自由の形式を求めやうとするために、在来の宗教の形式に対しては甚しく反抗せざるを得ないのであります。  問 さうすると、つまるところ、内省の力が強くなるに従つて、自身の宗教性が明確になるために、外から強制せられる宗教の形式に対して反抗するに至るのでありますか。  答 さうであります。自身を観察することが強くなり、自身を分析することが十分になるとその個性に応じ、しかも寺院が説くところの教義に反するものが、却て少年には親しみが感ぜられるのであります。宗教性の発展の上から見れば、これは改宗期とでもいふべきでありませう。  問 さういふ改宗期は何年頃にあらはれるのでありますか。  答 それは大抵十六七歳頃の少年に起るのであります。凡そこの年齢期に至りて宗教性が著しくあらはれ、宗教の形式も亦批判的に受け取られるやうになるのでありますから、これを改宗期と申すのであります。  問 さうすれば、それ以前の児童には宗教性といふものはあらはれぬものでありませうか。  答 そのことは既に前にも申したやうに、我我が今現に宗教と名づけて居るところの精神の作用は、精神の作用が発達した後にあらはれるもので、これがあらはれるのは、思春期以後のことであります。  問 しかし、宗教の精神作用の根本をなすものは、それより以前にあらはれて居るものでありませうと思ひますが。  答 たとへばステルン氏が言ふやうに、乳児にありて、既に振向本能があらはれて居るものでありまして、帰依といふことはこの本能に本づくものであると考へられるのであります。しかし、さういふ本能が早くあらはれるものであるとしても、我我が今、宗教のはたらきとしていふところのものは、これよりもズット複雑なる思考によりて現はるるものであります。それ故に、いかに早くとも四歳乃至五歳以前に宗教のはたらきがあらはれることはないといはねばなりませぬ。  問 しかしながら、六七歳の頃から早く既に宗教の心をあらはしたといふことが、古の書物などにも記されてありますが、かやうなことは事実と認むべきものではありませぬか。  答 それは実際のこともありませう。しかしながら真に宗教の心のはたらきがあらはれるのと、その周囲の人人の宗教の形式を見て、それを模倣するのとは明かに区別せねばならぬことであります。たとへば親が念仏するのを聞きて念し、禮拝するのを見て同じく禮拝するなどは模倣が多く、それが真に宗教の心はたらきによるものは少ないのであります。  問 さうすると、児童にありて、宗教のはたらきがあらはれますのは十六七歳頃としてもそれは正しく宗教のはたらきをあらはすもので、それに比較して幼稚なる宗教のはたらきはモット以前にあらはれて来るのではありませぬか。  答 それは無論、幼稚なる宗教のはたらきは思春期以前からあらはれて来るのであります。破格の例としては、思春期以前にありて既に正しく宗教のはたらきをあらはすこともあるでありませう。  問 しからば、児童期のものにして、これを宗教的に導くことが出来るでありませうか。  答 児童期にありて、その周囲のものの宗教の形式が、児童の宗教性の発展の上に著しき影響を及ぼすことは既に前に申した通りであります。それ故に、その環境を良くすることによりて児童の宗教性の発展を十分にすることが出来る筈であります。  問 今現に行はれて居るところの宗教教育といふものは、この意味に於て、児童の宗教性を発展せしむる上に相当の効果を有するものでありませうか。  答 それは固より教育の方法の如何によるものでありますから、一概に何ともいふことは出来ませぬ。大体に於て、前に申したやうに児童の宗教性の発展に相応して施されるところの教育でなければ、その効果を見ることは出来ないことであります。  問 しからば、実際上、今日行はるるところの宗教教育の効果は如何でありませうか。  答 何とも申されませぬ。何れにしても、児童の宗教性の発達の実状を無視して、ただ仏像をおがましたり、賛仏歌をうたはしたり、お経を読ませたりするやうなことは真実の意味に於て宗教教育といはるべきものではありますまい。少なくとも、それによりて児童の宗教性を 正当に発達せしめることは出来ない筈であります。  宗ヘ的行動  問 宗教の本質につきて、いろいろとくはしい御説明を聴きまして、それが不意識的の感情に本づくものであるといふことはわかりました。そこで更に進んで、かやうに、宗教性はある特別の感情に本づくものであるとして、それが実際の行動としてあらはれることに就て、心理学上の説明をお願致したいのであります。  答 承知致しました。今までかなりくはしくお話致したのは専ら宗教の本質に関することでありました。その宗教の本質たる宗教の心のはたらきが宗教となりてその人の行動にあらはれて来ることは、実際の上に於て重要の問題でありますから、これからそのことについてお話致すことにいたしませう。  問 それに就て、第一に伺ひたいことは宗教性の行動に、何か特殊のものがあるか否か、といふことであります。  答 それを説明するにつきましては、前に宗教性がある特殊の感情に本づくことを申しましたが、その感情が強く登場するによりて、超越的世界と結びつくやうにと努力する。それが宗教的の行動でありますから、それは特殊のものであると言はねばなりませぬ。  問 超越的世界といはるるものは精神的存在であると承はりました。又それは我我の感情に本づきて創造するものであると承はりました。しかるに、それと結びつくやうにと努力するといふ意味はどういふことでありますか。  答 認識的世界は固より精神的存在であります、又我我の宗教的感情によりて創造せらるるものであります。さうしてそれは抽象的の観念でありますが、感情の発揚が強いために、その観念が実体化せられるのであります。さうして、宗教的の行動としては、単に超越的世界を認 識するのみでなく、更にそれを超えて、その超越的世界と結びつくやうにとの努力が起るのであります。これ実に知識のはたらきによるものでなく、全く感情が発揚するためであります。  問 しからば、超越的世界と結びつくといふことは如何にしてこの目的を達するのでありますか。  答 それには、大略、二た通ほりの方法が行はれるのであります。その一とつは超越的世界の威力を現実の人間の世界に引き入れやうとするのであります。又その一とつは我我人間をば超越的世界にまで引き上げやうとするのであります。  問 超越的世界の威力を現実の人間の世界に引き入れやうとするといはれるのは、どういふことでありますか。  答 それは具体的に言へば、神仏の上に感作を致して、その威力をば自己の希望を達する補助としやうとつとむるのであります。ミュルレル、フライエンフェルス氏は此種の行動をあらはすものを勞作的宗教性と名づけて居りますが、その意味は、超越的世界と結びつく為に労作をするからでありませう。  問 これに反して、我我人間をば超越的世界にまで引き上げやうとするといはれるのは、どういふことでありますか。  答 これは具体的に言へば、象徴的のもので、実際に超越的世界に引き上げるのではありませぬ。その精神をばなるべく宗教的の内容にて充実し、さうして、これによりて精神的に創造したる超越的世界と結びつくやうに努むるのであります。ミュルレル、フライエンフェルス氏はこの種の行動をあらはすものを高揚的宗教性と名づけて居ります。  問 さうすれば宗教的の行動には常にこの二種の差別が存するのでありますか。  答 さうではありませぬ。この二種を挙げたのは大略の傾向を示したもので、その行動が明かに何れに属するか、区別することが出来ぬ場合もあります。しかしながら、大体に於て、宗教的の行動が実際の目的を有するものと、象徴的のものとの二種であることは明かであります。  問 宗教的の行動は、これを勞作的と高揚的との二類に別つことが出来ると承はりましたがそれは超越的世界に対する態度に外ならぬものでありませう。しからば、その心の態度の如何によりて宗教的行動にもまた種種の差別があることと思はれます。如何のものでありませうか。  答 それは無論のことであります。全体、超越的世界の観念といふものは経験的世界から形成せられたる観念が僅かに変形せられたるものでありますから、超越的世界の上に向けられるところの行為もまた経験的世界に行はるる行動の僅かに変形せられたるものに外ならぬものであります。それ故に、それは経験的世界にあらざるところの宗教的感情の特殊なる性質に相応して宗教的行動の種類もまた互に相違するのであります。  問 その概略を説明して頂きたいものであります。  答 その概略を申しますと、抑鬱性の宗教性の場合にありましては、超越的世界が強力の権威を有し、我我に対して威力を振ふものと感ぜられるのでありますから、それに対して祈祷し犠牲を供ふるなどの宗教的行動をするのであります。これに反して、自己感情が高まりたる宗教性にありては仏仏をば慈愛なる朋友のごとくに見るのでありますから、犠牲にしても自由でむしろ献上する心持であります。神仏を憎悪する場合には神仏を欺くか、これを誤魔かすやうな行動がせられるのであります。  問 宗教的行動につきて大略の処は御説明によりて承知致しましたが、これは宗教の実際の上に重要のことであると信じますから、更にくはしい御説明が願ひたいのであります。  答 御質問に応じて宗教的行動の主要なるものをお話致しませう。それは先づ(イ)魔術(ロ)犠牲(ハ)祈祷(ニ)清浄(ホ)芸術的作業(ヘ)神仏の認識(ト)倫理的行動(チ)超越的世界との結合(リ)厭離穢土の諸項に分つことが出来るのであります。その一とつ一とつにつきて大体のことを説明いたしましても大分複雑のことでありますから、若し十分におわかりの出来ないところがあれば更に御質問を願ひます。  魔術的行動  問 第一の魔術といはるるのはどういふことでありますか。  答 それは魔術的行動で、人間と超越的世界との交渉の最も原始的なる形式であります。  問 さうすると、魔術は宗教の極めて幼稚なるものにあらはれるのでありますか。  答 さうであります。魔術的行動は宗教的観念がまだ十分明瞭でないときにあらはれるもので、この場合には超越的世界の権力は十分に感ぜられて居らぬのであります。  問 一体、魔術とはどういふ意味でありますか。  答 魔術とは秘密の行動によりて超自然的の作用をあらはすのをいふのでありますが、原始人類にありましては固より自然的の作用と魔術との間には明かなる区別がないのであります。それ故に、ここに魔術といふのは超越的世界の威力に向つて行はるるところの魔術的行動を指していふのであります。  問 さうすれば、それは魔術的観念の上にあらはれる宗教的行動といふ意味でありますか。  答 さうであります。魔術的根本に基づくところの宗教的行動であります。  問 その魔術的宗教的行動とはどういふものでありますか。  答 人間が神仏として仮装し、若しくは少なくとも神仏の行動をなすものと考へられたときに、魔術を行ふものは神仏の威力を以て、魔術的作用を致すものとするのであります。  問 さう承はれば、我にてむかし鎮西八郎為朝宿と書いて門に貼つて置けば疱瘡や麻疹を免れると言つたやうなことは、この魔術的行動に属するものでありませう。  答 全くさうであります。為朝の強力がよく疾病を退治し得ると信じて、その魔術的作用を用ひやうとするのであります。その他にもこれと同じく、たとへば、神仏の像に觸れて病気がなほるといふことを信じて魔術的行動をなす種類のものもあります。  問 此の魔術的行動は我邦の仏教の中にも、むかしは随分多かつたやうでありますが、さうすれば仏教も低級の宗教に属するものでありますか。  答 釈尊が説かれた教に此の如き魔術的行動はありませぬ。しかるにそれが仏教を杢するものの内に存するのは、仏教を奉ずると言ひながら、真に釈尊の精神を解することなく、自己の低級なる宗教意識に動かされるがために此の如き魔術的行動をあらはすものでありませう。  犠牲  問 第二の犠牲といふのはどういふものでありますか。  答 犠牲といふことは神仏に対して何等かの贈物をなすことが根本でありまして、これも魔術的行動から発展したものであります。  問 魔術的行動からして犠牲が発展したといふことはどういふ意味でありますか。  答 それは、魔術的の強制によりて超越世界的の権力の上に何等かの作用を致さうとするのが、犠牲の根本であります。原始人類の多数のものにあては犠牲は第一に神仏の存在を実現するためのものでありまして、犠牲を神仏に捧げるのではなくして、犠牲にせられたる人間又は動物が神仏であると考へられるのであります。  問 犠牲はすべて此の如き魔術的強制に基づくものでありますか。  答 さうではありませぬ。犠牲の内には魔術的強制が欠げて居るものもあります。それは超越世界的の権力をば自分の望むやうに導かうとするために犠牲を供ふるもので、いはば商賣的のものであります。  問 商売的の犠牲といはれるのはどういふ意味でありますか。  答 それは丁度、その価を拂ふて品物を買ふといふやうな具合に、商賣的に犠牲を供ふるのであります。この種類のものの中には明かに賄賂の意味を有するものがあります。  問 犠牲の中には又、神仏に対して祈願の意をあらはさうとするものもありませう。  答 無論さういふものもあります。しかし、これは魔術的強制によることはなく、ただ神仏の善意に対して、自己の望むところを願求するのでありまして、神仏との結合は僅微のものであります。  問 さうすれば祈願的犠牲と、前の魔術的及び商賣的犠牲とは、どこかに相異するところがありますか。  答 その外形に於ては互に異なるところはありませぬ。しかし、その精神的の態度は全然格別のものであります。祈願的のものはどこまでも神仏の善意に依るもでのありまして、強制するものでありませぬから、その作用の上に於ける信用は弱いものであります。  問 何れにしても犠牲は自己中心の行動としてあらはれるものでありませうが、高等の宗教にありては犠牲を供ふるといふやうなことは無いのでありますか。  答 別に帰依的犠牲といふものがあります。これは超越的世界と結びつくために勞作をするもの、すなはち勞作的宗教性にありてはあらはれるものでありませぬ。超越的世界の威力をば現実の人間の世界に引き入れやうとする場合に、この種の犠牲はあらはれるものでありませぬ。この帰依的犠牲があらはれるのは高揚的宗教性の場合で、我我人間をば超越的世界に引き上げやうとする場合にあらはれるものであります。  祈祈  問 宗教的行動の第一は魔法、第二には犠牲、第三には祈祷と承はりましたが、その祈祷のことにつきて御説明をお願いたしませう。  答 ざつと申せば、祈祷は神に対して自己の希望が達せられるやうに念願するのでありますか、深く穿鑿いたしますと、それには種種の形式がありまして一概に申すことは出来ませぬ。  問 前に承はりました犠牲にも祈願の意味がありまして、神の意を迎えるために犠牲を供へるものもありませうから、祈祷も犠牲もつまりその精神に於ては同一のものでありませう。  答 さうであります。精神の動機から申せば犠牲と祈祷とは全く同様のものであります。しかしその形式が変化して居るのでありまして、犠牲は何か形のある外的の物品を神に供へるのでありますが、祈祷はこれに反して言葉と思考とを神に供へるのであります。それ故に、祈祈は犠牲の内的化であると申しても差支ありませぬ。何れにしても祈祈は神に接してそれと対話する心持のものであります。  問 神に接してそれと対話するとは面白いことを承りました。  答 一面から申せば祈祈は言葉と思考とを神に供へるのでありますが、一面から申せば、何等かの助けを神に求むるためのものでありますから、神との対話であると申して差支ありませぬ。勿論対手の神は無言でありますから、祈祈するものは独語して居るのであります。  問 なるほどさう承はりて見れば祈祈は大抵寺院にてせられるものであります。それは其処にて神に接することが容易であると考へられるためでありませう。  答 無論さうであります。しかし、寺院でなく小さい室に閉ぢこもりて隠密に祈祈することもあります。これは神の認識が相異するためであります。耶蘇はこの種の祈祈を賞揚したといふことであります。家庭にありて内仏の前に坐して祈願するのも同じやうな意味であります。  問 祈祈も犠牲と同じやうに、その精神的態度に種種の階段があるのでありませうか。  答 さうであります。犠牲と同じやうな階段は魔法的祈祈であります。  問 魔法的祈祈といはれるのはどういふことでありますか。  答 魔法的祈祈といふのは、祈祈の権力によりて、ある現象をあらはし、又は奇蹟を呈することを期するのであります。祈祈によりて強度の権力が実現せられることを強制するのであります。  問 さうすれば咒文を唱へて病気や災難を拂ふなどは、魔法的の祈祈に属するものでありますか。  答 これには異論もありませうが、私はこれを魔法的祈祈と名づけて差支ないと考へます。むかし我邦にても疫病を拂ふためにお経の転読が行はれたことがありますが、これは神仏及び経典等に魔力がありと信じて、これをもつて他の魔力を抑制しやうとするためであります。これ等も魔法的祈祈に属するものでありませうか。  答 むかしから仏教の各派にて行はれて居るところの祈祈には息災・降伏・圧勝・薦援・加持・護身などの方式があります。その何れにしても、仏力を認めて魔法的のものとなし、それによりて自己の希望を達するやうに強制することは同様であります。  問 しからば、さういふ初歩の階段の祈祈は文化の進みたる現代にはその跡を絶ちて居るのでありますか。  答 此の如き祈祈によりて悪魔を攘といふやうなことは無くなつても、その魔法的強制の心持は今日にてもなほ殘留して居るのであります。殊に言葉によりで魔法的強制を実行しやうとする考は広く行はれて居るのであります。  問 祈祈の第二の階段は何でありますか。  答 それは請願的祈祈と名づくべきものであります。神の観念が進歩したのと、宗教的意識が発展したることによりて、祈祈の形式が変化して請願的となつたのであります。  問 雨乞の祈祈などはその類でありませう。  答 雨乞のための祈祈が仏教家の手によつて行はれたことは歴史に見えて居ることでありますが、これは無論、仏に訴へて降雨せしめられむことを哀願する心持であります。  問 しかし、此の如き祈祈に宗教的意味はないやうに思はれますが、いかがのものでありませう。  答 釈尊の言葉が「法句経」に載せてあるのを見ますと『滅多自帰山川樹林、廟立図像、祭祈求福、自帰如是、非吉非上、彼不能来度我衆苦』とあります。山川樹神などを祭りて福を求めても、その神は来りて我我の苦しみを濟度することは出来ぬと此の如き祈祷を排斥して居られるのであります。  問 しかるに、釈尊の教を奉ずると称する仏教の各派に於て此の如き種類の祈祈が行はれるのはどういふ訳でありませうか。  答 それには相応の理由があるでありませうか、要するに、釈尊の精神が十分に徹底せぬと申すの外はありませぬ。  問 祈祈が更に進みたる段階はどういふものでありますか。  答 それは犠牲に於けると同様に商賣的祈祈と名づくべきものであります。しかしそれは精神化せられて、精妙のものとなつて居るのであります。  問 商賣的といふのはどういふ意味のものでありますか。  答 それは神と人とがお互であるといふやうな心持で、人が神を認むればは神はその人を助ける。又人は神に対して人の祈祷を聴き容るれば自分の利益であらうと説得する気持でありますから、丁度代価を取りて品物を賣買するやうなものであります。  問 お互に利益の交換をするといふやうな意味のものでありませうか。  答 そう申してもよいでせう。福を植へ、善を積むことになれば神がこの誠を感ずるであらうと考へてするものも亦この種の祈祷に属するものであります。  問 むかし我邦にては疫病を拂ふために刑人を赦された例が多くあるやうでありますが、これもまたこの種の祈祷に属するものでありませう。  答 此の如き祈祷は仏が人の誠を感ずるといふことを前提として施行するものでありますからたとへば神から救助を買ふためにその代償として誠意を神に拂ふのであります。  問 その他に、祈祷にはどういふものがありますか。  答  懺悔的祈祷と称せらるべきものがあります。これは贖罪《しよくざい》の意味にて犠牲を供ふるものと同じく、正直なる白状によりてその罪を贖《あがな》ふとするのであります。人人は正直に罪悪を自覚し祈祷によりてその罪悪を贖ふことが出来ると考へるのであります。この場合にはその心持が倫理的のものであることを前提とするものでありますから、真実の意味に於ての宗教に属せぬものであると申さねばなりませぬ。  問 その次の祈祷の種類はいかなるものでありますか。  答 それは恭順的祈祷と称せらるべきものであります。  問 恭順的祈祷といはれるのはどういふ種類の祈祷でありますか。  答 それは神の優越なる性質と作業とを称へるのであります。仏教の用語にて申せば仏の功徳を称へるのであります。すなはち人人は神をばその名称(称號)にて呼ぶのであります。  問 しからば称名念仏はこの恭順的祈祷に属するものでありますか。  答 たとへば南無大師遍照金剛、南無大慈大悲観世音、南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏の類はこれを称ふるものの心持次第にてこの恭順的祈祷に属するものであります。  問 余のことはさて置き、南無阿弥陀仏につきて御説明を願ひたいものであります。  答 善導大師の説明によりますると、南無は帰命、またこれ発願廻向の義なりとあります。これを文字通りに解釈すれば如来に自己を打ちまかせむと念願する心に外ならぬものでありませう。  問 その意味がはつきり致しませぬ今少しくはしく御説明を願ひたいものであります。  答 阿弥陀仏と凡夫とを対立せしめて、さうして、阿弥陀仏は凡夫を救ふものであるとする、さうすると、凡夫は阿弥陀仏に救はれたいと願ふことでありませう。それ故に凡夫は阿弥陀仏にお願ひして自己の所望を満足せしめようとするでありませう。ここに犠牲(献納物)を供へるでありませう。その犠牲を言葉にてするのが祈祷 であります。  問 浄土宗の学者が書かれた祈祷辨といふ書物に『吾浄宗の祈祷は護念経を読誦し六字の寶符を唱ふるを以て加待の神呪とす云々』とありますが、これは如何でありませう。  答 この説明に拠りて見ますると、それは阿弥陀仏の威力を以てもろもろの厄難を消除して貰ふ様に祈祷する意味でありますから、祈祷としては低級のものであります。私が考へまするにこの説明は仏教家祈祷の方式に対応して説明せられたのでありませう。  問 その仏教家の方式とはどういふものであります。  答 仏教家は祈祷の方式として息天、降伏、厭勝、薦授、加持、護身と致し、それは皆、仏の力を借りて目的が達せられるやうに祈祷するのであります。  問 さうすれば、それはむしろ魔法的強制に属するものではありませぬか。  答 いかにもさう考へられるでありませう。人人の智慧が進歩して居りますから、固より具体的の魔を信ずるのではありませぬが、言葉を以て魔力の発動を祈願するのであります。歴史を見ますと、後醍醐天皇の時疫病が流行しましたので知恩寺の普寂が勅を奉じて百萬遍會を修して疫病を拂ふた。その感賞によりて此名を賜はつて百萬遍知恩寺と名づくることとなつたとあります。これも祈祷の種類から申せば魔法的祈祷に属すべきものでありませう。  問 全体、祈祷は仏教にて始めから行はれたものでありませうか。  答 その始めはどうであつたか知りませぬか、大乗仏教になりてから聖道自力の各宗では、広く衆生を済度するの道として祈祷が行はれたといふことであります。  問 淨土他力の教を奉ずる浄土宗でも同様に祈祈は行はれたのでありませうか。  答 行はれたものと見えます。少なくとも祈祷するとも差支はないものと許されたのでありませう。祈祷弁の中にもさういふやうに書いてあるやうであります。  問 祈祷の種類はその外にはありませぬか。  答 あります。それは帰依的祈祷と称せらるるものであります。  問 それはどういふものでありますか。  答 帰依的祈祷といふのは前に挙げた各種の祈祷のやうに功利的の念に煩はさることなく、全く神仏の意志に従属するものであります。  問 功利的の念を捨てて神仏の意志に従属することを祈祷といふのはいかがのものでありませう。  答 それも要するに、祈祷の精神に外ならぬものであります。ただそのあらはれ方が相違するのみであります。  問 それを理解することが困難であります。今少し詳細に御説明を願はなければ合点がまゐりませぬ。  答 キリストが「我父よ、若しかなはずばこの盃を我より離ちたまへ、されど我心のままをなさむとするにあらず、御心にまかせたまへ』と祈祷したとありますが、帰依的祈祷とはかういふ意味の祈祷であります。  問 しからば祈祷とは自分の所望を神に強要するのではなく、神が自分の所望を達せらるるやうに道を開くことでありますか。  答 いかにもさうであります。帰依的祈祷といふのは無意味に自己の所望を神仏に強要して神仏の意志を変ぜしめるのではありませぬ。或事件を我我が思ふ儘にしようとするのではなくその事件に対する我我の態度を変ぜしむのでありますから、祈祷それ自身が神仏の応答に外なぬものであります。  問 それで大分よくわかつたやうであります。祈祷は人が為さむとすることを神に為さしめるのではなく、神の為さむとするところを人に為さしめるのであると申すべきでありませう。  答 その通りであります。  問 さうすればこの帰依的祈祷は宗教の心のはたらきとして重要のものでありませう。  答 さうであります。エマーソンは祈祷とは畢竟、最高の見地より人生の事実を瞑想するの謂にして考察し、歓喜せる霊魂の独語なり、私の目的のためにする祈祷は賤劣にして窃盗と異なることなしと言つて居りますが、これは至言であると思ひます。この種の祈祷はすべての宗教を欠くべからざるものであります。  問 しかるに、仏の内にて浄土真宗には祈祷がないと言はれて居りますが、それは如何のものでありませう。  答 浄土真宗は兎も角も親鸞聖人の宗教に祈祷がないとは申されませぬ。親鸞聖人の宗教に祈祷がないといふのは、彼の魔法的祈祷など功利的の祈祷がないといふ意味でありませう。  問 いかにもさうであらうと思ひますが、他力の教と祈祷の心とは両立しないから、浄土真宗では徹底的に祈祷を排斥するものであると説明してありますから、浄土真宗では全く祈祷を排斥することでありませう。  答 しかし、それは功利的の祈祷のことでありまして、帰依的祈祷は実際に重要のものとせられて居るのであります。自力疑惑の念を捨てて、ただ一心に如来の本願に信頼するといふことは、要するに無我の心を仏に捧げるもので、それがすなはち帰依的祈祷であります。  問 さう承はり見れば親鸞聖人の宗教にしありてこそ徹底したる祈祷が在して居るわけでありますしかるに祈祷がないといふのは祈祷の意味を誤まつて居るのでありませう。  答 如来が我我は救はむとする祈祷が、徹底せしめられて我我の祈祷となりまして、如来と我我とが一致するのであります。それ故に如来の本願を信ずることが、我我に取りましては取りも直さず祈祷することであります。  ?清  問 祈祷のことに就ては大体承知いたしました。その次の宗教的行動は何でありますか。  答 第四の宗教的行動は浄清と名づけられるものであります。これは身体や精神を清めるといふ意味で行はれる宗教的儀式の一とつであります。  問 それは何のために行はれるのでありますか。  答 宗教といふものを神聖なるものと考へて、その神聖に近づくには、先づ神聖ならざるものを除き去ることを要すると信じたからであります。さういふ意味に於て、我我人間の身体も精神も共に不浄なるものでありますから、その不浄を浄清することが必要であると考へて浄清の儀式が行はれたのであります。  問 浄清の儀式はどういふ風に行はれたのでありますか。  答 その儀式には種種ありますが、大体我我の身体を水にて洗ひ、又は祭殿に火を燃やし、又は衣服を改め又は一定の食物を禁じ、若しくは特に禁止せられたる思考と希望とを絶つやうなことが行はれたのであります。  問 かやうな浄清の儀式は今日でもなほ行はれて居るのでありますか。  答 今日でも浄清の儀式が行はれて居る場合があります。現にキリスト教で行はれて居るところの洗禮もその根本の考は、これによりて身心の不浄を洗ひ去るといふことに帰するのであります。  問 さうなれば、洗礼に魔力がありてその魔力によりて身心の不浄が除き去られると考へるのでありませう。  答 いかにもさうであります。浄清の儀式に彼の犠牲や祈祷と同じやうにその精神的動機に階段がありまして、初めは具体的に考へられ、後に段段に抽象的に考へられるやうになるのであります。  問 カトリックの信仰では洗禮をせぬものは天国に赴くことが出来ぬと聞きましたが、若しさうでありとすれば、洗禮の儀式も全く魔法的のものであるやうに思はれます。いかがでせう。  答 いかにもさういふ風に考へられます。もともと不浄なりと考へられたる身体と精神とが一旦の洗禮によりてたちまちに浄清せられるとすれば、どうしてもその洗禮に魔力があると信するものとせねばなりませぬ。しかし今日現に行はるるところのキリスト教の洗禮はかやらな魔術的浄清がただその外形だけを存して、全く象徴的のものとなつたのであります。  問 神さまの前などにて火を燃すことがありますが、これも魔法的浄清に属するものでありませうか。  答 幼稚なる精神を持てる人間は、丁度、火の煙にて昆虫を駆除するやうな具合に、同じく火の煙にて悪魔を退治することが出来ると考へたのでありますから、神さまに対して火を燃すことも、これによりて不浄を除き去ることが出来ると考へたからであります。  問 仏前に香を焚くのも同じ意味のものでありませうか。  答 その根本の考を吟味すれば同じ意味のものでありませう。不浄なる身心をば馥郁たる浄香にて除き去ろうとしたのでありませう。しかし、今日の儀式では仏に香を焚くことは単なる恭敬の意味に外ならぬものであります。  問 浄清の儀式は魔法的のものが始めて行はれたことはまことにさうであらうと思はれますが、しかし、浄清の儀式には恭敬の意を含むで居るものもあつたでありませう。  答 固よりさうであります。神仏を禮拝するときは、手を酒ひ、口を嗽ぎ、或は衣服を改めるなども浄清の儀式に属するものでありますが、これ等は言ふまでもなく神仏に対する恭敬のを表するものであります。これによりて不浄の身心を変じて忽ちに浄清のものとする意味ではありませぬ。  問 恭敬の意味にて浄清の儀式をなすものがあると同じやうに懺悔又は贖罪の表現として浄清の儀式をなすものもあるやうに考へられますが、いかがでありませう。  答 無論、懺悔又は贖罪の意味にて浄清の儀式をなすものもあるでせう。不浄といふことを精神的方面に就て考へるときは精神の不浄を浄清するといふことは全く懺悔又は贖罪の表現として認められることでありませう。  問 帰依的淨清犧牲や祈祷と同じやうに、浄清にも亦、帰依的のものがあるでありませうか。  答 帰依的の浄清と名づくべきものもあります。しかし、それは前に申した勞作的宗教にははれるものでなく、ただ高揚性宗教にのみ行はれるものであります。  問 どういふ訳でありますか、今少しくわしく御説明を願ひます。  答 帰依的淨清といひますと、それは全く精神的のものでありまして、たとへば洗禮を施すとしましても、小児にこれを施す場合には、ただ魔法的浄清の意味に止まるものでありますがこれを大人に施すときに、それが意識的にその精神の内部を浄化することが出来る場合があります。さういふときには、淨清は帰依的のもでありまして、その人は人間の浮世から洗ひ清められた心になるのであります。  問 さうすると、帰依的淨清といふものは身体の淨清を求むるのでなくして精神の淨清を期するのでありますか。  答 さうであります。それ故に勞作的宗教といはれるもののやうに、神仏の上に感作を致してその威力の助けによりて、自己の希望を達しやうとするやうな宗教には、この種の帰依的淨清のはたらきは起らぬものであります。これに反して高揚性宗教といはれるもののやうに、自己の精神をばなるべく宗教的の内容にて充実しさうしてこれによりて精神的に創造したる超越的世界と結びつくやうに努むる場合に、始めてこの種の帰依的淨清があらはれるのであります。  問 宗教の上に、必ず此の如き淨清が必要でありませうか。  答 魔法的淨清は固より幼稚なる人人の宗教にあらはれるものでありまして、それは常に具体的のものであります。精神の発達が進みたる人人の宗教にては、それが精神的のものでありその儀式は象徴的で、全くその精神の純化をはかるものであります。しかしながら、それは宗教といふものが神聖となることを主旨とするところに、此の如き、淨清の儀式が行はれるのでありまして、真実に精神的仏教と名づくべきものは決して神聖となることを主旨とするものではありませぬ。それ故に真実の精神的宗教にありては淨清を必要とするものではありませぬ。  問 いかにもさうであらうと思ひます。仏教の如き精神的宗教にて淨清の儀式を必要とすることはないと考へられますが、彼の仏前に燈明を照し香を焚のは淨清を求むるのではありませぬか。  答 仏前に燈明を照し、香を焚くといふことも、その根本を尋ぬれば淨清の儀式であつたと思はれます。しかし今日では、それは具体的のものではなく、少なくともただ象徴的にそれが精神の純化を期するものとして行はれて居るのであります。もつと進歩したる考ではそれは全く仏に恭敬の意を表するためであります。  問 浄土真宗などでも同じやうに恭敬の意を表するものとしてそれを行ふて居るのでありませうか。  答 宗教は醜悪にして不浄なる我我の上も仏の光明が照し来るものと考へて居る以上、仏前に香を焚くといふやうな儀式も全く仏の恩を謝するためのものであり、くわしくいへばこれによりて仏の恩を自から想ひ出して感謝する意味のものでありませう。  芸術的作業  問 宗教的行動の中に芸術的作業が挙げてありましたが、それはどういふことでありませうか。  答 宗教と芸術との関係は甚だ密接のものでありますが、その第一に値するものは造形芸術でありまして、これは魔法的の性質を有するものであります。  問 その一例を挙げてお示し下さい。  答 たとへば人人が神仏の現住を願ふときには神仏の彫像を造りてこれを寺院に安置するのでありますが、この場合、その彫像は神仏に形体を挙へられたるものでありまして、寺院はすなはち神仏の住居であります。さうして、寺院にも、神仏の彫像にも魔法的の作用があるものと信ぜられるのであります。西洋にては古代一定の寺院に睡むるときは予言的の夢を見ると言はせて病人が其処に寝て治療の方法などを夢のお告によつて知つたといふことであります。又神仏の彫像が霊妙の作用を有して、それに慣れるときは病気が癒るといふやうなことも信ぜられました。  問 我邦の俗間に賓頭盧の頭を撫でて病気がなほると傅へて居りますが全くこの一例でありませう。  答 さうであります。かういふ例は外にも甚だ多いものでありまして、芸術的の作品としての神仏の彫像の美的価値は第二として、先づその宗教的の価値が尊ばれたのであります。しかもそれが今申すやうに魔法的の力があると信ぜられるのであります。  問 他の宗教的行動に於けると同様に、恭順の心持によりて神仏の芸術的作品をつくることがありませうか。  答 随分さういふ場合もあります。宗教的感情からして芸術的の作品が出来上ることは、これを心理学の上から見れば犠牲及び祈祈の心理に類似するものであります。しかし犠牲及び祈祈とは相異して宗教的感情に審美的感情が混同するのであります。またその上にその作用はそれをやる人の自我の上にのみ止まらずして他の人の上にまで広くその作用を及ぼすものであります。  問 その心が更に進むときは無論帰依的に芸術的作品をつくるに至ることでありませう。  答 神仏と合致するまでに、その心持が進みて帰依の感情が強くなれば、その宗教的感情が満足するほどに芸術的作品が出来上ることは無論であります。彫刻家が神仏の像をつくるにしても、詩人及び音楽家がその想像の力によりて超越的世界に遊ぶにしても、その宗教的感情が強くあらはれるによりて現実の浮世から離れて、神聖の世界に生ることが出来るのであります。かういふ場合に於ける芸術的作品は全く帰依的の心持によりて出来るものであります。むかしから工匠が斎戒沐浴して造つたとか、丹精を凝して彫刻したとかといはれて居るものは皆帰依の心から出来上つたものであります。  問 壮麗なる寺院に参詣するとき、又は美麗なる神仏の像に対するとき、その人の心に何となく宗教的感情を起すものであるやうでありますが、さうするとかやうな芸術的作業は宗教的行動として有要のものでありませう。  答 しかし、それは元来、勞作的宗教の作用に属するものであります。ただその人の心に宗教的感情が強くあらはれるときに寺院に参詣し、若しくは神仏の像を拝むことがその宗教的感情を更に劇しくするものであります。  神仏の認識  問 神仏の認識が宗教的行動の一とつであると承はりましたが、それにつきて更に御説明を願ひませう。  答 超越的世界を認識することは宗教的行動として最も価値の多きものであります。それは神仏の観念をば最も純粋に、又最も強劇に高めるための宗教的行動に外ならぬものでありますさうして自から認識したるものを他の人に伝達することも亦、宗教的行動の重要なるものであります。  問 さうすると、その認識はどういふやうにして行はれるものでありますか。  答 これにも順序がありまして、その最初のものは魔法的の目的を有するものであります。それは魔法的の目的を達するために神仏の意志を研究するのであります。  問 たとへば、病気が神仏の意志によりて治癒せしめられると考へるときに、治病の目的に神仏の意志の如何を認識しやうとする類でありますか。  答 さうであります。この外に、神仏の認識によりて、それが現実の世界に致すところの作用を明にしやうとするために努力するやうなこともあります。  問 恭順の心にて神仏を認識しやうと努力するやうな場合もあることでありませう。  答 宗教的の事項を沈思することは全く恭順の心持によるものであります。さうして神仏を讃嘆するにはその前提として神仏の認識を明かにせねばならぬのでありますから、それにつきて沈思することが行はれるのであります。  問 基督教の讃美歌、仏教の和讃の類は神仏の性質や行為を説示して居るやうでありますがそれも恭順のものでありますか。  答 これは理智的に神仏の本質を分析したものであります。それ故に、これは研究を進めるに從ひてますます神仏の本質に深く入り込むことが出来るのであります。宗乗といはれ、神学といはれて居るものは此の如き所見を陳列したものであります。  問 帰依的の神仏認識といはれるものがありませうか。  答 理智によらず、感情のはたらきによりて神仏を感知することは、まさに帰依的の神仏認識と言はるべきものでありませう。  問 理智によらざる神仏を認識するといふのは、どういふ意味でありますか。  答 それは、平易の言葉にて言へば、神仏あることを感知するのであります。直観のはたらきによりて神仏を認識するのであります。理智のはたらきによりて思慮穿鑿《せんさく》してそれを認識するのではなくただ何となく、さう感ぜねばならぬ心持が動きてを認識するのであります。宗教的冥想と名づけられるのがこれであります。  問 それがどういふ譚で宗教的行動とせられるのでありますか。  答 かやうに、理智のはからひを離れて感情の動くがままに神仏を感知することは、すなはち神仏に対する帰依の行動に外ならぬものであります。  問 元来、神仏は超越的世界のものでありませうから、それを認識することは出来ぬ筈でありませう。  答 無論さうであります。我我の理智の力にては認識することの出来ぬものを認識しやうとするのでありますから到底理智の力にては如何ともすることの出来ぬものであります。ただ我我の感情は、理智のはたらきにては認識することの出来ぬものをも感知することが出来るのであります。それは全く思慮分別のはたらきをして、直観的にさうと感知するのであります。真実の意味にて宗教的の認識といふべきものはこの種の認識であります。  問 神仏の認識が宗教的行動の一とつであるといはれるのはどういふことでありますか。  答 神仏の認識といふのは超越的世界をば意志のある作用として認識することを指すのでありまして、宗教的に重要なる行動に属するものであります。  問 超越的世界を認識するといひましてもそれは言ふまでもなく直接にこれを認識することは出来ぬものでありますから、神仏の観念をつくるに過ぎないものでありませう。  答 いかにもさうであります。神仏の観念をつくるのであります。しかし、その観念をば純情のものとなし、又その観念を強くすることが宗教的行動として甚だ重要のものであります。しかし、このことにつきて以前に大分くわしくお話いたしましたから、ここに神仏の認識につきて繰返すことを止めて、その次の宗教的行動のことにつきてお話致しませう。  倫理的行動  問 その宗教的行動といふのは何でありましたか。  答 それは倫理的行動であります。宗教の多数の中には真実の倫理的行動を以て神仏に仕ふる義務として尊重して居るものがあります。  問 さうすると、宗教と倫理とは同一のものでありますか。  答 宗教と倫理とは固より別のものであります。しかしながら、それが互に関係して倫理的行動が宗教的のものとなることがあるのであります。  問 それは如何なる場合でありますか。  答 たとへば、倫理的に要求せられる事柄が神仏の意志を表現したものとせられたるときに人人がそれを満足に実行すれば神仏がそれを喜ぶといふやうな場合、その行動は犠牲の性質を有して倫理的行動が宗教的のものとなるのであります。  問 さうすると、その倫理的行為に大なる価値があるものと信ぜられるのでありませうか。  答 さうであります。倫理的行動が神仏の上に魔法的の強制を及ぼし得るものと信ぜられて居ることが多いのであります。  問 倫理的行動によりて未来に報を善報を得やうとするやうなことはないのでありませうか。  答 さういふやうな賞与を期待して倫理的行動をなすことも多いことでありませう。  問 帰依の心によりて倫理的行動をなすやうなことは無いのでありませうか。  答 無論さういふ場合もあるに相違ありませぬ。神仏の意志をば自分の意志として倫理的行動をなすことが出来たと意識するときには、それは帰依の性質を有するものとせねばなりませぬ。  問 此の如き倫理的行動は何れの宗教にも行はれて居るものでありませうか。  答 倫理的行動をば宗教的行動として尊重するのは勞作的宗教であります。超越的世界と結びつくために勞作をする宗教にありては此の如き倫理的行動は重要とせられるのであります。それは此の如くにして人人はその自我の行動をば神仏の意志に服従せしめ、従つて宗教的権力を重く見て、その自我を殺すことに努めるためであります。  問 仏教にも廃悪修善を重要としてありますから、これも勞作的宗教に属するものでありますか。  答 釈尊は機に従ふて法を説かれたのでありますから、先づ強く廃悪修善を説かれたのであります。廃悪修善は固より倫理的価値の重要なるものでありますから、第一に倫理的に内省せしめ、それから進むで宗教の心があらはれるやうに導かれたのであります。  問 さうすれば廃悪修善といふことは宗教に入るの門として説かれたのでありませうか。  答 それにつきては少しくわしく説明せねばなります。元来宗教は倫理とは全く別のものでありますが、しかし、宗教の心は我我が日常の生活に重要なる倫理の法則を実行し得ざるために起るところの苦悩を離れるためにあらはれる心のはたらきであります。それ故に、真に宗教的意識を明瞭にするには十分なる倫理的反省をその前提とせねばならぬのであります。  問 宗教によりて生死の苦界を離れるといふ、その苦悩は倫理的の意味のものでありますか。  答 真実の意味にていふところの宗教の心の本となる苦悩は倫理的に自覚するところの苦悩にあります。倫理的に深く自分の内面を考へて、そこで理想と現実との矛盾を感ずるところに起る苦悩を離れるために宗の心があらはれるのであります。  問 さうすれば廃悪修善は倫理的の理想として、それが現実と矛盾するところに苦悩が起るのでありませうから、宗教の心をあらはすために廃悪修善が説かれるのはどういふ訳でありますか。  答 それは倫理的に内省することを深くして、その苦悩のよりてあらはるるところを十分に知らしめるためでありませう。悪を廃し、善を修めよ、さうすればさとりが開けるぞと言はれる釈尊の言葉は、これをその儘に受け取れば一とつの尊とき倫理的の教であります。しかし現実にさういふ倫理的の教を実行することの出来ぬ自分の心の相を見たるものに取りては、自己意識を離れて宗教の心をあらはす道が開けて来るのであります。  問 かやうに承りて見れば廃悪修善の教は、倫理でもあり、又宗教でもあるといふやうに思はれますが、それは如何のものでありませう。  答 廃悪修善の教そのものが宗教の心をあらはすといふのではありませぬ。廃悪修善の教を聴くものが退いて深く自分の心の相を見たとき、とても廃悪修善の教は自分に実行することが出来ないと知るときに、廃悪修善に努力しやうとする自分の力が全く無くなるのであります。そこにその心の奥底よりあらはれて来るものが宗の心であると申すのであります。  問 西洋の学者の書いたものに仏教は実踐道徳を主とするものであると聞きましたが如何でありますか。  答 西洋の学者のみでなく、仏教の書物の中にても所謂小乗に属するものの中には道徳がいかにも仏教であるかの如くに説いたものが多く見受けられるのであります。しかし、それは大体に於て宗教と倫理とを混同した考の上にさう言ふのでありまして、宗教が倫理と全く各別のものであるといふ立場からは決してさういふことは言はれることでありませぬ。  問 さうすると、真実の宗教にありては倫理は常に無視せらるべきものでありますか。  答 宗教と倫理とが全く各別のものであるといふのはその心のはたらきの上のことをいふのであります。宗教と倫理とが各別であるからと言つて、倫理を無視するといふのではありませぬ。倫理に併びて宗教は人人の生活を導くものであります。しかも宗教は倫理の実行不能を知ることによつて起れる苦悩に対してあらはれる心でありますから、倫理を尊重しなければ宗教の心はあらはれて来る筈はありませぬ。  問 さうすると倫理と宗教とはその心のはたらきの上に於てどういふ点が相異して居るのでありますか。  答 簡単に申せば自己意識が明かにあらはれて居るときに倫理の心があらはれ、自己意識が明かにあらはれて居ないときに宗教の心があらはれるのであります。前にも申したやうに、我我は自己といふものを十分に意識してその自己を正しく整へるために廃悪修善をつとめるのが倫理の心のはたらきであります。しかしそれを十分徹底して実行することが出来ぬと知りて自己の価値を捨てたときに自己意識は不明瞭となりて、ここにあらはれるのが宗教の心であります。  問 以上承はりました宗教的行動といふものはすべて、一定の作業によりて超越的世界をば現在の世界の上に、役に立たしめやうとするやうでありますが、更に人間自身をば超越的世界まで進めることをつとめることではないのでありますか。  答 お尋ねの通り、これまで説明いたしたのは所謂勞作的宗教の行動でありまして、超越的世界をば人間自身の役に立てやうとして、努力するのであります。それに対して所謂高揚性宗教の行動といふべきものもあります。勞作的宗教にありては超越的世界の威力を現実の生活の上に引き寄せやうとするのであるが、高揚性宗教にありては人間自身をば超越的世界にまで引き上げやうとするのであります。従つてそれに相当する行動をあらはすのであります。  超越世界との結合  問 それはどういふ行動でありますか。  答 超越的世界との結合がすなはちそれであります。自我をば超越的世界と結びつけるのであります。丁度、人間と人間とが互に結びつくと同じやうな具合に自我と超越的世界とを結びつけやうとするのであります。  問 しからばその結合はどういふ風にして行はれるのでありますか。  答 第一には空間的の結合であります。人間が超越的世界へと寄り近づくのであります。第二には身体の結合であります。他の身体の成分の一部をば自己の身体の内に入れるのであります。別に又、性欲的の行動に倣《なら》ふて性欲的結合をなす場合もあります。  問 例を挙げて空間的の結合を示して頂きたいものであります。  答 超越的世界と空間的に結合するのは神聖の地を巡禮することであります。神仏はこの現在の世界にありて一定の場所に住むものとせられ、或は少なくともそこで人間が容易に神仏と接することが出来るとせられて居るのでありますから、その処に巡禮することによりて人間が空間的に神仏と接触することが出来ると考へられるのであります。  問 参拝がすなはちそれでありますか。  答 聖蹟参拝も、その根本の考は空間的結合であります。ヘブリュウ人がチオンへ巡禮し、「クリスト」教徒がジェルサレムの聖墓へ参拝し、「モハメット」教徒がメッカへ参拝し、印度仏教徒がベナーレスへ巡禮するなどは皆、空間的の結合を企てるのであります。  問 身体的の結合はどうでありますか。  答 人間とは違つて神仏の身体を人間の身体の内に取り入れることは出来ぬことでありますから、この類の結合は象徴的に行はれるのであります。  問 象徴的に行はるといふのはどういふことでありますか。  答 それは「クリスト」教にて行はるる聖饗を見て知られるやうに、「パン」をばクリストの体となし、葡萄酒をばクリストの血となし、それを飲食することによりて神と身体的に結合すると考へるのであります。又他の衣服を著け或は徽章《きしよう》を纏《まと》ふことによりて神仏と結合することを象徴する場合もあります。  問 しかし、さういふ身体的の結合は神仏の客観的存在を信じてすることでありませう。仏教のやうに、さういふ神仏が客観的に人間の外にありと考へぬ宗教にありては、此の如き身体的結合はせぬ筈でありませう。  答 さうです。是の心が是れ仏であると考へ、さうでなくても、我我の心が仏になると考へもしくは我我の心が仏の国に往きて生まれると考へる場合に、仏と身体的に結合することをつとめることはない筈であります。  問 しかし、我我の心の上に仏の心があらはれたと信ずるときに、そこに仏と考へられるものが存在するとせねばならぬのでありませうから、その仏と人間とが身体的に結合するのであるといふことは言はれることではありませぬか。  答 主観の状態を外の方に投影して仏が客観的に存するとすることは不合理ではありませぬから、さういふ意味に於て、その仏と人間とが結合すると言つても差支はありませぬ。しかしそれはどこまでも我我の宗教的感情の上にてさういふやうに感知せられるのであります。  問 性欲的に結合するといふことも亦身体的結合に属するものではありませぬか。  答 無論、それも身体的結合に属するものであります。  問 性欲的結合と名づくべき宗教的行動はどういふものでありますか。  答 性欲的結合の中にて最も広く行はれたものは古バビロン及び前亞細亞地方にて古く行はれた寺院賣笑であります。それは僧侶が神の代表者として処女の童貞を奪ふことが儀式とせられて居たのでありました。  厭離穢土  問 宗教的行動の最後に厭離穢土といふことが挙げてありましたが、それはどういふことでありますか。  答 それは自我と現実の世界との関係をゆるくすることであります。苦しきは現実の世界と自我との関係をば全く断絶することをつとむるのであります。さうして、これは超越的世界に近づくことを目的として、間接的に行ふ方法と見るべきものであります。  問 それは恵心僧都などが申された厭離穢土と同じ意味のものでありますか。  答 穢土を厭ひ離れるといふことは大体同じことであります。しかし、穢土を厭ふといふことが、文字通ほりに単にこの穢れたる土地から逃れたいといふことであれば、それは逃避の行動でありまして、超越的世界と自我との関係を絶つといふこととは少し意味が相違するのであります。  問 しからばどういふ風にその意味が違ふのでありますか。  答 その相違の点を説明するには先づ厭離穢土の行動として、実際に行はれる禁欲のことを挙げませう。禁欲とは飲食とか、性欲とか、言語とかいふやうな種種の衝動ならびに覚官の機能を抑止することでありまして、それによりて我我人間の罪悪のあらはれを尠なくしやうとするのであります。かやうな覚官の機能によりて我我人間の罪悪のあらはれを尠なくしやうとするのであります。かやうな覚官の機能によりて我我は現実の世界と親密な関係をたもつものでありますから、その機能を抑止することによりて現実の世界から自由になることが出来ると考へられるのであります。  問 なるほど、仏教にても、樹下石上、或は妻子を捨て、或は絶食し、或は無言の行をするといふやうなことが、行はれて居つたやうでありますが、それは何れの宗教にも必ず常に行はるべきものでありますか。  答 学者によりては禁欲は宗教的超越世界に入るべき門戸であるといふ人もありますが、私は必ずしもさうではないと思ひます。ただ禁欲によりて自我意識が動揺して、それがために、その心が宗教的になるやうさ場合がありますから、この点から見れば禁欲が宗教的超越世界に入る門戸だとも言はれます。しかし、それはむしろ異常の現象でありまして、正常の精神作用の上に起るものではありませぬ。  問 しかし、仏教にてはむかしから禁欲の生活は仏道修行の方法として重く見られて居つたやうに思はれますが、それは如何のものでありませう。  答 所謂聖道自力の教と言はれるものにては、捨家棄欲が仏道修行の入門であるとせられて居たのであります。しかしながら、それは勞作的宗教として、さう考へられたのであります。高揚的宗教として見るときには拾家棄欲は宗教のはたらきをあらはすために必要の條件でないことは明かであります。  宗教の進歩  問 これまで段段とお話を承はりましたところで、宗教の本質はわかつたやうに思ひますが最後に今少しく承はりたいことがあります。どうか御説明をお願致します。  答 私がこれまでお話したことは最初によくお断はり致して置いた通りに、宗教とは何ぞやといふ問題につきて説明したのではありませぬ。我我が今宗教と名づけて居るところの精神の現象は果して如何なものであるかといふことを説明したのでありました。  問 そのことはよく合点致して居ります。宗教といはるるものは我我の現実の世界を超越したるあるものに対する我我の人格の態度であるといふことを承はりまして、まことに宗教といふものはさうであるべきものと理解致しました。御説明を承はりまして考へますと、宗教は決して啓示によりて授けられるものでもなく、又我我の世界を離れたる彼の土の神や仏を崇拝するものでもなく、全く我我の精神の内の現象であると考ふべきものでありませう。  答 いかにもさうであります。それ故に、段段とその事につきて、これまでくわしくお話致した点を総合して言ひますれば、宗教といふものは我我の心からして産れたものであると申して差支がありませぬ。  問 宗教が我我の精神から産れたものであるといふことは、それが我我の精神の産物であるといふ意味でありますか。  答 さうであります。我我の精神から産れ出たものでありますから、宗教といふものはその人の精神作用の進歩と共に発展するものであります。  問 そう言はれると、これまで普通に説かれたやうに、宗教といふものは人間の力には及ばぬ神の啓示として一寸も動かすことの出来ぬものであるといふ所説とは相異するものでありませう。  答 勿論、さういふ所説とは相異して居るのであります。それ故に、さういふ伝統的の教義を頑固に信じて居る人から見れば異端邪説とせられるでありませう。しかしながら、宗教がどこまでも心理学的の事実である以上は、それは我我の精神の現象としての進歩と共に漸次に発展することは明なことであります。  問 さうすれば我我の精神の進歩と共に神や仏がかはるものでありませうか。  答 神や仏がかはるのではありませぬ。神や仏を意識することがかはるのであります。宗教そのものがかるのではなくして、その宗教を意識することがかはるのであります。  問 仏教で申せば仏は真如でありませうから、真如が我我の精神の進歩と共に発展するのではないでせう。  答 固よりさうであります。仏が真如である以上その真如は我我のの精神のはたらきによりては如何ともすることの出来ぬものであります。しかし、その真如につきて考へることは我我の精神のはたらきとして如何やうにも出来ることであります。さうして、我我が我我の精神のはたらきに相応して考へるところに神仏がいよいよ精練せられるものであります。  問 神仏が精錬せられるといふのは神仏が立派のものとなるといふ意味でありますか。  答 神仏に関する意識が確実明瞭となるといふ意味であります。神仏そのものは何等変異するところはないのでありますが、それを感知する我我の精神の上に相応の変異をあらはすのであります。精神の作用がまだ幼稚であるときには、自分の智慧が足らぬために不思議とするところのものを神や仏に歴するやうなことがありますが、精神の作用が進歩するに從ひて自然の法則を知ることが段段と深くなりて、神や仏の力を感知することもそれに相応して確実明瞭になるものであります。  智慧と宗教  問 さう致しますと、それは神や仏が、変異するのではなくして、我我の精神のはたらきが変異するのでありますか。  答 いかにもさうであります。我我の精神が段段と進歩するに従ふて神仏につきての思考が発展し、それがますます精練せられるのであります。  問 さうすれば、宗教といふものも智慧のはたらきに関係するとせねばなりますまい。  答 宗教のはたらきそのものは既に前にもくわしく申したやうに我我の知慧のはたらきを離れたところにあらはるる精神の現象でありますから、宗教そのものは智慧の関係するものではありませぬ。しかしながら、早く申せば、その宗教の心があらはれることを望むにはその心の起ることに妨げとなるものを除き去らねばならぬのでありますから、この意味に於て、智慧のはたらきは真実の宗教の意識をあらはすための助けとなるものであります。「歎異鈔」に学問せばますます如来の慈悲を知ることが出来るといふやうに説いてあるのは全くこの意味に外ならぬものであります。  問 仏の本願は賢愚を選ばずとありますから、精神のはたらきが進歩して居らぬものでも、すべて同じやうに宗教の心のはたらきが起るのではありませぬか。  答 宗教の心があらはれるのは固より賢愚を問はぬのであります。如何なる人にしても、その人が自分の精神のはたらきとしていろいろに思考することを止めることが出来るときには、そこに必然、宗教の心のはたらきがあらはれるのであります。  問 さうすると、精神のはたらきが進歩して居ても居なくても、宗教は同じことではありませぬか。  答 まだ私の申す意味を十分に御瞭解なさらぬやうでありますが、智慧の有ると無いとで神仏を感知することに相違があるといふのは、真如を自分の精神の上に受け取ることの相違をいふのであります。智慧のないものが有りたけの智慧を尽して受け取りたる真如は小さいものであります。時としてはそれが間違つたものであります。智慧のあるものが受け取りたる真如はそれに比して大なるものであります。しかし、それは仏としては報身仏でありまして、その人の精神作用に相応してあらはれるものであります。真正の仏は更に進みて法性を受け取りたるものでなくてはならぬのであります。それは到底我我の精神のはたらきにては出来ることでありませぬから、我我はただそれを不可思議と仰ぐのであります。これはすなはち我我の思考によるものであります。  問 お話を承はりまして、すこしわかつたやうでありますが、元来、宗教といふものは感情のはたらきに属するものであると言はれるのに、智慧のはたらきがそれに関係するといふことはどうしたことでありませうか。  答 御尤の質問であります。宗教は固より感情の範囲に属するものでありますが、しかし我我の精神の中には感情と智慧とが別別に離れて存在して居るのではありませぬから感情のはたらきとして起りたる宗教の心のはたらきも、智慧と関渉して、それによりて宗教自身がその現象を固むるものであります。そこにあらはれるものが宗教に関する観念であります。さうしてこの観念によりて甲の人の宗教の心のはたらきが乙の人に伝へられるのであります。それ故に宗教が個人の心の中から出でて他の人の心の中にあらはれて、社会性を帯ぶるに至るにはどうしても観念のはたらきによらねばならぬのであります。  道徳と宗教  問 道徳と宗教とは全く別のものであると承はりましたが、しかし、世の中には道徳と宗教と区別のないやうなことをいふ人がありますが、いかがでせう。  答 宗教と道徳と全く別のものであることは言ふまでもないことであります。前にくわしく申したやうに宗教は不意識の感情に本づくものでありますが、道徳はどこまでも意識の上に考へられ又行はるべきものであります。  問 しかしカントなどは宗教は道徳に本づくと説いたといふことではありませぬか。  答 カントの説では、我我が認識することの出来るのは、この現象の世界のみのことで、この世界を離れた物の如きは直接にこれを認識することは出来ぬ。それ故に神につきても我我は道徳意識に於て、間接に神を認識することが出来るのみであるといふのであります。  問 さうすればカントの説では、道徳意識があらはれて、それによりて神が認識せられるといふのでありますか。  答 さうです。我我の認識の極限に於て道徳意識が神を認識する唯一の道であるとせらるるのであります。  問 さう致せばカントの宗教といふものは、つまるところ道徳行為に外ならぬものではありませぬか。  答 さう言へばさうであります。宗教は最高の本質の実在の印象の下に実行するところの倫理的行為であるとも説明してあります。しかし、それによりて宗教が道徳に本づくといふのはいかがかと思ひます。  問 それにしても宗教が道徳の上に起るといふことはたしかでせう。  答 無論、宗教が道徳の意識の上に起ることは確であります。若し道徳の意識があらはれなかつたならば真実の宗教はあらはれないでありませう。  問 しからば、宗教が道徳に本づくと言つても差支はないではありませぬか。  答 しかし、宗教は倫理的行為ではありませぬ。宗教は道徳を離れたものであります。  問 宗教が道を離れたことは固より然りと致しても、それが道徳に本づくものとして差支ないではありませぬか。  答 さう考へることは穏当ありませぬ。実際に於て、宗教のはたらきがあらはれるのは、道徳の意識が明かになりて自身の相の愚悪なることが知られたときに、道徳の世界から離れるときであります。さうして、それは道徳の心が一転して宗教があらはれるものであると信ぜらるるのであります。宗教の心が道徳に本づきて起るものとは考へられませぬ。  問 道徳の心が一転するとはどういふ意味でありますか。  答 道徳の心はすべてに善悪の価値をつけて行くのでありますが、その善悪の価値をつけて行くことをやめるやうに、心機が一転するのであります。  問 仏教に大悟すれば善悪不二であると申される意味でありますか。  答 さうであります。親鸞聖人が善悪の二たつ総じてもて存知せざるなりと申された意味であります。宗教の心は本と感情によるものでありますが、それが智慧の方にあらはれて来たときにかういふ心になるのであります。善悪の二たつをよく承知してその罪を廃して善を修することをつとめるのが道徳であります。宗教は全くこの道徳の心を離れたものであります。  問 さうすると、カントの説のやうに宗教が倫理的行為であるとすることは出来ぬことでありませう。  答 宗教は固より道徳を離れたものであります。しかし、善悪の価値をつけるやうな我我人間のはからひの心を離れたるときの行為は自からにして道徳の規範にかなふものであります。道徳の方では意識して廃悪修善をしようとするのでありますが、宗教の方では、意識することなくしてすることが、廃悪修善になるのであります。  問 我我が悪善をつとめようと意識しないでも宗教の心はあらはれませうか。  答 それはさうではありませぬ。我我にして若し廢悪修善をつとめようとするまでに自分の愚悪をかへりみることがなければ宗教の心のあらはれることはありませぬ。我我にして自からの心を内省してその愚悪に目がさめて、さてそれを直さうとする心、すなはち道徳の意識が起きて、しかも我我自身の力にてはそれを如何ともすることの出来ぬことが知られるときに、その道徳の心は一転して宗教の心とあらはれるのであります。  問 よくわかりました。道徳の心があらはれて自分の愚悪を責むることが、宗教の心のあらはれる本であるとせられるのでありませう。  答 さうです。宗教は道徳の心の上にあらはれるのであります。若し道徳の心のあらはれて居らぬ場合であれば、ただ自分の欲望を達せむがために神や仏に祈願するやうな心が起るであります。これは真実の宗教とすべきものではありませぬ。  問 仏教は廃悪修善の教であると言はれて居りますか、さうすれば仏教は道徳の教ではありませぬか。  答 廃悪修善の教を聞いて、その通ほりに廃悪修善をつとめやうと努力するときは宗教の心は起りませぬ。廃悪修善は道徳の教でありますから、その教を聞いて、到底それを実行することの出来ぬものであるといふ自身を知りて痛歎するところに自身のはからひが無くなりて、そこに自からあらはれるところのものが廃悪修善を離れたる宗教であります。  問 いかにもさうでありませう。今このことを承りまして以前にお話のあつた、宗教が超越的世界の或物に対しての自我の態度であるといふ意味がよくわかりました。  答 宗教の本質がよくわかつたやうでまことに結構であります。廢悪修善の教は、教として全く貴といものでありますが、その教が貴といといふだけで自分のものとはならぬのであります。その廃悪修善の教を聞いて、それが自分のものとなつたのは廃悪修善が出来ぬといふことであります。さうすると、そこに愚悪なる自分の相が明かに見られるのであります。愚悪なる自分の相が明かに見られると、それを如何ともすることの出来ぬことがよくわかるのであります。かやうな場合をば自力のはからひから離れたといふと考へられるのであります。かやうに、自力のはからひを離れたときに、我我はただ仏の力に憑るより外はないのであります。  問 道徳と宗教との関係もよくわかりました。宗教の心は道徳の意識があらはれることによりて起り、既に宗教の心が起れば道徳を離れ、しかしそれからの行為は道徳の規範を離れぬものであると考ふべきでありますか。  答 全くさうであります。自分は煩悩具足の身であるから、生活の苦界を出ることは出来ないものと知ることは、機の信心として重要のこととしてありますが、これはすなはち道徳の意識のあらはれであります。この道徳の意識があらはれて、始めて我我は仏の慈悲の力に触れることが出来るのであります。若しこの道徳意識があらはれることが無いならば、仏の慈悲の力に接することは出来ないことでありませう。  問 しからばこの道徳意識が段段と発達して遂に宗教となるのでありませうか。  答 道徳意識が進歩して宗教となるのではありませぬ。前に申したやうに道徳意識が一転して宗教となるのであります。道徳意識があらはれて自分の愚悪を自から責むるやうになりてもしかし、自分でそれを始末することが出来ぬことを知りて、何のはからひもせぬやうになるときに、そこに宗教の心があらはれるのであります。何のはからひもせずして自分の心が不安の状態になるのであります。それ故に、宗教は道徳のつづきではありませぬ。道徳の力がなくなつて、それに代りてあらはれるものであります。  問 大体わかりました。さうすれば宗教と道徳とは互に別のものでありましても、しかし、お互に相関係するものであると考へて差支ないでありませう。  答 道道と宗教とが互に相関係することは勿論であります。宗教は道徳を離れるといひましでも宗教の世界ではどんな悪いことをしても差支がないといふことではありませぬ。その反対に、廃悪修善を出発点として宗教は起るのでありまして、宗教が起れば自から廢悪修善が実現せられるのであります。  問 おかげでよくわかりましたが、今一とつ伺ひたいことがあります。煩惱具足と信知することは道徳の心でありませうか。  答 自己の煩悩具足を知るといふことは道徳の心であります。深く自己の煩惱を見るとき、それが罪悪とせられるのであります。これは固より道徳の心に外ならぬものであります。  問 さうすると機を信ずるといふことは道徳の心で、すなはち自力でありますか。  答 道徳の心は勿論自力であります。自身が罪悪の凡夫であるといふことを知るのは自分の心のはたらきによるもので、その心のはたらきは道徳の心と言はれるものであります。  問 しかし機を信ずることはすなはち法を信ずることであると言はれるではありませぬか。  答 機を信ずることも、法を信ずることもすべて他力であるといふことは浄土真宗などで言はれることでありますが、勿論、それは他力によりてさう信ぜしめられると考へねばならぬのであります。しかし、それは法を信ずるといふことも機を信ずるといふことも皆、宗教の心のはたらきであると考へてのことであります。細かに分析して申すと、機を信ずるといふことは道徳の心であります。自身が煩惱具足であると自分の心を道徳的に責て居るのであります。さういふ道徳の心が先づ起きてさうして、その罪悪は如何ともすることが出来ぬと知られたときに始めて宗教の心があらはれるのであります。  問 機と法とが別別にあるものではありますまいから、機の深信といふことも法の深信といふことも共に道徳の心でありませうか。  答 先づ道徳的に起るのであります。さういふ道徳の心が先つ起きて、それから宗教の心のはたらきがあらはれるのであります。機と法とを信ずることが宗教の心ではありませぬ。  組織的宗教  問 これまで承りましたところで、個人の宗教性のことは大体瞭解することが出来たのでありますが、しかし、宗教といふものは個人的のものばかりではないやうに考へられますが、それはいかがでありませうか。  答 いかにも御尤の質問であります。宗教といふものは固より個人的にのみ限つたものではありませぬ。個人的の宗教性が広く多くの人人の間に行はれて、所謂組織的宗教といふものが成立するのであります。  問 その組織的宗教といふものはどうして起るのでありませうか。  答 それは宗教が個人の領域を超越して一般的のものとなるのであります。早く申せば宗教が世界の歴史の上にその作用をあらはすやうな形式をなすに至るのであります。すなはち個人の宗教的の体験が孤立して存在することなく、他の多くの人人と関係し、さうして又、その他の文化とも関係することによつて客観的の宗教が成立するものであります。  問 そのことにつきて、今少しくわしく御説明を願ひたいものであります。  答 先づ世の中に宗教的天才の個人的宗教性があらはれますと、次にそれが二様の変形をなすものであります。その一とつはその宗教を信ずる人人によつて純粋の宗教性が伝へられるのであります。今一とつは倫理とか、審美とか、論理とか、経濟とかと申すやうな文化の種種の事項相に応して、その宗教が個人を離れて一般的のものとなるのであります。  問 宗教が一般的のものとなると申すと、たとへば教義とか禮拝とかといふやうなことが、広く人人の間に行はるるを指すのでありますか。  答 さうであります。個個の人人の宗教性が、文化の種種の事項と一処になりまして、個人を超越した教義とか禮拝とかいふやうな宗教の形式があらはれるのであります。さうして、その要素が組織的宗教といはれるのであります。  問さうすと、全く、主観的のものであるべき宗教性が、一変して客観的のものとなるのでありますか。  答 実際さうであります。しかし、客観的に示されたる宗教も、それが実際に体験せらるる場合には、無論また個人的の性質をあらはすものであります。どう致しても、これまでくわしくお話致した宗教性と申すものが、その根本をなすものであります。  教義と宗派  問 仏教につきて考へて見ましても、現にいろいろの宗派がありまして、それぞれその教義が説かれて居ります。又その礼拝の式などもそれぞれ一定して居るやうでありますが、それはどうしたものでありませう。  答 それは個人の宗教性が、他の文化の要素、すなはち芸術と科学とに関連して、個人の宗教性が一般化せられたのであります。元来、芸術といふものは個人の審美的生活が組織化したものであります。又科学といふものは個人の理性的体験が組織化したものであります。本来主観的であるところの美と真とが、客観的にあらはれて芸術となり、科学となるのであります。それ故に、それをして我我の生活の上に活きたる作用をあらはさしめるためには、これを個人的の性質のものとせねばならぬのであります。宗教に於ても全くこれと同様であります。  問 いかにもさうであらうと考へます。各個の宗派に於て、種種の教義や礼拝の儀式などが定められて居りましても、それが宗教上の価値をあらはすには、その客観的の性質が無くならなければならぬことであらうと思ひます。  答 さうであります。今、世間の人人が宗教と言つて居るところのものは、前にもしばしば申したやうに、客観的の宗教でありますから、その宗教の価値を十分にするには、それをば再び個人的の宗教性に変転せしめねばならぬのであります。  問 各個の宗派によつて説かれたる種種の教義が、客観的宗教をあらはすものであるとすれば、直ちにその教義を信ずるといふことは、宗教上の価値がないやうに考へられますが、それはいかがでありませう。  答 前から申したやうに、宗教の本質は全く主観的のものでありますから、どうしても個人の宗教性を動かすのでなければ宗教上の価値は無いのであります。個人的の宗教性をば一般化することによりて、それを人から人に伝へるのでありますが、この場合に伝へられるものは抽象的概念でありますから、それを宗教として体験するにはどうしても個人の宗教性といふものがこの根本をなさねばならぬのであります。  問 さう致すと、客観的宗教としてあらはれるところの宗教の教義などには宗教ならざるものが多く含まれて居ると申してよろしいことでありませう。  答 勿論のことであります。殊にそれが言葉によつて伝へられる場合には、宗教でないものが澤山にあらはれるのでありますから、その客観的宗教はどうしてもこれを個人の宗教性に変転せねば宗教上の価値をあらはすことは出来ぬのであります。  問 しかし、むかしから釈尊の金言を本として、如実に其法を伝へねばならぬと説かれて居るやうでありますが、それは如何のものでありませう。  答 釈尊の金言を貴ぶべきことは言ふまでもないことであります。しかし、単に金言を貴ぶといふことが直ちに我我自身の宗教の体験となるものでないといふことを我我はよく自覚せねばなりませぬ。釈尊の金言は固より尊ぶべきものでありますが、しかし、それは釈尊の金言が尊といのでありまして、我我はただそれを聴き知るのみであります。たとへば釈尊は中道を修めて涅槃の証を開かねばならぬと説かれたのであります。いかにも貴とき教でありますが、その教を聴いただけで、それが我我自身のものとはならぬものであります。少しく内省して考へれば、その中道を修むることは、我我には不可能であるといふことが知られることでありませう。さうすれば釈尊のこの金言が、我我のものとなるのは中道を修むることは出来ぬといふことであります。これは正しく釈尊の金言とは反対でありますが、しかし、それが我我の体験するところであります。 昭和拾年六月六日印刷 昭和拾年六月拾五日発行 「宗教の心理」 【定価壹円五拾錢】 著者 富士川游 発行者 石塚綱茂 東京市澁谷区千駄ヶ谷五九〇二印刷人 谷口熊之助 東京市麹町土手三番町二九 印刷所 谷口印刷所 東京市?町区土手三番町二九番地 発行所 東京市澁谷区千駄谷五九〇二 天来書房 振替口座東京七二一二九番