弥陀教  医学博士 文学博士  富士川游講話  東京 中山文化研究所  はしがき  一。この小冊子「弥陀教」と題するは、余が東京中山文化研究所に於ける婦人精神文化研究會の席上にて、数回に渉りて、連続的に講演したるものを筆録したるものに係る。その要旨とするところは、釈尊が説かれたる教も、その帰するところは、この弥陀教に存することを明にせむがためである。  二。ときに刊行したる「釈尊の教」はこの講演の前提である。それ故に、この小冊子に記録したる事項につきては、これを「釈尊の教」に於て、講述したるところと參照せられねばならぬ点があるかも知れぬ。しかしそれは必ずしも彼此参照することを必要とするものでなく単にこの小冊子のみを読まれても差支ないと思ふ。  三。講演は初より所見を筆録するものとは異なりて、不意に考へ附いたことも漏すことなく筆録してあるから、この点に於て、筆録とは別の興味があることと信ずる。それ故に講演のまま、それに修正を加ふることなく印刷に附したのである。読者諸子の諒解を乞ふ。  昭和七年一月末日  富士川游  弥陀教目次  序論  釈迦教  漸教  頓教  釈迦の精神  釈尊の教  廢悪修善  諸行不及  法の信仰  真実の法  法を見る  小乗  阿弥陀仏  聖道の実際  観仏と念仏  観念の念仏  称名の念仏  浄土教の実際  空也上人(一)  空也上人(二)  恵心僧都(一)  恵心僧都(二)  恵心僧都(三)  勸進の褐  厭離穢土  観無量壽経  三の罪  弥陀の本願(一)  弥陀の本願(二)  唯信  寶物集  寶の数々  宗教の価値  智能と感情  仏道修行  往生の十二門  天台宗の実際  道徳の心  智光と頼光  教信沙弥  源氏物語  和泉式部  枕草紙  今様  想仏恋  謡曲  念仏往生  如法修行  易行道  往生要集  地獄極楽  横川法語(上)  横川法語(中)  横川法語(下)  口称の念仏  真実の態度  念仏の拡布  專修念仏  法然上人  戒定慧  如法と応機  專念仏名  念仏為本  善導と恵心  称名念仏  淨土宗  ただの念仏  明遍僧都  重病者  弥陀の他力  生れつきの儘  教阿弥陀仏  かざる心  仏のみ知る  念仏者の用心  対機説法  親の名を呼ぶ  専修念仏の辨明  三途の業  如来の金言  如説修行  応機  凡夫往生  報土往生  余行を捨つ  本願乗托  口称三昧  常持の言  本願を信ず  他力の譬  法爾の道理  自然に帰る  自是他非  煩惱具足  極樂  読誦と念仏  念仏宗  その余弊  住蓮安樂  三心  至誠心  虚仮の人  深心  迴向発願心  起行  三縁  正定業  三心の沙汰  法蓮房  西阿弥陀仏  念仏往生の現証  対機説法  十人十色  隨類得解  信と行  観信誠疑  定善と散善  下品下生  白木の念仏  世間超越  教團の成立  大乗仏教  親驚聖人  貴重の教  自分の相  内省と努力  浄土の法門  実行方面  信心為本  弥陀教  弥陀教  富士川游 講話  序論  これから始めて、数十回に?りて、連続して、弥陀教と申す題目にて、お話を致さうと思ひます。 @ このお話の趣旨は、宗教としての仏教の意味が十分におわかりになるやうに、順序を追て説明するのでありまして、決して学問としての仏教につきてお話致すのではありませぬから、このことは予めよくお断りを致して置きます。単に仏教と申しますと、学問のことがさきになりまして、これまで仏教の話と申せば、大抵、その哲学方面のことであつたり、道徳上の方面であつたり、甚しきは専門の宗教学上のことであつたりして、安心立命の上から仏教を見ることは案外、等閑《なほざり》に附して居られたやうでありました。たとひ、安心立命のことが説かれるやうな場合でも矢張、その知識の方面が主に説明せられるやうであります。私はそれ故に、さういふ学問の方面を離れて、真に宗教としての仏教につきて、これからお話をつづけやうと思ふのであります。  仏教の専門の方では、釈尊一代の説法を大別して聖道門と浄土門とにせられて居るのでありますが、その聖道門と申すのは、この娑婆世界にありながら迷を転じて悟を開くところの教であります。これは法華経や涅槃経を始として大乗・小乗一切の諸経に説かれてあるところの教であります。  細かに分けて申すと、聖道にも又、大乗の聖道と、小乗の聖道とがありまして、その大乗に仏乗と菩薩乗との二つがあり、小乗に声聞乗と視覚乗との二つがあります。  これは、これまで仏教の学問にて普通に説かれたところでありますから、その説をそのまま、ここにお話いたすのであります。仏乗といふのは即身成仏の教でありまして、華厳宗・天台宗・真言宗・禅宗などに説かれるところの教がすなはち、大乗の中の仏乗であります。全体大乗といふのは大きなる乗物といふほどの意味で、多数の人が乗られるといふことを示すもので、その仏乗といふのは、直ぐに仏になることが出来るものの乗物といふほどの意味であります。菩薩乗といふのは劫を?て修行し、その功を積みて始めて仏となるの教でありまして、三論宗・法相宗などがこれに属するものであります。  小乗といふのは大乗に反して小さき乗物の意味でありまして、その内の縁覚乗といふのは飛花落葉を見てひとり諸法の無常をさとり、又は因縁の法則を観じて悟を開くものであります。声聞乗とは真理を聞き、道理を観じて修行の功を積み、速きは三生を経、遅きは六十劫を経て、仏になることが出来るのであります。成実宗・倶舎宗の如きがこれに属するものであります。又声聞乗にして戒行を貴ぶのが律宗の教であります。  かやうに聖道門の教は、これを要するに自力にて仏になるとせられるのでありますから、それに自力の教といふ名目がつけられて居ります。又自力にて修行の功を積み仏に成るといふことは至て六ヶ敷いことでありますからそれに難行道といふ名称もつけられて居るのであります。  浄土門といふのは釈迦教よりも遙かに後になりて始めて行はれたものでありますが、これは先づこの娑婆世界を厭ひ捨てて急ぎて浄土に生れて彼国にて仏道を行ずるといふ教であります。さうして、この場合、浄土に生れるといふことは仏の力によるもので、自分の力によるものではないからとして、この教を他力の教といひ、又浄土に生れることは自力の修行でないから容易であるといふところからこれを易行道とも名づけるのであります。  しかしながら、釈尊一代の教を別ちて、かやうに聖道・自力・難行の教と、浄土・他力・易行の教とにすることは動もすれば人々の誤解を致すの恐がありますから、私はこの区別を止めて釈迦教と弥陀教とに別けてお話致さうと思います。勿論、この名称はむかしから仏教の学者が用ひたものでありまして、私が勝手につけた名称ではありませぬ。  さうして、私の考では、仏教を宗教として見るときには、それは必ず弥陀教の心であるべきものと信ずるのであります。さういふ訳で今、弥陀教につきてお話致さうとするのであります。  釈迦教  釈迦教と申すのは、前にも一寸お話致した通ほりに、この娑婆世界にありながら迷を転じて悟を開くの道でありまして、これは釈尊が華巖経や涅槃経の中に説かれたものでありますから、これをそのままに受取りて、釈尊の教としてこれを信奉するが故に、これを釈迦教と名づけるのであります。しかしながら、如何にして迷を転じて悟を開くべきかといふ問題につきては、いろいろ人々の所見が相違する筈でありますから、同じく釈迦教の中でも、そこに種々の説明が行はれて居るのであります。その大略は次の通ほりであります。  真言宗では父母が生める身にて速かに仏のさとりを開くのであるとして、この身ながら大日如来の位に上るといふので、すなはち即身成仏の教であります。禅宗では前仏と後仏とが心を以て心に伝ふるといひて、人の心を指して直ちに仏といふのであります。それ故に成仏ではなく即心是仏の法と名づけるのであります。天台宗では煩悩即菩提、生死即涅槃と観じて観心によりて仏になると説くのであります。華厳宗にては法界唯心の理をさとり、初めて発心するときに便ち正覚を成ずるといふのでありますからこれも即身成仏の義であります。それ故に華厳宗・天台宗・真言宗・禅宗などの大乗の教に説くところのものはこの身そのままに、頓に悟りを開くのであります。これに対して同じく大乗の中でも三論宗や法相宗などでは多くの年月を経て修行の功によりて仏になると説くのでありまして、三論宗では八不中道、無相の観に住すると申して一切の考を否定し、それに心に仏にならうとする願を起し、身には六度(布施、忍辱、禅定、智慧、持戒、精進)を行じ、長い間菩薩の道を修めて后に仏に成るといふのであります。法相宗にありては唯識の観に住して、しかも願を起し、六度を行じて長い後に至りて仏になるといふのであります。成実宗や倶舎宗に至りては智慧を研き戒律を持し、これによりて遂に仏になると説くのであります。  漸教  此の如く、釈迦教にありて釈尊の教をそのままに奉ずるといふにしても、それを奉ずるものの心がいろいろに相違して居るから、大乗と小乗との差異があらはれ、又それに四種の乗が区別せられるのであります。しかしながら、その終局の目的であるところの仏となるといふことにつきては、それが速かに出来るのと、遅く出来るとの差異によつて、これを頓教と漸教とに区別するのであります。  漸教と申すのは段々と修行してその修行の功を積みて仏になるのでありますから、漸次に進む道であるといふ意味で、これを漸教といふのであります。漸次といひましても三祇劫とか、六十劫とかと申して、何百萬年かわからないやうな永い年代であります。これは我邦に古く伝はつたところの仏教で、法相宗・?舎宗、さうして律宗、この三つの教であります。今日ではかやうな漸教は殆ど行はれて居ないと申して差支ありませぬ。  頓教  これに反して、釈迦教の中で、華厳宗や天台宗や真言宗や禅宗や、日蓮宗のやうに、此身のままに真理を悟つて仏になるの教を頓教と申すのであります。  釈尊は因縁が和合して、一切のものが生ずるといふことを第一に説かれました。それ故に「我」といふものがあらはれたのも全くそれがあらはれるだけの因縁がなくてはなりませぬ。それ故に今の「我」は全て前の「我」の結果としてあらはれたのであると考へねばなりませぬ。我々にして若し現在の「我」の愚悪なるに気がつきてそれから離れやうとするならば、将来の「我」を善くするために現在の「我」を善くすることをつとめねばなりませぬ。ここに於て、釈尊は廃悪修善の法を説かれたのであります。「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其心、是諸仏之教」とは釈尊が常に説かれたる教として「法句経」に載せられて居るのであります。釈尊は又、諸行は無常であると説かれました。世の中の一切のことが無常でありますから我々人間が生れることも無常でありまして、生れてから后、寸刻も常として止まることはなく始終変化して居るのであります。ところが我々はこの無常の中に於て常の想をなし、堅く執りて動くことのないやうにと望むのであります、これを執常の倒見と申すのでありますが、この倒見があるために我々にはいろいろの苦悩が起つて来るのであります。巳に一切が無常であれば諸法は無我であらねばなりませね。世の中の一切のものが無常である以上は、一切のものに常一主宰の我があるべき筈はないのであります。一切のものが始終変化するのにその内に常住不変の我があるといふ訳はありませぬ。それ故に釈尊は無我のことを説いて、世の中の人々をして早くこれを悟らしめやうとせられたのであります。  釈尊は又四諦の真理を説かれました。それは第一に苦諦でありまして、人生に目がさめて、自己の精神生活を見つめたるときには一切が苦悩であると知るべきであります。まことに苦悩は人生の真実の相でありますが、それは過愛と執著の心とによるものであると釈尊は説かれました。これを第二の集諦といふのであります。渇愛とは願ひ求むる欲望で、執著とは巳に得たるものを失ふことのないやうにとの心であります、それが我々に苦悩を与ふるものでありますから、それが集めて苦悩を作るといふ意味で集諦を名づけられたのであります。巳に人生の相が苦悩であるといふことを知り、又その原因が渇愛と執著とにあることがわかれば、その渇愛と執著とを滅することが必要であります。通俗の言葉にて言へば渇愛・執著等の欲望を滅ぼすことを肝要とするものでこれを第三の滅諦といふのであります。さうして、さういふ境地は涅槃でありますから、滅諦といふのは涅槃の境地に至りて心の平和なる世界に住むといふ意味であります。しからば、如何にして、苦情の原因たる渇愛と執著とを滅するかといふに、釈尊は八正道を修むることによりてその目的が達せられると説かれました。  八正道といふのは正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定(約めて言へば六度)であります。これを道諦といふのであります。釈尊はこの四つの聖諦を説きてこれを人々に示されたのであります。  頓教と申すのはこの釈尊の教をよく理解して、それを体驗することによりて、この身のままに迷を転じ、悟を開くべき教であります。  釈尊の精神  釈尊の教が、その言葉にあらはれたるものはまことに此の如くでありますが、しかしながら、その教を奉じてそれを自分のものとしやうとするならば、その言葉の中に含まれて居るところの釈尊の精神を十分に明かにせねばなりませぬ。むかしの書物の中に、ある愚なる女中が、その主人から、「この魚をよく見て居つて呉れ」といひつけられて、一生懸命にそれを見て居つて、猫が来てそれを取つたのまでこれを見て居つたといふ話がありましたが、いかにもその言葉は「善くそれを見て居れ」といふのでありますが、その言葉の中に含まれて居る意味は「猫の取るのを番をして呉れ」といふことでありますから、見て居つただけではその言葉の意味を体得したとは言はれませぬ。  これと同じやうに、釈尊の言葉にしても、その中に含まれたる意味を十分に理解して、それを味得するのでなければ、釈尊の教を奉じたものとは言はれないでありませう。  そこで、釈尊がその教を説かれた精神は何処に存して居つたかといふことを考へて見ることが、その教を奉ずる上に、第一必要でありますが、それにつきては種々の方面から考へなければなりませぬ。今、ここに、私が考へつきましたことにつきて大略のことを申し上げて見ませう。  釈尊はその頃までの印度の学者が、種々の思索を盛にして、それによりて苦悩を去らうとしたのを排斥して、それは駄目であるとせられたのであります。思索といふのは智慧のはたらきに属するものでありますが、それによりては苦悩を除くことは出来ぬとせられたのであります。つまるところ、哲学的の思索によりては、我々は苦悩から離れることが出来ないとせられたのであります。言ふまでもなく、宗教は哲学ではありませぬ。哲学が宗教の代りをすることは出来ませぬ。  それから釈尊は我々がいろいろの見解を立ててもそれによりて我々の苦悩が除かれることはないと示されたのであります。我々の生命といふものはどういふものであるか、我々が死して后にどうなるのであるかといふやうなことが、理屈の上で、善くわかつたとしても、それによりて苦悩が除かれる訳はないのであります。有名なる一茶の俳句にもある通ほりに「露の世は露の世ながらさりながら」であります。我々の世界が露のやうな脆いものであり、そこに住むで居るところの我々の命が露のやうに脆いものであるといふことは十分に承知して居りましても、可愛い我が子の死むだのはまことに哀しみに堪へぬことであります。誰人でも、人間がすべて死ぬるものであるといふことは知りぬいて居るでありませう。しかしながら、死ぬるといふことは誰人にも苦悩の種であります。死むだ後のことが明瞭にわかつたとしてもそれによつて早く死にたいと思ふ心が起る筈は決してないことでありませう。それ故に、我々が如何なる見解を立てたにしてもその見解によつて苦悩を除くことは出来ぬのであります。  釈尊は又、その頃まで、自分の心の外面だけを見て、種々の教を立てたのに反して、自身の心の内面を見て、その教を説かれたのであります。苦悩といふものは人々が考へて居るやうに心の外に存するものでなくして、我々の自分の心にて造り上げるものであるから、その自分の心を調べることが第一であると釈尊は示されたのであります。釈尊が四諦を説かれたのも帰するところは、自分の心を内観するといふことに外ならぬものであります。  大体、かやうの次第で、釈尊の教は、事実に就てその説を立てられたものであるといふことが明瞭であります。決していろいろの理屈を考へ出して、かうあるべしと説かれたものではありませぬ。或る門人が釈尊に関して、死してから後にもなほ命がありますかといふやうなことを質問したときに、釈尊はそのやうなことは無用の問題である。苦悩を離れやうとして、さういふ見解を明かにしたところで、苦悩は決して巳むものではない。自分はさういふ無用のことは説かぬ。自分が説くところは現在、我々が苦悩の状態から離れる道であると言つて、さういふ問題に対しては何等解決を与へられなかつたのであります。  釈尊の教  さういふ次第でありまして、釈尊の教には儀禮といふものはなかつたのであります。すべての人が学ぶことを要するところの教義といふものもなかつたのであります。それから、その頃の印度の人が考へて居つたやうな神といふものもなかつたのであります。その当時の印度の大多数の人々はいろいろの神を考へて居りまして、たとへば山の神、樹の神、その他、自在天とか、何とかといふやうな種々雑多の神を信じて、それに祈り、又それを祀つたのであります。しかるに、釈尊の教にはさういふ神はなかつたのであります。  釈尊の説法は、それを聞く人に対して、その智慧に相当して、十分によく理解が出来るやうに或は譬喩、或は寓話、或は事実上の話をしてその人をして自然に不可思議の法に觸れしめるやうにとつとめられたのでありました。  かういふ次第でありますから、釈尊の教は全く釈尊自身の内証と申して、釈尊自身が悟られたところの真理をそのままに人々に伝へられたものであると言はねばなりませぬ。釈尊の教は至く事実を開陳せられたものであつて、決して一定の教義を立てて、これを人々に教へられたのではありませぬ。今日では、仏教の各派におのおのその派に特別の教義といふものが行はれて、代々これを受けて伝へて居られるやうでありますが、さういふ信條は釈尊の教には一つも無かつたのであります。ただ釈尊が自覚によりて悟られたる真理が主として説明せられたのでありました。しかもそれは何時でも事実に拠りて示されたといふことが釈尊の教の特徴でありました。  廢悪修善  前にも一寸申した通ほりに、釈尊の教はまことに簡単明瞭のものでありました。世の中の一切のものの真相をば明かに観察し、それによりて誤まりたる所見を正し、從つて種々の苦悩をそれによりて除くべしと説かれたのでありました。これを実際的に言へば、八つの正道を修めて行くといふことに帰著するものでありました。そうして釈尊が八つの正道と申されたのは正見と正思惟と正語と正業と正命と正精進を正念と正定とでありましたから、これを約めて言へば布施、持戒、忍辱、精進、智慧、禅定の六度か、戒、定、慧の三学になるのであります。結局、悪を廢し、善を修むるといふことが、釈尊の教の要旨であると考へられるのであります。  それ故に、釈尊の教は道徳を主とするもののやうに思はれます。殊に小乗の声聞とか縁覚とかと申すものでは戒律のことが厳重に言はれるので、釈尊の教は精進一徹のものであるやうに解せられるのであります。しかしながら、釈尊が廃悪修善のことを説かれたのは、それによりて真理を悟ることが出来るとせられたからでありませう。八正道を修めることによりて、自身の相を明かにし、我々の心が如何に真実を離れて居るかといふことを明かにすることが出来るとせられたからでありませう。これは前にも申したやうに「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其心、是諸仏教」と釈尊が申されたことによりても、推知することが出来るのであります。  諸行不及  悪を廢して善を修めよと言はれるからと申して、ただ単に悪を廢し、善を修めやうと努力することが、釈尊の精神を知つて、正しくそれを奉ずるものであるとは申されませぬ。悪るいことを止めなければならぬとすれば悪るいことはますます多く気につくものであります。  悪るいことの数は甚だ多いのでありますから、それを一とつ二たつと止めて行つても、何時それが全く巳むかはわかりませぬ。恐くは我々の一生の間にはその千分の一も萬分の一も巳むことはないでありませう。  親鸞聖人が「何れの行も及びがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし」と申されたのはまことに徹底したる内省によつてあらはれたる言葉であります。  ただ釈尊が説かれたる言葉だけをそのままに受取つて悪を廢し善を修めるやうに努力することは、一寸考へれば、釈尊の教に従つたもののやうに思はれるのでありますが、その実は釈尊の教の形式のみを伝へてその精神を無視したものであります。  宗教といふものが自身の心の問題である以上は、我々はどこまでも自身の心の内面を観ねばならぬのでありますから、釈尊も「心を法の本とす」とか、「自己を調へよ」とかと言つて、内省を十分にすべきことを説いて居られるのであります。  常識で考へても、釈尊が説かれた言葉を聞きましても、それが自分のものとならなければ、何の役にも立たぬことであります。そこで釈尊が八正道を修めて涅槃の悟を開くことが出来ると教へられたことを、我々が自身の心の有樣の上に受取りて見れば「何れの行も及び難き」といふ事実が知られるのであります。まことに釈尊の教とは反対のやうでありますが、しかしながら、それが釈尊の教によりて、見ることの出来た自身の相であります。  法の信仰  かういふ訳でありますから、釈尊が「苦悩は我々が渇愛と執著とによりて自から造るところのものであるから、八正道を修むることによりて、渇愛と執著とを滅し、それによりて苦悩を除く」べきであると説かれましたことにつきても、その釈尊の精神の内に「法」といふものに対して極めて熱烈なる信仰が存して居つたといふことを知らねばなりませぬ。  釈尊が阿難に向つて説かれました言葉に「法を燈とし、法を家となし、自からこれに帰依して、他に帰依することなかれ」とあります。又釈尊は迦葉といふものに対して念法といふことの説明をして居られますが、それに拠りますと、「如来の法といふものは妙なるものの中の最も妙なるものである、此法は心の見るところであつて、肉の眼の見るところではない、生じたものでもなければ出たものでもない、住《とどま》らず、滅びず、始なく、終なく、無為無数であつて、譬に泣くことも出来ず、我々にもどうすることも出来ないものである。しかしながらこの法は家のないものに家となり、頼りのないものに頼りとなり、心の暗きものに光となり、悟りの岸に至らざるものを覚りの岸に至らしめるものであり、香のないものに香を与へるものである」といふやうに説かれました。  これ等の説明によつて見まして、釈尊には「法」の信仰といふものが強かつたといふことが考へられるのであります。「法」といふものを燈とし、それによりて導かれて行かねばならぬといふことが強く信ぜられて居つたのであります。  正道を修めるといふことも要するに「法」に導かれるのでありまして、結局、「法」によりて涅槃の悟りが開かれるのであります。釈尊はかやうに「法」の妙徳を信じて悟の道に入られたのでありますが、かやうな信仰がなくして、ただ釈尊の言葉の表面のみを受取る場合には、釈尊の精神に背くことが甚しいと申さねばなりませぬ。  真実の法  釈尊が燈とし、依り所とせよと言はれるところの「法」は不可思議のものでありまして、我々の言説を離れたものであります。不生不滅・不増不減・無為無数にして、心及ばず、言葉もたへたものであります。  それ故に「法」を燈とすると言ひましても、さういふ不可思議のものをば我々がつかむといふことは出来ぬものであります。言葉通りに解釈すれば「法」を燈とするといふのでありますから、先づ「法」といふものを見出して、しつかりとそれを握つて、それを燈とすべきでありますが、しかしながら「法」といふものは我々の目に見ることの出来るものではありませぬ。又言葉でこれを説明することも出来ぬものであります。  仏教で「真如」と申して居るものがすなはち「法」でありますから、これを「真実」といふ言葉に代へても差支ありませぬ。しかしながら、「真実」と申しても我々が平生、使つて居るところの真実とは違つたものであります。我々が平生使つて居るところの真実は虚偽に対していふところのものでありまして、ただ相対的のものでありますが、ここに「真実」といふものは、さういふ我々の考を離れた絶対的のものであります。我々の平生の言葉で真実とか、虚偽とかといふやうな我々の考を離れて居るものでありますから、我々は直接にこれに觸れることは出来ぬものであります。  法を見る  「法」といふものは、かやうに不可思議のものでありまして、我々は直接にこれを見ることは出来ぬものでありますが、しかしながら、「人」や「物」を通じて間接にその「法」に觸れることが出来るのであります。  釈尊につきて申せば、我々は今日でも釈尊の言行を通じて、その中に動いて居るところの「法」を見ることが出来るのであります。釈尊在世の当時には釈尊に接したる多くの人々が釈尊の身体を通じて「法」といふものを見ることが出来たでありませう。  跋伽梨といふものが釈尊に始めてお目にかかつたときに「私は身体に力がなくしてあなたにお目にあたるといふことが、これまで出来なかつた」といふ意味のことを言つたところが、釈尊はそれに関して「法を見るものは私を見る」と言はれました。いかにもさうでありませう。  釈尊は言ふまでもなく一人の人間でありますが、その人間の身体が無くなつてから三千年の後の今日にもなほ釈尊が存して居るのは全く釈尊の身体を通してあらはれたところの「法」であります。それ故に、釈尊在世の当時に、世尊として釈尊を尊崇したのは全くその「法」に接することが出来たためであります。  「法を見るものは私を見る」のであると釈尊が申されたことはいかにも当然のことでありませう。  小乗  そこでお話を致さなければならぬのは仏教でいふところの小乗のことであります。小乗といふことは小さい乗物といふ意味で、多くの人が乗ることの出来ぬ乗物で、多くの人々が進むことの出来ぬ道であります。  仏教の内で、我邦に最も古く伝はつた成実宗とか倶舎宗とかといふやうなものがこの小乗に属するものであります。無論自分で小乗と言つたのではなく、後に起つた大乗に対してこれを小乗といふのであります。さうして、大乗は釈尊の精神を開展さして興つたものでありますからそれは釈尊の教説ではないとまで言はれ、大乗非仏説と申す議論もありますが、小乗の方はこの点から申すと、「釈尊に親炙《しんしや》した人々の説いたところに拠るとせられたもので、いはば原始的仏教であります。しかしながら、それが果して釈尊の精神を伝へたものであるかといふことは別問題であります。  小乗の中には声聞乗と縁覚乗との二種が別けられて居ります。縁覚といふのは飛花落葉を見て、独り諸法の無常をさとり、或は十二因縁を観ずるといふやうに、修行によりて悟を開くこをつとむるものであります。  声聞乗といふのは四諦の真理などを聞きそれによりて修行して涅槃のさとりをひらくことをつとめるものであります。この二たつのものは共に釈尊に接近した人々の教に本づくものであるとせられるのでありますが、いかにも釈尊は厳粛の生活を説き、自身にも極めて厳粛の生活をせられたのでありますから、直接にそれに接觸した人々は、それに習ふて涅槃のさとりをひらくことに努めたものでありませう。  その中には固より釈尊の精神を理解して居つたものもあつたでありませうが、多くの人々は、釈尊の精神といふものには注意せず、ただその厳粛の生活のみを模倣して、それによつて涅槃のさとりをひらくことが出来ると誤解したのでありませう。  恐くは釈尊在世の当時には面前に崇高なる人格を見て、それを欽仰するのあまりに、ただその形式の外面にあらはれたものが目にとまり、その内部に動いて居つたところの真実の法は、多くの人々の目に著かなかつたのでありませう。  阿弥陀仏  しかしながら、深く考へて見ますと、釈尊が真理を悟り正道を修めることによりて悟を開くことが出来ると言はれた、その心の中には強き「法」の信仰が存して居つたのであります。  さうしてその「法」といはるるは「仏性」といひ、「如来」といふもので、それを限定すれば、阿弥陀仏であります。それは仏教で説かれるところの仏には澤山あります中に、一切の衆生をたすけむといふ願を起して修行して仏となられたのは阿弥陀仏であると示されて居るのでありますから、宗教の意味を強く考へていふときは、釈尊の身体を通して我々の前にあらはれたのは全く阿弥陀仏であると言ふべきであります。それ故に、一方から見れば、釈尊はこの阿弥陀仏の法を説くためにこの世に出られたのであると申すことも出来るのであります。  我々はかやうにして、釈尊によりて示されたる阿弥陀仏を崇拝し、その教に從ふて、転迷開悟の目的を達することが出来るのであります。すなはち釈迦教に対して、これを弥陀教と名づけるのであります。私はこれから、この弥陀教の要旨につきて段々とお話を進めようと思ふのであります。  聖道の実際  前にお話致したやうに、仏教には、聖道と、さうして浄土と名を附けられて居る二つの大きな分派があります。しかしそれは釈尊の教を受取る人の側の方で造つたのでありまして、元来の釈尊の教がさう二つに別れて居るわけではないのであります。  ところが仏教が我国に這入りまして奈良朝時代から、平安朝時代にかけて、いろいろの宗派が行はれました中に、最盛であつたのは天台宗であります。京都の比叡山に延暦寺が建てられまして、要所を道場として、伝教大師の宗教が広がつたのであります。  学問の上から言つても、天台の哲学は仏教の中で最も発達したものであると言つて差支ありませぬ。無論、天台宗の教理と申すやうなことは六ヶ敷い理窟もありますけれども実際から眺めて見ると、第一に法華経を読誦すること、それから真言を行すること、それから禅観を修すること、それから菩薩戒を持すること、それから念仏すること、これが天台宗にて実際に行はれたものであります。  観仏と念仏  かやうに、天台宗の実際につきて、法華経読誦、真言行、禅観修、菩薩戒、念仏が行はれたのは、要するに、それによつて仏を観るのでありまして、疫病が流行つたときにもお経を読むことが行はれたのも畢竟は仏をたのむのであります。  それから真言を行ずることも、それから禅観を修することも、自分の心を内観してそれによりて仏を観るのであります。それから戒律を持することも、念仏を申すことも、皆、仏を観るの法でありまして、念仏も読誦と同じ意味のものでありました。  ところが、それ等の方法によりては安心立命の境に達することが出来なかつたために、別の意味を持つた念仏が始まつたのであります。それは前に申した念仏が観念の念仏であるのに反して、ただ仏名を称ふる念仏でありました。  観念の念仏  念仏と申すことは、元来、仏を念ずるのでありまして、すなはち仏の相を念じ、仏の心を念じ、その根本に入つて申せば真如を観ずるのであります。たとへて申せば、仏の国は極樂でありますが、その極樂の立派なことを念じ、この世界がまことに穢ない苦しい世界であるといふことを考へて、そこでこの汚ない苦しい国から綺麗な浄土に行かうといふことを念願するといふやうなわけで、それには自分の智慧を研いて、真理を覚つて、さうして覚を開くといふことが目的であります。  それが前に申した聖道の教であります。これを釈迦教と申すのであります。実際から申せば観仏の教であります。我邦に始め行はれた仏教は、すなはちかやうな釈迦教でありました。それで観仏といふことが盛んに行はれて居つたのでありまして、念仏と申しても観念の念仏に外ならぬものでありました。  称名の念仏  この釈迦教の要旨を一口につづめて申せば、自分の心をよく調へて、それによつて涅槃の証《さとり》を開くべしといふことであります。迷を転じて悟を開くべしといふ教であります。  それは全く釈尊の説かれたところでありますから、そこで釈迦教と名づけられたのでありますが、しかしながら、さういふ教を自分のものとして受け取つて、その教に動かされて進んで行くといふことにならなければ、宗教としては何等価値のないことであります。  それ故に、さういふ教を自分の心に受け取つて、さうしてそれを自分のものとして自分の心の上に釈尊が説かれた教の意味をあらはすといふことになると、法華経を読誦するといふことも真言を行ずるといふことも、禅観を修するといふことも、菩薩戒を保つといふことも、念仏するといふことも、畢竟ただこれを行ふといふだけでそれが自分のものとはならないのであります。  そこに気の附いた人が、別の意味の念仏を申すやうになつたのであります。仏の功徳を念じてさうして仏に縋つて行かうといふやうな念仏にぶつつかつて、さういふことはとても出来ない自分であるといふことに気の附いた人が、観念の念仏を捨てて称名の念仏に移つたのであります。  浄土教の実際  観念の念仏と称名の念仏と、念仏といふ言葉は同じでありますけれども、その意味は全く相異したものであります。早く申せば観仏といふことは仏の功徳を考へ、仏の慈悲を考へ、さうしてその仏に縋るのであります。  これに反して称名の念仏といふことは唯だ仏の名を唱へるのであります。仏の名を称へるといふことは、観念の念仏でも、同じことでありまして、矢張り仏の名を称へるのでありますが、その称へる心持が相異して居るのであります。  観念の念仏は自分の心によつて行を起すのでありまして、称名の念仏は行に帰して心を捨てるのであります。そこに非常な相異があるのであります。そうしてかやうに相異の起るのは全く自分の心をよく省みると省みないとによるのであります。  空也上人(一)  天台宗の高僧でこの称名念仏をした第一人者は空也上人であります。この空也上人は延喜年間の人でありますが、自分の出た所は言はれないし、父母の名も言はれないし、どうした人かその履歴のはつきり判らぬ人であります。  或は天子のお子様であつたといふことも伝へられて居りますけれども、それは虚伝でありませう。唯だ京都の町を常に仏の名を称へて歩いて居つた人でありましたから阿弥陀聖と称せられて居りました。言ふまでもなく天台宗の高徳でありまして、天台宗の観念の念仏から、ただの称名念仏に入つた人であります。  元々天台宗の人でありますから、前に申しました天台の五つの方法を修行して居つた人でありますが、自分を省ることが非常に深かつたために、その念仏も称名の念仏になつたのでありませう。  今日でも、宗教の心理をしらべて見ますると、観念の念仏は何時でも内省によりて称名の念仏になるのであります。空也上人は天性、宗教的の人でありまして、その行といふものは実に世間ばなれのした人でありました。  或るとき山の中に這入つて弟子を連れて生活して居られたのでありますが、いろいろ米を集めたり、それを炊いて御飯にしたりすることが大変うるさくなつて、或るとき突然空也上人の姿が消えた、弟子が驚いて方々探したところが、京都の町で乞食の仲間に這入つて菰を被つて寝て居られたのでありました。世間が騒がしいから山の中に這入つて居つたが、山の中も亦騒がしいからそこでかうして居るのだと平然として乞食の群に這入つて、隱通して居られたといふことであります。  空也上人(二)  空也上人が鞍馬山の溪の中をあるいて居られましたときに、向ふから侍が鹿の角と猿の皮を持つてやつて来るのに逢はれました。空也上人はその侍に向いて、あなたは妙なものを持つて居られるがそれは何ですかと尋ねられました。ところがその侍は私は狩をして鹿と猿をとつた、鹿は角を切り、猿は皮を剥いで持つて帰つたのでありますと答へました。さうすると空也上人は涙を流して、それは自分と一緒に此山の中に暮して居つたものであります。それを殺すといふことは何事でありますか、どうかその角と皮とを私に下さいと言つて、それを貰つてその角を杖とし、猿の皮は自分の著物にして始終自分の身につけて離されなかつたといふことであります。その侍は平の定盛といふ男でありましたが、空也上人の言はれたこととその態度と、それから後の行とに、ひどく感激しまして、誠に悪るいことをして濟まなかつた、生ものは自分と同じやうに命を持つて居る、自分も命が惜しいのに、殺される鹿も猿も命が惜しかつたであらう。誠にすまぬことをしたと悔悟して、空也上人にお願して頭を剃つて修行しようと思ふ心が起きまして、空也上人に向つて、  「私には妻子がありますから、妻子を捨て、これから後はあなたのお伴をして修行しようと思ひます」  と申したところ、空也上人は  「妻子を捨てるのは慈悲の殺生だから、それはよくない、妻子を持つたまま、髮のあるまま教に従つて修行されれば善い」  と言はれました。平定盛はすぐに空也上人の弟子になつて宗教的生活をしたといふことであります。当時天台宗には空也上人の他にもいろいろ高徳があつたのでありましたけれども、多くの人々はその教のままずつと進んで行かれたのでありますから、修行の功はありましたけれども、空也上人のやうに宗教の心にみちみちて生活して居つた人は少なかつたでありませう。天台宗で説くところの教といふものは、固より同じでありますけれども、受け取る人の心持がどうそれを受け取るかといふことが問題でありまして、そこで空也上人は実に宗教的に徹底した人であつたといはなければならぬのであります。  恵心僧都(一)  空也上人にすこし遅れて、恵心僧都といふ人が出て来られたのでありますが、この人が今申した称名念仏の道に入つた有名の人であります。天台宗から出て称名念仏を初めて盛んにやつたのが空也上人であつたとすれば、恵心僧都は第二番目にそれをやつた人であります。  恵心僧都は、前にも後にも一寸類のないほどの学者でありました。この恵心僧都が空也上人の高名を聞かれて、その上人に會ひたいものだと心がけて居られたところが、或時京都の町でふと空也上人に會はれました。まことに徳の高い、前にも申したとほりに人間離れのした阿弥陀聖と言はれるほどに南無阿弥陀仏を申して居られる人でありましたから、恵心僧都もひどく感ぜられまして、空也上人に向いて、  「私は極樂を願ふ心が誠に深いのでありますが、往生は出来ませうか」  とかう聞かれたのであります。さうすると空也上人が言はれるのに、  「私は無智のものでありますからさやうなことは少しもわかりませぬ、唯だ昔の偉い人の言はれたことを聞いて、さうして考へて見るのに、往生の出来ないといふことはないと思ひます。いろいろ観念の力をはたらかしてさうしてだんだんと進んで行つたならば、非想、非非想までは至ることが出来るのであります。浄土を願ふものも矢張り同じことであります。穢土を厭ひ浄土を願ふ心持が深く、それによつて進んで行つたら往生の出来ないことはないと思ひます」  と空也上人は言はれました。  恵心僧都はそれを聞かれて、まことにさうだと感心して涙を流して空也上人を拝まれたといふことであります。後に恵心僧都は往生要集といふ書物を書かれまして、称名念仏の意味を詳しく書かれましたが、その往生要集の本となつたものは、空也上人が穢土を厭ひ浄土を願ふといふことを説かれたことであります。  恵心僧都(二)  さて、恵心僧都がどういふやうにして観念の念仏から称名の念仏になられたのでありますかといふことは、今考へて見たいと思ふのであります。恵心僧都は非常に才智の優れた人であつたと伝へられて居ります。  その少年の時のことにつきてもいろいろの話が殘つて居るのであります。さういふ才智に富むだ恵心僧都を生むで、さうしてそれを育てたお母様が又非常に偉い人でありました。  お父樣は早く死なれたのでありますから、恵心僧都はお母様の手で育つたのであります。お父様の言置で、少し年を取つたら叡山に上して僧侶にするやうにといふことで、六つか七つの年に、大和の国から京都の叡山に上して仏道を修行せしめられたのであります。  元来がゑらい人であるのに修行が善かつたので間もなく出世せられまして、年が二十幾つで巳に有名の大家になられたのであります。朝廷でお経の講釈をするやうな偉い人になつて、いろいろ頂戴物をせられたので、恵心僧都はその喜びを母上に伝へるやうに朝廷から頂いたものを使に持たせてそれをお母様の所に送られました。  ところがお母様はそれを受け取られぬのみならず、自分が自分の可愛い子供をば自分のもとから離して叡山に上して仏道を修行せしめるのは、一身の名誉のため、一家の利益のためではない、衆生濟度のために外ならぬものである。年がまだ若いのに、人から褒められたとて有頂天になる心持は何事であるか、自分はさういふことを期待したのではない、といふやうな意味のことを言はれたと伝へられて居ります。恵心僧都はそれを聞いて、大に内観せられまして、それから一生懸命に仏道を修行せられたといふことであります。  恵心僧都(三)  偉い人は蔓を引くものであります。恵心僧都の妹に安養の尼といはれた人が ありますが、この安養尼が又非常に宗教的の人でありました。或る時安養の尼の家に泥棒が這入りまして、著物を盗みて帰りましたが、その帰つたあと、庭に著物が落ちて居りました。  尼はそれを見てそれは今の泥棒が落したのだから持つて行つてやれと使の人をやられました。ところがその泥棒はそれにひどく感激しまして、悪るい所に這入つたと言つてさうして尼の家で盗み取つたものを皆な返却してしまいましたといふ話が残つて居ります。  安養の尼はかやうに宗教心が強かつたのであります。或時、恵心僧都が話されたことに  「どうもこの浮世といふものはまことにもろいもので、たとへば春が過ぎて夏になり、夏が過ぎて秋になり、秋が過ぎて冬になり、今木が生々して居るけれども、しばらくするとこの木の葉が落ちる、これを以ても人の命が露より脆いことを感ぜねばならぬといふことを申されました。」  安養尼はそれを聞いて  「あなたは世の中のはかないことをそんなに悠暢に考へて居られるのか、出る息は入る息を待たない、世の中に春が過ぎて夏が来るなどとそんなに悠暢に考へて居られますか」  と言はれました。それで恵心僧都は閉口せられたといふやうな話も残つて居るのであります。兎に角お母様が偉いし、妹も偉いし、御自身も偉いのであります。  勸進の偈  恵心僧都が後にお母様に勧進の偈といふものを書いて送られました。長いものの中に次のやうなことが書いてあります。  三界はみな苦悩なり、鳥の樊籠を被るが如し、苦に於て樂を思ふがゆへに、久しく生死に流転す、人命は極めて無常なり。幼少の人なほ死す、何かいはんや衰老の者をや、いかんぞ発心せざらん、念々の中の悪業は、冥官みな注記す。銘々が皆な一念一念心が起る、其度毎に造る所の悪い業は地獄の役人が一つ一つそれを記載するといはれるのであります。  きくならく多悪のもの、地獄の中に馳遣せらる、過去無始のつみ、ただ命終の時をまつ、現在無際のとがは、更らに受生の処をあらそふ。  かやうに人生の有樣を説いて、さうして更に次のやうに言つて居られるのであります。  男女愛子といへども、誰の人か相すくふ者あらん、自ら恣に悪業を造りて、火の中に墮せん、天に呼び地をたたくといへども、さらに何の益かあらん、唯ねがはくはわが悲母、生死の由来を観じて、早く世間のつとめを抛ちて、速に出要の道にしたがへ、出離の最要路、念仏門にしかず。  そこでかういふやうな浮世にあつて、さうして浅間しい人間がその苦から離れる道といふものは、唯だ念仏門であると、かういふことを、長く書いてお母樣に送つて居られるのであります。  厭離穢土  それから恵心僧都は  夫以れば三界は皆な苦なり、五蘊は無常なり、苦と無常と誰かいとはざらんや、然るにわれら無始よりこのかた、いたづらに生じ、いたづらに死して、猶いまだ道心をおこさず、亦いまだ悪趣をまぬがれず、悲いかな、いづれの時にか、まことに解脱して善根をうゑん、  と説いて居られるのであります。この穢れた世を厭ひ、淨らかな国を望むといふことは、それはまことに深く念ずるところであるけれども、しかしながらそれには道心が起らなくてはならないのに、自分は道心もまだ起さないし、それから念々に作る所の悪業が極めて多いから悪趣を免れることは出来ない。  かういふ風な有樣であつては、何れの時にか解脱することが出来やう。そこで恵心僧都はだんだん考へて、さうして釈尊の説かれたと言はれるお経を引くり返して読まれたのでありますけれども、前に申した通ほり、その頃天台宗で主に読んだお経は主に法華経でありまして、その他のお経といふものはさう詳しくは詮穿しなかつたらしいのであります。  恵心僧都はさういふ自分の心の有樣に目がさめて、厭離穢土のためにその目的を達すべき方法を説いてあるところの御経を探がされたのであります。  観無量壽経  恵心僧都は、法華経以外のお経につきて詮穿せられた結果、見つけられたのが観無量壽経でありました。恵心僧都は次のやうに説いて居られるのであります。  抑々観無量壽経を案ずるに、云く或は衆生あり五逆十悪を作りて、もろもろの不善を具す。かくの如きの悪人悪業をもつて、まさに悪道におち、多劫を経?して苦をうくること窮りなかるべし、かくの如きの悪人命終の時、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説てをしへて、仏を念ぜしむるに遇へり、かの人苦にせめられて仏を念ずるにいとまあらず、善友告ていはく、汝もし念ずることあたはずば、まさに無量壽仏と称すべし、かくの如く心をいたして声をして絶ざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称す、仏名を称するがゆへに念々の中に八十億劫の生死の罪をのぞき、命終の後に金蓮花のなほ日輪の如く、その人の前に住するを見て、一念の頃のごとくにすなはち極樂世界に往生することを得、  かういふ文句を読まれて、恵心僧都は概念の念仏から称名の念仏へと進まれたのであります。自分といふものを棚に上げて置いて、或は極樂の相を考へ、或は地獄の相を念じてもそれは、畢竟一場の話柄に過ぎぬのであります。  三の罪  恵心僧都は深く内省して  夫身において二の罪をつくる、殺生偸盗邪姪なり。口において四の罪をつくる、妄語綺語悪口雨舌なり。意に於て三の罪をつくる、貪欲瞋恚愚癡なり。  かういふやうに、悪心僧都は自分の心の浅間しいことをつくづくと考へられた結果、そのお経の中に、  「極重悪人、無他方便、唯称弥陀、得生極樂」といふ文句に遭遇して、それにひどく突当られたのであります。自分の心の浅間しいといふことを考へ、自分の罪の深いことを考へ、それでどうすることも出来ないといふことを知られたところで、かういふ深い罪を犯すやうな悪人は別に道はない、唯だ弥陀の名を称へることによつて極樂に生れることが出来るといふことによりて、自分の心を転換することが出来たのでありませう。  弥陀の本願(一)  或る時、宇治の平等院で恵心僧都が説法せられたことがありましたが、その法座の上に木の葉が落ちました。恵心僧都がそれを取つて御覧になつたところが、その木の葉に虫食の文字がありました。「極樂へ行く船の便りに」といふ歌の下の句がその木の葉に虫喰のままにあつたといふのであります。これは作り話でありませう。  それは兎も角も「極樂へ行く船の便りに」といふ句があつたと考へればよいのでありませう。それで恵心僧都は聴衆に向いて「どなたでもこの上の句をお詠みなさい」と注文せられたのであります。  ところが誰も詠まないので、恵心僧都が自から詠まれました。それは「法の道しる人あらば渡すべし極樂へゆく船の便りに」といふのでありました。澤山の人はそれを聞いて一同感に入つて帰りました。  その中に一人の老婆が居りまして、一人残つてさめざめと泣いて居りました。恵心僧都がこれを見て、「人々は皆な下向するのにお前一人後に殘つて泣いて居るのはどういうわけか」と聞かれました。  そのとき老女が申すのに「今の上の句を聞いてまことに悲しみに堪えませぬ」といふのであります。恵心僧都は「我が詠みたる上の句を聞いて何を悲しく思召さるや」老女いふやう、「法の道を知りたる人こそは此船の便りに極楽に行かんずれども、われ等如きの罪悪深重なる法の道を知られるのは、此船の便りに極楽に行くこと叶ふまじと存じて悲しむなり」。  恵心僧都はこれを聞かれて「なる程尤もだ、どうか一つあなた上の句を附けて下とい」と言はれましたところが、老女が「法の道知るも知らぬも渡すべし極樂へ行く船の便りに」とよみました。  恵心僧都はこれ聞かれて「さてさて御身は凡人にましまさず、誠に弥陀の本願によく叶ひたる上の句なり」と感じられました。そのとき老女は「我はこれ西方浄土の教主なり」と言つて光明を放ち紫雲たなびき云々とありますが、これは固より事実を莊厳した話でありませう。  まことに法の道を知るといふことは、どこまでも学問でありまして宗教ではありませぬ。法の道を知らぬ人が、渡されねばならぬのでありますから、一切の人々はただ称名念仏によりて救はれるべきであります。  弥陀の本願(二)  法然上人が説かれたことが和語燈に載せてあるのを見ますと「極樂世界にもれたる法門なきがゆへに」と言はれて、いろいろ教があつてもどの教でも極樂に行くことが出来るのであります。  しかしながら「ただしいま弥陀本願の意はかくのごとくさとれとにはあらず」とありまして、念仏の法門は斯くの如く悟れといふのではなく、「ただふかく信心をいたしてとのふるものをむかへんとなり」とあります。唯だ信心をして称ふるものといふのであります。法然上人はそれを説明して、  「耆婆扁鵲《ぎばへんじやく》が萬病をいやすくすりはもろもろの木、よろづの草をもて合薬せりといへども」  耆婆といふのは印度の名医で、扁鵲といふのは支那の名医であります。その耆婆扁鵲がいろいろの病気を治すのはいろいろの木やいろいろの草を合せて薬を調合するといふのであります。  「病者はこれをさとりて、その薬草何分、その薬草何兩和合せりと知らず、しかれども是を服するに萬病ことごとくいゆるごとし」  医者の薬を、これは何がいくら這入つて居るといふことを知らなくても、その薬を飲めば病気が治るのであるといはれるのであります。  「ただうらむらくはこのくすりを信ぜずして、わがやまひはきはめてをもし、この薬にてはいはゆる事なからんとうたがひて服せずんば、耆婆の医術も、扁鵲の秘法もむなしくしてそのあるべからざる如し」  薬を飲んで治るのは、その薬をのめば治ると信ずるからで、これは何がいくら這入つて居るといふことが判つて居なくてもよいのであります。  「弥陀の名號もかくの如し、その煩悩悪業の病きはめてをもし、いかがこの名號となへてむまるることなからんと、うたがひてこれを信ぜずば弥陀の誓願、釈尊の所説むなしくして、そのしるしあるべからず、ただあふぎて信ずべし、良薬をえて服せずして死することなかれ」  かやうに法然上人が説かれたのは、自分の計ひといふものを離れて唯だ信ずるのみであると、かういはれるのであります。  唯信  そこで唯信するといふことが重要の問題であります。いろいろ思考したり、判断したりして、さうして後に信ずるといふのではなくして、ただ信ずるといふのは、全く自分の計ひを捨てることであります。さう信ずることが正しいからと言つてそれを信ずるのではありませぬ。  たとへば、恵心僧都にしても、後の法然上人にしても、全く自分といふものの力のないといふことを十分にさとられたのでありまして、さうしてその後に唯だ念仏することが出来たのであります。  釈尊が一生懸命修行して仏になれと言はれるのでも、その奥に法を信ずることによりて修行してゆかるのであります。それ故に、唯信ずるといふことは、全く自己の内観によりて自己の力のないことを十分にさとつたときの心持でありまして、唯だ念仏より外にはないことが当然であります。  親鸞聖人は  「唯はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また唯はひとりといふこころなり。信はうたがふこころなきなり。すなはち真実の信心なり。虚仮のはなれたるこころなり、虚はむなしといふ、仮は真ならぬをいふなり。本願他力をたのみて、自力をすつるをいふなり。これを唯信といふ。……また唯信はこれ他力の信心のほかに、余のことならはずとなり」  と説明して居られるのでありますが、これにてよく知られるやうに、唯信ずるといふことは疑はぬことであると申して差支がないのであります。彼れ此れとはからふことをやめて、ただ念仏を申すのであります。自力を捨てて本願他力をたのむのであります。  寶物集  この前に空也上人の念仏と、恵心僧都の念仏とのことにつきて、大体のところをお話いたしたのでありますが、それは段々と弥陀教といふものを説明するためであります。今日お話をするのは、その続きであります。  空也上人でも、恵心僧都でも、その当時の天台宗の学者でありまして、全く專門の方でありますが、当時さういふ専門の学者でなく、又僧侶でなく、しかも仏教のことを心がけて居つた人が少なからずあつたのであります。  それは沙弥と申すもので、僧侶でなく、しかしながら全くの俗人でなく、僧侶と俗人との中間の風俗をして、さうして仏教の修行をして居つたのであります。かういふ人々のことにつきてお話を致すことは弥陀教といふものを理解する上に都合のよいことでありますから、そのこともお話を致とうと考へるのであります。  今日はその前に、平の康頼といふ人が作つた「寶物集」といふ書物に就て一寸、お話を致して置き度いと思ふのであります。この平の康頼といふ人は、前にお話した空也上人や恵心僧都よりは後の人で、平安朝時代の末の頃、源平時代の人であります。  朝廷に事へて官は検非違使に至つたのでありますが、平清盛が大変に暴虐であつたのを憤慨して藤原成親といふものが、平家滅亡の陰謀を企てたのに加担した。その陰謀が露見をして俊寛僧都と共に硫黄ヶ島に流されたのであります。それが治承元年で、それから硫黄ヶ島に三年ほど流されて居りましたが、許されて京都に帰つたのであります。流される途中法体になつて、平判官入道といはれた位に仏教に志のあつた人で、京都にかへつてから後にこの「寶物集」を著はしたのであります。  寶の数々  この書の内容は康頼が硫黄ヶ島より京都にかへつた后東山の別荘に蟄居して居つた。ところが友達の誰彼が康頼の生きて還つたのを喜んで訪問し、いろいろの話をした中に、康頼が不在の中に世間の様子が益々悪るくなつた。  それで三国傅来の嵯峨の釈迦如来も浅間しがつて、天竺へ帰らむとする夢想の沙汰があつたといふことで、多くの人々が参籠するといふことを聞いて、康頼も驚いて嵯峨に參詣して通夜をして居ると、同じく参籠した人々の雑談の中に、世の中で何が第一の寶であるかといふことが問題となり、これにつきて種々雑多の問答が行はれたのであります。  一人がいふに、それは隠簑といふものが第一の寶である。この隠簑といふものを持つて居るといふと思ふことが何でも叶ふ。食ひものが欲しい、思へばすぐにそれが得られる。又人が隱れて居つて何か話をして居ればそれを聞くことが出来る、又自分を隱して人に見せないといふことも出来る。さればこの隠簑といふものこそ、人間第一の寶であらうと言つた。  そこで他の一人がいふには、しかし欲しいと思ふて他人のものを取るなんどといふことはよくない。それは盗人だ。龍樹菩薩は身体を隱す術を知つて居られたけれどもそれで失敗せられた。さういふものは決して寶とは言はれないと非難した。  次の人がいふには打出小槌といふものが一番の寶だ。この槌で以て何でも叩き出すことが出来る。この位善いものはないといふと、又反対説が起る。叩き出すと言つても出たのが変手古なものでは困る。又実際さういふものがあるか無いかそれもわからぬ。それで打出の小槌が第一の寶とは言はれない。  いや、第一の寶は金だ、金といふものがありさへすれば火にも焼けないし、水にも朽ちないし、光を増すばかりだ、千両の金といへば大したやうに思ふけれども、小さい箱に入れて持つて行くことが出来る、金さへあれば何でも自由であるから、これが一番の寶だ。  かういふと、又反対の説が出る。金が寶であると言つても、これまで金のために命を失つた人もあつたし、持つて居る金がさう長くある訳ではないし、泥棒が来て取られることもあるし、又有るものが自然になくなるといふこともあるし、それ故にそれを第一の寶といふ訳には行かない。  さうすれば玉が第一の寶であらう。お経に如意寶珠といふものが寶だと書いてあるから、これが確かに一番の寶だと、さういふと又反対の説が出る。玉があつたと言つても、しかし人間が暑いときにそれが寒くなる訳はない。又寒いときにそれが暑くなるわけはない、それだからして本当の寶ではない。  さうすると、次に一番の寶は子である。子供といふものは親として実に尊重しなければならぬものだ。これにも反対の説が出た。それはよい子ならよいけれども、その子供が親を虐めたり、泥棒をしたり、いろんな悪いことをしたりすると却つて子は無い方が善いといふやうなことになる。それだから子寶と言つても、それも第一の寶ではない。  その次にはそれならば命が寶だ、人間といえるのは命が一番大切である、それだからして命が第一の寶だ。昔玄弉三蔵といふゑらい人がお経の飜訳などせられた、大変偉い人であつた。ところが旅行中に泥棒に會はれて持つて居るものを澤山に取られた、そこで人々が見舞を申し上げた、さうすると、玄弉三蔵は少しも嘆かるる気色がなく平気で居られた、そこで人々驚いて、斯樣に澤山物を盗まれたまふたのにどういふわけでさう平気で嘆きの色をお現はしにならぬかと聞いた、ところが玄弉三蔵が言はれるのに成程澤山なものは盜まれたけれども、しかし自分の一番の寶である命は盗まれなかつたから、自分はさう嘆きには思はぬと言はれたとかういふ話もある位であるし、命を惜まぬといふ人間はない筈だから、命といふものが第一の寶といふべきであるといふと、それにも反対の説が出る。  命は都合がよければいいけれども、都合が悪ければ死にたいと言ふ人もあるし、又死んだ人もある。さういふ風に命を惜まずに死んだ人もあるし、命が惜いとも限らぬ。それで命が第一の寶とも言はれない。かういふ風に多くの寶を数へて、これが第一だ第一だと言つてもどれも非難がありまして、多くの人が賛成しなかつたのであります。  その時、そこに居つた僧侶は口を出して、何を言つても寶は仏法に如くものはない。人の身で何が第一の寶であるかと言へば、それは仏法であるといふたので、世間第一の寶は仏法であるといふことに話がきまりて、そこでその僧侶は仏法の話をして、仏法といふものは無常を知るといふことが大事である、無常といふものを知つて、さうして露のやうな命に執著せず、幻のやうな世界に愛著を起さないで、さうして浄らかな仏の国に往生するといふことが主眼である。  この位寶はないと言つたといふことを話の種として、康頼が仏法の俗解といふやうな書物を著はした。これが「寶物集」といふものであります。私が今、さういふものをもち出してここにお話を致すのは康頼といふ人が仏教の専門家でないからであります。仏教の専門家でない人が、平安朝時代の頃に、仏法につきてどういふやうに理解して居つたかといふことを考へて見たいからであります。  宗教の価値  いろいろの寶を数へて、その価値を批評して、遂に仏法が第一の寶であると決定したといふことは如何にも正しい考へ方であると思はれるのであります。この頃の時代に宗教といふ言葉もなし、又宗教と言へば仏法だけであつたと言つてもよい位でありましたから、仏法が第一の寶であるといふことは、今日で言へば、宗教が第一の寶といふことと同じ意味のものであります。  言ふまでもなく、人間にはいろいろの大切なことがあるにはきまつて居りますが、しかしその大切なものの中で実際我々人間として生活して行くのには先づ智慧のはたらきが必要でありませう。  智慧がなくては我々は到底生活を続けて行くことは出来ぬのであります。外の暑いを暑いと知り、寒いを寒いと知るといふやうにすべてのことを自分で知つて行く精神のはたらきを智慧といふのでありますが、それが第一に必要でありませう。  若しその智慧といふものがなかつたならば生活をすることは先づ出来ますまい。若しさういふ風な智慧のはたらきのない人間が生れたならば、それは生活することは出来ずして直ぐに死亡するのであります。  その智慧のはたらきが根本となりて、人間はいろいろのことがあらはれて居るのでありまして、或は学問といふものがあり、地位といふものがあり、或は名譽といふものが出来るのであります。  かやうに種々雑多なることがあらはれる中で、最も大切だと考へられるのは学問であります。こうしてこれは知識を集めるのであります。しかしながら、いくら知識がありましても、人間としての道といふものがないならば、社會的に生活して行く上に忽ち障碍をあらはすのであります。  それ故に、昔から人間の道といふものが喧しく説かれて居るのであります。仁義体智信と約めて言つて居りますが、その仁義体智信といふものを主として昔から人間の道といふものが説かれて居るのであります。  そこで人間は学問がなくてはいかない、地位がなくてはいかない。門閥といふものが必要である財産といふものが大切であると言つて噪《さわ》いで居るのであります。  なるほど、かういふやうに考へれば、穏簑といふものがあつて、それを看れば人の方が見えて自分の方は向ふに見えないといふことは大変都合のよいことでありませう。  しかしながらさういふことが果してどれだけの値打がありませうか。金にしても或は門閥にしても或は地位にしても、或は学問にしても皆自分といふものを外方に押し出して、生かして行かうとするために用いるものでありますが、実際には、皆自分といふものを殺すといふ結果を示して居るのであります。  それによつて自分といふものを人の前に出さうと思つてやることが結局人の前に出て居るのは醜い自分であります。自分はゑらいと思ふて人の前に出しましても人はゑらくないとして自分の価値を消してしまふのであります。出さうと思つて却て引込められるのであります。  自分は正しいと、そんなことを言ふ人は他の人からは正しくないとせられるのであります。しかるに、今日我々が努めて居るところは全くその方面でありまして、どうかして人の上に立たう、どうかして人よりもゑらくならう、どうかして人よりも金を余計持たう、どうかして人よりも褒められよう、といふやうなことを考へて居るのでありますから、それに相応するものは寶としようとするのであります。  しかしながら、それは結局その何れも寶ではないのであります。何が大切であるかと言へば、これまで度々お話をします通りに自分といふものが一番大切でありませう。その一番大切なる自分を善くして行くといふものが第一の寶でありませう。  隱簑が寶であるとしても、打出の小槌が寶であるとしても、金が寶であるとしても、或は命が寶であるとしても、子が寶であるとしても、何と言つても結局それ等は本当の寶ではなくして、さういふ心のはたらきをするところの自分といふものの中を見て行くところの宗教といふものが、第一の寶であるといはねばなりませぬ。康頼の「寶物集」に書いてあることはこの意味に於て宗教の価値を示したものであります。  智能と感情  全体、我々人間の心のはたらきは、智能のはたらきと、さうして感情のはたらきと、かう二つに別けて見ることが出来るのでありますが、その智能のはたらきといふものは自分といふものを保存するために、外の方に出てはたらくものであります。  それ故に、智能といふものは人から人へ伝へることが出来るものでありまして、智能のはたらきによつて集めることの出来た知識といふものは甲の人から乙の人に注込むことが出来るのであります。  しかるに、感情といふものは、智能と同じやうに自分を保存するためのはたらきでありますけれども、それは自分の内の方へ出て来るものであります。それ故に人に示すことが出来ませぬ。  たとへて申せば、今日は風が吹くといふことを智能のはたらきによつて知るときには、今日は風が吹くと言つて人から人に伝へることは出来ますが、風が吹いて都合が悪いとか善いとかといふやうな心持は感情として人々皆違ふ筈であります。  さう自分の心持を人に伝へることは出来ませぬ。ところで、その二つの精神のはたらきの中で、人間として生きて行くには感情といふものの方が大切であります。それ故に生れたままの赤坊には智能のはたらきはまだ十分にあらはれませれぬが、感情は巳に生後第一日からあらはれて居るのであります。  知るといふことは自分の気に入らぬものを除き、自分の気に入つたものを取るといふことが出来ますけれども、しかしながら感情としてあらはれるものはさう勝手にはまゐりませぬ。  たとへば今暑いと感ずる、暑いといふのは感情として出て来たのでありますからそれはどうすることも出来ないものであります。暑いのを暑いと思つてはならぬと申しましても駄目であります。  我慢は或る程度までは出来ますけれども、結局我慢は役に立ちませぬ。智能の方面のことは我々の勝手にいかやうにも考へることが出来ますから、寶を数へる場合にもそれがいろいろに勝手に考へられるのであります。  しかしながら感情のはたらきはさうではありませぬ。從つてその方の始末は容易でないのであります。或は我慢する。或は諦める。或は練習をする。或は修行をするなどの手段によつてそれをどうかしようとしても結局それは駄目であります。  それかと申して、それをほつて置くといふことは出来ないのでありますから。そこでどうすればよいかといふことになると、ただ宗教と名づけられる心のはたらきがそこに何時でもあらはれるやうにならなければなりませぬ。  さういふ意味に於て宗教が人間の第一の寶であるといふことは今日我々の知識から申しても正しい言ひ方であると思ふのであります。  仏道修行  しからば如何にしてその宗教といふものを修めることが出来るかと申すと、「寶物集」に書いてあるところに拠りて見ますと、第一に我々は無常を観じ、無常の身を以て無常の世界に長くとどまることが出来ないといふことを知つて、身体に執著するの心を離れて、早く浄土に往生して、さうして涅槃の悟を開くべきものであると書いてあります。  これが仏道修行の大要であります。これは無論今から七百年ばかりも前のことでありますし、宗教といふものの説明もまだ今日のやうには十分でなかつたのでありますから、この「寶物集」に書いてあることが、文字通りにそのまま今日に通用することは考へられないのであります。  しかしその当時の人々がどういふ風に考へて居つたか、天台宗などの、学僧達を除いて、俗間に居る人がどういふ風に考へて居つたかといふことを知ることが必要でありますから、この書物によつて仏道修行のことを説明しようと思ふのであります。  往生の十二門  「寳物集」には浄土に往生する道を十二門として挙げてあります。  「第一には道心を発して出家遁世すべし」  菩提心を発して家を離れ、世を遁れて仏道を求むるといふことが第一の道であるとかういふのであります。  「第二に深く三寶を信じ奉りて仏に成るべしと申す」  三寳といふのは仏・法・僧の三つであります。釈尊を父の如く思ひ奉り、法華経を信じ又一切の僧に帰依すべしといふのであります。  「第三に如来の禁戒を堅く持ちて仏となるべし」  すなはち戒律を堅く持ち、道徳を堅固に行はねばならぬ。  「第四に諸の行業を積みて仏に成るべし。」  忍辱、禅定、恭敬、禮拝などの諸行を積むことが大切である。  「第五に浄土に往生せんといふ願をして仏道を成ずべし」  一切諸仏は願を離れては生ぜずといふ。  「第六に生々世々の業障を懺悔して仏道を成ずべし」  我々人間は一日一夜を経るに八億四千の念があり、念々につくるところのものは皆三途に堕つるところの業であるから、その業障を懺悔せねばならぬ。  「第七に諸の施を行じて仏に成るべしと申す」  寶を施し法を施すのであります。  「第八に観念を凝じて仏道を成ずべしと申す」  観念を凝すべしといふのは大体に自身の心を見ることであります。観心若しくは内観であります。  「第九に臨終の悪念をやめて仏に成るべし」  まことに死なんとする時に悪い念を止めねばならい。  「第十に善知識に値ひて仏に成るべし」  「第十一に法華経を行すべし」  「第十二に弥陀を称念して仏道を成ずべし」  極樂といふは弥陀の浄土である、往生を願はむ人は皆心を一にして念仏を唱ふべしといふのであります。  天台宗の実際  かやうに「寶物集」に挙げてある往生の十二門といふものは、前にお話を致した通りに、法華経を読む、それから真言の行を修める、それからして禅観を修する、それから菩薩戒を持つ、それからして念仏をするといふ天台宗の実際と同一のものであります。  それ故に康頼の「寳物集」に記載してあるところは畢竟するに、天台宗の教説が通俗化せられたものであると申してよいと思はれます。天台宗の実際は法華経読誦、真言行、禅観修、菩薩戒、念仏の実施であるといふべきでありますが、「寳物集」には更にそれが通俗的に示されて居るのであります。  それ故に観仏と念仏とは同じ程度に行つたやうでありまして、それは所謂釈迦教であります。ところが今私がお話を続けて居るのは釈迦教でなくして弥陀教であります。  さうして私の考へでは釈迦教といはれるものは本当の意味に於て、そのまま宗教にはなつて居ないもので、弥陀教といはれるものこそ我々の心持に真実の宗教になつて現れる心持であると、かう考へて居るのでありますが、それも釈迦教の心持から転入するものであります。そこで釈迦教の心持につきて段々とお話をすすめて居るのであります。  道徳の心  仏道を修むるには先づ菩提心といふものを起さなければいかない。仏にならうといふ願がなくてはいかない。釈尊の説かれた戒律といふものを堅く持たなければいかない。  又いろいろ長い間に造り上げた業障を懺悔をしなければならぬ、或はゑらい人に會うて教を聞かなければならぬ、或は法華経を積まなくてはならぬ、或は念仏を申さなければならぬと、かういふ風に説かれるといふことはまことに道理至極のことであります。  誰人でも自分の心がよくないといふことを、自分で知つたならば、どうにかしてその悪い心をよくしようと考へることでありませう。悪いといふことを知らなければ兎も角も、巳に悪いといふことを知つたならばそれを直さうとする心が必ず起きて来るのであります。  これは全く道徳の心でありまして、釈迦教に説かれるところもその大部分はこの道徳の心を離れないものであります。悪るい心を止めなければならぬとして、或はその悪い心持は世間から起る、家があり、妻子があり、いろんなことで苦しみが起るのであるから、家を捨て世を離れて自分の心を悪くする原因を取つたらいいと斯ういふ心持は起ることでありませう。  出家遁世といはれるのはこの心持であります。しかし何をやつても思ふやうにいかぬ。さうすれば仏の力により、仏の慈悲にすがつて行くより外には仕方がないとして念仏を申すといふことになるのでありますが、その全体が道徳の心であります。言い換れば廃悪修善の教であります。  智光と頼光  奈良朝時代奈良の元興寺といふお寺に智光と頼光と二人の学生が居りました。智光は学者でありましたが頼光はさうでなかつたと伝へられて居ります。この二人は一緒に勉強して居つた、部屋も同じことでありました。  ところが、頼光は年を取るまで学問もせず、物を言はず、唯ごろごろ寝てばかり居りました。そこで頼光が不幸にして死亡したときに、智光が考へるのに、頼光といふ人間は学問もせず、物も言はず、唯寝てばかり居つて死んだのであるから、今何処に生れて居るであらうかとしきりに心配しました。  何しろ自分の友達だから智光は頼光がどんなところに生れて居るだらうと心配して居りました。ところが或る夜の夢に頼光の居る所に行きました。行つて見ると実に立派な所でありました。  これが極樂と聞いた所によく似て居ると思いました。そこで智光は頼光に向ひてここは何処だと聞きました。さうすると頼光が言ふに、これは極楽である、お前が自分の生れて居るところを知らうと思つたから、知らしてやるのである。  しかしお前はここに居るべきものではないから早く帰れといひました。さうすると智光が驚いて、自分は一生の間極樂に往生しようと願つて居るのである。それに極樂に来たものは直ぐに帰れとは何事かといひました。  さうすると頼光が言ふに、お前は行業してゐないからここに居られない。つまりここに居る資格がないのだから帰れといふのであります。  智光は驚いてお前は学問もせず、物も言はず、唯々グウグウ寝て居つてさうしてここへ来たのはどういふ訳かと聞くと、頼光がいふやうに、いや自分は元興寺で仏教を修行する時初めいろいろなお経を聞いて見て、どうかして極樂に生れよう、願つたところが、それは学問で行けるとこでないといふことがわかつたから、それで物を言はなかつた、唯弥陀の相を思い、弥陀の慈悲を思い、死んだならば必ず弥陀の国に行くといふことを唯念願して居つたから、それだから寝て居つたのである。  お前はいろいろな書物を読んで、こうして義理をよく知つたけれども、いくら智慧が十分にはたらいて居つても心が散慢して居るから駄目である、早く帰れと言つたのであります。  智光は驚いて、それならばどうすれば往生が出来るか友達の情で教へてくれと頼むだ。さうすると頼光はさういふことは自分の知つたことでない、若しそれが知りたければ直接に仏様に問へと言つて、頼光は何処からか仏樣をつれて来た。  さうしてその仏が智光の前に出られたから、どうしたら極樂に行くことが出来るのかと聞いたら、仏様の曰く、仏の莊厳を念じろ、浄土の莊厳を念じろとあつたので、頼光がそれは凡夫の心では迚も出来ませぬから、どうしたらよいでありませうかと聞いたので、仏は何とも言はないで、自分の右の手を挙げて、右の手の中に小さい極樂を見せられたと、かういふところでその夢が醒めたと、かう「今昔物語」に記載してあるのであります。  固よりこれは一とつの夢物語でありますが、しかしながら学間によりて宗教の心があらはれるものでないといふことを明かに示して居るのであります。  教信沙弥  今一とつの話は、摂津国の島の下の郡に勝尾寺といふお寺がありまして、その寺に勝如といふ上人が居られた。道心が深くして、別に草庵を造つて十年間その庵に居つて六道衆生のために無言の行をして居られた。  ところが、或る夜、人が来て戸を叩く、中では無言の行をして居るのだから物を言ふわけに行かぬ、それで咳拂ひをしてこの家に人が居るといふことを知らした。  さうすると、戸を叩いた人が「私はこれ播磨の国賀古の郡の賀古の驛の北の辺に住みつる沙弥教信なり、年来弥陀の念仏を唱へて極樂に往生せんと願ひつるに、今日極樂に往生す。上人も亦某年某月某日極樂に迎へを得給ふべしと、この事を告げんがために来たるなり」と言つて帰つたのであります。  勝如上人は大変に驚かれまして、そこで無言の行をやめて弟子の勝鑑に命じて加古の驛へいつて見せしめられました。なるほど賀古の驛の北の方に小さい庵があつて、その前に死骸が転がしてある、家の中に一人の婆さんと一人の子供が泣いて居たのであります。  勝鑑が驚きてその故を問ふたのに答へて、「彼の死人はこれは我が年来の夫なり、名を沙弥教信といふ、一生の間弥陀の念仏を唱へ、晝夜忘ることなかりき、それ故に里人は皆教信を呼で阿弥陀丸といひしが、今夜死す、この童は教信の子である」と言いました。  勝鑑がこれを聞いて直ぐ勝尾寺へ帰つて勝如上人に告げた所が、勝如上人は涙を流して「十年の無言の行も教信の念仏に及ばぬ」と言つて、熊々教信の所に行つて念仏を唱へられたのであります。  かういふ話が書いてあります。くわしいことはわかりませぬが、兎も角も学問によらないで、又観念によらないで、ただ念仏といふものを申して安心の生活をした人であります。その心はまさに弥陀教の念仏であります。しかしながらそれはどういふ意味であるかといふことを詳しくお話することはこれから後に段々と致すことであります。  源氏物語  この前お話をいたしたのは沙弥教信、それは僧侶でなく、しかも俗人でなく、僧と俗との中ほどに居る人で、仏道を修めてゐた人が、平安朝の頃に随分澤山居りました。それを沙弥といふのであります。  その沙弥の中の教信といふ人のお話を致しました。それから康頼の「寶物集」のお話をしたのでありますが、それは専門家でない平康頼が仏教のことを書いて居るのでありますから、その頃天下に行はれて居つた仏教といふものが、専門家以外にどういふ風に伝つて居つたか、少なくとも民間の人がどういふ風にそれを知つて居つたかといふことを見るために、そのことをお話をいたしたのであります。  その外に、平安朝から鎌倉時代の頃にかけて、仏教の専門の書物でないものの中に書いてあるところをも少しばかりお話致さうと思ふのであります。固より多くの書物を挙げてこれをお話するのではありませぬ。ただその主なもので多くの人々に知られて居る書物を申上げるのであります。  その第一は「源氏物語」でありますが、これは紫式部が作つたもので、紫式部は誰も知つて居る人でありますが、その親も文学の天才であつた人であります。兄の推規といふものも文才があつたのであります。  紫式部自身も文学の天才のあつた人であります。藤原宣孝といふものの妻となつて女の子が二人あつたのでありますが、宣孝が早く死んだので後家さんになつて、一生後家さんで通したのであります。  上東門院に仕へて居るうちに「源氏物語」といふものを作つたのでありますが、これは隨筆のやうなものでありまして、その中には自分の考を書いた所もあるし、又自分の伝記のやうなこともあるし、その当時の風俗を写したやうなところもあるし、いろいろな方面からこれを見ることが出来ませうが、その夕顏の巻に、夕顔の上が死なれて四十九日の仏事を比叡山の法華堂でした。  そこで博士に願文を作らして死んだ夕顏の上を極樂に送つて阿弥陀仏に頼むといふ一段があります。その記事に「その人となくして、哀しと思ひし人のはかなきさまになりにたるを、あみだ仏にゆづり」ゆづりと書いてあります。それから「きこゆるよしあはれげにかき出てたまれば」斯う書いてあります。  夕顔の上が死んで、その死んだ人間を極樂に送つて、さうして阿弥陀仏にゆづるといふのであります。ゆづるといふのは、現在では兎も角も後の世は仏の力によらなければならぬといふ意味でありませう。  それから榊の巻の所に光源氏が女君の許にて「この世の濁をすすき給はざらむと、物の心を深く思ぼしたどるにいみじく悲しければ」斯ういふ風に書いてありまして、それから「何わざをしてしるべき世界におはすらむ、おとぶらひにまうでて罪にもかはり聞へばやなどつくつく思ぼす、かの御ためにとり立てて何わざもしたまはむ日は人とがめ聞えつべし、内にも御心のおにに、思ぼすところやあらむと、思しつつむほどに、阿弥陀仏を心にかけて念じ奉り給ふ同じ達にとこそは」といふ文章で、「なき人をしたふ心にまかせても、かげ見ぬ水の瀬にやまどはむ」といふ歌がそれにつけてあるのであります。  その意味は、阿弥陀仏の慈悲の力によりて未来は必ず功徳を得よとかういふのでありませう。さうして一番終の夢の浮橋といふ巻の中には、世の中といふものは夢幻のやうな無相なものであるから、そこで煩悩即菩提、生死即涅槃といふことをよく悟つて仏の国に往生しなければならぬといふやうなことが書いてあるのであります。  無論此書は仏教のことを書いた書物でないといふことは言ふまでもないことでありますが、しかしその中に書いてある所を見ると念仏を申して未来を助かるやうにといふ思想が明かに認められるのであります。  和泉式部  上東門院に仕へた婦人の中に和泉式部といふ人があるのであります。この人は藤原保昌といふ人の妻で、歌の才に長じた人でありました。その頃有名な播州の書写山に性空といふ高僧が居られました。その性空上人を一條天皇の中宮である上東門院が訪問せられたときに、和泉式部も随行したところが、性空上人が會はれなかつた。そこで和泉式部が、   暗きより暗きにぞ入りぬべき      はるかに照らせ山の端の月  といふ歌を作つた。これは仏教の大切なお経である「法華経」の中に、暗きより暗きに入りて長く仏名を聞かず(從冥入冥永不聞仏名)とあるのを引いて申したのであります。我々が暗いところから暗いところに入つて到底仏の名を聞くことがないといふ意味であります。ところが性空上人がこの歌を見られて出て會はれました。さうして仏の教を説かれましたので、上東門院も、和泉式部もそれを聞いて大変に喜んで山を下りたといふ話が伝つて居るのであります。   名にしおはは五つのさはりあるものを     うらやましくも上ほる花かな  比叡山は女人禁制で婦人は登ることが出来ない、それは婦人には五つの障があるために叡山に上ることが出来ないのに、花が勝手に山の上に上つて居る、まことに羨ましいといふ意味でありませう。別に書いたものが伝つて居るわけではありませぬから、和泉式部がどれ位の程度まで仏教のことを知つて居つたかわかりませぬけれども、しかしながら和泉式部がよむだ歌は澤山に残つて居りますから、その歌を読んで見ると大体想像がつくのであります。   いかにせむいかにかすへき世の中は     そむけはかなし住めは住みうし   露を見て草葉の上と思ひしは     睛まつほどの命なりけり  実に諸行無常の有様を強く言葉にあらはして居るのであります。この罪の身は仏の身にまかして常住不変の浄土に往生するといふことがねがはしいといふやうなことを考へたのでありませう。   物をのみ思ひの家を出てこそ     のどかに法の声もきこゆれ  我々は始終物を思ふのであります。いろいろのことを考へ、いろいろの心配をするのであります。いろいろなはからひをするのであります。この思ひの家を出てはじめてのどかに法といふものが聞える意味でありませう。  枕草紙  清少納言の「枕草紙」の中には、法華八講のことが書いてあります。これはその当時非常に流行つたものでありまして、つまりお経を読む、それから禅観を修する、それから供養する、それから参籠と言ひましてお寺に入る。殊にこの頃多く行つたのは、石山寺、京都の清水寺、さういふところに参籠するのであります。これは前にも申した通りに、天台宗の教では兎も角も、その頃実際やつて居つたことは法華経を読むことと禅観を修することと、真言を修することと、念仏を申すことと、戒律を保つこと、これをやつて居つたのでありまして、それがその当時の仏教の実際でありました。「枕草紙」の中には又、   陀羅尼はあかつき読経は夕ぐれ  と書いてありますが、その意味は真言修法といふものは朝早くやつた方がいい、お経は夕暮読んだ方がいいといふ自分の心持でありませう。それから、   修法は仏眼真言などよみたてまつりたるなまめかしうたふとし   遠くて近いものは極樂   尊くと思はれるものは九條錫杖と念仏廻向  かういふことが列挙してあります。これによりて見ましても、死しては極樂に往くことを願ひ、現には修法をなし、念仏を申すことなどが尊とく見られて居つたものでありませう。  今樣  この頃、今樣といふものが流行つて居りました。これは後の今樣とは異なりて、歌ではありますけれども、主に仏さんのことを歌つたのであります。さうしてその中には阿弥陀仏がかなり多かつたのであります。「梁塵秘鈔《りようじんひしよう》」といふ書物の中に載せてある今樣の中に「阿弥陀仏の誓願ぞ、返す返すも頼もしき、一度仏名を称ふれば、仏にするぞと説き玉ふ」といふ今樣があります。  「弥陀の誓ぞ頼もしき、十悪五逆の人なれど、一度仏名を称ふれば来迎引接疑はず」かういふのもあるのであります。この今樣を一種の節で歌つたのであります。後の御詠歌、今の唱歌の類であります。  「極樂浄土は一所、勤めなければ程遠し、我等が心の愚にて、近きを遠しと思ふなり」かういふのもあります。「源平盛衰記」は少し後ちに出来た書物でありますけれども、その中にも今樣が載せてあるのであります。  その今樣は「心のやみの深きをば、燈籠の火こそ照すなれ弥陀の誓をたのむ身は、照さぬところもなかりけり」といふのであります。それから源平二氏の時代に「往生講式」といふ書物が行はれて居りましたが、その中にも幾つも今様は載つて居るのであります。  想仏恋  想仏恋といふのがあります。これは古の催馬樂の踊りであります。その踊りに合せて謠ふのでありますが、その歌は、「我等ひまなし弥陀仏ぞ恋しき、此仏を常には忍ぶ必ず来り蓮に迎へよ、心かけ常には忍ぶ必ず来りてはちすに迎へよ」といふ類であります。古の催馬樂の舞踊の調子であります。斯ういふ種類のものが澤山あるのであります。  謡曲  それから謡曲《うたひ》といふものが、これは早いのは鎌倉時代に出来、多くのものは足利時代に出来たのでありますが、その中には儒教に関するものが澤山にあります。  その中に柏崎といふ題のものがあります。これは柏崎に居つたある女の夫が死んで、その子が坊さんになつて信州の善光寺に行つた所が、そのお母さんが気狂ひになつて、善光寺に尋ねて行くといふ筋のものであります。   僧「いかに狂女御堂の内陣へは叶ふまじきぞ、急いで出て候へ」 さうすると、  シテ詞「極重悪人無他方便唯称弥陀得生極樂とこそ見へたれ」  狂いたる母はかう言ふのであります。極めて罪の深い我々は他に手段といふものはない、唯阿弥陀仏の名を称へることによつて極樂に生れることが出来るといふことであります。   僧「是は不思議の物狂い哉、そも左様のことをば誰が教へけるぞ」  気狂ひがかやうなことをいふので、坊さんがまことに不思議な気狂だ、さういふことを誰が教へたかと聞くのであります。   シテ詞「教へは本より弥陀如来の御誓にてはましまさずや」  そこで教といふものは弥陀如来の御誓ひであると答へたのであります。   「唯心の浄土と聞しときは、この善光寺の如来堂の内陣こそは、極樂の九品上生の臺なるに女人の參るまじきとの御制戒とはそもされば如来の仰せありけるか、よし人には何ともいへ、声こそしるべ南無阿弥陀仏」  そこで以てシテと地と交代で言葉をいふのであります。   シテ「釈迦は遣り」   地「弥陀は導く一筋に、ここを去ること遠からず、ここは西方極樂の内陣に、いざや參らぬ、光明遍照十方の誓ぞしるき、此等の常の撥影たのむ」  お経に書いてあるやうなことが書いてあるのであります。この謡曲は時代が随分後ちでありまして、法然上人の浄土往生の教が大分民間に拡つてから後のことでありませう。  念仏往生  前にも申した通ほりに、この汚い身体と悪るい心とを弥陀にゆづつて、さうして弥陀の誓願によつて弥陀の国に生れることを願ふといふ考へは、平安朝の未より鎌倉時代にかけては広く行はれたものであります。  これを纏めて念仏往生といふのであります。一方に於てはこの念仏往生に対して諸行往生といふものが行はれて居つたのであります。天台宗では諸行往生を主としたのでありまして、お経を読むとか、或は真言を修するとか、或は禅観を修するとか、さういふ風なことをして、さうして仏になることが説かれるのであります。前にも申した通ほりに、その中に念仏といふものがあるのでありますけれども、それは矢張り一つの行であつたのであります。  如法修行  かやうに叡山では諸行往生といふことが説かれて居るのに、それが山の下の方では念仏往生といふことが頻りに行はれて居たのでありますが、諸行往生といふことになると、如法修行といふことが必要であります。  しかるに如法修行をしようといふことが、真面目であつたならば、自分のやうなものにはそれが出来ないといふことに気がつくのであります。自分の心を内省して如法修行が覚束ないと知るときに、仏の名を称へて往生すべしといふ言葉はその儘直ちにこれを受取ることが出来るのであります。  ただ如法修行といふことをのみ心にとめて法の如くに修行しやうに努力するものは、その機の如何につきて顧慮せぬのであります。若し機の如何につきて顧慮するときは諸の行を修めなければならないが、しかしそれを修むることが出来ないとわかるのであります。  さうすると「極重悪人他の方便無し、唯仏の名を称へることによつて往生することを得るのみ」といふ言葉がその儘に受け取られるのであります。諸行往生といふものはそれを教として自分が努力するのみのことでありますが、念仏往生といふことはそれが全く我々の心に受け取られて、「もう他の方便はない、念仏して往生するのみだ」といふことになるのであります。  易行道  そこで再び「寶物集」のことに返るのでありますが、「寶物集」に仏に成る道を十二ほど挙げて、その最後に「弥陀を称念して仏道を成すべし」とありまして、念仏といふことが出て居るのであります。  さうしてその説明がしてあるのを見ますと、「経論を習ひ読む功徳も無量無辺にして道に至る道なり、然れども師なくしては習ひがたく本なくては読む事なし」お経を読むことが功徳であるから仏になることが出来るのでありますけれども、師匠がなければ習ふことが出来ない、本がなければ読むことが出来ない、「念仏は師なしといへども忘るる事なし本なしといへども勤め安く、この度成仏の願を遂げん事叶ひがたきに依りて、先づこの念仏の功徳を以て極樂の衆生と生れて三途の故郷へ帰らずして漸々に功徳増進して、等覚妙覚の位まで至らん事を思すべきなり」とかう書いてあります。  まことにかやうな念仏は易行道であると言はねばなりませぬ。真面目に生死の苦を離れようとそして一生懸命に努力しようとして、常にその努力が無効であるといふことに気がついて、最早如何ともすることの出来ぬところへ、仏の名を称へればそれで苦しみの世界から離れることが出来るといふことを聞くならば、一も二もなくそれに行くにきまつて居るのであります。  往生要集  それから「寶物集」には「弥陀を称念して極樂に往生することを話せり、細かには恵心僧都の往生要集に見えたり」と書いてあります。恵心僧都のことは巳に大略お話致しましたが、その「往生要集」は恵心僧都がその汚ない国を厭ひ離れて極榮を願ひ求めるがよいと言はれた空也上人の言葉にひどく感ぜられて、「厭離穢土、欣求浄土」といふ文句を第一に置いて書かれたのであります。  それ故に「往生要集」は穢ない国を厭ひ離れるといふことと、淨らかな国を願い求めるといふことと、その兩方を詳しく書いてあるのであります。  浄らかな国といふのは仏の国であります。穢ない国といふのは我々の国であります。しかしながら、これは皆我々の心の問題でありますから、国と言つても心のことを言ふのであります。  仏の国といふものは要するに、仏の心であります。穢ない国といふのは我々の心であります。浄らかなる国を極樂といひ、穢ない方を地獄といふのであります。  地獄極樂  そこで「往生要集」には地獄の相と極樂の相とが詳細に叙述してあります。無論地獄極樂といふことは、前から人の知つて居つたことであり、固より、「往生要集」に初まつたことではありませぬけれども、しかしながら世の中の多くの人が地獄極樂といふことをよく知るに至つたのはこの「往生要集」といふ書物が出来てからのことであります。  「往生要集」は漢文で書いたものでありますけれども、しかし仮名で書いたものも古くから行はれて居るのでありまして、それには地獄の絵などが載せてありまして中々恐しいのが澤山あります。さういふやうに「往生要集」が主となりて念仏往生といふことが段々と広まつたのであると言はなければなりませぬ。  横川法語(上)  恵心僧都の「往生要集」はかやうに穢ない国を厭ひ離れて浄らかな国に生れることを願ひ求めるべきことを説かれたので、それは全く念仏往生の説明に外ならぬものでありますが、まことに詳細なものであります。それを極めて簡単に約められたものが法語として行はれて居ります。  「横川法語」といふのがそれであります。恵心僧都の伝記によりますと、「此法語は元往生要集の肝要をつづめて愚かなるもののために書あらはし給へるなり」と書いてあるのであります。  「往生要集」の要点をば極めて肝要なところをつづめて愚かな人のために書かれたものであります。それでその次に、「しかれば往生要集を披覧するに堪へざるひとびとはこの法語を熟覧して翫味すればおのづから要集の意趣を得たるに異ならず、往生をねがふ人の安心起行この一紙の法語において必せりつくせり」と書いてあります。つまり「往生要集」の意味が法語であるといふのでありますが、その全文は次の通ほりであります。  「夫一切衆生三悪道をのがれて、人間に生る事大なるよろこびなり」  三悪道は地獄、餓鬼、畜生であります。  「身はいやしくとも畜生におとらんや、家はまづしくとも餓鬼にはまさるべし、心におもふことかなはずとも地獄の苦みにはくらぶべからず、世のすみうきはいとふたよりなり、人かずならぬ身のいやしきは菩提をねがふしるべなり、このゆゑに人間にうまるることを悦ぶべし、信心あさくとも本願ふかきがゆゑに頼めば必ず往生す。念仏ものうけれども悟ればさだめて来迎にあづかる功徳莫大なり、此ゆゑに本願にあふことをよろこぶべし、又妄念はもとより凡夫の地躰なりと、妄念の外に別の心もなきなり、臨終の時までは一向に妄念の凡夫にてあるべきぞとこころゑて念仏すれば来迎にあづかりて蓮臺にのるときこそ妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ、妄念のうちより申しいだしたる念仏は濁にしまぬ蓮のごとくにして決定往生うたがひ有べからず、妄念をいとはずして信心のあさきをなげきこころざしを深くして常に名號を唱ふべし」  かういふ風に簡単で、しかも明瞭に念仏往生の意味が書いてあるのであります。  横川法語(中)  いくら卑しい身に生れたにしても畜生より上である、又幾ら貧しき生活でも餓鬼には勝つて居るのであります。心に思ふことが叶はぬことが澤山ありましても、地獄の苦しみにくらぶれば物の数ではありませぬ。  世の中の住みにくいといふことはそれを厭ひはなれる原因になるものであり、人かずならぬ身のいやしきは菩提を願ふしるべとなるのであります。それ故に、我々は人間に生れたといふことをばよろこぶべきことであります。  我々の信心はあさくとも本願が深いのでありますから、たのめば必ず往生するのであります。念仏も申しにくいこともあり、なまけることもあるけれどもしかしながら称へれば必ずたすかるのであります。  それだから本願にあふことを喜ぶべきであります。又我々の心を見ると実に煩悩具足でありますが、しかしながら妄念は凡夫の地躰であります。妄念の心の外に凡夫の地躰はないのであります。  それ故に死ぬるまでは必ず妄念の凡夫でありますから、ただ念仏するより外はありませぬ。念仏して居れば必ず仏の来迎にあづかる。仮令妄念のうちで申す念仏でも、それは蓮が池の濁にしまぬ如くである、それ故に妄念といふものには心配せずただ信心のあさいといふことをなげけといはれるのであります。  横川法語(下)  かやうな法語の文章をそのままに見るときは、我々の心持といふものは実に穢ないもので、さうして始終散乱するのである。さういふ心持を持つて幾ら念仏を申しても、その念仏といふものは役に立たないものであらうといふやうなことを考へないで、妄念は凡夫の地躰で、何時まで経つてもやまないから念仏すれば必ずたすかるのである。  往生決定疑ひないのである。かやうに妄念をいとはず、唯信心が深いか、浅いかといふことを考へるべきであります。かういふ言葉はそれを口にする人の全体の態度を明かにせねばその真相が窺はれぬものであります。  それ故にこの横川法語の意味を解釈するには恵心僧都の全体の態度を明かにすることが必要であります。  口称の念仏  恵心僧都の伝記に次のやうな話が載つて居ります。菅原文時といふお公卿さんは大変に文学が上手で詩など作ることの名人でありました。しかるに、仏教には至つて心の薄い人であつた。  ところが年を取つて病気になりました、もう死ぬといふ時になつて、その子の宰相某が、恵心僧都の所に来て、どうか自分の親に仏教の法を説いて貰ひたいと願つたのであります。  恵心僧都はその子の心に感じられまして、そこで文時に対面せられました。さうして恵心僧都が言はれるのに、私は横川に持仏堂を建てましたが、その障子の色紙に観無量壽経に書いてあるところの九品のことを詩に作つてその壁に貼らうと思ひます。  さうしてそれを貴方に頼まうと思つて居るが、しかし貴方は病気だからとてもその願は叶ふまいと思ひます、と言はれました。ところが菅原文時が言ふのに、いや病気でも詩は作れませう。詩は作れませうけれども、私は九品といふことを知らない、一体、九品といふことはどういうことを言ふのですかと言はれた。  そこで恵心僧都は九品の話をせられました。上品、中品、下品、この三品に上、中、下があり、併せて九品となるのでありますが、その下品、下生といふのは、一生涯の間悪いことのみをして一つといいことをしない、人が死ぬる前に火車が迎いに来て、さうして地獄から獄卒がその火の車に乗せて追い立てて行く、その時に善知識が念仏を申せと勸められても、その人はもう苦しいから念仏することが出来ない、その時に善知識即ちゑらい人が、ただ口に南無阿弥陀仏と称へよといふに、十唱称ふる時に地獄の火の車たちまちうせて満涼の風と変じ即ち極樂の不退地に往生し、なかなか此三界の火宅をはなる」といふのが下品下生であります。  恵心僧都がこの話をせられたのを、文時はそれを聞いて、さうすれば自分等のやうなものを往生は疑ひないことだと言つて、それから念仏を怠りなく申した、さうして往生を遂げられたといふのであります。この説明は善巧方便であるとも考へられるのでありますが、しかしながらこの話によつて恵心僧都の念仏が口称の念仏であつたといふことは明かに認められるのであります。  真率の態度  菅原文時が恵心僧都の言葉だけで動かされたやうに考へるのは一応尤のことでありますが、しかし言葉だけではさう動かされるものではないと思はれるのであります。動かさるべきものが菅原文時の心にあつたことは勿論でありますが、それよりも尚ほ重大であつたのは恵心僧都の真率なる態度であつたと思はれます。  恵心僧都は横川からして毎年の正月天皇陛下の行幸のあるのを拝観に出られたのでありますが、妹の安養の尼がそのことをあやしまれて恵心僧都に向ひて言はれるのに「君はきはまりなき道心の人である、何の為に年毎に出て朝観の行幸を見給ふぞ」それに対して恵心僧都が言はれるのに「昔の十戒のちからによりて今十善の位に生れ給へるなつかしさに見奉るのである。又大臣公卿はじめあやしの唐傘もちたるものにいたるまで前世の戒力によりて上下の差別あるをみるにつけて、過去遠々の流転のことをのみ観ぜらるるゆゑなり」上の方を見れば天皇陛下、下の方を見れば物の数にも足らぬ唐傘持に至るまで、上下の区別がついて居る。  それは過ぎ去つた長い間その人達が流転した相に外ならぬものである。それをながめるために出て行くのであると、かう言はれたと伝記に書いてあるのであります。かういふやうに真率の恵心僧都でありますから恵心僧都が説かれた念仏往生は謙虚の心を本としてあらはれたもので、全く我を捨てて如来に帰命する心であつたことが思はれます。  念仏の頻拡  かやうに念仏が不安朝時代から段々と広く民間に行はれるやうになつたのは全く仏教といふものが漸次に宗教の性質を明かにするやうになつたためでありませう。固より仏教にはいろいろの論説がありますが、しかしながらその心の状態が念仏といふところまで来なくては宗教とはならぬのであります。  それでその当時の学者が仏教につきていろいろの説明をなし、又これに関する書物も澤山ありまして、種々なる解釈は、してあつたのでありますけれども、それを銘々心持の中に取込んでしまつたといふ場合には何時でも念仏でなくてはならぬのでありますから、さういふことからして念仏といふものが仏教専門家の手を離れて、段々と民間に広く拡つたのでありませう。  専修念仏  平安朝時代の末から源平二氏の時代にかけて戦乱がつづきたる頃、法然上人が出られて専門的に念仏といふことを説かれたのであります。この法然上人の念仏は専修念仏と申すのであります。  さうしてその専修念仏がどういふことであるかといふことを、これからお話をいたすのでありますが、それも念仏の教学上の説明をするのではありませぬ。専修念仏といふものが、どういふ心持であらはれるものであるかといふことをくわしくお話を致さうと思ふのであります。  法然上人  法然上人は美作の国の津山に近い田舎に生れた人でありまして、今でもそこに誕生寺といふお寺がありますが、その親に当る人がそこの土地の役人と喧嘩をして殺害されました。  死ぬる時に復讐してはいかぬ、こちらが復讐すれば又先方から復讐せられるのであるから、復讐することを止めて、出家をして菩提を弔つてくれといふやうなことを遺言して死なれた。  そこでお寺に入つて修行されたのでありました。ところが非常に偉かつたので田舎のお寺では持余して、まだ十四、五の頃に京都に赴むき比叡山に登つて天台宗を学ばれたのであります。  しかるに出離の志が深かつたといふことが伝記に書いてありまして、天台宗の学問をして、いろいろなことを知つたけれども、どうしても宗教の心持が起きて来ないので、そこで又、勉学の方針をかへて、真言のことも研究し、華厳、法華、三論すべての仏教の学問を修められたといふことであります。  戒定慧  法然上人はかやうに仏教の学問を深く修めて、その学問は上達しましたけれども、出離といふことは出来なかつたのであります。このことにつきて上人の伝記に次のやうに記されて居ります。  或る時法然上人が言はれるのに、自分は出離の志が深かつたから、そこでもろもろの教法を信じ、もろもろの行業を修めた。そこで考へて見るのに仏教といふものも、所詮、戒定慧の三学を出ることはないと申された。  戒といふのは一口に言へば道徳であります。道徳堅固に身を修めることであります。定といふのは精神の散乱を鎮めるのであります。慧といふのは智慧を磨いてものの道理を明かに知ることをつとめるのであります。  結局、仏教といふものはこの戒定慧の三学を修めて行くのでありますが、これには小乗の戒定慧と、大乗の戒定慧、それから顕教の戒定慧と密教の戒定慧とがあると法然上人は言つて居られるのであります。  小乗であらうが、大乗であらうが、顕に説く教であらうと、顕に説かない教であらうが、皆戒定慧の三学に外ならぬものである。さうしてこれは皆釈尊の説かれることがさうでありますから、釈尊の説かれた教を指して仏教とするなら、仏教は戒定慧の三学を出るわけは無いのであります。  如法応機  釈尊の説かれたる法を見れば、此の如くに戒定慧の三学であります。しかしながら我々の機に応じて始めて我々の宗教となるものでありますから、機を知るといふことが第一肝要であります。  法然上人は「わがこの身は戒行にをいて戒をもたもたず、禅定にをいて一もこれをえず」と告白して居られるのであります。自分は戒定慧の戒といふものは一つも出来ないと自身の機をなげいて居られるのであります。  そこで法然上人は「人師釈して戸羅清浄ならざれば三味現前せずといへり、又凡夫の心は物にしたがひてうつりやすし、たとへば猿猴の枝につたふがごとし、まことに散乱して動じやすく、一心しづまりがたし、無漏の正智なにによりてかおこらんや」と自白して居られるのであります。  まことに我々の心が散乱しやすきことは猿が木の枝を飛び渡るやうに、動じ易い。道徳も堅固には修められないのであります。さういふやうな心の状態にして、どうして智慧を磨くことが出来ませう。  そこで法然上人は「若無漏の智劔なくば、いかでか悪業煩悩のきづなをたたんや。悪業煩悩のきずなをたたずば、なんぞ生死繋縛の身を解脱することを得んや。かなしきかなかなしきかないかがせん」と痛歎せられたのであります。  「ここに我等ごときは、すでに戒定慧の三学の器にあらず、この三学のほかに我が心に相応する法門ありや、我身に堪える修行やあると、よろづの智者をもとめ、諸の学者にとふらひしにおしふるに人もなく、しめすに輩もなし」と、法然上人が熱心なる要求に促がされてその機に応ずるの道をたづねられたのは当然のことであります。しかるに当時の学者は何れも法然上人が要求せらるるところのものを与ふることをしなかつたのであります。  専念仏名  法然上人は「なげきなげき経蔵に入り」と言つて居られますが、問ふてもそれに答へてはくれないし、考へても判ることではないから、そこで仕方なく経蔵の中に入つてかなしみかなしみ聖教を讃んだと言はれるのであります。  如法に見れば仏教は戒定慧の三学を出ない。戒律を保ち、精神を鎮静し、さうして智慧を磨くといふこと以外には仏教は何物もないのでありますが、それは自分の機に応じないから、どうしたら善いかと学者に聞いたが、一向それが判らぬ。  しかも出離の志が深かつたので、己を得ず自分でいろいろのお経を読んで見られたのである。さうすると善導大師の観無量壽経を講釈した書物の中に  「一心専念弥陀名號、行住坐臥、不同時節久遠、念々不捨者、是名正定之業順彼仏願故」  の文句が見つかつたのであります。  一心に専ら弥陀の名號を念じ、行住坐臥、時節の久遠を問はず、念々捨てざるもの、これを正定の業と名づく、彼の仏の願に願するが故に、斯ういふ言葉を見出されたのであります。  さうして、法然上人は、この言葉、殊に彼の仏願に順ずるが故にといふことがすごく自分の心に当つたのであると言はれたのであります。  「文をあふぎもつぱらこのことばをたのみて、念々不捨の称名を修して決定往生の業因を備ふべし、ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく弥陀の弘願に順ぜり。順彼仏願故の文ふかく魂にそみ心にとどめたるなり」  と自白して居られるのを見てもこれを推察することが出来るのであります。  念仏為本  そこで、法然上人は恵心僧都の「往生要集」を読まれたところが、この書物の中に「往生之業、念仏為本」とあるのを見つけられた。又恵心僧都の「妙行業記」の中にも往生之業は念仏を先となすと書いてあるのを見つけられた。  そこで法然上人は念仏が仏の本願に順ずるものであることを知り、念仏することによりて出離の目的を達することが出来るといふことがわかつたのであります。  善導と恵心  法然上人は覚起僧都が恵心僧都に問はれたことを挙げて、「念仏といふものは、それは事を行ずるのか理を行ずるのか」との問に対して恵心僧都が「こころ萬境にさへぎり、ここをもて我ただ称名を行ずるなり、往生の業には称名尤も足れり」とあつたのを引いて「我々の心は萬境にさへぎられるから心を信ずるのではない、本願をたのむのである。ただ仏の名を称へるのである」言ひて、更に「然らば則ち源空は大唐の善導和尚のをしへにしたがい、本朝の恵心の先徳のすすめにまかせて、称名念仏のすすめ長日六萬返なり」と言はれたのであります。  称名念仏  かやうにして、法然上人は、念仏を以て出離の志を滿足することが出来たのでありますが、それは全く支那の善導大師が教へられた念仏でありました。我国では恵心僧都の「往生要集」に書いてあるところの念仏でありました。  この念仏は、それより以前に行はれて居つたところの観念の念仏に反して、称名の念仏であります。仏の相を観じ、仏の功徳を念ずるのではなくしてただ仏の名を称ふるのであります。  固より法然上人より以前には称名念仏を明かに称へた人はなかつたのでありまして、法然上人はこれを一つの宗派にせられたのであります。勿論他の宗旨でも、念仏はして居つたのでありますが、しかしそれを独立の宗派としては居なかつたのであります。  浄土宗  巳に前にも申した通ほりに、観念の念仏といふものは、本当の宗教の意味を有するところのものではありませぬ。本当の宗教の意味を有するところの念仏は称名念仏であります。  そこで法然上人はこれを一つの宗派として、新に浄土宗といふ宗派を立てられたのであります。ところがそれに大変議論がありまして、何れの宗旨にも、念仏をして居るのに、更に念仏を以て一つの宗派を起すのはよくないといふ異論がありました。しかしながら、その異論は法然上人が説かれたる念仏の意味が当時の人に十分にわからなかつたためであらうと思はれるのであります。  観念の念仏といふものが頭に這入つて居る人々が多かつた時代でありますから、念仏といひましても、仏の相と功徳を念じてさうしてその仏に縋らう。その仏のお慈悲を頂かうといふ心持で仏の名を唱へたのであります。法然上人はさういふ念仏でないといふことを、強く唱説せられたのでありました。  ただの念仏  法然上人の念仏はただ仏の名を唱へるのであります。ただ仏の名を唱へるといふことは、しかしながら口で言ふ時にはただ仏の名を唱へるのでありますけれども、心の中ではただではないのが多いのであります。  何か希望するところがありまして、仏の名を唱へれば幸福が得られるのだらう、その幸福を得たいために仏の名を唱へるものが多かつたのであります。少なくとも死んだ後に地獄に堕ちないやうに、極樂の方に行つて安樂の生活がしたいなどといふやうな希望を持つて仏の名を唱へたものが多いのであります。  ただ口で唱へて居るといひましても、その内容はただではないのであります。けれども法然上人は何処までもただの念仏といふことを主張せられたのであります。  明遍僧都  そこで、法然上人がどういふ意味で念仏といふことを言はれたのでありますかといふことを考へるために、明遍僧都に向つて法然上人が言はれたことをここに申し上げませう。  明遍僧都は、非常に偉い人でありまして、少納言通憲といふ人のお子さんであります。三十四の年に官を辞めて、さうして仏法に入られたのであります。当時無雙の碩学と評判せられ、四十五の時に僧都の位を授けられやうとしたのでありますけれども、かたく辞して命に応じなかつた。  隠遁の志が益々深くして、その年五十四歳の時に京都を退いて高野山に引込まれたのであります。ところが、その頃法然上人の「選擇集」といふ書物が公にせられまして、その中に専修念仏のことが詳しく書かれたのを、明遍僧都が読まれて、実にその議論が偏執であると悪口を言はれたのであります。  言ふまでもなく、仏教と言へば、戒定慧の三学を修めねばならぬのであるのに、煩悩といふものは取れなくとも善い、ただ仏の名を唱ふれば必ず往生するそれは仏の本願であるから往生に間違ひはないといふのは、まことに偏執の説であると駁撃せられたのであります。  重病者  かやうに、明遍僧都は法然上人の説に反対して居られたのでありますが、ある夜の夢に「天王寺の西門に病者のかずもしらずなやみふせるを、一人の聖の鉢にかゆをいれて匙をもちて病人の口もとにいるるありけり、誰人にかあらんといふに、かたはらなる人こたへて、法然上人なりといふと見て夢さめぬ、僧都おもへらく、われ選擇集を偏執の文なりと思いたるを、いましめらるるゆめなるべし、この上人は機と時を知りたる聖にておはしける」「法然上人伝」に掲載してあります。  明遍僧都が思はるるやう、法然上人といふ人は機を知つた人である、機といふのは法を受ける器でありますから、つまり我々の心であります。時といふことは釈尊から離れた末代の時代のことであります。  「病人の様ははじめには柑子、橘、梨子、柿などのたぐひを食すれども、のちにはそれもとどまりぬれば、わづかにおもゆをもちてのどをうるほすばかりに命をささへたり、かくこの書に一向に念仏をすすめくれたるこれにたがはず」  とあります。なる程、さう考へて見ると身体の丈夫なものはそれは固いものを食べられるが弱つて弱つて既に病の為に臥して居るものはおかゆでなければ駄目であります。  戒定慧の三学の出来る人ならばそれでよいとして、さうでないものにはただ念仏を勧めるといふことはまことに機を知つた聖であると考へられたのであります。  「五濁濫漫の世には仏法の利益次第に減ず、このこころはあまりに代くだりて我等のありさま、たとへば重病のもののごとし」  釈尊が死なれて後ち余程時代を距てて居るから、自分等は重い病気に罹つて居るやうなものである、  「三論法相の柑子橘もくはれず、真言止観の梨子柿もくはれねば、念仏三昧のおもゆにて生死をいづべきなりけりとて忽に顕密の諸行をさしをきて、専修念仏の門に入り、その名を空阿弥陀仏とぞ號せられたりける」  とあります。  明遍僧都はその夢によりて忽にして自分の考を捨てて法然上人の言はれるやうな専修念仏に入り名を空阿弥陀仏と名付けて浄土の教に這入られたのであります。  弥陀の他力  法然上人が天王寺に居られた時に、明遍僧都が善光寺に参詣の途次、大阪を通られたので、法然上人に対面して、  「このたびいかがして生死をはなれ候べき」と申された。  法然上人はそれに対して  「南無阿弥陀仏と唱へて往生をとぐるにはしかずとこそ存候へ」  と答へられた。そこで明遍僧都は、そのことは私も承知して居るのでありますが、  「ただただ念仏のとき心の散乱し、妄念のおこり候をばいかが候べき」  と質問せせられたのであります。  そこで法然上人は  「欲界の散地に生をうけるもの、心あに散乱せざらんや、煩悩具足の凡夫、いかでか妄念をとどむべき、その條は源空も力をよび候はず」  と申されて、妄念の起ることは是非に及ばず、  「心はちりみだれ、妄念はきをひおこるといへども、口に名號をとなへば弥陀の他力に乗じて決定往生すべし」  と申された。  明遍僧都はそれを聞いて「これうけたまはらんためにまいりて候ひつるなり」とて、明遍僧都は法然上人の許を辞されたのであります。  初対面であるのに、来た時にも挨拶せず、帰る時にも挨拶せず、世間普通禮儀の言葉を言はれずに帰られたので、そこに居つた弟子の人々は驚嘆したのであります。  生れつきの儘  さて法然上人は、うちに入つてさうして  「心をしづめ、妄念おこさずして念仏せんとおもはんは、生れつきの目鼻をとりはなちて念仏せんとおもはんがごとしそれは出来ることではない」  と、斯う言はれたのであります。これを以て見れば、法然上人の念仏といふものは、ただ口に南無阿弥陀仏と唱へることでありまして、それ以上に何も自分のはからひは入らぬのであります。うまれつきの儘にて申す念仏であります。しかしながら、当時までの念仏は言はば自分の修行の足らぬところを仏の他力にすがるのでありましたから、決してただの念仏ではなかつたのであります。それでただの念仏と聞いてもなほ不安でありまして、戒律を保ちて申す念仏と然らざる念仏とに、功徳の相異があるやうに思はれたのであります。  殊に魚を食つて口に魚の臭がして申す念仏でも善いかといふやうな質問がありました。さうすると法然上人は魚を食はないで往生するなら、猿が往生する、魚を食つて往生するのなら鶏が往生する、往生することは魚を食ふ食はぬといふことによらぬものであると教へられたのであります。  教阿弥陀仏  法然上人は、天野の四郎といふ嘗て強盗を働いたものが後に法然上人の弟子になつて、教阿弥陀仏と名乗つたものに対して、念仏のことを話されました。  それは或時夜中に法然上人が起きてひそかに仏の名を唱へて居られた、それを隣の室で教阿弥陀仏が聞いた、咳払をしたところが、法然上人はすぐに念仏を止めてしまはれました。  教阿弥陀仏は不思議に思つたのでありましたが、その訳を質す機會がなくしてその儘に過して居りました。  或る時法然上人が持仏堂に居られましたので教阿弥陀仏はそこに行つて「私は縁がなくして京都に住むことが出来ないことになりましたから、これから相模国河村といふところに私の知合の者が居りますから、その人を頼つて行かうと思ひます。  私も年を取つて居りますから最早貴方にお目にかかることも出来ないことと思ひます。私は無智文盲のもので教の深いことは判りませぬ、それを聞いたところが私には何にものも判らぬ、どうかお情に極めて要点のところを簡単に一言お示しを願ひたい、私はそれをかたみとして相模の国で終ります」と言つたところが、法然上人が言はれるのは  「念仏には深い意味はない、いかなる智者学生なりとも宗にあかさざらん、義をばいかでかつくりいだしていふべき、ゆめゆめ甚深の義あるらんと、ゆゆしく思はるべからず」  と申されました。それから又  「念仏はやすき行なれば申す人はおふからうとも、往生するもののすくなきは決定往生の故実をしらぬゆへなり」  と申されて、それから言葉を改めて「去月に又人もなくて御房と源空とただ二人ありしに、夜半ばかりにしのびやかに起居て念仏せしをば御房はきかれけるか」と聞かれました、さうして後「それこそやがて決定往生の念仏よ、虚仮とて、かざる心にて申す念仏は往生はせぬなり、決定往生せんとおもはば、かざる心なくしてまことの心にて申すべし、ふがひなきおさなきもの、もしくは畜生などにむかひては、かざる心はなけれども、朋同行はいふにをよばず。その外つねになれ見る妻子眷属なれども、東西を辨ふる程の者になりぬれば、それがためにかならずかざる心はおこるなり。人の中にすまんには、その心なき凡夫はあるべからず。すべて親きも疎も貴も、賤も、人にすきたる往生のあだはなし、それがためにかざる心をおこして順次の往生をとげざればなり」と申されました。  されば飾る心も何もなく、唯仏の名を唱へるのがただの念仏といふものであるといふことを示されたのであります。  かざる心  我々は他人と一処に生活して居りまして、他人に対して自分のことを飾るものであります。さうかと言つて世の中のことでありますから独り居るわけに行きませぬ。しかしながら、かざる心にて申す念仏は駄目である。そこで法然上人は  「いかがして人目をかざる心なくしてまことの心にて念仏すべきといふに、つねに人にまじりて、しづまる心もなく、かざる心もあらんものは、夜さしふけて見る人もなく、聞く人もなからん時、しのびやかに起居て百遍にても千遍にても多少心にまかせて申す念仏のみぞ、かざる心もなければ、仏意に相応じて、決定往生はとぐべき、この心を得なば、かならずしも夜にはかざるべからず、朝にても晝にても著にても、人のききはばからなからん所にて、つねにかくのごとく申すべし」  と教へられたのであります。  仏のみ知る  法然上人はかやうに、かざる心なくして申す念仏を説明して後に、更にそのことをくわしく説明せられたのであります。  「たとへば盗人ありて、人の財を思かけてぬすまんとおもふ心は底にふかけれども、面はさりげなき様にもてなして、かまへてあやしげなる色を人に見えじとおもはんごとし。そのぬすみ心は人まつたくしらねば、すこしもかざらぬ心なく、決定往生せんとする心も又かくのごとし。人おおくあつまりつらん中にても、念仏申すいろを人に見せずして、心にふるるまじきなり、其時の念仏は仏よりほかはたれかこれをしるべき、仏しらせ給はば、往生なんぞ疑はん」  と申されました。教阿弥陀仏はそれに対して  「決定往生の法門こそ心得候ぬれ、すでにさとりきはめ侍り、この仰をうけ給はらざらましかば、このたびの往生はあぶなく候まし、但この仰のごとくにては人のまへにて念珠をくり、口をはたらかす事はあるまじく候やらん」  と申し若し此教を承はらなかつたならば、この度の往生は出来なかつたのでありませう。仰のごとくこれからはその心を以て念仏申しませうと申したところが、法然上人が言はれるのに  「さういふことがよくない、念仏の本意といふものは常念が本であるのである、だから念々相続しなければならぬ。たとへば世間の人を見るにおなじ人なれども豪憶あひわかれて臆病の者になりぬれば身のためくるしかるまじき、聊のいかりをもをぢをそれて逃げかくれ、豪のものになりぬれば、命をうしなふべきこはき敵の、しかも逃げかくれなばたすかるべきなれどもすこしもおそれず、ひとしきりもせざるがごとし、これかやうに、真偽の二類あり、地躰いつはつ性にして、かざる心あるものは身のために要なき、聊の事をもかならずいつはりかざるなり。もとよりまことの心ありて虚言せぬものは、聊の矯飾しては身のためおほきにその益あるべき事なれども身の利養をばかへりみず、底にまことありてすこしもかざる心なしこれみな本性にうけてむまれたるところなり、そのまことの心のものの往生せんとおもひて念仏に帰したらんはいか成ぞ、いかなる人のまへにて申ともすこしもかざる心あるまじければ、この真実心の念仏にして決定往生すべきなり」  と申されたのであります。  念仏者の用心  それから、法然上人は念仏者の用心につきて  「念仏の行は行住坐臥をきらはぬ事なれば、ふして申さんとも、居て申さんとも心にまかせ時によるべし、念珠をり袈裟をかくることも又折により躰にしたがふべし、ただ詮ずるぞ威儀はいかにもあれ、このたびかまへて往生せんとおもひてまことしく念仏申さんのみぞ大切なる」  と説教せられたのであります。教阿弥陀仏は非常に喜んで合掌禮拝してそこを退きまして、さうしてその翌日法蓮房と申す法然上人のお弟子の所に行つて、暇乞をした時に、昨日法然上人から聞いた決定往生の話をしたのであります。  さうすると、その後法蓮房が法然上人に面會して教阿弥陀仏が私の所に来てかやうかやうのことを申しましたが、貴方はどういふことを教阿弥陀仏にお話になりましたかと聞いたのであります。さうすると法然上人が言はれるのに  「教阿弥陀仏は舊盗人と聞いて居つたから対機説法をした。ところが暇乞をして帰る時の態度などを見るとあの男は多分本当の念仏といふものが判つたやうである」  と申とれました。教阿弥陀仏はそれから相模の河村に帰つて長く生きて居りましたが、その命の終る時に同行に向つて  「自分の往生は決定して居る。必ず極樂に往生する、それは法然上人の教を信ずるが故である。一同の人々も法然上人に聞いて往生するがよからうと」  かう言つて合掌念仏して死んだのであります。同行が後に京都に行つて法然上人にその話をしたところが、「さうであつたらう、自分もあの男が帰る時に多分あの男は念仏の意味が判つたやうに思つたから、多分さうであつたらう」と言はれたといふことであります。  対機説法  明遍僧都のやうな学者に向つて言はれることと、天野の四郎といふ強盗の成り上りものに言はれたこととは大変に異ふやうであります。明遍僧都に言はれたのはただ何事もなく仏名を唱へるのである。天野の四郎に言はれたのはかざる心をやめて仏名を唱へなくては駄目だといふやうに、対機説法をして居られるのであります。  親の名を呼ぶ  要するに、法然上人の念仏といふものはその心を綺麗にして申す念法ではありませぬ。その行を修めて申す念仏でもありませぬ。念仏には何等目的を以てゐないのであります。ただ仏の名を唱へるといふ意味の称名念仏であります。  しかしながら、さういふ称名仏念が、我々の宗教の心持として最も進んだものでありませう。さういふ心持になりてこそ我々の宗教といふものが、本当の意味をなすものでありませう。  法然上人の専修念仏といふものは、ただ口に南無阿弥陀仏と唱へるといふことであるといふことをば先づお考へを願いたいと思ふのであります。さうしてただ南無阿弥陀仏を唱へるところに重大な意味があるのであります。  それは仏の本願であるからであると言はれるのであります。かやうにただ仏の名を唱へるといふ時に一切の我を捨てて居るのであります。人間の親がその子供に対して念願することはいろいろありませうが、それを引括めて言へば親の名を唱へるやうにといふことであります。  專修念仏の辨明  かやうに、法然上人が専修念仏を唱道せられたその時まで、専ら行はれて居つた念仏は、前に申した通ほりに観念の念仏、すなはち理観の念仏でありました。さういふ理観の念仏が行はれて居つたところに法然上人が、これを排斥してただ念仏して往生すると説かれたのでありますから、その教は多くの人々から反対を受けたのであります。  専門家の方からいろいろの議論が起りまして随分やかましくなつたのであります。そこで法然上人も自分の説くところが仏教の所説と相異したものではないといふことを弁明せられました。その中で、お弟子の聖覚法印に示されたものは次の通ほりであります。  三途の業  「一人一日中八憶四千念、念念中所作皆是三途業。かくの如くにして昨日もいたづらにくれぬ、今日も又むなしくあけぬ。いまいくたびかくらし、いくたびかあかさんとする。それあしたにひらくる榮花はゆふべの風に散りやすく、夕べにむすぶ命露はあしたの日に消えやすし。これを知らずして、つねにとかれんことを思い、これをさとらずして久しくあらむことを思ふ。しかるあいだ、無常の風ひとたび吹きて、有為の露ながくきえぬれば、これを拡野にすて、これをとをき山に送る。かばねはつゐに苔の下にうづもれ、たましゐは独りたびの空に迷ふ。妻子眷族は家にあれどもともなはず。七珍萬寶はくらにみてれども益もなし。ただ身にしたがふものは後悔の涙なり」。  法然上人は先づ、かやうに説いて、我々の心が真実より離れて居ることを示して居られるのであります。まことに時々刻々、あらはれるところの我々の念は一日に八億四千と数へ上げるほどの澤山のものでありませうが、それが一々、三途の業であります。地獄に堕つる種であります。かういふ業を日に日につくりながら、それをわきまへず、無常の世界に住みながら、常住の心を持ちて、夢のやうに暮して居ることはいかにも浅間しいことであります。  如来の金言  法然上人は、かやうに、我々の心が真実から離れて居る有樣を説きたる後に、それを救ふために釈尊が、一代の中にいろいろの法を説かれたことを挙げて、  「或は萬法皆空の旨を説き、或は諸法実相の心をあかし、或は悉有仏性の理を談ず、みなこれ経論の実語なり、如来の金言なり」  と言つて居られるのであります。釈尊以来、仏教として説かれて居るところは、いろいろに別れて、随分深い教になつて居るが、それは皆釈尊の実語であると言はれるのであります。  しかるに釈尊は  「或は機をととのへてこれを説き、或は時をかがみてこれをおしへたまへり」。  これを聞く人の心に応じてこれを説き、又時代に鑑みて、人を時とに適するやうに示されたのであるから  「いづれか浅く、いづれか深き、ともに是非をわきまへがたし、かれも教、これも教、互に偏執をいだくことなかれ」  と言つて、法然上人は各宗各派に説くところのものも皆、釈尊の金言であるから、それに深浅の判別をなすべきものではないと示して居られるのであります。  如説修行  釈尊は人と時とに応じて、理解の出来るやうに説かれたのであるから、いづれが深い、いづれが浅いといふ訳でなく、いづれも皆、釈尊の金言であるから、その教に説かれて居るやうに修行すれば皆悉く生死を離れることが出来る筈であります。  「説の如く修行せばみなことごとく生死を過度すべし、法の如く修行せばともに同じく菩提を証得すべし、修せずしていたづらに是非を論ずること」はよろしくない。  何れにしても釈尊の実説であるから、その説の通りに修行すればさとりを開くことが出来る筈であります。修行せずして彼此と議論することはよろしくないと法然上人は言はれるのであります。  応機  何れにしても釈尊の金言であるから、法の如くに修行すれば必ず悟を開くことが出来る筈であるから、修行せずして善し悪しを論ずることはよろしくない。しかしながら  「広く諸教にわたりて義を証せんとおもへば一期のいのちくれやすし」。  限りある命を持ち、限りある智慧にて、諸の教にわたつてその教の深い味を探らうとすれば一生涯の間にはどうもすることが出来ませぬ。それ故に、我々は自身の心に応じて、これを修むることの出来る教に從はねばならぬのであります。  如法といふことも固より大切でありますが、それは固より応機といふことを考へての後のことであります。いかなる尊とき教も、それが機に応ぜざるときは全く無益のものであります。  かやうにして、法然上人は善導大師の観無量壽経の疏によつて一心に弥陀の名號を念ずる、これが仏の本願に順ずるものであるから、その教に從ひて専修念仏を往生の要とするのであると説かれたのであります。  凡夫往生  しかしながら、法然上人より前の高僧は、かやうに念仏の意味を考へて居られなかつたやうでありまして、善導大師流の念仏を高調したものは法然上人が始めてでありました。  それ故に、それを聞く人にもよくわからないし、又さういふ風な考をした人も少なかつたのでありますから、それに対して反対の説があつたのも無理のないことであります。  又法然上人がその反対の説をやわらげて自分の言ふことを通さうとせられたのも無理のないことでありませう。後ちに出られた親鸞聖人は、自分の信じて居る通りをその遠慮會釈もなく唱道して居られるのでありますが、法然上人はその時代の高僧達に遠慮して妥協的の態度を取つて居られるのであります。  これは無理のないことであらうと思ふのであります。初めてといふことを言ひ出したのでありますから、隨分困難なことであつたらうと思ふのであります。元来法然上人の言はれることは凡夫往生でありますが仏教では凡夫往生といふことはゆるされなかつたことであります。  どうしても聖者にならなければいけないのでありました、ところが後に天台宗になつてから凡夫が往生することが許されるやうになつたのであります。それより以前の他の教では、法相宗にしても、華厳宗にしても、聖者、即ち偉いものとなつてから、往生するのであります。凡夫その儘の往生といふことは決して説かれなかつたのであります。  報土往生  天台宗では凡夫が往生するといふことが説かれました。しかしながら、その往生するところが、仏の国である浄土であるといふのでありまして、しからば何処に往生するかと言へば頗ぶる曖昧なものでありました。  法然上人はこれを確定して報土とせられたのであります。報土に往生するのだと、かう決められたのであります。かやうに、天台宗には凡夫が往生するといふことを説かれましたが、その往生の場所が曖昧であつたのを、法然上人は、はつきりと往生の場処を報土であると決められたのであります。法然上人の専修念仏がそれより以前のものと相違して居る主要の点はこれであります。  余行を捨つ  それ故に乱想の凡夫、称名の行によつて順次に浄土に往生すべき旨を判じて、念仏すれば出離の行はたやすく進むのであります。この世の中に住んで居る凡夫、それが弥陀の名號を唱ふれば仏の本願に相応するものであるから、その本願に乗じて確に往生することが出来ると説かれたのであります。  それまでの念仏は自分で努めてその力によりて往生するのでありましたが、法然上人は仏の本願により報土に往生することが出来ると言はれるのであります。  かういふ考がきまつたのは、正安五年の頃でありまして、その時法然上人の年は四十三であつたといふことであります。十五の年に叡山に登られたのでありますから、それから約三十年の間、仏教をば広く研究し、いろいろと修業せられて、その結果、専修念仏の心持になられたのが四十三の時でありまして、此時に修行を捨てて一向に念仏に帰したと書かれてあります。  本願乗托  如法に修行すれば仏になれるといふことは仏教で初めから説かれたことであります。しかしながら、修行して仏になるべきその修行が出来ない、その修行の出来ないものは念仏によつて仏になることが出来る。  所が念仏して仏になるといひましても、凡夫ではいかぬ。偉い人でなければいかぬ。それ故に偉いものとなつて、こうして念仏しなくてはいかぬ。それ故に念仏といひますけれども、結局自分の修行の足りないところを念仏で補ふのであります。  しかるに、法然上人は凡夫がその儘往生するそれは決して修行によるのではない、自分でその心を磨いて往生するのではない、凡夫を往生せしめるといふのが仏の本願であるから、その本願に乗托すれば自からにして報士に行くことが出来るのである。そこでただその名を唱へる、ただ称名の念仏をするのであると、かういふ説でありまして、それより以前の説とは全く違つて居るのであります。  口称三昧  法然上人は年四十三にして専修念仏の考を起されまして、それからは他の行をやめてただ仏の本願に乗ずるといふことを一生懸命につとめられたのであります。口称三昧といひまして、念仏を始終口から離さないやうにするところまで進んで居られたのであります。  さうして御自身に書かれたものによりますると、さういふところまで法然上人の心境が進むだのは六十六才でありました。四十三の時に専修念仏の心持が開け、それから進んで所謂口称三昧に入られたのはそれから二十余年の後でありました。  常持の言  法然上人は此の如く、長い日月の間に、深い宗教的の体驗をせられたのでありますから、平生、言はれた言葉の中に、実に貴重なものが多くあります。その中に  「人の命といふものは食事の時にむせて死ぬることもあるから、そこで南無阿弥陀仏とかみて南無阿弥陀仏と飲み入るなり。」  とあります。これは我々の心をば始終、南無阿弥陀仏の中にはたらかすべきであると言はれるのでありませう。何時死ぬるかわからぬ食事が喉に詰つて死ぬこともあるから、我々は常に南無阿弥陀仏の中に生活せねばならぬのであります。又  「南無阿弥陀仏といふことは別したる事には思ふべからず、阿弥陀仏我をたすけたまへといふことばと心得て心には阿弥陀ほとけたすけたまへとおもひて口には南無阿弥陀仏ととなふるを三心具足の名號とまふすなり」  「我はこれ烏帽子もきざる男なり十悪の法然房、愚癡の法然房が念仏して往生せんといふなり。」  かういふやうなことを法然上人は始終、言はれたのであります。固より自分の力を磨いて、自分の考へを纏めて往生しやうとするのではないから、それで智慧を捨て、善悪のはからひを離れ、いかなるものといへども仏の名を唱へることによつて往生することが出来るといふのであります。  本願を信ず  自分が一生懸命に努力して骨を折れば、その結果は必ず善いといふことは誰にでもわかることでありますが、その反対に何等修行といふものをしなくてもよい。ただ仏の本願が強いから凡夫も助かるのであるといふことはわかりませぬ。或る人が法然上人に向つて  「上人が申されるところの念仏は皆仏の心にかなつて居るのでありますから大変に功徳がありませうが、自分等のやうなものは仏の心にかなつて居るのではありませぬから、どうも自分等の念仏にはどうも値打ちがないやうに思はれます」  と申しました。さうすると法然上人が言はれるのに  「さういふことを言ふのは本願といふものを信じないのである。阿弥陀如来の本願の名称といふものは、木こり草かり、なすに水くむたぐひごときのものの、内外とりにかけて、一文不通なるがとなふれば、必ずむまると信じて真実にねがひて、常に念仏申を最上の機とす」  といはれました。さうして、それから  「もし智慧をもちて生死をはなるべくば源空いかでか、かの聖道門に趣へきや、聖道門の修行は智慧をきはめて生死をはなれ淨土門の修行は愚癡にかへりて極樂にむまるとしるべし」  と申されたといふことであります。  他力の譬  法然上人の教は、かやうにして、全く他力によりて往生するといふことであります。  そこで他力のことにつきていろいろと説明をして居られるのでありますが、或人の質問に答へて  「世間の事にも他力は候ぞかし」  と言つて、世間の事につきて他力を示めされたことにつきて、次のやうなことがあります。  「足なえ腰ゐたるもののとをき道を歩まんと思はんにかなはねば船車に乗りてやすくゆく事、これはわがちからにあらず、乗物のちからなれば他力なり」  自分の腰がなえて、さうして足がなえて歩くことの出来ないやうなものは遠き道を自分の力では行けぬのだから、それだから船や車で容易く行く、所がそれは自分の力ではない、乗物の力であるから他力である  「あさましき悪世の凡夫の諂曲の心にてかまへつくりたるのり物にだも、かかる他力あり、」  それは世間の他力だが、今この五濁悪世の世に生れて、ただ悪いことのみをする心で以つてかまへつくりたるその乗物にも矢張他力といふものはある。  「まして五劫のあいだ思食さだめたる本願他力の船はいかだにのりなば、生死の海をわたらん事うたがひ思食べからず、しかのみならず、やまいをいやす草木くろかねをとる磯石、不思議の用力あり、麝香はかうばしき用あり、扉の角は水をよせぬ力あり、これみな心なき草木ちかひをおこさぬけだものなれども、もとより不思議の用力はかくのごとくぞ候へ、まして仏法不思議の用力ましまさざらんや」  世間の事でも他力といふことがあるが、自分のやうな心の浅間しいものが、自分の浅間しい心でつくつて行く乗物にも他力といふものがある、自分の力ではいかぬ、その自分の力でいかぬものを仏の本願の船に乗りて、そして生死の海をわたることは疑ひないことであるから、それには磯石といふものが北を指し、それから草木の中に病を治すものもある、まことに不思議な力である。まして仏法不思議の力といふものは必ずましまするのであるといふやうなことを言つて居られるのであります。  法爾の道理  それから法然上人は  「法爾の道理といふ事ありほのほは空にのぼり、水はくだりしまにながる。菓子の中にすきものあり、あまき物ありこれらはみな法爾の道理なり」  と言つて居られます。煙が高きに上り、水が低きに流れる。果物にすつぱい物もあれば、甘い物もある、斯ういふことは自然の道理であります。  「阿弥陀仏の本願は名號をもつて罪悪の衆生みちびかんとちかひ給たれば、ただ一向に念仏だにも申せば仏の来迎は法爾の道理にてうたがひなし」  そこで自然に随順してつまり自然に從つて行くといふことが他力に順ずるものであります。元来人間といふものは自然の一つの分子でありますから、そこでその自然に従つて行けば何にも問題はない筈であります。  しかるに、その自然に背くやうなことを始終して居るから、そこで苦みが起き問題が起き、いろいろな難儀が現れて来るのであります。そこでその難儀をつくり、苦みをつくり得手勝手な考へをして居るところにその自分の悪い心といふものが止めばつまり自然に從ふのでありますから、自然に從へばその自然に隨順してさうして、さうして自然の国に行かれるのであります。  自然に帰る  善導大師が言はれた語に「隨仏逍遙帰自然、自然即是弥陀国也」とありますが、仏に從つて逍遙して自然に帰らん、自然はこれ弥陀の国であります。本願に乗托して報土に往生するといふことも畢竟ずるにかういふ心持であります。  自是他非  元来世の中には善いこともなく、悪いこともなく、苦しみもなく、樂みもないのでありませう。それが人間として生活する上に於て、或はそれを苦みとか、或はこれを樂みとかに分け、或は善いとか悪いとかに分けるのでありますが、いつでもそれは自分に都合のよいものをとり、自分に都合の悪いものを捨てて行かふといふ自是他非の心持が極めて強く出て来るので、それで苦悩といふものが起るのであります。  これが煩悩具足の凡夫の心の常であります。それ故にこの如き凡夫が往生するところの道はただ仏の本願に乗托すべきのみであります。さうして仏の本願に乗托する道といふものはその現実の自分の心の相を真正面に見てそこに何等手を出さないことにあるのであります。  煩惱具足  仏の本願はさういふ煩悩具足、罪悪深重のものを助けるといふのでありますから、その煩悩具足罪悪深重の相をそのままに見たものが仏の本願を知るのであります。  煩悩具足罪悪深重の相をそのまま見て、それにつきて、何等のはからひをしないといふのはすなはち自然に随順するのであります。自然に從へばその結果我々は必ず自然に帰る筈であります。  かやうにして煩悩具足を自覚するものも必ず報士に趣くべきであります。報士は我々がどうしても行かなくてはならぬところであります。  極樂  普通の人の言つてゐる極樂といふものは我々が行ふとする、ところであります。行きたいと願ふところであります、それ故に一生懸命修行して行かんと欲するところであります。  けれども、それは到底行くことの出来ないものでありませう。ただ自分でさういふいい所を希望してあこがれて居るに過ぎないのでありませう。真実の報士といふものはさういふものでなく、仏の本願に隨へばどうしても行かなければならぬところでありませう。  読誦と念仏  前に天台宗の実際は法華経読誦と、真言行と、禅観修と菩薩戒と念仏との実行であると申しましたが、しかしながら、その念仏は読誦の一法であるものと考へて居られたやうでありました。  法然上人の念仏は決して読誦の一法に属するものではなく、何事をも打捨ててただ仏の名を称へるのであります。  元来お経を読誦するといふことは、これによりて仏の功徳を念じ、仏の慈悲を念ずるのでありまして、その仏といふものは澤山でありますが、念仏にありては、それが阿弥陀仏とか釈尊とかに限られて居るのであります。  しかしながら、それも読誦の一法であるとすれば、その念仏は言ふまでもなく観念の念仏であります。法然上人は断然として、その念仏がただの口称にして観念によるものでないといふことを主張して居られるのでありました。  心を観、法を念ずるといふことは固より容易の業ではありませぬ。まして読誦の一法として念仏するといふことになれば、これを修むることに多大の努力を必要とすることは勿論であります。  法然上人の教は本と凡夫が往生するの道を説かれたのでありますから、それが凡夫の行として実際に行はるべき口称の念仏によつて、報土に往生することが出来るのであります。まことに凡夫直入の易行道であります。  念仏宗  「愚管鈔」と申す書物に、当時の有様が記載してありますが、それに拠ると  「建永ノ年、法然房トイフ上人アリキ、マヂカク京中ヲスミカニテ、念仏宗ヲ立テ、専修念仏ト號シテ、唯、阿弥陀仏トバカリ申スベキナリ、ソレナラヌコト、顕密ノツトメハナセゾトイフ事ヲ言出シ、不思議ノ愚癡、無智ノ尼入道ニヨロコバレテ、コノ事タダ繁昌シテ、ツヨクオオコリツツ、ソノ内ニ安樂房トテ、泰経入道ガモトニアリケル侍ノ入道シテ、専修ノ行人トテ、又住達トツガイテ、六時禮讃ハ善導和尚ノ行ナリトテ、コレヲタテテ尼ドモニ帰依渇即セラルルコト出来ニケリ、ソレラガ、アマリサニ言張リテ、コノ行者ニナリヌレバ、女犯ヲ好ムモ、魚鳥ヲ食モ、阿弥陀仏ハ、スコシモ咎メ玉ハズ、一向専修ニ入リテ、念仏バカリ信ジツレべ、一定最後ニ迎へ玉ヒテ云云」  と言つてありますが、いかにも仏教といへば、顕密の二教に渉りて、義理の深遠なるものであると教へられ、それによりて成仏の目的を達せむには厳粛の修行を要するものであると信じて居つた当時の人々の耳目に、法然上人の念仏宗が異様に感じられたことも当然でありますが、一方には当時、源平の戦がすみて、さしも榮華を窮めた本家の一族が、脆くも西海の藻屑と消えた、世の有為転変の有樣を、眼のあたりこれを目撃し、浮世の果敢なき相に、その心想が乱れたものが多かつたのでありますから、これ等の人々が、いかに罪悪の深いものでも、ただ仏の名を称へることによりて報土へ往生することが出来ると聞いて、多くの人々が、この凡夫直入の道へ入つたことは想像するに難くないことでありませう。  その余弊  しかしながら、法然上人の念仏は、真実の意味にて、これを理解することが、当時の人々には、困難であつたと見へまして、これを尊奉する人々の間にも甚しくこれを誤伝した人々も多かつたやうであります。従つてその余弊も少なかつたやうであります。「元享釈書」と申す書物の中に、そのことに就きて、次のやうな記事が載つて居ります。  「元暦文治の間、源空法師、専念の宗を建つ、遺派末流、或は曲調を流し、抑揚頓挫、流暢哀婉、人の性を感せしめ、人の心を喜ばしむ、士女樂で開き、雑踏駢闘、愚化の一端たるべし、然れども流俗ますます甚しく、動もすれば伎戯を衒ふ、云云」(本と漢文)  この記事に拠りて見ますと、当時念仏宗の僧侶の中には、一種美妙の調子を以て、念仏禮讃の行をなし、その音声流暢哀婉にして、抑揚あり、頓挫あり、聞く人をして感歎せしめ、随喜せしめ、聴衆堂に満ちて雑踏を窮めたことが窺はれるのであります。これも愚昧の人を教化する一法でありませうが、しかしその流俗ますます甚しくなりて、それが伎戯を衒ふやうなことがあつたと伝へられて居ります。そこで「元享釈書」にも  「酒宴の末席に交はり、盃騰の除歴を受け、誉史信枝と、膝を促して互に唱ふ、云云」(本と漢文)  と見えて居ります。これに拠りますと、念仏は宴會の席でも行はれるやうになり、喜人や芸者の類と膝を交へて、共に酒席に侍りて、その娯樂を助けたものと見えます。まことに念仏宗の盛に行はれたる時の余幣と申すべきものであります。  住蓮安樂  住蓮と安樂との二僧は法然上人の弟子でありましたが、鹿ヶ谷にて別時念仏の業を始め、盛に念仏宗を宣伝したのであります。そこで多くの人々がそれに帰依して、洛中洛外の老若男女前を争ふて鹿ヶ谷に參詣したのでありますが、後鳥羽上皇の寵姫に鈴虫、松虫の局と申すものが、はからずそこに參りあはせて、謁仰の思ひ深く、信心肝に銘じて、忽ち出家して尼となつたのであります。  それでなくとも、法然上人の念仏は叡山や奈良の僧侶達から攻撃せられて居つたのでありますが、かかるところへ、後鳥羽上皇の寵姫が上皇のお許を待たずして出家したやうなことが、原因になりまして、念仏宗が興つたために老少のものが悉く家業を捨てるといふことが表面の制止の條件となりて遂に念仏は停止せらるるに至りました。さうして、住蓮・安樂の二僧は、念仏宗を弘通せむがために諸仏諸教を謗るといふ罪科によりて死刑に処せられたといふことであります。  三心  すべて宗教の中に、新しい一派が興るときには、舊宗派との間に衝突があらはれてその犠牲となつて身命を抛つものも少なくないのでありますが、法然上人の念仏宗にも、その始め、多大の法難がありました。  それがために法然上人を始め、数人の弟子が流刑に処せられるやうなこともありました。しかしながら、これは要するに、外形のことでありまして、宗派の真の発展の上から見ればむしろ内心の問題が重要のものであります。  内心の問題と申すのは、法然上人の念仏宗の真実の意味が、十分によく当時の人々に理解せられたものであつたかどうかといふことであります。法然上人の説かれたところを聴聞しますと、巳に前にも申したやうにただの念仏でありました。  「念仏には甚深の義といふことなし、ただ念仏申すものは必ず往生するぞと知るべきなり」  でありました。それはまことに簡単なことでありましたから、或はその行はいかやうでもただ念仏すれば往生が出来ると考へたものもありましたらう、或は又、さういふ簡単のことで果して往生が出来るものであらうかと疑を起したものもありましたらう。  法然上人は、仏法に聖道と浄土との二門を別ち、聖道門に入ることは我々に取りて容易でない、我々はその浄土門に入るべきであるとして、さて、浄土門につきて行ずべき様を説いて  「往生を願はむ人は至誠心・深心・廻向発願心の三心を具足せねばならぬ」  といふことを強く唱道せられたのであります。  至誠心  法然上人がこの三心につきての説明は、大略次の通ほりであります。浄土に往生しやうと思ふものは安心起行と申して、心と行と相応することを要するのでありまして、その心といふは無量壽経に説いてあるとろの三種の心であります。  すなはち一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心、この三種の心であります。  法然上人は善導大師の説に從つて、この三種の心を説明して、至誠心とは真実の心であると言つて居られるのであります。一切衆生の身・口・意の三業に修するところの解行が必ず真実の心の中でせられねばならぬと言はれるのであります。  身にてなし、口にて言い、意にて欲すること、皆真実の心を具へねばならぬと言はれるのであります。外には賢善精進の相を現じ、内には虚仮をいだくことを得ざれ、内外明闇をえらばず、真実をもち居よと言はれるのであります。  これを要するに、内が空しくして、外をかざる心がありてはならぬ、必ず内に真実の心を起して、外に賢善精進の相をあらはすことが肝要であると説かれるのであります。  虚仮の人  法然上人は更に至誠心につきて四種の不同を挙げて説かれました。  一には外相は貴きやうにして、内心は貴からぬ人、二には外相も内心も共に貴からぬ人、三には外相は貴ときやうに見えずして、内心の貴とき人、四には内心と外相と共に貴とき人、この四種の不同がある中に、始めの二種の人は至誠心の欠げたる人で、これを虚仮の人と名づける。  後の二種の人は至誠心を具へたる人で、これを真実の行者と名づけると言つて居られるのであります。それ故に、世を厭ふといふことも、極楽に往生することを願ふことも、人目ばかりを思ふことなく、真実の心を起すことが第一であると言はれるのであります。  我も人も、果敢なき夢の世に執著する心が深く、名聞利養に離るることが難く、人目をのみ憚りて、仏の誓願をたのみて、往生を願ふことをせぬのは全く至誠心が欠けて居るのであります。  しかしながら、かやうに申せばとて、ひとへに人目はいかにてよろしい、人の譏をも顧みぬのが善いといふのではないと、法然上人は説明して、  「詮ずるところは、ただ内心にまことの心を起して外相をばよくも、あしくも、とても、かくてもあるべきかとおぼへ候なり」  と言つてをられるのであります。  深心  三心の第二は深心であります。  法然上人は善導大師の説に從ひて、深心は深く信ずる心なりと説明して、それ二種を別ちて居られるのであります。  一には決定して深く我身は煩悩具足せる罪悪生死の凡夫なり、善根薄少にして曠却よりこのかた、常に流転して、出離の縁なしと信ずべし。  二には深く彼の阿弥陀仏の四十八願をもて衆生を摂取したまふ、すなはち名號を称ふるものは彼の願に乗じて定めて往生することを得ると信じて一念も疑ふことなきが故に深心と名づくとあるところの善導大師の説明を挙げて、その心は始に我身のほどを信じ、後には仏の願を信ずるのでありまして、我等はいまだ煩悩をも断ぜず、罪業をもつくる凡夫であるけれども、深く弥陀の本願を信じて念仏すれば、決定して往生することを得るのであると言つて居られるのであります。  「ただ心の善悪を顧みず、罪の軽き重きをも沙汰せす、心に往生せむと思ひて口に南無阿弥陀仏と称へるときは声につきて決定往生の思をなすべし、その決定心によりてすなはち往生の業は定まるなり」  であります。それ故に  「深く信ずる心と申すは、南無阿弥陀仏と申せばその仏の誓にて、いかなる身をもきらはず一定迎へ給ふぞと、深くたのみて、いかなるとがをもかへりみず疑ふ心のすこしもなきを申候なり」  であります。  迴向発願心  三心の第三は廻向発願心であります。どういふことであるかと申すに、善導大師の説明に拠りますれば、過去及び今生の身・口・意の三業に修するところの世出世の善根、及び他の一切の凡聖の身・口・意の三業に修するところの世出世の善根を随喜して、この自他修するところの善根を以て、悉く皆、真実の深心の中に廻向して、彼国に生れむと願ずるのであります。  先づ我身に於て、前の世及び今生に身にも口にも造りたらむ功徳を皆悉く極樂に廻向して往生を願ふのであります。次には我が身の事にても、人の事にても、この世の果報をも祈り、又同じ後の世の事なりとも、極樂ならぬ余の浄土に廻向することなくして、一向に極樂に往生せむと廻向すべきであります。  しかしながら、一切の善を皆、極樂に廻向すべしと申せばとて、念仏一門に帰して一向に念仏を申すものが、ことさらに余の功徳を造り集めてこれを廻向せよといふのではありませぬ。  起行  法然上人はかやうに、三心の事を説明して後に、この三心が具足して必ず往生することが出来るので、若しその一心でも欠けた場合には往生することが出来ぬとあるから、往生を願ふ人はこの三心を具足せねばならぬと説いて居られるのであります。  それから起行といふのは、この三心を具足して一向に念仏を申すことであります。阿弥陀仏の本願にも、釈尊の説教にも、善導大師の解釈にも、諸師の所説にも、極樂に生れるための行には念仏を以て本体とするものであると言はれるのであります。  かやうにして、法然上人がすすめられるところの念仏は、三心具足の念仏でありました。  三縁  かやうにして、往生を願ふ人が安心起行によりて、その祈願を達することが出来るのは、畢竟、親縁と近縁と搶繪盾ニの三つの縁によるものでありまして、若しこの三縁がなかつたならば、往生の目的を達することは出来ないことでありませう。  第一の親縁といふのは、早く申せば、仏の心が我々凡夫の心と同じやうになるのであります。そこで、我々が仏の名を称ふれば仏はそれを聞きたまふ。我々が仏へ禮をすれば仏はそれを見たまふ。又我々が念ずれば仏はそれを知りたまふ。かやうに、仏の心を、我々凡夫の心との間に陥りがなくなるのであります。この親縁によりて三心具足の念仏を称ふるものは必ず摂取せられると説かれるのであります。  第二の近縁といふは、我々衆生の心が仏の心を同じやうになるのみでなく、我々凡夫が、仏を見やうと思へば仏を見ることが出来る、すなはち報仏を見ることが出来るのであります。  第三の増上縁といふのは、親縁によりて我々の心が仏の心とが同じやうになり、それによりて念仏が行ぜられるのであります、又近縁によりて仏のすがたを見ることが出来るのであります。さうすると、それによりて我々の安心起行の力が増長するものであります。それ故にこれを搨キ縁といふのであります。  この三縁によりて三心具足の念仏を申すものは必ず仏に帰命する心を起すものであります。  正定業  右に申すやうな次第で  「三心具足する故に帰命の心起る、これを南無といひ、三縁そなはれば無碍光の体、我等が罪悪の身に、へだつるところなき功徳を阿弥陀仏といふなり。故に南無阿弥陀仏と称する六字の名號に一代の仏教の本意も悉くおさまり、十方三世の化仏も、しかしながら皆備はるが故に、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願教といはれて、南無阿弥陀仏の外に又、除事なきなり」  と説かれて居るのであります。まことに三心具足して申すところの念仏は、仏の本願に順ずるものでありますから、正しく往生が決定するところの業であります。  三心の沙汰  しかるに、法然上人はある場合には三心の沙汰は詮なしと申されて居るのであります。それは  「名號を称ふれば必ず往生するとばかり、まめやかにたのみ、称ふればその人の心におのづから三心もそなはりて居る」  のであるが、それに対して、三心とてことごとしく申しなせば却て信心をみだることがあると申されるのであります。  法然上人は又、ある場合には三心のことをくはしく説いて居られるのであります。それは  「もし日来《ヒゴロ》には疑いの心もありて三心具足せぬ人も、聖教を学すれば道理に折れて三心の起ることもあれば、さやうならむ人のためには三心の様を知らむも大切なるべき」  ことでありませう。かういふやうな次第で、法然上人の念仏は、どこまでも三心具足の念仏でありますが、我を忘れてただ一向に名號を唱ふる場合には、その中に至誠心も、深心も、廻向発願心も、皆そなはつて居るのでありますから、改めて三心を沙汰するには及ばぬと言はれるのであります。  法蓮房  法然上人の念仏はかくの如きものでありましたが、当時それを十分に理解するものが少なく、或は却てそれを誤解するものが多かつたなどで、それが問題となり、遂に念仏停止の令が出で、法然上人は流罪の刑に処せられることになつたのであります。その時、弟子の法蓮房と申すものが、法然上人に申し上ぐるやう  「上人の流罪は一向専修念仏与行の故であると申すことでありますが、上人は老邁の御身でありますから遠方においでにならば御命が安全でありますまい、私共は恩顔を拝し御教を受けることが出来ませぬ。又師匠が流刑の罪に臥したまはば残り留まるところの門弟は面目がありませぬ。その上、勅命でありますから、一向専修念仏の興行を止むべきよしを奏上して、内々御化導なされては如何でござりまするか、一座の門弟は多くかういふ考を持つて居ります。」  と申し上げたところが、法然上人の申されるには、  「流刑は更にうらみとすべからず、その故は、すでに八旬にせまりぬ、たとひ師弟同じ都に住すとも、娑婆の離別は近きにあるべし、たとひ山海をへだつとも浄土の再會何ぞ疑はむ、又厭ふと雖も存するは人の身なり、惜むと雖も死するは人の命なり、何ぞ必ずしも処によらむや、しかのみならず、念仏の興行、洛陽にして年久し、辺部におもむきて田夫野人をすすめむこと、年来の本意なり」  と言つて、その言には從はれなかつたのであります。  西阿弥陀仏  法然上人は、かやうに弟子の一部の人が、専修念仏の停止を勧告したにも拘らず  「源空が興ずる浄土の法門は、濁世末代の衆生の決定出離の要道なるが故に常随守の護神祇冥道、定めて無道の障難をとがめたまはむか、命あらむ輩、因果の空しからざることを思い合すべし」  と言はれ、又  「此法の弘通は人はとどめむとすとも法は更にとどまるべからず、諸仏濟度の誓ひ深く、冥衆護持の約、ねんごろなり、しかれば何ぞ世間の機嫌をはばかりて、経釈の素意をかくすべきや」  と、断然として、その主張を強くし一人の弟子に向つて、専修念仏の義を述べたまふたのであります。そこで御弟子の西阿弥陀仏と申すものが推参して、「かやうなことはおやめになつた方がよろしいと存じまする。専修念仏のことをお尋ね申すものがありましても、それに御返事をなされてはなりませぬ」といふやうな意味のことを申し上げたところが、法然上人はそれに対して「汝は経釈の文を見ぬか」と仰せられました。西阿弥陀仏「経釈の文はまことにさうでありますが、それでは世間の物議を醸しますから」と申し上げたところが、法然上人は断乎として  「我れたとひ死刑に行はるとも、この事いはずばあるべからず」  と申され、至誠の色がその顔にあらはれたので、これを見たものは皆感涙にむせむだといふことであります。  念仏往生の現証  法然上人が専修念仏を信せられることは此の如く堅固で、全体が安協的の人格であつたやうに見えながら、念仏往生の一義につきては、何人の言ふことにもその志をまげず、たとひ死刑に処せられてもかまはぬといふ意気でありました。  そこで到頭、流罪に行はれて、讃岐へと赴かせたまふ途次、播磨の国、高砂の浦に著かれたときに、多くの人が結縁した中に、七十あまりの老翁と、六十あまりの老女の夫婦が上人に謁して申すやう「私どもはこの浦のあま人で、幼きときより漁を業とし、朝夕にいろいろの命をたちて、世を渡るはかりごとして居りました。ものの命を殺すものは地獄に落ちて苦しまねばなりませぬ。いかがしてこれを免れることが出来ませうか、たすけたまへ」と手を合せせて泣いたのであります。  法然上人はこれをあはれみたまひて  「汝が如くなるものも、南無阿弥陀仏と称ふれば、仏の悲願に乗じて浄土に往生することが出来る」  と懇に教へたまふたので二人とも涙にむせびて喜んだのであります。そうして、それから後は、晝は浦に出でて、手に漁りすることは止まなかつたが、口には名號をとなへ、夜は家にかへりて二人とも声をあげて終夜念仏したのでありますが、それが終に臨終正念にして往生を遂げたといふことを聞きたまひて、法然上人は「機類萬品なれども、念仏すれば往生する現証なり」と申されたといふことであります。  これに類似した例は、法然上人の伝記の中に、なほ澤山に挙げてありまして、まことに、法然上人の浄土の法門が、それまで聖道として説かれたる仏教の法門とは異なりて、いかなる愚癡のものも、又罪悪深重のものも、ただ念仏の行によりて報土に往生することが出来ることを示されたのでありました。  対機説法  粟津義圭といふ人の書かれた書物の中に、釈尊のお弟子の中で一番偉らかつたと言はれてゐる舎利弗尊者のことが書いてありますが、それは次のやうな話であります。  舎利弗尊者の弟子に、一人は鍛冶屋を職業とし、一人は洗濯屋をして居る男がありました。そこで舎利弗尊者が洗濯屋の男には数息観を教へました。数息観といふのは出入りの息の数を数へて、それでもつて心をしづめる教であります。  それから鍛冶屋の男には不浄観をすすめました。それは人間の身体といふものはまことに穢いものである。この世の中といふものはまことに濁つてゐるものである。そういふことを観念する。さうすると正しい道理が明かになる、さういふことを教へたのであります。  ところが三年経つても五年すぎても兩方とも一向にその効果が現れなかつたのであります。そこで舎利弗尊者が、或る時釈尊に、どういふわけでありませうと問ひました、ところが、釈尊がいはれるのに、「それはお前の教へ方が反対である。鍛冶屋に数息観を教へ、洗濯屋に不浄観を教へなくてはいけない。鍛冶屋といふものは平生吹子の息の加減に慣れてゐるから息を数へるといふことは大変に為し易い、また洗濯屋は元来が汚れ物をきれいにする商賣であるから、不浄観を修するといふことは大変に樂に出来ることである。それをお前は反対に教へたからその効果が挙らないのである。」といふやうな意味のことを言はれたのであります。そこで、舎利弗尊者はなるほどさうだといふことに気が附いて、その通りにしたところが、早く成就したといふ話が載せてゐるのであります。  十人十色  この洗濯屋と鍛冶屋との話のやうに、人間はすべてさうでありますが、その人々によつて物の考へ方が違ふことは十人十色であります。若し違つた考へ方のものであれば、幾ら聴いてもそれが自分の心の中に入らないのは当然であります。  その考が西の方へむいて居るところへ、東の方のことをいはれても、それは一向に頭に入らないのであります。法然上人が浄土の法門を説かれたときにも「極楽に往生しやうと望むならばただ念仏を申せ」と言はれたのでありますから、それを聞いて極樂に参らむことを望むものは口に南無阿弥陀仏を唱へたのであります。  そこで皆口には同じやうに念仏を唱へ、心には浄土に参らむことを望む、それには変りはありませんけれども、心中の領解といふものは、決して同じことではなかつたのであります。  教の趣は一つでありますけれども、これを自分の心に取り入れるといふことが違つたために、法然上人の教も同じ浄土宗の人々のためにいろいろに理解せられたのであります。たとへば成覚房幸西は一念義を立て、長樂寺の隆寛は多念義を主張するといふ風でありました。  隨類得解  仏教の書物の中に、「仏は一音をもつて演説されたけれども、衆生は類に隨て解を得」といふことが書いてあります。釈尊が説かれるところはただ一つの言葉であるけれども、しかしながら、それを聴くものは自分の類に随い、自分の心にこれを聴くのでありますから、自分の心持に相当するやうにこれを受け取るのであります。そこで法然上人が説かれました浄土の法門も、上人が死なれてから後に、その弟子達によつて色々の流儀に分れたのであります。  信と行  前にも申しましたやうに、法然上人の教はただ念仏して極樂に往生するといふことでありますが、そのことは「選擇本願念仏集」の中にくわしく説かれて居るのであります。その説明は固よりくわしいものでありますが、これをつづめて申せば信と行とに帰著するのでありまして、信と申すのは深く仏の本願を信ずる。罪の深い愚かなものが、仏の本願によつて必ず助かるといふことを信ずるのであります。  さうして、その本願を信ずるものが往生することを得るのでありますから、本願に從いで念仏を申さなくてはなりませぬ。それが行であります。法然上人はこの二つのものを強く説かれたのであります。さうして、信を強くいへば邪見に陥る、行を強くいへば自力になるから、そこに深く注意せねばならぬと戒められたのであります。  念仏の説明  法然上人は当時その専修念仏につきて反対する人が多かつたので、それに対して熱心に説明して居られるのでありますが、それに拠りますと、仏の教には聖道門と浄土門とがある。  聖道門といふのはこの世界で煩悩を断つて菩提を得るといふ法門である。浄土の方はこの世界では煩悩を断つことが出来ないから浄土に生れて煩悩を断つのである。  その聖道門の修行はわれわれには出来ないから、そこで浄土に生れて煩悩を断つべきである。さうしてその浄土門の教といふのは、「観無量壽経」に説かれてあるやうに、専ら念仏を修めるので、それには三心を具足して念仏を申さなくてはならない。  三心といふのは、巳に前にくわしく申したやうに、至誠心と、それから深心、それから回向発願心と、この三つの心を具へて居らなければならい。心が穢くして、それで念仏を申したところで仏の国に生れる種子にはならない。  心を誠にし、また仏の本願を深く信じて申す念仏でなければならぬ。また仏の国に生れようと思つて願はなくてはならない。その一つが欠げても駄目である。この三心を具足して申す念仏によりて必ず往生することが出来ると、かう説いて居られるのであります。  勘信誠疑  しかしながら、三心具足といふことも、必しも至誠心と深心と回向発願心とを具足して居らねばならぬと八釜敷言はなくてもよろしい。なぜかといふと、専ら心に仏の本願を信じて念仏を申して往生すると少しも疑ひの心が無ければ、それがすなはち至誠心であり、回向発願心であり、三心具足するものであるから、別に三心具足をやかましく言ふ必要はない。  しかしながら疑が深くして本願の念仏を信ぜざるものには三心具足といふことを説明をしなければならぬと法然上人は説明して居られるのであります。この三心のことは、法然上人の「選擇本願念仏宗」の中に構細に説いてありますが、その要旨とするころは「本願を信ずる」といふことを勤め、「本願を疑ふ」といふことを誡められたものであります。  定善と散善  本願を疑ふて信ぜざるものに関しては、しかしながら、十分にこれを説明する必要があるから、法然上人は「観無量壽経」に説いてあるところの定善と散善とに就て、説明して居られるのであります。  定善といふのは息慮疑心と申して心をしづめることであります。散善は廢悪修善と申して心を浄くすることであります。  至誠心、深心、廻向発頗心の三心を具足するといふことも実際問題となれば、息慮疑心と廃悪修善といふことに帰著するのであります。人間といふものは、その心が常に散乱して取りとめのないものであるから、その散乱の心を堅く留めてしまひ、さうして悪いことをやめて善いことをするやうに心がけねばなりませぬ。ただ仏の名を唱へたところがそれで浄土に往生することが出来るものではありませぬから、そこでただの念仏と申しても、三心具足の念仏でなければならぬと説かれたのであります。  下品下生  ところが法然上人が言はれるやうに「定善の門に入らんとすれば、則ち意馬あれて六塵の境に馳す」るのが我々の心の常であります。六塵といふのは我々人間の耳、目、口、鼻、意、身のはたらきによりて認識するところの境地のことであります。  我々の心といふものは境によつて移るのであります。周園の境遇によつていろいろに心は動くものでありますから、さういふ動く心をしづめることが困難であります。  「かの散善の門に臨まんとすれば、又心猿遊んで十悪の枝に移る。かれをしづめんとすれども得ず。これを止めんとすれども能はず」  悪いことを止めることも我々の心では容易でありませぬ。定善と散善とをつとめなければならぬのであるが、自分といふものを見れば、その両方がだめであると歎かざるを得ぬのであります。ところが「観無量壽経」に説かれてゐるところを見ると、下品下生のものが、浄土に生れる因といふものは、十悪五逆の衆生が臨終に善知識に値ひて一声十声、南無阿弥陀仏の名號を唱へて往生すると説かれてあります。法然上人はこれが自分の心に相当する教であるとして専修念仏の義を立てられたのであります。  白木の念仏  かやうな意味で、法然上人の教といふものは、自分の力を見かぎりして、ただ阿弥陀仏の名を唱へて往生することを信じて疑はぬといふので、その念仏はただの念仏であります。何等の助けをささぬのであります。他力にお任せするばかりであります。  法然上人の弟子で、鎮西派の開山であるところの聖光上人が書かれたものを見ると、  「善導の御心は浄土へ参らんと思はん人は必ず三心具足して念仏を申すべし、念仏は決定往生の行なりと信ずれば自然に三心は具足す」  と書いてあります。又西山派の証空上人の書かれたものを見ると  「念仏を色どらず、中々に心を添へず、申せば生ると信じて南無阿弥陀仏と称ふるのが本願の念仏」  であると言つて、それに「白木の念仏」といふ名をつけて居られるのであります。  世間超越  かういふ風にして考へてゐると、前に申した聖道の教は、すなはち、この世界で煩悩を断つて仏に成らうとするものでありますから、それはいふまでもなく、世間を超越しなければ出来ぬことであります。それ故にこの教では我々は出家して、日常の生活を離れなければ駄目であります。つまるところ、聖道の教は人間の世界を離れて世を救つて行かうといふ理想でありませう。  教團の成立  此の如き理想を主として、この世界で煩悩を断つためには、常の生活を離れることが第一であります。そこで、山の中に入るかどうかして、浮世の生活を離れ修行して仏にならうとするのでありますから、同じ志の人々が集つてお互に勉強をしなければ、その目的を達することが出来る筈がありませぬ。  さうすると、その人々の集つてゐるところには、それを指導するものがなければなりませぬから、そこで教團といふものが出来るのでありますが、その教團の人々は人間の生活を離れて兎も角も仏に成るべき修行をするための専門家であります。その教團に居ない人はそれが出来ないからそれは全く取り残されてしまつて、往生するのは世間を超越して厳粛の修行をする人だけに止まるのでありませう。  大乗仏教  しかしながら、此の如きは大乗仏教の精神ではありませぬ。大乗仏教は一切の衆生が仏に成る道を説くのであります。世間に居つて世間のすべての人と一緒に仏になることを期するのであります。  法然上人の教として説かれたものはそれであります。世間を超越して、自分のみが仏になればよいといふのではありませぬ。世間に生活して、世間の人々と一緒に仏に成らうとするのでありますから、師匠もあるわけでなく、弟子あるわけでありませぬ。  ただ仏の本願を信ずればよいのであります。世間を超越してさうして仏にならうとすればこそ厳粛の修行が必要でありますが、修行することの出来ない自分を投げ出してただ本願を信ずることによりて往生しようと願ふのでありますから、特別の教團はなくてもよいのであります。  ただ同行のものが集合して共に手を携へて浄土に往生することを期するのことでありますからその教團は前の教團とはまるでその意味の異つたものでありまして、世間の多くの人と離れては居ないのであります。  それ故にこの意味の教團の力といふものはまことに重大なものでありまして、その教団が世の中に出て来て多くの人々が、それに動かされて仏の本願を信ずることが出来るのであります。  かやうにして、法然上人の吉水の教團は段々と盛になりまして、多くの人々が教團に動かされて本願の念仏の教に入つたのであります。  親鸞聖人  吉水の教團に動かされて本願の念仏の教に入つた人々の中で、私が特にあげて、ここにお話をしようとするのは親鸞聖人であります。親鸞聖人は吉水の教團に動かされて、本願の念仏の教に入れられた随一の人であります。  法然上人を中心とする吉水の教團が出来たのはその晩年、六十六歳の時であつたといふことでありますが、親鸞聖人が法然上人に就て教を受けられたのは廿九歳の時であつたと伝へられて居ります。親鸞聖人の「教行信証」と申す書物の中には「建仁辛西の暦、雑行を棄て本願に帰す」と書いてありますから、建仁元年、年廿九歳の時であつたと思はれます。  親鸞聖人は早くから出家せられたのでありますから、それまでは何かほかのことをして居られたのでありませう。廿九歳の時、法然上人の浄土の教を聞かれて、こうして本願といふものが実に頼もしいものだと知られたとき、自分の力といふものはみな棄てられたのであります。それから後、深く本願を信じて、阿弥陀仏の教の本旨を明かにせられたのであります。  貴重の教  釈尊以来、種々の教が説かれて居ります。これは固より皆、貴重の教であります。しかしながら、その教はいかに貴重でも宗教とならなければ駄目であります。  教は教としてそれを知ることも出来、考へることも出来、覚へて居ることも出来、人に向つてこれを話をすることも出来ますけれども、しかしながら肝腎の自分の魂が、それによつて導かれて行くといふことは出来ませぬ。  まさかの時にその教が自分を導いてくれなければ、その教は何等役に立つものではありませぬ。しからばその教が自分のものになるといふことはまことに重要でありますが、それはどうすれば善いかと申せば、それにつきて自分といふものの相をはつきりと見なければならぬことを第一に言はねばなりませぬ。  たとへて申せば、向ふの方に景色の善いところがあつて、その景色の善い所に上つて居る人が、景色が善いから此所に来いと呼ぶとする。それは教であります。その言葉を聞いて景色の善い所に行かうとするのは、その教に從ふのであります。  その教に從ふことは善いとして、しかし、問題はその言葉の通りに私がやられるかどうかといふことであります。此所は景色か善いから来いといはれても、自分が行かれなければ駄目でありますが、自分が果してその言葉の通ほりに行くこが出来るかを考へて見ねばなりませぬ。  自分の相  そこで自分の相をはつきりと見ることが必要でありますが、その自分を棚に上げて置いて、ただ徒らに希望のみを先に立てて、つとめても、その希望は到底達せられるものではありませぬ。さういふ次第でありますから、教はいかに貴くても、それがそのまま直ちに銘々の宗教になることは決してないのであります。  その教が自分の宗教になるのは必ず自分の相をはつきり見た時でなければなりませぬ。自分の相をはつきり見ると、さうすると我々のやうな力の足りないものは、自分の力では如何ともすることが出来ない。自分のやうに智慧の浅いものはどう考へてもその考によりては萬事を解決することが出来ぬといふことがわかるのであります。  内省と努力  釈尊の説かれたやうに道を修めて、涅槃の悟を開くといふことは固より貴とい教でありますが、ただその教に從ふて道を修めるといふことに努力することは、その教を自分のものとする道ではありませぬ。  なるほど、釈尊が道を修めて、涅槃の悟を開けと言はれることに從つて、道を修めて悟を開くといふことには間違のないことは明かでありますが、しかし、いかに努力してもそれが自分のものにならなければ何の役にも立ちませぬ。  そこで重要なことは内省でありますが、内省を深くして見る釈尊の説かれた教が私自身のものになつたのは釈尊の説かれたことが、とても自分には実行することが出来ぬといふことであります。内省が深くなりて、自分の相が自分によく知られたときに始めてここに真実の宗教の心のはたらきがあらはれるのであります。  浄土の法門  法然上人は、此の如くに、内省を深くして、自分の力にては到底及ばぬことを知りて、学問を捨ててただ念仏することによりて往生すべきであると説かれたことは巳に前に説明した通ほりであります。全く自分の相をはつきり見ての後にそれを見限つてのことでありますから、仏の本願に從ふて念仏することによりて浄土に往生するより外には別の法はないとせられるのであります。さうして法然上人はこれを浄土の法門と言つて居られるのであります。  実行の方面  しからば浄土教にありて、実行の方面はどうすればよいかと申すと、それは仏の名を称へる外はないと法然上人は説かれたのであります。仏の本願を深く信じて後に専心に仏の名を称へることが起行であると申されるのでありますが、その称名は三心具足でなければならぬのであります。  念仏はただのものでありますが、その心は至誠でなくてはならぬのであります。それも深く本願を信じて一心不乱に念仏を申すならば、それがすなはち至誠の心でありますから別に自分の心を至誠にすることをつとむるには及ばぬと言はれるのであります。此の如き意味によつて法然上人の教は「往生の業は念仏を本を為す」と言はれるのであります。  信心為本  そこで法然上人の弟子の中には、「念仏すること」に重きを置き、念仏は一遍では駄目である澤山に念仏を申さねばならぬといふやうな考を起す人もありました。自分の相を内省することなしに、念仏が往生の業であると聞き取つたためでありませう。  親鸞聖人も法然上人に就て、念仏為本の教を聞かれたのでありますが、親鸞聖人は自分を内省することが徹底して居つたやうでありますから、「念仏すること」に対して「念仏する心」の如何が重要であることに気がついたのでありませう。  そこで、「念仏を本と為す」の教が「信心を本と為す」と受け取られたのでありませう。「念仏すること」は我々の心の活動で、外方に向つてはたらくのでありますが、「信ずること」は自分の心の上にあらはれるところの現実の状態であります。  親鸞聖人はこの状態を見て、そこに本願の貴きことを感知せられたのでありませう。親鸞聖人の考へられるところでは、我々が念仏する心の状態は、我々が自分の力を見限つたときにあらはさるものでありまして、それは仏の心が我々をして念仏せしめるのであると感ぜられるのであります。  信ずるといふことも仏の心が我々をしてさうあらしめられるのであります。これは自分の心としては何等価値のないものであると知られたときにあらはれる心持であります。  弥陀教  それ故に「信心を本と為す」といふことは、一方にありては自分の心を全く捨てることであり、一方にあつては仏の本願を疑はぬことでありますが、さうした心持になりて、そこにあらはれるところのものは、それが仏の光明に照らされたといふ感情であります。  不思議の力に動かされたのであるといふ感情であります。いかにも不思議で、しかもそれは全く自分の心でないものであると知られたときに、それが他力であると言はねばならぬのであります。  さうして、その他力が全く阿弥陀仏の本願に外ならぬものであると感知したときに、ただその本願に信順して念仏するの他には何事もなすべきものはないのであります。これを弥陀教と申すのであります。 昭和七年二月一日印刷 昭和七年二月三日発行 中山文化研究所 秋山不二 印刷者 長宗泰造 印刷所 厚徳社 東京市麹町区内山下町一丁目一番地 東洋ビルヂング四階 発行所中山文化研究所