新選妙好人伝第一編 俳諧寺一茶 新選妙好人伝序文  富士川 游 撰  今から凡そ百十九年ほど前の文政元年戊寅の歳、本願寺の碩徳実成院仰誓師二十五回年忌にあたりて、仰誓師がさきに撰ぴ置かれたる「妙好人伝」初編がその法嗣芳淑房履善師の校正を経て、門人等有志のものの手により刊行せられた。ここに妙好人とは念彿者を指して言ふので、「観無量壽経」に『若念仏者、当知、此人是人中芬陀利華、観世音菩薩、勢至菩薩、為其勝友、当坐道場生諸仏家』とあるに本づいたのである。芬陀利華は梵語プンタリーカの音訳にて支那の言葉にて言へば白蓮華である。其色雪の如くC浄潔白にして泥の中に生じて泥に穢がされず、微妙殊勝のものであるから妙好華とも名づけられる。善導大師の「散善義」に、芬陀利華といふは人中の好華と名づけ、希有華と名づけ、又人中の上上華と名づけ、又人中の妙好華と名づくるといふことが記してあるところから、念仏の行者を指して妙好人といふのである。親鸞聖人の「正信念彿偈」の中に『一切善悪凡夫人、聞信如来弘誓願、仏言広大勝解者、是人名芬陀利華』とあるはすなはちこれである。まことに、一切善悪の凡夫にして若し一念、阿弥陀仰の本願を聞信したならば、それは広大勝解のものである。愚闇にして自己の相の醜悪なることを知らず、又無智にして人間の虚仮なることを知らざる凡夫と雖も、如来の本願に照らされて、よく自己の実相を知り、又人間の虚仮が明かに信ぜられるときは、如来の光明の中に出でて、その身は依然として醜悪であり、無智であり、又人間は虚仮でありながら、闇黒は変じて光明となり、泥の中より出でて泥に染まざる白蓮華の如く妙好のものになることが出来る。これを妙好人と貴ぶことは当然である。  出雲安来徳応寺の誓鎧師は「妙好人伝」初編に序を書きて「凡そ世の中にあらゆる人の静ならざることは春駒秋猿のごとく、歴対境して移り易く、一方にうつれば一方を忘れがちなるは世の常のならひぞかし、されば本願を信じ、念仏を行ぜん人は常に此文をよみて、殊にすぐれたる人の跡をあまんじて、このてかしはのふたばもなく、とにかくに、仏恩の方に心を移し、報謝のつとめを忘れざらましかば、賢を見ては齊しからむことをなどいひけんためしともいふべし』と言つて居られる。さうして後に     いにしへのかしこかりつる跡とひて           仏の道にすすめとぞおもふ 一首の和歌が附託してある。  「妙好人伝」初編に収められたる妙好人は和州九郎、芸州喜兵衛、石州石橋壽閑等を始めて都合十七人で、その略伝が載せられて居る。「妙好人伝」二篇は美濃伝精寺の僧純師が撰述せられたもので、天保十三年以後、順次刊行せられて第五編までに及び、更に安政六年に象王師撰述の「続妙好人伝」が刊行せられた。明治年間になりても妙好人の伝記は幾つとなく刊行せられた。何れも悪逆兇暴のものが阿弥陀仏の本願を聞信して、それに信托せるによりて穢質を無碍光中に投じ、妙果を芥爾心頭に結びたるものの記録であるから、これを勲硯翫味するときはその妙紆の妙好たる所以を明忙することが出水る のである。  しかも、その叙述の体裁に於て、十分なりといふことが山来ぬのは、妙好人の伝記の多くのものが、それが実に白道を踐み、みづから実號を行じて景b享け、その化が家族郷党に及びたることを挙げたるに止まり、十分にくわしくその宗教の心の状態を明かにすることの出来ぬことである。私が今ここに公にしやうとするものは、その道の人からは妙好人と言はれるかどうかは知らず、その日常生活に於て、十分に宗教の心をあらはして居るものと認められる人々を撰び、その宗教の心の状態をなるべく精細に追究することが出来るものを挙げて、これを「新選妙好人伝」と題したのである。さうして、それ故にこの妙好人伝の中には、仏教の何れの宗派に属するに拘らず、又所謂念仏行者若しくは所謂難有屋連中でなく、仏教の僧侶は固より儒者の中にても、その心のはたらきが真実に宗教の心をあらはしたものであると認むべき人々の伝記を略述しやうと思ふ。これまでの妙好人伝といへば主に在俗の弥陀教信者が念仏の生活によりて自他を利益したことが叙述せられて居るのに反して、この「新選妙好人伝」は宗教の心が個々の人にあらはれる状態を示すことを主としたのであるから、所謂法悦の状況を記載することはなるべくこれを避けて、むしろ真実に宗教の心をあらはしたるものと認められたる人の精神の状態を心理学的に分析することをつとめたのである。  惟ふに、宗教の感情は、己を虚うして一切の事物に対するときは、誰人と雖もこれをあらはすことの出来るものである。如来の本願といはるる宗教上の言葉は、この宗教の感情を本としてあらはるるところの宗教的意識を指すのである。今私はむかしの人々の中に、此の如き宗教的感情のよくあらはれたるを見て、これを鏡として自己の相を照らすことをつとむるの資料として太だ有益であることを信じ、故らに新選の文字を冠して、この妙好人伝を世に公にしたのである。聊か蕪辞を陳ねて、この書の序文とする。    昭和十一年八月上浣  新選妙好人伝第一編  目次  俳諧寺一茶  その略伝  一茶の性格  一茶の宗教  内観  自然観  人生観  慈悲心  報思謝徳  念仏生活  俳諧寺一茶  富士川游 述  一茶といへば誰人の耳にも己に聞き慣れて居られる俳諧の名家で、徳川時代の末期、文化・文政の頃に世に出でて俳諧の領域に新しい方面を開拓した人である。俳諧は本と和歌の一種で、和歌の三十一文字なるを十七文字に縮めて、主として滑稽の詞を用ひて自然や人生を詠じたのであつたが、元禄の頃に芭蕉が出でて、それに新しい精神を吹き込み、俳諧を以て自然のマコトに見入るものであるとしてから、俳諧はここに新に文学上の価値を多分に有するに至つた。しかるに、芭蕉が去りてから後、芭風の俳諧も、漸次に伎巧を弄するものとなりて、それはただ精神のない形体だけのものとなつてしまつた。  一茶は芭蕉の後、百余年にして世に出で、それに又新しい精神を注入して俳諧を生かしたのである。殊に一茶は芭蕉に異なりて思ふ所をそのままに表現した所にその特徴があり、奇警を以て独自の俳境を開いたと言ふべきである。しかしながら、私は今、一茶の俳諧につきて文学上の評論などをしやうとするのではなく、俳諧の名家たる一茶の俳諧にあらはれたる宗教の心をしらべ、これをその日記や行状などにくらべ見て、六十余年に亘れる一茶の生活が、宗教的に見て、いかに美しいものであつたかといふことを簡単に叙述しやうと思ふのである。       その略伝  徳川時代の俳人の内には、奇人といはれるものが尠からず有つたが、その中にも、豪宕不覊で、世塵の外に超越したものに、前に元禄年間の惟然坊があり、後に俳諧寺一茶があつた。一茶は性を小林といふ、信州柏原の人、農夫弥五兵衛の子である。通称を弥太郎といつた。三歳の時に母を失ひ、祖母の手に育てられた。八歳の年に継母(倉井村さつ)が来て、十歳のときに義弟仙六が生れた。継母と一茶との仲が善くなかつたので、一茶十四歳の時に祖母が亡くなつたのを機として、父のはからひによりて江戸に出ることになつた。江戸に出てから十数年の間はその滑息が詳かでないが、二六庵菊明と號して葛飾派に入つたと伝へられて居る。しかしそれも意に満たずして三十歳の時に遂に葛飾派を脱して、俳諧寺入道一茶と名のりて、独自の俳諧を築くべく努力した。三十九歳の春、帰郷したが、不幸にも父の病が重く一茶は心を尽して看護したにも拘らず、養生かなはずして父弥五兵衛は遂に死亡した。父の死後、遺書を本として財産争が、一茶と継母ならびに義弟との間につづけられた。父を亡くした悲しみと執拗なる財産争からの苦痛を慰めるためでもあつたか、一茶は江戸に帰りて後諸方への行脚に日を送つたのであつた。それから後、幾たびも郷里に帰つたが、継母や義弟などの冷遇に心進まずして何時もすぐに江戸に帰つた。五十一歳の時に至りて仲裁者の手によりて永年の葛藤も解けて父の遺言の通ほりに財産を分つこととなつたので、その翌年、一茶は五十二歳の老齢を以て始めて常田氏の女の菊(齢二十八歳)を迎へて妻となし、ここに始めて家庭生活に入ることになり、江戸の俳壇を退き信濃の山の奥に帰つた。しかし、一茶は三十代で己に頭髪が白く、五十二歳で妻帯したときは歯が抜けて居つたといふことである。それから五十四歳の時に痔に罹り、五十八歳の時に中風に侵されたが、幸にして翌年病癒えた。「今年からまるまうけぞよ今朝の春」と詠じ、蘇生房と號した。それから三年の後、妻菊女が死した。同棲八年夫唱婦和のすがたであり、その間に四男一女を挙げたが、皆夭折したのである。翌年雪女を後妻としたが、直ちに離縁した。次で第三の妻やよ女を迎へた。六十五歳の六月朔日火災に遇ひ焼け残りの土蔵に住居して居つたが、再び中風に罹り、文政十年十一月十九日、その齢六十五歳にして歿した。その枕邉には親しい門人が三四人見とつて居つたばかりで極めて淋しいものであつたと伝へられて居る。  世間的に言へば一茶の生涯はまことに恵まれざるものであつた。幼にして実母に別れ、次で継母に虐げられ、年若くして家郷を離れ、流浪の生活を続け、晩婚の樂しき世界に居つたことも僅に数年にして最愛の妻に別れ、その間に産まれたる小児は相嗣ぎて夭折し、継母や義弟との財産争に一方ならざる苦痛を嘗め、生計不如意なりしが為に里正から年貢を責められ、又貸金を責められたなどの悲惨な境遇に生きたのである。普通ならば人を怨み、世を呪ひ、自暴自棄に陥り、不平と不満の心でもがくべきであるのに、一茶は常によく苦痛に堪へ、清貧に甘んじ、吟詠自適の生活をなして居つたのである。       一茶の性格  一茶の性格には所謂継子根性のヒガミが多かつた。それは一茶が継子として生ひ立つたためであらうと言はれて居る。  「親のない子は何処でも知れる、爪をくわへて門に立つと、小供等に謳はるるも心細く、大方の人交りもせずして、裏の木萱など積みたる片隅に跼りて長の日を暮しぬ、我身ながらも哀れなりけり     ままつ子や涼み仕事に藁たたく」  一茶が自から記すところに拠れば、継母は甚だ意地の悪るい人であつた。文化五年一茶四十六歳、祖母の三十三回忌を營むだときの事を記したる文に、次のやうに書いてある。  「明和九年、後の母、弟仙六を生めり、此時信之(一茶幼名)は九歳になむなりけり、此日より信之、弟仙六の抱守に、春の暮遅きも、花に涎の衣を絞り、秋の幕早きも尿に肌の乾く時なかりき、仙六むづかるときは、態となむ、あやしめる如く父母に疑はれ、杖の憂目を受ること日に百度、月に千度、一年三百六十五日、目の腫れざることなかり鳬」  これに依ると一茶は継母のために涙の滲むほどに虐待せられたやうに思はれる。しかし此時には一茶を可愛がつた祖母も居つた。おとなしさうな父も居つた。継母もまさか一茶が言ふやうな虐待もしなかつたであらう。一茶が六十二歳、文政六年の日記にも次のやうなことが書いてある。  「園原や、そのははならぬははき木に住みなれし伏家を掃出されしは十四の歳にこそありしが、巣なし鳥の悲しみは直ちに塒に迷ひ、其処の軒下に露を凌ぎ、彼処の家陰に霜をふせぎ、あるは覚束なき山に迷ひ声を限りに呼子鳥、答ふる松風さへ物淋しく云々」 六十余歳の高齢に達しても、一茶は猶ほその幼時を追懐して、執拗にも継母に虐待せられたことを恨みがましく言つて居る。又義弟の仙六(弥兵衛と改名)に示すといふ文には次のやうに記してある。     「示弥兵衛(仙六の改名)  牛盗人と見らるるとも、後世者の行迹すべからずとは、尊き教へなるを、いかなれば、盗人にもあらざるにあらずといふ、賊心の上を、肩衣もて装ひつつ、專ら逆道のみ行ふを、後世者といふ、にがにがしき処からなりけり     春風の底意地寒し信濃山」  いかにも露骨に義弟仙六の腹黒きことを罵倒して居る。一茶が継母の意地の悪るいことをいふのも、義弟の腹黒きことを言ふのも、やや誇張に過ぎたやうに思はれるが、一茶と継母・義弟との間が不和であつたことは事実であつた。それも継母・義弟の一方のみを責むべきではなくて、一茶にも我執の甚だ強いところがあつた。それに普通の人であれば、自分の思ふところを遠慮なく筆や口に上ぼすやうなことは無いのに、一茶は恨めしいことは恨めしいやうに、腹の立つことは腹の立つままに、つつまず、いつはらず、極めて露骨にその真情をあらはした人であつた。一茶のこの性格は無論その俳諧の言葉の上にもよくあらはれて居る。  一茶は腹黒き奴なりとまで口を窮めて罵倒したる義弟の仙六のことにつきても「父終焉日記」の中に次のやうに書いて居る。  「父は病の重り玉ふにつけ、孤の我身の行末を案じ給ひてんや、いささかの所領は、はらからと二つ分けにして与へんとて、苦しき息の下より指図《さしづ》なし玉ふ、先づ中島てふ田と、河原てふ所の田を弟に附属せんとありけるに、仙六心に染まざりけん、父の仰せにそぶく、其日父と仙六いさかいして事止みぬ、皆、貧欲、邪智、諂曲に眼くらみて、かかる敦囲《いきまき》は起りけり云々」  それから次には  「父の心に叶はざる弟なれども、今はの時に至らば本意なくやあらむと、弟の心を思ひやりて、父の傍に寝させつつ、灯のかげに寝顔を振向けて、父の寝姿を守り居たりけるに云々」  口の上では賊心の上を肩衣にて装ひたる奴とまで罵倒せる義弟の仙六に対しても、一茶の心にはなほ一掬の涙を垂れるだけの同情を有して居つたのである。それに、一方にありては同じ「父終焉日記」の中に、一茶が義弟の仙六を熊膽乞に走らせしを、父が怒りて八釜敷言ひしを、継母がよき折柄とて声をはげまし、仙六に朝飯もたべさせずして使にやつた一茶の骨盗人よと、あたりに人なき如くに罵りしことを挙げ、いかに腹がはりなりともかく浅ましく挑みあふとはいはゆる過去の敵としも思はれ侍ると述懐して居る。又父が一茶に和かき言葉をかけると、母は父へつれなくあたる、これも母にうとまるるおのれが枕元に附き添ふ故に、母が父にまで憂き目を見することの本意なさよと嘆いて居る。まことに一茶がかやうにヒガミ根性の強かつたことは、我執の心の強かつたことによるものであらう。どこまでも自己を肯定し、これを押し通ほして行かうとするところに一茶の性格には我慢の甚しきものがあつた。しかしながら、一茶にはすこしも陰瞼のところが無かつた。諺にいふやうに竹を割つたやうな性格の持主であつたやうに思はれる。  一茶は執著が強かつた。現世の一切のものに執著した。文化七年、四十八歳の五月に郷里に帰つたときの記事に  「五月十八日。足の痛み常ならず、木末一本を仏と頼みて僅五里ばかりと三日かかりて漸く故郷見ゆる二十塚といふ所に至る、むつまじき仲ならばとくとく行きて晝から寝ばやと思へども、かねがねねぢけたる家内の輩、例のむくつけき行迹見んも罪つくる、又一里越して野尻魯堂亭に泊る。十九日。村長誰かに遇ひて我家に入る、きのふ心の占のごとく素湯一つともいはざればそこそこにして出る     古郷やよるもさはるも茨の花」  その日は小桝屋太介方へ泊り翌二十日、柏原を立つて江戸に帰つた。  一茶の郷里は一茶に対して、一茶自身が言ふやうに「よるもさはるもばらの花」であつた。遠くながむれば美麗であつたが、荊棘がありて容易に近づくことは出来なかつた。それに、その家には一茶と氷炭相容れざる継母と義弟とが居つた。「故郷は蠅まで人をさしにけり」と嘆息せざるを得なかつたのである。しかるに一茶は「思ふまじ見まじとすれど我家かな」と詠じて、その家郷に対する恋々の情を述べて居る。自分が生れて、さうして育ちたる家郷を慕ふことは凡人の真情である。かやうな凡人の真情をつつまず、かくさず、すこしも飾ることなくして、無邪気にこれを口にし、又筆にするところに一茶の性格の恬淡なる一方面が有つたことが認められるのである。  一茶は子煩惱であつた。五十二歳で結婚してから二年、五十四歳の時に混蔵が生まれて一月余りにして死亡した。翌年千太郎が生れて直ちに死亡した。五十六歳のときにサト女が生れた。サト女二歳の時に  「去年の五月に生れたる娘に一人前の雑煮膳を据ゑ     這へ笑へ二つになるぞ今朝からは」 まことにその子に対する愛情の濃まやかなるものがある。それから又  「洒むのむ折柄、門に月さしていと涼しく、外にわらべの踊の声すれば、ただちに小碗投げ拾ててかたいざりいで、声をあげ、手真似してうれしげなるを見るにつけ、いつしか彼をもふりわけ髪のたけになしておどらせて見たらむには、二十五菩薩の管絃よりも、はるかまさりて興あるわざならむと我身につもる老を忘れてうさをなむはらしける」 と言つて居る。親なればこそ、しかも老人の一人児なればこそ、かやうな喜びが起るのである。しかもその喜びは束の間のことで、翌年六月にはサト女も死去した。そこで一茶は大に傷みて     「露の世は露の世ながらさりながら」 と詠じて居る。この浮世が露の世であるといふことは誰人でも知りぬいて居る。しかしながらその愛児の死を傷むの感情は抑へることが出来ぬ。これが凡夫の真情である。理性にてこれを抑へることを敢てすれば冷酷になる。人が木石でない限り、感情は如何ともすることが出来ぬ。一茶はかやうな煩惱をそのままに肯定して居るのである。まことに人間味のあることである。  文政三年、一茶五十八歳のとき、三男石太郎が生れた。一茶は妻の菊女が養育の方法がよくないので前に生れた小児二人が非常の最後を遂げたのであると信じ、今度は盤石のやうになりて母に押しつぶさるることのないやうにと、石太郎と名づけた。その甲斐もなくこの石太郎も生後九十六日目に死亡した。此時一茶が書きたる文の中に  「母に示して曰ふ、このさざれ石、百日余も経て、百貫目の堅石となるまで、必ずよ、背に負ふ事勿れと、日に千度戒めけるを如何したりけん、生れて九十六日目といふ今日、朝とく背負ひて、負ひ殺しぬ云々」  一茶は愚痴をこぼして、母が負ひ殺したのであると悪口を言つて居る。愛児を失ふた心の歎きが強くして一茶は仲のよかつた妻菊女をも罵倒して居る。  文政六年一茶六十一歳の時に妻の菊女は生後僅かに一年余になれる金三郎を残して死亡したので、遺児の金三郎を隣村の富右衝門といふものに里子として預けた。これもその年の暮近くに夭折した。一茶はそれを富右衛門の妻が乳をのますまねをして水をのまして殺したのであるとなして、大に憤慨し  「如何に人面獣心の富右衛門なればとて此様にむごくなさけなく振舞して皆/\涙おろとさすりぬ、きやつ金を貪るばかりにてなせるにや、何ぞ怨める筋ありて致せりや、風上に置くも恐ろしくなん」  一茶はかやうに、口を窮めて富右衛門夫婦を罵倒し、人面獣心とまで悪口を言つて居る。  これを要するに、一茶の性格は執拗であつた。ヒガミの心が強かつた。どこまでも我執を通ほした。さうして、退て恨むといふやうなことをせず進むで出でて相手を罵倒した。どこまでも無邪気で、又純真であつた。冷然として無視するといふやうなことをせずして明らさまに恨みの言葉を吐露した。人を憎むのあまりに悪口雑言をしたが、その悪口雑言は稚気満々として毒がなかつた。医学的に言へば一茶は変質の傾向のある人物であつたかも知れぬが、兎も角も一風かはつた性格の持主であつたことは争はれぬことであらう。      一茶の宗教  かやうに、一茶は一風かはつた性格を有しながら、その四囲の状況は、生れて間もない幼児の頃から年老て六十余歳で死亡する頃まで、一茶のためには、まことに悲惨のものであつた。しかも、一茶は我執の心が強く、現世の一切のものの愛著から離れることが出来ず、まことに仏教にいふところの煩惱具足の相そのものであつた。しかしながら一茶はその煩惱を断ちて苦惱のない境地に至らうとはしなかつた。何より無常迅速の世の中を超越することをつとめず、又この苦惱の境界から逃避して別に安住の世界を求むることもせず、人間の中にありて我執を通ほし、他の我執を通ほすものと衝突して苦しみ惱みつつ、その生活を樂しむだのである。それは言ふまでもなく、一茶に独自なる宗教の心の世界であつた。一茶が、その宗教の心をば自から表現したものが「おらが春」の終に載せてある。これは一茶が文政二年十二月二十九日に書いたもので、その齢五十七歳の時であつた。  「他力信心他力信心と、一向に他力に力を入れて頼み込み候輩は、遂に他力縄に縛られて、自力地獄の焔の中へぽたんと陥り候、其の次に、かかるきたなき土凡夫とうつくしき黄金の膚になし下されと、阿弥陀仏に押し誂へに誂へばなしにして置いて、はや五体は仏染みなりたるやうにわる済ましなるも、自力の張本人たるべく候、問ひて曰く、如何やうに心得たらんには御流儀に叶ひ侍りなん、答へて曰く、唯だ自力他力なんのかのいふあくたもくたを、さらりとちくらが沖へ流して、さて後生の一大事は其身を如来の御前に投げ出して、地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御はからひ次第、遊ばされて下さりませと御頼み申すばかりなり、斯の如く決定しての上には、南無阿弥陀仏といふ口の下より、欲の網をはるの野に、千長鰕の行ひして人の目をかすめ、世渡る雁のかりそめにも、わが田へ水を引く盗み心をゆめゆめ持つべからず、然るときに、あながち作り声して念仏申すに及ばず、願はずとも仏は守りたまふべし、これ即ち当流に安心とは申すなり、穴かしこ    ともかくもあなたまかせの年の暮              文政二年十二月二十九日  五十七齢  一茶」  「ともかくもあなたまかせ」の一句、実にこれ一茶が安住したる心境であつた。さうして、その「あなたまかせ」の意味は全く己を拾て心を空うしたる心の境地である。如来に押しあつらへばなしにしたりあなたまかせ」でなく、又この世が苦しい、その苦しみから逃れむとする功利的の「あなたまかせ」でもなく、又致方のないことであるからどうでもして下さいといふ自暴自棄の「あなたまかせ」でもない。親鸞聖人が言はれるやうに、萬事につけて善しとか悪しとかといふやうな自力のはからひを止めたところに自からにして感ずるところの本願に対して、全く自己を任せる心の態度に外ならぬものである。かやうな「あなたまかせ」こそ真実の宗教の感情のあらはれであると言はねばならぬ。さうして、一茶がかやうに宗教の心をあらはすに至つたのは果して何時項からであつたか、よくわからぬが、五十に近い頃であつたかと思はれる。五十一歳の時に書いた文には己にかやうな宗教の心がよくあらはれて居る。  「つらつら己の身を思ふに、物の下の草性にやあらむ。桔梗、かるかや、女郎花の類ひ、茅又は薪の下に生えて、永の月日を束の間も伸びることならで、云云、やをら勇み、やをら娑婆の風に吹かれつつ、己がさまざまの姿にならんとすれば、又あらげなき荒箒にかけられつつ生涯花咲くこともなく、五十年の夢、けろりとさめて、只々立枯るを待つのみ、皆これ前世のむくいのなす所なるべし」  五十一歳といへば、一茶が仲裁人のはからひによりて継母・義弟との間にもつれたる財産争を解決した年であつたが、さういふことも、一茶の宗教の心の開けたことに由ることが多かつたかと思はれる。一茶が「月花や四十九年のむだあるき」とか「五十年おどる夜もなく過にけり」とかと詠じて居るものを見ると、この頃に至りて一茶の心機が一転して、四十九年全く無駄に暮したことを自覚し、五十年間自己が歩むだ跡をかへり見て、感慨に堪へなかつたのであらう。  「おらが春」の中には、山にて拾ひ来りて庭の小隅に埋め置きたる栗の実が芽を出したるを積雪のために根際より折られたることを叙して  「人ならば直ちに無常のけぶりと立昇るべきを、古根よりそろそろ青葉吹いて、辛うじて一尺ばかり伸びけるを、また前の如く家の雪を落とし込まれてぽきりと折れ、年々折れ折れて、今年七月の星霜を累ぬれど、花咲き実入る力なく、されど此世に緑つきざれば、枯れも果てずして生涯一尺程に生きてゐるといふばかりなるべし、われ亦左の通ほり、梅の魁に生れながら茨の遅生へに地をせばめられて、鬼婆山の山面に吹き折られして、晴々しき世界に芽を出だす日は一日も無く、今年五十七年、露の玉の緒の、今まで切れざるも不思議なり、然るをおのれが不運を科《とが》なき草木に及ぼすことの不便《ふびん》なりけり。    撫子やままははききの日陰花  さるべき因縁ならんと思へば、苦しみも半生とはなりぬ。」  又一茶が五十九歳のとき、三男の石太郎が死亡したのを哀しみて、母の菊女の看護の不行届を責めての後に  「あはれ今迄嬉しげに笑ひたるも手の裏かへさぬ内、苦々しき死顔を見るとは、思へば石と祀したるは仇し野の墓印にてありける、斯く災にわざはひ累ねぬるは如何なる過世の業因にや」 と述べて居る。かやうに一茶が前世のむくいといひ、さるべき因縁といひ、或は過世の業因といふのは、固より仏教にて教へられたる言葉を用ひて自己の心持を表現したのである。普通に考へれば、一茶は、その境遇によりて起るところの心の苦しみを如何ともすることが出来ずして、これを運命に帰して諦めたのであるが如くに思はれる。人間には如何ともすることの出来ぬ運命であるから、これを業とか、因縁とかに帰して自から諦らめるより外はないとしたのであるやうにも思はれる。しかしながら、この頃から後の一茶の生活よりして考へれば、決してさういふ諦めの言葉としての因縁とか業とかといふものでなく、全く深く且つ靜かに自己を内観して、自己の無能無力を自覧し、彼や此やとはからふことをやめての心の上に感じたる業とか因縁といふものである。それは全く自己を否定しての上にあらはるる心である。自己を肯定する心の甚だ強い一茶が、さういふやうに自己を否定することの出来るやうになつたのは言ふまでもなく宗教の心のあらはれである。さうして、それが深き内観の結果であることは明かである。       内観  一茶は自分の愚かさを痛感して、次のやうに言つて居る。一茶六十歳、文政五年正月の日記に  「御仏は暁の光りに四十九年の非を悟り給ふとかや、あら凡夫のおのれ如き五十九年が間、聞きよりくらきに迷ひて、遙かに照らす月影さへ頼むほどの力なく、たまたま非を改めんとすれば暗々然として盲の書を読み、蹇の踊らむとするに等しく、迷ひに迷ひを重ねぬ、げにげに諺にいふ通ほり愚につける薬もあらざればなほ行末も愚にして愚のかはらぬ世を経べきことを願ふのみ」  「今までに兎も角もなるべき身を不思議に今年六十二の春を迎へぬるとはげにげに盲亀の浮木にあひたる喜びにまさりなむ、無能無才もなかなか齢を延ぶる薬になんありける      春立つや愚の上に又愚にかへる」  一茶はかやうに、自己の愚劣を痛感して、その愚劣の如何ともすることの出来ぬことを覚悟したのである。五十九年の間闇きより闇きに迷つたことの非を悟つた一茶は往事を追懐して感慨に堪へぬものが有つたに違ひない。しかるに、一茶は「愚につける薬もあらざれば、なほ行末も愚にして愚のかはらぬ世を経べきことを願ふのみ」と言つて居る。まことに一茶は自身が人間の凡夫であるといふことを自覚した後にもその人間を離れることを願はなかつた。むしろ人間の凡夫として人間の凡夫そのままの生活を望むだのであつた。かういふ所に一茶は自己を否定することが出来て「愚の上に又愚にたちかへる」といふやうな心をあらはすことが出来たのである。さうして、そこに安心立命の宗教があらはれた。「愚にして愚のかはらざる世を経べきことを願ふ」といふことも単なる諦めの言葉ではなかつた。  一茶が五十七歳のとき、自分の画像を自分で画きたる上に、自分の姿にいふとして「ひいき目に見てさへ寒いそぶりかな」と書いたものが伝はつて居る。一茶はどこまでも自分をば現実の相そのままにながめて何の隠すところもなく、自分の姿の貧相なることを告白したものである。  一茶が詠じたる俳諧歌の中に、自己の心の相を言ひあらはしたものが尠なくない。   「かくれみのかくれぬものは世の中の          人の心の鬼にぞありける」   「翌もありあさつてもありと露の世の          露を露とも思はざりけり」   「うけがたき人と生れて鬼茨の          とがとがしくも世を過すかな」   「我心外へひらけば鬼茨の          角ばかりなる野邉にぞありける」   「露霜はいたくおけども山柿の          渋のぬけざる我心かな」   「ゑいやつと人に生れて山道の          曲りくねりて世を渡るかな」  俳諧にも伺様に一茶が自分の心の醜き相をその儘に詠じたものが多い。   「長き夜や心の鬼が身を責める」   「おのれらも花見虱にて候よ」   「ばか蔵も一役するや里神樂」   「けふの日も棒虫よ翌もまた」   「恥かしや絲瓜は絲瓜の役に立つ」   「日が長いなんのとのらりくらり哉」   「生きて居るばかりぞ我とけしの花」   「それがしも宿なしに候秋の暮」   「苦の娑婆や花が開けば開くとて」   「腹中の鬼も出て見よ花の山」  人間凡夫の心の醜悪なる相がよく写し出されて居る。自分がその凡夫の一人であることが十分に自覚せられて居るところに一茶の内観の深かつたことが窮はれるのである。  支那の明の時代に洪自誠が著はしたる「菜根譚」は精神修養に資する良書であると言はれて居るが、その中に「心虚なれば則ち性現ず」といふ語が挙げてある。性といふは天性ともいひ、天然の本性である。仏教に言ふところの仏性もすなはちこれである。心といふのは心念とも言はれるもので、その本は本性からあらはれて来るもので、普通に我々がココロと称して居るものである。若しこのココロを虚しくして無念無想であるときにはその本性たる仏性があらはれるといふ意味である。我々のココロは言ふまでもなく取捨愛憎の念に満ちて居るものであるが、その現実の相を明かにし、その取捨愛憎のココロをその儘に見るときは、すなはち所謂無念無想と同じやうな精神の状態となるものである。さうして、さういふときに仏性のあらはれることが感知せられるのである。一茶の内観はまことに徹底して自己の醜悪なる相とそのままに見たのであるから、そこに本性があらはれたのは当然である。しかしながら、一茶がその内観を深くして、此の如き心の境地に達したのはずつと後の事で、三十九歳その父親が死亡したときの「父終焉記」の中には  「あはれ我はこの家の総領と生れながら、如何なる過去の縁あればや、親に仕へ附添奉らんこと叶はず、しかりといへども博奕遊戯を好み、親の財寳を損したるにもあらざるに、前世に世を譫したる報ひに天より拙き性を下し給ふにやあらむ、一寸の孝をつくさんとあれば直ちに一尺の魔のそねみにあひ、小鹿の角の束の間も家の治るときしなかりき」  自己の境遇の不幸をかへりみながら、なほどこまでも、その責任を周囲に嫁せむとして居る。天より拙き性を下したまふたのであるかとまでに外の方をながめて居る。その心境が段々と発展して、遂に心を虚ふして性をあらはすに至つたのは前にも言つた通ほり、五十に近き頃よりして漸々にその内観が深くなつた結果であると言はねばならぬ。       自然観  一茶は此の如くにして、その心を虚うして性を現はしたのであるから、周囲の一切のものに対して、自己に対するその価値を見た。ただ徒らに自然が美しいとか、醜いとかといふやうな事相の外面のみを見たのみでなく、自然の中に存して居るところの真実を見たのである。己を虚うして性をあらはした一茶のためには自然といふものは人間のやうな喜怒哀楽の大なる生命であつたのであらう。一茶はさういふ自然を鏡としてそれに対して自己を写したのである。   「老ぬれば櫻も寒いばかりかな」   「死支度致せ致せと櫻かな」   「今のめるまでも花咲く老木かな」   「どんよくも連れてちれちれ山櫻」   「蝶とんで我身の塵のたぐひかな」   「夏の蝉しかし我等が先じややら」   「苦の娑婆や虫も鈴ふるはたを織る」   「心から鬼とも見ゆる雲の峰」   「露ちるやむさい此世に用なしと」   「ただ頼め頼めと露のこぼれけり」  俳諧歌の中にも次のやうなのがある。   「人の道しらざる山に鶯の       法ほけ経の声をからして」   「ただ頼め頼めとて白雪の       仏もとけて見せたまひけり」  己を虚うして自然に面すれば、自然は常に法を説いて居るのである。靜かにその説法を聞いて我々はますます自分の心の醜悪たることを感知すると同時に、自然を通じて広く宇宙に充ち満ちて居るところの真実を仰がざるを得ぬのである。  人生観  一茶はかやうに、自然をば鏡として、自身の相をそれに写して見た。自然は平等にして人間のやうに差別の心をあらはして居らぬ。自然は靜寂にして人間のやうに一寸のことに狼狽することをせぬ。自然は真実にして人間のやうに虚飾に浮身をやつすことをせぬ。しかしながら、一茶は進むで此の如き自然の中にその身を入れることをせず、退て自然に対して靜かに自身の愚劣なる相を写したのであつた。それ故に一茶は、自分等の生前の相をば   「世の中は地獄の上の花見かな」   「咲く花の中にうごめく衆生かな」 と考へざるを得なかつたのである。明日をも知れぬ命をもち、しかもそれは地獄に堕つることは一定であるのに、それを何とも思はず、晏然として花見をして居る。一茶は、かやうに、我々人間の生活が真実から離れて居ることに寒心せざるを得なかつたのである。   「ゑいやつと人に生れて山道の           曲りくねりて世を渡るかな」   「浅間しや仏ぎらひも白露の           たまたま生れ出でしこの世を」  思ふに、人間と生れることは決して偶然のことではない。萬物の長たる人間に生るべき因縁の上上なるものがあつたればこそ、ゑいやつと人に生れたのである。それにも拘らず、我々は曲りくねりて、徒らに日を費し、心を無益のことにのみ勞して露の命と終ることはいかにもあさましいことである。   「君が代の大めし喰て櫻かな」 太平の世に出でたる我身なればこそ、大めしを喰て櫻を見ることが出来るのである。かやうな幸福の世に住みながら我々はなほその幸福を足れりとせず、有るが上にもなほ有らむことを望み、己に有るものはこれを失はむことを恐る。   「日が長いなんのとのらりくらりかな」   「日が長い長いとむだなこの世かな」   「日が長い長いとばかり御仏の           道にも入らで過しつるかな」  まことに恥づべきことである。人生僅かに五十年といふ。その僅なる五十年の間こそ我々自身のものであるのに、その自身のことを顧みずして、徒に外物に心を奪はれ、さうしてそれに使はれて、遂に地獄に堕つるといふことは、いかにも愚劣のことである。一茶はかやうに、自然に対し、自己の相の愚劣を写しみて、つくづくと人生の果敢なさを感じたのであらう。文化六年の日記の中に、ある所に五尺ばかりの碑文のありしを見たことを記したる末に      「狂歌   極楽も地獄も活きて居るうちぞ         死ての後は何か有べし    空翠  いささかてには違ひけると覚ゆ、此人はいかに世界を看破したるならん。」  ただ現実のみを見て埋想を有せず、物質的生活に齷齪《あくせく》として精神的生活を期図せざる輩を見て、その人の宇宙観は如何であらうぞと憫れむだところに一茶の宗教の心の強かつたことが窺はれる。       慈悲心  一茶の俳句にして、人口に膾炙して居るものの中に   「やせ蛙まけるな一茶これにあり」 といふのがある。弱いものに同情する心が溢れて居ることは言ふまでもないが、その同情が下等の動物にまで及むで居るところに、慈悲の心の強いことが認められる。   「とくかすめとくとくかすめ放ち鳥」  籠の中に囚はれて居つた鳥に向つて、そこにうろうろして居ると又捕はれるから早く遠くへ飛で行けよといふのである。   「やれ打つな蠅が手をすり足をする」  蠅が手をすつてたのむから、むごたらしくそれを打ち殺すことをするなといふ。   「さを鹿よ手拭貸さむ角のあと」  さを鹿の角の落ちたる凹みが痛々しく感ぜられて堪まらず、手拭を貸してやらうかといふのである。   「石畳つぎ目つぎ目や草青む」  石を敷き列ねたるところで、そのかすかなる石の間に生えた小さい草が、春の心になりて青むで行くのを見て慈悲の心があらはれたのである。   「その連れに我もあるぞよすがれ花」   「よろよろと我もまけぬぞ女郎花」  かやうに一茶の慈悲の心は動物や草木にまで及むで居る。動物はいふに及ばす草木にありても、我々人間が大切として居るところの生命と同じものを有して居るのであるから、これを尊敬せねはならぬ。仏教の言葉を用ひて言へば一切の衆生は悉く仏性を有して居るのである。いかなるものと雖も同じく仏になるべきものである。同じく仏になるべきものを見て、それに慈悲の心をあらはすことは当然である。       報恩謝徳  一茶が此の如くに宇宙を観、人生を観、さうして最もよく自身を観たる後に、その日常の生活の上に著しく認められたのは報恩謝徳の心であつた。それが宗教の感情に本づくことは言ふまでもない。  文政二年、一茶五十七歳のときに著はしたる「おらが春」の巻頭に、むかし丹後の国に深く淨土を願ふ上人がありて西方阿弥陀仏より年始の使僧が来る真似としたといふ話を挙げたる後に   「それとはいささか替りて、おのれらは俗塵に埋れて世渡る境外ながら、鶴亀にたぐへての祝尽しも厄拂の口上めきて、そらぞらしく思ふからに、から風の吹けばとぶ屑家は、くづ屋のあるべきやうに、門松立てず、煤はかず、雪の山路の曲りなりにことしの春もあなた任せになんむかへける    目出度さもちう位なりおらが春 一茶」 と記してある。与へられたる身体をその儘に、与へられたる境界に安息し、すこしの不平もなく、又何等の不安もなく、有るがままの世に、有るがままの命をつづけるところに仏教に言ふところの報恩謝徳の心があらはれるのである。   「雨笠も日笠もあなた任せかな」   「涼風も仏まかせの我身かな」   「あなた任せ任せぞとしは犬も取る」   「あばらやのその身その儘明けの春」  これらの言葉を、表面的に聞くと、世間人のいふところの悟つた境界で、世の中を何とも思はずに平気で生活して居つたと言はれる。しかし事実は決してさうでないことは一茶の伝記がよくこれを証明して居る。巳に前にも言つたやうに、一茶はすべての事物に執著する心の強い人であつた。自我を固守して愛と憎との淋しき闘争に従事した人であつた。一面にかういふ執著の心の深かつた一茶が、一面に於て「あなた任せ」といふやうな心をあらはしたことは矛盾であると見られるのが常である。しかしながら、宗教の心はさういふ執著の心を機としてあらはれるもので、執著の心を拂ひ除けて別に柔軟の宗教の心があらはれるのではない。一茶は家庭の事情や、周囲の状態などに対しても惱みをつづけたのであつた。自己の日常の生活にありても世人の所謂不仕合に対して常に苦しまざるを得なかつたのであつた。しかるに、一茶は惱めば惱むほど、苦しめば苦しむほど、悲しめば悲しむほど、ますます深く自己の内へと入ることの出来たために、一旦の惱みも永久の惱みとならず、一旦の悲しみも永久の悲しみとならず、常に仏の光に觸れてその心が柔軟となることが出来たのであつた。これ明かに宗教の心のあらはれである。儒教にては天地は人の大父母で、人は天地の気より生まれ、又生れて後は天地の養を受けて身を立てるのであるから、天地の恩は広大にして窮まりなしと説くのである。さうして、その広恩に報ゆる道は天地の御心に従ひて背かざるやうにつとむることである。仏教にては四恩といひて、父母の恩、衆生の恩、国王の恩、三寳(仏法僧)の恩と挙げて居るのであるが、要するに我々が周囲より受るところの恩の一切を挙げていふのである。我々が生きて行くために、周囲の一切のものの助けを受けて居るといふことを知るところに、その恩恵が感ぜられるのである。一茶が天地自然に対してあなた任せと歌つて居るところにも、これを一面より見れば自然に服従するのであるやうに思はれるが、深く考へて見ると、それは全く天地自然の恩徳を感じて、ありがたく感ずる心のあらはれであることが明かに認められる。   「明月の御覧の通ほりの屑家かな」 皎々《こうこう》たる月は中天に県りてすべてを照して居る。屑家の中に一茶は靜かに月の光をあびて居る。さうしてこの見すぼらしい屑家までもお月様は照して下さる、まことにありがたいと感射する心はまことに安かなものであらう。   「山の月花盗人を照したまふ」 咲き匂ふ山櫻の花を月が明かるく照して居る。その光景はまことに艶麗といふべきである。さういふ自然の情景を歌ふものは少なくない。しかるに一茶は此の如き場合にも自己を反照して、お月様は花を盗むやうな心のよくない人をも平等に照したまふと詠みて月の恵みに対する禮を述べて居る。   「かう生きて居るも不思議ぞ花の陰」 何と言つても我々が愚悪の身む以て、かうして生きて居ることは不思議である。それも天地自然の一切のものの恩恵に外ならぬことを思へば、花の陰にありて感謝の心の起ることは当然である。   「山櫻人をも鬼と思ふべし」  山櫻が美しく咲き乱れて居る。しかしながら櫻はすこしもその美しさ誇る様子もなく、又人が見てくれぬとてちつとも怒る気色はなく、しかも咲くべき時が来れば咲き、散るべき時が来れば散るのである。若しこれが人間であれば、かやうに美しく咲いても人が賞めて呉れず、所謂縁の下の力持であるから来年からは咲くことを止めやうといふことであらう。「歎異抄」に「まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして我も人も善し悪しといふことをのみ申しあへり」とあるが、我々はただ櫻の花の美しいといふことをのみ沙汰して、その花が我々に何と示して居るかといふやうなことは言はない。如来が櫻の花を通ほして我々に教へたまふことを知ればその恩恵の探きことを感謝せねばならぬのである。かういふ心からして見れば山櫻は人間を鬼のやうなものと思ふて居るであらうといふ一茶の俳句は、宗教の感情が強くあらはれたものであると言はねばならぬ。  一茶が作りたる文に「勸農訶」と題するものがある。それは後の畑、前の田の作物に志して自から耕し、先祖の賜と命の親に懇を尽して自己の業に樂しむべきことを真面目に説いたもので、その終に「柳々田地は萬物の根元にして国富の至寶なれば父母の如く敬ひ、主の如く尊み、妻子の如く育み、寸地をも捨てず、何処にても鍬先の天下泰平五穀成就を願ふより外更になし   今年米親といふ字を拝みけり」 と記してある。田地から収穫した米の俵をながめて、天地の親様を拝み、父母の志を貴とみてますます田地に親しむといふ意味である。   「焚くほどは風がくれたる落葉かな」  自然は風によりて焚くほどの落葉を呉れると自然の恩恵の広大なることを詠じたのである。  天地自然の恩恵に対してかやうに感謝せる一茶は、人間に対してはそれ以上に感謝の心をあらはして居つた。   「田の人よ御免候へ画寝蚊帳」 一茶は夏は蠅を嫌つて画も蚊帳をつり、その中に居て飯をたべたらしい。しかしそれは炎天やくが如き日中に田の中にて仕事をして居る人に対してすまぬといふ気が強く、御免候へと詫言して居るのである。「もたいなや画寝して聞く田植歌」もまた同じやうな心もちを表現したものである。   「子供らを心でおがむ夜寒かな」  夜寒くして寝に就きにくい折、子供の貴さをしみじみと感じて、心の中で子供に感謝するといふ。一茶の心がいかにも強い宗教の感情をあらはして居るのである。言ふまでもなく、我々は多くのものを子供に与ふるのであるが、また子供から与へらるるものも尠なくない。子供を持ちて始めて親の恩を知るといふ諺もある。我々が子供から学ぶところも決して尠なくない。冬の夜の寒い折柄に靜かにこれを考へれば子供等を心でおがまざるを得ぬのである。       念仏生活  一茶は真宗大谷派本願寺の門徒の家に生れたのであつた。父親は農業を七分、駄馬追を三分位の家業に孜々として働いて居つた田舎者で、始終念仏して居つたものと思はれる。「父終焉記」の中に「四月二十八日、晴、祖師の忌日なりとて、朝とく嗽ぎなどし給ふに、熱のさはりにもやならんと止むれども一向にとどまり給はず、御仏に向ひ常の如く看経なし給ふに御声低う聞ゆる、云々、五月三日、今迄神仏ともたのみし医師にかく見はなさるる上は秘法仏力を借りて諸天応護のあはれみを乞はんと思へども、宗法なりとて許さず、只手を空しうして最後を待つより外なかりけり」とある。一茶は淨土真宗の家に生れて朴直なる父親の念仏を見聞して居つたが、しかしこの頃は一茶の心がまだ淨土真宗の心であつたとは考へられぬ。淨土真宗は阿弥陀仏の本願に信順するの教で、一茶が後になりて「おらが春」に書いて居るやうな他力信心を説くものである。一茶の宗教が他力信心といふ言葉にて表現せられたのは言ふまでもなく、淨土真宗の家に生れて、説教や念仏などを見聞したことが機縁となり、自己の心の奥にあらはれた宗教の感情を、淨土真宗の用語にて言ひあらはしたものである。一茶が文化十三年、五十五歳の時、江戸から下総に遊むだとき留守中の妻の菊女に送つた手紙の中に「何働かずともよろしく候間十四日十七日の茶日ばかり忘れぬやう頼入候」とあるが、一茶は三十六年の長き放浪生活の間にも、帰省する度毎に必ず祖先の墓へ参ることを怠らなかつたと伝へられてゐる。あるとき、義弟の仙六と展墓したとき、その墓石を手拓して雪深くして参り難き間の心やりとしたこともその日記の中に記されてゐる。又伝へられるところに拠ると、一茶が墓前に立つや単に香華を供へるばかりでなく、いろいろの所作を演じて小供のやうな真似をして壊しい両親と祖母の霊を慰めたといふことである。一茶自から「あながち作り馨して念仏申すに及ばず」と言つたほどであるから、世間の所謂難有屋のやうに、口には南無阿弥陀仏を称へなかつたかも知れぬが、己を袷て心を虚うしたところに感知することの出来た阿弥陀仏の本願に信順し、「兎も角もあなた任せ」といふところに念仏の意義が十分に存するのである。親鸞聖人の法語「自然法爾」に「行者の善からんとも悪しからんとも思はぬを自然とは申す」とある。一茶の「兎も角も」はすなはちこの「自然」である。自然の徳の故に、導きやうに取り計らはれるのを喜びて「あなた任せ」といふところに一茶の念仏生活はまことに徹底せるものであつた。   「つひに行汐の御国はかうかうと          西山さして急ぐ月かな」   「なむあみだなむあみだぶと西山に          入る月かげの空だのみかな」 @  新選妙好人伝第二編 松尾芭蕉 松尾芭蕉 その生立 江戸に出づ 窮乏生活 深川卜居 芭蕉の人物 宇宙観 自然観 人生観 火宅無常 芭蕉の俳諧 芭蕉の宗教 物皆自得 無常迅速 不可思議 以我転物 感恩の生活 真実の愛 絶対の信 凡例 一。俳聖としての松尾芭蕉及びその俳諧につきては殊に近時に至りて多数の著述が世に公にせられた。従つて芭蕉の伝記及びその我邦文学史上の位置などに関しては、かなり精緻の検索が遂げられたと言つても差支がない。私は今、さういふ方面に、この小篇を提出して、屋上に屋を架しやうとは思はぬ。私は芭蕉の発句や日記や佚事などにあらはれたるものを通ほして、あらはれたりと認められるところの宗教の心をば、私が見るところによりて大略叙述しやうと期図したのである。固より紙頁にも限りのあることであり、叢書として刊行する都合の上からも十分に私が思ふところを叙述することが出来なかつたことを断はり置く。 二。この書の原稿は私が自から筆録したのであるが、その整理及び校正は一に秋山不二女史の尽精によりて成つたのである。又この書を公にすることを得たのは一に原徳書院長宗氏の厚意による。特に記して謹謝の意を表する。  昭和十一年十月上浣  富士川游記  富士川游述  松尾芭蕉  俳聖松尾芭蕉として、その名声が我邦文学の歴史の上に赫々たる光彩を放つて居ることは、今更改めて言ふまでもない。延寶八年に「枯枝に鴉とまりけり秋の暮」といふ句をつくりて、正しい俳諧の道を見出してから、芭蕉の俳諧は文学の上から見て価値の太だ多きことが漸次に認められ、元禄頃になりては遂に一世を風靡し、所謂蕉門一流を立つるに及むだのである。しかしながら、芭蕉は単に風雅の宗匠と見るべき人でなく、又学に芸術のために芸術を造つた人でもない。まことに芭蕉が俳諧を以て世に立つたのは、自己の生活其物を芸術としたのであつた。芭蕉の芸術は芭蕉の生活其物に外ならぬのであつた。芭蕉自からの言葉を借りていへば、芭蕉は「造化に従ひ、造化に反へる」ことによりて自己を生かし、これによりてその生活と芸術とを渾一せしめたのであつた。  これを一言にして尽せば芭蕉はまことに真実に生きることをつとめた人であつた。その真摯なる心が十七字となつて現はれたのがすなはち芭蕉の芸術であつた。しかしながら、今、私は芭蕉の芸術につきてそれを文学的に批判しやうとするのではない。私のこの小篇は此の如き美しき芸術を造り上げたる芭蕉其人の「人」としての方面につきて考察することを趣旨とするもので、特にその宗教の心の表現につきて私が考へるところを叙述しようとするのである。       その生立  伝記によると芭蕉は正保元年伊賀の柘植村に生れた。父の名は松尾与左衛門、郷土で農を業として居つた。芭蕉は三人目の季の子で、始めは半七と言つたが、後に忠右衛門と改めた。九歳の頃に、伊賀の城代藤堂新七郎良精の子良忠(伊勢藤堂氏の族)の子小姓となつた。良忠は俳諧を京都の北村季吟に学びて蝉吟と號した。芭蕉は蝉吟の感化によりて俳諧に興味を有するに至つた。藤堂の一門に伏見西岸寺の任口上人といふのが居つたが、此人も俳諧を好み、芭蕉は主君に従ふてこの任口上人に面晤することが多かつたので、それによりて仏教の話を聞く機會がたびたびあつた。寛文六年四月蝉吟は年尚ほ壮にして病のために死去した。このとき芭蕉は齢二十三歳であつたが、生者必滅・會者定離の世の相を見て、断腸の感に堪えず、はかなき身を持ちながら我も人も三毒・五欲の奴となつて名を争ひ利を貧ぼり、樺花一朝の營に過ぎざる境界を望むことは残念であると深く自から考へて、遂に遁世の志を起したといふことである。六月蝉吟公の遺髪を高野山におさめるときに自から進みて使者となり、その用事がすみて家に帰るとすぐに遁世しやうとしたが、それは意の如くにならなかつた。しかるに、身体の弱いために武士の奉公は困難であるといふことに気がついて、ある日、同僚の城孫太夫の門に「雲とへだつ友かや雁の生き別れ」の一句を残して遂に上野を脱走した。時に寛文七年の春二月、芭蕉時に齢二十四であつたと伝へられて居る。       江戸に出づ  芭蕉はそれより京都に赴き、北村季吟の門に入り、俳諧を修めた。京都に住すること六年にして寛文十一年の冬、芭蕉は伊賀の上野に帰つたが、二十九歳の九月に再び伊賀を出て、季吟の門人であつた日本橋本舟町の名主小澤友次郎に伴はれて江戸に来た。江戸に著いてからは小澤とそれから京橋小田原町の杉山市兵衛を頼りてその人々の厄介になつた。固より俳諧の師匠として世に立つ積であつたがそれが思ふやうに行かず、小澤の世話で小石川関口水道工事の書記を勤めることになつた。しかし芭蕉は上役に対しての世俗的の挨拶がうまく出来ず、同僚に対しての表面的交際が甚だ下手であつた。それに自己の地位を安全にするがために心にもなきことをしたり、そらぞらしいことを言つたりすることなどは大嫌であつた。それがために一年そこそこにして芭蕉は自分からその職を辞したのであつた。かやうにして芭蕉は月給取の仕事を止めてからは、一定の住所もなく、本郷又は本所邉を漂泊して居つた。しかし、どんな難義をしても、自分に心持よく出来る俳諧を以てその身を支ふるより外に道はないと覚悟した。又芭蕉が安住し得る道は俳諧より外にないといふことも実際の状況であつた。ただしこの頃の芭蕉の俳諧は談林派一流の戯謔に充ちたもので、固より後日の芭蕉の俳諧にくらべるべきものではなかつた。       窮乏生活  芭蕉の生活はかやうにして行き詰つた。若し芭蕉が陋俗の人であれば世を渡ることは本より困難でなかつた。当時江戸の市中にて俳諧の師匠と言はれたものは、富豪の子弟に媚びて碌でもない俳諧の駄句に良い点をつけて、澤山の謝禮を納めることを営業として居つたものが多かつた。若しかういふ陋悪なる世間の風潮に乗じて俳諧の師匠として生活することにすればそれは甚だ容易であつた。それ故に当時の江戸の俳諧師匠には金持となつたものが多かつた。しかるに芭蕉の性格としてさういふ陋劣の態度を取ることが出来なかつた。芭蕉としてはその心を知らぬ俗輩に侮られながら、人生は何ぞやといふやうなことが深く考へられて、しかも自分の心の中にはその生活を安全にするための邪魔物があることを自覚するやうになつた。芭蕉はこのことに関して「栖去の弁」の中に  「ここかしこ、うかれありきて橘町といふ所に冬籠して睦月きさらぎになりぬ。風雅もよしやこれまでにして、口を閉ぢんとすれば、風情胸中をさそひて、物のちらめくや、風雅の魔心なるべし」 と言つて居るが、まことに芭蕉は、その心を知らぬ俗人には偏屈と侮られながらも、世に媚び、人に阿ねり、兎も角もその口を糊することさへ出来ればといふやうな心持にはなれなかつた。芭蕉は自からこれを風雅の魔心と言つて居るが、この魔心に妨げられて芭蕉はどうしても陋俗の生活に暗然たることが出来なかつたのである。       深川卜居  かくて芭蕉はますます貧困に陥つた。物質上の窮迫は日に日にとその身に迫つた。当時の江戸は名利を争ふ所であつた。名もなく金のないものには誰人も目をくれなかつた。芭蕉はこの間にありて僅かの門人を得て至つてみじめな生活をつづけて居つた。彼此する中に、芭蕉が江戸に来たときから頼つて居つた杉山市兵衛は芭蕉の門人となつて杉風と號したが、この人は魚問屋で、深川に鯉の生洲を持つて居つて、その番小屋を兼ねたる小軒が二つほどあつた。その一軒の方を芭蕉に提供した。六畳と八畳と二間しかない家であつたが、脱俗の心の強い芭蕉一人を容るるには十分であつた。場所は小名木川の水が隅田川に落つる邉、六間堀であつた。時は天和元年、芭蕉は年が三十八、江戸に来てから十年目であつた。門人の河合惣五郎(曾良)が近傍に住みて薪水の勞を執り、米盥の資は皆杉風以下の門人から贈つたのであつた。この庵にはもと芭蕉が植てあつたが、門人が更に植え足して、それがよく繁殖して広がつた。それで門人等はこれを芭蕉庵と號した。芭蕉も深くそれを愛してその時から自分も芭蕉(ばせを)と號するに至つた。芭蕉は始めは宗房と號し、又桃青とも號して居つたが、これより以後は多く芭蕉の名を用ひた。それは風に破れ易い芭蕉の様子が自己の身体及び境遇に似て居るところがあるのを愛したからであつたといふことである。風羅坊と號したのも全くこれと同じ意味であつた。   「優方知酒聖、貧始覚餞神  花にうき世我酒白く食黒し」 この句は天和三年の作であると言はれて居る。天和三年は芭蕉齢四十歳で、芭蕉庵に住居してから三年目である。今や花が咲いて浮世の人々は皆行樂に耽つて居る。その中で我が酒はどびろくで白く、飯の米は黒いと、自己の生活の質素を言つたのである。浮世の風には同化せられないが春の風光を賞することは人人に劣らぬと自分の境遇に安んじ、むしろ貧を楽しみ手居る心があらはれて居るのである。  又同じ頃の作に次のやうなのがある。   「もの一とつ我が世はかろきひさご哉」  芭蕉庵には五升入の瓢が米櫃として備へてあつて、その米が無くなると門人達がその瓢に米を入れて置くのが例であつた。芭蕉はそれにつきて此句を造つたのであるが、その気分が極めて恬淡で、他に願望もなく、物に囚はれないで晏然たるありさまがこの句にてもよく窺はれるのである。       芭蕉の人物  芭蕉は身の丈が低く、痩せて、顔の形は細長く、顋が光つて鼻が高く脣が薄かつたと伝へられて居る。それに幼少の時痘瘡に罹り、生来虚弱の方で、四十歳頃には頭髪が大分白くなつた。半生病気勝ちで後には痔に悩み、見るからに弱々しい人であつたといふことである。しかしながら、その精神の勢力は甚だ強かつた。その性格の特徴としては甚だ謹厳であつたことが挙げらるべきであらう。「行脚掟」として十八條の禁戒が挙げてある中に   一、腰に寸鐵たりとも帯すべからず、すべて物の命をとること勿れ   二、たとへ嶮岨の境たりとも所勞の念を起すべからず、おこらば中途より帰るべし   三、馬、駕籠に乗ること勿れ、一枝の枯杖を己が疲脚と思ふべし   四、他の短を挙げて己が長を顕はすこと勿れ、人を誹て己に誇るは甚だ賎し   五、魚鳥獣の肉を好で喰ふべからず、美食珍味にふける人は他事に触れ易きものなり。菜根を咬で百事をなすべき語を思ふべし   六、主ある物は一枝一草たりとも取るべからず、山川江澤にも主あり、つとめよや   七、一字の師恩たりとも怠るること勿れ、一句の理をだに解せず、人の師となること勿れ、人を教ふるは己を成して後の事なり  右のやうな制規が行脚にも定められてあるのを見ると、芭蕉はまことに謹厳な人であつたことが思はれる。芭蕉の高足の弟子小川破笠が市川柏筵に語つた中に「嵐雪など俳諧の外に、翁を外づし逃など致し候由、殊の外気がつまり面白からぬ故なり」とあるが、親しかるべき門人などでも芭蕉の傍に居ると気がつまつたといふのである。しかし芭蕉が門人を愛することは甚だ厚かつた。芭蕉はしばしば門人に対して発句のことにつきて小言を言つたと伝へられて居るが、それは門人のたましひを正しくはぐくみ育ててやらうとする慈愛の真心からでなくては決して出来ることではない。それ故に芭蕉は門人から深く敬慕せられたのであつた。  芭蕉は世の中の利害を離れ、老若を忘れて静寂なることを喜び、浮華浅薄井の思想を嫌ひ、どうも世間はうるさい、自分は自分だけの世界を持つて居たいといふやうな傾向があつた。さうして芭蕉はさういふ心の世界を閑寂と言つて、これを愛したのであつた。   「朝顔や晝は錠おろす門の垣」  元禄五年、芭蕉四十九歳の時に、「人来れば無用の弁あり、出ては他の家業を妨ぐるも憂し」として、画間は垣に錠を下して他との交渉を絶つたときの作である。まことに芭蕉は戸を閉ぢて友なきを友として自由の生活をなしたのである。しかし、芭蕉の心は決して独善的のものではなかつた。   「籠り居て木の実草の実拾はばや」  大垣にて或人の家に滞留して居つたときの句であるが、しばらく籠り居て、旅の疲れをなほし、木の実や草の実などを拾ふやうに己を忘れるやうになりたいと、独を楽しむ心である。独を善しとして他をば自分と離さうとするのではない。  かやうに芭蕉が独りを樂しむといふは、無常の世界の中にありて無常の人生を観じ、浮華の世俗から離れて独り淋しく詫しく暮して、しかもその淋しさ詫しさを樂しむといふので、その澄みきはまつたところが芭蕉が謂ふところの閑寂であつた。しかしながら、芭蕉はひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとしたのでなく、浮華の世俗に交はりながら、そのために煩はされずして自在に自分の道を進むことをつとめたのであつた。芭蕉があるとき仏頂禅師に対して   「道心を求めむとするもの、若し市中の倉忙に飽きて幽谷に隠れん、その初めに飽くものは又其終り寂莫に飽かん、されば今日の是非に交りながらその是非に使はれずして自在に道を得んことはこの俳諧に遊びて名利を厭はんには如かず」 と語つたといふことに徴して、芭蕉の心がよく窺はれる。芭蕉はどこまでも自分の心を以て物を転じようとつとめたのであつた。それ故に世間浮華の境に住して是非善悪のために使はれることなく、しかも自分が住むところが幻の世界であるといふことを自覚して、詫びとか寂びとかと名づくるところのものを主として自由に世の中を闊歩したのであつた。「幻住庵記」の中にも、その詫しい生活を叙したる末に  「斯くいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さんとにはあらず、やや病身に倦みて世を厭ひし人に似たり、つらつら、年月の移り来し拙き身の科を思ふに、或時は仕官懸命の地を羨み、一たびは仏籬視室の扉に入らんとせしも、便りなき風雲に身を責め、花身に情を勞して暫く生涯の計とさへなれば、終に無能無才にして此一筋に繋がる。楽天は五蔵の神を破り、老杜は痩せたり、賢愚文質の等しからざるも、何れか幻の住処ならずやと、思ひ拾てて伏しぬ」  かやうに芭蕉が自白せるところに拠ると、芭蕉も若い頃には人並に仕官でもして出世しやうかと考へたこともあつた。もとより生れつき、普通の人に異なりて閑寂を喜ぶ性格であつたには違ひないが、それが長じて宇宙の夢幻の相を観じ、人生の無常を知るに至りてますます増長せしこともまた明かである。  芭蕉は常に人と争はなかつた。「物いへば脣寒し秋の風」の句には「人の短をいふ事なかれ、己が長を説くことなかれ」と前書がしてある。固より坐右の銘であるが、芭蕉は自からこれを実際に履行したのである。  芭蕉は一面に於て涙脆い人であつた。奥羽に旅行して中尊寺に至り、奥州藤原氏三代榮華の夢の跡を見て「笠打敷て時の移るまで涙を落し侍りぬ」といひ、多賀城の壺の碑を見たときも「ここに至りて疑なき千歳の形見、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、覊旅の勞を忘れて涙も落るばかりなり」と記してある。  「奧の細道」に芭蕉が、越中国市振の宿にて、新潟の遊女二人と同じ宿に泊り合せた。その女達は伊勢参宮をするのに、女ばかりの道中で頼りがないから見え隠れにても道連になつてくれと涙を流して頼むだのに、芭蕉は「不便のことには侍れども、我我は処処にて留まる方多し、唯人の行くに任せて行くべし、神明の加護必ず恙なかるべし」といひ捨てて出て行つた。冷淡で情の涙のないやうなことであるが、芭蕉はその次に「哀れさ暫く止まざりけらし」と述べて居るから、此時、芭蕉は人知れず涙を流したことであらう。  芭蕉が東海道を旅行して富士川のほとりを通ほつたときに、三歳ばかりの捨児が哀れげに泣いて居るのを見て、あはれを感じ、袂より食物を投げてやり「猿を聞く人すて子に秋の風いかに」と詠じた。猿の声は哀愁の心をさそふものであるが、その猿の声を聞いて哀愁を催ふす人よ、この河畔の捨子に秋風が吹きわたるのを見たならば感慨いかにと、自分が哀愁を催したにつけて他の人も亦同じことであらうとの意をあらはしたのである。しかもその後に   「いかにぞや、汝父に憎まれたるか、母に疎まれたるか、父は汝を憎むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ、唯だ是れ天にして、汝が性の拙きを亡け」 と記して居る。一寸見ると、冷酷にして人情に乏しいやうである。しかしながら深く考へればこれこそ人間の虚仮なる心を離れて真実に人を愛する情緒のあらはれであるといはねばならぬ。捨てられたる児を見ればまことに同情すべきである。しかしこれもその児の業のあらはれであらう。他からこれを如何ともすることが出来ぬ。ただその業に泣けよといふことこそこれ真にその児の不幸に同情するものである。かやうにして芭蕉の慈愛は道徳の境を越えて宗教の上にまで進むで居つたのである。  芭蕉は又その態度の謙遜なることによりて人の目をひいた。或時、某貴人の句會に招かれたとき、どうぞ上座にと請はれてもそれには応じなかつた。かやうな場合、芭蕉は「此所似合の処と落つき申すなり、席過ぎ侍れば心静ならず、俳諧の障りになり侍る間心のままに」と願つたといふことである。門下のものが句の集を出すときに、芭蕉のことを「翁」と書くことを見て芭蕉は「門人が手控にして内輪だけにて見るものならばよしとして、世間に弘める書に翁と書くはよろしくない」と言つて叱つたと伝へられて居る。この一事にても芭蕉が謙遜なる性格の持主であつたことが知られる。  芭蕉は自分の所有として金銀や財物を貯へず、門人や知人から貰つて生活を続けた。勿論その生活は甚だ質素で、贅澤にわたることを避けた。元禄行脚の終りのとき芭蕉が金澤に滞在せし折に、句會が開かれて、山海の珍味を列ねた饗応ぶりであつたが、芭蕉は「今夜のもてなしの志の程はありがたいが、これでは大名の御成のやうで、風雅のさびがない。腹がすけば自分から所望する故に句會の席に此の如き支度をすることは今後無用にすべし」と戒めた。   「白露のさびしき味を忘るるな」 はこの時の作であつたといふ。庭前の草や木に置ける白露のやうな寂しき味を忘れてはならぬといふのである。  芭蕉は生涯妻帯せず、孤独の生活をした。「行脚掟」の中に  「女性の俳友と親しむべからず、師にも弟子にも入らぬ事なり、此道に親炙せば人をもて伝ふべし、総て男女の道は嗣をたつるのみなり、流蕩すれば心敦一ならず、此道は主一無適にしてなす、能く己を省るべし」 と記してあるのを見ると、芭蕉は男女間の交際に関して厳格であつたやうである。しかしながら芭蕉は恋愛の情を解せざる木石のやうな人ではなかつた。   「梅柳さぞ若衆かな女かな」 の句を始めとして、附合には恋愛に関する芭蕉の作は少なくない。固よりそれは芸術化せられたもので、下劣のものでなかつたことは言ふまでもない。  芭蕉は名聞がましいことは嫌であつた。自分の事などは決して自分で吹聴しなかつた。しかし自分が開いた俳諧の道を弘めることには熱心であつた。それ故に芭蕉は自分の句集を出すことは嫌つてこれを避けたが、同門の句集を出すことには大に賛成し、これによりて自分が開きたる正風の俳道を宜揚することをつとめたのである。  これを要するに、芭蕉が在世の頃は物質的・享楽的・卑俗的の思想が盛に行はれた元禄時代であつた。同じ文学の世界に住むだ人々の中にも、西鶴の小説や、近松の浄瑠璃の如く、当時の世相に相応して華かなものであつたのに反して、芭蕉は精神的・清高的・閑雅的の思想を尚び、虚仮の現実から真実の理想へと進むことをつとめたのであつた。  芭蕉は元来、鋭敏の性質で、物のあはれを感じ渦ぎるほどの感傷家であつたと言はれて居る。さうして識見があり、節操を持することが強かつた。生きて行くためであるからと云つて、人と争ふて物を得やうとするやうなあさましい真似は出来なかつた。芭蕉はあまりに芸術的の純情を持つて居つたために、俳諧をば道楽のものであると心得て居つた当時の人々には甚だ受けが悪るく窮乏の生活を続けねばならなかつた。しかしながら確乎不抜の精神を持つて居つた芭蕉は久しき間の苦境に堪へられて遂に貧苦といふものをじつと見つめるやうになつた。普通の人ならばその貧苦から脱しやうとして、あせるところの貧苦に当面して、その貧苦をしみ/″\と味ふて、その境地に安住することが出来るやうになつた。「成実論」に「若し人、苦を見ざれば其人は則ち我を見る、若し如実に苦を見れば、其人は則ち我を見ず」とあるが、「我」はすなはち「苦」であるから「苦」を見れば「我」は無くなる、「我」がなくなつたとき、ここに現はれる感情はまことに不可思議のもので、この不可思議の心に動かされて、心が自由平和になるのであるから、如実に苦しみを見れば「我」が見えず、「我」が見えざれば苦しみもまた無くなるのである。宗教の心とはまさに此の如きものを指して言ふのである。さうして、芭蕉の心がまさに宗教の心であつたこともその生活の上によくあらはれて居る。      宇宙観  芭蕉の宇宙観及び人生観は甚だ深刻・精到なものであつた。凡そ世の中に有りとあらゆる萬物は因縁によりて生ずるもので、それには千差萬別それぞれの自性があらはれる。しかしながら、その自性といふものもこれを見る人の妄念である。本質よりしていえば自性といふべきものはなくして、一切のものはすべて我が心からして生ずるものである。かやうに何も無いからと言つても矢張、現に人もある、物もある、それは有るが儘が又無である。仏法に諸法無我といふのは、この境地である。芭煮は此の如くに宇宙の相を見た。これは正に仏教に本づくものである。さうして此の如き仏教的の思想は芭蕉が仏頂和尚に参禅してから益々明確になつたやうである。仏頂和尚といふは常陸鹿島の根本寺の住職で、根本寺領と鹿島神領との土地の争のために上京中・探川の大工町なる庵に居つた。それは芭蕉庵と小名木川の流を隔てた近所であつたから、芭蕉は仏頂和尚に就て、従前自分が考へて居つたことを質問して大に得るところがあつたと伝へられて居る。       自然観  芭蕉が草や木や花や、その他、自然の現象を詠じた句は少なからず残つて居る。その中に次のやうなものがある。   「よく見れば齊花さく垣根かな」  なづなの花は常に人々が目をとめることのない雑草である。それでも春の陽気が来れば花が咲くのである。平生は何の気もつかなかつた垣根をよくよく見れば齊の花が咲いて居る。芭蕉はこのつまらない齊の上にも自然が春の光を送るのを認めてその恵みを詠歎したのである。さうして、一面には、芭蕉は思ひがけなく、かやうな齊の花を見て、齊のやうな雑草でも、与へられた境にありて、与へられたる仕事を一生懸命に為して居る、その真実に触れて驚嘆せざるを得なかつたのである。まことに、芭蕉は此の如き自然の個々のものの中に認めらるべき真実に觸れて我々人間の生活もこれと同じやうに真実であるべきことを悟つたのである。   「夏来てもただひとつ葉の一つ哉」 一つ葉といふは山地に自生する羊歯類の常緑草である。この一つ葉は冬が来ても夏が来てもいつでもただ一つ葉である。芭蕉はその素朴にして自己の道を守ることの貴とき相を詠歎してこの発句を作つたのである。   「かしの木の花にかまはぬ姿かな」 橿の木は櫻や其他の木のやうに花の妍を競ひ艶を争ふものには相関せずといふやうな態度をして居るやうに見える。芭蕉は橿の木の摯実なる風格を賞して斯く詠じたのである。   「世ににほへ梅花一枝のみそさざい」 荘子の逍遙編に「鷦鷯深林に巣くふも一枝に過ぎず」とあるによりて、分に安んじて足ることを知るの意をあらはすために「鷦鷯一枝」といふ言葉が用ひられた。梅の枝にとまつて居るみそさざいの如くに、分に安んじ足ることを知ることの高風をたたへた句である。    「忘るなよ藪の中なる梅の花」 ある人が行脚の旅に出づるを送りたる句である。お前は旅に出るさうなが、我が草庵の梅の花のこの寂びたる風情を忘るなよといふのである。どこまでも浮華の心を避けて、藪の中の梅の花のやうに寂びたる心を守るやうにせねばならぬといふのである。   「齊や是も我が友ならず」  この句は深川閉関の頃の作と断つてある。垣の朝顔は紅に、白に、藍に、色とりどりに鮮さを競ふが如くであるが、これは佗びて住める自分の心の友でないと、花の色が妍を競ふのを疎んじてかう言つたのである。   「子に飽くと申す人には花もなし」  親が子を愛するといふことは天性である。それにその子に飽きるといふやうな人には、月も花もない。愛の心の乏しい人には、自然そのものに愛を感ずることを本とする風雅の道はわからぬといふ意である。   「稲妻やかほのところが薄の穂」  人が闇の中にありて、その顔の先きに薄の穂が迫つて居るのも知らずに居る。そこへ稲妻がさつとさせば初めてその薄の穂を知ることが出来る、電光が閃くやうに頓悟すれば人生の無常なることがはつきりと認識せられるといふ意味であらう。   「海くれて鴨の声ほのかにしろし」  熱田の海邉に舟をうかべて見て居つたところが、夕陽はやがて西に落ちて海の面は暮色が漸く濃くなりて、ただ逝かに鴨の鳴く声が聞える。それが四邉を包める闇の中に白く感ぜられた。いかにも海の穏かな所に鴨の声が淋しく聞えて、しかもそれが落ついた感じを起さしめることを詠じたのである。   「椎の花の心にも似よ木曾の旅」  許六が木曾路を経て、彦根へ帰る時に、この句を以て許六を送つた。今度の木曾路の旅は公用の為であるから長劒を腰に、鎗を立てさせ、若党を連れて、厳めしい姿をして行くにしても、それは本意ではない、其心は何等これぞと目立つものはない、あの椎の花の心にも似るやうにせねばならぬ、姿はともかくに、心は佗び心であれかしとの希望を述べたのである。  芭蕉はかやうに自然のすべてのものに面してその中にあらはれる真実に觸れることをつとめた。さうして、芭蕉は自然の真実はすべてのものが有るべき処にありて、為すべきことを為し、静かに生きて居るといふことに存することを認めたのである。芭蕉は月や雪や花や風や、すべて自然のものには虚偽がないことを感じた。雲は月に媚びず、風は花のために自己を偽ることがないといふことを感じた。大自然のいのちはその中に存する小自然の個々のいのちを摂取して、それを生かして行く。小自然はすべて与へられたる位置にありて与へられたるものに安んじて生きて行くのであるといふことを感じた。それはいかにも閑寂なものであつた。芭蕉はそれをさび(寂)と言つて居るが、芭蕉の考へでは、このさび(寂)が自然の真実である。従つて我々人間もこの自然の真実を享けて閑寂の心であらねばならぬとするのである。それ故に、芭蕉は我々人間は我意を張ることを止めて自然に順ふべきであると説いたのである。芭蕉の言ふところに拠れば「俳諧の道は風雅を主眼とするものであるが、風雅といふは自然に従ふことである。自然に従ふが故に春夏秋冬の推移が自分の心と合致する」のである。花は自分を離れて外の方に咲いて居るのではない。自分の心が機縁と遇ふて開き、又散るのである。月も自分を離れて外方に輝いて居るのではない。自分の心が円熟して澄み、時としては雲るのである。この自然を心とし、心を自然として生きることが真実に生きることである。」芭蕉は「笈の小文」に次のやうに述べて居る。   「西行の和歌に於ける、宗祗の連歌に於ける、雪舟の繪に放ける、利休の茶に於ける、其貫通する物は一とつなり、然も風雅に於けるもの、造化に従ひて四時を友とす、見る所花に非ずといふことなく、思ふこと月に非ずといふことなし、像ち花に非ざるときは夷狄に等し、心月にあらざる時は鳥獣に類す、夷狄を出で鳥獣を離れて造化に遵ひ造化に帰れとあり、それ天地は風雅なり、萬象も亦風雅なり、この風雅は仏祖の肝膽なり」  芭蕉の意は、人間としての虚偽の心をば、虚偽のない自然の真実の中に生かすべきであるといふのである。人間としての自分の小さき身をば、自然の大なるものの中に入るべきである。しかるに、自分の心が疎漫になりて、自然の光や自然の美を忘るるときは、人間を離れて禽獣や夷狄に近いものになつたのである。詮じつめれば、我々が虚偽の人間の世界にありて真に人間らしい生活をしやうとするには、必ず自然の懐の中に飛び込まねばならぬと言ふのである。      人生観  芭蕉はかやうに宇宙の相を解し、又自然の真実を見て、人生の真相を明かにして、「誠に知覚迷倒も皆ただ幻の一字に帰して無常迅速のことはり、いささかも怠るべき道にあらず」と言つて居るのである。よことに夢幻のやうな世界の中に生じて又死するところの人間の生命は無常迅速である。さうしてこれが人生の相であるといふことを知つたと同時に、かやうに夢幻の世界にありて、無常迅速の理を離れることの出来ぬ我々は、又まことに孤独の淋しい生活をなさねばならぬことが芭蕉にはよくわかつたのである。勿論、世の中には幾億の人々が居る。しかしそれはそれぞれ一人づつの心の世界を造つてその中に住むで居るのである。まことに我々は孤独であり、又極めて淋しいものである。さういふ人生の相を見つめて、いかにも淋しい自分を発見した芭蕉は、勢ひ天地自然が人間に対して更に淋しい相をあらはして居ることを認めざるを得なかつた。しかも天地自然はその淋しき相を以て泰然として我々人間に対して居ることを知つた芭蕉は、実に人生の淋しさを知ることが人生の価値を明かにするがために第一肝要のことであることを悟つた。芭蕉はこの淋しい人生は実際に於て自分一人の淋しい旅であると考へた。「奥の細道」の冒頭に「月日は百代の過客にして、ゆきかふ年も又旅人なり」とあるが、要するに自分の家に居ることも人生と名づくる旅行の一日一日に過ぎぬと考へたのである。自分の家で死ねるのも旅行の間に死ねるのも、人生の旅中に死ぬることは同然であると悟つたのである。芭蕉が死の前に所思と題せる句に   「この道や行く人なしに秋の暮」 といふのがある。自分の外には誰も通ほるものがない、いかにも秋の夕暮の淋しさである。しかしながら、その淋しい道を自分一人で通らずには居られないのが芭焦の心である。淋しいからと言ふて、只それをながめて嘆息して居るのではない。その淋しさをば突ききつて進み行くのである。この句には所思と題してあるから芭焦の意は自分の開拓した道といふものも、自分ひとりで淋しいといふ感慨を洩したのであらう。それにしても自分の生存が孤独で、淋しいものであるといふ心から、かやうに詠じたのである。  当時の人々の多くのものは自分の外にある運命といふものを信じ、その運命に服従して行くところに僅に自分の小さなる安全地帯を見出して居るだけで、全く夢中の生活をして居つたのである。少しく自覚をした人は、本当の自己を生かして行かうと思ふても、それが世間に容れられないために、巳むことを得ず、本当の自己を隠して外界に対して調子を合せて行くより致方がないと言つて、真の自覚の境には到らなかつた。しかるに、芭蕉は上述のやうに宇宙を見、又人生を観て、さういふ生活が真に幸福のものでないといふことを知つた。たとひ財寶があつても、又権勢があつても、自己を偽りて生活して行くといふことは本当の生活ではないと考へた。当時の人々の生活は一口に言へば虚偽の生活であつた。しかもそれを自覚した人は千人に一人もあるかなしの状態であつた。多くのものはそれを当然のこととして少しも怪まず、懈怠の生活をなして居つたのである。芭焦はさういふ生活が真に幸福のものでないことを痛切に考へたのであらう。       火宅無常  芭蕉が深川に居を定めてから一年を経過した後、天和二年の師走、本郷から火事が起つて、下谷、神田、日本橋から本所にまでひろがり、深川にも及びて芭蕉庵も亦類焼の厄に遇ふた。芭蕉は一と先づ門人其角の家に避難したが、そこには他から避難して来た人が多かつたので、そこから其角の菩提寺へ移転した。ところが、自分の姉が甲州の初雁村に居るからそこへ避難して江戸の静まるを待たれよと杉風が勧むるままに甲州の初雁村に赴いて、そこに厄介になつて居つた。翌年の五月に至りて江戸に帰り、門人の家を宿にして居つたが、門人等の義損の金によりて芭蕉庵が再建せられて、その新宅に移つたのは十月の末であつた。諸法無我の理を知り、人生無常の様と観じたる芭蕉は、この度の火災に遇ふて自分が住むところが火宅無常の世界であるといふことを痛切に体驗したのであつた。この世界の上にある萬物はみな流転して居るもので、決して一所にとどまるものではない。月日といふものも無限の過去から無窮の未来に流れて居るものである。従て時といふものも進行の途中にあるもので、それは丁度旅行をするやうなものである。芭蕉はかう考へて、それ故にその時の間に生きて居る人間も悉く旅行人であるとした。火宅無常の世界に仮の身を托して居る我々人間は常に旅の心持を以て生きて居るべきが当然である。芭蕉はかういふ考の上から、その後は住居を定めず、流浪の生活をなすことに心を決したやうである。「芭蕉翁終焉記」に   「天和三年の冬、深川の草庵急火に囲まれ、潮にひたり、苫をかつぎて、煙の内にいきのびけん、これぞ玉の緒のはかなき始まり、ここに猶如火宅の変をとさとり、無所住の心を発して云々」 とあるは、よくこの邉の消息を伝へるものであらう。間もなく芭蕉は方々へ施行し始め、貞享二年の夏に帰庵したが、それから又奥羽、北陸の旅に出で、諸国に廻はり、到る所を家として五十一歳の時、遂に大阪の客舎に病歿したのである。       芭蕉の俳諧  芭蕉はかやうに、造化に従ひ造化に帰れと言つて、小さい自分をば大きい自然の中に入れるべきことを説いた。さういふ心が言葉の上に現はれて来たものが芭蕉の俳諧であつた。花や月を見て美しいと思ふ心を言ひあらはさうとして、技巧を弄するところにその芸術は全く功利的のものとなつて仕舞ふ。芭蕉の俳諧はさういふ功利的のものでなく、純真なる主観として得手勝手の自己中心の考を離れた心が客観に出されたのである。芭蕉の意を推して言へば、地上の人の多きが中に、結局自分はただ一人の小さきものであると知るときに一種の寂しさが感ぜられ、それによりて我々は大なる自然の懐の中に飛び込むのである。飽くまで寂しい境地に徹底して、始めて自然の心と一とつとなるといふ喜びを感ずるのである。たとへば雪が降る。この雪は世の中にただ一人なる自分の心の上にばかり落つると見る。その雪が世の中にただ一人なる自分の心の上に積りつもつたものが言葉にあらはれて自分の発句となるのである。たとへば木の葉が散る。それは世の中にただ一人なる自分の寂しき心の上に散る。さうしてその一とつ一とつが寂しさを自分に物語る。その言葉を写し出したものが俳諧である。かう考へるときに、我々の心は雪や木の葉と一とつになつて居るので、すなはち自然に従つたのであるといふのである。それ故に、芭蕉にありてはその生活全体が俳諧であつた。まことに芭蕉の俳諧は純粋の芸術であつた。又それがすなはち宗教であつた。       芭蕉の宗教  全体、詩にしても、歌にしても、又発句にしても、皆その人の心がその言葉によりて表現せられたるものであるが、しかしながら、徒らにその言葉を巧みにして表現を美しくすることはその対象の意味を伝ふるに過ぎぬものでこれを芸術として貴むべきでない。これに反して、此の如き枝巧を離れて十七字の上にその作者の心がその儘にあらはれるとき、始めて十七字の俳諧が立派なる芸術となるのである。しかしながらそれは言ふまでもなく、その心の真実なることを前提とするのである。さうしてそれ故に、芭蕉は自己の心をば自然の真実に随順せしめねばならぬことを考へて、常に造化に従ひ、造化に帰るべきことを説き、自身にもこれをつとめたのである。芭蕉はかういふ心を十七字に表現して、その俳諧を造つたのであるから、心にもないことを美辞に蓮ねるやうな技巧を弄したのでなく、その心の儘、すなはち精神生活そのものが、芭蕉の俳諧となつたのであるが、それは又同時に芭蕉の宗教であつた。元来、宗教といはるるものは我々人間の精神作用の一種で、実にその文化の要素を成すものである。我々の周囲に存する一切の事物を正確に認識することと、その本質などにつきて深く思索することは人間の生活の上に欠ぐべからざることであるから、野蛮蒙眛の人間の社會にありても巳に科学と哲学との原始的のものが存して居る。精神の作用の上から見れば、これは智能のはたらきに属するものであるが、我々人間の精神の作用には智能に併びて感情がありて、一切の事物に対してその性状を知ると同時に、真偽・善悪・美醜を感ずるものである。それ故に、科学や哲学などの智能のはたらきの外に、道徳や芸術などの感情のはたらきがあらはれるものである。しかしながらこれ等の精神の作用は、自己を離れて外に存するところの事物を知り、又感ずるもので、自己と自己の外にあるところのものとの直接の関係を知り又感ずるものではない。それ故に、これ等の精神作用によりて生活の方向を定むることは出来るが、自由にこれを運行することは不可能である。我々人間は周囲の一切の事物を認識すると同時に、そのものと、自己との直接の関係を明かにせねばならぬ。ここに現はれるのが宗教の感情である。芭蕉は自然の相を見て、それが偽らず、飾らず、高ぶらず、驕らず、極めて寂静のものであることを認め、この真実の中に自己を入り込ませることによりて自由平和の心の世界が得られるべきことを信じたのであつた。言葉をかへて言へば、芭蕉は自然の中に存するところの真実は寂しさであると感じて、自分の心の寂しさをば自然の寂しさと一致するやうにとつとめたのであつた。かやうにして芭蕉には真実の宗教の心があらはれたのである。       物皆自得  芭蕉は実に此の如き宗教の心によりて日常の生活を続けたのである。それ故に、その生活の萬端に、いろいろとその宗教の心の有様が窺はれる。ここに、その二三の証例を挙げやうと思ふ。  芭蕉の作に「自得箴」といふがある。   「もらうてくらひ、こうてくらひ、飢塞わづかにのがれて     めでたき人の数にも入らん年の暮」  人に食を乞ふて僅かに命をつないで居り、飢もせず、こごゑもせず、新しい春を迎ふることが出来るのはめでたいことであるといふ意である。芭蕉は貧塞骨に徹するとでもいふべきほどに詫びて住むことを以て自己の本分として居るのである。一寸見れば、分に安んじて足ることを知るべしといふ消極的な道徳の意味を示したもののやうであるが、芭蕉の意はさういふ心学者一流の道徳ではなくして、その宗教の心から現はれたものであらう。芭蕉の句に   「物皆自得 花にあそぶ虻な食ひそ友雀」 といふのがある。それぞれ自分の本領といふものがある。おのおのそれを守りて、一生懸命に努力すべきである。広い世界に五尺の身一とつを置くには至るところにその余地がある。何も他の邪魔をせずともよい、他のものをつきのけるには及ばぬ。虻は今樂しく花に遊むで居る。それを食ふなと雀に対して誡めて居る。或は世の人の我を立てて他を謗ることを誡めたる句であるとも考へられる。月花に浮かれ遊ぶことに変りはない。同じく生物たる雀よ、花にうかれて居る虻を食ふてはならぬと戒めたのであるとも考へられる。何れにしても芭蕉の心持は自分の本領を守らずして要らざることに手を出す世態人情のにがにがしきを憤慨したのであらう。  貞享四年の「続虚栗集」に   「永き日も囀り足らぬ雲雀かな」 の句がある。春の日の薄霞んだ空に雲雀の声が聞える。あれは永き春の一日もなほ囀り足らぬのであるかと詠じたのである。恵心僧都の言葉に「我等頭に霜雪を戴くも、心は俗塵に染み、一生は尽るとも希望は尽きざらむ」とある。まことに命壽には限あれども希望には限のない人間である。明日をも知れぬ露の命をかかへながら、死ぬことを忘れて互にかみ合ひ、つかみ合ひ、ひたすらに一身の利を図り、この身が朝露の身であるといふことは忘れて、欲に欲をかさねて居る人々のあさましい心の相を見て、それを雲雀が一日囀り足らぬのに比して反省すべきことを示したのであらう。これも自得の心の上から見ればあさましい限であると芭蕉には痛感せられたのであらう。       無常迅速  元禄元年の八月、芭蕉は門人越人といふものを連れて木曾路を旅行したことがある。「更科紀行」はこの時の記録であるが、その中に次のやうなことが書いてある。  「何々といふ所にて、六十ばかりの道心の僧、おもしろげも、おかしげもあらず、ただむつむつとしたるが、腰たわむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうにあゆみ来れるを、伴ひける人のあはれがりて、おのおの肩にかけたるものども、かの僧のおひぬものと、ひとつにからみて、馬につけて、我をその上にのす、高山奇峯頭の上におほひ重りて、左は大河流れ、岸下は千尋の思をなし尺地もたひらかならざれば、鞍の上静ならず、只あやうき煩のみやむときなし、棧はし、寝覚など過ぎて、猿が馬場、たち峠などは四十八曲りとかや、九祈重りて雲路にたどる心地せらる。歩行より行くものさへ、眠くるめき、たましひしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕、いともおそるる気色見へず、馬の上にてただねぶりにねぶりて、落ちぬべきことあまたたびなりけるを、あとより見あげて、あやふきこと限なし、仏の御心に衆生の浮世を見たまふもかかることにやと、無常迅速のいそがはしさも、我身にかへり見られて、阿波の鳴戸は波風もなかりけり、云云」 と書いてある。途中で傭ふた奴僕が危険極まりなき場所にて馬の上で平気で居寝りをして居るのを、後の方から見て、普通ならばただ可笑しいと思ふのみであるべきに、芭蕉にはそれを機縁として、無常迅速の人生が思ひ出され、しかも浮世の衆生がそれを知らずして迷へる相を仏の御心にあぶないと見たまふことであらうと我身に省みたことはまことに宗教的である。さうしてその後に   「かけ橋や命をからむ蔦かづら」 の発句が附録してある。高山の谷川の上を渡るべき棧橋が高い所にかけてあり、岸下を見れば千尋の思をなし、目もくらむほどであるのに、それを平気で渡りて、些も身の危険を知らず、かけはしをからみたる蔦はまことに命をからむといふべきであるのに、それを何とも思はず、無常迅速の人生のかけ橋を平然と渡つて居る人々の愚かさを挙げて、しかも深く自己をかへりみての発句である。       不可思議  貞享五年の二月、芭蕉年四十五歳の時、五度目の伊勢大廟参拝をした。この時のことを記せる文に   「我御白州の土を踏むこと巳に五度に及び侍りぬ、一つ一つとしの加はれるに従ひて、かけまくもかしこき御光も思ひまされる心地して、彼の西行の涙の跡を慕ひ、増賀の誠を悲しみて、内外の御前にめかづきながら袂しぼるばかりになん侍る。      何の木の花とは知らずにほひ哉      はだかにはまだきさらぎの嵐哉」 伊勢大廟に参拝して、感ずるものは何ともいはれぬ香しいにほひである。それが何の木の花とも知れないが、ただうるはしきにほひが感ぜられるのである。むかし西行法師は伊勢大廟に参拝して「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と詠じた。芭蕉はその西行の涙の跡を慕ひて「何の木の花とも知らず匂哉」とよむだのである。大廟に詣でて神徳を感じ、何の木と定かにはそれを知らぬが、ただ尊とさに伏しおがむ匂ほひであると詠歎した。これこそ十分に神徳の不思議を言ひあらはした言葉であると言はねばならぬ。宗教の心の上にて神といひ、或は仏といふものもただ不思議にもそのにほひをかぐことの出来るだけのものである。その本質が我々のやうに智慧の浅い凡夫にわかるべき筈はない。何の木の花とは知らざれどもその香は芬々として明かに我々の心に感ずることが出来るのである。さうして、かやうに心の内に感じたものを外に投影してこれを神とし、仏とするのであるから、それは決して偶像ではなく、自己の心に感ずることの出来た或物である。その或物は実に不思議のものである。芭蕉は自然の寂しさを感じて、これを自然の真実とした。その真実は不思議のものである。宗教の上にて神といひ、仏といふものも、要するに、かやうな心の上に直接に感ぜられる或物であるから、これを不思議といふより外はない。しかしながらそれは我々がさうであらうと想像するのではなく、又さうあるべきものと論理的に決定するのでもなく、自己の思慮分別を離れて自然に接すれば、必ず感ずることの出来るものである。仏教に仏智不思議といはれるのは正にこの意味である。次に「はだかにはまだきさらぎの嵐哉」の一句は増賀の誠を悲みて詠じたといふ。増賀とは延喜の頃、叡山に居られた高僧であつた増賀上人のことである。増賀上人は極めて名利を嫌ひ、その行が極端であつたので、師匠の慈恵大師が「ただ威儀を正して心に名利を離れたまへかし」と諫めたまひしも「名利を永く捨てはてん後はさにこそ侍るべけれ」と言ひて、その諌に従はなかつたほどの人であつた。この増賀上人があるとき伊勢大神宮に詣で、祈請し給ひけるに、夢に「道心を発さんと思はば、此身を身とな思ひぞ」との示現を蒙むり、打驚きて「名利を捨よとにこそ侍るなれ、さらば捨ん」とて、著て居つた小袖衣を皆乞食共にぬぎくれて、単衣なる物をだにも身にかけず、赤裸にて下向したと伝へられて居る。芭蕉はその誠をおもひ出し、今はきさらぎ(二月)の嵐が強いから、増賀上人が今頃はだかになられたならさぞ寒いことであらうと、深く自分の心のあさましさをかへりみて、増賀上人の跡を追ふことの出来ぬことを芭蕉は痛切に悲しむだのである。       以我転物  貞享元年の秋八月、門人の僧千里がその郷里の大和国葛下郡竹内村に帰るにつきて、芭蕉も西遊の志を起し、相伴ふて江戸の家を出で東海道を西に進むだ。箱根の関を越ゆる頃は雨が降つて富士も見えなかつた。此ときの旅行の紀事が「甲子吟行」と題して行はれて居るが、その内に「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき」といふ句がある。さうして此句には「関越える日は雨降りて山みな雲に隠れたり」と前書がしてある。折角、霊峰の下を通ほりながら、雨のためにそれが見えぬのであるから、多分千里も残念がりてそのことを話したのであらう。芭蕉はそれは人間の我儘である、富士の見えぬのは残念であるが、寂しさが却つて興味を起すのであるとした。その心がこの句となりてあらはれたのである。「菜根譚」に「我を以て物を転ずるものは得も固より喜ばす、失も亦憂へず、大地尽く逍遙に属す。物を以て我を役するものは逆は湖より憎を生ず。順も亦愛を生じ、一毛便ち纒縛を生ず」とあるが、大抵の人は物を以て我を役するのであるから物のために喜むだり、悲しんだりする。結局、周囲の物に使はれて心の自然が奪はれるのである。これに反して天地をその儘に自己とし、我を以て天地と同じものとするに至れば、得も失も共に喜むだり又悲しんだりすべきことではない。物のために我が転ぜられることなく、すべての物を有るが儘に見て、得失をも得失と考へず、愛憎の念がなくしてこれに対することが出来る。宗教の心はまさに、此の如き自由の心である。芭蕉は小なる自分をば大なる自然の懐の中に入れ込むで、自然に従ふことをつとめた。この心よりすれば自然はその儘に自分に対してそれ相応の価値を有するものである。天気が晴れて居れば善し、雨が降つても、その雨の降るところに又別の興味があるのである。       感恩の生活  「奧の細道」の中に、芭蕉が羽前より越後に出でたる紀事に「鼠の関をこゆれば越後の地に歩みを改めて越中の国一ぶりの関に到る此間九日、暑濕の勞に神をなやまし病起りて事をしるさず」とあるが、この時、直江津にて一とつの事件があつた。それは芭蕉が知人の添書を持ちて直江津の某寺を訪ひ、一夜の宿を乞ふたときのことである。住持の僧は芭蕉の乞食僧侶の風体を見てよしなく思つたと見へて、宿を断つたのである。文政十年に箸はされた「芭蕉一葉集」にこの時のことにつきての浪花上人の話が載せてある。それに拠ると   「翁、何となき風情にて、仏前に一禮して立出給ひけるを、伴僧ども引とどめて、俳諧の上手なるよし、発句してたべと望みあへり。翁安き事よとて筆打しめして書付給へることあまたにおよべり。會良大に腹立て引立まゐらせ、會良申しけるは誠に時にこそあれ、秋の日いとみじかく山の瑞遠く暮かかるに、やどかすべくもなき処に、無用の挙動こそと腹立ける時、翁は門前の石に腰かけながら、會良を制して曰く、左様の心体にては行脚の一筋も覚束なし、はじめの思ひ立ねる日より、いづれの木の下にも一夜をあかし、因縁にまかせて行脚すべき覚悟あらばや、斯る折こそ仏説の高恩もたふとまれ、娑婆のあはれも我身にふれ、俳諧の大道には入るべきなり。其上宿せぬ主の心と、発句集める僧達の心と、人も格別なり。大節は望でうばふべからず、造次にもよくし、顛沛にもよくするとこそ見え侍れと、杖曳ながら立出給ふ折から、竹風といふもののとどめまゐらせ、茅屋にも休らひ給んやと云ひければ、翁曰く、御志は有がたく候へども、添状も有ける方を空しく過て外に一夜を明さんもいはれがましく覚へ侍る、とてもなるべき筋ならばはじめの主の軒のつまにても立明したきよし申たまひけるを、竹風聞ていと安きことなり、幸我菩提所なればいかやうにもと、いざなひけるとき、石鉢の水を手づから汲みかけて足なんど洗ひ、仏の前の側に安坐し給へり、一間の次に曾良がかしこまりたる有様尋常の人には見えざりしよし」  芭蕉はかやうな場合にこそ娑婆のあはれさが体驗せられ、自分の業をば自分で相続せねばならぬといふ俳説のありがたいことが知られると、晏然としてその身と心とを自然の大なる懐の中に入れて安住して居つたのである。その時の芭蕉の姿はさぞ貴とく感ぜられたことであらう。我欲を主とすれば順なることは喜ぶべきも、逆なることは憂を生ずる。しかしながらそれは自分の勝手によりてさう考へるもので、物そのものの真実の価値を見るのではない。物そのものの真実を見ればいかなる場合にもそれぞれの価値があるべき筈である。芭蕉はすべてのものの真実を見ることをつとめた。それ故に、かやうな冷遇に対しても、むしろ娑婆の真相を知ることが出来、仏説の貴といことが思ひ知られて難有いと喜んで居る。従つて怒を他の人に移して番僧の揮毫を拒むやうなことをせぬのである。親鸞聖人が常陸の旅にて病を断はられたときにも念仏して仏恩を喜ばれたといふことが伝へられて居る。かやうな心の奧には、自然のすべてから受けて居るところの恩を感ずることが深いので、己を虚しうして物に接するが故に、普通ならば腹が立つべき場合にも腹が立たず、その態度を見る人の心にもその真実が認められるのである。さうしてさういふやうに何事につけても恩を感ずる宗教の心を以てするところの日常生活はこれを感恩の生活と称すべきである。       真実の愛  芭蕉はその齢、五十一歳の九月、西の方長崎までも赴かむとして大阪に滞在中、重き痢病にかかりて命も危くなつた。そこで使を大津の去来の許にやつた。去来は取るものも取りあへず、飛ぶやうにしてやつて来て、夜半に大阪につくとその儘芭蕉をその病床に見舞つた。その時芭蕉が言ふやう「諸国に師弟のちなみを結むだ人は何れも自分を親のやうに思つてくれるが、自分は老ぼれて、やさしくもなければ、子のやうにも思はず、ただうかうかと今日に及んだ」と言つて、去来が来訪したことをひどく喜んだ。芭蕉がその弟子を子のやうに思はずといふ、この一言、実によく自己む内観した心をあらはしたものである。「弟子が自分を親のやうに思ふてくれるから、自分も弟子を子のやうに思ふ」といふことは出来る。しかし、実際に子でないものを子のやうに思ふことの出来ぬのが凡夫である。この凡夫の心の相に気がついたとき、子のやうに思はぬと慨くのが真実である。さうして子のやうに思はぬと嘆く心は真に子のやうに思はふと切に念願する心である。この一例は正に芭焦が真実の慈愛の心を持つて居つたことを証するものである。更に芭蕉が慈愛の心に富むで居つたことを見るべき一話が伝はつて居る。芭蕉は嘗て祐天上人と懇親を結むで居つたが、其後打ちたえて上人を訪問せぬので上人は使僧を遣はして芭蕉を招きその疏々しきことを詰つた。この時芭蕉が言ふには「上人には去る頃御弟子を破門せられたるよしに承るが果してさうであるか。」祐天上人の曰く「彼の弟子は偽筆の名號を作つて世に行ふた。その罪軽からず、依りて破門した。」芭蕉のそれに対して言ふやうは「人にして一朝の過失あるは世の常である。それに普ねく名號を弘めたのであるから道を教ふることになる。偽筆をも上人と尊ばせることは思召に叶ふたものではないか。惜しいかな人一人をすたれものにせられた。残念のことである。今まで上人を尊敬したのも我が愚かなる故であつた。」思ふに大慈大悲の仏の本願はいかなる罪悪のものをも摂取して捨てたまはぬ。ましてその罪を悪みてその人をにくまずといふ諺もある。悪ければこそたすけてやらなければならぬ筈である。芭蕉自身にも路通といふ門人を破門したことがあつた。路通は芭蕉がある年近江行脚の時に乞食であつたのが拾はれて弟子となつたのであるが、その性放逸軽薄で師匠の命に違ふことがあつたので師弟の縁が断たれた。しかし芭蕉は路通が大阪にて還俗したることを聞きて、路通に西行・能因の真似はあるまじければ平生の人である、常の人が常の事をなすに何の不審があるべきや、俗にありても風雅の助けにもならば常の乞食よりは勝るべしと言つて路通を許して居る。さうして臨終のときにも側に居つた門人に向つて路池のことを頼むと言つたと伝へられて居る。       絶対の信  芭蕉の病気が段々と重くなりて、危険の症状が加はるやうになつたので、芭蕉の門人で且つ主治医であつた木節は他の良医を迎へむと言つたところが、芭蕉が言ふには「いかなる仙方がありてもこの天業を何としやうぞ、人力には及ばぬことである。自分はかういふことを覚悟して居るから、呼吸の通ふ限は木節の薬を飲まう。他に良医を求むるには及ばぬ」と言つて、死に処して平然であつた。「我が性は木節ならでは知るものなし」とて芭蕉自身の発意にて遠く大津に住める木節を大阪に呼び寄せて治療を托したのである。若し疾病が平癒せずともそれは天業であるから人間の力は及ばぬことであると、安心の境に住して居つたのである。死生命ありと、その壽命と天命にまかすより外はないといふやうな捨鉢の態度でなく、人間の小なる力にてどうすることも出来ぬ自然の大なる力に随順することが真実であると信じたために、芭蕉はかやうに死に処して平然たるものがあつたのであらう。自然の法則として、どうしても人間が免ることの出来ぬ死に直面して、徒らに狼狽することのないやうに、いはば死生の境と超越することの出来るのが宗教の心である。芭蕉はかやうな場合にも、強く宗教の心をあらはして、自然に対して絶対に随順することと改めず、自然の一部である木節の医療に対しても、絶対の信を置きて病の苦しみが増せばとて決して医療を怨むやうなことを言はず、どこまでも自己を自然の真実に随順せしめて行かうとするところに、芭蕉の心は実に美しい宗教の心であつた。 @  新選妙好人伝第三編 明恵上人  この妙好人伝の中には、仏教の何れの宗派に属するに拘らず、又所謂念仏行者若しくは所謂難有屋連中でなく、仏教の僧侶は固より儒者の中にても、その心のはたらきが真実に宗教の心をあらはしたものであると認むべき人々の伝記を略述しやうと思ふ。これまでの妙好人伝といへば主に在俗の弥陀教信者が念仏の生活によりて自他を利益したことが叙述せられて居るのに反して、この「新選妙好人伝」は宗教の心が個々の人にあらはれる状態を示すことを主としたのであるから、所謂法悦の状況を記載することはなるべくこれを避けて、むしろ真実に宗教の心をあらはしたるものと認められたる人の精神の状態を心理学的に分析することをつとめたのである。  惟ふに、宗教の感情は、己を虚うして一切の事物に対するときは、誰人と雖もこれをあらはすことの出来るものである。如来の本願といはるる宗教上の言葉は、この宗教の感情を本としてあらはるるところの宗教的意識を指すのである。今私はむかしの人々の中に、此の如き宗教的感情のよくあらはれたるを見て、これを鏡として自己の相を照らすことをつとむるの資料として太だ有益であることを信じ、故らに新選の文字を冠して、この妙好人伝を世に公にしたのである。聊か蕪辞を陳ねて、この書の序文とする。    昭和十一年八月上浣 新選妙好人伝第三編  目次 明恵上人 緒言 上人の略伝 上人の行実 華厳の教 戒定慧 聖道と浄土 念仏 内観と宗教 道徳と宗教 智慧学問 畜生の徒者 阿留邉幾夜宇和 博愛慈仁 欲を去れ 宗教の心  凡例 一。古くから行はれて居るところの「栂尾《とがのお》明恵上人伝記」は門人喜海師が撰述せられたるもので、これには上人の伝記二巻に遺訓一巻が附けてある。別に高信師が著作せる「高山寺明恵上人行状」がありて、これには漢文体のものも行はれて居る。それに近時、高山寺にて発行せられたる「拇尾山高山寺明恵上人」一冊がある。これは村上素道師が編纂せられたるもので、明恵上人年譜を主とし、逸事、法語、交遊、余譚、系譜等の諸項に渉りてくわしく記載せられて居る。私は此等豊富な資料を手にして、明恵上人にあらはれたる宗教の心と認められるものと、及びそれに本づくところの態度とを探り、それに本づきて、この小篇を草したのである。 二。附録「拇尾の上人の遺趾」一篇は、去歳の秋、私が藤田勝太郎、秋山不二両子と相携へて拇尾山高山寺に参詣し明恵上人の遺蹟を訪ふたときの記事で、秋山女史の筆に成つたものである。明恵上人の宗教的生活の如何を窺ふ上に、稗補少なからぬものであると信じてこれを挙げたのである。 三。この書の原稿は私が自から筆録したのであるが、その整理及び校正は一に秋山不二女史の尽力を煩はしたのである。又この書を公にすることを得たのは一に厚徳書院長宗氏の厚意による。特に記して謹謝の意を表する。  昭和十一年十一月下浣  富士川游 記 明恵上人 富士川 游 述        緒  言  継体天皇の御代に、支那の南梁の司馬達等が我邦に帰化して仏教を伝へてより、奈良・平安の両期を経て、鎌倉時代に至るまで、凡そ七百年の間、仏教の興隆と共に、名僧・知識と呼ばるる人は幾百人となく世に輩出したのである。その中に就て、学と徳と共に勝れたるを以ての故に高僧と名づくべく、又威儀粛々として身を持することの謹厳なりし点よりして真に清僧と称すべきものを撰ぶとすれば先づ指を明恵上人に屈すべきである。明恵上人は鎌倉時代に世に出でて法然上人や解脱上人などと併び称せられたる人であるが、当時我邦の仏教は奈良・平安両朝時代の余弊を承けて、諸山の僧侶の多くは経典の慧解を主とし、教義に就きて戯論をなすことを専とし、釈尊の精神を体得せむとするものは稀にして、正法を護持し興教利生を願ふものの如きは暁天の星よりも尠なかつた。明恵上人はこの際に憤起して頽敗したる仏教をば釈尊のむかしにかへすことに努力し、その身命をば聖道の復興に抛つた人である。しかしながら、余が今、この小篇に於て、明恵上人のことを説くのはその学風を叙して上人の我邦仏教史上に於ける丕偉の功績を挙げやうとするのではない。ただ上人が執実の学者として深遠なる華厳の哲理を究めながら、一方にありて釈氏の徒弟の一人として、まことによく仏教の精神を体得せられたる点につきて略述しやうと思ふのである。明恵上人が華厳宗の大家であり、横にこの宗に一燈を伝へて大にこれを興されたことは言ふまでもないことであるが、しかしかやうな上人の学間の如何を説くことは余の任とするところでもなく、又これを期図するのでもない。ただ余は上人の清高無比の人格を伝へ、殊に上人の心にあらはれたる宗教としての仏教の精神を現在今日のやうな濁悪の世の上に再現せしめやうとするのである。平たく言へば、高僧大徳としての明恵上人を挙げやうとするのではなくして、一妙好人としての明恵上人を示さうとするのである。元来妙好人と云はるべきものは念仏の行者に限るもののやうになつて居るのに反して、余はその意義を広くして十分に宗教の心をあらはしたりと認められるものを指して妙好人と名づくるのであるから、妙好人はひとり無智の愚夫愚婦にのみ限らず、智慧の深く学問の精しきものにも同じやうに存するのである。これは言ふまでもなく、宗教の心が賢愚の差別がある智慧のはたらきを離れたところにあらはるる一種特別のものであるためとすべきである。        上人の略伝  明恵上人は高倉天皇の承安三年正月八日紀州有田郡吉原村に生れたまふた。父は平重国で高倉院の武者所であつた。母は湯浅権守藤原宗重の女であつた。治承四年上人八歳の正月に母におくれ、その九月に父におくれて慈愛の両親にわかれたる後には、伯母に養はれたまひ、九歳の八月に高雄山に登せられたまふた。高雄山はすなはち神護寺にて和気清麻呂の創立にかかり、当時文覚上人がそこに居られた。さうしてその門人の上覚は上人の叔父であつた。十六歳の時に得度し、東大寺戒壇にて具足戒を受け、名を成辨といひ、後に高辨に改めたまふた。十八歳の頃、軽蔵に入りて古経の中から「仏遺教経」を見出し、これを読みて大に感激し、自からこれを書写したまひて、その奥に「是れ雙林入滅の時、最後の遺言なり、云云、滅後二千年の末にありて始めて遺教妙典の題を開く、悲喜相交はり感涙抑へ難し」と書き記して日常これを持して読誦したまふたといふことである。さうして、自らも「悟証の分もなくて広学なるばかりは浦山敷も覚へず、ただ仏の出世の本意を悟り、仏法に於て、実に仏心を得て教の如くにつとめむと心がけたりき」と語つて居られるほどに、釈尊の人格とその教とを尊崇せらるること一方ならざるものがあつた。  明恵上人は九歳の秋に高雄山に登ぼつてから二十三歳までは高雄山に居つて一生懸命に勉学したまふた。しかるに、建久六年、華厳宗興隆のことにつきて学徒の間に争論が起つたので、あぢきなきことに思はれ、仏法の真意を得るために静なる処を選ぶべしとて、自から仏像を背にして古郷の紀州に帰りたまふた。その時の詠に    山寺は法師くさくて居たからず         心清くはくそふくにても とあつた。多くの僧侶達が、真面目に仏法を求むることをせず、互に我を執りて徒らに喧噪するを見て、さういふ所には居たまらずして、さつさと紀州の片田舎へ逃げ出したまふたのである。  明恵上人が紀州に帰りたまふてからは湯浅の栖原村自上の峯に一字の草庵を立てて坐禅行法怠りなかつた。後に白上の庵を去りて淡路に赴きたまふたが、丈覚上人の病気重しとの報知に接して高雄山に帰りたまふた。ところが文覚上人の病気は幸にしてよくなつた。その時文覚上人は明恵上人に対して「此寺の附近には閑居の地が多い、抂げて草庵を結で住したまへ、此山の奧に大磐石あり、彼上に俺を造てまゐらすべし、それが御心にかなはずば栂尾に庵を法りてまゐらすべし、そこは閑静であり、風景もよい、仏法久住すべき地形である、運慶法師が造りたる釈迦の像をば附属し奉らむ」と言ひて、懇に上人が此地に留ることを勧められた。文覚上人は常に人に対して明恵上人を推称して「明恵上人が心の仏法におきて高潔なることは釈尊在世の時の舎利弗目連以上にあらむ」と語つたといふほどであつたから、思ふ所がありて明恵上人を引き留めたのであらう。明恵上人はそれからしばらく高雄山に留まりたまふたのであつた。  その後しばらくして、明恵上人は又高雄山を去りて紀州白上に帰りたまふた。時に建久九年の秋であつた。そこも騒敷とて更に山の奥の筏立に草庵を設けて坐禅行道したまふた。しかるに建永六年の十一月、後鳥羽院より高雄の一院栂尾を賜はりて、明恵上人をここに住せしめ、華厳宗興隆の勝地と定め「日出先照高山之寺」の勅額を賜はつたのである。元来栂尾には古くから度賀尾寺といふ院があつた。高雄山の西北で、槇尾の東に当り、高雄の別院であつたものと見ゆるが、明恵上人がここに住したまふてから此寺は大に興隆した。そこで明恵上人は栂屋の中興と称せられるのである。建保六年の秋、栂尾に喧噪のことがありて上人は賀茂の神山に移りたまひ、「浮雲は所定めぬものなればあらき風をも何かいとはむ」と詠じたまひしが、一年ばかりにして又栂尾に帰り、それから後は栂尾にとどまり、寛喜三年の十月初より所勞、翌貞永元年の正月十九日に日出度往生したまふた。年は六十歳。二十一日の夜禅堂院の後に葬斂したといふことである。        上人の行実  明恵上人が幼時より厭世の志の深かつたことにつきては記録に伝へられる話が多い。上人が四歳ばかりの時、父の重国が鳥帽子を著せて「形美麓なり、汝成人せば小松殿などへ参らせ、翫童の数にも召されば頓に寵遇を得てむものを」と戯れに言ひしを誠のことと思ひ、いたく愧ぢたまひて、面貌肢体と毀傷して、かかる辱を免れむと思ひたまひ、或時橡より落ちたれども怪我をせず、更に火箸を面にあてて焼かむと、先づ試みに臍にあてたるに熱きに泣きて面にあてることが出来なかつたといふ。上人後に自からこのことを門人に語りて、「これ仏法のために身をやつさむと思ひし始なり」と言ひたまふたとある。四歳の幼児にして己に早く此の如き心をあらはすことはまことに異例である。それから九歳のときに家を離れて高雄山に登ぼることとなりたるに、「古郷を出づるとき、名残り惜しく、泣く泣く馬に乗りて行くに、鳴瀧といふ川む渡るに、馬立ち留まつて水を飲まむとするに、手縄をすこし引きたれば歩々水を飲むを見て思ふやうは、畜生とて拙きものだにも、人の心を知りて行くとこそ思らめ、留まらずして歩きながら水を飲らめ我れ父呼の遺命によりて入寺するに、名残惜しくして泣くことのうたてさよ、遙に馬に劣りけりと覚へしかば、恋慕の心やみて一筋に貴き僧となりて親をも衆生をも導かむと心中に願を発した」と、これも後に明恵上人が自から人に語りたまふたことである。上人が九歳の童児にして、大人も及ぶことの出来ぬやうな雄々しき心の持主であつたことは、まことに驚嘆すべきことである。  明恵上人は早く父母に死別せられたが年が長じて後、常に父母のことを思ひたまひ、犬や鳥を見ても、父母にてや有らむと考へたまふたほどであつた。或時思はずも犬の子を踏み越へたるに、若し父母にてもあらむかと立ち帰りて拝みたまふた。戯れ笑ひたき時にも、若し父母が三途に入りて苦患を受くるのに、それを助けずして何事をか快しとして戯れ笑ふべきや、若し又父母が中有にありて我を見むときに、我れ放逸に歓楽して戯笑すと思はれむことを恥しく考へて、仮にも戯笑することなく、速く法師に成りて行ひ勤めむと念願したと、これも上人自身の物語であつた。又上人或時人に語りて「釈尊は我等が慈父なり、衆生のために世に出でたまふと聞きしより後、仏の御事といへば、尊くむつまじく思ひたてまつりて心を養ふところに化緑薪尽きて入滅を唱へたまひにけりときけば、我等巳に仏に後れたてまつりぬ、何れの世にか値遇したてまつる期あるべき、滅後の悲しみ抑へ難く、恋慕の心喩るに物なし、父母に後るる恨み、仏の御事にくらぶれば物の数にあらず」と言はれたと伝へられて居る。  明恵上人十三歳の頃、心に思ひたまふやう、早や十三歳になりぬ、年老いたり、死なむこと近づきぬらむ、老少不定の習に、今まで生きたるこそ不思議なれ、古人も学道は火を鑽るが如くなれとこそ言ふに、悠々として過ぐべきにあらずと、自から鞭を打て行を勵ます、或時は思ふやう、かかる五蘊の身なればこそ若干の苦しみこそあれ、帰寂したらむに如かずと、三昧原へ行きて臥したるに、夜深く、犬ども来たりて傍なる死人を喰ひたれども自分を嗅ぎみて食せずして犬どもは帰りたり、恐ろしさは限りなし、此様を見てさてはいかに身を捨てむと思ふとも定業ならずしては死すまじきことなりと知りて其後は思ひ止まりたり。大人になりて後に此事を思ふに、其時の見解にて死したらば浅猿しきことであつたと、上人自から話して笑ひたまふたとある。しかしながら、明恵上人がかやうに仏法を重く見て自身を軽んぜられる志は後に至りても決してかはることがなかつた。上人の申されたところに拠ると、我等如来の本意に背けることを思ひ続くれば髭を剃れる頭も其驗とするに足らず、法衣を著せる形もその甲斐更になし、此心押へ難きによりていよいよ形をやつして人間を辞し志を堅くして如来の跡をふまむことを思ふ。しかるに眼をくじらば聖教を見ざる歎あり、鼻をきらばすなはち鼻垂りて聖教を汚さむ、手を切らば印を結ぷに煩あらむ、耳は切るといふとも聞へざるべきにあらず、しかれども五根の欠げたるに似たり、されど片輪者にならずば、なほも人の崇敬にばかされて、思はざる外に心弱き身なれば出世もしつべし、左様にてはをぼろげの方便をからずば一定損とりぬべし、片輪者とて人も目をかけず、身も憚りて指出ずんば自からよかりぬべしと思ふて、志を堅くして仏眼如来の御前にして、念誦の次でに自から剃刀を取りて右の耳を切り取りたまふたのである。道のために身をやつさば眼をもくじり、鼻をも切り、耳をもそぎ、手足をも断ち尽すべきであるが、それは凡身の堪ゆべきところでないから、鬚髪を落して志を潔くせよと釈尊は教へたまひたるに、我上がその本意に背くことを思へば、じつとしては居られない、その心の切なるあまりに明恵上人はその耳を切り取りたまふたのである。平安朝時代に行はれたる捨身供養は別として、明恵上人の如くに、法を重んじて身を軽く見たる高僧は他に比類を見ることが尠ないのである。門人喜海が明恵上人の行状を記せるものを見るに、「上人が紀州の庵を捨てて栂尾に住みたまひし始は此山に松柏茂り人跡絶へたり、ここに僅なる草庵を結で最初には上人と伴の僧と唯二人ぞ住みたまひける、竹の筧、柴の垣、心細き様なり、次の年の春の比より懇切に望む輩あるに依て四人となれり、其一人は喜海なり、萬事を投げ捨てて唯、行学の營みより外は他事なし、眠を許すことも夜半一時なり、髪を剃り爪を切る受用も日中一時には過ぎず、此夜画各一時の外は更に他を交へざりき、きびしき事限りなし、朧げの志にては堪へらふべき様もなかりき」とある。上人の行状が厳格で、普通の人から見ればきびしきこと限なしであつたことは「日用清規」「房申護律儀」など上人真筆の黒板が今も石水院に樹在してあるを見てもよく知られることである。  明恵上人が又、天稟執実でその態度が謹厳であつたこともいろいろ伝へられて居る。蟻、けら、犬、鳥、田夫野人に至るまで、皆これ仏性を具へて甚深の法を行ずるものであるから、これを賤しみてはならぬとて、犬にも牛馬にも、人に向へると同じやうに訊問し、腰をかがめて挨拶したまふたと伝へられて居る。物を荷ふ枷をも是は人の肩に置くものなり、笠は首にかつぐ具なりとて足にて踏め越たまふことはなかつたといふ。諸堂の前にては馬や輿に乗りたまはず、袈裟をかけずにかりそめにも聖教を手にしたまふたことがなかつた。たとひ墻壁を隔つといへども人の臥したる方へ足を伸ばすことをせられなかつたといふことである。仏法以外の閑話の徒には一切面謁したまはず、静かに書を読み禅定を修することをつとめとし、学徒に授くるの外は他の俗事にはたづさはりたまはず、或時は小さき桶を一とつ用意して二三日の食物を入れて肱にかけ、後の山に入り、木の下石の上、木の空ろ、巌窟などに終日終夜坐したまふこともあつたと伝へられて居る。  明恵上人は飲食に飽くことは罪業深きこととしてこれを戒めたまふた。その言葉に曰く「殺盗淫酒などの如くならば、留めてもあらましけれども、生を受るもの、一日も食はずば命保ち難し、されば仏一食をすすめ、再食を求めたまへり、これしかしながら気をつきて道を行はむがためなり、しかるに無慚無愧にして放逸の心の引くに任せて、しきりに濃き味を好み強て飽かむことを願ふ、この心を改悔せずば何ぞ畜生に異ならむ」とある。秋田城介が入道して覚智と称し、栂尾にありける頃、自から庭の齋を摘みて味噌水といふものを作りて上人にまゐらせしに、上人一口含みたまふて、しはし左右を顧みて傍なる遺戸の高ノ積りたるほこりを取り入れて食したまふた。大蓮房といふものその席にありていぶかしがりければ、上人の曰く「あまりに気味のよきほどに」と仰せられた。平生少も美味を好みたまふことなく、又炭をおこし焼火などしてしとしととあたりたまふたことがなかつた。又或人松茸を種々に料理してまゐらせけるに、上人帰りたまふて人に語りて「道人は仏法をだにも好きと人に言はるるは恥なり、まして松茸好などと言はるることは浅猿きことなり、これを食すればこそかかる煩にも及び候へ」とてその後はふつとこれを断ちたまふたといふことである。  上人あるとき冷病に侵されたまひしとき、医博士和気某が診察して「これはひゑの故なり、山中霧深く寒風烈しきにより、美酒を毎朝煖めて少しづつ服したまふべし」と申せしに、上人の曰く「法師は私の身にあらず、一切衆生のための器ものなり、放逸に身を捨つべきにあらず、その上必死の定業をば仏も救ひた士はず、されば耆婆が方も老を留むる術なく、扁鵲が薬も死を助くる徳なし、若し予、暫くも世に住して益あるべき身なれば三寳の擁護によりて病癒へ命延ぶべし、さあるまじきに於ては仏の堅く戒めたまふ飲酒戒をば犯すべからず、予若し薬のために一滴をも服せば何事がなかこつけせむと思げなる法師共ゆへ、御房も時々酒は吸たまひしなむといふためし引出して此山中さながら洒の道場となるべし」と言ひたまひ、絶対に酒を飲むことを戒められたと伝へられて居る。上人の道心堅固にして嗜欲のために動かされたまはざりしことはこの一例にても推知せられることであらう。  門人喜海が造るところの「明恵上人伝記」に拠ると「上人常に語り給ひしは、余少時より貴僧にならんことを恋ひ願ひしかば、一生不犯にて、清浄ならんことを思ひき。然るに何なる魔、託するにか有けん、度々婬事を犯さんとする便り有りしに、不思議の妨ありて、打さましましして、終に志を遂げざりき」と、上人自から一生不犯の童貞であつたといふことを語られたといふことである。男女間の性交が不浄であるといふ事の理否は兎も角も、明恵上人が釈尊の遺訓を堅く守りて強くその心を制せられたことは到底常人の企て及ぶところでなかつたと言はねばならぬ。    華厳の教  明恵上人が奉ぜられたる仏法は華厳宗と名づけられるものであつた。この宗は「華厳経」を本として立てられた教で、「華厳経」は釈尊が成道したまひて第一に自証の儘を説かれた一乗円教であると尊ばれるものである。元来、大乗仏教の教理として行はれて居るところは、宇宙の根本として真如を説き、この真如は平等であるがその上に、因縁和合によりて差別の相が種々の事物としてあらはれる。或は平等の真如が自から動きて差別の相をあらはすのであるとするが、華厳の教にては、これに異なりて、差別の上の平等を説くので、現象としてあらはれたるすべての事物に平等の真如の理を見るとするのである。現象としてあらはれたるすべての事物を事法といひ、その上に見らるべき真如の理を理法といふ。事法は理法より起りたるものであるから此事と彼事とは無碍である。宇宙の間のすべてのものは真如の理をあらはすもので絶対である。この理を悟れば萬物はすべて皆我に具はるものである。人々各々一大宇宙を包容して我即ち絶対なりと悟れば、我即ち一大毘盧遮那仏(真如)となることを知る。此の如きは畢竟、如来の智恵にして人々これを具足するも妄想によりてこれを悟ることが出来ぬのである。しかるに華厳の教はこの如来自証の円教を説くものであるから、たとへば日出でて先づ高山を照すが如く、この宗にて説くところの法門は日光の如くその光を被むるところのものは高山の如くである。それ故に、この宗の教はこれを理解することが困難であると言はれた。しかし、実際修行の方法としては教を聞て深く信じ、菩提心を発し、堅固にその道を修めて、法の深大を知るときに、妄念去りて、自身は本来即ちこれ如来の智慧を蔵するものであることを悟るのである。それ故に初めて発心するときに便ち正覚を成すと立つるのが華厳宗の極致とするところである。  此の如く、華厳の教は深遠の哲理を説くもので、高山でなければ先づ日光に照らされることが出来ぬやうに、この教は所謂上機にあらざればこれを奉ずることが困難であつた。しかるに明恵上人は「凡そ華厳経は諸仏の肝心、普賢の秘府なれば更に余外の衆生の耳に入らず、唯大菩薩種姓、如来の真嫡子の掌にのみ入る。然るに此経、我に於て殊に有緑と覚ゆ、其所以は此経に因める夢想を屡々見る」と言つて、この経を奉じて、弥々專精に大智慧を乞ひて一大聖教の大意を得、諸仏菩薩の心を以て我が心とし、諸仏菩薩の修行を以て我が修行となさむと願ふとまで告白して居られるのである。前にも挙げたやうに、「惣じて真言師といふも、学生といふも誠に悟証の分もなくて、広学なるばかりは、浦山敷も覚えず、ただ仏の出世の本意を悟り、仏法に於て実に仏心を得て、教の如くにつとめ修行せむことをのみ思ひき」と上人自から述懐して居られるやうに、上人が期せられしところは仏教の学者として学問が広く、真言師とか、学生とかになりても悟りを得ずしてただ名譽の高く挙がらむことを羨まず、どこまでも釈尊がこの世に出でて法を説かれたる本意をさとりてその教の如くに修行せむことをつとめられたのである。      戒定慧  かやうにして、明恵上人が恵心につとめられたところは所謂戒定慧の三学であつた。元来、釈尊の教の究竟の目的とするところは真実の智慧を獲るといふことを期するのであるが、真実の智慧を獲るには先づ煩悩の心をしづめねばならぬ。禅定と名づけられるところの行はこの趣旨に本づきて実行せられるものであるが、この禅定の目的を達するがためには戒律を保つことが第一必要である。それ故に戒律を保ち、禅定を修し、真実の智慧を得ることが三学と称せられて、仏教の要義とせられたのである。さうしてその戒律を保つといふことは要するに悪を廃し善を修することで、道徳の心を堅固にし、その態度を厳粛にすることである。かういふ道徳の心が先づあらはれて後に内観が深くなりて、迷を転じ悟を開くことが念願せられ、この念願が強くなりてから始めて宗教の心があらはれ、その結果真実の智慧が獲られて、ここに苦が抜かれ樂が与へられるのである。釈尊が説かれたるところを表面的に見ると、ただ廃悪修善の教のやうに思はれるが、その教を聞くものが、内観を深くして転迷開悟の道へと進み、道徳より宗教にと向ふことによりて遂に抜悪与樂の境地に達することが出来るのである。明恵上人の如きはまことによく釈尊の精神を曾得し、真実の智慧を獲得して、以て安心立命の境地に住せられたるものと言はねばならぬ。      聖道と浄土  明恵上人が進まれたる道は所謂聖道であつた。釈尊が説かれたる聖道であつた。後には所謂三学と称せられたが、釈尊はこれをくわしく説いて正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八正道とせられた。さうしてすべての人はこの八正道を修めることによりて正しく真実の智慧を獲ることが出来ると説かれたのであつた。釈尊の教はどこまでも自分の心を修めるの道であつた。文字の穿鑿や、無意味の戯論に渉ることを避けて、実際に履行することを専一とせられたのであつた。しかるに、我邦に仏教が伝はりてから数百年、鎌倉時代に至りては、むかしの釈尊の精神は歿却せられて、僧俗共にただ慧解戯論のみを事とし、肝腎たるべき自分の心を修むることは度外におかれた状態であつた。明恵上人は此の如き仏法頽敗の代に出でて、釈尊の正法を復興することに努力せられたのであつた。これより先に法然上人も世に出でて同じく現在の仏法が釈尊の精神を離れ徒らに伽藍の美を競ひ、学問の博きに誇り、宗教としての意味が失はれたのを歎じて、恵修念彿の教を興されたのであるが、法然上人は仏法をば学問としてでなく、それをば真実の宗教として見られたのであるから、釈尊の教の究極するところは念仏にありとせられたのであつた。八正道の中に就て、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進の六正道は我々の智慧と、それに本づくところの意志のはたらきとを要するものであるが、その智慧が浅く、意志が弱くしてどうすることの出来ぬ自分等は、法の命ずるままに従順して正念と正定との智慧を獲るの外はない。さうして、それには恵ら念仏を修するの一道があるのみと、法然上人は唱道せられたのであつた。そこで、法然上人は「選択本願念仏集」を著はして恵修念仏の教を説かれたのであるが、その要旨は我々のやうな聖道を修める力のないものは、菩提心を発することを要せず、戒を保たず、定を修せずして、恵ら仏名を称ふることによりて仏の国に往生して、そこに真実の智慧を得るやうにとつとめられるところの如来の本願を信じて、その慈悲の力に全托すべきであるといふのである。普通にこの法然上人の教は浮土の教として聖道の教に対立するものとせられて居るが、実際宗教の心の上から見ればこの二つのものが互に相反するものでなく、ただ思考の上に於て、それが相違せるのみである。しかし、思考の上では相当の問題とすべきものであるから、明恵上人は法然上人の「選択本願念仏集」に対して「摧邪輸」を著はして痛くこれを攻撃せられた。さうして明恵上人が法然上人の所説を攻撃せられたことの主要は法然上人が聖道門を群賊に譬へたといふことと、発菩提心を要せぬといふこととの二点であつた。それにつきて法然上人の一派から反駁があつたので、明恵上人は更に「荘厳記」を造つて大に自説を主張し、若し菩提心を廢するとせばそれは仏弟子たるの資格がないとまで痛言せられた。    念仏  かやうにして、法然上人の恵修念仏の教を奉ずる一派からは、明恵上人は浄土教の破壊者なりと罵倒せられたのであつた。しかしながら、法然上人一派の恵修念仏と明恵上人の発菩提心との論争は、さう簡単に片づけらるべきものではない。明恵上人といへども固より念仏を排斥せられたのではなかつた。門人喜海が記せるところに拠ると、明恵上人は念仏につきて大要次の通ほりに説かれたのである。  「仏の我が名を念ぜば我行て救はむと仰せらるるは、流の畔の渡守などの舟の賃を取りて人を渡すが如くにはあらず、唯仏に不思議の功徳います、其名を念するに力を得て増長縁となりて衆生を助けたまふなり、たとへば飯の人に向ひて我を食ふべし汝が命を延ばさむといふが如し、是は飯が我身を嫌ふことはなけれども飯を身の中に食入つれば増長縁となりて人の命を延ぶ、されば我を食へといはむが如し、諸仏の甚深の道理はただ仏のみよく知りたまへり、仰て信をなすべきなり、なまこざかしく兎角我をあてがふことは悪るきなり、如来は是れ我が父母なり、衆生は子なり、六道四生に輪転するとも、如来と衆生とは親子の中かはることなし、我等大聖慈父の御貌をも見奉らずして末代悪世に生るることは先の世に仏の境界に於てこのものしく願はしき心もなかりし故なり、一向に渇仰をなさば必ず諸仏に親近し奉りて不退の益を得べきなり、生死の果報を得るも、生死の境界を願ふ心の深ければこそ生死界に輪転するやうに、仏の境界を願ふ心深ければ亦仏の智慧を得るなり、ただ生死界をば悪しき大願を似て造り 涅槃界をば善き大願を以て造るなり、されば「華厳経」にいふ、当さに清浄の欲を起して無上道を志求すべしと、清浄の欲とは仏道を願ふ心なり」  この明恵上人の念仏の説明は正しく法然聖人が説かれたる他力本願の念仏が意味を明かにしたものといふべきであらう。法然上人は「一心に恵ら弥陀の名號を念じ、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく、彼仏の願に順ずるが故に」といふ善導大師の念仏を奉じて、勇猛金剛の心にて恵ら弥陀の名號を念ずるところに菩提心も戒・定・慧の三学も皆悉く備はり居るから、改めてこれを要せないと言はれたのであらう。かやうな宗教の心が起らずして徒らに菩提心を説き三学を修することはますます真実の智慧を獲ることから遠ざかるものであるから法然上人はこれを雑行雑修として排斥せられたのであらう。また思ふに、法然上人が発菩提心を排斥せられたるは恵修念仏を独立のものとして、これを寓宗としての念仏から区別するがためでもあつたかと考へられる。実際にありて、法然上人が発菩提心を要せぬと言はれたその発菩提心は法然上人が勇猛金剛の心にて実践履行せられたる恵修念仏の中に現存したのであつた。自分が計らはざるところに自然法爾として備はるべきものである。親鸞聖人に至りては明かにこの事実を説き示して、浄土の菩提心は願作仏心で、それは他力に外ならぬものであるとせられた。明恵上人も恐くは法然上人の意見のあるところを知りて、しかもその説明が行儀作法を必要とせねもののやうに聞えるので、それがために多くの愚昧のものを迷はしめむことを憂慮して、かく言はれたのであらう。       内観と宗教  何れにしても、宗教の心は我々の心のはたらきとして、常にあらはるるところの思慮分別を離れて、自からにして発呈するところの一種特別の感情を本とするものであるから、それには内観が十分に深く且つ十分に明瞭であることを第一條件とするのである。若し内観が徹底して自分の相が真に愚悪であると知られたならば、そこにあらはれるところの宗教の心はすべて皆同然であるべき筈である。明恵上人が深く自己を内観せられた言葉に「悲哉、我等ただ春来れば花に戯れ、秋を迎へて菓を翫ぶ、明けくれ、心に浮くこととては財欲、色欲、法欲にのみ埋れて、何かかやうにうごき動くといふことを知らず、ただ物うち食ては睡るばかりを事として、他の非他の失をのみ心に思ひ、口にのべ、戯笑諂諛極まりなし、年月はかはるがはる変ずれどもこの理をば改めず、飽までこれを笑み、恣に量を食す、その感ずるところは唯、世間の五欲の味をのみ貪ぼる、あじきなきかな、恥しきかな」とある。明恵上人が自分の心の内面を観ることが深かつたといふことはこの一事にても知られる。明恵上人が自から非人高辨といはれ、時に乞食沙門と称せられたのも、法然上人が愚痴の法然房といはれ、親鸞聖人が愚禿と称稗せられたと同じやうに、世の常の謙遜の態度を示すものでなく、真に自己を内観して、その拙劣を痛歎せられたためである。さうして、この場合は自己に相当の価値ありとするところの意識が否定せられて、自己が空虚となるのであるから、すぐに自己を包容するところの大なる力が感知せられるのである。この大なる力を感知する心が宗教としてあらはれる。かういふ点から見て、余は明恵上人にあらはれたる宗教の心も、法然上人や、親鸞聖人の心にあらはれたる宗教の心と同然であると思ふのである。親鸞聖人は「親鸞は弟子一人も持たず、何を教へて弟子といふべきぞや」と言はれたと伝へられて居るが、明恵上人も亦「我は師をば儲けたし、弟子はほしからず、尋常は聊の事なれば師になりたがれども、人に隨て一生弟子とはなりたからぬにや、弟子持ちて仕立たからむよりは仏果に至るまでは我が心をぞ仕立つべき」と言はれたのである。内観を深くして自己の価値が否定せられた結果、ここにあらはれたる宗教の心よりすれば我も人も共に仏の弟子として聖道を歩むべく、或は共に手を携へて仏の国に向ふべきものである。小智を振り廻はして徒らに人を教ふべきものではない。「小慈小悲もなき身にて、みだりに人師を好むなり」と親鸞聖人が告白せられたと同じやうに、明恵上人が「師をば儲けたし、弟子はほしからず」と謙虚の心をあらはして居られるところに真に宗教の感情が動いて居ることが認められる。       道徳と宗教  ある人、明恵上人に謁して「祈祷したまはれ」と願ひしときに、上人の仰せに「我は朝夕一切衆生のために祈念を致し候へば定めて御事も其数の中にてましまし候らむ。されば別して祈り申べきにあらず、叶ふべき事にて候はば叶ひ候はむずらむ、又叶間敷事にて候はば仏の御力にも及ぶまじき事にて候らむ、その上、平等の心に背きて御事ばかり祈候はむこと、仏神の御内証恥しく候、又仏は方々の御事をば一子の如く思召候に、叶へても進ぜられ候はぬに何にも様こそ候らめ、たとへば幼きもの毒を知らで食したがり候を、親の奪ひ取り候をばそれを恨みて泣き候が如し、されば仏をも神をも御恨有まじく候、又不信放逸の心ある人をば千仏も救ひたまはぬことなり、されば我身の拙きことを顧みて身をこそ恨みたまふべく侍れ、祈り叶はざらむ時も仏の御計ひやうぞ有らむと思ひたまふべし」又あるとき北條泰時が「如何してか生死を離れ候べきや」と尋ねたるに対して明恵上人は「少しにても理に違ひて振舞ふ人は後生までもなく、今生にやがて滅ぶる習なり、それは申すに及ばず、たとひ正理の儘に行ひたまふとも、分々の罪のがれぬことあるべし、生死の助けともならざること思も寄らぬことなり、山中に嘯く僧侶すらなほ仏法の深理に叶はざれば輪廻の苦しみ免れ難し、況や俗塵の境に心をおこして雑念にほだされて仏法といふことをも知らずして明し暮さむ人をや、世に大地獄といふものの現ずるは、ただかやうなる人の堕ちて煮へかへらむ料にこそ候へ」と言はれた。  固より人間として世を渡るには廃悪修善を必要とするのであるが、しかしかかる道徳は苦を離れ悟を開くための役には立たぬのである。悟を開き、苦が抜かれるためには、どうしても宗教によるの外はない。さうして、この宗教の心は、巳に前にも言つたやうに、道徳の心を前提とするものであるが、巳にあらはれたる宗教の心は全く道徳から離れたものである。しかも道徳の規範と些も衝突することがないばかりでなく、実行することの難き道徳の規範が、宗教の心のはたらきによりて極めて自由に実行せらるるに至ることは宗教の真価として尊重せらるべきものである。明恵上人の精神生活が全く宗教的であつたことを考ふれば、その態度の極めて厳粛で、普通の人には太だ窮屈に思はれたことも明恵上人に取りてはそれが極めて自由のものであつたのであらう。       智慧学問  明恵上人が常に語りたまひしことに「慧学の輩は国に満ちて踵を継ぐといへども定学を好む人は世に絶へたり、行解の知識欠げて証道の入門、拠を失へり」とあつたといふことである。上人は又「一々の経宗により、一々の迷悟の差異などを述せむに、たとひ我が一期を尽して日本国の紙は尽るともその義は説き尽し書き尽すべからず」と言ひて、智慧学問が仏法を修むる上に益なきことを示したまひ、「光るもの貴くば螢玉虫貴かるべく、飛物貴くば鵞鳥貴かるべし、不食不衣貴くば蛇の冬穴に籠り、おながむしの裸にてはらばふも貴かるべし、学生貴くば頒詩をよく作り文を暗誦したる白樂天小野篁などをぞ貴むべき、されども詩賦の芸を以て、閻老の棒を免るべからず、されば能僧も徒事なり、更に貴むに足らず、唯仏の本意を知らむことを励むべし、文盲無智の姿なりとも、是をぞ梵天帝釈も拝みたまふべき」と説いて、学問沙汰が仏の心を得る上に何の用にも立たぬことを強調して居られるのである。上人が「我は幼稚の昔より聖教を見るも、仏の思食し企てたる法の趣を知らんと思ふばかりにて別に学生にならんとも、人に譽められんとも思ひしことは無かりしなり」と自から語られしことは上人の平素の用心が慧学の方面にあらざりしことを証するものである。       畜生の徒者  かやうに智慧学問を捨て、思慮分別を離れて、始めて宗教の心があらはれると説けば、これを聞くものは定めて間違つたる考を起すこともあらう。明恵上人の遺訓に「我常に志ある人に対して言ふ。仏になりても何かせむ、道を成じても何かせむ、一切求め心を捨てはてて徒者になりかへりて兎も角も私にあてがふことなくして飢来れば食し寒来れば被るばかりにて一生はてたまはば大地をば打ちはづすとも道を打ちはづすことは有まじきと申すを、傍にて人聞てさては徒者になりたるがよき事ござむなれと、我も左様にならむと思ひて、飽よで食し、飽よで眠り、或は雑念に引かれて時を移し、或は雑話を並べて日を暮し、衆のために墓なき益をもなさず、寺のために仮にも扶けにならず、明けぬ暮れぬと過ぎ行きて、我こそ何もせずして徒者になりぬれと思はば、是に畜生の徒者になりかへりたり。如此なれば、必定して地獄の数となりぬべし、何ぞ仏果を成ぜんや」とある。宗教の心をあらはすためには智慧分別を捨て徒者にならねばならぬのであるが、しかしそれが畜生の徒者であつてはならぬ。明恵上人は更に「我がいふところの徒者といふは、先づ身心を道の中に入れて恣に睡眠せず、引ままに任せて雑念をも起さず、自由なるに隨て坐相をも乱さず、終日終夜、志如此して能をも嗜まず、芸をも求めず、仏に成らんとも思はず、道を成ぜんとも願はず、人中の昇進更に投捨て、一切求むる心なくして徒者になりかへりて一生はてんと大願を立てたまへとなり」と説いて、自分の小智にて兎角のはからひをなすことを止むべしと主張して居られるのである。      阿留邉幾夜宇和  明恵上人の遺訓に  「我は後生たすからむとは申さず、唯現世にてあるべきやうにてあらむとは申すなり、聖教の中に行ずべきやうに行じ、振舞ふべきやうに振舞へとこそ説き置かれたれ。現世にはとても、かくてもあれ、後生ばかりたすかれと説きたる聖教は無きなり、仏も戒を破て我を見るも何の益があると説きたまへり、よりてあるべきやうわといふ七字を持つべし、是を持つを善とす、人のわろきはわざとわろきなり、過ちにわろきにあらず、悪事をなすものも、悪をなすとは思はざれどもあるべきやうわに背きてまげてこれをなす、この七字を心にかけて持たば敢て悪しきことあるべからず」  人は阿留邉幾夜宇和《あるべきやうわ》といふ七文字を持つべきである。僧は僧のあるべきやう、俗は俗のあるべきやうにさへあれば善し、このあるべきやうを背くが故に一切悪しきなりとのこの教訓は、まことに明恵上人がその日常の生活に於て金料玉條とせられたところであつた。行ずべきとを行ぜず、ただ徒らに後生たすからむと望む心は決して宗教の心とすべきものではない。       博愛慈仁  承久の乱のとき、京方の兵士を多く栂尾の山中に隠し置きたることが聞えたので、秋田城介景盛栂尾に打ち入り、明恵上人をとらへて六波羅なる北條泰時の前に連れて来た。泰時は予て上人のことを聴き及むで居つたので、大に驚いたのであるが、此時上人は泰時に向ひて「栂尾の山は仏法興隆の地で、殺生禁断の場処であるからたとひ鳥獣が追はれて来ても命を断つことはない、まして遁れ来る軍士の命は吃度助けねばならぬ。隠すことならば袖の中にも袈裟の下にも隠してとらせばやと思ふ。これが政道のために難義なることであらば即時に愚僧が首をはねらるべし」と言はれた。泰時は痛く感じ涙を流し「仔細も知らぬ田舎武士ども、左右なく参り候て狼藉いたしけること、まことに申訳のない次第である」と陳謝して、さて今部下が禮儀を失せるによりて、偶然にもお目にかかることは仏の御計ひかと存ずると喜び「如何してか生死を離れるべきであるか、又聊か私なく理のままに行はば罪にはなるまじきか」と質間した。この時、明恵上人は「少きも理に違ひて振舞ふ人は後生までもなく、今生にやがて亡ぶる習である。たとひ正理の儘に行ふとも分々の罪のがれぬことがある。生死の助けとならんことは思も寄らぬことである。」と説き、それから前にも言つたやうに、「山中に嘯く僧侶すらなほ仏法の深理に叶はざれば輪廻の苦しみ免かれ難し、況や、俗塵の境に心をおこして雑念にほだされて仏法といふことをも知らずして明し暮さむ人をや、世に大地獄といふもの現ずるはただそれ等の人の堕ちて煮え返らん料にてこそ」と言ひ、仏法を信ぜねばならぬことを説かれた。       欲を去れ  北條泰時あるとき明恵上人を訪ふて質問して曰く「如何なる方便を以て天下を治むべきや」と尋ねたるに対して上人は「国乱れて治まり難きは何の故ぞと根源を知りてその根源を除くことをつとむべきである。さうして世の乱れる根源はただ欲を本とせり、この欲心一切に遍くして萬般の禍となる、これ天下の大病なり、これを療せむと思ひたまはばまづこの欲心を失ひたまへ」と教へられた。泰時の曰く「我身ばかりは心の及ばむ限りこの旨を堅く守るべきも、天下の人々皆これを守らむことは難し、これを如何にすべきや」。上人の曰く「ただ太竺人の心に依るべし、太守一人無欲になりすましたまはば其徳に化せられ、其用に恥ぢて国家の萬人自から欲心薄くなり天下安く治まるべし、天下の人の欲心深き訴へ来らば我が欲心の直らぬ故ぞと知つて我方に心を返して我身を恥しめたまふべし」と懇々と説き示された。泰時は深くこの教を服膺して天下日に随て治まり、諸国も年を逐て穏となつた。泰時常に人に語りて「これ一筋に明恵上人の御恩なり」と感謝したと伝へられて居る。明恵上人自身もこの事に注意して居られた。北條泰時が丹波国の大庄一所を栂尾に寄進せむとしたときに明恵上人は「かかる寺に所領だにも候へば住する僧ども、何と懶惰懈怠に振舞て所領あらば僧食事闕ぐまじ衣装も補ぬべしなんと思ふて無道心なるものども籠り居りて弥々不当にのみ成行候べし」と言つて、法のために宜しからずとしてこれを辞退せられた。又上人が常に曰はるるやうは、自分は無徳の法師であるが、物のほしき心のなき故にや、物たまはむと申す人は多いが、老僧が物を掠め取らんとする人はない。人の寄進するままに許さばこの山中に千僧も住むことが出来やう。人の差出す儘に取らばこの寺の内に数十の庫が立つことであらう。しかし自分は存する仔細があるから我が受用のみいささかの外は受ることをはない。僧はただ貧にして人々の恭敬を衣食とすべきであると戒められたと伝へられて居る。明恵上人が利欲の心を去ることにつとめられたことはこの一例にても明かに知られるのである。       宗教の心  明恵上人が華厳宗の博識の学者として、又清高無比の高僧として、その名の千載不磨であるといふ点につきて、上章にこれを略叙した中に、上人にあらはれたる宗教の心の麗はしきものであつたことを知るべき事実をも挙げたが、ここに更にそのことにつきて二三の例を示さうと思ふ。  明恵上人の徳望が一世に聞えて若き衆僧がその門下に集まつたときに、中には不善の行をなすものがあつたので、或人がそのものを破門せらるべしと上人に迫つたとき、上人の言はるるやうは「清衆の中に居つて不善なるものは諸天照覧したまへば己れと顕はれて己れと退く習である。しかるを、汝我に語つて彼を損せんとするは僧として無慈悲の至である。仏は実に有る事を自から見ると僧の失をあらはすべからずと禁じたまへり、仏弟子の過を説くは百億の仏身より血を出すにも過ぎたりと説きたまふ。又一には和合僧の中をいひたがふるは五逆罪の中の其一なり、汝巳にこの二罪を犯せり、片時も同住せんこと恐あり」とて、そのものを追放せられた。さうして不善の聞えある僧をば糺して所犯まぬかれねば同じく追放せられたが、さしたる証拠なきをば、俗人すら罪の疑はしきをば行はざるは仁なりとて不問に附せられた。かやうにして、実際に不善なるものは自から退きて、山中の清衆けがるることは更になかつたといふ。明恵上人は常に人の非を見聞することあるもこれを謗るべからずと戒めて「人の非を心に思ひ口に言ひて人の生涯を失はむことを顧みず、人の恥辱たるべきことを顕はす、これ何の料ぞや。人の非あらば其人の非なるべし、しかるを傍にて言へばやがて我罪となるなり詮なきことなり。若し世の為、法の為ならば諸仏諸神世にまします、その戒めに任ずべし、敢て我と心を発して言ふこと勿るべし」と言はれたのである。  明恵上人あるとき病悩のために与に乗つて京に出でられたとき、西の京の邉に一人の乞食僧が居つて、路傍に立つて「普賢経」の「如来昔し耆闍崛山及び余の住処に於て巳に広く一実道を分別す、云云」を読むだ。時に一人の下女が家内より出でて形の如くに供養す。上人これを見て謂へらく「読経の乞食僧、供養の下女、倶に一実道を知らず、しかして一実道はすなはちこの下女の乞食僧を供養するところに存す。経に曰く、諸仏両足尊、知法常無性、仏種従縁起、是故説一乗と、しかれば、この能施、所施、両人決定して成仏すべし、彼の卑賤の姿、やがて紫磨金色の身たらむ、」と、与中にて随喜合掌せられたと。  明恵上人あるとき道を過ぎたまひしに、河にて馬を洗ふ馬子が「あしあし」といひければ、上人立ちとどまりて「あな貴とや、宿執開発の人かな、阿字阿字と唱ふるぞや、いかなる人の御馬ぞ、あまりに貴とく覚ゆるは」と尋ねたまふた。「府生殿の御馬に候」と答ふるを聞きて、上人は「こはめでたきことかな、阿字本不生にこそあれ、うれしき結縁をもしつるかな」とて感涙を拭はれたと伝へられて居る。阿字本不生といふは密教の根本義で、阿といふ音は開口第一に起るもので、衆声の母である。凡そ物の元初根本なるものは必ず不生の法であるから阿字本不生といふのである。それは阿字に寄せて阿字不生の如くに一切諸法の不生の義を知ることが真言の行者の要道とせられるのである。明恵上人の心にさういふ宗教的の思考が十分明瞭にあらはれて居つたために、普通の人ならば何ともない馬子の足足といひたる言葉がすぐに阿字阿字と聞えて、いかにも宿執開発の人であると感ぜられたのである。府生といふは今日ならば警察官にでも相当する役人であるが、その府生といふ言葉が明恵上人の耳には不生と聞えたのである。かやうなことは決して錯聴に属するものではなく、類似の音によりて上人の心の中の真率なる宗教性がすなはち動いたのである。  建禮門院は平清盛の女にして、高倉天皇の皇后、安徳天皇の御母で、当時その構勢は非常であつたが、明恵上人に就て受戒あるべしとて上人を謂ぜられた。その時建禮門院は御簾の内に御座して御手ばかりを出し合掌したまひ、上人をば下座に置かれた。上人の曰く「高座に登らずして戒を授け、法を説くは師弟共に罪に堕つと経に説かれた。これは身をあぐるにあらず、法を重んずるが故なり。いかに仰せ辱なくとも、本師釈尊の仰を背きて諂ひ申すことはあるまじく候、誰にても貴敬し思食し候はん人を御謂候て御受戒あるべし」と言ひ放ちて退出せられたので、女院は驚きて、御簾より外へ出させたまひ、上人を高座に居へ奉りて受戒せられたと伝へられて居る。明恵上人が法を重んじ、爵を軽んぜられたことは真にその宗教の心の発露であつて、決して、我見を募りて、上長に対して無禮の態度をとられたのでないことは言ふまでもない。  これを要するに、宗教の心は明恵上人が「一切求むる心を捨てて、只無所得の心ばかりを提げて、私にあてがふことなく、いたづらものになりかへりて生々世々に終らむといふ永き志を立てたまふべし、仏に成ても何かせむ、道を成じても何かせんと思ひたまふべし」と言はれるやうに、自我の価値を否定して、彼れ此れと自分にてはからふ心のはたらきが息みたるときに自から感ずるところのものを本として、それが意識せられるのであるから、宗教の心は自由にして何事にも拘束せられず、我執の心を離れ、平和にして一切のものを包容し、又自分勝手にて定むるところの善悪の判断をやめて、事物そのものの真実の価値をそのままに見ることが出来るのである。  明恵上人が一切の人々は固より犬や猫の類までも皆仏性を有し共に仏に成るべき筈のものであり、共に仏の子なればとて如何なる賤しきものを軽蔑せられなかつたことは巳に前にも挙げたが、その仏法に対する思想も、決して宗派に固執せず、或は法に依り、或は人に依りて偏執我慢あるべからずと戒め、又「或は性として自から弥陀に属する人あり、或は従本巳来弥勒にかかる器あり、属する所に従へば各々道を得ること速なり、云云、吾弟子同法の中にも弥陀の行者これ多し、それ故に広略の阿弥陀次第を集めて恵ら西方の往生をすすめたり」と言つて念仏を勧めて居られるのである。余は明恵上人の宗教の心がいかにも、徹底して、真に無我の境地に存したことを歎称せざるを得ぬのである。  [附録]  栂尾の上人の遺趾  秋山不二  昭和十年十一月十九日といふ日、私は図らずも富士川先生のお供をして、洛外栂尾山高山寺に参詣した。拇尾と言へば誰にでもすぐ明恵上人が思ひ出されることであらう。「ちよつと見ると親鸞聖人とはまるで反対の道を歩まれたやうで、しかも釈尊の教の世界ではひとつで入らせられた」との富士川先生のお言葉は、いつからともなく私の心に深く印象づけられてゐた。その明恵上人の居られた栂尾の地を踏むのであるから、私の期待の大きさは申すまでもない。期待といふものは大抵裏切られるのが常であるが、この日の私む期待は報いられてなほ余りが有つた。早からず又遅からずと言ひたいやうな満山の秋色は、栂尾の幽邃さを些かも傷けることなしに、否一入深めつつ、私を感激と驚異の界に陥れたのであつた。今、「栂尾明恵上人伝記」を拝読しながら、尽きせぬ思ひ出の織りなす私の「高山寺繪巻」を繰りひろげて見よう。  車を乗り捨てたところが高山寺入口であつた。紅葉見る人にて雑踏せる高雄から僅に八町とはどうしても思へないやうな閑寂さは、既にここにも漂ふて居るのであつた。「高山寺」と飾り気の更らにない字で刻まれてある古びた石の前にただずむことしばし。名からしてよい、否土地がよいのだ、それでこんなよい名がついたのだ。そんなことなど思ひながら、足の歩みを運ぶ。「伝記」に「建永元年十一月、後鳥羽院より院宣を成し下されて高雄の一院栂尾を給りぬ。則此処を華厳宗興隆の勝地と定む。仍て高山寺と號す」とあるのが心に浮ぶ。若し臆測が許されるならば、後鳥羽院はきつと、明恵上人こそこの地この房にふさはしい方であると叡慮遊ばされたのであらうと信ずる。  だらだら上りの坂を少し行くと、これこそ文字通りの紅葉のトンネルである。同行藤田大人は「いいなあ、ああいいですなあ、この紅葉を下から見上げるところは実にいいですなあ」と適当な讃辞を見出し兼ねたやうに嘆声を発せられるのであつた。私は芭蕉の作「この道やゆく人なしに秋の暮」の句を思ひ出しながら、明恵上人もやはりかうして、この道を歩まれて、さうしてやはりこの紅葉をうるはしきものとして御見上げになつたのではなからうかと、そのかみのことをいろいろ心にゑがいたのであつた。  一町ばかりで行きついたところが石水院であつた。「後鳥羽上皇御宸殿」の墨色も朧ろげな木札が入口に立つて居る。思はず襟を正さしめられるやうな雅趣に富みた建物である。ささやかな玄関には老翁が一人控えて居た。案内を乞ふて上る。まづ第一に拝観することの出来たのが有名な「阿留邉幾夜宇和」の掲札である。明恵上人の筆痕なほ鮮やかなこの掲札を、尽きせぬ感激を以て貪ぼるやうに拝見したのであつた。隣室に歩みを移す、制札二、三を見過してなほ進むと、そこには後鳥羽院御宸翰の「日出先照高山之寺」の勅額を拝する。了りて眼を外に廻らしたとき、「あつ」と叫んであとに続く言葉を知らないのであつた。清瀧川をはさんだ錦繍の美はここに極まつたのであつた。まことにこの院のこの席に半刻を費すことなくして、紅葉を談ずることの愚かさを思つたのであつた。後鳥羽院の御宸殿は宜なるかなである。「明恵上人はどの邉にお机を置かれたのであらう」などと私は妄想をたくましくしながら、「腰を抜かしましたな」の富士川先生のお言葉を耳にするまで、立ち去ることを忘れたのであつた。廊下を距てた茶席にはお茶を賞でる風雅人が四、五人静かに會して居られたやうであつた。石水院については「伝記」にかういふ記載がある。  「此練若臺に住給ふ事三ケ年に及ぶ。然るに山高うして嵐気烈しく、涯嶮くして雲霧覆ひ、室内隰気し墻璧破却せり。上人依此頭痛の煩あり。仍て是を栖捨て石水院に移り給ふ」  石水院は、本は現在の位置でなくて、後に述べる仏足石の上方の地にあつたものらしい。「こんなところに居つちやあ僂麻質斯がおきる、だから明恵上人は早死されたのだらう」と、このとき富士川先生は申された。ほんとうにまだ秋の末だといふのに、じめじめとした山の寒気は腸の広まで滲みわたるやうであつた。明恵上人は建保六年に一旦栂尾を去られて、再び承久二年に石水院に戻られたものと見える。 「同六年(建保)秋聊か喧嘩き事有により、栂尾より賀茂の神山に移り給ふ。(中略)此処をば仏光山と名づけ給ける。爰に一年計り栖給て同法達を留守に置き、又栂尾に帰り給ふ。承久二年の比、石水院にして重て菩薩戒を興行して香象の梵綱の疏を談ず。云々」 とある。ともかくもこの石水院は明恵上人が久しきに亘つて起居したまふたところなのであつた。玄関子に厚く禮を述べて石水院を去る。  明恵上人が石水院に移られる前には、練若臺といふのにお住まひになつたやうである。 「同年(建保三年)栂尾の西峯の上に一字の庵室を構て號練若臺。其の後の北に三段計り下りて谷に一宇の庵を結び一両の侍者爰に栖む。坐禅行道の外他事なし」  練若臺はどの邉りにあつたものか、残念ながら今はその跡を知らない。又この練若臺以前の明恵上人の御消息については 「同三年(建保三年)二月十五日殊に志を勵て涅槃會を栂尾に於て行ひ給へり。昔時山林深谷に跡をくらまし給ひし時も山中の樹を荘て菩提樹と號し、瓦石を重て金剛座とす。至れる所を道場として西天今夜の風儀を写し、終夜仏號を唱て雙林跋提河の景気を学ぷ。菩提樹と號する木の下に石を重ねて其上に一丈計なる卒塔婆を立てて、上人自ら南無摩竭提国伽耶城辺菩提樹下成仏寶塔と書給ふ。更に其前に木の葉を立て講経説法の座とす。」 かねがねうかがつては居たが、上人の御謹厳さには又しても感激せしめられる。「この辺の坐れるやうな石には皆明恵上人が坐禅されたのでせう」との富士川先生のおはなしはこの道場の一文に思ひ合せてげにもと思はれた。  半町足らずで、待望の開山堂に至る。立札には元禅堂院とある。閑寂そのものである。入口の「不許飲酒」の石標も殊に印象が深い。堂に登る。柱にかけられた木札には、尼連禅河院(上人止住修練之地)とある。尼連禅河の名にも、明恵上人がいかに釈尊を敬慕遊ばされたかがしのばれるのである。藤田大人と私は左側の障子を開けて、御堂内に入り、明恵上人の御木像を間近く拝したのであつた。謹厳そのもののやうな御顔は今も尚ほありありと目に浮ぶのである。  「同二年(安貞)七月の比石水院後の谷より水出でて濕気あるに依て心地悩ましとて、禅堂院を造て住給ひしが、僧坊近くに、六借とて、又三加禅寺に禅河院なんど云庵を造て籠居して坐禅修観したまへり。」 と、これによると、今のこの開山堂はやはり当時の面影をとどめたもののやうに思へるのである。この前で私はカメラの拙技をふるつたのであつた。更に歩みを選ぶ。幽寂さはいよいよ深まる。道を左にとると仏足石に至る。明恵上人が海を越えて仏跡を訪はんとして遂に果されなかつたので、せめてもの思ひに仏の御足のあとをほりつけて、恩を思ひ徳を慕ふの情を遺されたといふ意味の木札が立つて居る。深邃幽寂と申さうか、まことにかういふところに起居すれば俗念を離れて修行に邁進することが出来さうにも思はれた。「伝記」を辿ると 「又華宮殿の西の谷に、一の盤石あり。定心石と名く。一株の松あり。縄床樹と名く。其松の本二重にして坐するに便りあり。常に其上に坐禅す。」  この定心石は今はこれを探るによしもなかつた。 「此定心石の上に大盤石あり。其石の上に仏の御足の跡を彫付て供養をなし給。」 とあるところを見ると、仏足石は明恵上人に始まつたのであるが、幾星霜を経るうちにその昔のものは何処にか転じたものか、ともかく私共が拝観したものは明恵上人ならぬ誰かの手によつてつくられたものであるらしい。しかしながら、たとひ石そのものは異つたにしても明恵上人の釈尊敬慕の精神は永遠にこの邉に流れて居るに違ひないと景仰の念に堪えなかつたのである。  藤田大人と私とが、仏足石の邉りを徘徊して居る間に、富士川先生は早や一段高いところから声をかけられるのであつた。「ここですよ、石水院はもとここにあつたと書いてありますよ」と小高いところを指して申される。欝蒼と大木が繁つて、画なほ小暗き場処である、上人がはじめ此地に入られたときはどんなであつたことか。  「女覚上人の教訓に依て、上人紀州の庵を捨てて、栂尾に住し給ひし始は、此山に松柏茂り、人跡絶たり、松風羅月、物に觸て心を痛ましめずと云事無し。爰に纔かなる草庵を結で、最初上人と伴僧と、只二人住し給ひける、竹の筧、紫の垣、心細きさまなり。」全く、閑寂と申してもなほあまりある。現実的な眼を注げば如何に考へても御病気になられさうなところである。それから道を左にとつて少し行くと金堂がある。金堂前の石段を下つて、山門へと帰路につく。  「伝記」によると、明恵上人はこの山寺の後の方三町計去つた一の峯を楞伽山と名づけられて、そこに華宮殿、羅婆坊の二つの草庵を建てられた。楞伽山は、心静かに探索すれば今もなほ昔日のままにあるのであらうが二庵は多分今はその影もとどめないであらう。明恵上人はよほど石を好まれたと見え蘇婆石といふ名の石についても記載がある。  「華宮殿の東の高欄の上に一の石を置り。是は先年紀州に下向の時、海中の島に四五日逗留す。其時西の沖に島のかすみて見へたるを天竺に思ひ准へて「南無五天諸国処々遺跡」と唱て泣々禮拝をなす、多くの同法亦親族の男子等あり。同禮拝を進て告て曰く「天竺に如来の千幅輪の御足の跡を踏留め給へる石あり、殊に北天竺に蘇婆河といふ河の邉に如来の御遺跡多くあり、其河の水も此の海に入れば同じ鹽に染りたる石なればとて、此磯の石を取て蘇婆石と名け、御遺跡の形見と思ひ、七ケ日の間夜画松の嵐に眠を覚し、浪の音に声を調て禮拝をなす」に、いひしらぬ冠者原までも涙を拭て歓喜の思を成さずと云事なし。誠に衆生は仏性の薫力あれば是までも如来の慈悲の等流なれば因縁感動も理りに覚ゆ、此磯の石を持して身を放ち給はず、仍一首思ひつづけ給ふ。   遺跡を洗へる水も入海の        石と思へばなつかしき哉」  栂尾全山の石にはそれぞれ仏恩を慕ふあまりの名を付けて、仏跡をそのままこの地に現じようとせられたのであらう。明恵上人が釈尊敬慕の情の切であつたことにはただ驚かされるばかりである。            (昭和十年十二月五日記之) @  新選妙好人伝第四編 中江藤樹  凡例  一。中江藤樹先生は儒学を奉じた人である。しかしながら、その説かれたところは、多くの朱子学派の人々が煩瑣なる哲学を主としたるに反して、形式の末に拘泥することなく、専ら実践躬行の学を要とせられたのであつた。又藤樹先生は徳行を以て称せられた人であつたが、しかも先生の言行は単純なる倫理学的のものではなくして、多分に宗教的の要素を含むで居つた。固より藤樹先生の一生の行実を伝ふべき記述は世に尠なからず行はれて居るのである。私はそれにつきて屋上更に屋を架するやうなことを企てるのでなく、藤樹先生の言行にあらはれたる宗教的のものを挙げやうとして、この小篇を草したのである。世に妙好人といはるるものは多くは匹夫匹婦の輩がただ口に念仏を称へて日常よく仏に事ふるものを指すのであるが、私は真に宗教の心をあらはし得たる人を挙げて妙好人と称すべしとするのであるから、ここにその一例として中江藤樹先生を示したのである。  二。この書の原稿は私が自から筆録したのであるが、その整理及び校正は一に秋山不二女史の尽力を煩はした。又この書を公にすることと得たのは全く厚徳書院長宗氏の厚意に依るのである。特に記して謹謝の意と表する。  昭和十一年十二月下浣  富士川遊  目次 その略歴 その幼時 朱子学 陽明学 宇宙観 至徳要道 致良知 仏教攻撃 明徳仏性 聖凡一体 神の思考 自反慎独 道徳と宗教 平生の行誼 成仏得脱 藤樹先生の宗教  中江藤樹  富士川遊述  我邦に於ける陽明学者の巨擘として知られたる中江藤樹先生が、その郷里たる近江高島郡の小川村に在りて、孝養の傍ら、学を講じて諸生に授け、村民を教導くせられた、その学徳が遠近を感化したために世の人が近江聖人と敬称したことは、小学の児童といへども既にこれを知つて居る筈である。藤樹先生は幼にして穎悟、群児の中にありて嶄頭角をあらはした。年十歳の時塾師に就て庭訓式目等の書を読む、誦すること数遍にして尽くこれを暗記したりといふ。十一歳の時に大学を読みて感憤し、聖人とならむとするの志を立て、和漢の書を読み、始めは朱子学を主とせられたのであるが、後にはこれを離れて陽明学に移り、一家の見を立てられた。後世これを藤樹学又は江西の学と称した。さうして、藤樹の学は後の所謂心学の前駆をなしたのであるが、それは、要するに、朱子学が煩瑣の哲学を主とし、形式の末に拘泥することを嫌つて実践躬行の学を主とせられたのであつた。しかし、今私は藤樹の学につきて、これを叙述しやうとするのでなく、その学が単純なる哲学又は倫理学にあらずして、多分に宗教的の要素を含むで居つたことを挙げ、さうして、又藤樹先生の平生の言行の上にあらはれたる宗教的のものを拾ひ上げて見やうとするのである。        その略歴  藤樹先生、幼名は原蔵、諱は原、字は惟命、与右衛門と通称す、別に黙軒又顧軒の號がある。慶長十三年の三月七日に近江国高島郡小川村に生れられた。父の名は吉次、母は北川氏、九歳のとき祖父の吉長に養はれて伯州米子に行き、十歳にして祖父が仕へたる伯耆大守加藤貞泰が伊予の大洲へ転封せられたるに従ひて祖父と共に大洲に移られた。これより和漢の書を読み、十五歳の時大洲公に仕へて益々文武両道を兼修せられたのであるが、二十七歳の時母のために致仕して故郷に帰り、母に仕ふる傍ら学を講じて諸生に授けられた。その学を講じた場所が藤樹の下に在つたので人々は呼むで藤樹先生と称した。さうしてその学徳が遠近を感化したために、世人は先生を指して近江聖人と称するに至つた。慶安元年の八月二十五日病を以てその家に歿せられた。時に年僅かに四十一歳であつた。その後、その家塾藤樹書院に祠堂が投けられ、年々祭祀を營まれた。寛政九年光格天皇より徳本堂の號を賜ひ、明治四十年正四位を贈られ、大正十一年県社に列し、藤樹先生として人々の尊崇するところとなつて居る。        その幼時  藤樹先生は幼にして穎悟、気節あり、学止凡児と異なるものがあつた。年甫めて十一のとき、一日大学を読み、「天子より以て庶人に至るまで、豈に是れ皆身を修むるを以て本と為す」といふに至りて、嘆じて曰く、「幸に此経の今に存するあり、学びて聖人となることが出来ないことはない」と、奮然志を立て聖学を興すことを以て自ら任じられたと伝へられて居る。十二歳のとき、一日食事に方りて箸を投じ自から責めて曰く「この食はこれ誰が恩ぞや、一には則ち父母、二には則ち租父、三には則ち君、三者の恩は須臾も怠るべからず」と、自から誓はれたといふ。元和六年、年僅に十三にして自から以為らく、「我れ素と田野に長じ.今遽かに士大夫と接す、言語動止苟も禮節に違ふことあらば恐くはその笑侮するところとならむ」と、因りて日夜思慮せられたと伝へられて居る。藤樹先生が幼少の頃よりしてその思想と挙動とが共に世の常の児童に異なつて居つたことは、この一二の例にて類推することが出来る。        朱子学  寛永元年京師の僧某が大洲に来りて論語を講じた。時に大洲の士人には武を崇め、文を卑しむの風がありて、その講を聞くものがなかつたが、藤樹先生は独りその門に入りて経学を修められ、まだ期年ならざるにその学業が大に進むだ。大洲の士人の中にも藤樹先生の言行に感じて学に志すものがあつた。荒木某といふものが居りて、あるとき藤樹先生を呼て「孔子」といふ。先生怫然として曰く「孔子が卒してから二千有余年になる。しかるに今汝が我を孔子と呼ぶのは我が文を学ぶことを嘲けるのであらう。文を学ぶことは士の常である。若し士にして文なければ奴僕と異なることがない」と痛言せられたので、某は大に愧ぢて一言もなかつたといふ。年二十七にして仕を致し、郷に帰られた後、学舎を建てて「四書」を講じ、凡そ日用常行、一に聖賢の遺法と遵守せむとつとめられたが、更に「五経」を読むに至りて頗ぶる感発せらるるところがあつた。それから又深く「孝経」を尊崇し、その孔子の遺書たることを信じて、毎朝これを拝誦せられたといふ。        陽明学  藤樹先生三十三歳の冬、「王龍渓語録」を読みて、王陽明の学を知られた。しかもその禅語を用ふることの多きを厭はれたが、後に「陽明全書」を見るに及びて釈然として悟られるところが有つた。そこで諸生に告げて曰く「余嘗て朱子学を信じ、汝輩に命ずるに専ら小学を以て準則としたが、今始めて拘泥の甚しきことを知つた。汝が輩聖賢の書を読まばよろしく其意を師とすべし。その跡に泥むことなかれ」と、聞くものをして感服せしめたのである。これより先き先生は「大学」の解を作られたが、格物致知の要を得ることが出来ずして心に深くこれを憂へられた。ところが、「陽明全書」に致知を解して致良知とせるを知りて、豁然として悟を開かれ、爾来常に学者のために心即理の説を示し、常に此心を討究すべきことを説かれたのである。心即理の説は王陽明より以前に陸象山が説いたところで、萬物の理皆悉く我に備はるが故に、身に反省して自然の誠にかなへば樂これより大なるはない。我々人間の一切の行為は皆我心を以て本となすべしといふのである。王陽明の心即理の説はこれに本づくもので、宇宙萬物の理はこれを我が心に求むべきである。さうして、これを以てその行動云為の標準とすべきである。巳に標準を求むべきことを知ればこれを行動云為に施すべくして知と行とは常に一致せねばならぬ。さうして王陽明は知行の本体は即ち是れ良知であるとした。良知とは孟子の所謂良心にして、我々人間が生れながらにして善を知り悪を知るの心で、天理の照明霊覚の処であるとするのである。それ故に、天理に従ひ、道に従ふは即ちこれ良知に致るのであるとする。藤樹先生は此の如き致良知の説を聞かれて、悉く舊習を去りて、陽明学を主とし、知行合一、致良知の説を以てその学の根本とせられたのである。       宇宙観  「翁問答」は藤樹先生がその齢三十三四歳の頃に著作せられたるものと言はれて居るが、此頃は先生が朱子学から陽明学に遷られたる時代である。此書の中に  「我が身は父母にうけ、父母の身は天地にうけ、天地は太虚にうけたるものなれば、本来我身は太虚神明の分身変化なるゆへに、太虚神明の本体をあきらめ、立てたる人身をもつて、人倫にまじはり、萬事に応ずるを道を行ふといふ」 と説いてある。この太虚は宇宙の根本を指していふもので、宇宙は大虚より生ずるものであるとせられたのである。それから又  「国所世界の差別いろいろ様々ありといへども、本来みな太虚神道のうちに開闢したる国土なれば神道は十方世界みな一とつなり。しかるによりて国隔たりぬればことば風俗かはるといへどもその心のくらゐは本来同一体の神道なるによりて唐土も天竺も我朝も、またそのほか、あるとあらゆる国土のうち、毛頭ちがふことなし」 と説かれて居る。ここに神道といふのは天道の理を指すもので、この神道が十方世界皆一とつであるといふのは、つまるところ、太虚は宇宙に遍在するものであるとせられるのである。さうして、藤樹先生の所見にては、太虚は理を以て体となし、気を以て用とするもので、その理は寂然として動かざれども、気は流行活動し、動いて陽を生じ、静まりて陰を生ず。一動一静、互にその根となりて生々息まず、遂に天地を生ずるに至り、天地よりして人及び物を生ずるのであるとせられるのである。これは固より儒教にありて古より行はるところの所説である。しかるに、藤樹先生は此の如き哲学的の思考より進みて、宗教的の宇宙観に移り、宇宙の本体として十方世外に遍在するところの太虚をば、人格をあらはすところの神として、これに皇上帝の名をつけて居られる。さうして、更に  「天神地祗は萬物の父母なれば太虚の皇上帝は人倫の太祖にてまします。この神理にて観れば聖人も賢人も釈迦も達磨も儒者も仏者も我も人も、世界のうちにあるとあらゆるほどの人の形あるものは皆、皇上帝天神地祗の子孫なり」 と言ひて、太虚を人倫の太祖として皇上帝と崇め奉つて居られる。巳に前にも言つたやうに、太虚をば宇宙の根本とし、この太虚にうけて天地があらはれ、天地にうけて父母の身があらはれるので、「人間の生れ出づること、父母のわざの如くなれども、父母のわざになることにあらず、太虚皇上帝の命をうけて天神地祗の化育したまふところなり」  として宇宙の根本を太虚に存するとせるは固より哲学的の思想である。彼の易の根本原理として説かるるところの太極が宇宙の根本であり、それから陰陽の二気が生ずるといふに同じやうなもので、それが自然の理法であると考へられるのである。藤樹先生が太虚と言はれるものもこの太極の思想に外ならぬものと思はれる。儒教にて説くところの天も亦これと同じく、哲学的には自然の理法と見るべきものであるが、それが宗教的のものとなりては上帝と崇められ、それが萬物を造り出すので、我々人間が良心を有して居るのも、全く上帝の命令によるものであるとせられたのである。仏教にありても真如の理法が説かれ、宇宙の根本原理として真如の実在が信ぜられることは哲学的であるが、それから仏があらはれるに至りては全く宗教的である。藤樹先生が太虚皇上帝と言はれるものも、此等と同じく、我々の世界に放ける至上のものとして宗教的に感知し、且つ尊崇せられるものである。それ故に、これを称して仏とするも、或は神とするも、ただその名称が相違するのみで、その心の上に感知せられるものは全然同一であると言はねばならぬ。        至徳要道  藤樹先生が説かれたところは、かやうに、我々人間の太始祖は太虚皇上帝であるが、皇上帝の道はすなはち儒道である。天道である。この道を尊崇し、その命を敬ひて受用することが孝であるとせられたのである。それ故に、孝といふも父母に仕へ、祖先を祭るの一事に止まらずして、頗ぶる広き意味にて一切の道を総括してこれを孝と名づけられたのである。さうして藤樹先生はこの孝を指して至徳要道といひ、最も立派なる徳、最も重要なる道であるとなし、これはまことに天下無雙の霊寶で、人間一生涯の道はこれに外ならざるのであるから、この霊寶を用ひて、心に守り身に行ふ要領とすべきであると説いて居られる。  「この寶は天にありては天の道となり、地にありては地の道となり、人にありては人の道となるものなり。元来名はなけれども衆生に教へ示さむがため、むかしの聖人その光景をかたどりて孝と名づけたまふ」  「孝経」に「子の曰く、夫れ孝は天の経なり。地の義なり。民の行なり」とあると同じやうに、孝を以て天と地と人との三極の道の象であるとせられたのである。さうして、更に  「儒道はすなはち皇上帝天神地祗の神道なれば人間の形ありて儒道をそしりそむくはその先祖父母の道をそしりて其命をそむくなり。我れ人の太始祖の皇上帝、大父母の天神地祗の命をおそれ敬ひ、その神道を欽崇して受用するを孝行と名づけ、又至徳要道と名づけ、また儒道と名づく。これを教ゆるを儒教といひ、これを学ぶを儒学といふ。これをよく学びて心に守り身に行ふを儒者といふなり」  儒道はかやうにして、天地自然の道である。さうして、それは全く太虚の道に外ならぬものと説かれるのであるが、その太虚を尊崇して人格的の皇上帝とするとせられたのであるから、その命を畏れ敬ふて、受用することが人間一生涯の道であるところ、その意、頗ぶる宗教的である。かやうに藤樹先生が説かれたところは単に理論を主とする修養の学説でなく、我々人間の太始祖たる太虚皇上帝の命を畏れ敬ふて受用すべきことが実際的に示されたのであるから、それはもはや道徳の教でなく、宗教的の感情として多くの人々の心の上に多大の感化を与へたのであらう。  これを要するに、藤樹先生が言はるるところの孝は太虚の神道であるから、孝の作用は徳である。従つてこれを至徳要道と解せられるのである。「翁問答」に曰く  「元来孝は太虚を以て全体として、萬却を経ても、終なく始なし、孝のなき時なく、孝のなきものなし。全孝鄙には太虚を孝の体段となして、天地萬物をその内の萌芽となせり。かくの如く広大無邉なる至徳なれば萬事萬物の内に孝の道理そなはらざるはなし。就中、人は天地の徳、萬物の霊なるが故に、人の心と身に孝の実体みなそなはりたるにより身を立て道を行ふをもつて功夫の要領とす。身を離れて孝なく、孝を離れて身なきゆへに、身をたて、道を行ふが孝行の綱領なり」  かやうにして、孝の本意とするところは明徳を明かにすることであるとせられたのである。それにつきて「翁問答」には次のやうに説明してある。  「全孝の心法、その広大高明なること、神明に通じ、六合にわたるといへども、約まるところの本実は身を立て道を行ふにあり。身を立て道を行ふ本は明徳にあり、明徳を明かにする本は良知を鏡として独を慎むにあり。良知とは赤子孩堤の時より、その親を愛敬する最初一念を根本として善悪の分別是非を真実に辨へ知る徳性の知といふ」  かやうにして、藤樹先生の学は良知に致るより外なく、志を立て道を行ふより先なるはなしといふことである。        致良知  此の如くにして、藤樹先生は王陽明の学に帰せられたる後、心法を以て主となし、自から致良知の三大字を書してこれを楯間に掲げられたといふことである。良は本然の善にして、月を見て月と知り、善は善、悪は悪とそれぞれ知りわくる心の神明をいふもので、人間は天より稟賦を受けて根本より善なる智慧を有するものである。これを良知と名づける。さうして、この良知は、前にも言つたやうに、赤子の時より、その親を敬愛する最初一念を根本として善悪の分別是非を真実に辨へ知るところの徳性の知である。いかなる愚痴の凡夫の心にも良知あるが故に、この良知を工夫の鏡とし、よく省察して名利の欲、習心、間思雑慮などの邪念に克ちて神明に通ずるところの至徳を求むる工夫をなすべきである。これを愼独といふのである。繰返して言へば、良知は是と知り非と知る心忙して、下愚といへどもこれを有するものである。学者が師に親しみ、友に會して講論するはこの良知を信じて意欲の惑を去らむことを要するに外ならぬと説かれたのである。  此の如く、すべての人々に良知があるとするの所見に立ちて見れば、「人の本心は善にして悪なし、親を愛し、兄を敬し、善を好み、悪をにくみ、是と知り、非と知る、これ則ち固有の良知にして人々皆然り。学問の道他なし、我が本心の好むところを好み、本心の悪むところを悪むのみ。よく我が本心を明めて良知の好悪にしたがへば、心則ち快にして仰で天に恥ぢす、俯して人に恥ぢす、福禄之に従ひ、衆邪之を遠ざく」と説かれて、人々の本心はすなはち固有の良知にして、これは常に善にして悪あることなしとせられたのである。かやうに、人々の心の相を分析して、良心とも名づくべきものが本来人々の心の中に存することは仏教にても同様に説くところである。たとへば「盤珪仏智禅師法語」に  「人々皆親のうみつけてたもつたは仏心ひとつで、余のものはひとつもうみつけはしませぬわひの。しかるに一切迷ひは我身のひいきゆへに、我でかして、それを生れつきと思ふはおろかなことでござるわひの」「皆親のうみつけてたもつたは仏心ひとつでござる。余のものはひとつもうみつけはしませぬ。その親のうみつけてたもつた仏心は不生にして霊明なものに極はまりました。不生な仏心。仏心は不生にして霊明なものでござつて、不生で一切の事がととのひまするわひの」「見ようの、聞ふのと、前かたより覚悟なく、見たり聞いたり致すが、不生でござる。見よう聞かふと存ずる気の生じませぬが、これ不生でござる。不生なれば不滅でござる。仏心と申すものは不生不滅でござるによりて、面々の名に、この仏心そなはりて有るではこざらぬか。  その仏心あることを御存じなきにより何れもが迷わしやるでござるぞ。迷ふといふはいかやうなる事でござるぞなれば、我身にひいきのござるによりて迷ひまする」  極めて通俗的に説明してあるやうに、我々の心には本と仏心とそなへて居るのであるから、その仏心のままに動けば迷ふことはないといふのである。さうして、我々の迷の心はすべて醜悪であるが、仏心は真実の善心であるとせられるのである。藤樹先生が良知に致るといはれるのも、その心はこれと同じものであらう。その哲学的の思索や、道徳の教を説くところに至りては、仏教と陽明学とは固よりその趣を異にした点もあるが、しかしながら、宗教の意味から見れば、王陽明の所謂心学で、我が心を明にすることをつとむるは、仏教にありて内観を重んずることと、決して相矛盾するものではない。        仏教攻撃  しかしながら、藤樹先生はその著「翁問答」の中に於て、誠に仏教を攻撃して居られる。  「元来、釈迦達磨の法を立めされたる心根は衆生迷ひて浅間敷体とあはれみかなしびて、色々さまざまの寓言を立て、勧善懲悪の為なれば、一段殊勝なれども、云云、元来釈迦達磨の心根は勧善懲悪の為なるべけれども、末流には善を破り、悪を勧め、人の心を迷はしむること淫声美色の如し、これ皆末代其流を汲む比丘のあやまりといひながら、本来狂者の見る所、熟せざるによりてその教法粗脂I闊なる故なり」  狂者といふは道体の広大高明なる所を悟るも、いまだ精微中庸の密に悟人せざるによりて見性成道の心術が粗脂I闊で修行異相に逸狂なるものであると解釈せられたのである。釈尊は勝れたる狂者で、その教は逸狂偏僻であると罵倒して居られるのである。更にその教義につきても、藤樹先生は次のやうな非難をして居られる。 (一)釈迦成道の後、人間本分の生理を營まず、乞食し、人倫を外にし、人事を厭ひ棄てた。これは無欲無為自然を極上としたる無欲妄行の誤である、末派のものはその無欲妄行のあとを似せたる斗にして我慢の邪心、凡夫より深い。 (二)三網正常の道は今生幻の間の營みにして、菩提の種にあらずなどと誑誘し、或は主親を殺したる極重の悪人にても念仏の功力にて必ず極楽浄土へ往生することと教誨する。此の如くなるはよく学ばざるの過であるが、根本は釈尊無欲の妾行より起るのである。 (三)殺生戒は仁に似たる不仁、善に似たる悪、是に似たる非である。邪淫を戒むるは天地の真にかなはず、出家に不淫と戒むるはすじもなき妄法である。是等の戒は邪僻である。  此の如く、藤樹先生が当時行はれたる仏教の教説の弊害を指摘せられたことは、一応尤であるが、しかしながら、それは形式の末のことで、仏教の本旨ではない。しかるに形式の末を見て、宗教としての仏教を非難することは見当違ひの甚しきものであると言はねばならぬ。殊に悪人正機の意義を正常に理解して居らぬ点から見ると、この時代、藤樹先生の仏教に関する知識は浅薄であつたと言はねばならぬ。門人が書きたる「翁問答改正篇」の序文に「先師嘗て曰く、問答の中、儒教を論ずるところの如き、今これを読むに其理精当を得ざることを覚ふ」とあるのを見ると、藤樹先生自身も後に仏教に関する知識を深くせられてから、自身が嘗て「翁問答」に説かれたことを訂正せられたのであつたことが知られる。        明徳仏性  藤樹先生が「翁問答」を著はされた後、数年にして著作せられたりと思はるる「鑑草」は、特に婦人のために、家庭内に於ける道徳的訓戒とその例話をあつめたものであるが、この書中に載せられたる仏教の評判は「翁問答」に於けるものとは大に其趣を異にして、新に明徳仏性といへる言葉を用ひて、天より生れ得て身にそなふるところの心の本体たる明徳と、仏教にて一切衆生が生れつき具有するところの真如の理性であるところの仏性とを同一の意味に取りて明徳仏性を以て世間の福の種であるとして居られるのである。  「倩ら世間の福を思ひくらぶるに、身やすく、心たのしび、子孫のさかふるを上とす。命のながきを次とす。位たかく富めるを下とす。この福ひの種は明徳仏性なり。此種をまきて、此福ひを造る田地は人倫日用の交なり。明徳仏性をつねに明かにして何事につきてもむさぼらす、いからず、かたくなならず、むずかしからず、親に仕へては孝行の誠をつくし、夫に仕へては順従の道を守り、子をそだつるには正しき道に従ひ、夫の兄弟一族にはその程々に従ひてこんせつにあいしらい、家内の僕にはねんごろに情ふかく、こつじき非人に至るまで慈悲を施すを明徳仏性の修行とす」  右は藤樹先生が「鑑草」の序文の中に書かれたものであるが、これには儒教の明徳と仏教の仏性とを同一のものとしてあるが、ただそれのみでなく、同じ序文の中に  「明徳仏性の修行すなはち後生仏果を得る修行なり。いかんとなれば今生後生すべて心に有。今生に心なければ此身しがいにして今生のはたらきなし。後生に心なければ極楽地獄の果を受るものなし。肉身に生死ありといへども心には生死なきによつて、今生の心すなはち後生の心なり。今生の心、明徳仏性明かにして清浄安樂なれば後生の心即ち極楽の果に至る。今生の心、三毒さかんにして迷妄くつうなれば後生の心すなはち地獄の責を受く」  かやうに述べてあるところを見ると、藤樹先生が「鑑草」と著作せられたる時代には、とても「翁問答」と同一の著者とは思はれぬほどに仏教の所説が採用せられて、後生をも肯定し、又極楽地獄の果報の説をも挙げて居られるのである。伝ふるところに拠ると、藤樹先生は当時の儒者の多分に漏れず、もと仏教を嫌つて居られたが、その母親なる人が熱心なる仏教信者であつたので.先生は孝養のためにしばしば仏書を講じ、母親の心を喜ばすことを樂しみとなし、盂蘭盆會の時などは母親と共に家廟を祭られたといふことである。さういふことで、藤樹先生は年と共に仏教に対する理解が深くなり、晩年に至りては仏教の所説にも儒教の所説に合ふものがあるからこれを採りて用ふべしとまで門人に語られたのであつた。藤樹先生は又  「出家といふは髪を剃り、衣を墨に染むるをいふにあらず。明徳仏性と明らかにして世間の苦しびを免かれ、いづるを出家といふ。出世間ともいふなり。其子の明徳くらくして徒に其仏施僧の孝養をのみ營むばかりにては天の福を受ること能はず。かくあれば現世後生ともに孝養の誠を受ることは子の明徳を明かにするより外はなし」 と言つて、児童の教養の上にまでも明徳仏性を明かにすることを勧めて居られるのである。藤樹先生の儒学も巳に哲学若しくは道徳の範囲を脱して宗教的のものとなつて居つたのであるが、三十六七歳「鑑草」著作の時代の頃に至りては、かやうに他の宗教に対して著しく寛容の態度を採られるやうになり、始め甚しく嫌つて居られた仏教の長所をも採用せらるるに至つたととは、藤樹先生の宗教的意識がその人格円満を増すと共に著しく発展したことを示すものである。        聖凡一体  藤樹先生が「翁問答」著作時代にありて仏教に対して攻撃的態度を取られたときにも、釈尊の人格には深く敬意を表し、多くはこれを釈尊と呼び、これを聖人とはせずともすぐれたる狂育として聖人に次ぐものとして居られた。さうして、その仏教に対する非難も、巳に上章にも並べたやうに、当時に於ける仏教僧侶の非行を指摘し、末流の弊害を挙げられたので、固より宗教としての仏教そのものに反対せられたのではなかつたやうである。却て仏教にて説かれると同じやうな宗教的思考を有して居られたことが明かに認められるのである。既に上章にも言つたやうに、藤樹先生は「大学」の所説に拠りて、我々人間の根本として明徳を挙げて、この明は人性の殊称で、その徳たるや萬物一体にして聖人は固より聖人以下のものと雖も人間の形あるものはこの明徳を固有せざるものはない。まことに明徳は聖凡一体のもので、下愚のものといへどもこれを有して居るが、それが意念のために蔽はれてその本性をあらはすことが出来ぬのであるから、意念掃除して明徳を明にすることが真実の道であるとせられたのである。これは仏教にありて、「一切衆生は悉く仏性を有す」と説くのとその思想の根本は同じやうである。現に藤樹先生もその著「鑑草」の中には明徳と仏性とを混合して明徳仏性と仏称して居られることは巳に前に述べた通ほりである。さうして、藤樹先生が意念と言はれるものは仏教に煩悩と称せられるものである。凡心の常として擾乱して定らず、萬物一体の真理を悟らずして、人と我とを隔て、萬欲百悪これより起りて明徳をくらますものであるから、意念の習塵を除去して良知の本体に復へるべきであると説かれたのである。「大集経」に「一切衆生の心性はもと浄し。性もと浮きものは煩悩の諸結も、これを洗著すること能はず。なほ虚空の沽汚すべからざるが如し。心性と空性と等しく二つあるなし。衆生は心性の浄きを知らざるが故に、欲・煩悩の繋縛するところとなる。如来ここに於て大悲を起し、正法を説き演べたまふはこれを知らしめんと欲するが故なり」とあるのと、その意は同じであらう。  これを要するに.すべての人が同じく明徳を稟けて居るのであるから、これをその本心の上から言へば聖凡一体である。それ故に、儒教にありて、凡人もつとむれば聖に達すべき可能性を有すると説くと同じやうに、仏教にありてもその本質よりすれば仏凡一体と説きて、一切の衆生が仏となるべき可能性を有することを認むるのである。        神の思考  我々の宗教的体驗にありて最も重要とせらるるところのものは神の思考であるが、我々はこれによりて我々の感覚を超越せる世界と接触することが出来るのである。言葉とかへて言へば、個々の人々からは離れて客観的に存するものとして認められるところの精神(Geist)で、この精神は宇宙のすべての物の中にあらはれて居るものであると信ぜられるものである。藤樹先生はその著述の中に、しばしば神明の言葉を用ひ、又神明の助けといふことを言つて居られるが、先生が神明と言はれるものは多くの場合、宇宙の根本であり、又その主宰者と信ぜられるところの太虚に人格をつけられたもので、これを皇上帝と称せらるるものである。既に上章にも挙げた通ほりに、この皇上帝は原始の儒教に天と言はれるもので、この皇上帝の下に天神地祗がましまして、その命を受けて化育を司らるるものであるとせられた。この見地よりすれば宇宙の一切のものは悉く皆皇上帝の分身変化であるとせねばならぬ。これは全く汎神論的の思考に本づくもので、仏教に於ける神(仏)の思考と同様のものである。何にしても現に我々が住むところの世界にありて、この世界の一切のものを統制するところの一種偉大なる精神が存在することを信ずることが宗教の心のはたらきとして重要なるものであるが、藤樹先生はこの偉大なる精神を認めてこれと神明と称して居られるのである。それ故に、これを神と称して客観的のものとするにしても、それは全く主観の状態を写し出せるものに外ならぬのであるから、低級の神の思考に於て見るが如くに、具体的に我々の外界に存するところの神を認めるのでないことは明かである。門人の熊澤藩山が始めて藤樹先生に見へしとき   皆人のまゐる杜に神はなし        こころの底に神やまします と詠みて差出せしに、先生は   ちはやふる神の杜は月なれや       まゐる心の内にうつろふ  と返へされたといふことである。無論神杜の中に神はましまさず、人々の心が誠であればそれが神に通ずるのであるから、心の底に神がましますと言つて差支はない。しかしながら、それは言ふまでもなく、その心が誠であるといふことを條件とするのである。我々の心のやうに意魔邪念に満ちて誠のない心の底に神がましますとは考へられぬ。宗教の心の上にて考ふるところの神は月の光のやうに一切を照らすものである、参る心の内にはかならずうつろふものであると言はねばならぬ。法然上人が「月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ」と詠ぜられたやうに、神(仏)の心は一切の衆生を摂取して捨てぬものと信ずるところに、宗教の意味にて言ふところの真実の神(仏)に接触することが出来るのである。藤樹先生が中川良貞の老母に答へられたる書簡に  「後生の事一大事と思召由御尤に存候。後生一大事なれば、今生猶一大事にて御座候、いかんとなれば今生の心まよひぬれば後生悪趣におもむく理ある故にて候。仰の如く、後生一大事と仏の教へ玉ふも今生の心を明にさせん為にて御座候。大乗の法門は皆この心得にて御座候。あしたゆふべをはかり難き浮世にて御座候へば心の中の如来を拝したまはん事何より以て大切なる御事に御座候、云云」  とあるのを見ても、藤樹先生が言はるるところの神(如来)は我々の心の上にあらはるるところの神明の力であることが明かに認められる。親鸞聖人が南無阿弥陀仏の六字を仏の名として、それを本尊とせられた意味も全くこれと同様で、阿弥陀仏の力が我々の心にあらはれて、その力を憑む心がすなはち南無阿弥陀仏であるから、それこそ我々が接触することの出来る神(仏)の精神である。かやうにして藤樹先生の宗教的思考が深い処にまで達して居つたことは明かにこれを認むることが出来るのである。        自反慎独  しかしながら、藤樹先生は孔子の教を奉じて居られた。孔子の教は先づ親子夫婦の関係を根本の基調として人倫を正し、人間の生活をば理想的のものとすべきことであつたこの教を奉じて自身聖人たらんとの志を立てて孔子の聖学を興すことを以て自己の任務とせられた藤樹先生は道徳の実践を主とし、特に自反慎独の大切なることを唱道せられた。さうして、先生が自からそのことを詠まれたる倭歌の多くが伝はつて居る。         自 反   たびたびに我をし見ればよしあしの外にはあらぬ人の世の中   訪ふ人のなきを訪ふこそ訪ふならめ訪はるる人は誰もこそとゑ   何事もおのれに出る山彦のこたふる声や人の世の中         慎 独   仇となる五つの官き天津君います時にはみかたとぞなる         存養省察   静なる心の水にすむ月のかくるる波を時に定むる   外に羞ぢ外に慎しむ人はただ影をおそれて走るなりけり        知 恥   我とわが心にはづるものあらば恥べきことのなき身ならまし        自 欺   虎の戌をかるや狐の心よりその身をえばにすつるはかなさ        題しらず   柴みを外にもとむる世の中の人はましらの月をとるなり   ひたすらに人に倚てふ慎しみをかへてつつしむ独心を   うつし見よむかふ心の水かがみ仰ぐも俯すも身よりなすかげ  内観して自身の心の相をよく知ることは道徳の教を実行することにつきても必要のものである。宗教の心が真実にあらはれて来ることも内観から始まる。若し自反慎独の心がなくして、徒らに外方のみに心をかけるときに、道徳の進むこともなければ安心立命の宗教の心があらはれることもない。藤樹先生が清水季格に答へられたる書簡に  「舊習に御ひかれがちにて候由、如仰道を見ることの親切ならざる故にて候。風俗を気の毒に思召候由。入らざる御指出事にて候。気の毒に思召風俗と一体なる所、御心に伏蔵して御座候につき、左様の外による心あらはれ申候。風俗を欺かしく思召さむより、心上の御くやみ候はば慎独の力出来申べく候、云云」  とある。まことに 我々は自己の心の上の塵を払ふことをせず、徒らに他の非を責め、自己を裁判することをせずしてただ他人の罪悪を断じやうとするものである。藤樹先生は谷川惟直に対して「自己心上の邪をよく去り、他人の無禮不義をば御かまひ有まじく候。爾は爾をせよ、我は我をせんの心持肝要に候」と教へて居られる。今の世の中に、人心を善導するといふことも言はれて居るが、自己を善導せずして徒らに他人を善導するときは一人として自己が善導せられるものは無いことであらう。        道徳と宗教  藤樹先生は平生、身を修むることを以て行の本となし、自反慎独、ひたすらに意念の魔障を除きて、良知に到ることをつとめられた。それは真に篤学修行の模範とすべきものであつた。今、それを表面から見れば道徳の実践に外ならぬものであるとすることが出来る。それ故に、別に宗教の力を借らずとも、道徳の実践が十分徹底するときはよく安心立命の境地に達することが出来るではないかといふ人もあらう。しかしながら、それは単にその表面のみを観ての浅薄なる考である。現に藤樹先生の場合にありて、儒教の道徳の規範が、かやうに、よく躬行せられたのは、その心の底に宗教の心が十分にはたらいて居つたからである。皇上帝の神明を仰いで、それに帰依したる心が根本となりて、萬物一体の理を体得し、人と我との隔ての心が無くなつたためである。言葉をかへて言へば、藤樹先生の厳粛なる道徳的生活はその心の底に宗教の心が動いて居つたために、かやうによく実践躬行が出来たのである。又一面から言へば、真実の宗教は道徳の心の上にあらはるべきもので、自身の心を内観して、その愚悪なる真相に覚醍して、自反慎独の心を深くするによりて、ますますその愚悪なる真相が明かになりて、ここに自己の思慮を捨てて、神明の真智に依らねばならぬのである。これがすなはち宗教の心であるが、宗教の心は固より道徳の心ではない。しかし、かやうに道徳の心が起ることのないときに、ひとり宗教の心があらはれることはない。宗教の心はどうしても十分に自反慎独して、自己の道徳の価値のないことが自覚せられたときに、内心の要求として自からに現はるるところの特殊の精神状態である。俗に苦しい時が神だのみといふやうな心は決して真実の宗教と見るべきものではないと言はねばならぬ。        平生の行誼  藤樹先生の半生の行誼が徳行を以て聞えたことは普知の事実で、今さらに贅辨を要せぬことであるが、ここにその佚事として伝へられる佳話を二三挙げやう。  あるとき加賀の飛脚が金子二百両を預かり持ちて京に登るに、江州河原市より軽尻の馬を雇ひ、榎本の宿に泊つた。馬方は河原市へかへり、馬のすそを洗はんと鞍を解きたるに鞍の下から財布が出た。取り上げて見れば金二百両ほど入れてあつた。馬方は大に驚き、今の飛脚の取り忘れたるものと思ひ、その儘榎本に走り行き、飛脚に対面してその金を返したるに、飛脚は死したるもののよみがへりたる心地して悦びのあまり、行李より別の金子十五両を出して馬方に与へ「もしこの二百両なくば我が一命を失ふのみでなく、親兄弟までも重き罪を蒙らむ、高恩中々言葉にいひ尽すべきでない、まづ当座のお禮にまで贈り奉る」と涙を流して悦ぶに、馬方はこれを受けず、そこで段上とその額を減して終に金二歩となし「せめて是ればかりは我心の悦なれば受け玉ふべし」といふに、馬方は「此金を受け申すほどならば二百両をも留め直き申すべし、かくかへし申からには聊にても謝禮を受るは我心にあらず、さりとて余儀なくのたまへば、さらば鳥目二百文を賜はるべし。これは今夜やすむべき所をこれまで追ひ来りたる賃銀なり、これは我受くるべき錢なれば申し請くべし」といひ、二百文にて酒を買ひ、その家の人にふるまひ、自身も酔ふほどに飲みて帰らむとするに、飛脚は感に堪へず「さるにてもいかなる人にておはすぞ」と問ふに「名あるものにあらず、又何一とつ知れるものに候はず、ただ我が在所の近所に小川村といふ所あり、この村に与右衝門といふ人おはして、夜毎に講釈といふことあり、親には孝を尽すべし、主人は大切にするものなり。人の物は取らぬものなり、無理非道は行ふべからずなどといふこと常々語り玉ふによりて今日の金子も我物にあらざれば取るべき理なしと心得たるまでなり」といひ捨てて帰つた。飛脚はそれより京へ登ぼり、いつもの宿に至りて、この事の次第をくわしく話した。折節其家の裏に熊澤治郎八(蕃山)が居つて額問修業中であつたが、この物語を聞いて、その人こそ誠の儒者といふものであると感心して、その翌日すぐに江州に至り小川村を尋ねて随従を願つた。しかるに、「人に教ゆべきほどの学徳はあらず」と言つて断つた。熊澤はひたすらに願ひて二日の間、その門にただずみて帰らなかつた。藤樹先生の母、これを気の毒がつて、まづ内へ入れ申せとありしによりて辞し難く、内に入れて遂に師弟の契約をしたと伝へられて居る。  大溝の城主分部伊賀守、江戸にありて藤樹先生の名を聞き、城に帰りて先生を引見した。先生が辞し去られた後に、城主はその家宰を責めて曰く、「中江氏は世の推重するところである。我れ之が為に禮意を尽さむと欲するに、子等ただ予をして言辞を弄さしめて黙然たりき」とその不都合を責めた。或人これを聞き、事の顛末を詳にせずして卒然来りて城主が怒りし事を先生に告げた。先生これを聞きて自若として神色を変ずることがなかつた。その人が帰りたる後、諸生に告げて曰く「城主の怒は何ぞ我に関せむ、たとひ城主怒るとも我に於て恥づるところなし。何ぞ我心を動かさんや」と。  小川邑令別府某、一日小川に来りて村民の法を犯すものを罪に処した。村民等の請を容れて藤樹先生は邑令に謝罪すべく邑令の寓居に往き語りて夜半に及むだが、罪人の事には一言も及ばなかつた。村民来りてこれをあやしむ。先生の曰く、「邑令の顔色解けた。汝等恐るること勿れ」と。翌朝に至りて別府氏自から解けて曰く「按ずるに前夜中江氏が来られたのは村民の罪を謝せむがためであつた。しかるに、一言も其事に及ばずして帰られた。案ずるに、我れ小邑の令たるをつつしみ、走卒その事に及ばれなかつたのであらう。我れその禮敬を謝するに堪へず」と言つてその罪を赦したといふ。  藤樹先生常に會談の坐に臨みたるとき、若し其坐に浮躁の人が居つて雑話に及ぶときは「淀咄になつた。我の欲せざるところである。我は年貢を計るべししといひて、席を退き、或は書籍に対し、或は静坐せられた。そこで諸生は大に恥ぢて志を発したと伝へられる。淀咄とは淀の川舟の咄しといふことで、諸国の人が乗り合ひて思ひ思ひの咄をして、その志が一とつでないから話し合ふても益がないと言はれるのである。年貢を計るとは自分の学業が進まず心地樂まざるは百姓が年貢を怠りたるやうなものであるから、これを計らむと言はれるのである。  藤樹先生あるとき旅行中、船中に逗留して風を待つことになつた。旅にては常の宿にてさへ、滞留は安からぬものである。よして波の音や梶の声、思ひやるだに淋しきものであるのに、先生は「我宿に居るときは人の尋ねを受け、人のかたへ音信文のとりやり、人世萬事に片時も隙がないのに、幸なる処へ来て心上の障もなくて受用することはかたじけなく思ふ」と言つて、平然としてその境地に甘んじて少しも不平を訴へられなかつたと。  久世大和守の領下にて、あるとき、一人の乱暴者が人を傷つけ白刃を振ふて明き家に取り籠つた。捕手のもの其家を團むだが、迂闊にこれを捕へることが出来ず、誰ありて踏み込む気勢もなかつた。折柄藤樹先生この邉を通ほり合せ、この由を聞て捕手に向ひ「我れこの者に理害を説いて伏せしめやう」といひ、捕手の許諾を得て、佩刀を解て無刀となり、彼家へつつと這入られた。乱暴者はその平和の気に打たれて立ち向ふことが出来ず、しばらくありて、白刃を鞘にして先生に伴はれて表へ出た。先生捕手に向ひてこのもの巳に降参する上は強議の挙動あるべからずといふ。捕手承知してその乱暴者を請け取り、乱暴者は自得の上にて尋常に縄にかかつたと。  藤樹先生が大洲まり小川村に帰られたとき一時、酒を賣りて口を糊された。先生は酒を賣るとき必ず今日は如何なる仕事をなしたるかと問ひ、その仕事の難易によりて酒量を酎酌せられたと。又先生が経を講ずる間は店にありて酒を賣るものがないので、村民は随意に所用の量を汲み、その価を置きて去るのを例とした。或時面識のない人が来りて酒を買ひ、その価を払はず、又名をも告げずして立ち去つた。そこで先生は賣上帳に   ごんづわらじに蒲脛巾知らぬお方に       酒三升しかもその日は加茂祭  と書かれた。幾程もなく、その人倉皇として訪ひ来たりてその過失を謝したといふことである。  門人中川貞良は門人の中の巨擘であつたが、あるとき「荘子」を読みて狂見に走つた。このとき藤樹先生は中西といふものに対して「自分は中川氏の狂見をば心配する。たとへば長子を失ふともその心配はかほどにはないと思ふ」と言はれた。中西はこれを中川に伝へたので、中川は驚いて先生に見えて「私は幼年から先生の学を信じ郷を去つて身を委ねました。これは名利のためでなく、ただ正修を求むるの他はないのである。先生異見を心配せられるならば、速に之を正したまはずして、私をしてこの過に至らしめられるのであるか」と申した。先生は顔色を正して曰く「君子は人の非をいふに忍びず、我不肖なりと雖も苟も君子を学ぶが故に、妾に言はず、今これを言ふは止むことを得ざる良心である」と、坐にあるもの皆慄然としたと。  門人淵子、横井濱より舟に乗りて小川に至る。日晩く天塞きを以て船夫が甚だ勞したので其価を増して与へた。藤樹先生これを聞いて曰く「仁を好みて学を好まざれば其教や愚なり、人々務むるところは皆まさに為すべきの職分にして、その得る所も定分あり、これ自然の天禄なり、固より私を以てこれを減ずべからず、亦利を以てこれを増すべからず」と。先生が人情事変に放て其心を用ふることはすべて此の如くであつた。  大洲侯嘗て心術を盤珪禅師に問ひしに、禅師対へて曰く「閣下中江原の賢を知らずして棄てて用ふることなし、これ人君の器にあらず、心術を学ぶも何の益かあらむ」と。  侯は盤珪禅師の言を聞きて心にこれを慙ぢ、使を江州に遣はして藤樹先生を召さしめた。先生辞して曰く「昔者臣が上書して行きたる所以は巳むを得ざることであつた。臣早く父を喪ひ、独り母があるのみ、母も亦他の子なく、ただ臣に頼る。義棄てて出づべからず。母が天年を終るの後に尊命に応ずべし」と。惜いかな先生は母に先たちて死亡せられた。藤樹先生あるとき外より家に帰られしに、一人の僧が門前に立つて居つた。先生はその貌の奇偉なるを見て、盤珪禅師であることを知り、弟子をして水を磁器に盛りこれをその僧の前に覆へさしめられた。盤珪禅師曰く「彼れ我れに問ふなく、我何ぞ彼に問ふことあらむ」と言つて乃ち出で行かれたと。  淵氏始め中川氏に就て先生に見ゆ。中川氏の曰く「公先生と見ること如何」と。淵氏嘆称して曰く、「その徳は窺ひ知ること能はざれども、才の外に見はるるもの義といふべし」と。中川氏欣然として、まことに然りとなし、これを先生に告げたるに、先生の曰く「才の外に見はるることは吾が喜ぶところにあらず」と。後数月を経て、先生中川氏に言つて曰く「吾才今も尚ほ外に見はるるか」と。先生が自から治することの誠切なること、常に此の如きものがあつた。        成仏得脱  「藤樹先生行状」に記するところに拠るに、先生は顔色温和にして言語正しく、神気安定にして平居の間従容たり。その人と交はる禮容を見るに謙遜にして柄劣ならず。樸実にして固滞ならず。常に雑語なしと雖も温厚なるが故に坐にあるもの自から悦予たり。其心洒落を極めて人その酒落たることを知り難し。愛敬を極めて人その愛敬たるを知り難し。正直の操、勇気の傑、得て動かすべからざるものあり。母堂に仕へて孝を極め、東を下し色を喜ばしめて、その命に違はず。故に母堂これに和順すること幼稚の時の如くにして相憚る底の意思なし。その家を治むるや正にして法あり。賓客には必ず其催を尽し、祭祀には必ず其敬を尽す。親戚故舊には必ず其愛を尽す。邑中の野人の来たるやこれと農事を談じて油々如たり。其家甚だ貧にして粗食弊衣人の堪へざるところ、これに処して裕如たり。その人を教ふるや、半日答問の間絶へて文字を説かず、只平和の言を以て之を導く。まことに藤樹先生が孔子の所謂温良恭儉護の君子と称せらるべき人格を有して居られたことはその天稟に出でたことは勿論であらうが、その心の底に動きたる倫理的の観念が、自反慎独の深甚なりしがために宗教的観念に転じたることが重要の因であつたことが想はれるのである。先生は毎日清晨に香を焚き、天を拝し、「孝経」及び「感応篇」を持誦し、又嘗て「性埋會通」を読み、発明に感じて毎月一日斎戒し、太乙神を祭ることをせられた。これは古天子は天を祭られたが士庶人は天を祭るの禮がないので太乙神を祭りて士庶人祭天の事とするの意に出でたものであるといふ。又先生は深く福善禍淫の妙理を信じ、神明を畏るることがあたかも尼媼の愚なるものと同じやうであつたと伝へられて居るのである。すべて此等の事実は、藤樹先生の心の内に豊富なる宗教的感情があらはれて居つたことを証明するもので、その感情が時に仏教の用語にて表現せられたことも晩年には多かつた。藤樹先生が牛原氏老母に与へられた書簡に  「平生の御心優々とゆるやかにして他念なく、目にふれ、耳にふるること、何事も皆慰とする心にて御暮候事第一の心持にて候。吾人不動欲、不滞物、少くも他念起らざるとき如何にも快くゆうゆうとゆたかに有るものにて候。是即ち明徳の本体、仏法に所謂如来と申候は此心にて御座候。此心を養ひそだてて常に不失様に致し候が人間第一の務にて御座候。或は欲にひかれ、私にくらまされ、怒にうつされてこの如来心を失ひ候が迷と申すものにて候。今生も安穏ならず、後生も必ず無限苦を受けることにて候。よくよく御得心可被成候。人の重き病は欲心にて御座候。凡人毎に少し得あれば即悦び、少揖あればかなしむ。此心如来の妨となるくせ者にて御座候。されば少しの損得あればとて、家の強み弱みにもならぬものにて御座候。其上損するも、得するも、富貴になるも、貧賎になるも、皆々天命のあらゆる所にて人の力に不及所にて候。此理をよくよく御辨候て、彼くせもの払除、明徳の本体、如来心を常に養ひそだてて、心いかにもゆたかに潔く無意念様に御守可被成候。臨終の時も明徳の本体、如来心を不失、他念なき心にて終りたるを成仏と申候。云云。仏に成も、餓飢道へ落るも、苦を得るも、樂を得るも、皆我心に有ことをよくよく御明らめ、今日只一向に心をいさぎよく、物に泥まず、滞らず、常に樂しめる心にて御暮し可被成候。成仏得脱と釈尊の教へ玉へるも此心にて御座候。珍重珍重。」  婦女子に対して、懇切にその進むべき真実の道を説かれたことは「鑑草」にもしばしば載せられてあるが、その中に「現在の父母は即ち生身の釈迦弥勒なれば父母に孝行の誠を尽したれば別の功徳をなすには及ばず、家ごと人々の父母舅姑は皆仏菩薩なり。されば父母舅姑を或は福神なりと思ひ、或は仏菩薩なりと思ひなば、不孝の人世にあるまじけれども、云云」 と言はれるに至りては、その思考が宗教的感情に本づくことは疑を容れぬところである。 「大集経」に「若無仏者、善事父母、事父母即是事仏也」の語が思ひ出されて、その志のほどが貴とく覚えられるのである。  宗教の心は固より主観的のものである。藤樹先生が言はるるやうに、外に願ひ利を求むる凡夫の心を捨てればすなはち本来善にして悪なき本心が自からにしてあらはれるのである。さうして、この本心に従ひ、良知を欺くことがなければ、順境に居ても安じ、逆境にても苦まず、常に蕩々として楽しむことが出来る。これがすなはち宗教の心である。この心は固より十分にこれを言葉に現はすことが出来ぬ。又これを言葉に現はすときは即ちただ単なる教訓に止まるのである。巳にその心が宗教的である場合には、これを言葉に現はすことなくして、それがよくその人の行誼に見えて、真によく他の人の心を動かすものである。若しそれが道徳の心であれば、つとめて規範を恪守するのである。藤樹先生も始めはさうであつたと言はれて居る。しかるに、それが宗教の心であれば、意識せずして言ひ、又意識せずして行ふことが、その人にありては道徳的の善行と称せられ、他の人はそれによりて深甚に感化せられるものである。むかし尾州の一士人が用事ありて江州に赴き、藤樹先生の墓が小川村にありと聞きて、畑を打つて居つた農夫に尋ねたところが、その農夫は案内して先に立ちて行く。程なく小さき藁屋に至りて、しばらく待たせたまへと、内に入り、やがて出づるを見るに、木綿の新しきひとへものに布の小紋の羽織を著たり、彼の士人はさてさて丁寧なる男かな、基だに教へ得さすれば満足なるにと思ひて、行く内、墓所に至つた。農夫は竹垣の戸を開き、いざ入りて拝し玉へと言ひて、其身は戸外に拝伏した。士人大に驚き、さては衣服を改めたのは先生を敬するのであつたと心づき、さても汝は藤樹先生の家来筋のものにてもあるかと問ひしに「左には候はず、されど此村のものは一人として先生の御恩を蒙らざるものはなし、親を敬ひ子をしたしむことを辨へ知りたるは先生のお蔭なれば、必ずおろそかに思ふべからずと、我父母もつねづね教へ候ひぬ」と語つた。士人も始は只なをざりに一見の心にて来たのであつたが、この農夫の様子を見て、今さらに心も改より、懇に拝して帰つたといふ。藤樹先生の学徳がかやうに匹夫匹婦にまでも至大の感化を及ぼしたことにつきては、それが実に先生の行誼が宗教の心から湧き出たためであることを思はねばならぬのである。固より理は口舌によりてこれを説くことが出来る。教は言語によりてこれを伝ふることが出来る。しかしながら口舌によりて説かれる理は聞く人の知識を増すのみである、言語によりて伝へられたる教は伝へられたるものの外面を飾るのみである。理と教とが真に体認せられてその人自身のものとなりて自を利し、又他を利することは、全く宗教の感情の発呈に期せねばならぬ。そうして、その事実が今、藤樹先生の平生の生活に於て、明かに認められることは既に上章に説いた通ほりである。        藤樹先生の宗教  此の如く、説き来りて最後に叙述すべき要項は藤樹先生の宗教は如何といふ問題に就いてである。世間の人々の多くは、宗教といへば、すぐに一定の教義とか信條とかといふものを奉じて、神若しくは仏を禮拝し、供養し、若しくはそれに対して祈願することを指し、ただ外面にあらはれたる形式のみを見て、真に宗教といふものの本質を考へず、仏教とか、基督教とかといへる既成の宗教をばすぐに宗教そのものと見るのが常である。しかしながら、実際、宗教といふべきものは巳に上章にもしばしば説明したところによりて知らるべきが如くに、我々の精神の現実の状態に外ならぬものである。さうしてそれは、全く感情のはたらきによりて言語や教説などの中に存する真実をつかむときに意識せらるるものである。深く我々の身心の状態につきて内観するに、我々は自然の理法によりてこの世にあらはれたもので、従つて我々が元来有して居るものは自然に備はるところの本心である。藤樹先生はこれを以て全く、上帝の命令によるものであるとせられた。哲学的に自然の理法とすべきものを太虚皇上帝と崇められるところに藤樹先生の宗教があらはれたのである。しかもその神に接することは藤樹先生が説かれたやうに、自反慎独の功を積むことによりて始めて出来得るもので、「千早振る神の杜は月なれや、まゐる心の内にうつろふ」と、藤樹先生が詠ぜられたるが如く、その心の上に感知せられる神の力である。藤樹先生はこれを神明の力として居られるが、親鸞聖人が南無阿弥陀仏と言はれるものが、すなはちこれであると私は思ふ。藤樹先生は我々の意魔邪念を離れて、始めて良知に致り、その良知に導かれて進むことが、天の道に率ふものであり、それが我々の道でもあると言はれたが、善からむとも悪しからむとも思ふことなく、一切のはからひを止めて始めて感知するところの南無阿弥陀仏の心に導かれて進むといふことと、その心の状態は正に同一であると言はねばならぬ。まことに藤樹先生がその一生の生活に於て、此の如き宗教的の感情を本としたる行動をあらはされたのを見ると、藤樹先生の如き人こそ真の妙好人として景仰すべきであると私は信ずるのである。 @  新選妙好人伝第五編 大和清九郎 新選妙好人伝序文 富士川游撰 新選妙好人伝第五編 目次 大和清九郎 妙好人伝 大和清九郎 その生立 鉾立転住 信心獲得 信後 安心の趣 罪悪観 報恩の志 忠実 仁慈 孝行 信徳 一人娘の死 清貧 盜賊饗応 無我の生活 宗教の極致 往生  凡例  一。妙好人大和清九郎のことはその歿後十四年、寳暦十三年に泉州佐野の覚順師が著はしたる「崑崙実録」三巻を始めとし、釈帰西の「孝信清九郎物語」、釈法安の「和州清九郎伝」五巻と、仰誓師の「妙好人伝」初篇に収められたる「和州清九郎」とに詳かに記されて居る。此等の書物の著者はすべて本人の清九郎に接したか、或は少なくともその遺族に面接した人人であるから、当時世に伝はつた事実は大抵網羅してあることと思はれる。近時丹生谷の喜多村得身君が調査せられたるところに拠ると、妙好人清九郎のことにつきて記述せられたものは大小四十余部に及むで居るといふことである。私は固よりそれ等のものを渉獵して諸家の所説を傅へやうとするのではなく、ただ上記の数部の書物に記されたる事実を本として、妙好人としての清九郎につきて私が見たる宗教的生活の梗概を述べやうと思ふのである。  二。秋山不二女史が書かれたる「清九郎さむの墓」は本年の春私が清九郎さむの研究家丹生谷の喜多村得身君の厚意によりて女史等と共に清九郎さむの墓を訪ひたるときの紀事である。私の清九郎さむに関する小篇と併せ読まれむことを読者諸子に望むがためにこれを附録する。  三。この書の原稿は私が自から筆録したのであるが、その整理及び校正は一に秋山不二女史の尽力を煩はしたのである。又この書を公にすることを得たのは厚徳書院長宗氏の厚意に依る、特に記して謹謝の意を表する。 昭和十二年四月上浣 富士川游記  大和清九郎  富士川游述  妙好人伝  「好人伝」初篇二巻、実成院仰誓師が編輯せられたものである。仰誓師は蓮如上人九世の孫で、人となり気宇広大、言行端正、すぐれたる識見を有し、著作と口演とを以て大法を宣布し、又篤信の力を以て邪道に迷へるものを教誡せられたことによりてその名が当時に高かつた。この「妙好人伝」初編二巻はかやうに徳望の高かつた仰誓師が傅道生活の間にありて見聞せられたるままに、真実信心の人人の言行を記されたものである。ここに妙好人と言はるるは念仏者を指すので、念仏者とは一切善悪の凡夫にして、一念阿弥陀仏の本願を信じ、その本願の光明に照らされてよく自己の実相を知り、又人間の虚仮を明かに信ずることが出来て、謙虚にして且つ平和なる生活をなしたものである。真実信心の徳を得たる妙好人は固より尠なからず有つたが、その中に就て、殊にすぐれて世の人の模範となるべきものがこの「妙好人伝」の中に収められて居る。しかし普通の傅記として編輯せられたものでなく、又宗教を体得すべき指針が説いてあるのでもない。ただ仏の道を聞きて一心にその法に帰依せる念仏者の姿を、ありのままに示されたものである。平安朝時代に慶滋保胤《よししげやすたね》が著はしたる「日本往生極楽記」を始めとして所謂往生人とて仏の道を修めて、めでたく極楽に往生した人人の傅記を挙げたものが世に行はれて居つたが、仰誓師の「妙好人伝」はこの往生人傅の後を承けて、江戸時代に生きて居つた所謂往生人の言行を記されたものである。しかもこれを往生人とせずして妙好人とせられたのは、極楽に往生するがために、臨終の正念を期するのでなく、平生に仏の本願を信じて仏の光明に照らされつつその生活を樂しむことを示すものである。末法の濁世に出でて深遂の学と崇高の行とを以て世の人を導かれたる高僧の傅記は固より貴むべきに相違ないが、世に妙好人と称せらるる念仏者がその因縁に従ひていろいろさまざまの職業に従事し、凡夫の生活をしながら、仏の心の光に照らされて、喜むでその日を暮したことを思へば、妙好人が我我に伝へて呉れるところの法悦の姿はまことに美しいものである。さうして、それが我我の心の乾きたるのを潤ほすことは早天に於ける滋雨の如き趣がある。殊にこの「妙好人伝初篇」に奉げられたる妙好人二十一名の中にて「和州清九郎」に関する記述は我我をしてまことに景仰の念に堪へざらしめるものがある。私は今、この書に掲げられたる傅記を本とし、更に他の記録に見ゆるところを参酌して、妙好人清九郎の宗教生活につきて、その要旨を挙げやうと思ふ。  大和清九郎  「妙如人伝」初篇の著者たる実成院仰誓師は寛延二年の春二月に、当時大和の丹生谷に隠居して居つた妙好人清九郎を訪問せられたが、清九郎さむはその時七十二歳の高齢にて、稀有の念仏者としてその名己に世に高く、その徳普ねく傅はり、清九郎さむと呼ばれて、多くの人人から尊敬せられて居つたのである。仰誓師が記されたる中に  「其家僅に二間斗の藁ぶきを山の嶮《たうげ》に建てて筵三枚しき、釜一とつ、茶碗二つ三つの外は道具も貯へざる風情」  とある。さうして、仰誓師は清九郎さむに対面して住家のわびしき有様をもまのあたり見て、かほど目出度信者に今まで値遇せざりしは浅猿しきことなり。あまりの貴とさに、我ひとりかかる難有きことを見聞せんは本意なきことなりと思ひて、国にかへり、老母妙誓竝に道俗二十四人打ち連れて二月二十九日に再び清九郎さむを訪はれた。その頃仰誓師は伊賀上野の明覚寺に居られたが、初めは友人の義詮師と同道であつた。一応上野まで引きかへして、更にあまたの同行を伴なふて再び丹生谷に来たり、往復の辛苦を厭はれなかつたのである。さうして「世人は吉野の花を見んとて遙遙いたる人は多く、我我はいかなる仏祖の御引き合せにや、吉野の奥へ来たりて信心の花ざかりを眺むることは誠に不可思議の因縁なりと覚へ侍りぬ」と記して、仰誓師は清九郎さむを讃歎《さんたん》して居られる。伝ふるところに拠ると、清九郎さむの人相は色黒く、丈低く、顔体肉多く、力組みたる生れであつた。さうして、鼻の左の傍に薄き黒痣があり、顎に髭が生えて居つて、あふ人ごとに愛高ェあつたといふ。仏智の真信を獲て名聞利養のかだましき心なく、穢土を厭ふ心が肝に染み、深く本願を信じて、歡喜胸の内に充ちて、常に念仏の生活をした清九郎さむの淨き心がその相貌にもよくあらはれて居つたものかと思はれる。  その生立  清九郎さむは大和国高市郡矢田村の産である。矢田村は山間の一部落で、あちらの谷に三軒、こちらの谷に二軒といふやうに、僅に数軒の家が散在して居つた。清九郎さむは延寳六年午の年にこの矢田村に生まれ、稍長じた頃、兩親と共に矢田村より西六丁あまり丹生谷《にうだに》村に移つた。親の名も何といつたかわからぬほどの生れであつた。清九郎さむの家は農を業として居つたのであるが、それも至つて貧弱のものであつた。それ故に清九郎さむは年十八の時に近き所の百姓の家に奉公し、家に帰り妻を持ちてからは小百姓の傍ら樵夫となり、又馬追などをして居つたと伝へられて居る。仰誓師が記されたところに拠ると、清九郎さむは生質《うまれつき》魯鈍にして我きたる笠にほこたて清九郎と仮名にて人の書きやりけるをさへ読むこと能はざるほどの人であつた。固より山間寒村の貧困なる農家の子であり、学問をするほどの余裕もなく、若くしては人人に傭はれ、長じては小百姓をした傍ら馬を追て仕事する外はなかつたのである。丹生谷に移つてから清九郎さむは父を失ひ、それから後は母親一人の手にて育てられた。その母もありがたい念仏の信者であつたやうに言はれて居るが、茶摘や綿繰などの手わざをして人に傭はれてその日を暮して居つた。かやうな家庭に育ちたる清九郎さむは世間並に言えば不幸にして文字を学ぶことが出来なかつた。いろいろの知識を得ることも出来なかつた。しかしながら、清九郎さむは幸にも真智を獲て自分の真実の相を見ることが出来たので、是を非とし、非を是とするやうな俗智は無かつたが、仏智を得たるがために醜悪・羸劣なる自分が仏の光明に照らされて居ることを知り、煩悩の心に迷ふことなく、正しい道を進むことが出来たのである。まことに幸福の至であると言はねばならぬ。  鉾立転住  あるとき、長雨がつづきて馬追もならず、朝夕の煙もたえだえであつたが、茅屋に雨がもりて、いかにともすることが出来なかつたので、近処の百姓の家に筵のありしに手をかけ、これを盗み取つて、それを囲ひにして雨のもるのを防いだ。その家の主これを見て取りかへし、悪口して罵つたので、清九郎さむはかへす言葉もなく、面目なき儘に丹生谷より十八町峠を上りて吉野郡鉾立村に移転した。この時清九郎さむは年齢三十一歳であつたと伝記に載せられて居る。機縁があればいかなることをもしかねまじき凡夫であるから、貧困にせまりて過ちて人の物を盗むこともある。それがために面目を失ふことを慚ぢて居処を転ずるに至つた清九郎さむの心は本来純真であつたといはねばならぬ。世の中には悪るいことをしながらこれを悪るいこととも思はずして傲然として居るやうな厚顔無恥の輩が少なくないのに、清九郎さむは一旦生じたる邪心のために罪を犯したることを恥じてその居を転じたのである。又清九郎さむが始め馬追することをその主なる務としたとき、その友とするものが猛きものであつたので、その友達に引立られて、その心もあらあらしく、酒を好みては気象をはげまし、或は喧嘩口論もがさつにて、人にうとまれたのであつた。鉾立に移りてからは、博奕大酒などは女房の諫によりて廃し、馬追をも止めて、農業を常の業として二年あまり暮したが、女房が重き病に臥したので清九郎さむは大に心配して介抱したその効もなくて、臨終も近くなつたとき、女房は清九郎さむに向ひて「博奕大酒はいよいよ止まり玉ふべし、これ一とつの頼みなり、又娘も幼少なれば不便を加へ養育を頼みまゐらす」と言ひ、又一人娘に向ひては「我がなき跡にては父を大事にせよ」と言い残して遂に空しくなつた。清九郎さむは最愛の女房に別れて、理非の辨へもなく、狂乱の如くなげきかなしみ、世間よりは愚なる人なりと笑はれしほどであつた。しかるに、人の勸めによりて下市の御坊に参り、一座の法話を聞き、それに感じて遂に念仏の道へ入つたといふことである。「和州清九郎伝」には清九郎さむが女房におくれ、悲歎の折柄、法話を聞き、「如来の慈悲は、たとひ十悪五逆の罪人、五障三従の女人なりとも、我を一心にたのまむものあらば、一人ももらさず救ふべしとの御誓なれば、もろもろの雜行雜修の心を捨てて一心に弥陀如来をたのみ奉れば立所に摂取の光明におさめとられ命終れば忽ち此上もなき結構なる淨土へ参らせ下さるるに疑なし」との教化が肝に銘じて立ちどころに信心決定したと記してある。恩愛離別によりて無常を感じて忽ちにして発心するといふことはよく説かれることで、清九郎さむの発心もまた無常を感じてこの世を厭ひ、淨土を願ふ心が起きたやうに言はれて居る。しかし、清九郎さむの場合は「今にも無常の風きたり、命終りなば恐しき地獄に落つる」といふやうなことよりも、女房がその死に際して清九郎さむを戒めたために、清九郎さむをして内勸の心を強くせしめたことがその宗教の心をあらはさしめた主なる原因であつたことと思ふ。無常迅速の有様を恐れて、その恐怖から免れやうとして仏の慈悲にすがらうとするやうでは容易に真実の宗教の心のあらはれる筈はない。それに立ちどころに信心が決定したといふことも単に心機一転といふ意味で、昨日までの黒が今日忽ちに白となつたといふやうなことではない。清九郎さむも自から言つて居るやうに、「淨土の往生といふことが知られても、その初は何や蚊と疑の心が起りてすぐに信心決定といふことには行かぬ」のであつた。真実の宗教の心のあらはれるは、一方にありて内勸の度がますます深くなるに従ひて一方にありて、仏の慈悲を仰ぐことがいよいよ厚くなるのである。清九郎さむは母を失ひ、又妻を失ひて人間の無常を感じ、これまでは日々の生活に忙しくして自分の内面を見ることに気がつかなかつたものが、忽ちにして自分の内面を観ることが出来たところへ、かやうな説教を聞いたのであるから、仏の本願がすぐに受け取られたのであらう。この場合、実際に、仏の本願といふ言葉が外縁としてその人の心の上にはたらくものであるが、しかしその心が、これを外縁として感ずるやうになつて居なければ、それが決して外縁としてのはたらきをせぬものである。清九郎さむは固より学問のない人であつたから、仏のことなどにつきての理屈はこれを知らなかつたのであらうが、自分の内面をよく勸た結果、一も二もなく仏の本願に信順することが出来るほど謙虚の心になつて居つたのである。それ故に一たび説教を耳にしただけですぐすなほに仏の道に入ることを得たのであらう。仏教の上にてはこれを名づけて信心を獲得したといふ。それは謙虚なる心の上に仏の光が現はれたといふほどの意味である。言葉を換えて言えば、自分の暗黒なる心の闇が、仏の光明に照らされて明かるくなつたといふことである。  信心獲得  清九郎さむが、後に高取の領主の母君に召されて、「汝いつの頃から信心を得たか」と問はれたときに、清九郎さむはこれに答えて次のやうに言つた。  「願ふべきは浄土なりと思ひそめしは三十二三歳の頃かと覚え候ども、其頃は出離の道につきて兎や角やと疑ひしが、いつしか疑も晴れ、今は近づく往生をたのしみ、御報恩の念仏を喜ぶこと、これ全く他力の御催しと難有存候」清九郎さむが三十二三歳の頃は丁度その最愛の女房を失つた頃である。清九郎さむは平素は別に気にとめなかつたことが、死際の女房に戒められて、自分の内面を見ることにその心を転じたのであらう。さういふ場合に聞いた一座の説教は、清九郎さむをして自分のやうな愚悪のものが阿弥陀仏の光明の中に生活して居る身であるといふことを感知せしむるに十分であつたのであらう。  仰誓師の「妙好人伝」には清九郎さむの入信の始につきて記述して「毎日山に入り樵夫の業をなすに、鶯三羽来たりて、身に従ひたること凡そ二年許なり、清九郎不思議に思ひ居たりしが、後本善寺に実物展覧あり、蓮如上人御所持の鶯籠あり、鶯は法を聞けと囀る鳥なればとて蓮如上人の賞翫せられたとの因縁をききて、年頃、我に法を聞けとの催促ならんと、初めて心づき、それより大切に法をきくに至つた」としてあるが、しかし、さういふことは実際入信の始ではなく、己に信心が得られた後のことであらう。栂尾の明恵上人が、あるとき河にて馬を洗ふ男の子が、アジアシといひけるを聞かれて、上人たちとどまつて「宿執開発の人かな、阿字阿字と唱ふるぞや、いかなる人の御馬ぞ、あまりに貴とく覚ゆるは」と、尋ねたまひければ、「府生どのの御馬にて候」と答えた。「これはめでたきことかな阿字本不生にこそあんなれ、うれしき結縁をもしつるかな」とて感涙を拭はれたといふ。我が心の相がすぐに「法」を受け取ることが出来るやうになつて居れば、周囲のすべてのものの中に動いて居るところの「法」が容易に受け取られるのである。清九郎さむの場合にありても、その心が既に我執を離れて居つたればこそ、かやうに鶯の声が法を聞けと受け取られたのであらう。法を聞けと鶯の声が受け取られたのは清九郎さむの心に既に宗教の心があらはれて居つたのである。鶯の声を聞て信心を獲たといふのは、むしろ本末転倒の考であらう。  信後  かやうにして、清九郎さむも始のほどは女房の死をかなしむのみであつたが、一念発起して信心が獲られてから後は、女房が先き立たことの意味を考へるやうになり、若し女房に別れずば罪深きいたづらものの自分は仏恩は喜ぶまじきに、女房こそ善知識なりと、法縁を慕ふことが強くなり、その日常の行為も、以前とは全く相違して、丸で別の人のやうになつた。丹生谷の人人その心の美しさに感じて、清九郎さむをば舊の如くに丹生谷の人にしやうとて庄屋に申し出たので、庄屋もそれに同意してその旨を鉾立村に申し送つた。ところが鉾立村の同行は清九郎さむを惜しみて丹生谷へはしからば鉾立村に近き丹生谷の領分へ清九郎さむの家を造り、その近辺の田畑を清九郎さむへ作らすこととすべしといふことになり、鉾立村のものも承知して、遂に丹生谷に住むこととなつた。清九郎さむが鉾立村に居つたのは三年許であつたが、その間に、最愛の女房に死別したるが縁となりてその心が一転して、幾くならずして妙好人の列に入り、その名が遠近に聞ゆるやうになつたのは、まことに宿縁の浅からぬことであつたと言はねばならぬ。  かくて清九郎さむが仏恩を喜ぶことの評判は漸く世に高くなつたが、なほそれを疑ふ人も尠なくなかつた。ある年の十月清九郎さむが傍畝の信光寺へ参詣して帰るのを見て、若きものどもは清九郎さむが仏法に帰し、かやうに田刈り麥蒔にていそがしき折といへども参詣することは殊勝なることなりと噂しけるに、その中に交はり居たる商人が言ふやうは、今は仏法繁昌の世なれば後生願とあれば人人から寵愛せられて生活が樂になることであらう。兎も角も、彼れが心をためし見るべしとて金子壹兩を取出して清九郎さむが立ち帰る途中に落し置き、物の影にかくれて様子を窺ひ居たるに、清九郎さむはこれを見つけ誰人かこれを落したものはさぞ惜しく思はるるであらう、願くは落したる人の手に再び入れかしといひて、道の辺の枯草の内へ、見ゆるほどに押し入れ置きて見返りもせず帰つたのを見て彼の商人始め皆皆清九郎さむはまことの信者であると感歎したといふことである。思ふに清九郎さむの心は金を落したる人のために愁ひてかくなしたので、「君子は遺したるを拾はず」といふやうな道徳の心よりも、「金を落したる人はさぞ心配して居るであらう」といふ慈悲の心が強く動いて居つたのである。自分の心をはげまして道徳の訓戒を守るといふ場合にありては又自分勝手の心が出でて道理の正しきことは知りながら、義理の暗くなることがある。清九郎さむにありては法の力が慈悲の心とあらはれてその行を律義ならしめたのである。欲しいと思ふ金でも拾つてはならぬと自分の欲心をおさえるのでなく、金を落したる人の難儀をおしはかりて、気の毒に堪へぬ心ばかりが盛で、欲心はすこしも出て来なかつたのである。単純にその外面にあらはれたる行為のみを見ればその道徳の心が強かつたやうに思はれるが、実際は宗教の心がその根抵に動いて居りたればこそ、かやうな律義な行為がなされたものと言はねばならぬのである。  安心の趣  ある若い同行が清九郎さむに対して「安心のやういかが心得申すべくや」と尋ねたるに、清九郎さむが答えていふやうは「私聴聞仕候は、当流安心の趣きを委しく知らんと思はむ人は、あながちに智慧才覚も入らず、唯我身は罪ふかき浅ましきものなりと、思ひ取りて、かかる機までも助けたまへる仏は阿弥陀如来様ばかりなりと知りて、何のやうもなく一筋にこの阿弥陀如来の御袖にひしとすがり参らする思をなして、後生助け玉へと、たのみ申せばこの阿弥陀如来は深く悦びましまして、その御身より八萬四千の大きなる光明をはなち、その光明の中に、その人をおさめ入て置たまふなり、この信心一とつにてやすく、極樂へまゐらせ下され候と、たしかに聴聞仕候、この広大の御恩のありがたきを思ひ、仏恩報謝のために称名念仏申上たてまつるなり」と安心の趣を話した。この説明は言ふまでもなく、淨土真宗の僧侶の説教の要旨をそのままに写したものである。さうしてそれは自分の心の内面を観てそれが愚迷のものであり、又羸劣にして何の力もないことが十分によく知られたときに、その小さい自分の心が、宇宙に充ちて居るところの大なる心の中に包まれ居ることがわかりて、そこに感ずるところの心の有様を、宗教的の言葉にて表現したるものである。我身は罪深き浅ましきものなりと思ひ取るといふのはすなはち自分の心の愚迷と羸劣とを自覚した状態である。さういふ心の状態が感ずるところのものはさういふ自分の心が大なる力の中に包まれて居るといふことである。さうしてその大なる力は、これを智慧とせられるときに仏智不思議といはれ、それを喜ぶところの感情が強くはたらくときには、それに人格がつけられて阿弥陀仏となる。さうしてその阿弥陀仏は智慧の光明を以て我々の心を照し、又育てて下さるのであると感ずるときに我々はそれを仏の慈悲として仰ぐのである。かやうにして清九郎さむの安心の趣は、まことによく真実の宗教的感情の発呈を示したものであつたと言はねばならぬ。  罪悪観  越中茗荷原の妙覚寺の玉譚師は博学高徳の聞えのあつた人であるが、清九郎さむを訪ひ来りて「清九郎は尊き信者なりと聞き伝へ、遠路を尋ね来りして、その甲斐もなき大悪人なり。それでは極楽往生は中中かなふべからず」と言はれた。清九郎さむはこれを聞いて、大に喜び「これまで御寺様がた彼是お尋ね下され、御法話いろいろありがたき御教化に預かりしが、今日はとりわけ御懇志の御しめしにあひ奉り、さてさてありがたき御事なり、仰の如く私のやうなる大悪人、地獄一定のものなるを、此儘にて御助け下され候如来の御本願と聴聞おさせなされ下され候へばこれでいよいよ往生決定なりと、ありがたく存じ奉り、御禮称名念仏申より外なく候」と言つた。玉譚師は此の如き清九郎さむの歡喜心を見聞して、妙好の信者なりとて衣の袖をしぼり、「まことは足下の真実を知らむために、今かく申したり」とて、厚くその志を賞し、懇に法話をせられたと傅えられて居る。自分は罪悪深重のものと口には言ひながら、さて人から悪人と罵られては不快を感ずるのが人人の常であるのに、清九郎さむはその例に洩れ、悪人なりと罵られて大に喜むだ。それは言ふまでもなく、阿弥陀仏の本願は善人よりも悪人が目あてであるといふことが深く信ぜられたからである。さうして、さういふことが深く信ぜられたのは、自分の心の愚迷・羸劣、一言にして尽くせば罪悪深重の感が強かつたからである。宗教の上にていふところの罪悪は自分の心の内面を観たときにあらはれるところの道徳的感情であるが、この道徳的感情が強くあらはれることが、やがて宗教の心の著しくあらはれて来る前提である。善導大師が「自身はこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に沒して出離の縁なきものと知れ」と言はれたのは、機の深信とて、自分の心の愚迷・羸劣を知ることが大切で、この機の深信がありてこそ法の深信が出来るのであるといふことを示されたのである。清九郎さむの場合にありて、その機の深信がかやうに著しくあらはれて居つたればこそ阿弥陀仏の慈悲が深く感知せられたのであらう。  報恩の志  清九郎さむがかやうに、阿弥陀仏の慈悲を感じ、念仏を申して安樂の生活をなすやうになりて、仏恩を感謝せねばならぬといふ心が深くなり、丹生谷から京へは十八里余もある道を大方はその日に著するやうにし、その翌日本山の御法事に遇ひ、三日目には下向するのを例とした。清九郎さむがかやうに本山へ参詣の時は御本山へ献上の柴を荷ひて上洛した。その柴は木+解《くのぎ》とて随分堅き木を樵り、水でよく洗ひ、人の足に觸れぬやう棚に上げて乾かし置きよきほどに束ね一荷として上洛した。その途中、柴を不淨の所に置かず、道中の茶店にても後にはよく見知り、清九郎さむが荷ひ来りたる柴は牛馬や人に踏ませぬやうに注意したといふことである。本山御臺所にてもこれをうやうやしく取扱ひ、その柴は毎朝の御仏飯の御用になつたといふ。清九郎さむがかやうに仏恩を感ずることの深かつたことは引て日常の生活の上にいろいろとあらはれてその行状には美しいことが澤山にあつた。清九郎さむは時時柴を賣りに出かけたが、薪を望む人がその直段を問ふに、何ほどなりと答ふ。それは高直に思ふ故に何ほどに買ふとあれば二言とも価を論ぜず、いづれにても負けて賣つた。それ故に、後には清九郎さむの賣に出でたる薪は直限《ねぎ》る人がなくなつたのみでなく、心ある人は却て増銭を遣したが清九郎さむはこれを受けず、しからば參錢にせらるべしといへばこれを戴きて殘らずに捧げたといふことである。  ある年、御所《ごせ》町の商人某が清九郎さむの綿を望みて買ひ取つたことがあつた。その後清九郎さむがその商人の家へ立ち寄つたところが、その商人がいふやう「清九郎どのは善きときに綿を賣られた。この頃にては綿の相場が下落した。其元より買受けたる綿は今の相場にては十八匁の損失なり」と語つた。それを聞いた清九郎さむは気の毒に思ひ、我が宿にかへり銀子を調べて彼の商人の家へ持ち行き、私が賣り渡した綿のために損失なされたことは、まことになげかしく存ずる故これを返進致す」と銀子を渡さうとした。商人は驚きて「損するも儲けるも商人の習ひである。たとえ十八匁此方へ儲けたりとも其元へ一厘遣はす筈もなければ申し受る道理もなし」と戻しければ、清九郎さむが言ふやう「今年は綿もよく出来、思の外多かりければこの銀子戻したりとていたみにもならず。其元は商人なれば儲なくしては立ち難し、是非受納あるべし」と押問答の末、同業の商人の仲裁にて半分づつ取ることになつて清九郎さむも得心し、自分が取つた九匁を携へて京へ上ぼりこれを本山へ献上した。その後この二人の商人は清九郎さむの誠に感じ、その徳を慕ひ同行となりて厚く法義を喜ぶやうになつたといふ。  清九郎さむは自分の方へ訪ひ来りて法話をなしたる人の方へは、二三三里五六里の道も遠しとせず、その日帰りにして必ず禮に行つたのであるが、これは言ふまでもなく、同行と共に仏法の話をすることは仏の御恩を思ふことの縁をなすものであるが自分にさういふ縁を造つて呉れた人人の恩を謝するために清九郎さむは一一その人の許に赴きて禮の言葉を述べたのである。清九郎さむの報恩の志が何れの方面にもよくあらはれたことはこの一話にてもよく知られることである。  忠実  清九郎さむの組の百姓で、年貢を遅滞して、すべきやうなく田地を捨てて欠落したものがあつた。そこで右の田地を組中をして作り立つべき旨役所から仰せ渡されたので組のもの一同は承知したが、銘銘農業が忙しき折であるので、共同の事業に属するものは粗略にし、誰彼とおしあひ、なほざりにして置いた。しかるに清九郎さむは外の人にはすこしもかまはず、朝は鶏鳴の頃より起き出で、すでに日の暮るるにも出精して自分の田畑は固より請負の田地までも思ふやうに作り立てたのであつた。  真弓村の富豪某といふもの、領主の許を得て真弓に近き山山を支配し隣邦の百姓に分ち預け、その年貢を取り集めて上納せるが、その年貢が遅滞してこれを取立てることが難澁に及しゆへ、これを返上することになつた。するとこれを聞いた百姓は銘銘受持所の山にある薪を殘らず刈り取つた。しかるに清九郎さむの受持の山ばかりは草木がその儘に残つて居つた。検分の役人、清九郎さむにその故を尋ねければ清九郎さむのいふやう「山山御取上げになる上は私どもの支配にあらず、御免もなきに我儘に刈取ることは恐れ多いので薪に手をかけなかつた」といふ。  清九郎さむが、自分の責任を重んじ、その務とするところに、忠実であつたことは、この一二の例にて推知することが出来る。世の中の人の多くのものが、ただ人間のみの存在を知りて、仏の有ることを信ぜず、まして自分一人のための仏を有せざるによりて自分の意に任せて得手勝手のことをするに異なりて、清九郎さむはさういふことを恐れ多いと慎しみて居つたのである。まことにうるはしい心と言はねばならぬ。  仁慈  清九郎さむはあるとき干瓢にて器をこしらへ、籾種を入れ置き、時節になりたれば種をまくべしとて、取出しけるに、器の内へ鼠が入りて数種を喰つくし、その鼠は瓢箪の内にて太くなつて出ることが出来ざりしを見て、人々は錐にてこれを刺し殺さむといふのを、清九郎さむはこれを制し、「ものを盗み喰ふは鼠の性にて理はりなり。籾種を喰はせざるやうに用心せざりしは此方のあやまりなり。科は此方にあり、全く鼠の罪にあらず。それのみならず、比家にすむ鼠ならば清九郎とは定めし深き因縁あるべしと思へば、中中殺されず、是非助けたまふべし」とて、瓢箪の口をきり広げ鼠をはなし逃さしめた。清九郎さむはこの時、一切の有情は皆以て世世生生の父母兄弟であるといふことを思ひ出したのであらう。「ほろほろとなく山鳥の声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」と詠じたる行基菩薩の心と同じやうに、清九郎さむは鼠の中にも自分のと同じ仏性を認め、これを尊重して殺すに忍びなかつたのであらう。かやうに清九郎さむの仁慈の心は他の生物にも及び、友達と共に二・三里の山奥へ馬を引て行くに、外のものは馬に乗りて追ふのを例としたに異なりて、清九郎さむはあとにさがりて口縄を取り、馬には曾て乗らず、薪三把をば二把つけて一把をば自分の背に負ふて帰るのが常であつた。その馬が煩ひて死したるときは志を寺へ持ち行き、その菩提を弔ひ、又翌年に一週忌をつとめたといふ。これはその馬のために自身が養はれて居るからとて、報恩の心が強かつたことにもよるであらうが、しかし一切の生物をいつくしむといふ仁慈の心が深かつたためであることも認められるのである。  孝行  清九郎さむは父が早く世を去りて後、一人残れる母親を養はむがために壮年の頃、下市辺の所所に仕えてその料を母親に送つたのであるが、固より奉公の身なれば終日主人の仕事をつとめて、入相の鐘と共に主人の家に帰へれば人人は夕飯の支度などをするに、我一人はいまだ食せざる前に毎夕主人に暇を乞ひて在所に帰り母親の安否をとひ、水を汲み薪を割り、母親の朝暮の營みを助けなどして、また急ぎ主人の家にかへり最早加減も損したる食物を難有いただくのを常としたのであつた。あるとき清九郎さむは老母をつれて京都の本山へ参つたことがあつたが、年が老いたる母親であるから歩行もなり難いのでもはや参るまじといひしを、清九郎さむは私が負て参るべし、尤も一人を傭ひて私と二人して駕籠にのせまゐらせば御身も樂におはすべし、又一人傭ぶほどの価の出来ないこともないが、清九郎ごときものの親が、駕籠にて京参りといふも似合ぬことに存ずるから御身窮屈にはあるべけれども私に負はれたまんとて、十八里余の行程を背に負て上京し又下向したのであつた。  清九郎さむは親の用ひたる枕とおうことを括り合せ天井の裏に結びつけ目に觸れたときはそれを縁として念仏して喜むだ。見る人そのわけを問へば、親の用ひたるおうこにて荷をもち、途中にて肩を休むるとき腰などかけることもあるべし。親の肩に添ふたるものを子の尻に敷く恐がある。枕は頭に觸るるものなれば用ひても苦しかるまじ、しかし誤まりて足にかけるやも計り難し、されば二品とも用ひざるに如かずと思ひて、かやうにはからひ侍りぬと答えた。かやうな孝心のことも、かずかずの噂が高取の領主へ聞え、褒美として米五俵賜はつたが、清九郎さむが言ふやうは「子たるものの親に仕ふるは常の道にして珍しきことにあらず。私は日々薪を賣て世を渡り候へば衣食の料も不足なければ御褒美を頂くには及ばぬ」とて辞退した。領主ますますその志を感じて鳥目十貫匁を賜はり、「領分の山いづれにても木柴汝が心に任せて刈とるべし」と許された。清九郎さむは喜びて家に帰りてつくづく思ふやう、殿様より賜はりたる鳥目を我我風情のものが用ふること勿体なしとて、一錢も殘らず、本山へ献上したと伝へられて居る。「大集経」に「若し仏無きものはよく父母に事へよ、父母に事ふるはすなはち仏に事ふるなり」とあるが、深く仏の慈悲を感じ、その恩に報はねばならぬと信じたる清九郎さむとしてはその父母が仏であり、父母に事ふることがすなはち仏に事ふることであつたのであらう。清九郎さむの宗教の心がまことに美しいものであつたといふことはこの一事にてもよく知られるのである。  信徳  清九郎さむには男の子がなく、娘一人ありて小まんと名づけ、成人して十七八歳になりたれば聟《むこ》を貰ひたきよし聞き伝へて、吉野郡矢橋村の久六といふ若者が、その聟になりたしと望み、媒介の人をしてその事を申し込ましめた。この久六といふのは常に博奕・大酒を好み諸方へ馬を追ひ喧嘩口論などすることが音に聞えたあばれものであつたから、迚《とて》も清九郎さむの気には入るまじと人人思ひしに、清九郎さむは一も二もなくその久六を養子に貰ふた。さうして僅かの月日も立たぬ間に久六はそれまでと見ちがへたやうな人になり、法義に入りて常に称名念仏怠らず喜びの生活をするやうになつた。あるとき所持の田一枚を寺へ寄附せむと思ひて久六に相談したところが、久六がいふやう「いかほど財寳を譲り給ふても子孫に果報なければ、終に他の寳《たから》となるべし、今、仏恩・師恩を謝せむために寄附し給はば寺に萬世殘りてすなはち我家の寳なるべし」とて、寄附をすすめたので、清九郎さむは喜びてその田地を寺へ寄附した。「金を積みて子孫に遺すも子孫は保つこと能はず、書を積みて子孫に遺すも子孫読むこと能はず、陰徳を積むことのみぞ子孫の為なるべし」といへる古人の語にも叶ひたる清九郎さむの志に同じく、養子の久六が三毒の煩惱から離れるやうになつたのも全く清九郎さむの信徳の顕《あら》はれであると讃歎せざるものはなかつたといふ。唐土に崑崙《こんろん》といふ玉山がありて、外から石瓦をなげ込むとき忽ち変じて玉と成るといはれて居る。清九郎さむの信心の徳は丁度崑崙山のやうで、いかに邪見なる石瓦に異ならざる根性も一たび清九郎さむの化益を受くれば立ちどころに善心を生ずること金玉と転ずるが如くなりとて、摂津小曾根の大徳泰厳師が清九郎さむを歡称して崑崙山人と言はれしより当時の学者の間にては清九郎さむを指して崑崙山人又は崑崙師と称する人があつた。貴とき法の徳があらはれて周囲の人人に此の如き感作を致したことはまことに稀有のことであると嘆称せざるを得ぬことである。  一人娘の死  娘の小まんは久六を養子に迎えて夫婦中むつまじく、後生のことを大切に喜びて生活し、家庭は頗る円満であつたが、ふと病の床に臥し、在在の医士をたのみ手を尽したが、病は日日に重りて末期近くなりて、父と夫とに助けられ、如来の尊像をふしおがみ、しみじみと念仏して、「父と同じ領解となり、阿弥陀如来をたのみ奉り、追附け極楽の往生遂げ奉ることこれに過ぎたる嬉しきことはない」と喜びつつ、念仏を申しながら僅かに二十六歳を一期として遂に空しくなつた。清九郎さむのかなしみ嘸ぞ甚しいことと所所の同行が尋ね来りてくやみを言へば、清九郎さむはこれに答えて「各各方は悦びに来たりたまふたと思へば、さはなく歎きの見舞とは心得ず、さて娘はいかなる果報にや、由由敷約束やありけん、この度極楽へその身その儘にて引迎へ給へば今こそ安堵いたしたり、娘が活計安樂此上の仕合と悦び申すなり」とまことに心涼しき風情に見えたといふことである。さうして清九郎さむが言ふには「娘小まんは浮世の苦患をのがれ、淨土へ往生遂げ、さとりの身となるこそ果報なりと、娘のことを思ひ出す度毎に、なほしも称名念仏を喜ぶなり。この娘の往生せしにつけて、以前女房に別れし時には愚なることを言ひならべて歎き居しが、今はそれと違ふて、かかる心になつたのは全く仏智不思議のあらはれなるべし」といよいよ仏恩の広大なるを喜むだと伝へられて居る。この世にありて、最愛のものと互に相別れて、しかも幽冥其境を異にするは、まことに悲しむべきことである。清九郎さむも始めその女房に別れたときは人の情として堪え難き悲哀の心に泣いたのであるが、今は人の心の世界を離れて、仏の心の世界に住むで居る。一人娘を失ふて、普通の人情ならば徒らに悲むべきであるのに、却てこれを縁として自分の生活を喜びて感謝の心があらはれたのである。まことにかやうな場合に方りても仏智不思議と感ぜざるを得ないところに、清九郎さむに強い宗教の心のあらはれが認められるのである。  清貧  清九郎さむは貧乏であつたが、しかもつねづね如来の本願の不思議を信じて一心にこれに帰命し、報恩の念仏を樂しみとして居つた。それ故に、近郷の人人日日歩みを運び尋ね来るもの多く、その人人は土産として金銀など遣はしたる人もあつたが、更にこれを受けず。或は内仏へ御禮申す序に密に仏檀の内に入れ置く人もあつたといふ。清九郎さむはすこしも貪欲の心なく、金銀はすこしも身につけずしてこれを仏へ捧げ、その身は貧困に暮したのであつた。成人の曰く「あまり貧乏にては、また参詣を怠ることもあるべし。すこしは貯へらるべし」と忠告したるに対して清九郎さむの言に「我貧しけれども日日の食物あり、四季に応じて著物もあり雨露を凌ぐ家もあれば此上の望なし」と言つて、清九郎さむは飢えず、寒からず、風雨に犯されずして静かにその日を過ぐるのを楽しみとしたのであつた。古の聖人が「粗食をくらひ、水をのみ、肱を曲げて枕とす、樂しみ其中にあり」と言ひ残されたことに同じくして、清九郎さむは清貧に安んじたといはむよりも、むしろ清貧を樂しむだ人であると称すべきである。  清九郎さむの傅記に拠ると、その平生の食事又あたらしく衣服をととのえ著るときも、これこそ仏祖よりの賜物なりと、いくたびもいただき、念仏してこれを用ひたといふことである。蓮如上人が常の仰せに、「第一冥加のかたを上下ともに心得べし」とあつた、そのままが清九郎さむの日常の生活にあらはれて居つたのである。冥加とは冥くして我我には知ることの出来ぬ力が我々に加はつて居ると感ずることをいふ。清九郎さむはよく自分に仏の慈悲の広大なる力が加はつて居ることを知つて、何事も冥加にあまるとありがたく感じたのである。それ故に、平素の食事にしても又衣服にしても皆、これを仏祖より賜はつたものと考へて、それに対して感謝の意をあらはしたのである。その敬虔の心のほど、まことに嘆称すべきである。  ある年、清九郎さむは報恩講を營み、同行を招きけるが、その食膳にはただ蔬菜《そさい》のみで不束であつたので、同行等申しけるは「野菜など不自由に候はば遠慮なく我方へ仰されずや、時分のものを進ずべし」とありければ、清九郎さむは「かたがたの御志かたじけなくは存ずれども御存知の貧家ゆへ、申受くべきこと、心つかぬにはあらねども所詮不束にて各各方の御気にあふことは及びがたければ中中料理に心を尽すことはなり難く、兎角何をするにも不束なる我等のこと故にこらへたまふべし。それにつき報恩講は料理も法事の荘厳なるが故にあるべきだけは心を尽す筈なれども不束の我等なれば心に任かせ難し。又料理ばかりをすすめ申すのみにあらず。一年に一度の御うやまひであるから御開山御影向の御前なれば共に報謝の念仏を喜ばむものを」と言つたので、その席に連つて居つたものは皆清九郎さむの志に恥ぢ入つたと伝へられて居る。蓮如上人が「いづくにも寄合のときはただ酒飯茶なんどばかりにて皆皆退散せり。それは仏法の本意にはしかるべからざる次第なり」とあるに考へ合せて、清九郎さむが常に仏恩を喜びて、貧乏に安んじて居つたことがいかにも貴とく感ぜられるのである。  清九郎さむの隠居のありさまは、さながら非人小屋の如くであつた。しかし夜臥すところの床があり、晝居る座あり、一身をやどすに不足なければこれより上の望みなしと、清九郎さむは恩を喜ぶのみであつた。小寺屋禪門某御所《ごせ》の町より折折来りて訪れけるに見苦しきあばらやへ貴人の出入繁きを見て、清九郎さむも気の毒に思はるべしと、隣在の同志かたをかけめぐり、清九郎どのの家普請世話を致すによりて助力たまはるべきやといふに、清九郎どののことなれば安き事なりと喜びて、思の外に金銀が多く集つたそこで彼の禪門は清九郎さむの処に至りて其由を告げしに清九郎さむはこれを辞退して「かやうに年老ぬれば余命もあるまじく、なほ家の見苦しきにつけても結構なる淨土のことを慕ふたよりともなるべし、物事思ふ儘ならば世を厭ふ心もあるまじ、死して後は入らぬものゆへ、御辞退申すなり」と厚意を謝しながらもその家の普請を承諾しなかつた。鴨長明の「方丈記」に「ただかりの庵のみさどけくして、おそれなし、ほどせばしといへども夜臥す床あり、晝居る座あり、一身をやどすに不足なし」とある心持にも似て、清九郎さむは何事も不自由なる生活こそ却て淨土を欣求《ごんぐ》するたよりになると喜むで居つたのであらう。むかし高野山の明遍僧都の庵室の不勝手なりしを見て、或人がそれを作りかへんと望みして、僧都聞きたまひて「此土に住むには不勝手こそ世を厭ふ便ともなれ、勝手よろしく候はむには仮の庵に心留まりて悪かりなん」と申されたと、傅へられて居る。明遍僧都と清九郎さむと仏教の学問の上から言えば賢愚の差別はあるにしても、その内観の強きことは共に同じやうである。清九郎さむのために普請の世話をしやうとした小寺屋禪門は、清九郎さむの辞退に遇ひて困却したが、清九郎さむはそれを見て「さほどの志、無に致さむも本意なし、普請の代りに御無心申すべし」とて、病気の時、河内屋某より大切の薬を賜はりしがまだ謝禮がしてないから、普請の代りにこの義よろしく頼み入ると言つたので、それはいと心安きことなりとて、早速金子を持たせ遣はせたところが、河内屋の曰く「我れ薬を贈りしはかねて教化の師恩を報ずる志なり、何ぞ金を受けむや」と受け取らない。詮方なく清九郎さむへその由を話しければ清九郎さむは涙を流して「さてさて御懇切の思召、お禮の申様もなし、これ偏に仏の御恩なり、しかれば改めての御願あり、その金にて仏具を求め、宿坊因光寺へ寄附なし下さるに於ては比上の喜びなり」と望みけるゆへ、小寺屋禪門も大に喜びて、その通ほりに運むだと伝へらる。清九郎さむが何かの機縁に觸れて、何事にも仏の恩を感じたことは、この話によりても、その一端が窺はれるのである。宗教の心が強くあらはれて居つたればこそかやうに一切の恩が感ぜられたのであらう。  盜賊饗応  ある夜、盗賊が清九郎さむの家に入りて銀子を出せと罵つた。清九郎さむの曰く「前世に於て其元より借り受けたる銀子、此方より持参してすますことはなるまじきに、よくこそ取りにおいで下されし」とて、有合の銀子を殘らず盗賊の前に差出した。さうして又曰ふやうは「貧家のことなれば御用に立つべきものはなし、しかし御目にとまりしものあらば、何なりともお持ち帰り下さるべし」といひ、寒い時分といひ、まだ夜も深いことであるから、しばらく休息なさるべしとて、娘にいひつけて茶を沸かし、飯などこしらえ、酒を出して饗応しけるに、盗賊あきれた風情にて、清九郎さむの徳に感じ、取りたる銀子を戻し、厚く禮を述べて立かへつたといふ。寛延三年に清九郎さむが七十三歳にて死去したる年の前年の七月上旬、清九郎さむが原谷村の祐安といへる同行の許に仏事がありて参りたる留守に盗人が這入て、筵の下に入れ置きたる銀札七匁を盗み取つた。人人皆気の毒なりといひしが、清九郎さむは曰く「盗みするほどのものならばさぞ不自由ならむに、我等如きものの家に入りては何の取るべきものなく、さぞ殘念にありつらむ、さりながら菜種を賣りし代が幾分ありしを七匁取りてかへりしなり、折角来たりしに手を空しくさせず、僅にても取らるるものありて、うれしく存ずる」と言つた。  人人興をさまし、盗まれてうれしきとは何事ぞやと言へば、清九郎さむの答に「盗まるる私も、同じ生れつきの凡夫にて、盗みかねぬものなるに、今はお慈悲によりて盗み心も起らず、却て盗まるる身になりぬることはありがたきことなり、若しこの清九郎が人の物を盗みたりと評判あらば同行中までの顔を汚し申すべし、盗まれたるは不覚に似たれども恥辱にはならず、同行の顔も汚れず、これほどうれしきことはなし」と喜むだといふ。盗賊に遇ふて殘念に思ふは普通の人の情である。又盗賊その人を悪むこともすべての人の常である。しかるに清九郎さむは世の人の常のやうに盗まれたことを殘念に思はず、又盗賊その人に対して憎悪の心を起すことなく、却てそれを機縁として自己の内面を見ることの出来たのを喜むで居る。かやうなことは宗教の心の十分にあらはれたものでなくては出来ぬことであらう。盗賊の行為が許されぬものであることは言ふまでもない。しかし世の中には食ふに食なく、著るに服なく、住むに家なくして、困却のあまりの出来心にて他人の財物を盗むものがある。さういふ不良の行為をするものが刑罰せられることは固より当然であるが、さういふ不良の行為をするものを見て、一概にこれを排斥し去る心はまことに淋しいものであると言はねばならぬ。自分は道徳堅固のもので廢悪修善の教をよく心得て居るから決して盗人にはならぬと信じて他の盗賊となれるものを見て、これを悪くみ嘲ることはまことに恐ろしい喬慢である。「嘆異鈔」に親鸞聖人の言はれたことが記してある中に、「善き心の起るも善業の催す故なり、悪事の思はれせらるるも悪業のはからふ故なり」とある。若し謙虚の心をあらはして考えれば我我が心の善きをば善しと思ひ、悪しきをば悪しと思ふことを止めて、すべてが宿業によるものと知らねばならぬ。それ故に我我は「さるべき業縁あれば如何なる振舞をも為すべき身である」ことを思はねばならぬのである。しかるに今、盗み心も起らず、却て盗まるる方の身となつたことは全く仏のお慈悲によるものと喜びたる清九郎さむの心は全く自力のはからひを離れて他力を尊崇して居るのである。退て考へれば自分も凡夫として人の物を盗む心は十分に備えて居る。内観の上から言へば、他の人の名を盗み、時を盗み、他の人の物を欲しく思ふことは皆これ盗賊の行為に外ならぬものである。清九郎さむは盗人が我が家に這入つたのを機縁として自分の心の相をば内観して仏思を喜むだのであらう。さうしてその仏恩を喜ぶ心は盗人をあはれみ、これを気の毒に思ふて、盗人を包容せむとする、すなはち仏の慈悲の心をあらはして居る。清九郎さむ自身としては此の如く自分の心の上に仏の心のあらはれたることによりて、ますます仏恩を喜ぶ心を強くしたことであらう。  あるとき、小雨降り物静かなる夜、一人の盗賊が壁を切り破りて忍び入つた。清九郎さむは起きて彼の盗人を小声に呼びて言ふやう「昔より貧の盗はある習ひ、先づ時分もよかるべし」とて茶などたきつけ、飯をくはせ「さて見られる通ほりの貧家にて持ち合たるものはない、今古き袷一とつ、錢百文ばかりある、寒さを凌ぎ候へ」とてこれを与へ帰した。清九郎さむは跡にて思ひ出し、追かけて盗人を呼び戻し、「ここに銀が少しくある、これは御本山様へ差上る銀なれど、折角思ひかけたるしるしに、これを遣はすべし」と与へければ盗人も大に感じ、殘らず返して跡を見ずして逃げ去つた。その後、この盗人、回国順禮の身となり、清九郎さむの家に来たりて語るやう「先年貴殿の稀なる仁心より、我が悪心にこたえ、それより直ぐに発心して菩提を願ふこととなつた」と懺悔して二三日逗留して出で行つたと伝へられて居る。人人が私の心を挿みての訓戒をなすに、それに動かされることは極めて尠ないに対して、私の心を離れての言行は、その言には直接訓戒の意味が認められないでも、それに対する人が感激を受ることの著しいことは驚くべきほどである。この清九郎さむの場合にありても、盗人は清九郎さむの態度に感激してその行為を改めて居る。思ふに清九郎さむの心の上にあらはれたる仏智の不思議が盗人の心を動かしたのであらう。盗人自身は清九郎さむの仁心が我が悪心にこたえたといふ。その仁心といふは清九郎さむが私の心を離れて、悪人をも包容せむとしたる心である。この心こそ真に仏智不思議のものとすべきである、さすがの盗人もこの仁心には感激せざるを得なかつたのであらう。  無我の生活  清九郎さむの行状につきては、伝へられて居ることが、上記の他にも、なほ澤山にある。しかしながら今はこれを記載するに及ばぬ。清九郎さむが自己の心の相を内観し得たる結果、その自我の意識の内容をば、彼れが自から阿弥陀如来のお慈悲と名づけて居るところの意識にて充実せしめて、能く無我の生活をなしたことは以上の記述によりて十分にこれを認むることが出来ると思ふ。あるとき清九郎さむが晝寝して寝言に念仏を交えたことがあつた。清九郎さむはそれを不思議と感じ、念仏は自分からして唱へるのでなく、如来のお慈悲によりて唱へしめられるのであるから、寝言の中に念仏があらはれたのは全く不思議であると、大に喜むだといふ。この話を聞いても、清九郎さむの心は全然宗教的にはたらき、その自我の内容は、如来のお慈悲の意識と、自からにして融合して居つたと言つても差支がなく、その間に私の心がさしはさまれて居なかつたのを見れば、清九郎さむこそ真に妙好人と称せらるべきものであらう。  ある冬の日に、清九郎さむは諸国行脚の人が衣物破れて寒さに凍へ居りしを見て、あはれみの心を起し、何の辨へもなく、自分が著たる布子をぬぎて与へた。さうするとその人伏しおがみて「さては、あなたは人にあらず、正しく仏なるべし、お蔭によりて寒さを助かりしことの嬉しや」と大声をして悦むだ。清九郎さむは家に帰りて其事を娘に話し「わづかに浮世の寒さを助け得させしさへ、勿体なや、この清九郎を仮りにも仏じやといふて伏し拝みしぞかし、つらつらこれを思へばこの清九郎、地獄必定の罪人なれども、このたび仏祖の御慈悲にて後生は極樂世界へ往生を遂げさせたまはること、かさねがさねの御恩なり」と語りつつ、念仏を唱へて喜びしを、娘も聞いて「さて布子を施したまはずば今の喜びはあるまじきに、行脚の人こそ今日の善知識なり」と、父と共に御恩を喜むだといふ。かやうに、清九郎さむが一心一向に仏恩を悦び、渡世は娑婆の仮の間も如来の本願を忘れず、報謝の思ひの深かつたことも、始めは人人これを笑ひ譏るのみであつたが、その徳自然に遠近に聞え、諸国よりもその化益を慕ひ尋ね来る人が多くなつたので、始めこれを譏つたものも清九郎さむが平日朝暮の行実を見聞してその誤を改め、清九郎さむが志は自からにして、広く世にあらはれるに至つたのである。  寛延元年の春越中の玉譚師が、七十一歳の老人清九郎さむをさそひて、百里の道を経て越中の国へ下られたとき、その道すがら清九郎さむは一言もくたびれたりといふことを言はなかつた。玉譚師いたはりて「今日はさぞ疲れたまはむ」と言はれしに清九郎さむは「いやかつてくたびれ申さず」とはいへども、疲れたる風情にて起臥も自由ならぬを見て「くたびれずといはれても跛ひかるぞ」と玉譚師が言はれたので清九郎さむは「身はくたびれ候へども心はいささか疲れ申さず、拙者老体なればいたはしく思召すべけれども、形は七十、心はいつも十八にていさましく称名を喜ばせ下され候へば、かつてくたびれたとは存ぜず」と答えたのであつた。かくて越中に著き、彼地の同行、清九郎さむの正信の様子を見聞しておのおの慚愧せざるはなかつたといふ。帰国のときは玉譚師の外に泰厳師も同道せられたが、あまりに長き旅なれば老人のさぞ疲れむと思はれて、泰厳師、馬を傭ひて清九郎さむを乗せしめむとせらるるに清九郎さむは兎角乗らなかつたので「何とて乗らざるや」といはれしに、「御坊様のとりたまふ馬には勿体なくて乗れ申さず」とて乗らず。泰厳師の曰く「御身勿体なくてこの馬に乗るまじとならば何とて本願の船に乗りしや」。清九郎さむ答えて「こちらから乗らむと願はねども如来の方より無理に乗せたまへば是非なく乗り候なり」といふに、泰厳師の曰く「この馬も亦しかなり、御身は乗るまじとすれども我より乗せしむるなり」といはる。清九郎さむこの一言に伏して馬に乗りていふやう「本願の船に乗り、又その上に馬に乗り、さてさて難有や、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と称名しつつ、次の驛に著きぬれば、馬より降りて粉糠《こぬか》をもとめて馬子に与へて「馬にくはしめ玉へ」といひて馬の背をなでて別れけるとぞ。清九郎さむは壮年のとき馬の口附をつとめたが、嘗て馬に乗つたことがなく、年七十一にして初めて馬の背に跨つたのである。清九郎さむがかやうに謙虚の心の深かつたことは、全く自力を離れて他力の本願を信じたる無我の状態に本づくことは言ふまでもない。さうして、私は此の如き無我の生活が真実の意味に於ける宗教的生活であることを強調したいと思ふ。  宗教の極致  釈尊の言葉が「法句経」に載せてある中に「自から身を愛するものは慎みて守る所を護れ、稀望して解を欲せば正を学むでやまざれ」「自己の心を師となし、他に隨て師とせざれ、自己を師となすものは真の智人の法を獲」とあるが、その教は「汝自らの燈火を以て汝自からの道を照らせ」といふことである。元来、宗教といはるる心のはたらきは我我が世間愛欲の中にありて独り生れ、独り死する間の苦惱から解脱せむがためのものであるから、それは全く我我自分一人のためのものでなくてはならぬ。仏の慈悲にしても自分一人のためと感ずるのでなければ、それは決して自分の体驗とはならぬのである。清九郎さむが寛延三年年七十三歳にして往生した前の年の夏、「妙好人伝」の著者の仰誓師が京都にて清九郎さむに面會せられたときに「其元去年越中へ下向ありしとき、さぞさきさきにて難有同行に出會たまふらむ」と尋ねられしに、清九郎さむが答えていふやう「いづかたも御繁昌にてありがたく候が越中の衆よりも先づ私が難有候ひし」と言つた。仰誓師は自からその事を「妙好人伝」の中に記して「この一言まことに肝に銘じけり。我等はまだ他人のまめやかに信ずるを見てうれしがり喜ぶばかりにて我身の上には心つかざるなり、此の人は隣の寳をかぞえず、何につけても自身の往生を喜ぶことまことにありがたきことなり」と言つて居られる。これは前に記したやうに越中の玉譚師が寛延元年の春帰国の折に清九郎さむを誘引して越中へ下られた。それは越中は淨土真宗の門徒は多いのであるが、愚痴にかへりて仰信なる人は千中に一二に過ぎず、それで清九郎さむのやうな信者に遇はせなば無言の教によりて大に利益すべしとの心より七十一歳の老人をさそひて越中へ下られたのであつた。仰誓師はその事を尋ねて定めて多くの難有人人に遇つたであらうと言はれたに対して清九郎さむが難有いのは私であると率直に自分の心を言ひあらはしたことは真に宗教の心の強く且つ正しくあらはれて居たことを証明するものである。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案じ見れば親鸞一人がためなりけり」と言はれた親鸞聖人の心境とまさに同一のところにあつたものとすべきであらう。仏の慈悲は私一人のためにあらはれるものである。すべての教は私一人のために下されたものである。従つて善知識の教化も私一人のためであると感じてこそ始めてその人の宗教は真実の意味に於て、その精神生活を指導するものとなるのである。  ある年、清九郎さむが本山に参詣したとき、折節御門建立の寄進所に立ち寄つて、様子を尋ねて隨喜し、その時著て居つた新しき縞の布子をぬぎて寄進し、寒天に古き合せ羽織一枚を著たるまま十八里余の道を我家に帰つた。途中在所の人に遇ひて盗賊に布子を取られたまひしにあらずやと言はれしに対して、本山の御門の奉加、寄進したき願望はあつたが、貧乏なれば心に任せず、布子を寄進した。帰る道すがら寒風はげしく、身に染むにつけても、思ひ出づるは御開山聖人の御事なり、聖人が雪の中の御苦勞は皆私がためなりと思へば、尊ふとさのあまり、うれし涙にかきくれたと、ただ喜ぶのみであつたと伝へられて居る。  清九郎さむの住居は山の頂にて寒気はげしく雪もおびただしく積りけるが、例年霜月二十七日の夜は必ず衣類を脱ぎ、裸になりて半時一時づつ雪の中に或は臥し、或は座し、寒気を身に受け、高声に念仏するのが例であつた。あまりに荒き行なればとて、人人これをとどめけれども、飽まで食ひ暖かに著ては祖師の在世弘法の艱難をおしはかることが出来ぬ。萬分の一も我身のつらさに引きくらべ広大の恵を知らねばならぬとて、一年も怠らず、雪の中にて称名念仏して報恩に擬したのであつた。祖師聖人の辛勞も自分一人のためであつたと思ふところにその恩を感ずることが骨髄に徹したのであらう。まことに稀有最勝の信者として驚嘆せざるを得ぬことである。  清九郎さむがあるとき伊賀の同行の許を訪ねたるときに、珍客を得たりとて、先方にては殊の外に喜ばれ、かねて懇意の友を招き膳部等いろいろに美を尽して饗応した。しかるに清九郎さむは膳に向ひながら涙にむせびて箸を取らなかつた。人人あやしみ、「何が故に食したまはずや」と問ふに清九郎さむは口を開きて「清九郎風情の樵夫に、かくの如くに珍味をととのへ御饗応に預かるにつけて思ひ出しぬるは祖師聖人様の御事なり、御開山が北国関東の御苦労の間、あるときは飢にのぞみ、泰稗などの粗食をきこしめして憂き艱難をなされしも私一人のためなりと存ずれば珍味に向ひ食することのあまりの勿体なさに食することを忘れたり」といふ。これを聞いて同座の人人も痛く感激して、これを縁として他力本願の宗旨に帰依したものが多かつたと伝へられて居る。何事につけても自分といふものが内観せられて、その自分の上に加はるるところの大なる力がありがたく感ぜられた清九郎さむの宗教はまことにその極致に達したものであつた。  ある人、罪人の梟首《きようしゆう》を見て、清九郎さむに向ひ「かかる罪悪のものも淨土に往生することが出来るであらうか」と聞いたときに、清九郎さむはそれに答えて「出来るとも、出来るとも、清九郎のやうな悪鬼でも往生が出来るのであるから」と言つたと伝へられて居る。まことに清九郎さむのこの一言こそ悪人正機の宗教の心からあらはれたものであるとせねばならぬ。罪悪深重のものが助かると聞いて、助かりたいがために罪悪深重と考へやうとするのでは真に仏の慈悲を感ずることは出来ぬのである。清九郎さむが罪人の梟首に対して直ちに自身をば尚ほその下位に置きて悪鬼のやうなといふところに機の謙下が十分にあらはれて居る。かくてこそ、清九郎さむの宗教の心が精練の極致に達して居つたことが思はれるのである。  往生  清九郎さむはかやうに、一向一心に仏恩を喜び、かりの間も本願を忘れず、報恩の志が深かつたので、その徳自然に遠近に聞へ、その朝幕の行を見聞して他力恵修の信者となつたものも多かつた。その身は一文不通のものであつたが宿縁に催されて他力の信心を決定し、自然に自信教人信の義にかなひ、心ある人は尋ね来りて信を増長し、又邪見放逸の人も清九郎さむに接しては邪見も放逸も去りて信者となるものが多かつたと伝へられて居る。しかるに、清九郎さむは寛延二年の冬より中風をやみ歩行かなはず、起臥自由ならず、あくる年の夏、髪をおろして病体ながら入道し法名を淨元と称し、称名怠ることがなかつた。病気いよいよ重くなりても、苦しさ息のうちにも念仏の声やむことがなかつた。清九郎さむの平日の行実を見たる人人はその終にはいかばかりの靈端もあるべしと、人人が言ひはやせるを病床に聞きて、清九郎さむは「我が愚癡《ぐち》の身が、信心決定して念仏を称へ喜びの生活をすることこそ、此上の不思議はあるべからず」と、仮にも余事を語らず、ただ本願他力のありがたさを人にも告げ、自分にも喜び、終に寛延三年八月四日に往生の素懐をとげた。時にその齢七十三歳であつた。清九郎さむが往生して後、この末の世に同行悦びの種にもやと清九郎さむが住居したる屋敷の近き山の頂に石塔を建立し、有志のものが集りて毎年八月四日に法事を執行してその遺徳を偲ぶことを忘れなかつたといふことである。まことに清九郎さむこそ妙好人の中にても殊にその人がすぐれて稀有最勝と称すべきであらう。清九郎さむは生前には文盲無智の一土民であつた。その生活も物質的には窮乏と言はねばならぬ状態であつた。しかるに年三十余にして宿縁に催されて他力の信心を獲得し、七十三歳この世を終るまで一向恵修の念仏の間に生活したる清九郎さむの一生はその文盲無智をば何の障ともしなかつた。その貧困も精神上の富裕の前には何の苦をも与ふることが無かつたのである。鳴呼稀有妙好の念仏者清九郎さむがめでたく住生の素懐を遂けてからここに二百年近くになる。我我が今尚ほ清九郎さむの偉名を耳にして何とも言ふことの出来ぬ親しみを感ずるのは、清九郎さむが聖者の列に入るものでなく、我我と同じやうに破戒無慚の身を有しながら深く仏の法を信じたといふことに由るのである。幸にして我我は清九郎さむの傅記を詳かにして、清九郎さむの身にあらはれたる仏の相を見ることが出来るのである。又清九郎さむの言行の上にあらはれたる仏の心を直ちに知ることが出来る。私は釈尊が涅槃に入らむとするときに方りて弟子達に向つて「たとひ身体は減するとも如来の法身は常に存在して滅するものでない」と言はれたことを想ひ、清九郎さむにあらはれたる仏の法が永く今の世にまでも傅はりて居ることをいとも貴とく、且つありがたく覚ゆるのである。  [附録]  清九郎さむの墓     秋山不二  今茲一月富士川先生の御供をして大阪に赴いたとき「今度は大和の清九郎へ行かなければ……」、先生から突然かういふお言葉を承つてから数日を経ずして、その計劃は実現せられた。昭和十二年一月十四日がすなはちこの銘記すべき日であつた。一昨年栂尾の上人の趾をお訪ねしたときは、齋戒沐浴とまでは行かなかつたが、何かかう襟を正してお訪ねしたのであつた。それにひきかえ、このたびの清九郎さむの方はふだん著のままでといつたやうな安らかな気分でお供したのであつた。  午前九時半大阪阿部野橋を発した。この日大寒の最中といふのに、ガラス越しに見る窓外の景色は早春の陽ざしであつた。大軌鐵道の吉野線吉野口の一とつ手前の葛といふ驛で車を降りる。やや遠くは金剛葛城の連山、近くは名も知らぬ数多の丘陵が起伏して、その間に白壁が点在して居る大和特有の景色は少なからず私共の眼を喜ばせたのであつた。同行赤松慶治さんは昨年一味會の善男善女の引率役として清九郎さむを訪問せられたことがあるといふので、おのづからこの日の先導であつた。赤松さんのお話によるとすでにこの葛驛の辺りが清九郎さむの居住の地大和国高市郡丹生谷である。歩むこと三丁ばかりで清九郎さむの宿坊因光寺に到著した。ささやかな僧坊である。案内を乞ふと、院主の夫人が出迎えられて、書院と覚しき四畳半に招じ入れられた。夫人は申された。「住職も二、三日前からお待ち申して居りましたが学校の方に出て居りますので、こちらの檀家総代で清九郎さむのことを研究して居られる方がございますから、その方をお呼び致して参りませう」と。清九郎さむ!何とも言へない親しみ深い語調で、かう呼ばれた。それは清九郎さむが今もなほその辺りに居られるやうな情味ゆたかな呼びかけであつた。それ以後私も亦清九郎さむと呼ばせて貰ふことにしたのである。――間もなく清九郎さむの研究家喜多村得身氏が見えた。なるほどこの方なら清九郎さむの研究に熱中されさうな誠がその態度に備はつた方である。この方もやはり「清九郎さむ」と申された、宛かも敬愛する友人によびかけるやうな調子で。富士川先生のいろいろのおたづねに関して喜多村氏は一口懇ろに答えられる。清九郎さむといへば今もなほこの辺りで小童と雖もよく知つて居るといふ喜多村氏のお話を傍らで拝聴しながら、先刻から私の耳を快く驚かせた「清九郎さむ」も宜なる哉と思つたのであつた。何にしても喜多村氏の清九郎さむ研究はなかなか熱心なものらしい。このとき、同氏の編にかかる「孝信の模範大和清九郎」なる一篇を頂戴した。  懇談半時ばかりにして、この日の第一目的清九郎さむのお墓詣を決行することになつた。時に午前十一時半、やうやく空腹を覚え始める頃であつた。「あちらは山の中で何もございませんから」といふ喜多村氏の助言にしたがつて赤松さんの厚意にて持参のお辨当に腹ごしらえをした。お墓詣での先導の役は赤松さんから喜多村氏にゆづられたのであつた。先生と喜多村氏、赤松さん、それから坂井さんと私といふやうに勢揃ひをして困光寺を出発した。喜多村は清九郎さむの墓について「因光寺より十七八丁東南方に山裾の小徑をたどり行けば云々」と同氏編述の「大和清九郎」の中に書いて居られるが、なるほど山裾の小徑である。ところどころゆるやかな勾配でつづられた山道を、あるひは登り、或は下りながら、先頭の富士川先生と喜多村氏の間には、清九郎さむについての物語が靜かに続けられてゐた御様子であつた。処処に近くの山から切り出されたままに柴が道傍に積まれてある。富士川先生は早速お眼にとめられて「清九郎の柴がある」と後方の私達を振り返つて笑ひながら話しかけられた。「清九郎のかついだのはこんなのでせうか」と今度は喜多村氏に訊かれる。「清九郎さむのはこれでなくて薪《まき》の方でございます」と答えられた。(図中の人物左は富士川先生右は喜多村氏氏)   道の辺に柴積みてあり      そのかみの君の御姿まざまざと思ふ  平坦な道を辿ること十町ばかりで本格的な坂に至る。喜多村氏はここで説明せられた。「この坂は念仏坂と申しまして、清九郎さむがこの坂を登りながらいつも念仏を申されたのださうでございます」と。些か骨の折れる坂であつた。それからなほ数町の山坂を越えた小高い峯の頂き、雜木生ひ繁る中に釈淨元の字も鮮やかに清九郎さむの靈は鎮まりましたのであつた。「清九郎さむ参りました」かう声に出して呼びかけたいやうな心持で、私は清九郎さむのお墓の前に額いたのであつた。これが不思議な御縁でなくて何であらうか。この時私は心の中に、お釈迦様の最後のお言葉、「法身はどこまでも生きてお前達と共にあるであらう」の語を思ひ出したのであつた。  喜多村氏はこのお墓のところから下方を指さしながら、「清九郎さむの家は多分この辺にあつたのでせうが、今はそのあともありませぬ」と申された。  名残はいつまでも尽きぬのであつたが、やがて喜多村氏の案内で道を鉾立の光蓮寺にと取つたのであつた。約二丁で光蓮寺に至る。ここも小高い丘の頂きであつた。これはまたあまりにもさびれ果てた坊である。招じられるままに本堂に上る。間もなく留守居の方が応接に出て来られた。喜多村氏が富士川先生の清九郎さむ訪問を紹介せられると、そのお方は本堂の傍らの戸棚の中から光蓮寺の寳物であるらしいものを三、四点無雑作にとり出された。それは清九郎さむの肖像二幅、蒔献上の図一幅、元治元年の筆にかかる清九郎さむの御繪傅等であつた。この御繪伝は同じ真宗の流れを汲む御同行の一人が、清九郎さむの法味を慕はれてものされたといふことで、芸術的価値は論外であるが、清九郎さむの逸話逸事をそのまま繪にしたものである。「書物に記されたもの以外に何か清九郎さむについての言ひ伝へがありませうか」との富士川先生の御たづねに対してその方はあんまりよく知らぬ旨を前置きされて御繪伝について簡単な説明をなされたのであつた。私もつつしんで傍聴した。その御繪伝の中の燈明松のおはなしは傅記の中には見えないものであつた。それは清九郎さむのお墓のある峯から向ふに見えるところにあつて、御本山の火事のときに清九郎さむは山の下から水を汲んで、この松の上から水をかけたと伝へられて居るといふ。如何にも信心の厚かつた清九郎さむにありさうな話である。私共の常識ではちよつと想像もむづかしい世界ではあるが、このお話を聞いてゐるうちにいつか私は清九郎さむの純情に打たれて居たのであつた。  この光蓮寺の境内に清九郎さむ瑞杖の竹といふのがある。この竹については「崑崙実録」に次のやうな記載がある。  「ある年稻の番に小屋をかけ鹿をおどすに隙なく声をあぐれば、おのづから念仏げたいすれば、何とぞ念仏の障にならぬやうに鹿をおどすべしと思ひ、?擔をたたきけるが、其うごかぬ為にとて竹を二ふしこめてみじかく切岩の間に打ちこんでそれに?擔をくくりつけてよなよな念仏と共にうちたたきて鹿を追ひける。然るに(中略)ある且山田を見分に行き何心なく鹿小屋を見るに、?擔をくくりつけしきり竹上の節よりは青々と葉を生じ下の節よりは根をおろして生へ出ぬ、清九郎もあやしく思ひあたり近き光蓮寺へ行き右のむねを語りけるに承引せざる気色に見えければ、やがて山田へ伴ひ行き其体を見せければ住持も大に驚きさてさてあやまり入し次第なり、我不智を以て有まじき事と承引せざりしは自力の斗ひ是をも疑ふべくんば仏力をも疑ふべしと後悔の涙にむせび、末代のかたみに殘すべしと所望して岩をうがちて竹をほりおこし光蓮寺の境内にうつし植今に栄えぬ」  清九郎さむにあらはれたる法徳を讃嘆のあまりにかやうな伝説が生じたのであらう。その法の不思議が誇張せられるところに清九郎さむの半生が偲ばれるのである。  やがて一行は光蓮寺を辞して帰路につく。この辺りは山の起伏もはげしくどちらを向いても平らかな道は見付からない。「清九郎はえらい、我々は真似が出来ない、京都まで十八里といつてもこんな道ばかりなんですから。それを毎月一回薪をかついで三日間で往復したといふのですからね」と富士川先生は強い調子で申されるのであつた。また「水をバケツに一ぱい下から汲んで上るのは容易なことではない」とも申された。信心のない我々から見ればかやうな難澁の仕事も清九郎さむには喜びのあまりのことであつたことを思へば背に汗するばかりであつた。斯くて午後の陽を浴びながら、山沿ひの小逕を談笑のうちに心樂しく歩んだのであつた。再び因光寺に帰著したときはもはや傾きかけた陽ざしが僧坊の白壁につよく照りつけて居た。この因光寺の本堂の前にも一群の瑞竹がある。これについても「崑崙実録」に  「又ある年苗代の時分鳥おどしに縄張をするに田のきはに竹を打こみ置たりしに此切符よりも青青と芽を出しけり、是は丹生谷の宿坊より開附て望み因光寺の庭にうつし榮へけり」  とある。本堂に上ると、清九郎さむに関するこの坊の実物が陳列されてあつた。清九郎さむが毎日拝禮してゐたといふ阿弥陀様の御影、清九郎さむが寄進したといふ仏具、清九郎さむが柴を荷つた?擔《おうこ》、薪献上の図等々。恭々しく拝見した。それから院主の夫人の心尽しのお茶を頂戴しながら足の疲れをいこはせていただいたのであつた。  富士川先生は喜多村氏の乞はるるままに即座に筆を執て展墓の感慨の辞を揮毫せられた。  誠者自然之道也、人行斯道為孝、大集経日、若無仏者善事父母、事父母則是事仏也、大和妙好人清九郎翁、以至孝聞、孝心則信仏心也、宜矣、翁徳化延及天下、芳名永伝、千載不磨  昭和十二年一月中浣  心なしかこの日の富士川先生の御顔色は殊の他和やかにお見受けしたのであつた。  やがて、喜多村氏や院主の夫人の御厚意を深く謝しながら因光寺を辞したのは三時半頃であつた。 (昭和十二年三月九日記之) @  新選妙好人伝第六編 蓮如上人   富士川游撰  目次  蓮如上人 弥陀教 その生立 幼児の生活 修学時代 東国遊化 継職 大谷破壊 吉崎建立 山科御坊 隠退 終焉 上人の行質 一念帰命 摂取不拾 南無阿弥陀仏 平生業成 内観 和歌 日常生活 綜括  凡例  一。蓮如上人の生涯及び殊に行実につきては古くから行はれたる「蓮如上人御一代聞書」「蓮如上人遺徳記」「実悟記」「安善聞書」「蓮如上人一期記」などを始として幾多の記録に、かなり詳細に叙述せられて居る。それに加へて近時佐々木芳雄氏の「蓮如上人傅の研究」、稲葉昌丸氏の「連如上人の行実」「蓮如上人遺文」、禿氏祐祥氏の「蓮如」「蓮如上人法語集」「蓮如上人法語選釈」、関哲雄氏の「蓮如上人の行化と教義」など澤山の著述が広く世に行はれて居る。私は此等多数の著述に拠りて蓮如上人に現はれたる宗教の心の著明なるものを挙げ、又それが日常生活の上にいかやうに影響したかといふことを略述してこの小篇を成したのである。  二。この書の原稿は私が自から筆録したのであるが、その整理及び校正は一に秋山不二女史の尽力を煩はしたのである。又この書を公にすることを得たのは厚徳書院長宗氏の厚意に依る。特に記して謹謝の意を表する。  昭和十二年六月中浣  富士川游記  蓮如上人   富士川游述  弥陀教  鎌倉時代は我邦の宗教界に於て特筆大書すべき時代であつた。平安朝の初期に方りて傅教大師が世に出でられて、印度及び支那から伝へられた仏教をば始めて日本的のものとせられた功績はまことに赫赫たるものであつたが、その仏教は観心と持戒と禅定とを主とし、形式を貴とび、專ら特殊なる階級の間にのみ行はれ、実際には法會と祈祷とをつとめたのであつた。それが鎌倉時代に至りて国民的自覚と共に仏教も亦、革新せられ、一方にありては釈尊の昔に帰るべき正法恢復《かいふく》の宗教があらはれ、一方にありては末世の時代に相応すべき新仏教が勃興したのである。法然上人の淨土教はその後者に属するもので、修行の力によりて成仏するの難きを避けて、限なき智慧と慈悲とを具へたまふ阿弥陀仏を深く信じ、これによりてあらゆる悩みから救はれむと念願すべしと教えられたのである。外に現在の快樂を追ひつつ、内にその眼を開くものの極めて尠なかつた平安朝の人人も保元平治の戦乱以来国民生活の根本が動揺して、すべての人人が極度の不安を感じたときに、かやうな穢土を厭ひ西方の淨土として示されたる円満の境地に生まれむことを願ふべしと勸められたのであるから、法然上人の淨土教が速に民衆の間に行はるるに至つたのはむしろ時代の趨勢であつた。  しかしながら法然上人の淨土教は安心と起行とを強く唱道せられたために、これを奉ずるものの中には動もすれば形式を主とする傾向があつた。それは阿弥陀仏はすべてのものを救はむとして本願を建てられたのであるから、それに信順して念仏を称ふるものは必ずたすけられると信じて、ただ一心に專ら阿弥陀仏の名號を称えて行住坐臥、何れの時もそれを怠らぬやうに勵むべしと教へられたために、念仏が往生のための業事であるかのやうに考へらるるに至つた。しかるに法然上人に次ぎて興りたる親鸞聖人はこれに対して、阿弥陀仏の本願を信じて淨土に往生することを念願して念仏申さむと思ひ立つ心が重要であるとせられた。すなはち一心に深く阿弥陀仏の本願を信ずることがすべての苦惱から救はれる道であると唱道せられた。客観的にこれを言へば、同じく阿弥陀仏の本願を説くのでも一方は念仏を主とし、一方は信心を要とするのであるからその説明に於て両者互に相違するところがある。それ故に法然上人の教を浄土教と称するに対して、親鸞聖人の教は、これを特別の意味にて弥陀教と名づくべきである。さうしてこの教こそ鎌倉時代に興りたる新仏教として、多数の民衆を対象とし、実際を重んじ、一に澤尊の精神を体得することをつとめたものである。まことに親鸞聖人の教こそ当時行はれたる他の宗派に比して一頭地を抽でたる精神的宗教であつた。  この親鸞聖人の精神はその入滅の後、諸国に於ける門弟によりて顕揚につとめられたにも拘らず、その集團は個個に行動して動もすればその統一を欠ぐやうな傾向があつた。しかるに親鸞聖人の息女の覚信尼が聖人の墳墓大谷の地に廟堂を設けられたその留守職に親鸞聖人の曾孫に当る覚如上人が当られたとき、右のやうな形勢を看破し、諸国に散在せる門弟の思想を統一して、宗派の発展を期図するやうにつとめられた。さうして、親鸞聖人の遺骨を安置したる大谷の影堂にその中心の勢力を収むるやうにして、これを寺院となし、本願寺を建てて、以て親鸞聖人の教を恢弘せられたのであつた。しかるに、覚如上人入滅の後はまたその業を継ぐものなく、時あたかも戦国多難の時に際して、本願寺は漸次に衰微を致し、その宗派の勢力は殆ど地に堕つるの有様であつた。この時に方りて世に出でて、まさに倒れむとせる本願寺の復興に尽精し、阿弥陀仏の本願を説くがためには寝食をも忘れて、悪戦苦闘を続け、その熱烈なる信念と、平民的の態度と、又平易にして且つ深切なる教導とによりて、よく親鸞聖人の精神を顕揚したのは、実に本願寺第八代の法主たる蓮如上人であつた。若し此人が無かつたならば親鸞聖人の教は今日までもその勢力を持続することは出来なかつたであらうとまで言はれて居るほどに蓮如上人の功績は偉大なるものである。さうして、それはただ独り本願寺の内に於て異彩を放つたのみでなく、我邦の仏教の宗派の中につきて、その宗教的活動の最も目ざましきことがこの蓮如上人に比すべきものは稀有であると言つても差支ない。まことに蓮如上人は室町時代に於ける宗教家の随一に位するものと言はねばならぬ。  その生立  蓮如上人は応永二十二年二月二十五日に山城の東山粟田口青蓮院の南大谷に生れられた。父は本願寺第七世存如上人で、その時年齢二十歳であつた。生母は氏も名も知れず、父の存如上人に宮仕をして居つた無名の婦人であつたと言はれて居る。蓮如上人が六歳になられたときに、その母は何処かへ姿を消して仕舞はれた。これには何か深い事情があつたことと思はれる。蓮如上人の母がその姿を消された年は存如上人が海老名氏の出である如円尼と結婚せられたときであることから推して考へればその辺の事情も略ぼ推察の出来ることである。凡庸の婦人ではなかつたと見へて、別るるときに臨みて六歳の幼児に告げて「願はくは児の御一代に聖人の御一流を再興したまへ」と諄諄と言ひ含めたと伝へられて居る。頑是ない幼児の惱裡にもその幼時に生き別れをした母の姿は、深く刻み込まれたと見え、後に至りて蓮如上人は追慕のあまりに、人を遣はして生母の所生の地を探らしめられたことがある。又母が別れるときに当時衰微の極に達したる親鸞聖人一流の宗派を再興したまへと言ひ遺したる言葉は、親と子とが生き別れをしたときの慈訓として、幼児の胸底に深く銘記せられたこととて、蓮如上人は長じて後、死に至るまでその一宗の再興のために奮闘せられたのであつた。かやうにして、生母と生き別せられた後、蓮如上人は在如上人の内室如円尼に養育せられたのであるが、上人九歳の時に妹の如祐尼が生まれたのを始めとして都合四人の妹と二人の弟とがあつた。「御継母の儀によりて殊の外に御迷惑の御事にて侍りし」と蓮淳の「蓮如上人御若年の砌の事」に記してあるところを見ると、上人と継母との間はあまり円満には行かなかつたやうである。  幼時の生活  蓮如上人の幼少の頃は、本願寺は巧如上人在職の時代で、本願寺に参詣するものは至て少なく、志納金の収入も微微たるものにて、従つて経済上の窮迫も甚しかつた。父の存如上人すら僅に五人の小者をつかはれたほどで、蓮如上人は一人も召し使はるべきやうなく、父の許につかはれて居つた竹若といふものを一年五十疋の金を与へる約束にて時時使はれたが、それも興へかねて漸く十疋二十疋づつ拂はれたといふことである。著物もはかばかしく調へることが出来ず、布子か紙子を著られた。白小袖が無いので粉含めをその代りとせられた。後には白小袖は一とつあつたが、しけ絹で紙で裏をこしらへ、袖口だけに絹をあててあるといふ始末であつた。食物も十分でなく、一人分の汁に水を入れてその量を増して三人が食するといふほどであつた。甚しきは二三日食物をとられなかつたこともあつたといふ。世に所謂部屋住の窮乏の生活の一端がこれ等の事にてよく窺はれるのである。固より収入が少なく家族が多いためもあつたが、その母がなさぬ仲とて同情の心が薄かつたので、幾分か虐げられた傾向があつたのであらう。夜の燈に用ふべき油もないので、黒木を少しづつ燃して聖教などを読まれた。或は月の光にて読書せらるるやうなこともあつたといふことである。  修学時代  伝ふるところに拠れば、蓮如上人は年十五の頃に幼時に生き別れをした母の言葉が強く想ひ起され、是非とも親鸞聖人の一流を盛にしなければならぬと発憤し、十七歳の頃に、粟田口青蓮院にて剃髪して兼壽と称せられた。父の存如上人も宗義には精しかつたやうであるから、家庭にて親鸞聖人の一流の宗旨を学ばれたことは確かである。それから奈良に遊びて興福寺大乗院の経覚僧正に就て学ばれた。この経覚僧正の母は本願寺で生れた方で、蓮如上人とは親族の間であり、又父の存如上人と経覚僧正とは懇親の間柄であつた。しかもその年齢が蓮如上人よりも二十歳ほど上であつた。他の宗派に属する人ながら蓮如上人はこの人に就て多大の益を得られたことであらう。それから当時大谷に近く今大路にあり、存覚上人を出した常樂臺に出入し、存覚上人の跡を慕ふて宗学を修められたと伝へられて居る。又叡山の無動寺の覚成阿闍梨に就て天台の教学を受けられたとも言はれて居るが、いかがであらうか。何れにしても蓮如上人は窮乏の生活の間にありて、外遊して広く師を求めて学ぶことは困難の状態であつた。さういふことも其因をなして蓮如上人は家庭にありて父存如上人の指南を受けながら、刻苦精勸、独修を続けられたのである。さうして、外典や天台の学問などにつきては左ほどに深く研究せず、「教行信証」や「六要鈔」や、殊に「安心決定鈔」を精読せられたのであるが、その潁敏の天資は甚だ速かによく親鸞聖人の宗教の精神を体認せられたのであつた。  東国遊化  寳徳元年、蓮如上人年三十五歳のとき、まだ本願寺住持の職を継がれなかつた時代に東国へ下向せられた。これは親鸞聖人の舊跡を訪ひ又門徒に対する教導を志された外に、自身の修養のためもあつたことと信ぜられるのである。応仁二年、年五十四歳の時に第二回の東国下向が行はれた。この時には北国を経由して遠く奥州まで行かれたやうである。奥州にて貧しい同行の許を訪ねて裨の粥を共に食しながら法門に就て談合せられたのは此時であつたと伝へられて居る。文明七年、六十一歳のときに第三回の東国下向を企てられたが、この時は予定の目的が達せられず、半途にして旅行を中止し、途中から京都にかへられたのである。親鸞聖人の滅後に於て、その教を奉ぜる各地の門弟はおのおの教團をその地方に形成して、京都の本廟に対しては漸次離反の傾向をあらはして居つた。それに当時関東には日蓮宗、禅宗、淨土宗などが盛に行はれたのに反して、親鸞聖人の門流はやや退嬰的の気分に向つて居つた。蓮如上人はこれ等の状勢を見て、親鸞聖人の門流は聖人の遺跡たる関東地方よりも別の地方に宣揚せらるべきことを悟られたのであらう。蓮如上人が存如上人の沒後第一に近江に教縁を張り、金森の道西を始めとして多数の門下がこの地方にあらはれたことや、それから後に專ら近畿地方にその教網を張られたことなどを考ふれば、この推定も強ちに失当でないと思はれる。  継職  長禄元年父の存如上人が遷化せられたとき、蓮如上人は年齢四十三歳であつた。本願寺では大抵の場合、長子が継職するのが例であつたから、この時も長子の蓮如上人が継職するのが当然であつたが、存如上人の内室にて蓮如上人には継母に当る如円尼が継子の蓮如上人を排斥して実子で蓮如上人には義弟に当る円光院応玄を住持の後継としやうとした。当時多数の人人は如円尼に同意したので事態甚だ容易でなかつたが、存如上人の弟の瑞宣寺宣祐が断乎としてその不絛理を唱へて如円尼を説伏したので漸くにして蓮如上人の継職が実現したのである。継職以前にも蓮如上人は父の存如上人の指図によりて寺務を補助せられたこともあつたが、継職の後は一切の責任を双肩に擔ふて、祖師の遺風を顕揚し本願寺の復興を念願として精進を続けられたのである。蓮如上人が継職せられてから四年目の後、寛正元年に金森道西の請によりて「正信偈大意」を草してこれを授与せられたが、「正信偈」とは「正信念仏偈」の略で、親鸞聖人の著の「教行信証」行巻にあるのを抄出せられたのである。蓮如上人が継職せられた後、間もなく「正信偈」を「和讃」と共に仏前に読むことを創められたのである。それから継職後五年目の寛正二年三月に始めて「御文」一通を製作して金森道西に読み聞かせられた。それは筆始の「御文」として伝へて居るもので、その全文は次の通りである。  「当流上人の御勸化の信心の一途は罪の軽重をいはず、また妄念妄執のこころのやまぬなんどいふ機のあつかひをさしをきて、ただ在家止住の中からは、一向にもろもろの雜行雜修のわろき執心を捨てて、弥陀如来の悲願に帰し一心に疑なくたのむこころの一念の起るとき、すみやかに弥陀如来光明をはなちてその人を摂取したまふなり、これすなはち仏のかたよりたすけましますところなり、またこれ信心を如来より与へたまふといふもこのこころなり、さればこの上にはたとひ名號をとなふるとも仏たすけたまへと思ふべからず、ただ弥陀をたのむこころの一念の信心によりて、やすやす御たすけあることのかたじけなさのあまり、弥陀如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころふべきなり、これまことの專修專念の行者なり、これまた当流にたつるところの一念発起平生業成とまふすもこのこころなり、あなかしこあなかしこ 寛正二年三月 日」  かやうに蓮如上人は、親鸞聖人の本願の教を説くに、極めて平易の言葉を以てし、何人にも理解し易からしめ、さうして常に形式を離れ、舊習に捉はれず、自身の信ずるところに向つて直進し、殊に親しく門徒に接して深切にこれを教導することをつとめられたので、門徒の数は次第に増加し、従つて本願寺の勢は漸次に擡頭するに至つたのである。当時親鸞聖人の宗旨の一派の中にても仏光寺派は本願寺よりもその勢力が強大であり、木部の錦織寺、高田の專修寺の門徒も少なからずあつたが、本願寺が寺門拡張に努力すれば、それと対立の状態にあつた分派が恐惶を来たすことは当然であるから、多少その辺とも摩擦したやうであるが、しかしながら、それよりも劇烈の勢を以て蓮如上人の本願寺再興に対して正面よりこれを攻撃し遂に暴力を振て蓮如上人に迫つたのは実に延暦寺の山法師であつた。  大谷破壞  專修念仏に対する叡山の山法師の迫害は法然上人の晩年からその示寂後三十年以上も継続したのであるが、親鸞聖人の京都にての活動は外面的に花花敷なかつたために、山法師の注意には上らなかつたやうであつた。しかるに、元享元年の夏、本願寺にてその影堂に專修寺の額を掲げたところ、延暦寺から一向專修はさきに停止せられて居るのであるから專修の字を用ひてはならぬ、早速に破却すべしと抗議して来た。その時すぐに專修寺の額を徹し陳謝して漸く事が落著した。それから後も度度さういふやうなことがあつたので、覚如上人以来恩顧を受けて居つた青蓮院門跡の斡旋を煩はし、神供として若干の財物を納めることにして漸く難関を切り抜けた。それは專修念仏を弘める本願寺の如きは当然破却すべきであるが、哀願により延暦寺の末寺分として寛大なる処置を取るからといふので、その本願寺より納める神供の財物は末寺錢と呼ばれたのである。さうして、本願寺の勢力が漸次増加するのを見てこの末寺錢が必定増加を命ぜられたに相違ない、しかるに、その要求は一一応諾せられなかつたのであらう。しかしながら、かやうな末寺錢のことは表向に彼此といふべきことではないから、本願寺が專修念仏を弘めることは不都合であるとして、寛正六年正月九日、山法師数百人大群をなして大谷の本願寺を目指して押し寄せ来り、堂舎を破壊すると共に散乱した財物を掠奪したのである。この時、山法師は大谷の本願寺を破壊しただけでは滿足することが出来ず、更に追及して赤野井附近で騒動を続けたのである。蓮如上人は内室と数多の子供を引き連れて危くもその身の難を逃れて、洛内の二三の所に流寓せられた。宗徒の一部は金ヶ森に閉ぢ籠つて応戦しやうとしたが、蓮如上人の意旨を奉じて武装を解き、山法師と媾和し、三千貫文を延暦寺に贈つて漸く事件が落著した。寛正の法難と称せらるるものがこれである。  吉崎建立  大谷が破壊せられて間もなく、応仁の乱が起つたので、蓮如上人は祖師の像を奉じて近江の堅田に避難し、応仁二年大津に移り、三井寺の厚意により南別所近松に三年ばかり滞留せられたが、文明三年にこの近松を去り北陸に向ひて出発せられた。途中湖西浦の道場に入られたとき、門徒のものはこの地に一宇の建立が出来るならば喜むでその敷地を寄進しやうと申し出たが、上人は扇をあげて「あれが近いほどに」と叡山を指されたといふことである。これによりても、蓮如上人が北陸へと旅立たれたことが山門の厭迫を免かれて自由なる教化の天地を見出すためであつたことが窺はれるのである。かくて蓮如上人は越前・加賀の間に行化せられたが、同年の七月に越前の守護朝倉孝景の保護によりて越前坂井郡細呂宜の郷吉崎の地に一宇の坊舎を建立し、ここを根拠として教團の興隆を図られたのである。虎狼のすみなれしともいふべき山の中をひらきて一軒の寺が建てられたのであつたが、加賀・越中・能登などから僧俗男女が参詣して群集する様は仏法の衰えた末世に於ける不思議であると喧傅せられたほどであつた。かやうにして、吉崎の山上は僅か一二年の間にその面目を一新し、加賀・越中・越前三箇国の門徒が多屋と號して本坊を中心として軒をならべ、それが百戸以上にも達したのである。さうして、多屋に附属した商家なども出来てここに一寸した都市が出来上つたのである。  かやうにして、蓮如上人の教化が段々と盛になるに従ひ、他門他派の憎みを受けねばならなかつたのは是非もないことである。たまたま門弟の下間蓮崇が加賀の守護富樫政親と不和を生じたる結果、富樫が專修寺門徒と結びて、まさに吉崎を襲撃しやうとしたので、蓮如上人は巳むなく吉崎退去を決し、文明七年八月、齢六十一歳にして便船を得て海路はるかに若狭の小濱にたどりつき、それより丹波を経て摂津に出で、河内に至りてその出口に足をとどめ此地を中心として近畿地方の門徒を化導せられたのである。  山科御坊  文明十年蓮如上人は出口から居を山科に移された。それはこの地に本願寺を建立するためであつた。工事は翌十一年三月から始まつたが、大殿堂が竣工したのは六年の後であつた。元来、本願寺は本と宗祖親鸞聖人の廟所として作られた影堂であつたが、それが次第に寺院の形式を具ふるやうになつたのであるから、最も重要なるものは影堂であつた。文明十二年の八月になりて影堂の造作が出来上り、同月二十八日仮仏壇に繪像の御影を安置せられたとき、蓮如上人は予ての念願が漸く実現したこととて、その夜は堂内に籠られたが、いろいろと感慨の心が起りて遂に夜を更かして暁方まで、一睡もせられなかつたとのことであるから満足のほども推察せられる。この山科の御坊は野村といふ所にあつたので野村御坊と言つたが、寺を中心に八町の屋棟が立ちならびて俄に盛況を呈したといふ。此の如くにして蓮如上人が祖師聖人の一流を再興しやうといふ幼時以来の使命は名実ともに成就したのであるが、上人自身も亦流落の間に年が老いて今や六十九歳の高齢に達せられたのであつた。  隱退  延徳元年、蓮如上人七十五歳にして職を五男の実如上人に譲り、退隱してその八月二十八日に南殿に移られた。その夜の述懐に「功成り名遂げて退くは天の道とあり、さればはや代をのがれて心やすきなり、いよいよ仏法三味までなり」とあつた。七十五年の長い間の忍苦と奪闘とを背景に持つた蓮如上人のこの言葉こそ、真にしみじみと味はれる言葉である。  かくて蓮如上人は山科を本拠とし、しばしば河内・摂津の間を往来して常に門徒を勸化して年老のつもることを忘れ、倦むことを知られなかつたのである。「自信教人信のところから、上り下りは辛勞なれども、しばしば往来するのである。人人が信をとりて喜ぶよしを申す故、これをきく嬉しさにまた上つて来た」とは八十二歳のときに堺から上洛せられたときに言はれたことであるが、かやうに老法師が仏の法の弘まることを喜びて仏法三味に晩年の生活を營まれたことが波瀾重畳の後であり、悪戦苦闘の末であることを思へばそのよろこびの情は一層強烈であつたことと思ふ。  終焉  明応七年の夏の頃より蓮如上人はその愛好の地、大阪にありて病気に罹られたが、その年は事もなく慕れて、あくれば明応八年、蓮如上人は八十五の歳を迎えられた。山科の御坊は多くの門徒が資財と勞力とを尽して経営して呉れた我が教團の本坊であるからと考えられてか、二月に入りて急に山科に移らるることになり、十八日に大阪を発し、途中に二日も泊まつて二十日に山科の御坊に到著せられた。翌日影堂に参詣して、はからずも生存中に拝禮の出来たことを喜ばれたが、その病気はそれよりして漸次に重くなり、自分にも終焉の近づくことを知られ、三月の一日には北殿へ出でられて実如其他の子息達に「一念の信心をよくよく取れ」と遺言せられた。三日にはある人が吉野の花を折りて参らせたのを見て、次のやうな歌を作られたのである。    吹きつづく花みるたびになほもまた           ただねがはしや西のかの岸    おいらくのいつまでかくや病みぬらむ           迎えたまへや弥陀の浄土へ    今まではやそぢいつつにあまる身の           久しく生きしと知れやみな人  その七日には行水をなし衣服を改めて輿に乗りて阿弥陀堂に参られたが、それから影堂に詣でられて、「極樂へ参る御暇乞にて候必ず極樂にて御目にかかり申すべく候」と高らかに言はれたので、参詣の群集は皆涙を流したといふことである。九日からは順誓と空善とが特に召されてずつと側について居つた。空善が病中の御慰みに差上げた鶯がないたにつきて「空善くれ候鶯の声に慰みたり、この鶯は法ほききよと鳴くなり、されば鳥類だにも法を聞けと鳴くに、まして人間にて聖人の御弟子なり、法を聞かではあさましきぞ」と語られた。又、慶聞坊に御堂建立の「御文」を読ませたまひて「あら殊勝や殊勝や」と喜ばれたのである。十九日にはおもゆも薬も取らず、ただ念仏せらるるばかりであつたが、明応八年三月二十五日正午静かに眠るが如くこの世の息を閉ぢられたのである。  上人の行実  既に上章にも言つたやうに、蓮如上人が世に出でられた頃は、本願寺の衰微が殆どその絶頂に達したといはれた時代であつたから、上人は家計不如意の間に成長してなみなみならぬ貧苦と闘はねばならなかつたのである。それに六歳の時に生母に生き別れ、それからは継母の手に育てられ、所謂人間苦に忍従せねばならなかつた上人は僅かに慈父の愛を受けつつ、家庭の人としてはまことに淋しき生活を送られたのであつたらう。しかも上人は此の如き逆境の中に居られたればこそ、その身の周囲のものがすべて鍼?薬石となり、その間自然に節操を研き、行為を謹しみ、長ずるに及びてよく人間の機微を看破し、その苦悩に忍従し、すべてのものを美化するやうな人格の持主となられたのであると思はれる。「蓮如上人一期記」に「利性聰明にして何れの道をも深く習はずして理を悟り得たまひたる」とあるを見れば、蓮如上人は天資聰敏であつた上に、その幼時の逆境がますますその精神を鍛え上げたのであらうと思はれる。  六歳の時に別かれられた母のことは晩年までも追慕せられる心が深かつたが、「聖人一流の宗派を再興したまへ」と母が遺したる言葉は母の姿と共に永く上人の心の中に生きて居り、上人はよく母の心を体して遂にその本望を達せられたのである。この一事から見ても蓮如上人は親に仕えて真に孝行を致されたと言はねばならぬ。継母の如円尼は実子の応玄を寵愛して、蓮如上人に対してなさけなくあたつたと伝へられると「実悟記」に見えたるほどであるから、上人が継子扱に苦しめられたことは思ひやられることである。殊に存如上人が遷化せられて継職は当然蓮如上人がせらるべきであるのに、己に上章にも言つたやうに、如円尼は蓮如上人を排斥して弟の応玄に継職せしめやうと企て、土蔵に入れてあつた寳物などは一切如円尼の方へ取かへされて、土蔵には僅に一の味噌桶と代物百足とが殘されたといふほどであつた。かやうな家庭騒動も、要するに、多くの婦人に見るやうな浅墓な料簡から起つたものであらう。この問題が落著して蓮如上人が継職せられて後も上人は別に不快の感情に支配せられた様子もなく、吉崎在住の頃に鄭重に如円尼の十三回忌を修せられた。「蓮如上人一期記」に「雖為継母如実母」、御存生の折は連日上人被奉養育ければ、禪尼も古の事ども後悔の涙をながし、つねづねは懺悔せさせ給ひて、あさましかりし事共恨に思給ふ、信心歡喜せしめ給、往生の素懐をとげさせたまふ、則葬送の時は上人御肩かけさせ給、御堂の庭まで供奉し給ひけるとぞ」と記してあるのを見ると、親らしくない親に対しても蓮如上人は親に対する子の道を尽された、その麗はしい心には流石の如円尼が動かされて懺悔したと言はれるのはむしろ当然のことであらう。  蓮如上人は二十六七歳の頃に妻帯せられてから五人の夫人との間に二十七人の子供を設けられた子福者であつたが、文明十五年六十九歳のときに、長男の順如上人が四十二歳にて不帰の客となられたので、蓮如上人はそれまで長い間苦勞を分ちたる長子の死去につきて痛く愁嘆せられ、療養の目的にて有馬の温泉に赴かれたことがある。それから蓮如上人が遷化の二十余日の前に、自分がつけて居られた唐帽子をとりて側に侍して居つた子息の蓮悟に渡されて「これを二俟にせよといへ、むざむざと病んで居るであらう。不便や不便や」と言はれた。二俟といふは上人の二男で本泉寺蓮成と称せられた人である。二十余年の間病のために籠居して世を過して居られた。この時五十四歳であつたが、父の終焉に侍することも出来ず、遙かに病に親しみて侘しく暮して居られた身の上を案じて、蓮如上人はいかにも悲しく感ぜられたのであらう。上人がその子に対する愛情も尋常以上であつたことが窺はれるのである。  「蓮如上人病中にさまざまのことを思ひ出され、平生召されたる御馬を御覧ぜられたきとの仰せにより、四間のうちの畳を二帖ほど取り除いて御馬を病床間近に導いて来たところ、御馬は頭を板まで下げ、尾を少しも振らず、悲しげに見えた。やや御覧じて引きかへせばいかにも静かに御椽の板をふみてかえつたと「空善記」に見えて居る。これも上人の慈愛がひとり人間に対してのみならず、畜生の類にまでも及むだことを示すものであらう。  蓮如上人が門徒に対する態度は深切を窮め、多くの人人をして慈父に接するの思あらしめたと伝へられて居る。遠国から上洛した大坊主衆に対しては、雜煮などで懇切にもてなされた。門徒衆にも同様であつた。本願寺にては前例のないことで、蓮如上人から始まつた。或時、雜煮を先きに自分がたべて見て、鹽がからかつたので「遠方からはるばる上つて来た祖師聖人の御門徒に対して、こんな粗末なあしらひをしてすむか」と勝手元のものを叱られたと、子息の実如上人の話として残つて居る。又門徒が上洛したるときは寒天には御酒等のかんをよくさせられて路次の寒さをも忘れられ候やうなど仰せられ、又炎天のときは酒など冷やせと仰せられ、或は物をも下されて、かやうのことども難有思はせ近づけさせられて仏法を聴聞せしめられるのが常であつた。  蓮如上人は、相手の根機を見て、その人の好みに合ふやうな話などをいろいろにせられて、その心を引きつけて、うれしやと思ふ所へ仏法の話をせられるのが常であつた。たとひ仏法に縁のないものでも巧みにその心を引いてそのものの心に隨ひながら仏法に縁を結ぶやうにせられた。あるとき口中の病に罹られたとき、折折ああと言つて嘆息して眼を閉ぢられることがあつた。皆のものはさぞ口の中の痛みが甚しいのであらうと思つて居ると、しばらくして「人の信の無いことを思へば身をきりさくやうに悲しい」と歡息せられたと伝へられて居る。  蓮如上人は対面を乞ふて来た人を待たせないやうにして、一切の人に対してかるがると面會するやうにつとめられた。その頃まで本願寺の御座敷には上段の間があり、そこで対面せられる例であつたが、蓮如上人に至りて上段の間を撤廃せられた。これは蓮如上人の精神では、仏法を弘めるには上攝U舞はよろしくなく、自分も下主に同じで萬民に信を取らせなければならぬといふ同朋主義のあらはれであつた。「蓮如上人御一代聞書」に「仰に、身を捨てて、をのをのと同座するをば、聖人の仰せにも、四海の信心の人はみな兄弟と仰せられたれば、その御ことばの如くなり、又同座をしてあらば、不審なることをもとへかし、信をよく取れかしと願ふ斗なりと仰せられ候なり」とあるが、まことに蓮如上人が門徒に対する態度は極めて平民的で且つ深切鄭寧であつた。  かやうに、蓮如上人は、人人が信を取るやうと念願せられ、信心のなきものをば甚しく嫌はれた。明応五年八十二歳の時の正月二十三日に富田殿より上洛せられたとき、当年よりはいよいよ信心なき人には面會すまじと言はれたといふことである。嘗て奥州に御一流のことを説きまぎらかす人を聞かれて、奥州の淨祐を見て以の外に立腹したまひ「さうさう開山聖人の御流を申しみだすことのあさましさよ、にくきよと仰せ候て歯をくひしめられて、さて切りきざみてもあくかよかよ」と言はれたと伝へられて居る。蓮如上人の此の如き態度は、親鸞聖人がその門徒に対して「詮ずるところ愚身の信心におきてはかくのごとし、このうへは念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも面面の御はからひなり」と言はれ、「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのある」と、何等執著のないやうに見えるのに比して大に相違するところがあるやうに思はれる。しかしながらかやうなことはむしろその性格の相異と見るべきである。その信を同じくするものの一人も多きことを望まれたる精神に相異はなかつたことと思はれる。親鸞聖人とてもその門弟がいかにあらうとも一切構はぬといふやうな不人情の心はなく、蓮如上人といへども人の信なきことを如何ともすることの出来ぬことは承知して居られる。蓮如上人の真意は「人に仏法の事を申してよろこばるれば、われはそのよろこぶ人よりもなをたうとく思ふべきなり、仏智をつたへ申すによりてかやうに存ぜられ候ことと思て、仏智の方をありがたく存ずべし」といふにあつた。「親鸞聖人の仰せに、われは人師戒師といふことすまじきと、法然上人の御前にて御誓言ありけり、まことに殊勝なる御ことなりとて御感ありけり」と蓮如上人が言はれたことを併せ考えれば、蓮如上人が名利に人師を好むところの凡夫の心に深く反省して居られたことは察せられるのである。  蓮如上人が吉崎に居られた頃祇候した坊主衆に対して「鉦を叩き門門を念仏を申してあるくものは念仏を賣るものじやほどにおのおのは決してするな」といふ意味のことを申された。一座のものは「畏りました」と答えたるに、上人は「その念仏を賣るものといふのはおのおののことである。真実の信心のない坊主分は鉦を叩いて念仏を賣りてあるくものと同じことじや」と申された。これを聞いたものは慚恥に堪えなかつたことであらう。「坊主は人をさへ勸化せられ候に、我を勸化せられぬはあさましきことなり」と蓮如上人が言はれたのも、信心ある人は仏智を加へらるるが故に仏の力にて人が信心を取るのであるといふ意味を強調せられたのである。  信心のことにつきてはかやうに極めて厳蕭透徹であつた一面に、先賢の言行に対して批判することなくそれを仰信せられたことが目に著くのである。あるとき兼獄@印が存覚上人の著述につきて合点の行かぬところを挙げていかがかと質されたのに対して蓮如上人は「名人のせられ候ものをばそのままにておくことなり、これが名譽なり」と言はれた。又ある人が親鸞聖人の時のことを申して「これはいかなる仔細であるか」との言に対して「われも知らぬことなり。なにごともなにごとも知らぬことをも開山のめされ候やうに、御沙汰候」と言はれたと伝へられて居る。これは「よき人の仰せをかむりて信ずる外に別の仔細なきなり」と言つて師匠を信じて疑ふことのなかつた親鸞聖人の態度と同じやうであつたと言はねばならぬ。  一念帰命  蓮如上人は真に摯実なる宗教家であつた。信もなくして大事の聖教を所持するは幼きものが剣を持つやうに危険であると戒められて居るほどに、学問沙汰は宗教の上には何等の役に立たぬことを知つて、聖教を研鑽することもひたすらその精神を体得することにつとめられたのであつた。その真意は上人が製作せられたる「御文」によくあらはれて居る。さうして蓮如上人が自から言はれて居るやうに「御文は凡夫往生の鏡なり」として、極めて平易の文体を用ひ、何人にも解し易きやうに親鸞聖人の凡夫直入の教の要旨を説かれて居るのである。「御文」一帖目に曰く  「当流親鸞聖人の一義は、あながちに、出家発心の形を本とせず、捨家棄欲の姿を標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものなり」  まことに親鸞聖人の教は平安朝時代の仏教が外儀を重んじ出家発心の形式を八釜敷言つたのに反して、その内心の状態が宗教的になることを重要とせられたのであつた。さうして、ここに内心が宗教的になるといふのは、自分の思慮分別を去りてその心をば自然法爾にまかせ、彼れ此れとはからふことのない状態をいふのである。文明六年蓮如上人五十九歳の時に製作せられたる「御文」の中に  「稀にも受け難きは人身、遇ひ難きは仏法なり、たまたま仏法に遇ふことを得たりといふとも、自力修行の門は末代なれば、今の時は出離生死の道は叶ひ難き間、弥陀如来の本願に遇ひ奉らずば、いたづらごと也、しかるに今、己に、われら、弘願の一法に遇ふことを得たり、この故に、ただ願ふべきは極楽浄土、ただ頼むべきは弥陀如来、これによりて信心決定して念仏申すべき也。」  阿弥陀仏の本願は自然法爾である。小なる自分の力が大なる周囲の力に包容せられて居るといふことが感知せられたときに、そこに阿弥陀仏の本願を讃仰する心が起るのである。自然法爾の然らしめるところで、自分の努力によりて出来るものではないと知られたときに、阿弥陀仏をたのみ、その本願に信順して浄土に往生することを願ふべきである。これがすなはち一念帰命である。  蓮如上人の意はかやうに阿弥陀仏の本願に信順して「一心一向に仏たすけたまえと申さん衆生をばたとひ罪業は深重なりとも必ず弥陀如来はすくひましますべし」と疑ふ心なく、南無阿弥陀仏を称ふべしと教へられたのである。さうして蓮如上人は極めて平易にこれを説明してたのむ一念が肝要であるとなし、たのむ一念とは雜行を捨てて後生たすけたまへと一心に弥陀をたのむのであると言つて居られる。  固より阿弥陀仏をたのめといふことは親鸞聖人が主として説かれたところであるが、しかもそれは一念帰命のことはりを勸められたのみで、念仏の義はくわしく示されなかつた。蓮如上人は更にその義を明かにして「雜行を捨てて後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」と説かれたのである。御文に  「世の中の人のあまねく心得置きたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり唱ふれば極楽に往生すべきやうに思ひはんべり、それは大きに覚束なきこと也、云云、しかれば、この阿弥陀仏をば、いかがして信じまいらせて、後生の一大事をば、たすかるべきでなれば、何の煩ひもなく、もろもろの雜行雜善を投げ棄てて、一心一向に弥陀如来をたのみ、まいらせて、二心なく、信じ奉れば、そのたのむ、衆生を光明を放ちて、その光の中におさめ入れ置きたまふなり。これをすなはち弥陀如来の摂取の光益にあづかるとは申すなり。又は不捨の誓益ともこれを名づくるなり」  我我衆生が自分の心をたのみ、自分の力を拠として努力することを止めることが、すなはち一向に阿弥陀如来をたのむことである。  それ故に、阿弥陀仏をたのむといふことも、実際から言へば、自力のはからひを離れることに外ならぬのである。「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」と言つたところで、それは我我が人に対してものを頼むといふやうな意味ではなく、信ずることがすなはちたのむのである。阿弥陀仏の本願に信順して何の造作もなきところに「後生たすけたまへ」の念願が自からにして達せられるのである。「御文」に  「今の時の衆生は他力の信心を得て、浄土の往生を遂げんと思ふべき也。抑もその信心をとらんずるには、さらに、智慧も入らず、才学も入らず、富貴貧窮も入らず、善人も悪人も入らず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雜行を捨てて正行に帰するをもて本意とす、その正行に帰するといふは、何のやうもなく、弥陀如来を一心一向に頼み奉ることはりばかり也、かやうに信ずる衆生を、あまねく光明の中に摂取して捨て玉はずして、一期の命つきぬれば必ず浄土に送り玉ふ也、この一念の安心一とつにて淨土に往生する事の、あらやうも入らぬ、とりやすの安心や、されば安心といふ二字をばやすき心とよめるはこの心なり、さらに、何の造作もなく、一心一向に如来を頼みまいらする信心一とつにて極楽に往生すべし」  これを要するに、宗教といはるるものは努力によりて到達すべき境地に至りて始めて逢著すべき神聖のものではなく、始終小なる我が心に使はれて自己の拡充《かくじゆう》を図らむことをのみつとめて居つたものが、何等かの機會によりて自分が大なる心の中に包容せられて居ることを自覚したときに、その大なる心の中に生活して居ることを感知するによりてあらはるるところの喜びの心情が宗教の心と言はるるのである。それ故に、宗教の心はまことに自由の心である。何等のこだわりもなく、又何物にも障へられず、極めて平和安穏に生きて行くことの出来る心である。  摂取不捨  かやうに、一心一向に阿弥陀仏をたのむ心はすなはち自分のはからひを棄てたものであるから、それは阿弥陀仏の光明の中におさめ入れられて、未来に於て必ず円満の境地に到ることが保証せられるのである。「御文」に曰く  「阿弥陀如来の光明のうちに、おさめをかれまいらせての上には、一期のいのちつきなば直ちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず、このほかには、別の仏をもたのみ、又余の功徳善根を修しても、何かはせん、あらたふとや、あらありがたの阿弥陀如来や、かやうの雨山の御恩をばいかがして報じ奉るべきぞや、ただ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と声に唱へて、その恩徳を深く報尽申すばかりなりと心得べきものなり」  この「御文」の意は、一切衆生の往生は、阿弥陀仏の本願によりて成就せられて居る。しかるに、衆生は疑が深くしてこれを信ぜずして、今に流転して居るのである。日光は四天の下をあまねく照すが、盲人はこれを知らず、又見もしない、これは日光が照さぬのではない、自分の眼の盲せるによりてである。法然上人の歌に    月影の照さぬ里はなけれども        ながむるひとの心にぞすむ とあるやうに、光明は遍く十方世界を照すけれども、これをながめぬ人には光が有ると感ぜられぬのである。仏教にて光といはるるものは、象徴的に智慧を指すのである。我我の周囲にあるところの大なる力をば心として感じ、その心が我我にはたらくのがすなはち智慧として受け取られるのである。さうして、我我はこの智慧の中に包まれて現に生活して居るので、その智慧のままに尚ほ生活が続けられることがありがたく感ぜられる。「弥陀の光明は、たとへば濡れたるものをほすに、上よりひて、下までひるごとくなることなり、これ日の力なり、決定の心おこるはこれすなはち他力の御所作なり、罪障は悉く弥陀の御消しあることなり」と蓮如上人が言はれるのは正しくかやうな他力の意味を示すものである。又蓮如上人の言葉に「信心は仏智なり、仏智よりたのませらるる信心なりと心得べし、ただ弥陀如来のたのませられて御たすけあると心得べし、一向に他力なり。その後仏恩報謝の称名も信じもよほされて申せば、これも口にとなふれば我等が申すやうには候へども、信にもよほされて申し候ためには皆仏智にもよほされて弥陀より申させらるる念仏なり」とある。他力の意味がよく説明してある。それにつきて蓮如上人は「ある人、摂取不捨のことはりを知りたきと、雲居寺の阿弥陀に祈誓ありければ、夢想に、阿弥陀の彼の人の袖をとらへたまふに、にげけれども、しかととらへてはなしたまはず、摂取といふはにぐるものをとらへてをきたまふやうなることと爰に思付けたり」といふことを度度例に引きて、いかにも平易に摂取不捨の説明をせられたといふことである。  南無阿弥陀仏  かやうに阿弥陀仏が一切の衆生を摂取して捨てたまはざる御姿を文字にあらはしたものが南無阿弥陀仏であるが、それは阿弥陀仏が我我をすくひたまふために示されたる名號である。この文字を分析して言えば、南無とは帰命の義にして帰命といふは阿弥陀仏の命に帰順するのである。摂取して捨てないから我をたのめと言はるる命令に帰順して阿弥陀仏を一念たのみまゐらする心である。己に一念、阿弥陀仏をたのむ心には大善功徳が与へられるのであるが、その体がすなはち南無阿弥陀仏である。言葉をかへて言へば、阿弥陀仏をば一念御たすけ候へとたのむとき、やがて御たすけあるすがたが南無阿弥陀仏といはれるのである。蓮如上人が勧修寺の道徳に対して語られたる言葉に  「自力の念仏といふは念仏おほくまうして仏にまいらせ、このまうしたる功徳にて仏のたすけたまはんずるやうにとなふるなり、他力といふは弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり、そののち念仏まうすは御たすけありたる、ありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり、されば他力とは他のちからといふところなり、この一念臨終までとほりて往生するなり」  かやうにして南無と帰命するものの心(機)と阿弥陀仏のたすけまします力(法)とが全く同じものである。そのところをさして機法一体の南無阿弥陀仏といふのである。「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。南無阿弥陀仏の主になるといふは信心をうることなり」「弥陀をたのめる人は南無阿弥陀仏に身をばまるめたることなり」と蓮如上人は常に言はれたと伝へられて居るが、かやうに南無阿弥陀仏の六字の名號の由来を心得たる心がすなはちたのむのである。たのむ心がすなはち南無阿弥陀仏の心であるから、信心とてこの南無阿弥陀仏の六字の外になく、この信心が起るときに南無阿弥陀仏の名號が行者の心の主となるのである。それも別に他からして南無阿弥陀仏といふものが与へられるのではなく、信心を得ることがすなはち南無阿弥陀仏を我が物としたのである。これが蓮如上人の所説の要旨である。  畢竟ずるに、南無阿弥陀仏の名號は阿弥陀仏がその形をあらはして我我にその本願の心を示さるるものである。それ故に、我をたすけたまふ阿弥陀仏を思ひ、その恩徳を念ずるがために禮拝の対象とすべきものはこの六字の名號に如くものはない。これが観仏を主とするものであれば木像の方が都合のよいことであらう。蓮如上人が「他流には名號よりは繪像、繪像よりは木像といふなり。当流には木像より繪像、繪像よりは名號といふなり」と言はるるはまさにこの意味を示すものである。  平生業成  此の如く、南無阿弥陀仏の六字の名號が、行者の心の主となるに至れば、南無とたのむ一念に、阿弥陀仏の御たすけを得ることぞと思ふことは臨終の夕まで心の中に相続するものである。「大無量壽経」に「願生彼国、即得往生、住不退転」とあるのをば親鸞聖人は「即得往生は信心をうればすなはち往生すといふ。往生すといふは不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるなり」と解釈し、又「真信心をうればすなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取してすてたまはざるなり、摂はおさめたまふ、取はむかへとるとまうすなり。おさめとりたまふときすなはち時日をもへだてず正定聚の位につきさだまるを往生をうとはのたまへり」「すなはち往生すとのたまへるは正定聚の位に定まるを不退転に住すとはのたまへるなり。この位にさだまりぬればかならず無上涅槃にいたるべき身となる」と説明して、この世にある衆生が真実の信心を獲るときはすぐに仏の御心の中におさめられて死ぬれば必ず淨土に往生して涅槃のさとりを開くことが出来ることが定まるのであるとして、これを即得往生と名づけられた。蓮如上人はこの意味を更に平易に説明して  「当流の安心といふはなにのやうもなく、もろもろの雜行雜修のこころをすてて、わが身はいかなる罪業ふかくとも、それをば仏にまかせまゐらせて御たすけさふらへとまうさん衆生をば十人は十人百人は百人ながらことごとくたすけたまふべし、これさらにうたがふこころつゆほどもあるべからず、かやうに信ずる機を、安心をよく決定せしめたる人とはいふなり、このところをただ経釈の明文には一念発起住正定聚とも平生業成の行人ともいふなり」  淨土に往生すべき業事は、平生に於て成し遂げられてあるといふ意味にて、平生業成の言葉が用ひられて居るのである。その真意は親鸞聖人が言はるるところの即得往生である。我我の虚仮の心が仏の真実の心の中におさめ取られたときがすなはち往生を得たときである。それ故に、臨終に際して仏の来迎をまつことを要せず、己に阿弥陀仏の本願の海の中に入りて居る上は必ず涅槃に至ることが出来るのが当然である。  内観  此の如く説き来りてその趣旨を約言すれば、蓮如上人の教は「行者のわろき心にてはたすからず、阿弥陀仏の他力のまことの心にてたすかるのであるから、一念帰命してそのまことの心が自分のものとなるやうに心がけねばならぬ」といふことに帰著するのである。かやうに我と思ふ心を離れて、そこに感知するところのものが真実の意味にていふところの宗教の心であるが、この心によりてこそ、我我は極めて自由にして、何等のこだわりもなく、平和にして且つ円滿なる生活をなすことが出来るのである。蓮如上人は実によくこの宗教の心をあらはした典型的の人物と称すべき方であるが、上人が此の如き宗教の心を十分にあらはされたる根抵には、その内観の深刻であつたことが認められるのである。  蓮如上人が弟子や門徒に対して折に觸れて言はれた言葉には、その内観が極めて深刻であつたことを窺ふべきものが少なくない。ここに蓮如上人が自から述べられたる言葉の二三を抄出して、その内観の心の相を示さう。 (一)「たれのともがらもわれはわろきとおもふものはひとりとしてあるべからず、これしかしながら聖人の御罸をかうふりたるすがたなり」。凡夫の自性はいつまでも我身をたかぶる心の離れぬものであるから、我は悪るいと思ふものは一人もない。かやうに我身は善いと執著して人我の見をなし、我情を押し立つるといふことは祖師聖人が擯斥せられることであるから、無宿善の機は力及ばずと捨てられる、これが御罸をかうふりたるすがたである。 (二)「我が心にまかせずして心を責よ、仏法は心のつまる物かとおもへば信心に御なぐさみ候」。我我凡夫の心は見ること聞くことなどに、散り乱れて取りとめのつかぬものであるから、我が心を我が心に任せてはならぬ。凡夫の心を馬にたとえて馬乗りが馬をせめるやうに我が心をのりしづめなければならぬ。懈怠《けたい》の人にありては仏法ほど心のつまるものはない。されども信心を頂くことはありがたいことである。しかるに仏法の聴聞に退屈するものがあつたのを見て、蓮如上人は自身のことを述べて人人に示されたのである。 (三)「みな人のまことの信はさらになし、ものしりがほのふぜいにてこそ」。真実信心をうつくしく得たる人は甚だ稀であるが、しかも内心にまことの信心を得ぬくせに外相には仏法を信ずるよしを人に見せて信心得たりと心得顔で居ることはよろしくない。この心得顔の心中をひるがへしてよくよく法を聴かねばならぬと蓮如上人は戒められたのである。 (四)「仏法には無我と仰せられ候、我と思ふことはいささかもあるまじきことなり」。固より仏教は無我を教へ無我を宗とするのであるが、かやうな人法二空の理を観じて我なしとさとれといふのでななく、人のは悪るい、我のはよいといふやうに我と思ふことはいささかもあるまじきことである。かやうに自我を否定して我と思ふことのないのを無我とせらるるところに、その宗教的の意味が徹底して居ると言はねばならぬ。我といふものは真に存するものでないといふやうな空観の説明は理論的には尤もであると理解せられても、それによりてその心が安らかになることはない。 (五)「我ばかりと思ひ独覚心なることあさましきことなり、信あらば仏の慈悲をうけとり申す上は我ばかりと思ふことはあるまじく候」。何事によらず、人かまはずに我ばかりと思ふものを声聞根性といふに同じく、我ひとりが善くて、他の人は皆悪るいと思ふものを独覚心といふのである。殊に信心を得て、如来の大悲を行ずる身であれば人のことを構はずに我ばかりと思ふことはあるまじきことである。 (六)「まきたてといふもの知たるかと、法敬御返事に、まきたてと申すは一度たねをまき手をささぬものに候と申され候。仰にいはく、それぞまきたてわろきなり、人になをされまじきと思ふこころなり、心中をば申出して人になをされ候はでは心得のなをることあるべからず」。我が心をこれでよいと投げて置いて心中を人に直ほされまいとする心はよろしくない。何としても人に直されるやうに心中を持ち、我が心中をば人人の中へ打出さねばならぬ。 (七)「たとひなき事なりとも人申候はば当座領掌すべし、当座に詞を返せばふたたびいはざるなり、人のいふ事をただふかく用心すべきなり」。誰でも悪るいことをせぬのに、人が何か悪るいことをしたといへば、いや自分はそのやうな悪るいことはせぬと言葉を返へすのが人人の常である。たとひ無いことでありても人が有るといふならばそれを許して有ることにして、相応の返答をするがよいと教へられるのである。 (八)「口と身のはたらきとは似するものなり、心根がよくなりがたきものなり、涯分心の方を嗜み申すべきことなり」。口と身のはたらきとはそれを似たやうにすることは出来る。口に報謝の称名を唱へ、参詣の足手を運ぶことは出来るが、その心底が口に言ふたり、身に行ふたりするやうにはならぬものである。人人はその分限に応じてその心持を屹度よくせねばならぬ。 (九)「人はあがりあがりておちばを知らぬなり、ただつつしみて不断そらおそろしきことと毎事に付て心をもつべし」。凡夫として我身の立身出世を好まぬものは一人もないから、ただ上へあがることばかりを望みて落ち場を知らず、思はぬ仕損じをすることが多い。「大学」に君子は必ずその独りを慎しむとありて常に我身をふりかへりて我身に仕損じはないかと慎しまねばならぬ。世間のことでさへ、遠き慮あるものは常におそろしく考へて油断の出来ぬものであるが、まして取りかへしのつかぬ後生の一大事なれば、若しこのままで命が終りたらば地獄より外に行くところはないと、おそろしい心を何事にも忘れぬやうにせねばならぬ。さういふことを心得ずして、自分は高みへ上ぼりて善いものになり、我事をば棚に上げて人の穿鑿《せんさく》ばかりをして居れば、やがて踏み誤ることがある。 (一〇)「心中をあらためんとまでは思ふ人はあれども、信をとらんと思ふ人はなきなり」。内観して我身の日頃の悪るい心中が見えるとき、その心中を改めたいといふ倫理的の心は起ることはあつても、進むでこの倫理的の心を離れねば安心立命の境に到ることは出来ぬ。しかるに、そこまで内省を深くすることは容易でない。 (一一)「人のわろきことはよくよくみゆるなり、我身のわろきことはおぼえざるものなり、我身にしられてわろきことあらばよくよくわろければこそ身にしられ候とおもひて心中をあらたむべし、ただ人のいふことをばよく信用すべし、我わろきことはおぼえざるものなり」。諺に人の一寸は見ゆれども我身の一尺は見えぬ、何事にも我身の悪るいといふことが知られぬのが凡夫の習である。我身に知られて悪るいといふはよくよく悪るいことである。人を鏡にすれば我身の善悪がよく知られるから、人の言ふことをばよく信用すべきである。 (一二)「皆人毎によきことをいひもし働もすることなれば真俗ともにそれをわがよき者にはやなりてその心にて御恩といふことはうちわすれてわがこころ本になるによりて冥加につきて世間仏法ともに悪き心が必ずく出来するなり」。心は常に悪を念じ、口は常に悪を言ひ、身は常に悪を行ふのが凡夫の自性である。それが仏祖聖人のお蔭によりて、口にも善いことを言ひ、身にも善い働きをするやうになつたのであるに、我が心が先に立ちて、自分が善いものになりて仏祖の御恩を忘れ、我と思ふ心ばかりになれば冥加に尽きるといはねばならぬ。 (一三)「人はそらごと申さじと嗜むを随分とこそ思へ、心に偽りあらじと嗜む人はさのみ多くはなきものなり」。常の人人は口に虚言を言ひさへせねば、随分虚言を嗜しみたのであると思ふ。しかしながらその心の内には常住虚偽を思ひつづけて居るのである。身に行ふことや口に言ふことはこれを嗜むことは出来るにしても、心根はよくなり難いものであるといふことを考えねばならぬ。 (一四)「一心にたのみ奉る機は如来のよくしろしめすなり、弥陀の唯しろしめすやうに心中をもつべし」。行者の心に今はどう思ふて居る、今はかう思ふて居るといふことは仏のよく知つて居らるることであるから、その冥見に恥ぢ入りてあるまじきことを思はぬやうに心中をもつべきである。蓮如上人の内観が道徳的から一歩進むで宗教的であつたことがこれによりてもよく知られるのである。  蓮如上人が弟子や門徒に対しての言葉は、常に諄諄として慈父がその子に諭すやうなものが多いが、しかしながら、時には犀利峻厳にして相手の胸に白刄を擬するやうなものがある。何れにしても、それは皆、上人の深刻なる内観に本づいて教訓せられたのであるから、これを聞いた人はその深切の情を感じ、定めてその言葉によりて警醒せられたことが多かつたことであらう。  和歌  蓮如上人は病中に側の人に対して「詠歌のこと、三十一字につづくるにてこそあれ、是みな法門にてあるぞ」と言はれた。固より和歌は随時にその感想を簡単なる文字に綴つて表現せるものであるが、それが宗教の心からあらはれたるものである以上、その中に法門を存することは当然である。今蓮如上人の作として伝へられる和歌約三百首の中から宗教味の濃厚なるもの数首をここに鈔録する。   みな人の我とおこらぬ信ぞかし       たのむところも他力なりけり  信心は仏智である。仏智よりたのませらるる信心である。ただ阿弥陀仏がたのませられて御たすけあるぞと知るべきである。それ故にそれは全く他力である。信心を得て後に念仏することも仏智に催されてするのであるから阿弥陀仏から申さしめられる念仏である。「たのませてたのまれたまふ弥陀なればたのむこころもわれとおこらず」といふ歌が上人の歌集の中にある。   みな人のまことの信はさらになし       ものしりがほのふぜいばかりぞ  物知り顔とは我は心得たりと思ふ心である。心得たりと思ふは傲慢の心であるからあさましいことである。仏の慈悲にて心得まじきことを心得るのであるから、凡夫が心得ぬと思ふのがその実、心得たのである。凡夫が心得たと思ふのは実際には心得ぬのである。   一念のうちにさだまる往生を   となへてのちとおもふはかなさ  阿弥陀仏の本願のことはりを聞きて阿弥陀仏におもむく初を一念といふ。この一念に阿弥陀仏をたのむときに、やがて御たすけあるのを喜ぶ思ひが内にあるからそれが南無阿弥陀仏となりて口にあらはれるのである。口も心も一とつである。   一念にむまれゆくべき極楽も       おもひしらねばうれしさもなし  思ふたよりも大に相違することは極楽へ参りての事であらう。この土にてありがたや、貴とやと思ふのは物の数にてもないことである。彼の土へ生れての歡喜は言ふことは出来ぬことであらう。極楽は楽しむと聞きて参らんと願ひ望む人は仏にならぬ筈であるから、聴聞を心に入れやうと思はむよりは信を取ることが大切である。   わがみただ罪のふかきぞたよりなる       南無阿弥陀仏のちかひたのむに  蓮如上人あるとき坊主衆等に対して「坊主といふものは大罪人なり」と申された。その時皆皆大に迷惑した。それから上人の言はれるやう「罪が深ければこそ阿弥陀仏は御たすけあれ」と。まことに仏は我我の貪瞋煩悩の中より生れるものである。   おぼつかなまことのこころよもあらじ       いかなるところの住家なるらむ  仏法のことは我が心にまかせず嗜まねばならぬ。心にまかせては仏におもむくことが出来ぬ。心に任せずして嗜む心はすなはち他力である。   極楽は日に日に近くなりにけり       あはれうれしき老のくれかな  淨土を願ふ行人は病患を得てひとへにこれを楽しむと法然上人は言はれた。しかしながら、あながちに病患を得てよろこぶ心は起らず、まことに恥づべきことである。本願の不思議に遇ふて極楽に往生することが決定すれば極楽の近づくことを喜ぶべきでである。しかしながら、死期が近づくかとおぼゆればまことにあぢきなく名残おしく思ふのが人人の常である。仏はかかる心のものを憐みて慈悲広大なる本願を立ててくれられたのである。我我は阿弥陀仏への土産として年をひろひつつ淨土へ参ることを楽しみて待つべきである。  日常生活  蓮如上人は萬事過分なることを嫌はれ、家を作るにも頭が濡れねばよいと言はれた。衣装等に至るまでも善きものを著用せむと思ふはあさましきことであるとせられた。黒衣の聖者といふ言葉もありて、黒衣は何となく殊勝の感じのするものであるが、蓮如上人はそれ故に黒衣を嫌ひ、常に鼠色の衣を著て居られた。凡夫にて家に在るものの宗派であるからどこまでも殊勝の風を避くべしと考えられたのであらう。衣の袖を長くし、又その丈を長くすることをも禁ぜられた。無紋の物を著ることも殊勝さうに見ゆるとてこれを避けられた。墨の衣を著て蓮如上人の前に出るものがあれば「衣紋ただしき殊勝の御僧の御出候」と皮肉を言はれ、そのあとですぐに「いやわれは殊勝にもなし、ただ弥陀の本願が殊勝なり」と言はれたと伝へられて居る。  蓮如上人はいかなる極寒のときにも手水には水をつかはれた、湯を上げると冥加も無いこととて断はられた。それであまり極寒のときには側のものが私に湯を少し水の中に加えたといふことである。  又平生の食事が一汁二菜、その二菜も一向見苦しいものであつたといふことが、「本願寺作法之次第」の中に見えて居る。その生活の質素であつたことが思ひやられるのである。  新しき衣裳を著けたるときは御堂の親鸞聖人の御前へ参り、御用にて著る旨を述べられた。食事の時も合掌して如来聖人の御用にて物をくうべきよと言はれた。水の一口も如来聖人の御用と考へられたから、すべてのものを粗末にせられなかつた。  蓮如上人は常に「朝夕は如来聖人の御用にて候あひだ冥加のかたを深く存ずべし」と説かれた。蓮如上人の意見に拠れば、凡夫の目には見えねども如来聖人の力が加はるによりて衣食住の三つともに乏しからず暮すことが出来るのである。それに又目に見えねども如来聖人の力の加はるによりて我我は育てられるのである。されば我が物といふべきものは一もなく、我我は如来聖人から下さるるところの御用の物にて暮して居るのである。この冥加の方を深く思はねばならぬ。さうしてかやうな冥加の他力を思ふことになれば、我我が常に心に思ふこと、又身になすことは悉く如来聖人の心がこれを照覚して居らるることが知られ、それ故に我我は常にその冥見に傀づる心がなければならぬのである。  「毎時無用なることを仕り候義冥加なきことなり」と蓮如上人は常に言はれたといふことである。衣服であらうと、道具であらうと、何事によらず無用のものをこしらへるのは冥加のないことであると戒められた。いかなる極寒にても仏前に参らるるときは夜間著たる著物はみなぬぎて別のを著られた。側のものがそれを悲しがりてその衣服を火燵の上で暖めて差上げたればそれを打ち拂ふて著られたといふことである。又毎夜座敷中の燈心を二筋ならではかき立てられず、一滴の油でも仏祖の御用でないものはないとして大切にせられた。子息の兼緑法印があるとき背摺布を買はれたのを見られて、蓮如上人が「かやうなものは我方にあつたものを無用の買物をした」と言はれたのに対して兼緑法印が「自物にて取り申した」と答えられたのを聞かれ、「それは我物か、悉く仏物、如来聖人の御用にもるることはあるまじ」と叱られたといふことである。  蓮如上人は廊下を通ほられるときに紙切の落ちたるを見られて「仏法領の物をあだにするか」と言つて兩の手に頂かれた。総じて紙切のやうなものでも決して粗末にせられなかつたといふことである。あるときその背に腫物が出来て、子息の蓮淳にその膿を拭かせられたとき、蓮淳が杉原をおしたたみて膿を拭はむとしたるに、蓮如上人はこれを制して「その紙をばいづくよりいできたると心得て、さやうに潤澤にするぞ」と言ひて、杉原を1つにさき切りて膿を拭はせられたといふ。大工が作事をしたときにいささかなる木の切片の散乱せるを拾はせ、仏法の物と思へば大切にせねばならぬと人人に戒められた。  蓮如上人の考では、世の中の一切の物が悉く仏法領のものである。仏法領とはすべてが仏物であるのを如来聖人から拝領したのであるから、これを粗末にしてはならぬといふのである。かやうな謙下にして且つ敬虔なる態度は固より仏教の精神として特色のものであるが、蓮如上人の日常の生活にありて、この貴むべき心が甚だ濃厚にはたらいて居つたことが目に著くのである。  衣装等にいたるまで、我が物と思ひふみたたくることはあさましきことである。悉く如来聖人の御用物であるからとして、蓮如上人は召物など足にあたりたるときはこれを頂かれたと「実悟舊記」に見えて居る。門徒から進上する物をも如来聖人よりの賜はり物として表へ見えぬやうに衣の下で拝まれた。自分は門徒から物を貰ふ徳があるのではない、門徒から如来聖人へ差上げたものをば如来聖人より賜はつたのであると考えてこれを拝まれたのである。それも追従のやうに見えてはよくないとして衣の下にて拝まれたことなどはまことに麗はしい謙下の心であると言はねばならぬ。  かやうに蓮如上人は冥加を第一に心にかくべしと説き、自身にもそれを厳守せられたが、それは仏恩をば深く感ぜられた結果である。それ故に蓮如上人は「世間に物をくはず、塞きもの多きに、食ひたきまま、著たきままに候事、聖人の御恩にてあるぞよ、この御恩をおろそかに思ひ申すことあさましきことなり」とくれぐれも子弟を戒められた。又「開山聖人の御恩はあらぬところにあるものにて候ぞ」と子息の蓮悟に対して説かれたと伝へられて居る。  「蓮如上人御一代聞書」に「萬事に付てよき事を思ひ付るは御恩なり、悪ことだに思ひ捨たるは御恩なり、捨るも取るも何れも何れも御恩なり」とある。凡夫はすべて顛倒妄見の悪事を善事と取り違えて居るのであるが、それが仏法を聞きて善悪因果の道理を合点するやうになるのは全く如来の御恩である。かやうに我我が善を善と知りてこれを取り、悪を悪と知りてこれを捨つるは皆これ仏の智慧が加はつたのであるからその御恩を喜ぶべきである。  蓮如上人は又、常に弟子達に誨へて「仏法の上には何事も報謝と存ずべきことなり」と言はれた。その趣意は「阿弥陀仏をたのみて御たすけを決定して、御たすけのありがたさたうとさよと喜ぶ心あればそのうれしさに念仏申すばかりなり」。これがすなはち仏恩報謝である。それ故に御経を仏前に読誦することも仏恩の事を如来聖人の前にて喜ぶ心である。又たとえば仏前に香を焚くのも、花を捧ぐるのも、皆、仏恩を報謝する心の表現であるとせらるるのである。まことに「仏法にはよろづかなしきにも、かなはぬにつけても、何事に付ても、後生のたすかるべきことを思へば喜び多きは仏恩なり」である。この趣旨を推して考えれば、我我はこの世に住みて、如来聖人から与へられたる衣と食と住とによりてその生活を保ちて居るものであり、過去及び現在は固より未来の生活までをも仏の慈悲の下に善いやうに取り計ふてもらふのである。それ故にその本願に信順して念仏していそぎ仏になるといふことが我我として真に仏恩を報ずる所以である。蓮如上人が自己に与へられたる任務として親鸞聖人の宗旨を顕揚《けんよう》することにその力を尽し、寝食を忘れて東西に奔走し、「仏法のためにはいかなる辛労をも辛労とは思はず」といふ意気込にて、生涯の間、法の為にして敢て身の為にせられざりしことはまことに報恩の心の深かつたことを徴するものである。  仏法に五戒と立ててあるものは世間の法では仁義禮智信の五常に相当するものであるが、この五常を守るのがすなはち王法である。中にも最も重要なるは仁と義とである。これは世間の道徳として何人と雖もこれを守らねばならぬことである。人人が社會的生活をなすには常に仁義の道に背かぬやうにつとめねばならぬ。宗教はこれに対して道徳を超越したる安心立命の道であるからこれは内心の問題である。蓮如上人はこの点を明かにして「王法は額にあてよ、仏法は深く内心にたくはへよ」と教えて居られる。それは外には仁義禮智信を守りて、王法を先となし、内心には深く本願他力の信心を本とすべきことが弥陀教の本旨である。親鸞聖人が懇に説かれたのもこの事であるから、我我は厳にその教を守らねばならぬと言はれたのである。  蓮如上人はいかなる悪事をなしたものをもあはれみかはゆく思はれた。門徒の中に大罪人がありてそれを厳しく責めさいなむのを嫌はれた。ましてその罪人を殺すことは一段と悲しまれた。殊に仏法の上から見れば邪法を勸めるものは大罪人であるが、邪法を勸める人でも厳しく折檻して戒むれば心中をひるがえして正法に帰するものである。蓮如上人は下間の蓮崇が富樫政近と取合ふて騒動を起し、それが本となりて蓮如上人が吉崎を退去せねばならぬやうになつたのを憤ほりて破門せられた。後に上人の病中に、蓮崇は寺内へ参り詫言をしやうとしたけれども取次ぐものがなかつた。折ふし上人は蓮崇をなをさうと思ふよと言はれた。側に居つた人人は「一たび仏法にあだをした人であるからいかがか」と申せるに上人は「それそとよ、あさましきことをいふぞよ、心中だになをらばなにたるものなりとも御もらしなきことに候」と言はれて、蓮崇を赦された。蓮崇は上人の前に出でて面接して感涙畳にうかむだといふことである。  阿弥陀仏の本願を信じ、その心を同うして淨土に往生するものは同行である。親鸞聖人はこれを御同行御同朋として寵愛せられた。蓮如上人はこのことを引いて、門徒をあしくいふことはゆめゆめあるまじきことであると戒め、これを粗末にすることはよくない、法義を大切にして信心を得たものは大事の客人であるとまで言つて居られるのである。あるとき、夕方に案内をも言はず人人多く参りたるを、側の人が荒荒しく「罷り出で候へ」と言ひしを、蓮如上人は「さやうに言はむ言葉にて一念のことを言ひ聞かせかし」と教え、東西を走せまはりても言ひ聞かせたきことではないかと戒められた。これを聞いたものはその温かい心に涙を流したといふことである。  親鸞聖人も四海の信心の人はみな兄弟であると言はれたが、蓮如上人も同じ心にて、あるとき法敬房に対して「法敬と我とは兄弟よ」と言はれた。法敬房は驚いて「これは冥加もなきこと」と申せしに、蓮如上人は「信を得つれば、前に生るるものは兄、後に生るるものは弟よ、法敬とは兄弟よ」と言はれた。仏の方から言えば三界はこれ我が有、その中の衆生は一切我が子である。我我同行の方から見れば強きは弱きを扶け、老いたるは若きを導いて、相倚り相助けて同じ道にと進むべきであらう。  蓮如上人は「仏法のうへには毎事に付て空おそろしき事と存候べく候、ただよろづに付て油断あるまじきこと」と言つて、することなすこと、すべてに空おそろしいことと思はねばならぬと戒めて居られる。我我が日夜すること為すことは皆悉く悪道に堕つる因でないものはない。それ故に、若し我我にして如来の本願に遇ふことが無かつたならば、悪道の苦患を免るることの出来ぬ我身の上であると知りて、そらおそろしく思はねばならぬ。何事も知らぬ昔は是非もないが、今己に後生を大事に思ひ仏法に心をかける身になりては、かやうに心得て、よろづにつけて油断あるまじきことである。蓮如上人に拠れば、一念発起の信心を領解してその上に仏恩報謝の称名を行住坐臥に忘るることのないのが、すなはち後生の大事を油断せぬ相である。  綜括  蓮如上人につきて、以上に纏述したるところを綜括するときは、八十五年に渉れる蓮如上人の生涯は、自信教人信の信絛を実践せられたといふ簡単の言葉に尽されると思ふ。  仏教の目的とするところは淨土に往生することにある。淨土に往生するといふことの宗教的の意味は我我が平生不自由にして束縛に悩むところの心の世界から離れて自由にして何等の障なき円満の心の境地に到ることである。さうしてその目的を達するがためには観心・持戒・禪定などの修行が必要とせられるのである。しかも我我のやうな身心羸劣のものは如法に修行することが出来ぬのであるから、かやうな身心羸劣のものを対象として立てられたる阿弥陀仏の本願をたのみて淨土に往生することを期すべしと説かれたのが親鸞聖人の教の要旨である。蓮如上人はこの親鸞聖人の教を奉じて「ただ弥陀をたのむ一念の義より外は別儀なく候」と言はれた。さうして更にその意味を凡俗に理解し易からしめるために「雜行を捨てて後生たすけたまへと弥陀をたのめ」と観められた。その真意は言ふまでもなく我我は自己の心をたのむことを止めて、我我衆生を助けたまふ阿弥陀仏の本願に信順すべしといふのである。これこそ真実の宗教の肝要とすべきものであると言はねばならぬ。  蓮如上人はこの真実の宗教を体得し、自から深く阿弥陀仏の本願に信順し、さうしてこの噂き法を広く人人に知らしめて、それをして阿弥陀仏をたのみ他力の信を取りて淨土に往生せしめむと念願せられたのである。しかも蓮如上人にありてはそれは阿弥陀仏の本願にたすけられることのありがたさに感激して、その仏恩を報謝するためであつた。それ故に、いかなる辛勞も辞せず、又いかなる困難にも打ち勝ちてすこしも撓まれたことがなかつた。その結果蓮如上人の努力によりて親鸞聖人の淨土真宗が中興せられたと評せらるるに至つたのは当然のことである。  しかしながら、親鸞聖人と蓮如上人との間に、その態度に於て著しき相違の存することが認められる。親鸞聖人は極めて率直に自分の信ずるところを披瀝して、若し志を同ふするものならば共に念仏せむといふやうな態度で、強て相手を説きつけてまで念仏せしめやうとはせられなかつた。若しこの尊き法を獲ずして念仏を謗るものがありても決してそれに反抗せず、むしろこれを憐れに思はれたのであつた。蓮如上人はこれに反して、自分が信ずるところの法を説き聞かすためには相手の機に応じて種種の方便をめぐらされたことは己に上章に述べた通ほりである。この点から見て蓮如上人の態度は教導的であつたやうに思はれる。しかしながら、それが決して人の師となることを好まれたためではなく、全く仏恩を報謝するための行としてつとめられたところに、まことに貴といものがあると言はねばならぬ。  蓮如上人は数多の子女を有して居られたが、これ等の子女を配置して数箇の寺院を創立せられた。蓮誓の光蘭房、蓮綱の松岡寺、蓮乗の本泉寺、蓮悟の清澤坊はすなはちこれである。これによりて蓮如上人の教團が繁栄したことは事実であらうが、これを親鸞聖人が形式の外容を斥け内的の信心を主とし、自からも敢て一派の祖師たることを期せず、在家の宗教として同信のものが互に手を携へて仏恩を謝して念仏することを勧め、従つて自分のためにも、又その子女のためにも寺院を建てられなかつたのに比するときはその態度の相違が目に著くのである。しかしながら蓮如上人とても自から「一宗の繁昌と申は人の多く集まり威の大なることにてはなく候。一人なりとも人の信を取るが一宗の繁昌に候」と言つて居られるほどであるから、徒らに形式を貴ばれたのでないことは明瞭である。  此の如く、親鸞聖人と蓮如上人との間に態度の相違が認められるのは、畢竟ずるに兩師の性格とその境遇との差異が主なる因由をなしたのであらう。我が身をたのみ、我が計ひの心を乱れたる心を善くして淨土へ往生しやうとするところの自力を捨て、善いとか悪るいとかといふやうな道徳の思を超越したときに、自然法爾に感ずるところのものがすなはち真実の宗教の心である。これを仏教の言葉にて表現するときに阿弥陀仏の本願に信順してすこしも疑ふ心がないと言はれるのである。この心になりて始めて感ぜられることは我我が阿弥陀仏の本願の大きなる力の中に包容せられて生活して居ることのありがたさである。蓮如上人はこのありがたさを強く感じて、その日常の生活にありて、言はれたことも行されたことも、すべてその恩徳に報ゆる心から出たものであつた。蓮如上人が口を窮めて冥加を大切にすべきことを説き、仏法領のものを粗末にすること勿れと誡められ、それをば自から履行せられたことも全くこの真実の宗教の心から発露したものであつた。  蓮如上人が此の如く宗祖親鸞聖人の遺教を尊奉し、次第相承の宗義を顕揚することにつとめ、殊に数十通の「御文」を製作して、文書傅道に力を致し、親鸞聖人によりて興されたる淨土真宗の肝要を極めて平易に説明せられたるがために本願寺の隆盛と共に、それが蓮如宗と称せらるるまでに至つたことはあまりにも有名なる事実である。さうしてこの方面から見たる蓮如上人の生涯及びその行実に関する著書は己に多く世間に行はれて、汗牛充棟といふべきほどである。私が今、この小篇に於て蓮如上人につきて叙述したのは固より本願寺第八代の法統を継ぎたる蓮如上人の行化につきての歴史を挙げたのではない。ただ一個の宗教人として活動せられたる蓮如上人の上にあらはれたる宗教の心を分析して、その宗教の心が上人の日常の生活の上にいかなる影響を及ぼしたかといふことを略述しやうとしたのである。それ故に、この小篇が蓮如上人の伝記でないことは固より言ふに及ばず、又蓮如上人が唱道せられたる教義を挙げてこれを批判しやうとしたものでもないことは更に弁明を要せぬことであらう。ただ私がこの小篇の叙述に於て重きを置いたことは、個々の人の心の奥底にあらはるるところの宗教の心はすべて一様であるに拘らず、その人の他の精神作用を通ほして表現せられるによりて、その形式の上に銘々の特徴が存することを示さむとするにあつたことを、特にここに一言して置く。 @  新選妙好人伝第七編 石田梅岩    富士川 游       新選妙好人伝第七編           目次 石田梅岩 石門心学 石田梅岩 その所説 宗教的一元論 仏法観 念仏宗 煩悩菩薩 十善戒相 神道観 宗教的態度 簡易生活 平生日課 教神崇祖 謹直謙下 倹約 仁愛 存養省察 凡例 一。石田梅岩の生涯及びその行実につきては門人等が撰述したる 石田先生事跡を始めとして、写本の儘に伝へて居るところの「石田先生語録」などに記述せられて居る。殊に近時京都の岩内誠一氏の著「教育家としての石田梅岩」は梅岩の人物及びその行実に関して詳細に記述してある。私のこの小篇は此等の諸書に拠り、梅岩の日常の年活の中にあらはれたる宗教の心を見やうとしたのである。 二。梅岩の像にして世に伝はるもの数種ある中に、ここに掲げたるものは京都の画家原在中の筆に成るもので、岩内氏の書中にあるものを複写したのである。 三。この書の原稿は私が自から筆録したのであるが、その整理及び校正は一に秋山不二女史の尽力を煩はしたのである。又この書を公にすることを得たのは厚徳書院長宗氏の厚意に依る。特に記して謹謝の意を表する。  昭和十二年八月上浣   富士川 游  石田梅岩    富士川 游 述       石門心学  今から凡そ二百余年ほど前、亨保年間に石田梅岩は京都に興り、人間の倫理に関する事項を極めて平易に説明し、世間普通の人人を教化するの端緒を開いた。これは初め知性の学と称せられたが、後に心学と呼ばれて大に世に行はるるに至つた。元来我邦に始めて心学の名あるは中江藤樹に始よるもので、藤樹は今から略ぼ三百年ほど前、慶安元年に享年僅かに四十一歳にして歿したが、その学徳が遠近を感化したために世の人から近江聖人と敬称せられた人である。藤樹は王陽明の良知の説を奉じ「天が人の性に現はれたるものを良知とし、この良知を発揮して天理に合し、神人合一物我一如の境地に達すること」をつとめた。当時の儒者の多数が朱子学派の説を奉じて訓詁これ務め煩瑣なる哲学を主としてその説く所が実際に即せざるものがあつたのに対して、藤樹は形式の末に拘泥することなく、専ら実践躬行の学を要とし、心即理の説を主張し、此心を會得するの必要を唱へ、宇宙萬物の理はこれを我が心に求むべく、さうしてこれをその行動云為の標準とすべきであることを教示した。この意味に於て藤樹の学はまさに心学と称せらるるものである。しかるに、巳に上段に言つたやうに、藤樹が歿して后七八十年、享保の頃に、石田梅岩は京都に興りて、性を知ることを以て学問の要綱となし、これに本づきて工夫を積み、これを修養の資となし、人人をして開悟の道に入らしめやうとしたのである。この石田梅岩の学がその門人及び学孫のために漸次に発達せしめられて、処世規範の学となり、更に発展して社会教化の活溌なる運動となつたのであるが、それが何時の間にか心学と称せられ、己を慎しみ、心を治むるの道として世間普通の人人の間に広く行はるるに至つた。さうして、その教は心中に人我の念を断ち、名利の思を払ひ、心を無為に帰し、取捨愛憎をなさず、君父を敬ひ、兄弟を親しみ、朋友に信実を以て交はり、常に人にへり下り、仮にも己を高ぶらず、善事は人に護り、悪しきことは我身に引受け、慈悲善根を先として目下を憐れみ、人の苦労に易はり、仮にも人の是非を言はず、議論を好まず、才覚を振るはず、約めて言へば、本心(本具の良能)を自覚してそれによりて人間百般の事を正しく行ふべきことを極めて平易に説きて、婦人小児などの耳にも入り易からしめ、孝悌・忠信の事より家業・商売・家庭・倹約などの事に至るまで、手近く例を示して教へたために、その講談の席にのぞみたるものにして或は不孝を改め、或は放埒を悔て正しき道に赴くものが多かつた。かやうな心法は実に石田梅岩を祖としてその門派の努力によりて盛に行はれたのであるから、世にこれを石門心学と称するのである。       石田梅岩  石田梅岩、呼名は勘平、丹波南桑田郡南掛村の一農家から出た人である。南掛村は江戸幕府時代には高槻藩の領地に属した山間僻陬の地である。父通称は権右衛門、名は武、母角氏名はたね、梅岩は貞享二年九日十五日この両親の二男として生まれた。父は廉直の性質にして、梅岩が十歳ばかりの頃、父の山に遊びに往つて栗の実五六個を拾ひ帰り、折しも昼食の際であつたので其座へ出して父に見せたところ、父は「其粟は何処に落ちて居たのか」と尋ねた。梅岩は「家の山と他の山との境目にありし」と答へた。父の曰く「家の山の栗の木は其枝山の頂にかかつて居らぬ。他の山の粟の枝は我が山の頂にかかつて居る。これは吃度他の山の栗に相異ない、それを辨へなく拾ふて来ることはよろしからず」と叱責して昼飯の半ばにも拘らず「今直ぐに元の所へかへして来い」と命じた。梅岩は直ちに持ち往きて木と栗のありし場所へ返して置いたといふ。この一事によりても梅岩の父が牴犢の愛に溺れずして厳格にその子を育てたことが窺はれる。その母の性行はよくわからぬが、元来その家は農家といへども水呑百性でなく、ひとかどの舊家にして中産階級であつたから、梅岩は静寂なる山村に母の慈愛の下に育てられ、廉直なる父のきびしき躾を受けたのである。梅岩が成長して後に社会の化導者となり、方正廉直を以て著はれたことは、その稟賦によることは勿論であるが、しかも、この慈愛と厳粛とを兼ねたる家庭教育がよくその本性を発揮し得たことも亦争はれざることであらう。  元録八年梅岩年十一歳の時、京都のある商家に奉公に出ることになつた。しかるにその主家は其頃から家運が傾き初めたので、梅岩に対する待遇は極めて薄く、生活は不足勝であつた。しかるに梅岩は一言半句の不平を言はず、主人を親と思ふて大切に奉公せねばならぬと言はれた父母の教訓を守り、その主人をば親ぞと強く心に刻で不足あればとてこれを他人に言ふことは出来ぬと両親にさへもその生活の窮状を語らなかつた。仲介者の某はそれを見て気の毒に思ひ、両親に相談して、其家へ呼びもどした。それから五六年も梅岩は親の手伝をして居つたが、寛永四年、齢二十三歳の時に再び京都に上ぼり、上京の商人其方に奉公した。今度の主人の家は相応に手広く商賣をして居つた。梅岩は心を傾けて忠勤を抽んでたのであるが、何時ともなく神道をしたひ、「何とぞ神道を弘むべし、若し聞く人なくば鈴を振り町町を廻はりてなりとも人の人たる道を勧めたし」と志し、商賣の間にも書物を懐中し、朝は朋輩の起き出でざる間に早く起きて二階の窓を開いて書を読み、夜は人の寝静まりたる後、独り孤燈の下に書を繙いたといふことである。梅岩は書を読み学を修めるのは只往時の聖賢の行を見て、普ねく衆人の模範とならんと願ひ、常に自からその志をはげまして居つた。主家は本願寺門徒で特に親鸞聖人の信仰が探く丁稚小僧までも悉く御堂詣りをさせしが、梅岩は度度参詣せず、却て時時その主人の老母に対して神道を勧めた。そこで其家の老番頭は、梅岩が神道に熱心で、主家の宗旨には甚だ疎いことを老母に告げて戒められよと言つた。老母は主人のためには義理の母であつたが、賢夫人といはれた人で「勘平が神道を学ぶのは其志格別である、御堂へ参詣せずとも信心があるから、勘平のことは構はずともよい」と言つて、梅岩の人格に信を置いて梅岩が思の儘に任じたのである。梅岩が後日その志望を達したことにはこの老母の援助が与かりて効果のあつたことは争ふべからざることである。  梅岩は此の如く、主家に仕へて忠実勤勉なりし一方、済世の志切にして先づ自己の修養に怠なく、ますます思を潜めて研鑽怠らなかつたが、遂に性を知ることが学間の初であるといふことを信じ、巳に自から性を知ることが出来たと考へるに至つた。しかるに年三十五六歳に及びて、性の問題につきて疑が起り、更に進んで師を求めたがその人を得ず、空しく歳月を過して居る内に、小栗了雲と称する学者に遇ひ、此人に就て性の問題に関する研鑽を積むこと一年半余に及んだ。時に梅岩四十歳の正月、母の病のために郷里にあり、看病の折にある用事ありて扉を出でしとき忽然として年来の疑が解け、「魚は水を泳ぎ鳥は空を飛ぶ、これこそ天の性にして性はこれ天地萬物の観である」ことを悟つた。梅岩は大に喜びて京都にかへり了雲に面してそのことを告げたるに了雲の曰く「汝我性は天地萬物の親と見たる所の目が残りあり、性は目なしにてこそあれ、その目を今一度離れ来たれ」とて、梅岩の悟道を許さなかつた。そこで梅岩は日夜寝食を忘れ工夫を積むこと一年にしてその工夫熟して遂に自性見識の見を離れることが出来たのである。この了雲も厳格の人にて門弟を教訓すること甚だ苛酷であつた。あるとき梅岩半年ばかりも了雲のもとへ立よらざりしに、ある老弟子が了雲に向ひて「彼は必ず人に秀でたるものなるべし、師があまりに厳しき故に離れたりと見ゆ・おしいことである」と言ひしを、了雲は「彼れが事はかまふべからず」と何の気色もなかつたといふ。梅岩が後日の成功もこの厳格なる師匠の教養の力が与つて力があつたことと思はれる。  梅岩四十二三歳の頃、主家を引退して諸家の講義を聞き大に得る所があつた。享保十四年始めて積年の素志を行ふべく、京都車屋町御池上ル東側に講席を開いた。束修を要せず謝禮を要せず、聴講随意にして全く道を拡むることを主とし、庶民階級を対象として通俗的の講話をなした。しかし開講第一日には聴講者一人もなく、まことに寂莫たるものであつた。梅岩は後年この時のことを記して次のやうに言つて居るのである。 「予講釈を初めんと志し、何月何日より開講、無縁のかたがたにても遠慮なくきかるべしと、書付を出だせしも、はや十五年になりぬ、其頃書付を見て、殊勝なりといふ人もあり、又あの不学にて何を説くやと譏るもあり、或は面向は譽むれども影にて笑ふ人もあり、其外評判まちまちなりと聞く、予晩学の事なれば何を覚えしこともなく、行跡も好人に似る事あらば然るべきに、それもいよいよ及び難し、然るに何を教ふと思ふべきか、吾教を立つる志は数年心を尽し聖賢の意味髣髴と得るものに似たる所あり、此心を知らしむる時は生死は言ふに及ばず、名聞利欲もはなれやすきことなり、是を導かん為なり、尤も文学に拙き講釈なれば聴衆も少からん。若し聞く人なくばたとひ辻立してなりとも吾志を述べんと思へり」  すべて何事を問はず、創業の際にありては思ひ設けぬ障碍が起り、その事業の端緒を得ることは至て困難である。梅岩も亦此の如き困難の間に立ちて、些も屈することなく、奮励努力、化導の素志を達せんとした。車屋町にあること九年にして、堺町通六角下る所に移り、此所にて相変らず構説に従事したが、此頃よりして聴講者も追追増加し、門人も出来て、京都市内は固より遠く大阪、河内、和泉等諸処に出張して講話をなした。  此の如くにして、梅岩の事業はその名声と共に世の中に聞えたが、延享元年秋九月二十三日の夜より病み、翌二十四日溘焉として其家に歿した。享年六十歳であつた。墓は京都音羽山の西、鳥邉野にあるが、一基の碑石に「石田勘平之墓」と題してあるのみ。大正六年十一月十七日、大正天皇京都御駐輦の砌、梅岩に正五位を御追贈あらせられた。  これは恐れ多くも梅岩が生前の功業に対しての御思召と拝察せられることであるが、聖恩枯骨に及ぶ、定めて梅岩も黄泉にありて天恩に感泣して居ることであらう。       その所説  梅岩が説きたる教の要旨は、一言にしてこれを尽せば心を尽し性を知ることを工夫すベしといふにあつた。さうして、梅岩が言ふところの性といふは人より禽獣草木まで天に受け得て以て生ずる理にして、松は緑に、桜は花、羽ある物は空を飛び、鱗ある物は水を泳ぐ、日月の天に懸るも皆一理である。「天性形なふして心の如し、地は形有りて物の如し、その生生する所は活物の如し、無心なる所は死物の如し、天地は死活の二つを兼ねたる物なり、死活の二つを兼すぶるが故に萬物の体となる、基物を暫く名づけて理とも、性とも、善とも云ふ」と、梅岩が自ら説明して居るやうに、天地萬物の体を指してこれを性といふのである。さうして此の如く萬物の体を成すところの理が、萬物の一つなる人体に具はりたるが人間の自性である。かやうにして、我我の自性は他の萬物と共に同じく天地の中より生れたるものである。萬物は一体である。約めてこれを言へば天の心は人である、人の心は天である。その本性より見れば天人一致である。この身の儘にして身体は世界一面の地である。心性はこの心の儘にて世界一面の天であると考ふべきである。人人が若しこの性を知るときは五常五倫の道は基中に備はつて居る。 「中庸」に「天命之請性、率性之謂道」といふことが説いてあるが、性を知らずして性に率ふことは得らるべきことでないから、この性を知ることが学問の網領であるとせらるるのである。梅岩の意見に拠れば、堯舜が萬世の法となつたのも性に率つたのである。それ故にこの性を知るを学問の初めとするのである。然るをこの心性の沙汰を除きて外に至極の学問はない。要するに、萬事は皆心よりなすもので、心は身の主である。主なき身とならば山野に捨てられたる死人に同じことである。自分が説くところは其主を知らするものであるから決して異端の説ではないと梅岩は弁明して居る。  梅岩はかやうにして、孟子が「尽心知性則知天」と説きたるを引きて、「我は萬物の一なり、萬物は天より生るる子なり。天地の間に生るるものは天を父とし地を母とし自から生ず、自から仁義禮智の性を具ふ。仁義禮智の良心より人倫の大原出づ。故に性の儘に上下天地は流れを同じくするなり、故に性を知るときは天理は其中に備はる、其命に違はざるやうに行ふ外、他事なかるべし」といふことを強く主張したのである。  梅岩の所説は此の如く、哲学的に天と地と人、宇宙の一切のものを同一と見たる一元論である。梅岩はこの一元論に本づきて、宇宙に対する人間の位置を明かにして次のやうに説いた。 「人の寝入たる時にても無心にして、動くは呼吸の息なり、その呼吸は我息には非ず、天地の陰陽が我体に出入し、形の動くは天地浩然の気なり、我と天地と渾然たる一物なり」  天地を人の上にていはば心は墟にして天なり、形は塞さがつて地なり、呼吸は陰暢なり、これを継ぐものは善なり、用を為す所を主どる体は性なり。此の如くにして、人は全体一個の小天地なり、我も一個の天地を知らば何に不足のあるべきやと梅岩は考へた。まことに梅岩の考にては、我我人間は小宇宙として大宇宙の心を得てこれを其心とするのである。天地にありて元亨利貞と言はるるものが人間にありて仁義禮智の性となると見るべきである。そもそも天地は物を生ずるを以て心とする。その生ずる所の物も亦各天地が物を生ずるの心を得てその心となすのである。しかるに人間は我欲に掩はれて此心を失するが故に、心を尽して天地の心に還ることをつとめねばならぬ。この点よりすれば放心を求めよと言はねばならぬ。さうして巳にこれを求め得れば天地の心となるのである。天地の心になる所にて説くときは無心といふべきである。天地は無心なれども四季行はれて萬物生ず、人間も天地の心を得れば私心なく、無心の如くなれども、かくして仁義禮智がよく行はるるのである。      宗教的一元論  此の如き哲学的一元論は、梅岩にありて、その宗教性に相応して、その思慮分別を離れて所謂無心となつたところに宗教的のものと転化したのである。梅岩が始め性につきて工夫せしときは自己の分別を逞しくして天人一致につきて思案を凝したのであつた。しかしながらそれは何処までも人間の私心を離れることの出来ぬものであつた。梅岩は退て更に深く工夫して遂に「自性の大なることも、萬物の親といふことも思はず、迷ふたとも思はざれば又悟つたとも思はず、春は霞に籠る百花を眺め、夏は晴れ行く空に蒼蒼たる翠緑を望み、秋は稲葉の霞に月を慕ひ、萩の下葉色づくより錦織りなす紅葉の景色を見、木の葉にかかる薄霜より変り変りて雪となる。唯天理の循環自然の妙趣を観ずるのみ」と大悟するに至つたのである。  思ふに、梅岩は自己の思慮分別によりて、天人一致の理を知つた。しかもそれは自己の私心に過ぎなかつた。この私心を離れて始めて自己の中に存する性を認めることが出来た。しかもそれが聾もなく、臭もなく、これを知ることの出来ぬものであることがわかつた。さうして、そのはたらきが天命と信知せられて、その天命に違はざることが人間の道であると感ぜらるるに至つた。これは正に宗教の心である。それ故にその性を神とし、仏として畏敬するに至つたのであらう。  恵心僧都の「真如観」に「真如の理と云ふは広く法界に遍して至らぬ処なく、一切の法は其数無量無辺なれども真如の理を離れたるものなし、亦萬法を融通して一切となせば萬法一如の理と名づく」といひ、又同書に「摩訶止観」を引て一色一番無非中道、己界及仏界衆生界亦然の文を挙げ、これを説明して「己界とは行者の自心なり、仏界とは十方の諸仏なり、衆生は一切衆生なり、一色一香は草木瓦礫山河大地大海虚空等の一切非情の類なり、これ等の萬物中道に非ずといふことなし」と言つてある。中道とは真如の異名である。この真如は宇宙に遍満して存するものにして、梅岩がいふところの天地の性に相当する。この真如が我が体であることを知ればすなはち我が法界にてこの外に別のものと思ふべからず。「悟れば十方法界の緒仏一切の菩薩も皆我が身の中にまします、我身を離れて別の仏を求めむは我身即真如と知らざる時のことなり、真如と我と一つ物なりと知りぬれば釈迦弥勒等の諸菩薩も皆我身をはなれたまへるものにあらず」。かやうにして仏教にて説かるるところの真如観は梅岩がいふところの天人一致とその軌を同ふするところの宗教的一元論である。梅岩は説いて曰く真仏といふは煩悩と菩提とを離れ終りて煩悩にも入り水に入り火に入り天にも入り地にも入り地獄餓鬼畜生の十界に入り、微塵ばかりも嫌ふ心なくば是を実に心仏及衆生是三無分別と仏の説き玉ふ所なり」  かくの如き宗教的一元論の上にありて、仏といはるるものは我我人間と同じ平面にあるもので、決して我我人間を超越して存するところの特別のものでない、これまさに仏教に説くところである。梅岩は又 「これによりて反照して見れば、我は先づ空天の中に身は入れ実地の上に身を置き、日月の光り我が両眼を照し、木火土金水にて身を養ひ、その木火土金水は森羅万象の体なり、我身も又森羅万象の一物なり、森羅万象は悉く皆仏なり、我も亦その一仏なり、この仏の外に我といふものあることを知らず」  西洋の「クリスト」教に於ける「ゴツト」(Gott)とは異なりて萬有神(All-Gott)である。梅岩が説くところのものは全く仏教にて言ふところの仏身観と同じものである。それ故に、その表現の形式より見れば、梅岩の宗教は仏教の所説に同じきものであると言はねばならぬ。       仏法観  然らば梅岩自身は仏法を如何に観たか。それにつきて「都鄙問答」に記されたる所を見るに、梅岩は仏法を以て儒学と同じく、我心を磨く種であると見たのである。すなはち梅岩がいふところの性を知る外に仏法はないとしたのである。 「仏は覚なり、覚は一切衆生の迷ひ解くるなりとせり、迷ひ解くれば本に帰る故に三界唯一心といふ、迷の解けたる体を名づけて仏性といふ。仏性といふは天地人の躰なり、至極の所は性を知る外に仏法あらんや、仏より二十八世達磨大師は見性成仏と説けり、又儒には道の大原は天に出づ、依て天の命これを性といふ、性に率ふは人の道なりと説き王ふ、性といふも天地人の体なり、神儒仏ともに悟る心は一なり、何れの法にて得るとも、皆我心を得るなり」  梅岩はかやうに自由なる思想によりて仏教を観て、当時の儒家のやうに徒に仏教を罵倒しなかつた。しかも仏教に自力他力を別つことを非難して「仏は元来不生不滅なれば無心なり、無心なれば、自はなし、自なければ対する所の他はなし、何をか自力とし、何をか他力とせむ」と痛言して居る。又「禅宗にて本来面目といふ所は浄土宗の念仏三昧になりたる所に同じ、本来面目といふ所も無我なり、念仏三昧に入りて余念なき所も無我なり、智あるものは禅に入場所を知てたのしむべし、無智なるものは無智にてつとまる念仏にて入るべし、裏門と表門と入口は替るも中は一なり」と説くところを見れば、梅岩は仏法をばかなりよく理解して居つたやうに見える。       念仏宗  梅岩が仏教につきて叙述せる中に、西方極楽へ往生彼国に至て如来の説法を聞き悟を開き成仏するとの教をば念仏宗としてこれと挙げ、この教を説きて人を導くことを務とするものはよく工夫して悟を開くことを要すと言つて居る。梅岩に拠れば仏氏にていふときは迷ふが故に三界城、悟るが故に十方空、本来無東西、何処有南北矣で、彼国といふは唯心の浄土といふことである。浄土といふも我心のことである。ただ一切衆生に心の濁り乱るるもの多く、正念の者は少き故に衆生の心を一筋に向はしめむが為に西方を極楽と指して教ゆるのである。又如来の説法といふは直に南無阿弥陀仏と知るべしと言つて南無阿弥陀仏の意味を説明して居るが、梅岩の所説に拠ると、口に唱へる南無阿弥陀仏が耳に入り一遍の念仏にて一念の悪を消し、二遍の念仏にて二念の悪を消す、悪念死して善心生まるるからこれ即ち往生である。念仏の行者も初には火宅を厭ひ離れむことを思ふて、極楽往生を願ひ、弥陀を念ずるのである。それより年月を経て南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱ふれば念仏にくせつきて終には余念他念なく、後には南無阿弥陀仏ばかりになれば住かずして南無阿弥陀仏に生るるのである。南無阿弥陀仏になれば我といふものが無い。我が無ければ虚空の如くである。虚空に南無阿弥陀仏の声ありて唱ふればこれ即ち阿弥陀仏である。阿弥陀仏に御名を唱へたまふは説法である。この説法の功徳によりて弥陀を念する行者も念ぜらるる方の仏も雙方ともに一体となり、苦樂の二つを離れ終るのである。離れ終りて無心無念・不可思議となる。これを名づけて自然悟道ともいひ、能所不二・機法一体ともいふのである。梅岩は固より浄土の宗乗を専門に研究したものでないから、その用語や説明の方法に至りては十分とは言はれぬところが有りとしても、その意のあるところを汲みて考ふればその説明は明かに他力本願の念仏をば心理学的に叙述したものである。  梅岩は又、別に南無阿弥陀仏の言葉の意義を解釈して次のやうに言つて居る。 「南無は帰命と訳す、訳すとは天竺の言葉を唐の言に直すをいふ、帰命に二義あり、一には帰は還源の義なり、命は法身の壽名なりといひて法を聞き我心の法性を以て法身の常任不変の所に還帰するなり、二には帰は敬順の義、命は命令なり、仏の願と、仏の心と仏の言に随ひて決定して依り行ふ故に帰命といふ。阿弥陀は天竺の語なり、飜して無量壽といふ。仏は天竺の語なり、訳して覚者といふ、覚はさとるなり、一切迷をさとりほとけるをいふ。すべていへば南無阿弥陀仏とは我が法身をさとり得たる異名なるが故に、心仏及び衆生と是の三つ差別なしと仏経にも説きたまへり。衆生は即ち心なり、心は即ち仏なり、しかれば心と衆生と仏と三つは一つなり。「となふれば仏も我もなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして」と遊行上人も詠じたまへり、仏も我もなき所は即ち無心なり、無心即ち南無阿弥陀仏の六字なり」  梅岩の意は、真に南無阿禰陀仏の意味を信知することは自性を悟りて後に始めてなし得らるるのである。先づ向ふに方便の尊像を立て、それに対して南無阿弥陀仏を唱ふれば始めは仏あれども後には仏をも忘れ巳をも忘れ、機法一体となりてその仏は我に入り我は仏に入り一同となる。「うれしさを昔は袖につつみけりこよひは身にもあまりけるかな」とあり難くなる。そのありがたきも抜けて「座禅するおのれがむねに何かあるへんてつもなきあばらほねかな」といふ無心になる。それ故に南無阿弥陀仏と口を鳴して居れば修行したかと思ふ念もやみて、思ふことも思ふべき隙なく、経には何事も忘れて広大の天地ばかりになる。巳に天地と同一になれば壽命は無量となるべしと梅岩は説いた。かやうな心持は法然上人が白木の念仏といはれ若しくはただの念仏といはれたものと同じことであらう。  梅岩は又「阿弥陀経」に極楽に阿禰陀仏が現に在まして説法したまふとあるのを引て、現在の説法といふは草木国士悉皆成仏にて森羅萬象悉く一体なれば柳は緑、花は紅と分れて己れが法を説く、一心不乱の修行を以て此に至り九品の浄土を目前に拝むべきであると説いて居る。かやうに念仏にて法性に至り自然悟道することは、修行の功を積み、観念座禅等によりて悟りを開くと何等替りはないと断じて居る。これ等はすべて現実の精神の作用の上に就て言ふのであるから、梅岩の説は空論を離れ実際に即したものであるといはねばならぬ。       煩悩菩提  梅岩の仏教につきての考を明かにするがために猶一言すべきことがある。梅岩は何処までも一元論的に考へて煩悩と菩提とを同一のものとした「菩提とは道といふことなり、道とは正体の知らぬ所、不可思議の妙所なり、この妙所に仮に名をつけて菩提といふ」 「菩提といふは煩悩に対する名なり、煩悩菩提といふ名は肉眼にて見、肉耳によりて聞くによりて現はれたるなり、菩提といふ名あれば一心の病にて煩ひ悩むなり、安樂を好む病ある故に煩悩を嫌ふなり、嫌ふ心ありて菩提を求むるが故に煩ふなり」「心も仏も衆生も只一物なれば何を分ちて煩悩とせむ」。煩悩は迷であり、菩提は悟りである。迷の煩悩と悟の菩提とその体全く一体である。たとへば水と氷と外面はかはれども溶けて水となればその体は同じ物であるが如きである。梅岩はこの意味を示すために次のやうな歌を作つてこれを示した。   菩提とて得るに心のあるならば           これぞまことの煩悩と見る   煩悩と菩提を知らぬ心にて           世をなにとなく住めば住吉   煩悩と菩提は舟と陸とにて          至りて見ればへんてつもなし   だまされて菩提を善と思ひつつ            煩ひなやむひとぞかなしき   煩悩も菩提も釈迦の口がなる            声に二つのかはりあるかは       十善戒相  仏教にて大乗の在家戒として説かれるものに十善戒といはるるものがある。これは不殺生、不倫盗、不邪淫、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貪欲、不瞋恚、不邪見の十善を受持して懈ることのないやうに修行すべきことであるが、梅岩は自己の所見に本づきて、十善戒相を挙げてこの十善戒の意味を説明して居る。これも亦梅岩が仏教に志の厚かつたことを証明すべき一資料である。       十善戒相 「第一天地の徳能く萬物を生じて殺す故に、生を害し育を妨ぐる者は天の儀地の理に違ひぬるなり。天地の中に人最尊ければ人を殺せば大ひなる罪を得る。畜生等は是忙次ぐべし乃至は無用に花葉を折らず、時至らざるに果を取らず、是慈悲不殺生の趣きなり。  第二天高く地卑く富あり貧あり智あり愚あり、故に上を訛らして下に憐をなさず、下を虐して上へ蹈はず、富を滅して貧を増さず、愚者を以て智者の上に立たず、右を左に移さず、左を右へ転ぜす、是不倫盗戒の趣也。  第三天覆ふ地は載す、是陰陽の常なり、故に夫婦の交りわづかに其儀に背けば天徳を失ひ地儀を亡す、四方位に定まれば其所を知るべし、乃至男女の相を忘れて世にありて世を利する、是不邪婬の相也。  第四天に天の道あり、地に地の道あり、日月西に流星辰東に移る、海を渡るに舟船を以てし山に登るに車与を以てす、故に言語も其法を失へば天に背き地の理に違ふなり。  第五天の道は春は花咲き夏は雷す秋は風吹冬は雪降る、四時其序を守りて違はず、大人に大人の儀あり、大人の辞あり、小人に小人の行あり、小人の語あり、小人にして大人の行を成さず、下の言語もまた此の如し、誠を守れば妄語なき也。  第六春風は必ず萬物を生ず、暴風は定つて穀麥損ず、其露は物に利あり駛雨は人を損ず是を以て悪口し物を罵るは天地の常に違ふ也。  第七山は高く谷は深し、然れども山は山にして山の徳を具へ谷は谷にして其徳あり人も亦此の如し、得あり欠あり此人の失を彼に告ず彼者の非を此に伝へず、是不両舌の相なり。  第八山には草木生じ海には魚亀遊ぶ、上には官位俸禄の富あり下には賣買又産業の樂みあり、是を以て父母に事るに足れり、妻子をも養ふべし山林山家は衣服乏しけれども閑遊の致《むね》あり、市中は萬事紛紛たれども豊饒の栄あり、己れが心に適する所を求て外を願はぬは是不貪欲の相なり。  第九雨降らんとすれば雷電す、冬又雪降らんとすれば烝熟す、風吹く時は樹下の枝をたゆむ、人怒らんとする時は必自ら苦む、瞋恚は自が身心を悩し徳義を損し事を破る。敬むべし。  第十不邪見は甚深して容易に説き難し、其大要は善をなし其報ひあるを知り悪を成して其果の報ひあるを知るなり、若し不邪見を信ずれば仏道の尊きを知り、鬼神の起る所或は日月の明なる事、聖人の世に在すこと、山海草木の生ることも悉く知るなり」。  いかにもよく十善戒の意味が説明せられて居る。さうして梅岩は平生よくこの十善戒を受持して居つたことが思はれるのである。       神道観  梅岩は若き時より神道を奉じ、それを説き弘むることを志したといはれ、又敬神の念に厚かつたことも知られて居るが、その神道観が「語録」に叙述せられて居るところを見るに、梅岩は「日本紀」に「其清陽者為天、重濁者為地、神聖生其中、手時、天地中生一物、状如葦牙、便化為神、號国常立尊」とあるを挙げて、天地開闢の説は天地は自然の次第なることを知らしめむがためであるとする。さうしてこの天地開闢の理は我が一身にも具はつて居るといふ。たとへていへば爰に一本の菓樹ありとして、その種は国常立尊なり、その種を植えて葉となり萌すは伊弉諾伊弉冊の二神の如し、其心の一本より枝葉千萬に分れるは八百萬神の如し、その枝枝に菓実となるは保食神である。其菓零落して地に入る所は、月読尊劔を抜て撃殺したまふが如し、其種の土中にあるは又国常立尊の如し、此理を推して見るときは国常立尊は占今に渡してましますもので、萬物の種は国常立尊である。二葉に分れて人間を始め鳥獣草木に至るまでに陰陽のあらはるるは伊弉諾伊弉冊二尊なり、天に日月ありて昼夜を照し、人に明徳ありて天地萬物の理を照し、自己の身を修むる理を草木国土に具ふるはこれ天照大神である。これ皆、天地自然の妙徳である。凡そ人間が生を養ふのは萬物のためである。天照大神は萬民の長にて上下貴賤を撰みたまはず偏に恵みたまふ。しからば萬物が人間を養ふものであるといふも皆天照大神の御恵みによりてである。聖徳太子の「舊事記」、安麻呂の「古事記」、舎人親王の「日本書紀神代巻」はこの理を示さむがために撰述せられたものであるが、それは我身を主宰したまふ天照大神より直接に伝へられたるものである。それ故にこの唯一神道は尊むべく仰ぐべきものであると梅岩は唱道したのである。梅岩が敬神崇祖の念に深かつたことは顕著の事実であるが、その敬虔の心は天照大神を宗源として無上に尊崇し奉るべきことであり、それが梅岩の神道であつた。又梅岩は常に自からこれを修めて怠らなかつたのである。       宗教的態度  梅岩の意は、小宇宙なる自分は大宇宙の一部であるから、一切の我意を捨てて天の命に率はねばならぬとする。かやうに世界に対する人間の位置を明かに認めたる梅岩にありては、我意を棄てたところに宗教の感情が意識せられたことであらう。さうして、かういふ心からあらはれた態度は自からにして宗教的である。固より伝統的の宗教の形式からは全く離れて居つたのであるから、宗派の上より見れば宗教には属せぬものと見られたことであらう。しかしながらその精神の態度は明かに宗教的であるから、多くの人人からはその宗教的態度の一端が認められたものと思ふ。大阪の儒家中井竹山がその著「草茅危言」の中に心学を罵倒せる條下にも「従来石門流と称する学徒有て、儒名を以て仏意を勧め、無縁に人を集め盛に行はるることなり。一通ほりは日用著実を務め、民生産業渡生のことを主とするは凡庸の曉易きこと有とも、夫ばかりにては余り浅紀鄙俚なる故、禅学を奥の手とし、禅機を以て愚民を悟道せしめ、眼一丁字無くても道を得べしとするは大に人心を害する者なり、奥義は禅に落れども、鄙紀をもて手広く愚俗を引入るることは一向宗より一転したるものなり」と言つてあるやうに、たとひその詬罵が事実に相異せることあるにしても、梅岩の心学が当時我邦に行はれたる宗教としての仏教を宣布せるものと思はれたことは事実である。又津川正恭の「譚海」にも石門心学のことにつきて叙述して「その教ふるところの大意、程朱の本然の気質にもとづき、至極の所は釈老の旨とひとしく、我心の安立する所を得るを肝要とくみたてたる事にて禅家悟入の理に粗かはることなし」と批評してある。何れにしても、梅岩の態度が精神的にも、又身体的にも宗教的であつたことは、これ等の事例に徹して明らかに窮はれるのである。       簡易生活  かやうに梅岩の態度が精神的にも、又身体的にも宗教的であつたことを説明するためにその日常の生活の状態につきて、ここに略述しやうと思ふ。  梅岩の日常生活は極めて簡易にして又極めて質素であつた。それは梅岩が天性浮華を好まざりしためでもあつたと思はれるが、しかし神の恵みによりて養はれて居る人間が纔《わず》かの物にても粗末にすることは即ち神を無みするものである。誠に神を信ずるものならば塵一筋をも捨つべからずとするところの宗教的の心がその本となつたことは争はれぬことである。  先づ衣・食・住につきて見るに、衣服は夏の常著は布、晴著は奈良晒布、冬の常著は木綿、晴著は紬を用ひた。飯は上白米にして粥の類を食することが多かつた。日に一度はきはめて味噂汁を調へ粗なる山菜を調へて食した。茶は平生粗ならざるものを用ひ、折折煎じがらをひたしものにして食した。菜の葉の類は腐りたる葉は捨て枯葉はこれを捨てずして用ひた。  稀に魚類を買ひ求めたが、それも一年に何回といふほどで、又その品はこあいざこ、或ははかり鯨、海老ざこの類に止まつた。固より当時交通が便利でなかつた京都で新鮮の魚類を求めることは容易でなかつたが、それにしても梅岩が膏梁の欲を制することに心をかけたことが察せられる。  梅岩は又、家屋の建築に善美を尽したものを喜ばなかつたと伝へられて居る。梅岩は自炊した。梅岩の意はこれによりて欲心の出来ぬやうにと志したのであつた。無欲になれば人の心を助くる便ともならんかと期待したのである。梅岩が妻帯せざりしより巳むを得ずして自炊したのではなかつた。門人にもその真意を知らぬものがあつたと見へて、下男一人使ひたまふべしといひしを、梅岩は辞して「それは却て我が労になれば無用なり」と断はりしを門人は強て言ひければ梅岩は拒むことなく使ひたるにその男は常に出あるき留守の役にさへ立たぬものであつた。しかるに梅岩は一言も口に出さずしてその下男を使つた。門人これを知りてその男を追出し又別の男を置きかへけるにこのもの柔和であつたが鈍きものにて自分の帯さへ得せざれば梅岩は常に結びて遣はした。この男も梅岩労になれば門人又これを退けて、その後は梅岩の意に任せしかば梅岩は生涯自炊にて暮した。  梅岩は二十歳の頃、脾胃を病みたるによりて朝夕雑炊を食し、それ故か一月ばかりにて治癒した。梅岩これによりて考へたのは一日に二食すれば身の養は足れりと思ひ、其後四十歳の頃までは二食にて暮した。およそ一日に四合食を三合にて足れば残る一合は世界の助となる。それのみならず度度食すれば萬事につひゑ多き故に二食にて暮し、残る一食分の米一合は乞食に施した。しかるに夜分講釈を始めてから、成人の勧告に声を張るもの、食乏しければ命の障となるを聞きて、短命にては我が伝ふる道を人に授るの志遂げずと思ひて、それより三食になしたと、梅岩自から語て居る。これに拠りて見ると、梅岩が極めて簡易質素の生活をしたことも、単に金錢の事を願慮してのことにはあらずして、天の命に率ひて、贅沢なる生活を避くることが、人間の道であることを自覚したためであらう。  梅岩は平生みづから髪を結び、元結は洗ひて幾度もこれを用ひたといふことである。梅岩は終身妻帯せざりしが、その理由は道を弘るの志が深かつたので、妻子にひかれ大道を失はんことを恐れて独身にて生活した。或人これを不審して、妻子を帯して行ひ難きを行ふのが道である、教は五倫を専らにして自身に於て五倫を廃するは何事ぞといひしに、梅岩の曰く「此の如きは顔子の如き地位の人なり、我ごときは顔子の行に合ふことは出来ぬ、此故に独身にて居れり、我に兄弟あり、又甥あれば先祖の祭を廃するにあらず、我は子孫を繁昌し我を祭られんことを強ひて願ふものにあらず、愚意は一身を捨ててなりとも道の行はれんことを思ふのみ」と言つた。梅岩が道のために自身を顧みなかつたことはこれによりてもその一斑が窺はれる。       平生日課  梅岩は平生朝は未明に起き、手を洗ひ、戸を開き、家内を掃除し、羽織袴を著して更に手を洗ひ、新に燈を献じ、先づ天照皇太神官を拝し、竈の神を拝し、故郷の氏神を拝し、聖文宜王を拝し、弥陀、釈迦仏を拝し、師を拝し、先祖父母等を拝し、それより食に向ひて一一頂戴し、食し了りて口をすすぎ、しばらく休息し、それより講釈を始むるを例とした。暮方にも又掃除し、手を洗ひ、燈を献じ、朝の如くに諸神仏を拝することを欠ぎたることがない。朝の講釈は明方に始まり辰の刻(今の八時)に終り、夜の講釈は暮早早に始まり戌の刻(今の八時)に終る。朝暮講釈の前に、朝は白湯、暮には茶を煎じ、煙草盆の火入ごとに火をいけ置く。昼の間は来客多く、且つ時を定めず講釈を乞ふて聞く人もあり、夜は毎夜遅くまで門人集まり居て聞けるところの不審あるを尋ね論ず。かく昼夜事繁きにも拘らず、其隙には机に倚りて書を読む。折折持病によりて頭痛し、ねぶりを催すことあり、其時はそのまま座を起ちて掃除などをなし、ねぶりさめぬれば掃除をさし置きて又机に倚りて書を読む。夏の短夜にも門人が帰りたる後書を読み、十時より前に寝たることなし、冬の夜には十二時頃までも読書するのを常とした。  梅岩の日課が此の如く規則の正しきものであり、又極めて厳格であり、しかも梅岩が老年に至るまで、すこしもこれを怠ることがなかつたことは、まことに驚嘆に余りあることで、到底常人の及ぶところではなかつた。       敬神崇祖  梅岩の平生の行動の中に特に挙げて言ふべきことは、敬虔の心が強く、敬神崇祖これつとめたことである。梅岩の「事蹟」に記されて居るところを見ると、梅岩は朝暮天照皇太神宮を拝した。それから竃の神・故郷の氏紳・孔子・弥陀・釈迦を拝し、師を拝し、先祖父母等を拝した。これは巳に前の日課の條に述べた通りであるが、梅岩は「今上皇帝を拝し奉ることは下民に於て恐あり、天照皇太神宮を辞する中に摂在して居る」と言つた。さうして梅岩は禁裏南門の前にては天照皇太神宮を拝する心にて過ぎた。伊勢参宮の人を迎ふるときには沐浴したが、これは神を拝する心にて迎へたのである。自から参宮するときは旅宿にて毎夜沐浴したといふことである。  梅岩故郷へ行くときには必ず宅にて沐浴し、道の程七里ばかりの所をば、故郷の宅に著くまでは二便を便ぜず、身を汚すことを憚つたのである。故郷に至りては先づ氏神に参詣し、次に父母の墓へ参りて後に宅に著くのを例とした。門人より備ふる鏡餅をば悉く神に献じて後に使つた。又酒を買ふときは先づ竃へそそぎ献ずるのを例とした。       謹直謙下  梅岩の性質が謹直であり、又極めて謙下であつたことは、門人が記したる「事蹟」にその例が多く見えて居る。梅岩は制札の前は笠をぬぎ腰を折て通過した。これは公儀の命令を重んじたためである。さうしてその笠を脱ぐことは一町も前よりした。これは人の目に立たぬやうにとの心遣りからであつた。公儀から觸状(布告)の廻送を受けたときは篤く敬ひてこれを閲覧した。人から手紙が来ると推し戴いてから披き見た。実に目のあたり其人に対すると同様であつた。貴人に拝謁するときには必ず沐浴した。高貴の御方の御手跡を手本にして習ふは下民に於ては恐れ憚るべきことなりと言つて之を戒めた。衣服ごしに足に手を触れたるときには即ち立て手を洗つた。小便に行く毎に袴羽織をぬぎて行く。大便に行くには先づ小便所にて小便を便して後に大便所に行く、これ大小便を混ずれば運送の勝手悪しく農家に嫌ふことなればと心遣ひするためである。風呂へ入るには先づ身をよく洗ひて後浴に入る。道を往来するに夏は蔭を人に譲り、自らは日あたりをあるき、冬は日あたりを人に譲り、自らは蔭を歩行した。  梅岩ある年の夏、河内の黒杉政胤の宅へ講釈に行きしに籬のほとりに流水を仕掛ありしを見て、この流水は常にあるやと尋ねしかば、政胤は「仰せの如く常にある流水なり」と答ふ。梅岩曰く「今は農家に水を求むる時なれば尋ぬるなり」と。これは自分のために暑を避けむとてわざと水をせき入れたるならば農家の障りとならむことを恐れてであつた。旅宿より講席へ行く途中にて田の草を見て、麻上下を著ながら泥土の中へ手を入れ草を取り、此草は肥料を奪ふて悪しき草なりと門人に示した。此辺の人梅岩の講釈を聞きてより家業を励み勉むるやうになつたといふ。講釈了りて政胤祝儀として白銀一封を差出せしに梅岩受けず、禮の過ぐるが故なりと門人に語つたといふ。講釈の終りし日京都の門人梅岩を迎に行きしに、政胤梅岩に請ふてその門人に近辺の名所古跡を見せたしといひければ、梅岩は門人に対して政胤の厚意を受くべしといひしに、門人は遊山の望なしとてこれを辞し、翌日早朝に発足した。帰京の後、梅岩は其事につきて門人に語りて「何方にてもあれ遊山のために逗留することは我が好まざるところである」とて門人が逗留しなかつたことを喜むだといふ。       倹約  梅岩は当時の人人が衣食住に豪奢を競ひ栄華の生活をなすことを慨嘆し、日常の事にて最上至極とすべきは倹約に過ぐるはなしと主張した。しかも梅岩の倹約につきての思想は決して消極的のものではなかつた。或人が梅岩に対して「倹約は如何に心得て勤むべきや」と問ひたるに、梅岩は答へて「倹約といふことは世俗の説とは異り、我が為に物事を吝くするにはあらず、世界の為に三つ入る物を二つにて済むやうにするを倹約といふ」と言つて居る。梅岩は又「倹約を世帯を持ち、金銀を溜めるばかりと思ふは見る所狭し、見るところ狭きときは財寳を溜め、その財寳を以て世界の財寳を買はしめ、貪ぼることをつとめて世を困しむ。我が倹約するは世に貪りたき思ひを止めむがためなり」と語つて居る。これによりて見るに、梅岩が言ふところの倹約は主とするところ世の中の物を無益に費すことのなきやうにつとむることである。梅岩はこのことにつきて次のやうに言つて居る。 「責て此身を養ふことを思はば無益に捨る物の費となることを思ふべきなり、我もこの事を思ひ、三十年以来は他に出づることありて途中にて小用など便じたきことありても田舎の細路などにても平地には便ぜす、賤しきことながら心にかけ、雪隠に入りてこれを便ず、これなきときは田畠の中に入りて用をなし捨りなきやうにするなり。  此も身分相応の倹約なりと思へり。又ごもく箱に紙屑などの散しあるは不浄なるが如くなれども、拾ひ上げて紙屑籠に入れ置くも再び紙となるもののすたり行くことををしむが故なり。」  梅岩の意にては、倹約とは惜しみて物を用ひぬといふやうなことではなく、倹約とは物につづまやかなることにて、我がために吝きことをなすは欲心の吝嗇にて倹約にあらず、倹約とは天下のために物を節することである。さうして梅岩が無益に物を費すことなきやうにといへるその物は、只狭く金錢や一定の物質のみを指すにはあらずして、広き意味にていふところの物を無益に費すことなきやうにといふのである。 「我幼年の時分より気質理屈者にて友達にも嫌はれ、只只意地の悪いこと多く、十四歳の頃より是をかなしく思ひて、年二十歳の頃はあらまし直ほりたりと思へども言葉の端に顕はれ侍りしが、是も四十歳の頃には梅干の黒焼の如く、少し酸めがあるやうに覚えし侍りぬ、今にては最早意地の悪きことはあらましなきやうに思ひ、自らも許す、是を以て我に交りせらるる御方の心の寳を費さずして養ふことなり、これは瑣細のこと也、聖人の道を学ぶといへども他の行の方は一つも是ぞと挙げていふべきことを知らず、恥敷かな」 此の如き梅岩の意見より見れば、たとへば約束しれる時刻を遅れて空しく相手に時間を浪費せしむることや、文字不明瞭の書状を人に送りてそれを判読するがために労苦を費やさしめることなど、他人に迷惑をかくることなども、倹約の趣旨に背くものであると言はねばならぬ。  梅岩は又曰く 「三十頃より以前は是が倹約といふことをもまづは存ぜす候、只只我物と人の物とを分けたきばかりに候、廿四五歳より廿七八歳の頃は専一に曲ることを嫌ひ、気を煩ふことあり、其時節は如何に思はれ候やら、親方の隠居より召に越され候て、言はるるには、汝が病気何とも心得難し、すべて人は木石にあらざれば少少は遊興も致し申すべき由申され候へども中中我が心に落著致し難し、其後又時の番頭が申し候は汝気を煩ひ日夜薬を呑み隙を欠ぎ不奉公するよりは、少少は金の費ゆることありとも無事息災になりて商賣に情を入れ勤むるに勝さることあるまじと云ひけり、我心に思ふは手代と云ふものは親方の手代なり、何をするも親方のことなれば費と思ふも金銀も此身も我が物にはあらず、皆親方の物なり、遣ふ金銀を薬代と思へば何の仔細あるべきやと思ひ入れ、夫より少少宛金銀を費すといへども病気快気のことなれば是ぞ誠の倹約と思へり、云云、又病気養生の為にとて、一日に二食づつにて暮し侍りし時、病気快気して後思ふやうは、是よりも只二食にて暮し一食を余す時は乞食一人を養ふと思へり、是ぞ誠の倹約と思ひ、其外割木一本菜一葉にても粗末にせねば民の辛労を助くると思ひ、是を樂しみと思へり、云云、或人我に告て曰く、汝の如く朝暮声を遣ひ心を労するものは食を控へらるれば短命なるべしと云へり、我思ふに実に尤なり、一食を余は瑣細のことなりと思ひそれより一食を増して三食となせり、今に至りては世界の為の倹約とも思はず、道の為めとも思はず候へども只只米一粒藁一筋にても無益に費すことを欺く。」  かやうにして、梅岩はその心境の発展を述べて、「倹約の至極といふは天下の為にも、道の為にも、我身の為にもあらず、為といふ二心あらば誠にあらず、何も蚊も打ち忘れて法をよく守るを倹約と思へり」と言つて居る。ここに始めは何のためにと道徳的に考へたる倹約が進みて遂に何のためにといふことなく、法のあらはれに催ほされて倹約するやうになつたのである。これすなはち宗教的のものである。     仁愛  仁といひ、愛といひ、共に人間の精神が同類のものを結合するためにのみでなく、広く一切萬物を結合するためのはたらきをなすものであるから、宗教の心が仁愛を以て最も主要のものとすることは言ふまでもない。梅岩も亦仁愛を肝要としたが、それにつきては別に一家の説を立てた。それは朱子の説に本づきて、天の理として認むべき無我の性に率ひて渾然、無念無想の心に住することが仁の体であるとするのである。この心境にあるときは名利の念なく、人我の別なく、事に応じてあらはるるところが仁愛の念である。さうしてこの仁愛の心は仁の用である。しかも体が本にして用は末であり、本立ちて末は自から行はるるものなれば人人は先づ仁の体に心を用ひてこれを存養することが肝要である。然るにこの仁の体は動もすれば人欲のために蔽はれて、その本来の面目を発揮することが出来なくなるのが常である。それ故に私欲を制することが第一必要であることを説き、梅岩は自らつとめてこれを修養することにつとめた。  「石田先生事蹟」に記するところに拠れば梅岩は実際、心遣もせず身に苦労をせず、財も費さずして仁の行はるることを言ひ、萬分一にても行はるべきことを行へばそれほどの仁となりて善となるべしと、次のやうなことを列挙して居る。  「道を往来するとき心がけなば道を造るがごとき世のたすけとなることあるべし、一事を挙げていはば小水の道中へ流れ出るを側へせきやりおくも仁なり。他出するに往く所を親兄弟にても、家内の者にてもたしかに言ひ置けば人の心を安んじて仁なり。往還の道筋をいひ置けば迎が違はずして仁なり。  書は御家流をかくべし、これ見え安ければ人の心をやすんじて仁なり。  からかさ、菅笠の類に目印を書付置は、しるしのなきよりはよけれども、直ぐに名をかきつくるにくらぶれば悪るし、名を書付おけば百人が百人ながら知る、しるしなければ百人が九十人は知らず、あまたの人の心を労して不仁なり。  すべて物を用ゆるに愛宕山、日枝山にて水をつかふと、大井河賀茂河にて水を遣ふとのごとく、其所其所にてほどよく用ひ、人の心をいためめやうにするは、すこし人の気に入らぬことありとも、無欲にするほど仁の本となることはあるまじ。少しづつは心懸候へども、これには腰が立ち申さず候、これに腰を立て申度願に候へども生涯には願ひかなふまじきかと歎かはしく候。」  梅岩は此の如くに仁愛につきて考へたのであるから、韓退之が博愛之請仁と言つたことをば不徹底として居る。梅岩の説に拠れば聖人の道は心を尽し性を知れば則ち天を知る。その天を知るは自然の理である。自然の妙と心に得て徳といふ、朱文公がいふやうに仁は心の徳愛の理であるからそれは徳性より自然に発るものである。此の如く天心の妙よりして起る愛なれば無心にして仁愛天下に及ぶのである。仁は心の徳にして身を治めその徳を修むるによりて自から天下に及ぶのである。しかるにこの理を知らずして人間が心ありて為すことと思ふが故に博く愛するこれを仁といふと説くのは誤謬である。  梅岩は無益の殺生をかなしみ、少年のときよりして、浴み、洗足、あるひは物のゆで湯などもあつきは水を合せて流し、地中の虫の死せざるやうにしたといふことである。何方にても火事あれば梅岩は心を労した。これは人人の難儀且つ財寳の滅することをいたむがためであつた。ある年の冬の夜、下岡崎に大火事ありしに、寒中といひ、夜中といひ食物が乏しくては堪え難かるべしとて夜半に門人と催し、飯をたき握飯として門人を伴ひ、彼の下岡崎に持ち行きて難儀するものに悉く与へた。元文庚申の冬より辛酉の春に至り、上京下京のはしばし困窮の人の多かりしに施行するもののなきを慨き、梅岩は門人を所所へわかちつかはし困窮の人人に錢を施した。これ等は皆梅岩がその本性の仁愛からあらはれた奇特の行為であつた。       存養省察  上章に縷述した通ほりに、梅岩の心法の学は、性を知り仁を体することを期図し、その講釈は通俗倫理を平易に説明し、加ふるに梅岩は謹厚恭謙の天性を以て、平生の生活は堅くるしく、方正厳粛であつたから、所請道学者の亜流であつたかの如くに思はれる。しかし梅岩その人は内省の心のはたらきの極めて強かつたので、従つてその日常の態度が道徳よりも一層進むだ宗教の心に本づきてあらはれたものであることが認められる。この事実を証明すべき二三の事例をここに挙げる。  梅岩が講席に就くや禮服を著し、儀容を整へた。さうして講釈の始めの日と終りの日とには沐浴し、麻上下を著し、平生は袴羽織のままにて講釈したが、その心持は上下著の心持であつた。自宅以外の家にて講釈せるときには始の日より終の日まで麻上下を著けた。それにも拘らず、聴講者には著袴を強ゆることをしなかつた。或人これを非難して「袴は禮服である。禮を棄てて聖人の道は説かれまい」と言つた。梅岩はこれに対して「聖人の教をありがたく思ふ実意がありて袴を著くるものは禮であるが、しかしその実意が無くして袴を著けるばかりが禮ではないと言つて、彼らに形式を尊ぶことを戒めた。この事例は一面にありては梅岩が徒らに人を尤めずして自からを責むる意衷が強かつたことの一斑を窮ふべき資料である。  梅岩は私欲を抑制することによりて仁の体を得ることを期し、自炊までして無欲の修行につとめた。しかも自から曰く  「一家仁なれば一国仁を興すとあり、又一人貧戻なれば一国乱を作すとあれば心を正しくして貧ぼることを止めたしと思へども、幼年より貧しき家に生まれ欲に染みたる此身なればこの舊き染水が清め難く、貪ぼるは乱を施す本と知りながら離れ得ること得難きはこれぞ不仁と言ふべし、我より以て寛仁の人を見れば遠哉難哉」  梅岩はかやうに深く内に恥ぢて居るのである。梅岩は性を知るときは生死は言ふに及ばず名聞利欲も離れ易きことを信じて、その信ずるところによりて、多くの人人を導かむと志した。しかも梅岩は  「我が勝手づくを以て世に仁を行ふ本と為すべしといふは無理も云へば云はるる物かなと笑ふべきにも絶たり、然りと云へども、唯教へたしと思ふこと日夜朝暮に病ひとなす、我には忠孝無けれども他人の不忠不孝を見てなほしたしと思ふは杓子を定木にすると云たとへにも能く似たり」  と深く漸愧の心をあらはして居るのである。かやうに深く省察して内に羞ぢ内に慎しみたる梅岩にありては世の中のすべての事は皆その心を導くところの良師であつた。  「たとへば今日世間より不学なりといへば実に尤なりと思ふて是を師とす、又禅学を学びしものなりといへば知るは知れども徳に至らぬと思ふて徳に至ることを師とす。又他人の無欲を見てはこれを師とす。他人の悪事を見ては我を見て恐るることを師とす。それ故に、師は日日に替るなり。これぞ定まる師はなきなり」  仏教の意味から言へば世の中の一切のものは皆法を説いて居る。心を静かにしてよくこれを見れば、一切のものは皆師匠である。それ故に別に定まりたる師は無い、内省を深くして性を知ることは自己の心に依るべきである。梅岩が嘗て小栗了雲に就て学びしとき了雲が自註を加へたる書を授け与ふべしといひしに対して、梅岩は欲しからずと答へた。了雲何故に欲せざるやと問へば梅岩対へて「我れ事にあたらば新に述べるなり」と云つた。これを聞いて了雲も大に歎美したと伝へられて居る。  己れ立んと欲すれば人を立て、己れ達せんとすれば人を達すと聖人は説かれた。これはまさに仁の道である。梅岩はこの語につきて次のやうに告白して居る。  「此語を只今までは人に譲ることのみと思ひ、その譲る所に仁有りと唯軽く思ひ候へども、今度発明を以て見るとき、己が欲する所を人に達する計と心得るは浅し、己れとは我心なりと心得てその我を退けて人を立つるときは天下のことなり、然るに己れを立つるより人の賢を蔽ひかくし、己を天下にはびこらんと思ふは大に似て、小き心なり、僅かの此身を立てず、人を立つるときは己れ則ち天地に満る、然るに己を捨てずして天下の妨をするは不仁の甚しきなり」  この教訓を表面的に理解して、己を立てんと欲して学ぶときはたとひ聖人の行跡を身にうつすとも更にその甲斐なきことである。己を立てずして己れが天地と等しくなるところまで宗教的の内省が徹底して始めてその道が達せられるのである。  梅岩の隣家の利兵といふもの折折来りて道を問ふに、梅岩は鄭寧に教示した。門人の慈音尼が「あの如き有情非情の分ちさへも辨へざる人に、何の委しく示したまふことのあるべきや」と言ひたれば、梅岩は何気なく「人の非は見ませぬ」と言つたといふことである。常に外のみを見て人の非を挙ぐる心は安心のあらぬ心である。この慈音尼あるとき梅岩に対して「平日の御教あまりに和かに過ぎ申候、何とぞ厳しく聖人の道にかなふやうに教を受けたし」と願つた。梅岩心得たりとてその後は茶の汲みやうが左様でなし、或は又起き振舞が左様でなしと一一に教示した。慈音尼は日日近処の門人の方へ往きて食事をするのが常であつたが、あるとき食時を告げ来りて往くに方りて「唯今参る」とて梅岩にことはつた。さうすると、梅岩は「往てござりませ、これがいとまでこざりますぞ」と言つた。三界は猶ほ火宅の如くである。内省すれば我我の生活は風前の燈であることを覚悟せねばならぬ。  この慈音尼は梅岩の門人の中にて女性として名の有つた人で、梅岩の歿後江戸に赴き先師の志を嗣ぎて講席を開き「道得問答」などを著はしたほどの男まさりであつたが、あるとき慈音尼の火の焚きやうが悪しきとて梅岩は大にこれを叱りて、それから机に寄つて居つた。そこで慈音尼は茶を汲で進めたところ、梅岩はにつこりと笑ふてこれを飲むだ。慈音尼問ふて曰く「先刻は大に叱りて今は機嫌よく戴きて参らせたまふは何事ぞ」と、梅岩の曰く「茶に拝するなり」と、思ふに梅岩が言ふところの性は無念無心である。これに率ひて行ふところの道には一点の私なく本より分別を離れたものである。しかしながら、我我はどこまでも無念無心ならずして常に分別の心を有する人間である。自分の気に入らざれば叱ることがある。これ分別を主とするからである。省察の心の強かつた梅岩にありては此の如き場合にもすぐに無念無心の主がはたらひて外物にひかるることなく直ちに茶の恩徳を拝することが出来たのであらう。梅岩の心は「怒りほど早きはなし、しかれども止むことを得ず、怒るべき理に於て怒る、我に怒りはあるべからず」と、いふにあつたのであらう。本より我に怒りのない梅岩はその怒を他に移すことのなかつたことも当然である。  慈音尼が二十四五歳の頃、江州から京都に出で梅岩の門に入つたときに、門人等は各自聖賢の道を行はふと語り合つて居つた。慈音尼はこれを聞きて梅岩に向ひ「連中は聖人の道を行ふことを願つて居られるが、妾は聖人の道を行ふことは嫌である。それ故に妾は門人の列を退かうと思ふ」と言つて退学を願つた。その時梅岩は「行ふことは入らぬ、連中の言ふことは嘘なり」と言つた。高弟の弟子の一人はこれを見て梅岩が慈音尼の心底を見とどけたのであると感じたといふことである。無論人を見て法を説いた点が無いとは言はれぬことであるが、しかしながら梅岩の平生の行実から推して考ふれば、巳を尽すといふことが大切で、さもなく徒らに自分の欲望を達せむとするは道を得る所以にあらずとしたのであらう。門人の富岡以直が梅岩に対していろ/\自己の所見を語つたのに対して梅岩は「見せる勇気は役に立ちませぬでに」と言つたと伝へられて居る。梅岩は常常工夫して修行することも今日直ちに身に勤めて習ふことを肝要としたのである。  梅岩は学校を建設しやうと志し、巳に上司に対して其事を願はむとまでしたのであるが、後に至りてその事を止めた。それは「たとひ学校を建てたりとも其中の主なきときは無名のことなりと思ふた」からであつた。梅岩が師事せる小栗了雲は梅岩に対して「我は書物を作らず」と言ひしに対して梅岩は「我は書物を作らむと思ふ」と語つた。その時了雲はただ「汝は作る我は作らず」とのみ言つた。梅岩は後日に至りてその真意を解し得たと門人に語つた。思ふに梅岩の心としては書物を作ることを欲するのではない。時にあたり世を憂ふることがありて止むことを得ずして書物を作るのである。書物を作るにしても、又講釈をするにしても人に対して言ひ聞かすことを心とすべきではない。我に得たるところを述ぶるのみである。徒に言語を費して自から工夫せざることを人に伝ふべきでないとするのが梅岩の真意であつた。  若き門人等相集まりて談合せるとき食事に度数を定め、一日に何度より外には堅く食ふまじきなど、沙汰せるを、梅岩は聞きて「その義は然るべからず、食ひたきときは何度なりとも食ふがよし、慰には食はざるがよし」と示したといふことである。贅沢を戒めながら身の養生に注意したことが認められる。又若年の門人の一人が色欲を離れることは中中に困難であると言ひしに対して梅岩は笑つて「それは大地に車をしかけて動かさうとするやうなものぢや」と言つた。固より色欲は人間の自然衝動であるからこれを離れることの出来ぬのは当然であるが、梅岩の言ふところは色欲を離れむとする心そのものが、大地に車をしかけて動かさむとするやうに無理であることを説いたのである。しかしながら、つとめて色欲を制することを説かれた釈尊の意を体してこの点に関して人の疑を受くることまでをも慎しみて慈音尼をも自宅に宿せしめず、慈音尼は近処の門人の家に居つて梅岩の講席に通ほつたのであつた。  梅岩病気快方に赴きて表に出て居つたとき乞食の薦を著たるが「下さい下さい」といひて門を過ぎ住くを見て門人に向ひ「このやうな時はちと難儀でござります」と言つた。かの乞食の生活を自身の今日にあてて考へたのである。門人の家に招かれて其衆によき懸物など掛けあるを見て、この表具の価を貧しき人に施すならば悦ぶことであらうと考へるのが例であつたと言はれて居る。他より書物を借りに来て何の書の何巻目を貸したまへと乞ふときに、梅岩は必ず全部を貸与した。これはその書物が他にて紛失することがありても端本にては役に立たず全部なれば何方にても用に立つことを慮つたのである。尋常の人が他に物を貸すのと、その意に大に同じからざるものがあつた。  梅岩の行実につきては猶ほ叙述すべきことが尠なくない。しかしながらこれを要するに、梅岩の事蹟は、存養省察これつとめたといふ一言にてこれを尽すことが出来ることと思ふ。門人の富岡以直が「石田先生の御事蹟を拝するに、彼の御行状の一一を心有て行ふとならば中中一日二日も勤めらるることにはあらず、木の切れの細微なるまでに及ぶことは胸中に物無く、流行とひとしき故に行ひ玉ふ所の如く他、銘銘を言はば木の切よりもこちらに大なることが有と思ふて居る也、左様の心有て行はるる所にあらず、心有て勤むるものならば、先生といへども木の切まで及ぶことはせはせはしくて行はるべからず、唯胸中物なく流行と同じき故なり」と言つたのは至言である。まことに梅岩の日常の生活はその大小を問はず、所謂胸中に物なく、自己を立つる心を離れたる宗教的の心に本づいたものである。それ故に、道徳よりも一層進むで徹底的に、しかも所謂心が無くして行はれたのである。  元文三年の夏、梅岩は門人五六人を伴ふて但鳥城崎の温泉に逗留した。その間一日快晴に乗じ門人と共に小舟に乗り瀬戸の海辺を見巡り、それより沖へ出でたるに、北は限も知らぬ日本海に俄に風が烈しく吹き起つた。門人等は大に駕き且つ恐れたが、梅岩は従容として顔色常の如くであつた。それから舟を巌石の積みかさなつた小島に寄せ、島に上りて眺望して居たが、漸く風もおさまり波も静かになつた。この時、梅岩は大海の限りなきを指し、人身の微微たることを示した。門人等もこの実地の教訓によりて大に益を得たといふことである。大宇宙の一部としての我我人間が、微微たる小宇宙の身と力とをたのむがために自分の勝手のために種種の思考や努力をすることが迷妄の基である。しかるにその事実の相に目がさめるとき、我我は大宇宙の大きなる身と心とに一切を乗托せねばならぬのである。梅岩はこの大なる身と心とを性と名づけたのであるが、この性を知り、性に率ひ、その命の儘に動くことが人間の道であるとするところに、自から宗教の心があらはれるのであるが、梅岩の一切の言動にありて、その根柢に存したものはこの宗教の心であつた。さうしてその言動がまことに美しく且つ貴とく感ぜられたのも全くその宗教の心のあらはれに由るものであつた。 昭和十二年八月二十二日印刷 昭和十二年八月二十五日発行 新撰妙好人伝第七編  定価金七拾錢(送料六錢)    東京市麹町区内山下町一丁目一番地東洋ピルヂング四階中山文化研究所内 発行者兼編纂者  正 信 協 會  右代表者   秋   山   不   二   東京市小石川区高田豊川町三十番地 印刷者    長   宗   泰   造   東京市小石川区高田豊川町三十番地 印刷所    厚     徳     社 発行所   東京市小石川区高田豊川町三十番地    厚  徳  書  院 @  新選妙好人伝第八編 香樹院徳龍師   富士川游撰 凡例 一。香樹院徳龍師の生涯及び殊にその語録に関する文籍は大須賀氏の「香樹院教訓集」「香樹院譬喩集」、柏原及び禿氏の「香樹院語録」、柏原氏の「香樹院法話」を始めとし、諸書に散見するものを挙ぐれば其数は甚だ多い。私は此等多数の文籍に叙述せられたるところに本づき、香樹院師にあらはれたる宗教の心の顕顧著のものを挙げて、この小篇を作つた。しかし固より紙頁に限のあることであるから、向ほ記すべくして記せざるものの多くがあることを断つて置く。 二。冒頭に掲げたる香樹院師の像は越後水原無為信寺に蔵せられるものを、同寺住持武田龍善師の厚意によりて複写したのである。謹て武田師の厚意を謝す。 三。この書の原稿は私が自から筆?したのであるが、その整理及び校正は一に秋山不二女史の尽精によるのである。又この書を公にすることを得たるは厚徳書院長宗氏の厚意に依る。特に記して謹謝の意を表する。   昭和十二年九月中浣     富士川 游記  香樹院徳龍師             富士川 游述      はしがき  東本願寺に学寮が立てられて、慧空が始めて講師に任ぜられて一派の教学が勃興したのは今からざつと二百余年もむかしのことであつた。慧空の弟子慧然の時に至りて学寮が高倉に移され、又その規模も拡張せられ、宗学の研鑽が漸次盛況を呈するに至りて、世に名高き講師が相嗣で崛起《くつき》した。その間にありて、徳行太だ高く、道心殊に深く、その名声一代を圧し、徳香今に猶ほ芳ばしきものを香樹院徳龍師とする。単に博学達識の点から見れば、或は香樹院師よりも優越せるものが尠なくなかつたと言ふことが出来る。しかもよく釈尊の精神を発揮して学徳兩全の耆宿《きしゆく》と称すべきものは実際に寥寥曉天の星よりも稀であつた。しかるに、香樹院師が出でらるるに及びて始めて其人を得たことはまことに我が仏教界の一大慶事であつた。香樹院師はその学己に内外を兼ね、学者としても尊敬せざるべからざるが上に、宗教としての仏教を体得し、美しき宗教人として、その心を自由安樂の境地に住せしめ、又自から護法を以て其任として、諸邦を教化し、真教を弘揚することにつとめて疲れることを忘れられたのである。かやうにして、香樹院師に関しては伝ふべきものが甚だ多く、又就て学ぶべきものが尠なくない。私はこの小篇に於てその大概を叙述しやうと思ふ。  その小伝  香樹院徳龍師、字は召雲、自から不争室と號す。越後の人で、安永元年九月二十六日に北蒲原郡の水原《すいはら》町の無為信寺に生れられた。無為信寺は本と常陸の国なる二十四輩の一寺、無為信房の開基であつたのが其後廢絶して居つたのを、香樹院師の父順崇師の徳に感じて土地の豪家佐藤宗榮居士が常陸より水原に移して、無為信寺を創立して順崇師をその住職としたのであつた。順崇師は博覧強識を以て聞え、著述もあつた。香樹院師はこの順崇師の二男で、母は佐藤氏の女、人となり清操兼ねて賢徳があつた。この兩親の間に生まれた香樹院師は襁褓《おむつ》の頃から既に文字を知り、六歳にして詩を賦したほどで、禀性聰敏、状貌も尋常でなかつたといふことである。十二歳のとき父に従ひて江戸に出で、儒学を修め、神童の聞えがあつた。或人、某寺の住職に揮毫を乞ひ「善悪」の二字を書いて貰つた。それを他の和尚が見て、善悪の二字のみにては意味がないとて、これに「不二」の二字を書き添えた。香樹院師時に十二歳で頑是なき児童であつたが、その家に至りて主人にこの額面を見せられ、又「あなたも成人の後にはこのやうな額面を書くやうになつて下され」と言はれたのを聞いて、莞爾《かんじ》として  「よしあしと隔つ心のなかりせば       不二といふべき言の葉もなし」 と詠じたので、これを見聞した人人は皆感歎したといふことである。十八歳の頃高野山に至りて?舎《くしや》の学を修め、又唯識の学を究めた。それから奈良に赴き深密、瑜伽、摂論の説を窮めた。二十六歳一旦越後に帰つてから再び京に上り、高倉の学寮に入り、香月院深勵師に就て宗乗を修めた。しかし普通の学徒に異なりて、強ちに義理の解説を主とせず、專ら自身の出離を先にして修養に資することをつとめた。文政三年高倉学寮の擬講となり、同六年嗣講に進む。これより前、香樹院師は無為信寺に帰りて住持せられたが、文政六年嗣講となられたとき退隠して香樹院と號し、それより後多くは京都にありて学生を教導し、法を説き、又本山の命を奉じて諸邦に行化し、真教を弘揚せられた。  その性行  香樹院師の性行は、概して言えば己を持すること謹厳で、人に対し又厳格であつた。言語応対苟もせず、威儀動作必ず禮に則るといふ風であつた。その門人及び信徒に対するや峻厳にして苟も仮さず、邪弊を叱咤し、懈怠を阿責し、対手の心臓を寒からしめた。しかしながら香樹院師は常に温顏人に接し、愚痴蒙昧のものにまでも、いかにしてか仏の大悲を傅へ、邪見をひるがへして真実の信心を獲得せしめむとの深切は何人にも深く感ぜられ、師に接して教を受けたものはますます欽仰の念を増すのが常であつた。  当時高倉の学徒等は、徒に学解にのみ汲汲として操行を顧みず、道義の頽敗《たいはい》せるものが有つた。香樹院師はこれを慨嘆《がいたん》して特に自からその言行を端正にして学徒を率いられた。毎月兩度の御忌日に御影堂の勤行参拝のために結界内に集まれるところの数百の学徒が動もすれば威儀を失ひ、見苦しき振舞をなすことあるのを、師は内陣にありて遙かに見下し、学徒をして忽ちその容を改めしめられたといふ。  雲華院大含講師は香樹院師よりは先進の地位に居た人であつたが、豪邁不覇《ごうまいふき》、禮節に拘らず、夏の暑さには裸体のままにて講師寮に臥し、其他の嗣講もいつも裸体になるのが常であつた。その場合、香樹院師の至れるを見て何れも「御免あれ」と、あはただしく一間に入り、法衣をつけ、威儀を整えて後に香樹院師に対して挨拶するのを例としたと伝へられて居る。  香樹院師は平生、仏祖崇敬の心厚く、聖教を拝読するときには必ず黒衣を著けた。又自坊にありて報恩講を営むときには崇敬のために祖師前の御花は必ず親らこれを立てた。  毎歳冬の候報恩講予修のためと、兼て母への帰省のために、暇を乞て無為信寺に下られた。膝下にありて甘味を薦むるばかりでなく、旦暮定省のこと、すべて自から行ひて他に委せず、夕には母の側に侍りて四方山の物語より慈悲の尊きことなど語りつづけて時を移し、程なく寢につけば静かに自分の居間に退き聖教に向ふのが常であつた。朝には母の褥を暖め置き、母の目がさめるのを待ちて其日の寒喧を述べ、煙草をすすめなどする。孝養の懇に到れること常人の及ばざるところであつたと伝へられて居る。  香樹院師は資性寡欲にして金銭のことは念頭にかけず。応招の法話のときにても宿寺にて賽物《さいもつ》等を分割して差出すことあるも決してこれを受けず、法禮として進むれば多少に拘らずこれを受けた。しかれども人人師の徳を慕ひ、これに参らするものが多かつたので、自から余裕を生じた。それで親族故舊に遺物として親疎《しんそ》の別なく一人につきて金二百兩宛を生前に分与した。又何人によらず金子を借りに来るものあるときは快くこれを貸与し、決して手控にも記することなく、まして証文など取りたることなく、又返却せざればとて督促することはなかつた。されば日頃出入したる人が久しく来らざる場合には「彼は余に金を借りて返さぬことでもあるにや」と言はれたこともあつたといふ。  香樹院師は酒を嗜み、晝夜幾度となく飲酒したが、しかし多量を飲みて学問布教を妨ぐるが如きことはなく、一酌の量は常に五六勺にして一合とは用ひられなかつたと。しかし毎月十五日は釈尊の命日なればとて終日魚肉は勿論、嗜める酒をも禁ぜられたといふ。  伊予の得成といえるものは香樹院師と同窓にして交情甚だ厚かつたが、この人は天性磊落《らいらく》で香樹院師の謹厳とは全く相反して居つた。一日寒威甚だ強きに香樹院師来たりて得成を訪ふ。得成ために炬燵の炉中に酒を温め、しばらくにして得成の曰く「燗が出来た」と、師問ふて曰く「いかにしてこれを知つたか。得成の曰く「足にてさわつて見た」と。師顔をしかめて「そんな穢いものは飲めぬ」と。得成笑つて「さらば尚よろし、自分ひとり飲める」とて得成は直ちにこれを飲み干したと。この一條の逸話、香樹院師の平生の謹厳さを想ふに十分である。  香樹院師が曾て越後三條に講筵を張られたとき、午前に「浄土論」を講じ、午後に「三十頌」を説かれた。そのとき後の香山院たる龍温師も聴衆の中に居られたが、日日遠方より来たるものの往復の労を減ぜむとて「願くは兩講筵を一回に併せたまはらば聴衆大に便宜を得む」と言はれしに、香樹院師は怫然として「汝が如き薄志の徒宜しく仏学を廢すべし。「浄土論」と「三十頌」とは共に天親菩薩の作なれども、一は他力の信心をのべ、一は自力の法門を説く。依りて余が「浄土論」を講ずるや、自身を一文不知の愚鈍の身として一心帰命の意に据りて講ぜざるべからず。「三十頌」は菩薩の心に落つき唯識の観をなして説かねばならず。何ぞ軽軽しく一時にこれを講ずることを得むや」と叱責せられた。香山院師は席に伏して一言もなかつたと。  文政十二年の夏、香樹院師が貫練堂にて「往生讃」を講ぜられたとき、一日所化の聴講に倦みたるものが、後方にて墨池の蓋を叩いて喧しかつた。師は粛然として声を勵して曰く「晝夜六時恭敬禮讃を教へたる本書を拝せむとするに、倦みて墨池の蓋を鳴すが如きは是れ全く「往生禮讃」を解せざるの徒なり」と。  香樹院師山形巡化の節,越の福順寺(円輪寮司)が副使として隨行し、前席法談をした。高座に登りてその未だ半ならざるに忽にして調子が狂ひ、倉皇法話を止めて室に還つた。香樹院師これを迎えてその所以を質したるに円輪の曰く「実は上納の百五拾金を其儘室に忘れ置きけるを法談中ばに思出し、盗まれはせぬかと気になりて落ついて法談が出来ず、中途で止めたのである」と。香樹院師これを聞くや嚇怒して「汝は多数門末の後生と僅かの金子と、果していづれが大事だと思ふぞ、そんなものは以後副使と して法談することを許さず」と、円輪大に恥ぢて陳謝したが容易に解けなかつた。円輪寮司は学徳あり、唱導に巧にして香樹院師もこれを愛し、平生何人にも法談の前席を許されなかつたが、独り円輪のみには許されたほどであつた。それにも拘らず、法の威厳のためには些もその懈怠を仮借せられなかつたのである。  香樹院師の門下の中で播州の祐秀といふものは道風殊に高かつた人であるが、この祐秀が壮時祖蹟を巡拝して越後に到り、師が住せる無為信寺に参し、一朝辞し去りてまさに船に乗らむとせるも風ありて解続明日に遅れたので、また寺に引返して師に面し「今一日滞留して近処の名蹟を観んと欲す」と言つた。香樹院師はそれに対して言はれた。  「汝名処を見るも益なし、何で書を読まざるや」と。祐秀の曰く「既に行李を理めて手に読むべきの書なきを奈何せん」と。師色を作して「一日に読む位の書は此にもあり」と言ひつつ、直ちに机上の書冊を取りて与へられた。他日祐秀は後進を戒むるに此事を以てして曰く「多忙の際も寸隙を捨てて書を読むべきことを、この教訓にて習ふことを得た」とて後進のものも心を此に用ひねばならぬことを教へたと。  仏法  かやうに人並すぐれて謹厳執実であつた香樹院師の性行は仏道を修むる上にも特徴を示し、徒らに無益の学問沙汰をすることなく、常に浮華を去りて実際に即することを眼目とせられた。普通ならばお経の文句などを引てむつかしく説かるべきところにも香樹院師は率直に自督の要旨を述べられた。「仏法とは後生の一大事なり」と説かれたことなどはその一例である。後生とは我身が死して後に来たるべき生涯である。香樹院師の意に拠れば、まことにこの人間は老少不定、明日をも知れぬ命であるのに、我身の無常をば思ひ知らず、無理な欲を起したり、腹を立てたり、いろいろと心に苦労を致し、人間の道をも忘れ、日夜に起る妄念煩悩によりて造るところの罪業は無量無辺である。その果報として当然受くべきことは地獄必定である。地獄必定とは我身が死して後に来るべき生命に罪業の苦悩が深刻にあらはれることをいふ。実際かやうな境遇にある我我の後生はまことに我我に取りて一大事である。さうして仏法はこの後生の一大事に心をかけて、その苦悩から離れることは仏をたのむ外はないと信じて一向に仏の慈悲を仰ぐべしと教ふるのである。固より我我の現在の生命がその儘に次の世に伝はることは無い筈であるから後生といふことの意味につきてはよく考へねばならぬのであるが、むかしの人人が信じて居つたやうに独立のたましひが我々の身体に宿つて居り、そのたましひが身体の死後に何処かへ往くといふやうなことは科学上の常識にて認むることが出来ぬ。仏教にてもさういふ独立のたましひ(我)は無いものと説いて居るのである、現に我我がたましひと考えて居るところのものは自我意識であるから、この意識は身体の死滅と共に亡ぶものである。しかしながらここに問題とすべきは自我意識の根抵をなすところの或物で、この或物は決して滅亡するものではないから、身体の死後にもその根抵の上に更に新に自我意識を生ずることであらう。さうしてこの根抵の或物は過去の久しきむかしから今日まで不変の儘に伝はつて居り、その根抵の上にあらはれたる自我意識を自分の生命とするのである。それ故に、我我は生れては死し、死しては又生れて生生世世、同じやうに生命を反復して生死の苦界を出離するの縁がないものであると考えねばならぬ。既に過去があり、それから現在がある以上、未来があることは無論であるから、後生の一大事を考ふることは当然である。この意味から言へば後生の一大事といふことは、畢竟ずるに、現在の自身を内観することによりて思ひ起されることで、さういふ内観が宗教の感情を喚起する主要の因子である点から見れば香樹院師が単刀直入的に仏法とは後生の一大事なりと説かれたのはまことに至当である。香樹院師の法話に「後生とて別なことではない。寒ければ寒い、暑ければ暑いと、五人よりても十人よりても同じこと言はずともよいことを顔見合せては寒いといふは寒さが身にこたえる故ぢや。後生の一大事も真実になれば、ただ同行寄り合ふて、今までおほやりにしたことの浅猿しやと思ふさまが顔にあらはれ言葉にも出る。ここが真実の後生を願ふところなり」とあるのはよくこの意味を示されたものと言はねばならぬ。  他力信心  後生の一大事が、此の如く未来の生に於て地獄必定と知られたときに、自身の内観は 煩悩具足・罪悪の相を明かにし、自分の身と心とをたのむことが止みて、その心に自分を摂取する大なる心の作用が感知せられるのである。仏教の言葉にてこれを言えば、それが阿弥陀仏の本願である。さうしてその阿弥陀仏の本願が南無阿弥陀仏の名號として表現せられるのであるから、南無阿弥陀仏のいはれが聞き開かれたる一念に、仏の真実の心を獲得して、それによりてその心が安心の境地に住するのである。親鸞聖人が説かれたる弥陀教は実に此の如きものであつた。香樹院師はこの親鸞聖人の教を信奉しさうして、師は極めて平易にこれを説明して次のやうに言つて居られるのである。  「その南無阿弥陀仏をば、いかがして信ずれば、心の底の暗が晴れ、疑の病がなほるぞといふに、自余の聖道門の教なれば 我と我が心を磨き顕はして、この虚言僞りばかりの腹の中を、いかやうにしても、かはらぬところの寳物にしあげねば、我と信心を起して仏の証を求むるとは言はれぬ。それ故に一世や二世で仏になる信心が中中こりかたまるものにあらず。生れかはり、死にかはり、生生世世、難行苦行をつとめねば、我が信心は堅まらぬ。さやうにして初めて仏になる大菩提心が起るので、それから修行するのが三阿僧祇といふ永永の苦労なり。それ故に、銘銘なんぼ百年千年晝夜に身をこらしたとて、中中この胸に真実の心は起らぬ。世間でいふ時は親の子を思ふ実と、夫婦の恩愛の実と、これほど手強きはなけれども、その親の実さへ我が身の難儀になり、我身のたたぬことになると、我が子も捨ててしまふといふやうに、破れてしまふ凡夫、況や夫婦の実も心にかなふ間は実なれども我が心にかなはぬことになると、怨み妬みの心を起す。世間眼前の知れたことさへ爾かり。況や仏になりたいなどの念願は我我真実の心の出来やう道理なし。しかるに、この法蔵比丘が、我等虚仮不実の心を見ぬき、千劫萬劫、無量劫、尽未来際かかりても、悪人女人の真実の心を起して仏になることは出来ぬことぞと、ながめたまひて、そこで我等に替りて願行をつとめ、すなはち真実の心を成就して、その成就した南無阿弥陀仏を与へて仏にしやうと願ひたまふた。ここが法蔵比丘の願心なり。それ故に、銘銘が決定する信心といふは凡夫がたのむの、すがるのと、かりそめな心にあらず。かねて助けると御成就の久遠劫来の如来の真実が聞其名號信心歡喜と、六字のいはれが聞き開かれた一念に与へたまふ真質の心が信心なりとのたまふ。そこで「御文」の中に「信心といへる二字をばまことの心とよめるなり、まことの心といふは行者のわろき自力の心にては助らず、如来の他力の善き御心にて助かるが故に、まことの心なり」と仰せらるるが、常常の 他力の信心といふがこのことなり」  同じく阿弥陀仏の本願を信ずる教にありても、自余の浄土門にありては聖道の機を以て本願の法を行ずるのであるとも評すべき態度を取るのであるが、これに反して、親鸞聖人の教にありては「願ふことのならぬ身に願はせたいが如来の御心なり、愚なものにすぐに訳のわかるやうにと思召して称ふるばかりで往生させるぞと仰せらるる如来の御心なり。称へる筈はなけれども仏の大悲が胸に満つればこそ思ひ出しては喜ばれ、生死無常と思へば思ふほど仏の本願が丈夫に思はるるは帰命の一念に与へたまふ信心の催しなり、帰命の一念は己れが力も尽きはてて如来にまかすがたのむ心、己れが力をそへてたのむではない。本願のいはれが聞こゆると、何の苦労もなく、往生を如来にまかすがたのむ思ひ、一念の信心は変りやすい凡夫なれどもたのむ心が金剛の信心ゆえに往生の遂げらるるやうになるが仏智回向の信心なり」。かやうに、香樹院師は説明して、願ふことすら出来ぬやうな愚悪の機が、本願の法を行ずるのではなく、ただその本願が自分のためであることをさとりて、仰いで深くこれを信ずるのであると示された。しかもこれを信ずることも自分の心からでなく、仏智不思議の回向を受けたるものであると知るところに、それが他力信心とせられねばならぬ。香樹院師がこの意味をよく愚痴蒙味のものにまで傅へむとして、極めて平易に法を説いて居られることが殊にきはだちて目につくのである。  二種深信  「まことに銘銘や我我が我が罪造つて我れと堕つるのも人の業で堕つるのではない。等活地獄で臼に入れてつかれたり、俎《まないた》の上で炙《あぶ》られたり、魚みるやうに寸寸に切られるやら火の中へ打ち込で煮らるるやら、それに地獄の身体は少しも死ぬことのならぬが地獄の身体なり。それ故にまことに如来といふ如来、苦の衆生をみそなはして大悲の涙にむせばせらるれども、どうも我我の業が強くて仏の御手でも御助けなさるることはならぬ。しかるところを阿弥陀如来、どうでもかうでも助けずばおかぬ。救はずばおかぬぞと、久遠実成の御姿が下つて法蔵比丘とおなりあらせられて、助けたいばかりの五劫が間の御思案も、この地獄へ堕ちて苦しむ悪人女人に苦を受けさせぬやうにとあるのが如来の大悲、抜諸生死勤苦之本と願はせらるる。それ故に、四十八願の第一が、国に地獄・餓鬼・畜生あらば正覚を取らじと、再び悪人女人に苦を受けさせぬ浄土を建立したいぞと願はせられた御思案なり、御修行なり、それで出来あがらせられたが南無阿弥陀仏なり。それ故に、この南無阿弥陀仏の名號が萬善萬行恒沙の功徳よせあつめさせられたれども、一口に言えば、たのむものを助けたいためばかりぢやとあるが如来の御慈悲」。香樹院師は此の如く本願の由来を説いて、仰ぐべき法は阿弥陀仏の本願であり、それが如来の慈悲であると示し、さうしてそれを我子を思ふ親心にたとえて「阿弥陀如来の真実の親様はこの私が見捨てられぬとて、永永の御骨折、極楽を御建立あそばして我我に参れ来れとの御すすめぢやのに、それを我我の方から如来様を御見捨申して聞けば聞き捨て、思へば思ひ捨にして居る」「今銘銘も後生を怖ろしいとも思はず、お聞かせを何 とも思はぬは罪を罪と思はぬからなり、此世で悪るいことをしたら、逃げても隠れても 重い罪人なら草の根わけても尋ねずにおかぬけれど、阿弥陀如来の本願は、かかるものに、我をたのめ、助けると仰せられる。その願力にすがり参らせさいすれば、はや如来はたのむ一念に光明の中へ摂めとらせられる。まことに悪人女人の隠家は阿弥陀如来の光明の中より外はないなり」。いかにも我我は煩悩具足・罪悪深重の凡夫にして曠劫《こうごう》よりこのかた常に没し常に流転して生死の苦界を出離するの?なきものである。さういふ機の相が信ぜられたときに、その機をあはれみて阿弥陀仏の本願があらはれ、貴とき法の力が我が心の上に加はることを信ずる。これを機と法との二種の深信と称するのである。  しかしながら、かやうに説かれる二種深信は考へやうによりては宗教とはならず、たとひ如来の本願に信順して称名念仏するといふにしてもそれは自余の浄土宗のやうに聖道の機を以て本願の法を行ずるに過ぎぬものである。それ故に或は如来の本願は広大の慈悲であるが、これを受くる機はその本願を信ずることにつとめねばならぬといひ、或はつとめて自己の相を省みて機の愚悪を信ぜねばなどといふ誤解が生ずるのである。現に香樹院師在世の頃に東本願寺の法中に能登の頓成といふものが居りて、「機の深信は法を信ずるまでの前方便である」といふやうなことを主張し、本願寺一流の正統教義に違反せりとて物議を醸した如きはその一例である。この問題が遂に時の当該官廳二條御役所の裁判に移つたとき、香樹院師は二條御役所の命により、二種深信の義を上申せられた。  「二種深信ともに他力なり。就中、機深信他力なりといふこと最も肝要なり。頓成は 機の深信は法を信ずるまでの前方便といへど、然らず、総じて古来の異解不正義を募るもの数数あれども皆この謬より起れり。我機のたすからず、自力の善根も分別も間に合はぬといふことは、法蔵因位のとき識知し玉ひて、それ故に、この行者のなすべき願行を仏の方になし玉ひたるを六字に成就し玉ふ故に、六字を聴く所にて、この機の方の所修の善不善、すべて無益なりと知るは法蔵因位の識知より起るなり。かかるものを願力にて助け玉ふといふはもとよりなり、故に二種共に他力より起さしむるものなり、これ浄土真宗開山の極秘なり」  阿弥陀仏の本願は極悪最下の凡夫を目あてに、それを助けやうとの慈悲の御思召であると知れば、自分が罪悪生死の凡夫であるといふことを信ずることが法を信ずることの前提であると考へることは多くの人人に起き易い心である。しかしながらそれは功利的のもので決して宗教の心のあらはれではない。香樹院師が説かれたやうに「凡夫の自性はいかやうにも我が身あさましと思はれぬ故、この我が身あさましと思ふ心まで如来の方より成就して与へたまふなり。さればかかるものを弥陀の願力にて御助けにあづかり必ず往生をとぐるぞとまことの信心は生ずるなり」とせねばならぬ。さうして、かやうに我れあさましと信ずる心と、弥陀如来なればこそと信ずる心との二種の深信は他かより与へたまふもので、この他力の信心は阿弥陀仏の本願を聞き開くときに歓喜の心となりてあらはれるものである。これがすなはち宗教の心に外ならぬものである。  無我の義  宗教の心はこれを心理学の上から言えば、自我意識を中心として、いろいろに思慮分別することが止みたるときに、誰人にもあらはれるところの一種特別の感情に本づくものである。それ故に、仏教をば宗教として見るときには蓮如上人が「仏法は無我と仰せられ候。我と思ふことはいささかもあるまじきことなり」と言はれたのが、最もその要領を得たる説明であると言はねばならぬ。香樹院師はこれにつきて次のやうに説いて居られるのである。  「我といふが総じて迷の大体にして、唯識にて言はば我癡・我見・我慢・我愛の「我」は五位無心の位によりても断絶せぬ我なり、又起信等の法門なれば法界に無明起り、波浪を起し、三細六?の相をあらはして迷ふ有様も、法我人我のしわざなり、これによりて小乗二十部の法門も、唯「無我」を教へ玉ふより外はなきなり、凡そあらゆる証りは皆、外道凡夫の「我」を尽すより外はなきなり、たとへ阿羅漢の証りを開きて人我は断じても、いまだ法我の見を尽すこと能はず、しかれども、今ここに無我になしてとあるは、左様な深信なる「我」のことにはあらず、唯凡夫の我の情をつのらぬやうになることにて、まことの無我の証りを開きて無我になるといふ義にはあらず、しかれども、この我情をつのらざることが即ち世間に於て、人欲の私を離れたる相、仏法では三寳に随順する所の無我なり、云云、如来の仰せに願がひ、善知識の仰せを守りて、己が私の心に従はざる相が、無我の心なれば、無我は即ち他力を顕はす心なり」  香樹院師は、かやうに無我の義を解釈して、更に「我が心に任せぬが無我なり」と言ひ、或は「自己の計を捨てて、弥陀に帰したる身の振舞に、目のつかぬやうになりてこそ本願を疑はぬ身なり」とまで言つて香樹院師は自我意識の価値を否定するところに無我の実があらはれるとして居られる。これを平易に言えば、有るところの我を無くすることをつとめるのでなく、その我の価値を認めぬために我が無いのが宗教の意味にて言ふところの無我である。さうして香樹院師がこの無我の意義を体得して、その一生がこの宗教の心によりて進行したことは驚嘆に堪えぬところである。  内心の領解  此の如く述べ来たりたるところに由りて、これを観れば香樹院師は、仏教をば学問とせず、知識を精しくしてこれを解釈することをつとめず、ひとえに、これを内心の問題として「たのむものを助くるとの仰せを聞いて、さやうならば私はたのみますゆゑ、御助け下されませの心ではない。たのむといふは不思議の仏智を信ずることゆえに、かかるものを御たすけぞと深く信ずることぢや。各各はこれが深くたのむのぢやの、これがひしとすがるのぢやのと、わけ聞くことばかりが細かな道理と思へども、それよりも内心の味ひを透ほした心味をいふのが、一番に細かな道理ぢやほどに」と、強く言つて居られるのである。言ふまでもなく宗教は我我の精神の現象に属するもので、しかもそれは我我が自身の心の現実の相を内観して、極悪最下、これを如何ともすることの出来ぬ状態を知りて、我が無くなりたるときに自からにして感知するところの一種特別の感情に本づくものである。さうして、かやうな感情があらはれるために邪魔となるものは邪見と?慢と懈怠と、概して言えば煩悩であるから、これ等の煩悩を断除することが要求せられるのが常である。しかしながら、これ等の煩悩が全く無くなるとすれば、それを目あてにあらはるるところの阿弥陀仏の本願が感知せられぬやうになりて、如来の慈悲を喜ぶの心は決して起らぬから従つて宗教の心があらはれることはない。それ故に、宗教を内心の問題として考えるときには、煩悩を断除せよとは言はず、煩悩の相をその儘に内観してその極悪最下の心が有るために慈悲広大の阿弥陀仏の本願があらはれたことを喜ぶべきである。これ全く内心の領解にして、決して外儀に渉ることではない。  自警  かやうに宗教の心の強くあらはれた香樹院師はその齢僅に二十二歳の時に自警の文を草されたが、その文は「あはれ此の法門を智ある人は迷ふて信ぜず、邪見なるものは疑ふて謗りをなす。うらやましきかなや、一文不知の尼入道、なにはのよしあしも知らずして、仏の御心にかなひ、つねに念仏する身こそ、すずろにありがたく、ひとしほ大慈大悲のいたらせ給ふらんと思ひはべれ。かへすがへすよく聞けや我心、あなかしこ。行住坐臥、仏祖の御恩を忘るることなかれと、この身をいましめ、かきしるしおきぬ。    よりよりに恥ぢてみよかしこの文は         こころをうつすかがみなりけり」  香樹院師は、それから後にも、自分を戒むることは固より他のものに対してもしばしばその心を警ましむべく教示して居られる。香樹院師が或人に対して言はれたことに  「すこしのすきにも慢心が出て、我をだますのぢや    我といふひるぬすびとにゆきあひて         南無阿弥陀仏のこころ取らるな」  それから又、香樹院師は或人に対してその邪見?慢の不浄を洗ふべきことを説き、これを器の不浄にたとへて、次のやうに言つて居られる。  受くる器の中にいろいろ腐りたるものがあれば、其中にどれほど甘き妙なるものを入れても、容れたるものが不浄になる。それと同理にて、聞くものの心が不浄なときに、まことの清浄の法は与へられぬ、早く不浄の器をとつくりと洗つて、清浄にせよ、己れが邪見?慢の心をさつぱり洗うて弥陀の本願を聞け」  この言を一寸聞くときは香樹院師は邪見?慢の心をさつぱりと洗ひ淨め、かかる不浄の心を清浄の心にかへて阿弥陀仏の本願を聞くやうに説かれたやうであるが、香樹院師の真意は決してさうでなく、邪見?慢の心をその儘正直に観て、かかる邪見?慢の心であればこそ阿弥陀仏の本願に遇ふことが出来ると喜ぶことを言はれるのである。実際我我の心のはたらきの上から見れば邪見?慢を邪見?慢と自分に気がつくときはその邪見?慢は己に洗はれて居るのである。  談義説法  香樹院師はその身、東本願寺講師の重任を負ひ、本山の命を奉じて諸邦を行化せる外に、自から護法をもつて其任として真教を弘むることに全力を尽されたのである。門人の香山院龍温師が撰ばれた碑文の中に「法を演ぶれば則ち兇徒涙を垂れ、惑を解けば則ち至愚襟を開く」とある通ほりに、香樹院師が高座に上ぼられたときは、其声朗朗として内外に徹し、唱導の内、動もすれば涙に咽び、声の止まることがしばしばであつた。それに大悲本願の尊さを思ひ、人人の不信なるを悲しみて感激胸にせまることが度度であつたと伝へられて居る。当時学徒の内に一首の落首を出した。  「易は上手、含は短し、蛇長し、やすははなやか、徳涙かな」  易は易行院法海師にしてその弁舌が巧みであつた。含は雲華院大含師にしてその法話が簡単であつた。蛇は江州蛇溝の本啓寺の如説院慧剣師、いつも長講に渉つた。やすは野州の浄満寺実言院慧景師にして、説教がはなやかであつた。徳は香樹院徳龍師にして、講師自から感激して法話の席で涙を流されたことがしばしばであつた。  かやうに、香樹院師が感涙に咽びつつ、しかも胸裏燃ゆるが如き熱誠をもつて如来の大悲を傅へむとつとめられた態度が多くの人人の心を動かしたことは勿論であるが、その根抵には香樹院師が法を重んじ身を捨て、自から信ずるところを説いて人人の邪見を翻へし、速に真実の信心を獲得せしめんとの深切が深き感化を与へたことは明かである。  天明の災後、本山の財政逼迫して頗ぶる困難を究め、門末の懇志も集まり兼ねたときに当時尚ほ寮司であつた香樹院師はこれを座視するに忍びず、自から起て募財の重任を引き受け、法義御引立の名の下に諸国を巡回することとなり、先づ江州長濱の別院に至り法話をすること十日間であつた。別院の当事者は初めより募財のことのみに心を砕き、法話の上に募財のことが述べられることを期待せしに、香樹院師は熱心に如来の大悲を語るのみで、一言も募財のことに及ばず、当事者は今日か今日かと待ちまうけたるに更に募財のことが談ぜられず、最後の十日に至りて師は涙と共に懇懇信心の大切なることを説き最後まで一言も募財に及ばれなかつた。しかしながら法義に対して眠れるが如き信徒の心はこれによりて覚醒せられ、何れも知恩報徳の誠をあらはしたので、意外に夥多の懇志が集まつたので人人はその不思議に驚いたといふ。  又、香樹院師巡化の途中、江州の磨針峠にて休憩せられた時、随行の僧、申し上げて曰く「かしこに見えまするが私の在所にて候」。師の曰く「檀家は如何ほどありや」僧の曰く「はい八十軒ほどでござります。」その時、香樹院師の仰せに「己が寺は十四軒の門徒ぢやが、教導しかねる。其方はあまたの御門徒を預かり申して、さぞさぞ心配なことであらう」と。僧の心は僅かに八十軒ばかりの門徒では自分の生活が十分出来ぬことをほのめかしたのであらう。布施の収入の多きを望む上から言えば八十軒の檀家は少きに過ぐるであらう。しかるに香樹院師はその本職たる教導の重任につきて考へて居られるから八十軒の檀家は猶多きに過ぐると言はれるのである。件の僧はそれよりして空恐ろしくなり、住持職を弟子に譲りて、終生師に随ひて法を聴いたといふことである。  又香樹院師が出羽に出張せられしとき、ある地方にて以前法中より本山へ調達金をなし、其後幾度となく下金を願つたが返済せられざるを憤り、此の如き本山より差向けられる講者に教示を受るも詮なしとて、更に寄つかなかつた。香樹院師は強てこれを招き、自分の金子二百両を法中の前に出して「御本山とても逼迫なればこそ、調達金をお頼みなされたまふ。それが返済なしとて末寺の身を以て本山に恨を懐き剰へ御教示をも受けぬとは心得違である。錙銖《ししゆ》の利をのみ争ふは在俗のことなり、解脱幢相《げだつどうそう》の袈裟を纏へる僧侶の口にすべきことにあらず。余今本山に代りて金子を返却すべければこれにて不平を晴さるべし。されどこの金子は余が虚受信施の大罪を犯して得たる金子なれば、今卿等に金子と共に虚受信施の罪をも譲るなり。虚受信施は五逆に等しき罪なれば金を受けたる儘にて信心決定せられずば恐くは未来無間地獄に堕在すべし。実に怖しきことなればよくよく聴聞して信心を決得せられるべし」とて懇に論されたので、人人深く慚愧の念を生じたと伝へられて居る。  聞法の態度  宗教はどこまでも自身の大事の問題である。如来の本願がいかに大悲であるにしても、自身にこれを体得するにあらざれば何の詮もないことは言ふまでもない。さうして我我が如来の本願を体得することは前にも説明したやうに、極悪最下の自分の心の相を内観し、自分の身と心とを頼む心をやめてただ一筋に如来の本願を聞くによりて成就せしめられるのである。香樹院師はこれを説明して「南無阿弥陀仏の聞きやうまで教えて下さるが善知識なり。その聞きやうは謙敬聞奉行踊躍大喜といふ。「智度論」に世間の商ひするものが、僅か商品でも我慢高慢な心では向へ商品を賣つけられぬ。僅かな利益をとる商賣すらそうぢや今無上の仏法の真実を儲けるに謙下の思ひがなくては聞かれぬとのたまふ。いかがへり下るぞといへば、その謙下の極を善導大師は常没常流転無有出離之縁と教へ、慧心僧都は極重悪人無他方便と示したまへり。聞くは聞いても、これを信じて我身に行ふの心のないのは聞いて見やうといふ慰み心、戯論の沙汰になつてしまふからで、聞くときだけは難有と思へどもその時過ればみな忘れてしまうなり。そ れはまことの聞きやうではない。そこで如来は謙敬聞奉行と教へ下される。今日地獄へ落ちねばならぬといふ極悪深重が知れて見れば外の事が心にかかる筈はない。ただ我身の助かるだけが胸の裏のありだけとならねばならぬなり」まことに「?慢の高き嶺には智慧の法水とどまらず。弥陀の大悲は悪人のためなれば我が心に流れ込む智慧の水なり。この如来の法水入り満ちて仏法の温潤なき我が心を潤したまふ。しかれどもこの水は我慢心の嶺には止らず。」と言ふべきであるから、聞くに極まる仏法も謙下の思にてこれを聞かねばならぬ。ある人が香樹院師に尋ねていふ「どうも薄紙へだてたやうでござります」。これに対して師が言はるるやう「さうぢや、おれが身でもお前でも薄紙どころぢやない。澁紙ほど厚い。それを破つて下されるのが御化導ぢやほどに」とあつた。香樹院師の意によれば、如来の慈悲の力として本願があらはれるのであるから、我が心中を拵へることなく、ただこれを聞けば必ず法は聞えるものであると言はれるのである。然るに、人人はさういふやうに謙下の思にて法を聞くことが出来ず、得手に聞くのが常であるから、法はそのままには受け取られぬのである。香樹院師曰く「邪見な我我が信がなくて喜べぬのと、古徳の唯円坊が歡喜踊躍の思が無いとあるのを一つにして、金色の仏躰となるほど念仏申した耳四郎と、念仏申さずと悪るいことをのみする我身とを一とつにいひならべ、剩へ一宗の祖師聖人のお歎きの名利と我我が名利に跨る造悪とを一とつにし、道理までつけて、人の後生まで妨なすは一盲の衆盲を引て以て大坑に墜つるなり」法はただ聞きて素直に受取るべきものである。それに自分の意見を加ふべきものではない。江戸浅草御坊にて安心のことにつきて僧侶達が議論して、何れが正しきか、正しからざるかと質問せられしとき、香樹院師は「棲の上り下りは著物著た上のことぢや、裸体の乞食にその議論はないぞ」と、頂門に一針を刺されて僧侶達は皆赤面したと。江州醒ヶ井のみそすりやにて「婆婆そのままのお助けぢやぞや」と言はれた。婆婆は喜びて「ありがたうござりまする。いよいよこの儘のお助けでございますか」と言ふ。香 樹院師「いやさうでない、その儘のお助けぢや。仰せを持ちかへるなよ」と。婆婆これを聞いて踊り上つて喜んだといふ。思ふに仰せを持ちかへるところに自分の思慮分別があり、しかも得手に聞く心が一ぱいなのである。  かやうに聞法の態度が謙下でなくてはならぬことを力説せられた香樹院師は、しばしばこのことにつきて戒めて居られる。あるとき江州野州郡の郡木の濱の茂平といふものが参つたとき「そなたは虚無僧の顔を見たことがあるか」と問はれた。茂平は「はい見たことはござりませぬ」と答えた。さうすると香樹院師が言はれるやう「さうであらう。虚無僧はよつぽど膝を折て仰がねば見えぬぞよ」。まことに無上の仏法は謙下《けんげ》の心でなくては聞かれぬ。?慢と邪見と懈怠とは以てこの法を信ずることが難い事由であると言はねばならぬ。  又香樹院師は僧分が法を聞くに謙下の心のないことを挙げて「我より劣るもののいふを聞きては、ただその言ひぞこないや、取ちがひを聞いては嘲けり笑ひ、又我と等しきもののいふことを聞いては、言ひ方が善いの悪るいのと、是非の沙汰ばかり、さてその上に我より勝れたるもののいふを聞いては、はや一つも覚えておく心になる。さうして見ればまことに我が身のためにする法は一句も聞くことがならぬ。」まことに謙下ならざる我我の心はいくら法を聞いたにしても、遂に我身のためにする法は一句も聞くことのならぬのが常である。  安心生活  仏教の精神をば此の如くに理解し、且つこれを実践躬行したる香樹院師の一生は、まことに安心生活の上乗のものであつた。「香樹院譬喩集」に曰く「とつくり安堵したと、まだ本当に落著かぬとは、たとへば日暮に向うて大きな渡しのある所へ行くとき、陸つづきなれば、なんぼ日が暮れてもよけれども、渡しは我が自由にならぬ。是非に越すべき道理なれども、船があれば善いがと思ふ案じ心はやまぬ。所へそこへ行きかかる。さあ今渡すこの船かぎり早く乗られよ、と声をかけられて、飛び乗りたなら、やれうれしやもう善いはと向ふの岸へはつかねども、ついた心で喜ぶなり。今も弘誓の船に乗らぬ間は、まだどうやらの思は止まねども、しつかり乗つて見れば、さてこそ往生は一定なりと、もはや浄土へ必ず参る心で落著くなり」とある。又「そこで頼むだ心は乗り得た心、極楽の岸まで五年あらうと、十年あらうと、弘誓の舟のその中で、さても嬉しや、ありがたやと、生死の波風は昔にかはらぬ波風なれども乗らぬ間と乗りた心とは心持が大違ひ。ここを蓮師は一期の間はこの光明の中に住む身なりと思ふべし。弘誓の船のその中で、彼の極楽の岸をながめ、追つき至りつくに違ひないと思ふ心より、嬉しや嬉しやと御恩喜ぶ身になれば骨折も苦労もいらばこそただうれしやの念仏より外はない」とある。かやうに、他力の信心を獲得した身分は寒いにつけ、暑いにつけ、善きにつけ、悪しきにつけ、喜ばしきにつけ、悲しきにつけ、阿弥陀仏の本願を憶ふ念が常に起りて、何事につけても喜びの心をもつてその日を暮すことが出来るのである。  死の問題  生きたものが死ぬるのは言ふまでもなく、自然の現象である。しかしながら生を喜び死を怖るるのは人間の情であるから、死の問題は人生にありて第一に解決すべきものとして重要観せられて居る。多数の心理学者の中には、人間が死を怖るるがために宗教が成立するに至つたと説くものもあるほどに、殊に宗教の世界にありて死の問題は重要のものであるとせられて居る。香樹院師はこの問題につきて、譬喩を挙げて説明せられて居る。その説に曰く。「たとえば家並の所で風上に火事が起る。その家をやくまいやくまいとあわてて居る。まことに勢一杯に我身も働き、人も手傅つて働けども、時節が来れば 残らず焼いてしまふ。余宗余門はただ死ぬることばかりきらうて、念仏まできらうて、死ぬるまでかまはずに悪道へ落ちてしまふ。又焼けるは是非に及ばぬが、肝腎な我身の始末ぢやと、入用なもの残らず片づけて、あとは焼けやうとも、どうしやうとも、身の用心をする。浄土宗のものの心得は、命はどうも仕方がない。肝腎なは未来の落ちつき所と思ふて、我身の始末をするなり。故に余宗余門とは格別なやうに見ゆるなり」。いかにも平易に何人にもわかり易く、親鸞聖人の教を奉ずるものの死に処するの態度が示されて居る。言ふまでもなく、生きたものが死ぬるのは自然の現象で、誰人もこの現象を免るることは出来ぬ。たとひ神仏に祈願するとも到底死を免るることは不可能である。それ故に死ぬることは是非に及ばぬ。徒らにそれをきらうことを止めて、死んで行く自身の落ちつくところを分別することが大切である。宗教は決して人をして死を免れしむるためのものでなく、却で死に善処するの道を示すものである。文応元年十一月十三日附親鸞聖人齢八十八歳の時に乗信房にあてられたる書状に「なによりもこぞことし老少男女おほくのひとびとの死にあひて候らんことこそあはれに候へ。ただし生死無常のことはりくはしく如来の説きをかせおはしまして候らへば驚き思し召すべからず候。まづ善信が身には臨終の善悪をばまふさず信心決定のひとは疑なければ正定聚に住することにて候なり」とある。信心決定してめでたく往生を遂げむと思ふ心となれば、固より敢て進むで望むべき死ではないが、しかし死の現象が目の前にあらはれたとても少しも驚きさわぐことを要せぬのである。ここに如来の本願を信ずる宗教の心が、日常の生活を導く上に最も強い力をあらはすものであるといふことが認められるであらう。香樹院師の曰く「一切衆生、命惜まぬものはない。命惜まぬものは地獄の罪人ばかり。その 外のものは虫螻《むしけら》まで命惜まぬものはない。人間も命惜まぬものはなけれども、死しなに命惜まぬものは念仏行者ばかり、此度いよいよ信心決定の身なれば浄土の往生疑なく思ひ喜び、嬉しやの命終ぢやと仰せられる。私が其身になりたぞと喜ぶべし」  道徳と宗教  仏教にては真諦と俗諦とを別ち、仏法を真諦とし、王法を俗諦とし、仏法王法は兩輪の如しと説くのが常であるが、しかしながら、実際には仏法の安心に世間の王法を添物とし甚しきは法門弘通の方便でもあるかのやうに心得て、王法を守らうともしないものが多い。香樹院師はかやうに仏法と王法とを離して考えることの非を説き、我が往生の一段に於て信心のみを要とすと思ひ、王法を守らうとせず、一宗の道俗身の挙動を顧みず、且は邪見に陥るものが多いことを慨嘆して居られる。香樹院師は「大無量壽経」に「汝等能く此世に於て心を端しくし意を正しくして衆悪を作らずば甚だ至徳なりとす」とあるのを引て、これを信心が得られた後の処世法であるとして、儒教にいふところの仁、義、禮、智、信の五常が五善として勧められ、その反対が五悪として戒められて居ることを述べ、念仏の行者は王法仁義を守らねばならぬと教えられて居るのであるが、しかしながら香樹院師の説によれば念仏行者が身を守るの教は阿弥陀仏の本願から起つたもので、何も王法を離れた仏法ではない。この王法を守らねば妻子眷族は養はれず、御法もやすやす聞かれぬ故に守れよと仰せらるるのであると言つて居られる。この王法を守るといふことはその人が住むところの国家の法律制度を遵守すべしといふことである。家財を棄て、妻子を捨て、王法に背きて仏道を修行すべきでなく、家財を有し妻子を蓄えて王法を守りつつ、如来の本願を喜ぶ生活をなすべきである。仁義を守るといふことは儒教に説くところの仁・義・禮・智・信を守るべきことをいふのである。「大無量壽経」に説かれたる五悪を戒め、その反対なる五善を勧めて、人間たるの道を修めしめることが信心を獲得したるものの務むべきところであるとせらるるのである。香樹院師は更にこの点に就て説明して「誠に我我が妻子兄弟、迷の綱といふものは外ではない。親ほど慈悲のものはなけれども、我が子に貧欲を教へ、愛著を観させ、我子を引き連れて 地獄へ堕つる有様。妻も夫も互に睦まじいといふが、やはり業の綱でくくりつけて共に輪廻の身上となるが在家の身上なり。かかる身上を其儘なりで助けてやると仰せらるる。未来の絆は弥陀の願力から障りにならぬやうに、皆切りくだくほどに、此世の間は陸じく、今までは地獄へ堕つる業の綱をつけるのが傅じかはつて、親が信を得れば我子に後生を願はせたい。子に信があれば親の不法義が案じられ、夫は妻を勧めたや、一年半季の奉公人にまでも念仏申させたやの心になるは、業の絆をつけかへて如来の御慈悲 の綱をつけて共に地獄へ堕つるのを、共に浄土に参る身となれよと御教へ下さるる。ここのところを思へば浄土宗の掟、何も後生願ふ添物にして木に竹をついだやうな仰せではない。掟まもるが共に浄土へ参る仏恩の喜びとなることぢや」と言はれるのである。宗教は固より道徳を超越したものである。自我と他我とを対立せしめて、両者の関係を調へるがために自我を節制するところに道徳が成立するのであるが、自我と他我とを一如として、我の無くなつた宗教の世界に自我を節制するところの道徳があらはれる筈はない。しかれども宗教の世界にありて自他を区別せず、萬物一如と見るところに、その行為が自からにして道徳の規範にかなふことは当然である。香樹院師はまさにこの点を挙げて説明せられたのであらう。又宗教の心が道徳の心を基礎としてあらはるべきものであることは明瞭のことで、それが道徳とその領域を異にすれども、しかも宗教と道徳と矛盾するものでないことも勿論である。まして阿弥陀仏の薬があるからと言つて好むで毒を飲むではならぬと親鸞聖人が示されたやうに、いかに如来の本願に助けられる身にしても、自から好みて悪を為すことはこれを避けねばならぬのである。念仏の行者が五常の道を修むべきは言ふに及ばぬことである。出羽の秀恩がその子のために修学の次第を香樹院師に問ふたとき、師の言はれるに「歳二十に満るまでは必ず外典を以てすべし。経に仁義先づ満ちて大小乗これより起るとあり、孔孟の教は皆大経悲化段の細釈なり」とあつた。又嘗て師が佐竹侯の領内に布教せられたとき、儒者等はこれを妨げむとして、材料を得るため師の法話を聞いた。所が却て大に感服し「真宗の教は悪を造りて極楽へ生まると説き、全く聖賢の道とは背反せりと思つたのに、思つたところとは反対に、その仁義の道を説くこと微細に渉りて我等の及ぶ所にあらず」とて、多くの儒者等が香樹院師の法話を聴聞したと伝へられて居る。宗教の感情が道徳の心に本づきて起ることは言ふまでもない。そこで道徳を度外視して宗教を説くことの不都合を考へた香樹院師は口を開くや、常に必ず仁義の道を教え、王法の実践を勧められたのである。  法語雜?  香樹院師は常に門下のものに語りて「ロをもつて説けば人、耳をもつて聞く。心をもつて説けば人、心をもつて聞く。それ故に須らく心をもつて説くべく、口をもつて説くべからず」と言はれたといふ。まことに香樹院師が機に臨み折にふれて口にせられたる法語は寸鐵人を殺すとも評すべきほどに辛辣のものが多く、又聞くもの慚愧して面を上げ得ざるほどのものが少くない。しかもその一言一行は皆如来の法音を伝ふるものであると言つて差支ない。ここに香樹院師の口から出でた片言隻語の二三を掲げて、師の身と心との上に顕はれたる貴とき法を味ふ資料に供える。  自分の一大事  往生は一人一人のしのぎである。宗教は本と自分の心を修むるものである。決して他に依るべきでなく、自分のことは自分で始末せねばならぬ。美濃の民蔵といふ人出家して明信寺に住し実洲と称す。若年の頃、香樹院師に謁して「どうも私は後生の一大事が心にかかりませぬが如何致したらよろしうございませうか」と言つた。香樹院師はそれに対してただ一言「そなたの一大事はわしは知らぬ」と言はれた。一蓮院秀存師が「信に疑はなけれども心持の悪い時あり、そんな時は如何致せばよろしきか」と尋ねしとき、香樹院師の仰せに「そんなことは言はぬでもよい、ただ御念仏をしてゐらしやれいのう」とあつた。香樹院師常に戒めて言はれるやう「実に煩悩は断ぜられず、永く三界の火宅を出でられぬ身の上ぞと思ひ知られて見れば、尽未来際また迷はねばならぬ一大事を、一旦の名利にのみ心を寄せて今度の一大事取り仕損ずべきやうはなし。我身知らずなりと戒めらるるはまことなり。自身の身の上が明らかに知られて見れば自らまこと仏法を求むる心は起らねばならぬなり」  心の番  越前の僧西水某は香樹院師の門人であつたが、その住持せる寺が火を失し、五尊を焼く。某慚愧の念に堪へず。本山に詣で、御真影の前に深く拝謝し、香樹院師を訪て慚愧の思をなし、比心を如何にすべきと尋ねしに、師の曰く  「誰も貴様の心の番は出来ぬ。そのために口称の御本願がましますではないか。念仏さへ称へさして頂けば其他は何もいらぬで」  釈尊は「汝自からの燈を以て汝自からの道を照らせ」と言はれた。自分を救ふものはどうしても自分でなくてはならぬ。それ故によく自分を修めねばならねと教えるのが釈尊の教である。しかるに我我は自分を修めて以て自分の燈をつくることが出来ぬ。かやうに自分の燈を有せぬ極悪最下の我我が仏より賜はりたる燈によりて自分の道を照すことが出来るといふことはまことに大なる喜びである。  一人足らぬ  同行四五人より會ひて何事か相談して居つたとき、香樹院師は奥にてこれを聞きたまひ、ややありて襖をあけ「もう一人たらぬぞ」と言はれた。一同不審の思をなし、「それはいかが」と尋ねたるに、師の曰く「阿弥陀様のことぢや、皆皆が親様を忘れての相談なら所詮がない」と。まことに如来の法身は常住不滅である。しかも我我はこの常在の如来の法身に包容せられて居るべき筈である。我我にして若し真に阿弥陀仏の本願を仰ぐならば、我我は如来と共に臥し如来と共に起きる思になることは必然である。何事をも阿弥陀仏と共にするといふ心になりてこそ真に法を喜ぶものであると言はるべきであらう。  地獄ゆき  或人いろいろの箇條を書きつらねて香樹院師にお糺しを乞うた。師一一それを点検し了りて、最後の処へ、筆を染めて、次の文字を書き加えられた。「右しめて地獄ゆき」法義のことにつきて、いろいろの戯論をなし、往生の上には何の用もないことを彼此と詮義立てすることはまことに地獄行きの種であると言はねばならぬ。要するに、宗教をば思想上の遊戯とするこは地獄に堕つる材料をつくるに外ならぬのである。  その心目あて  成人「私はいかにしても浅猿しい。こんな心ではどうであらうといふ心が離れませぬ」と言ひしに、香樹院師の曰はれるに「その心ぢやから、よく聞くとその心目あてに起して下された本願ぢや」とあつた。或人「私は邪見な心が止みませぬ」と言ひたるに対して「邪見な心が止められぬと思ひつめて、かかる邪見な奴を御目あてに起して下された御本願と喜んで居れ」と香樹院師は言はれた。一蓮院秀存師が香樹院師の前に参られて「御聖教の御文には明信仏智とありて心が明かになるやうに伺はれますが私の腹には明かになりませぬ」と言はれたるに香樹院師の曰く「さうぢやでさうぢやで御前余所を聞きあるかずに宅で御念仏申して居なされ」。誰人にしても自分の心中をこしらへやうと心配して居る。いくら理屈ばかりを考えて心中をこしらへたとても、それは安心立命のためには何の益もないことであり、却てますます邪道に陥る種を増すのである。  その儘  越後塔の濱の女、心に悩むことありて京に上ぼつて香樹院師に謁して「この後生、どうしませうどうしませう」と涙ながらに尋ねた。師はただ「鶴の脚は長いなり、鴨の脚は短いなり、その儘のお助けじや」と言つたきりで座を立たれた。その女本意なく思ひながら、是非なく帰路につき、終日右の言葉を胸にくりかえして居たが、何時となく、大悲の光に照されて「ああこの御恩をどうしようどうしよう」といひながら喜びつつ家に帰つたと。思慮分別を離れたところに自から湧き出づる宗教の感情はただ喜びの心のみである。又江州神崎郡のおとみ、香樹院師の病中に伺ひたるに、師の曰く「おとみ聞えたか」。おとみの曰く「私は領解も何もござりませぬ。行く先真暗でござります」。香樹院師の曰く「暗いなりでつれて行つて下さるる御慈悲があるぞや、おれは先へ行つて待つて居るほどに」。提燈を提げてさえ居れば道が暗黒であることを心配するには及ばぬ。美濃田代町のおせき、手水桶さげて香樹院師の座敷の庭前に参りたるとき、師は突然「おせき、極楽参りはどうぢや」と言はれた。おせきは直ちに「はい、これなりでござります」と言つた。師はこれを賞めて「おせきよく聴聞したなあ」と言はれた。いかにもこれなりである。本願の念仏は助けをささぬのである。智慧を助けとし、功徳を助けとして念仏申すことは功利的なる自力のはからひとして排斥せられるのである。地獄に堕ちるばかりの心へ、摂取して捨てぬとある如来の本願が聞えれば、助かりたいが入らず、堕ちまいが入らず、ならふことが入らず、仕あげることが入らず、聞くたびにただ喜ぶばかりである。香樹院師があるとき人に対して言はれたことに「聞き分け、知りわけた信で極楽参りが出来るのなら坊主は皆御浄土に参られる。聞きわけ、知りわけた位で、浄土へ参らうと思ふはひがごとぢや。如来様の仰せばかりが真実ぢやよ」と。自身の心の相をそのままに見るところに始めて如来の仰せがよく聞えるのである。  言葉を便にするな  成人領解を香樹院師の前に述べたのを香樹院師は聞かれて「述べたる口上に間違ないが、必ずその言葉をたよりにするな。言葉さへ言ひならぶれば信を得たとするのではないか。言葉は他力でも心は自力の執心ではないか」と戒められた。他力といふは仏の本願を信じて疑はぬ我が心の状態である。他力といふものが別に心の外にあると思ふによりて言葉だけは他力であるのが人人の常である。風が吹くといふ、しかし吹くもの以外に風があると思ふのは誤である。 つかまえどころ ある人「私はいかほど聴聞いたしましても、どうしてもつかまえどころがござりませぬ」と言ひしに、香樹院師は「さうであらう。おれはつかまえられぬやう言ふて居るのぢや」と示された。喜びの心が思慮分別によりて起るのは普通の功利的感情である。宗教の心はさういふ思慮分別を離れて始めてあらはれるのであるから、 つかまえどころのないのが当然である。つかまえどころのあるやうにと願ふのは我が心である。その我が心を捨てて如来の仰せに従ふのであるから、ただ不思議と喜ぶばかりである。  弥陀の喚声 ある人、香樹院師に対して「今にも死なうと思へばもう一度御目にかかりてといふやうな心でござりまする」と述べしに、師の曰く「それが肝要のところで、それが疑の根ぢや。それでよく聞けよく聞けといふことぢや。よく聞くと、今まで何を疑て居りましたやらと、如来様におすがり申す心が信心決定ぢや。これ一つさへ訳がわかつたら、日本国がひつくりかへつても浄土参りに間違はない。世上で信心安心の訳聞いて、此処でかう聞いた。彼処でああ聞いたが、どちらが真実やらといふやうな詮義沙汰をやめにして、誰がどういはうとも、心が何と思ふとも阿弥陀さまの助くる助くるの御喚声を頂いた身ぢやものをと思へば、こんなたしかなことはないではないか」。まこと小さい自分がいろいろと計ふ心を止めて大なる如来の心の中におさめ取られたと感ずるとき、それは人間の意志よりもはるかに強い意志を頂くのである。まさに金剛不壊の心である。  無明の大病  岡崎御坊にて法話の後に、一人の尼が「段段の御聞かせにてまことにありがたうございました」とまうしたるに、香樹院師はそれに対して「無明の大病こめて置てありがたやありがたやといふて居るか」と戒められた。すこしばかり法話の端を聞きかぢりて、それで無明の大病がなほつたやうに喜ぶのは?慢の甚しいものである。よく内省すれば我我のやうに無明の大病に罹つて居るものは、いくら聞いてもありがたくならぬと概くところに、真に如来の本願をたのむ心があらはれて居るのである。越中のおせんといふ女は名高き取持同行で、たびたび本山から褒美に預かつたので、いかなる学者僧侶をも友達のやうにあしらふて居つた。ある年香樹院師が岡崎別院に法話をせられたときにおせんは師の居間に参りて「私は越中のせんでござります」と申し上げた。師はその時聖教を披覧して居られたが、その聖教を閉ぢ、眼鏡を外づして席を直し「なにせんでも、まんでも」と言つてはたとにらまれた。おせんは不平の顔色をしてその座を立つたが、師は呼びとめて「おせん待て、およそ?慢を嫌ふのはひとりこの香樹院のみではないぞ」と言はれた。おせんは自分が越中のおせんと名乗れば、法義取持の功を賞めて貰ふであらうとの?慢の心が一ぱいであつた。しかるに高が一人の女性、千でも萬でも別に大したことはないと香樹院師が軽蔑せられたものと、不平であつたおせんも、これまで耳にたこの出来るほど聞いて居つたおせんの心に十方の諸仏が捨てて助けられぬ邪見?慢のものを阿弥陀仏のみがお助け下さるといふありがたさが感ぜられたのであつた。?慢の角が折れたところに始めて如来の本願が自分のものとなつたのである。おせんは感泣して慚愧し、ここにめでたき信者となつたと伝へられて居る。  真似は続かぬ 或人諸国渡りの同行を泊めて夜酒を勧めたるに、件の同行いと見苦しく乱酔す。主人これを見て私の心の様をみせて下されたと喜ぶ。翌朝その同行、前夜のことをわびたれば、主人また私への意見なりと喜むだ。しかるに其夜もまた酒に乱れたれば主人大に立腹して、夜のあくるを待ちて放逐した。後に至りて主人つらつら我が先になせしことの浅猿しかりしを悔て、香樹院師に逐一申しあげたとき、師の曰く「稽古したことや、真似したことはながく続かぬものぢや。」言ふまでもなく、悪性は凡夫の自性なれば止めても止められぬのが当然である。このものを助けらるるのが仏の慈悲であるのに、その悪性を止めやうとするは畢竟仏の慈悲を無にするものであるばかりでなく、ただ稽古したり真似をしたりするのみで、真にこれを止めることの出来ぬ悪性に痛感せぬのが人人の常である。香樹院師は強くこれを戒められたのである。  不思議  安政四年十二月二十七日一蓮院秀存師、香樹院師の病床をたづねられたれば、香樹院師の仰せに「誰にも人に尋ねずに唯だまつて念仏を申されよ」とあつた。秀存師「左様ならば、ただ不思議におまかせ申して念仏を称えるばかりでござりまするか」。  香樹院師の曰く「不思議といへば今まで命ながらえたのが、はや不思議ぢやほどに」。まことに我我がこの世に生存して居ることは不思議の至である。与へられたる身体と精神とを以て与へられたる境遇に住み、興へられたる空気や水やその他の食物を摂取して生命をつなぐことの出来るのは何と言つても不思議この上もないことである。かやうに深く自己の内面とその環境とを省察するとき、我我はここに自己の極めて劣小なるを知りて、どうしても宇宙の大なる力に倚らざるを得ぬのである。その不思議を究明することの出来ぬ我我としてはただその不思議にお任せするより外はないのである。  聞き分けた位  ある時、女同行五六人、香樹院師の前へ出で、御聞かせを願ふた。師の曰く「聞き分け知り分けた位で御浄土へ参られるならば坊主は皆御浄土へ参られる。聞き分け知り分けた位で御浄土へ参らうと思ふはひがごとぢや。如来様の仰せばかりが真実ぢやぞよ」。己れをはたらかして理解するのではなく、己を空しくして法の真実を信ずべきである。  信相続の相  江州の了信、香樹院師の病床へ参りて申し上ぐるやう「私は御前へ上りましても、同行衆の中でも、口では立派に調子合せて喜んでは居りますが、もしやもしや心底が違ふては一大事ぢやといふ心配がござります。これはいかが致したらよろしうござりませう」。香樹院師の曰く「それが信相続の相ぢや」了信「ありがたうござります。左様なればこれながらで往生させて頂きます」。師の曰く「往生に間近くなればそれもないやうになるほどに」。かやうにして我我のはからひが全くやむときに安心の境地に至ることが出来るのである。了信後に又香樹院師の病床に参りしに、師の曰く「どうぢや、どうした」。了信の曰く「私はこれまで持ちならべて居りました信心も安心も、今は何処へかいつてしまひまして、ただ御呼び声一つを杖とも力ともたのみきつて居るばかりでござります」。師の曰く「それが仕おうせたのぢや」。了信の曰く「ありがたうござります。年久しく御指導を蒙むりまして、何とも御禮の申し上げやうもござりませぬに、今日では唯口先ばかりで申し上げて、御胸をいためましたは、仏智回向の御なしわざといふことが知られませぬからでござりました」。師の曰く「もう仏智回向がすめたか。それがすめぬ故に、久遠劫より迷ふて居るのぢや。それでもうよいといふて、捨てて置くのではない。聞いては喜び、聞いては喜びして居るのぢやほどに」  後三四ヶ月を経て了信又、香樹院師の病床に参り「先年長濱にての御聞かせ、あら恐しや、あら嬉しやの思の起らぬは無宿善ぢやとの御意でござりましたが、今私もやうやう其嘘へとどかせて頂きました。これは私が罪造りながら知らずに居ることを御知らせ下さるることでござりまするか」と尋ねた。さうすると香樹院師の曰はるるやう「さうぢや、凡夫といふものは生れ落ちるから死ぬるまで三途の業より外に仕事せず、毛のさきほども身を知らずに居るが凡夫ぢや」了信「ありがたうござります。善知識様の御化導によりまして火の坑の上の綱渡りは私が日々の所作と思ひ知らせて頂き、あら悲しや、かかるありさまを見込での御呼かけとは、あら嬉しや、国に一人郡に一人の仕合ものと喜びまする」。内観が徹底してここに始めて聞其名號信心歡喜の心があらはれるのである。  翌年の春、了信又香樹院師の病床に参りたるに、もはや終焉もほど近くなりたまひし様子、了信は枕許にて御顔を見守り居たるに、御側に居りしものが「此人は江州の了信でござります」と申し上げた。すると香樹院師は御口の中にてかすかに「昔は命にかけて御求めなされた仏法を今は楽樂と足手を運ぶばかりで我身が仏になることを聞くのなれば、よくよく聞いて帰られよ」と言はれた。まことに我我はただ仏の呼かけられることを聞くべきのみである。我が身と心とをたのむことなく、一切を挙げて仏の慈悲の力に依託すべきである。本願の宗教の真意は実に此に存するのである。  暇乞  ある人、暇乞に参りて「この世ではこれが御暇乞でござります。今度は御浄土で御目にかからして頂きませう」と申した。香樹院師は態と聞かぬさまをなし、フーンと言つて顔を背けられた。又或人が伺ひたれば「からだの暇乞に来たか。心の暇乞ひに来たか。からだの暇乞は致すが、心の暇乞は蓮薹に手をかけるまでは致さぬ」と香樹院師は言はれたといふ。一寸聞けば皮肉な言ひ方のやうであるが、その言葉の中には師が死に処する態度の厳然たることが十分によく窺はれるのである。  終焉  安政五年正月二十三日、香樹院師は八十七歳の高齢を以て京都六條の高倉学寮に没せられた。七條に於て荼?《だび》を行ひ、遺骨を大谷の祖廟と、その住地無為信寺とに分ち葬つた。香樹院師は終身娶られず、従つて子が無かつたので、甥の武田行忠がその後をつぎ、この行忠も亦達識にしてよく香樹院師の衣鉢を傅へ、講師に進み香涼院と號した。  香樹院師の病気が段段と重くなつたとき、暇乞のためにとて多くの人人が参つたが、ある人暇乞にまゐりて「此世ではこれが御暇乞でござります。今度は御浄土で御目にかからして頂きませう」とまうせしに、師はわざと聞かぬまねをして、フーンと一言、顔をそむけられた。又ある人暇乞ひに伺ひたれば香樹院師は「からだの暇乞に来たか。心の暇乞に来たか。からだの暇乞は致すが、心の暇乞ひは蓮薹に手をかけるまでは致さぬ」と力強く申されたと。  香樹院師往生したまふや、遺族門弟などが集りて、師の書斎を整理せるに、文庫の中に予て書き置かれたりとおぼしき遺状一通があつた。その文に曰く  「人間に生れぬる大事はただ後世の一つなり。たれか知らざるものあらん。しかれどもよく知れる人はなはだ稀なり。仏祖これがために大悲の胸をいためさせたまふ。ただ願はくは念仏の行者、一味の志をもて、自信教人信の勤めをなしてたまはらば予がなきあとの喜び何事かこれにしかん。得やすくして得がたきは他力の大信、守りがたくして守りやすきは信の上の勤なり」 さうして、この遺文は「念仏行者の御中へ」と宛ててあつたといふ。香樹院師が自ら深く阿弥陀仏の本願の法を信じ、又世の中の人人の中に広くその信を同じくするものを求められたことは一生の間、死に至るまで極めて熱烈であつたことがこれによりてもよく窺はれるのである。 さうしてその後三年の弘安九年の院宣によりて @  新選妙好人伝第九編 阿仏尼 凡例 1。阿仏尼はこれまで普通に妙好人と称せられたる宗教人型とははるかに隔りのある人物である。しかしながらその日常生活の上に宗教の心がよくあらはれて居つたと認められる点から私はこれを新選妙好人に入れたのである。紙面の関係上、説明の足らざる点が多いことはまことに遺憾であるが、しかしながらこれによりて宗教の心が煩悩具足・罪悪深重を自覚せる心の上にありありとあらはれる次第は略ぼこれを明にすることが出来ると信ずる。 二。阿仏尼の肖像は冷泉家所蔵のものと、その外に筆者不詳のものとがあるが、この篇に載せたのは阿仏尼木像の縮にして、屋代輪池が獲て高田清津に贈りたる古木像なりとて「残月抄」に載せたるものを更に模写高したのである。 三。この書の原稿は私が自から筆録したのであるが、その整理及び校正は一に秋山不二女史の尽精によるのである。又この書を公にすることを得たるは厚徳書院長宗氏の厚意に依る。特に記して謹謝の意を表する。 昭和十二年十二月中浣 富士川遊記 目次 十六夜日記 阿仏尼 為氏のこと 阿仏尼の性格 争議の問題 強い心 一乗の法 逃避的態度 真実の和合 忍辱 争闘 自是他非 現実直視 読経 祈願 業報甘受 写経 念仏 女子教調 正義の念 宗教的生活 一首の和歌が附記してある。 「妙好人伝」初編に收められたる妙好人は和州清九郎、芸州喜兵衛、石州石橋壽閑等を始めて都合十七人で、その略伝が載せられて居る。「妙好人傅」二篇は美濃専精寺の僧純師が撰述せられたもので、天保十三年以後、順次刊行せられて第五編までに及び、更に安政六年に象王師撰述の「続妙好人伝」が刊行せられた。明治年間になりても妙好人の傅記は幾つとなく刊行せられた。何れも悪逆兇暴のものが阿弥陀仏の本願を聞信して、それに信託せるによりて穢質を無碍光中に投じ、妙果を芥爾心頭に結びたるものの記録であるから、これを熱読翫味するときはその妙好の妙好たる所以を明にすることが出来るのである。  しかも、その叙述の体裁に於て、十分なりといふことが出来ぬのは、妙好人の博記の多くのものが、それが実に白道を践み、みづから寳號を行じて景福を享け、その化が家族郷党に及びたることを挙げたるに止まり、十分にくわしくその宗教の心の状態を明かにすることの出来ぬことである。私が今ここに公にしやうとするものは、その道の人からは妙好人と言はれるかどうかは知らず、その日常生活に於て、十分に宗教の心をあらはして居るものと認められる人々を撰び、その宗教の心の状態をなるべく精細に追究することが出来るものを挙げて、これを「新選妙好人伝」と題したのである。さうして、それ故にこの妙好人伝の中には、仏教の何れの宗派に属するに拘らず、又所謂念仏行者若しくは所謂難有屋連中でなく、仏教の僧侶は固より儒者の中にても、その心のはたらきが真実に宗教の心をあらはしたものであると認むべき人々の傅記を略述しやうと思ふ。これまでの妙好人といえば主に在俗の弥陀教信者が念仏の生活によりて自他を利益したことが叙述せられて居るのに反して、この「新選妙好人伝」は宗教の心が個々の人にあらはれる状態を示すことを主としたのであるから、所謂法悦の状況を記載することはなるべくこれを避けて、むしろ真実に宗教の心をあらはしたるものと認められたる人の精神の状態を心理学的に分析することをつとめたのである。  惟ふに、宗教の感情は、己を虚うして一切の事物に対するときは、誰人と雖もこれをあらはすことの出来るものである。如来の本願といはるる宗教上の言葉は、この宗教の感情を本としてあらはるるところの宗教的意識を指すのである。今私はむかしの人々の中に、此の如き宗教的感情のよくあらはれたるを見て、これを鏡として自己の相を照らすことをつとむるの資料として太だ有益であることを信じ、故らに新選の文字を冠して、この妙好人傅を世に公にしたのである。卵か蕪辞を陳ねて、この書の序文とする。 昭和十一年八月上院 阿仏尼 富士川游 述  十六夜日記  藤原定家の名は「小倉百人一首」の著者として世の中の多くの人に知られて居ることであらう。歌道の家に生まれ、家学を承けて善く歌を作る。後鳥羽上皇の知遇を蒙むり、勅選の歌集(「新古今和歌集」、「新勅選和歌集」)の撰者に挙げられ、歌道千古の偉人とまで称せられた人である。定家の父は藤原俊成といふ人で、この人も勅選「千載和歌集」の撰者を命ぜられたほどの和歌の達人であつた。定家の息に為家といふ人が居つた。この為家も歌道に秀でて勅選の歌集(「嶺後選和歌集」、「続古今和歌集」の撰者に挙げられた。かやうに俊成・定家・為家と三代相つぎて歌道の権門としてその名は甚だ高かつた。この為家は始め宇都宮氏の女を妻とし、その間に為氏、為教と二人の男の子があつたが、宇都宮氏は早く没し、その後に室となつたのが阿仏尼で、歌学者として有名な婦人であつた。此人に為相、為守と二人の男の子があつた。為家が死ぬる前に播磨の国細川の荘を為相に譲り置いたのを長男の為氏が押領したので、阿仏尼は朝廷へ願ひ出たが、どうしたことか其儘になりて一向埒があかず。阿仏尼は空しく煩悶して居つたが、遂に最後の腹をかため、己に年五十を過ぎ、しかもかよわき婦人の身を顧みず、建治三年の十月十六日に京都を出発し、関東へ下り、その月の二十九日に鎌倉に到著した。この東下りの日記が「十六夜日記」と名づけられて世に行はれて居るものであるが、それは簡潔老練の国文を以て書かれ、この日記のために阿仏尼は国文学上にその名が高く、歌人以外の人人の間にもその声挙は広く傅はつて居る。私は今、この「十六夜日記」につきてその国文学上の価値や和歌のことなどにつきて論じやうとするのでなく、別の方面から、この日記にあらはれたる記事を材料として、阿仏尼の心にあらはれたる宗教を吟味して見やうと思ふのである。  阿仏尼  阿仏尼の傅記はよくわからぬ。母は不詳、父は平度繁といはれて居るが、これは母が再縁したので阿仏尼のためには後の父であつたやうである。阿仏尼は始め安嘉門院に仕へて四條と言つた。その頃いぢらしい恋に悩むだこともあつたが、その恋に破れて、髪を切り西山の知るべの尼の許に身を隠くし、「積りけん年月の罪も消ゆる心地しける」と言つて冷静な理智の水にて恋の焔を消して仕舞つたといふことである。それから奈良の法華寺に入り、又松尾の慶政上人の許に居つた。その後、「源氏物語」を書くため大納言典侍の許に呼ばれた。それから暫くにして、定覚律師を生んだ。外に一男と一女とがあつたが、その父の何人なるかは不明である。  阿仏尼が二十七、八歳の頃、建長五年のことと覚ゆ、藤原為家との交際が始まつた。為家は当時五十六、七歳で、歌道を以て己に其名を成して居つた。祖父俊成、父定家の後を承けて、歌道に於ける権威としてその勢力を振ひ、当時の歌壇は全くその一門の独占事業であるかの如くに見えた。為家の歌の才は祖父や父には及ばなかつたが、何分父祖の余澤で勅選歌集の撰者に挙げられるほどの地位を保つて居つた。  為家の第一の妻は宇都宮頼綱の女であるが、宇都宮頼綱は門閥家で、相当勢力があつて、鎌倉幕府からはにらまれて居つたので頼綱も不快に思ひ、熊谷蓮生房によりて法然上人の教化を受け、親鸞聖人とも親しく、親鸞聖人が稲田に居られたのもこの人の関係であつたとも言はれて居るほどである。徳望のあつた人で、和歌を善くし為家の弟子であつたので、その女を為家に納れたのであらう。宇都宮氏には為氏と為教と二人の男子があつたが、兄の為氏は二條家の皿、「続拾遺和歌集」の撰者であり、其子の為世も「新後選和歌集」、「続千載集」の撰者であつた。弟の為教は京極家の祖で、其子為敏は「玉葉和歌集」の撰者であつたほどで、その一門は和歌の達人を以て聞えて居つた。宇都宮氏は為家が三十一、二歳の頃に、二人の子を残して死亡した。為家の子には外に慶融阿閣梨、源承律師といふ人が居つたが、この両人の母は不明である。恐くは先妻宇都宮氏死去の後に、第二の妻として為家に仕えた人であらう。為家には又為顕といふ男の子が居るが、此の人の母は第二の妻とは別の婦人であつた。  為氏のこと  為氏は為家の第一子として父の跡目を相続したのであるが、その実弟の為教との仲が善くなかつた。岸本由豆流が書きたる「藤為兼卿伝」の中に為兼(為教の子)と為世(為氏の子)とが歌道に於て互に嫉みかはしたことを叙したる末に、この従兄弟同志が嫉みかはしたるは一世の事ならずといひて「祖父入道大納言為家卿の没後より為氏・為教の兩兄弟の御中、そはそは敷、何事につけてもいといたくいどみかはされたりき、かの為氏の大納言はおしたち、かどかどしき質にてやおはしたりけむ、弟達をいつくしむ心露おはさで為教卿をおとしめ、にくみたまふのみならず、為相卿の相伝ありし播磨の細川の荘をさへ横ざまにおし取など、いと残忍なる所為どものありけるやらん、物には書傅へたり」と記して居る。為氏の人物につきては委細のことはわからぬが、実の弟の為教をもいつくしまなかつたことは事実であつたと思はれる。「藤為兼卿伝」には更に為氏の子の為世につきて「為世卿もなほその質をや受けつぎたまひけむ、一族の中にても諍論つねにたえずおはしけり、為相卿の都を出で鎌倉に下り、為守朝臣の歌道を廃して出家したまひつるもみな為世卿によりての故なりとかや」と叙して、為氏の性格は其子の為世もうけつぎて、兎角一族の間の交際に円満を欠ぎて居つたことを示して居る。阿仏尼が鎌倉に滞在中、為教の子の為子が、阿仏尼におくりたる歌に   「はるばると思ひこそやれ旅衣        なみだしぐるるほどやいかにと」  あなたのこの度の御旅はさぞつらいことであらう、定めて行くさきに、いろいろのことをお考えになり、涙の時雨の絶え間もなかつたことであらうと、私は都にありながら、はるばるとあなたの御身を気遣て居るとの意である。これに対して阿仏尼の返歌に   「思ひやれ露も時雨もひとつにて        山路わけにし袖のしづくを」  山路はるばるとわけて来た私の袖は草木の露や、降りかかる時雨や、それに絶えぬ涙が一緒にそそぎかかつて、その雫にたえかねるやうである、との心の苦しさをどうぞお察し下さいとある。  為子の父為教は前にも言つたやうに為氏の同母の弟であるから阿仏尼には継子にあたり、それに為子は争議の相手となつて居る為氏の姪であるから、普通なれば為子も阿仏尼に反対すべき筈である。しかるに「十六夜日記」の文中には「前の右兵衛の督の御女、歌よむ人にて、勅選にもたびたび入り給へり、大宮の院の権中納言と聞ゆ」といひて為子をほめてある。権中納言とは為子のことである。その為子から   「たのむぞよ潮干に拾ふうつせ貝        かひある波の立かへる世を」  潮干にうつせ貝をひろふやうに、遠く東まで下られた甲斐がありて、首尾よく目的を遂げられ、浪の立ちかへるやうに早く都へお帰りになることを私は楽しみにして居ると、まことに同情の深い歌をおくつて居るのである。何れにしても、実の弟の為教一家が阿仏尼に味方をして居つたことは明かであるから、為氏の言動は親類からも相当に非難せられたものと思はれる。それ故に、阿仏尼と為氏との争議には表面にあらはれたる事の外にかなり複雑なる事情が内部に存在したのであらうと思ふ。又それに加えて定家の息女の新中納言からも同情の歌を阿仏尼におくつて居ることにも注目せねばならぬ。   「いかばかり子を思ふ鶴の飛び別れ        ならはぬ旅の空になくらん」  この新中納言は阿仏尼の夫の為家の姉妹であるが、この人も阿仏尼に対してかやうに同情して居る。これ等の事情によりて見ると、阿仏尼の態度は為氏及び其一派を除く他の親族からはむしろ好意を以て声援せられたかとも考えられる。  阿仏尼の性格  弘長三年に、阿仏尼と為家との間に為相が生まれた頃には、阿仏尼は為相の兄弟である為顕の母(第三の妻)と仲が善くなくて、阿仏尼は嵯峨のこばやしに居り、為家も亦嵯峨に住み、親しく往来して居つたが、しかも阿仏尼は為家の籠を独占して居つたと言はれて居る。飛鳥井雅有は為家、阿仏尼と交際のあつた人であるが、此人の「嵯峨のかよひ」に依れば、文永六年(為家七十一、二歳、阿仏尼四十四、五歳)には、阿仏尼は為家の小倉山荘に同棲し、「源氏物語」を講じたといふことである。この講義が了りて夜に入りて酒莚を開き、其席にて阿仏尼は為家の歌学の傅統を述べて学者風の性格を示し、「男あるじ(為家)なさけある人の、年老ぬれば、いとど酔ひさへそひて、涙落す」と、阿仏尼がいろいろと説き出して、老いたる為家に涙を落させるほどに感激せしめたといふことが記してある。文永八年(為家七十四、五歳)以後には為家は持明院の北林に移り、阿仏尼もここに同棲した。それによりて、阿仏尼を一に北林禅尼と名づけるのである。為家はこの北林にて死去したが、それは建治元年(七十九歳)のことで、その時阿仏尼は五十を過ぎたるばかりにて、十三歳の為相と十一歳の為守とを抱えて寡婦となつたのである。継子の為氏と為教とは、どちらも阿仏尼と略ぼ同年で、為氏は少し年上であつた。普通の家庭でも、小姑に対することは六ケ敷と言はれて居るほどであるのに、自分と同年輩、若しくは年上の男の継子が二三人も居る家に後妻として入り込むことはまことに難義なことであつたといはねばならぬ。それに、阿仏尼が自身に書いたものや、他の人人が書いたものを見ると、阿仏尼は顕ぶる頭の善い婦人で、理智に富むだ学者的なところが人の目に著き、又自信の強い、名譽心の強い、見識振つたところがあり、強い感情と、強固の意志とを有し、所謂しつかりものであつたやうである。柔弱なる平安朝型の婦人でなく、男まさりの鎌倉武士型の婦人であつた。かういふ阿仏尼の性格は、それに対する継子の側からはいろいろに悪るく取られ、或は一身の幸福を求むるために老夫の為家を巧みに操つたのであるとも思はれたらしい。又為氏と対抗して自分の子供の名声を揚げることに腐心したやうにも見えたらしい。阿仏尼は為家に願つて、長男為氏は狭量にして同腹の弟にすら目をかけぬ位だから、まして異腹の幼弟(我が子の為相・為守)を引立てては呉まいから歌道の正傅は唯志あるものに伝へて下さいと言つたとまで継子の側からは言はれて居る。或はさう考へられるやうなことがあつたかも知れぬ。又有海といふ僧が百首歌を為家に送りて点を乞ふた時、それには為氏が己に点して二首を撰ておいたのに、為家はそれを知らず、一読して為氏と同じ二首を点したので、阿仏尼はそれを取りて、あまり同じ歌を点するのは念なきやうであるからと言つて、更に二首二点を加へ合計四首として送り返した。それより後は人人の歌の点まで為家の心でないことが多くなつたと言つて継子の源承「和歌口傅」)は阿仏尼の僭越を悪く言つて居るのである。  阿仏尼はかやうな具合に、一定の識見を有して居り、それを遠慮なく言行にあらはしたのであらう。それ故に反対者からは婦人としてでしやばると悪口を言はれたことと思はれる。しかし自分の信ずるところをどしどしと実行して憚からぬ所に阿仏尼の気性があらはれて居るのである。典雅で鷹揚で、何事をも気にせぬといふやうな態度は、一寸褒めればお人善しとも言はれるが、露骨に言えば、さういふものは虚脱した元気のない人間である。さういふやうに独自の個性をはつきりさせず、人格が無くなつたやうな婦人が必しも賞めらるべきではない。それに何と言つても、阿仏尼には自分の生むだ男の子が二人もあり、その子を思ふ母性愛は頗ぶる強かつた。実際妻としてはどうであつたか知らぬが、その子を教養する慈母としてはまことにすぐれた婦人であつたやうに考えられる。それは阿仏尼が書きたる「乳母の教」を読みて察せられることである。或は阿仏尼がその子の前途を思ふていろいろに劃策したこともあらうし、継子の方からは、それがいろいろに悪るく思はれたことであらう。まことに此の如き、自然に遠き家庭として当然現はるべき葛藤であつたと言ふべきであらう。  争議の問題  夫の為家が死亡した時、阿仏尼は年が五十を過ぎた計で、前にも言つたやうに十三歳の為相と十一歳の為守の二人の男の子を抱えて寡婦となつたのである。阿仏尼は第一に俊成・定家・為家と三代続きて築き上げた家の歌の道をその子の為相に伝へさせたいため焦慮したのであらう。それに為家が為相に譲られた領地播州細川の荘園をば為氏が横領して為相に渡さぬので、幼若なる小供等の前途をも考えて、為氏の曲事を朝廷に訴へたのである。しかるに時を経てもその解決がつかぬので、阿仏尼は遂に鎌倉幕府の裁断を受けやうと決心して、都を立て鎌倉に下つたのであるが、「十六夜日記」には、冒頭に先づ、いかに世下り、道衰え、人心次第に浮薄に流れしとはいえ、古来人倫の範たるべき遺教の孝道も今時の若い人達には些も顧みられないやうになつたと嘆き、親の為氏が為相に譲るべく書き残したる譲状は現に存すれども、細川の荘は非道にも為氏に押領せられて、さても親の定めが一向効がないとうらみ、それは固より数ならぬ我身一とつの不仕合ぞと思ひながらも、さうしては居られず、まことに心配でならぬことである。自分も名誉ある歌の道の家に関係して、二人の男子と澤山の歌の草稿や伝書などを預かり居るが、「歌道を助けよ、小供等を養育せよ、又我なき後の菩提を弔へよ」と、後後の為に細川の荘を譲り置かれたのも、為氏に押領せられ、母子の命も消えやうとすることはまことに心細きことであると阿仏尼はその表情を訴えて居るのである。  「惜しからぬ身一とつは、易く思ひ捨つれども、子を思ふ心の闇は、なほしのび難く、道をかへりみる恨は遣らん方なく、さてもなほ、東の龜の鑑に映さば、くもらぬ影もあらはるると、せめて思ひあまりて、萬の憚を忘れ、身をえうなきものになし果てて、ゆくりなくもいざよふ月にさそはれ出でなむとぞ思ひなりぬる」  惜むに足らぬ身は思ひ捨ててしまふが、親としては子を思ふ心にほだされて、しのび難く、又歌道を気遣ふ心の苦しさはやるかたなく、それ故に鎌倉幕府の裁判を受けて、曇ない正直の姿があらはれかしと、切なる思ひ胸にあまりて制し切れず、婦人の身として、萬事の憚をも打忘れて我身一つをば世に用なきものとして、十六夜の月の光にさそはれて鎌倉へ行かふと思ふ気になつたと阿仏尼は言つて居る。如何に気丈でも、己に五十の坂を越した婦人が、当時の東海道を下りて鎌倉まで旅するといふことは容易でなかつた。阿仏尼がさういふことを思ひ立つたのもよくよくのことであつたことと思ふ。十月十六日に京都を出発し、その月の二十九日に鎌倉に到著したまでに十四日を費し、一日程七八里は決して容易な旅行ではなかつた。それも曲直を争はうとする強い心と、小供を思ふ母性愛とのために、身を捨てての仕事である。気丈夫な阿仏尼の姿がありありと見えるやうである。  「十六夜日記」美濃の国、関の藤川を渡るときの所に次のやうな歌が挙げてある。   「わが子ども君に仕えんためならで          わたらましやは関の藤川」  私の子供がゆくゆく出世して歌道を以て大君に仕へ奉ることの出来るやうにしたいと思ふてかうした苦しい旅を続けて居る。さもなくて、なんではるばるとこんな関の藤川などを渡りませうぞといふのである。阿仏尼が身を捨てて鎌倉まで赴いたことが、母性愛の強かつたことにも起因することはこれにてもよく窺はれることである。  強い心  阿仏尼が此の如き争議に方りて、身を挺してその解決に当りたる心の強いことは尋常一様でなかつたことは言ふまでもないが、「阿仏尼東下り」「十六夜日記」の異本と言はれて居るものの中には次のやうな記事がある。  「まことに、無常恋易の世の中に、有為快楽を願ひて、真如実相のうてなに至りなんと志す人なし。かなしきかなや。黄泉の道は上一人より下萬民にこたえ、福寳にも剛強にも智慧さいかくにもよることなし。のがれぬ旅にして、しかも再び還る道を失ふ。かかる危き世の中に、貪欲虚妄をたくはへ、名利の為に身を苦しめ、心をなやまし、人を貪ぼり、人をわづらはしめ、露命の程を知らず、身をやすくたのしまんことを願ふことのかなしさよ。我すみにし都をあくがれ出でて、かかる東の塵に交はり、憂き思に身をくるしむる事、まことにはかなし。されどもこれは一とつの志し深き故なり。しりつたへし一所懸命の地を空しく奪はれ、此世のかたみに残し置きし、ただ一人のみなしごとはかなく路徑にさまよひ、塵の身となしはてんこと、いと口惜し。この儘打ち捨て、明日もはかなくなりなば、いかに妄念となりて婆婆へもかへらず、又仏果をも得ずして五十展転の身となりて三悪道に沈論せんこといとかなしと、ひとへに思し定めければ、いつしか仏にのみ御心を運びて、又他事もなくみえさせ給ひにけり」これは阿仏尼の侍女などが書いたものと思はるるのであるが、この記述をば「十六夜日記」の中に阿仏尼自身に述べたところに対照して考えて見ると、阿仏尼の心がかやうに強かつたことは、阿仏尼がある大なる物をつかむで居つたことがよく窺はれる。固より阿仏尼が本来意思の強かつた人であることは言ふまでもない、又その母性愛が阿仏尼をして心を強くせしめたことにも察せられるが、しかしそれがある大なる物をつかむだために更に金剛の如くに強くなつたことは争はれぬことである。私はそれを宗教の心であると考える。  一乗の法  「十六夜日記」尾張一の宮といふ社を過ぎしときの歌に   「一の宮名さへなつかし二つなき        三つなき法を守るなるべし」  この歌は一の宮といふ名を聞くことさへ懐しい気がする、この一といふ字はただ一つしかない、一無二といふ意味で、勿論二つはなく三つは尚更ない筈の一乗の法を、この神様が御守りあらせらるると思ふからであるとの意味である。これは明かに「法華経」の意に拠るものである。「法華経」方便品に「十方仏土中。唯有一乗法。無二亦無三。除仏方便説」とある。この一乗とは一仏乗の御法といふ義にて、簡単に言えば成仏する唯一の教である。乗は車乗にて教法が人を載せて涅槃の岸に運ぶに譬えていふ。「法華経」はこの一乗の理を説けるものである。傅教大師の天台宗はこの「法華経」に拠りて一乗の法を説かれたのであるが、それは「一切衆生悉有仏性」とあるに本づきて一切の衆生が救はるる法はただ一とつのものである。すなはち法華一乗の妙法であると唱道せられたのである。「法華経」が我邦に伝はつたのは奈良朝以前のことで、聖徳太子の良くその注疏を造つて居られる。さうして聖徳太子がこれに本づきて、十七憲法を作り和の一字にて「法華経」の真意を言ひ顕はされたことは人のよく知るところである。傅教大師の宗教も正にこの聖徳太子の説を宣揚したものに外ならずと言つて差支がない。奈良朝時代の高僧も固より「法華経」を読むだに相違ないが、「法華経」は舊譚であるとしてこれを軽く見たのであらう。仏に成るべき種性に限があるとして凡夫身が仏になることは許さなかつた。まして生来悪性にして些も善事をなさぬものは仏に成ることは出来ぬと説いたのである。しかるに傅教大師はこれに反して「法華経」によりて一切衆生悉有仏性の致を発見せられ、一切のものがすべて仏性を有することに於て、一切のものは平等であるといふことを悟られた。現在に於ける人間の善悪・邪正などの差別は平等なるべき仏性の前には問題とならぬものである。いかなる極悪のものも仏性一乗の中のものである以上、すべてのものが成仏することは疑のないことである。かやうにすべての人人がすべて同じやうに仏性を有して居るによりて甲の仏性と乙の仏性とは互に和合すべきである。さうして一切のものが和合した姿が仏に於て見られるのである。この心が受け取られるところに法華一乗の精神があらはれるのである。阿仏尼はかやうに法華一乗の妙法を信じて居つたのであるから、一の宮といふ名を聞いてすら、その法の貴ときことを思ひ出したのであらう。  逃避的態度  「正しきものは勝つ」と教えられる。果して然らば正しきことを裁判の上に争はぬでも善いではないか。それに阿仏尼は「法華経」の信者である以上、「法華経」の精神によりて、和を以て貴しとすべきである。曲直の争を続けることはよろしくないとも言はれることであらう。しかしながら、かういふ場合、先づ宗教といふものは決して道徳の心を麻痺せしめるのでないといふことをよく考えねばならぬ。自分が正しいと信じたことが人から曲げられたとき、起て正義の為に争ふことは、むしろ健全なる人間の当然に為すべきことである。固より無暗に人と利益を争ふことは誡められて居ることである。利己の心を主として人と衝突することは非正義である。これに反して、身を捨てて正義の為に争ふといふことは人間の積極的道徳として貴ぶべきものである。薩摩守平忠度が法然上人の念仏の教を聞きて「念仏を申しては心が軟くなりて戦争が出来ませぬ」と言つたとき、法然上人は「南無阿弥陀仏と打込む剣、敵も味方も西方にこそ行く」と教えられたので、忠度は念仏を申しながら戦争に従事したと伝へられて居る。国の為め、家の為め、正義を争ふことはまさに人間の為すべきことである。觸光柔軟といふことは、その人に宗教の心があらはるれば、無暗に腹を立てたり、又無暗に叱つたり、又無暗に喧嘩をせぬやうになることを言ふのである。決して正義を捨てて顧みざるやうになるといふことではない。何事でも自分が負けてさえ居れば善いと考えるのは消極的の道徳である。自分ひとりが仏になりて、他のものをかまはぬといふ無慈悲の態度に外ならぬのである。仏教にて言えば、声聞・縁覚のやうに自分が一生懸命に修行して仏となればよいとする独善の心である。大乗仏教は自分のみならず、一切のものを仏にせねばならぬと心がけるのであるから、人の態度を見て善くないと思へば深切の心にて忠告もせねばならず、相助の心にて教訓もせねばならず、かやうに人人の心を善くそだて、はぐくむことは人間の行為の上に大切とせられるのである。しかるに、さはらぬ神に祟なしとなどといひ、自分さえ善くして居れば、人はかまはぬでもよいといひ、普ねく慈悲を行ふことを避けるのは大乗仏教の精神ではない。  傅教大師以前の我邦の仏教は仏教をば僧侶と名づくる特殊階級の専有のもののやうに考えて居り、律儀を有し、所謂小乗具足戒を受けねばならぬのであつた。傅教大師はこれを排斥して法華一乗戒の内に一切の人人をば平等に包容することをつとめられた。元来小乗具足戒といふのは外から襲ひ来たるところの誘惑を避け、ただ自身の罪悪を断ずるがために修するところの戒律で頗ぶる個人的のものであつた。さうして実際には形式を主として偽善的のものであつた。伝教大師はそれ故に小乗具足戒を排斥して法華一乗戒を唱へられた。傅教大師の本意は一切の衆生が仏に成ることを説く以上、「法華経」の信仰を鼓吹し、菩薩の実行を勧めるべきであるとせられたのである。それ故に傅教大師の法華一乗戒は精碑的のもので、自分さへ善ければそれで善いといふやうな独善主義のものでなく、又徒らに形式に囚はれてその精神を忘れるやうな小我主義のものでもなく、全く「法華経」の精神を以て、諸の悪を断ずること、諸の善を修すること及び生を済ひ物を摂し大悲を以て苦に代ることを戒律として、これを受授の作法によりて心に領納せしめることであつた。元来戒律といへば廢悪修善を主とするのであるが、傅教大師の大乗菩薩戒はその外に衆生を摂するの戒が実行せられねばならぬのであつた。さうしてそれは実際には一乗戒によりて自己の向上をはかると同時にこれを守ることによりて世の中のすべてのものを和合せしむることが目的であつた。  真実の和合  「法華経」の精神からすれば、すべての衆生が仏性を有するのであるから、自分の仏性と他人の仏性とは必ず和合すべきものである、それが和合せざるときにその和合し難い点が争の種となるのであるから、争が尽れば、そこにすぐに和合が出来る。所謂雨降りて地堅まるである。しかるに、ただ自分が負けてさえ居れば事がすむからと言つて、表面的には争はぬとしても、それは実際に争はぬのではなく、却て消極的に争ふて居るのである。相手をうらむ心を中に封じ込めて、表面のみを飾らうとする偽善の心に仮装して争ふことを外に示さぬのである。かういふ心は決して安楽なるものでなく、又それがために自身にも相手の方にも何等の利益を受けるものでもない。自分はさうは考へぬが、自己の主張を強くすれば丸くおさまらぬから、曲げて其意に従ふやうにつとめることは、仏性と仏性とを和合せしむるのでなく、難局から逃避して仏性と仏性とを離しただ自分を傷けないやうにとする独善の心に外ならぬものである。繰返していふ、いかなるものと雖もすべて仏性を有して居るのであるから、それは必ず和合することを期図して居るべき筈である。しかるに邪見・驕慢・懈怠などの悪心が強くはたらくがために、仏性と仏性との和合が妨げられて、そこに種種の争議が起る。それ故に争議はその基底に和合せんとする心がありて始めて起るものであるといふことをよく考えねばならぬ。若し互に和合することを要せぬやうな没交渉のものの間に争議が起ることはない。阿仏尼が為氏を相手として曲直を争ふたのも、これを一面より見れば為氏をして自己の仏性を見つけしめ、それに自分の仏性と結合せしめることにつとめたとも見られるのである。  忍辱  所謂心学一流の道徳はいつでも消極的に自分の心を抑へるやうにとつとめしめたのである。正義は必ず勝つものであるから、他と争ふことを要せぬ。何でも蚊でも負けてさへ居ればそれが却て勝であるとまで教へたのである。今から百余年も前に出来た「提燈灯」と題せる書物の中に「向ふより無理非道をいひかけたときどう堪忍しませう」との問に対して「向ふよりいふことが無理非道と知れば腹は立たぬ筈。こなたの我慢の身びいきがそこへ出て、はやそれに取りついて、了簡ならぬなどといふは大なる誤であるまいか。兎角身びいきして堪忍せず、向ふの無理にこなたの腹立を調合していよいよ無理算段になり、後には其身も無理の同行となつて無分別の我儘のと人にうとまれくらさうよりは、五度七度無理をいひかけても取あはず。こなたの腹立を調合さへせねば終には無理もつきはてて道理の人となるものでござる」と説いてある。言ふまでもなくこれは我といふものが身びいきで動もすれば頭を上げるのを押えつけるやうにとつとめるのである。  仏教にも忍辱の法が説かれて居る。しかもそれは六度の一とつとして重く見られて居るもので「辱を忍び安んずること」を肝要とするのである。「華厳経」に「菩薩は常によく忍耐の法を修め、へりくだり、恭ひ、顔をやはらげ、自らを害せず、他を害せず、自らを挙げず、他を挙げず、自らをほめず、他をほめず、菩薩はただ此念をなせり。われまさに常に法を説きて一切の悪を離れ、貪ぼりと、怒と、愚と、たかぶりと、心の乱れと、やぶさかと、ねたみと、いつはりを断たしめ、大忍の法を以て安立せしめむと、菩薩は清き忍の法を成就せるを以て、たとひ人人ありて悪声をいだし、罵り、いやしめ、穢すも、又各人手に刃をとりて打ち害ふとも、菩薩は比念をなして怒らず、われも苦によりて怒の心を生じなば自らを調へず、護らず、明ならず、静ならず、真実ならず、何ぞ歓びの心を起して解脱せしむるを得むやと、此の如く観ずるを菩薩の怒らず、恨まざるの行といふ」と説いてあるが、これは忍従によりてすべての苦悩から離れるべきであるとするので、釈尊も「忍ぶといふことは人間の生活の最善である」と言はれ「もし人間に忍ぶといふことがなかつたならば生れた所で仏に遇ふことは出来ぬ。必ず法に違ふであらう。忍ぶといふことは安楽の道である。また聖者の欣びたまふ徳である。故に忍ぶものは親友が出来、美しき名譽を得て富み栄へ、その姿は端正で、威力が具はり、人に讃められ憎みの敵を降し、憂ひ悩みの心を伏するものである」と教へて居られる。まことに忍辱の法は我我の道徳生活にありて遵守せねばならぬものである。これを貴ぶべきことは言ふまでもないが、しかしながら、かやうに説かれたる忍辱の法は要するに、瞋恚の心を責めてこれを制伏するがために用ひらるべき一とつの行として説かれたものに外ならぬのである。  争闘  元来、人間が互に相争ふことはその発展を催す所以のものであり、又真実の和合をなすべき過程であることを知れば、正しき意味にて互に相争ふことは無暗に抑止すべきではない。ただ我欲を主張し、それがために漫りに他を排擠することを誡むべきである。正義のために争ふことは決して不都合ではない。それにしても、争闘の行為は自分を苦しましむるものであるから、それは深く自分を反省するの資料となるべきものである。さうして深く自分を反省して忍従の法に背くことが知られたときに自分として自分の悪しき心を制伏するの力がなきことをさとり、ここに始めて仏の光明に照されるのである。固より我欲を主張して非理非道に人と争ふことも許すべきであるといふのではない。無暗に人と衝突し、事毎に喧嘩して自他を傷つけることも凡夫として巳むを得ないとするのでもない。阿仏尼の場合の如きは、自己保存のためにその周囲と争闘することは、生物学上から見て、適応性を有する健康の人間の心として、当然のことである。むしろ十分にそのはたらきを進めるところにすなはち積極的道徳の力があらはれるのである。しかるに、さういふやうな争闘をば全くやめて常に柔和忍辱の心を保つべきであるとすることは消極的道徳にしてつとめて自我を抑えることを主要とするのである。その結果、人をして進取の気象に欠ぐるに至らしめるものとせねばならぬ。譬を取りて言へば、生きたるものを殺すといふことは無慈悲の至である。それ故に殺生してはならぬと誠めらるることは当然である。しかしながら、我我は自身を保つがために、生きたるものを殺して食はねばならぬ。魚や鳥などは固よりのこと、米も、大根も、その他の野菜などもすべて生きて居るものである。若し生きたものを殺してはならぬと厳誠するならば、我我は食ふものが無くて遂に死滅せねばならぬ。それ故に我我は生きたるものを殺すことを無慈悲のこととして殺生を戒むる心を有しながら、殺生によりて自身を保存するところの現実の相に目をさますとき、我我はただ自身の業報の罪深きことを痛感せねばならぬ。ここに起るところの心がすなはち宗教の心である。かやうにして、宗教の心はその人をして殺生を止めしむるのではなく、却てその人が殺生をやめることが出来ぬところにその心の相をながめて自身の罪悪を痛感せしめる心である。  自是他非  つらつら世の中を見渡せば、?粟粒よりも小さい世界に、極めて多くの欲望を持つて居る人間がうじうじして我と他とを別ち、彼と此とを分けて互に名と利とを得むとの欲望のためにうごめいて居るのであるが、それが皆自を是とし、他を非とする心の持主であるから常に喧嘩は絶えぬのである。さうして負ければ腹が立つ、勝てば人から怨まれる。何れにしても苦を飲み毒を食ふもので、勝つものも、負けるものも共に苦しまざるを得ぬのである。人と人との間に闘争が起る場合には感情の衝突が起り、それからそれへともつれて行くものであり、かやうにして銘銘が得手勝手のことを言ひつのるところに諍論が起るのである。それ故に諍論のところにはもろもろの煩悩が起るからこれを遠離すべきであると誠められて居るのである。華厳宗の大徳明恵上人は常に人の非を見聞することあるもこれを謗るべからずと戒めて「人の非を心に思ひ口に言ひて人の生涯を失はむことを顧みず、人の恥辱たるべきことを顕はす。これ何の料ぞや。人の非あらば其人の非なるべし。しかるに傍にて言へばやがて我が罪となるなり。詮なきことなり。若し世のため、法のためならば諸仏諸神まします。その戒めに任すべし。敢て我と心を発して言ふことなかるべし」と説かれた。これは言ふまでもなく、自是他非の心を誠められたのである。宗教の心の上から言えば他の人の悪を見てはそれを鏡として自身の悪を見るのみでなく、又他の人の悪を見てこれをあはれむの心が起るべき筈である。伝ふるところに拠れば、空也上人が山中にて数人の盗賊が白刃をひらめかして所持金を出せと迫つたときに、その盗賊をながめてはらはらと涙を流し「汝等がかほどの悪業を為すを見て、来世にいかなる苦を受けねばならぬか。それを思ふと汝等の身がいとしくてたまらぬ」と言はれたといふことであるが、同じやうに仏性を有し、共に仏に成るべきものが、その心を省みずして仏に成ることの邪魔をして居るものを見て、これをあはれむのは大乗仏教の精神である。果してそのものをあはれむとすれば、その人のために忠告することも、又訓戒することも当然のことであると言はねばならぬ。むしろ進むでこれを為すことが真にその人に対する慈悲であるとせねばならぬ。しかるに人の非を挙ぐることは善くない。諍論は遠離せねばならぬとのみ考へて、それが自是他非の心を誡むる教であるといふことに気がつかず、真に人をあはれみいつくしむがためにはその人の非をただし、その悪を誠めることが当然であることを考えず、さういふことは誠に背くものであるとして袖手傍観するのは不深切の至であると言はねばならぬ。  しかしながら、ここに問題となることは実際ある事の是非は我我にはわからぬことではないか。それを是非と分別するのは我我の得手勝手の心ではないか。しかもそれによりて他と争ふことはよろしくないことではないかといふことである。聖徳太子「十七憲法」の第十に念を絶ち瞋を棄つべきことを説きて「人皆心あり、心各執るところあり、彼の是は則ち我の非、我の是は則ち彼の非、我必しも聖にあらず、彼れ必しも愚にあらず、共に是れ凡夫のみ、是非の理なんぞ能く定むべけむや」と説いてあるが、それは親鸞聖人が「善し悪しの二たつ総じて存知せざるなり」といはれたと同様に、我我の小智のはからひを離れて真実の道に入るべきことを教えられたものである。人人の倫理的感情がはたらきて起りたる心をば道徳の規範に結びつけて正義の念としてあらはれたものは固より自是他非の心とは相異して居る。自是他非の得手勝手の心にて人と争ふことは勿論これを誡むべきであるが、我我の道徳生活にありて、その倫理的感情に本づきて正義と感ずることに背くものに対して争闘することはただ排斥すべきことにあらざるのみでなく、進むでその非を正すことに当るのが人間のまさにつとむべきことである。現に聖徳太子もその摂政時代に方りて我が国家のために任那再建を計り、兵を彼地に送りて任那のために新羅を征伐せられたのである。  現実直視  全体、宗教の心が起るのは、自己を中心とする考が無くなつたときに、自からにして顕はれるところの感情に本づくものであるから、神とか仏とかといふことや、それに対する外面的の態度などによりてその人の宗教の心を判知することは出来ぬ。実際に、其人が自己中心の考を離れることが出来たか否かを見ることが大切である。この点から見て、「十六夜日記」には阿仏尼の宗教の心が十分に美しくあらはれたことを推測するに足る材料が少なくない。しかしながら、自己中心の考を離れるといふも、決して自己中心の煩悩を除き去るといふことでなく、却て自己中心の煩悩を其儘に見るときに実際、自己中心の考を離れることが出来るのである。煩悩を其儘に見るときは、すなはち自己中心の功利的の考は無くなるのである。仏法にて無我といふことも、かういふ心の相を指すのである。阿仏尼がこの心の相をあらはして居つたことは明かである。  阿仏尼が江州の醒ヶ井にて、詠じたる歌に   「結ぶ手に濁る心をすすぎなば        うき世のゆめや醒ヶ井の水」  手にすくひあげる水で、欲に迷ひ濁り穢れる心をすすぎ清めることが出来るならば憂き世の夢も大分さめることであらう。しかしながら、どんな清水でも、とても我我の心の濁りはすすぎ清めることは出来ないことであらうと思はれると阿仏尼は歌つたのである。まさに煩悩具足の人間の現実の相を肯定して、そこに安楽の世界を求めやうとして居るのである。これは当時世に行はれて居つた、実大乗の天台の宗教の説く所であつた。煩悩を断ぜずして涅槃を得るのが「法華経」の精神であつた。宗教の心は、極悪最下の心を修めて、これを善良のものに改めることをつとむるところにあらはるるものではない。極悪最下の心の相をその儘に見るときに、そこに感ずる所の自然の心のはたらきが宗教であることを知れば煩悩即苦提、生死即涅槃の説は首肯せらるべきである。阿仏尼が和合し難き争の心を、自からながめて、そこに大なる力の加護を念じたのは、正しく、自分の醜い心の上に、仏の光を仰いだのである。これすなはちこれ宗教の心のあらはれである。  「十六夜日記」の中に美濃国平野といふ処にて、道の傍に神社あり、人に問へば結ぶの神であるといふ。そこで阿仏尼は詠じた。   「守れただちぎり結ぶの神ならば        とけぬ恨みに我まよはさで」  約束を結ぶといふ名を持ち玉ふ神様ならば、解けぬ恨の為に私を迷はさないで、早く約束の通りお守り下され、偏に願ひ奉ると言つて、ある大なる物の前にひれ伏して居るところに阿仏尼の心は定めて胖かなるものであつたと思ふ。  読経  「十六夜日記」に拠ると、阿仏尼は鎌倉滞在中、ある年の三月の末頃に軽き瘧病(間歇熱)に侵された。その時の事を京都に申送つたことが、次のやうに記されて居る。  「仏のお前にて、心を一つにして、法華経を読みつ、そのしるしにや、名残もなく落たる折しも、都の便あれば、かかることこそなど、故郷へも告げやる序に、云々、例の権中納言の許へ歌を送る」とあり、其歌は       「御経のしるしいとたふとくて    たのもしな身にそふ友となりにけり              たへなる法の花のちぎりは」  霊驗顕著なる「法華経」(妙法蓮華経)の一切衆生を救はふと云ふ御誓は私の身に添ふ友のやうに始終私を御守り下さるので、まことに頼母もしく、またありがたいことであるといふ。これを表面的に見るときは、阿仏尼は「法華経」讃誦の霊驗によりて瘧病がなほつたのを喜び、「法華経」に不思議の力があると尊信したのであるかと思はれる。しかしながら、それは、その頃読誦が主要の行と説かれたる教が行はれた時代にありて、阿仏尼の宗教の心がその時代の教に従ひて、さう表現せられたまでのことである。その形式を離れて現に現はれたる宗教の心から言えば、「法華経」を一生懸命に読誦したことは小我の計ひを捨てて、大なる力に其身を任せて、晏然と病気の自からにして治癒するのを待つたのであつた。しかもそれが「法華経」に説かれたる仏の慈悲によりて治癒したのであると喜ぶところに、阿仏尼に美しい宗教の心があらはれたのであると言はねばならぬ。  祈願  阿仏尼はしばしば神仏に祈願した。 「尾張熱田の宮へまゐりたるとき   祈るぞよわが思ふこと鳴海潟       かたひくしほも神のまにまに」  この鳴海潟の汐の満干も神様の御心のままになるのであるから、どうぞ、その膨大なる力を以て私の今度の大願の成就いたすやうお守り下さいと祈願したのである。   「鳴海潟和歌の風さへへだてずば       同じ心に神もうくらむ」  私が此度鎌倉へ下るのは訴訟のためであるが、もともと歌道を隆盛ならしめやうとの念願であるから、熱田の明神様が歌道を疎んじ給はぬならば、私の願意を受納せらるることであらう。  「阿仏尼東下り」の中にはこの時に阿仏尼が熱田の宮へ参りしことを次のやうに記してある。  「八つるぎの神を伏しおがみて、衆生の願を満て給はんとて、今大明神とあらはれさせ玉ひて、和光同塵の結縁、まことにありがたし。誓願あやまり玉はず、我が本意達し玉へとて   千早振る神のちかひをたのむより       こころの内は涼しかりけり」  又「阿仏尼東下り」に次のやうな記事がある。  「若宮の八幡宮へ願ひをば立させ玉ふが、日毎に百日が間、詣でさせ玉ひて、久しき家の流れをすてさせ玉ふな、南無帰命頂禮大菩薩とてかくこそよみ給ひにける    岩清水清き流れのにごらずば        むかしにかへりすませ玉へや  と、法楽し玉ひて、ひとへに、頼みをかけさせ玉ふぞありがたき」 又、阿仏尼が三島神社に参詣したる時の歌に   「おのづから伝へし跡もあるものを         神は知るらむ敷島の道」  祖父以来我家に伝はれる正しい歌道のあとのあるものを、神様はよくお知り遊ばすであらう。しかるにこの正しい道に邪魔がさして居るのである。どうぞ神様の御加護にてこの邪魔を除けたいと願ふたのである。  一体、人が旅行の安全を祈るとか、又は無病息災を祈るとかといふことは人間の情にして、まことに美しく且つ温かいものである。しかしながら、それは固より宗教的のものではない。宗教的の祈願とすべきものは功利的の心にて神や仏の意を迎えるのではなくして、人間の言葉と思考とを神や仏に供へるのである。自分の所望を神や仏に強要するのではなく、神や仏が自分の所望を達せらるるやうに道を開くことが宗教の意味の祈願である。阿仏尼が、自分が歌道を隆盛ならしめやうとして尽す誠は神や仏も受納せらるるであらうといふのは、神や仏が歌道を隆盛ならしめやうとの御心と、自分が歌道を隆盛ならしめやうとする心とが一致することを望むのであつて、そこに宗教の意味の祈願があらはれて居るのである。  かやうにして、阿仏尼は神仏に祈願しながら、又退て自分として為すべきことは一生懸命にこれを為したのである。「十六夜日記」に  「洲候とかやいふ河には舟をならべて、まさきのつなにやあらむ、かけとどめたる浮橋あり、いとあやふけれどもわたる。この川、堤のかたはいと深くて、かたかたは浅ければ   かたふちの深き心はありながら         人目づつみにさぞせかるらむ   かりの世のゆききと見るもはかなしや         身を浮き舟を浮橋にして」  浮舟をつないだ浮橋の上を渡りて往来するのははかない仮の世の世渡りかと思ふと、いかにも頼ないことである、何時どんなことになるやら分らぬ。かういふ夢のやうな世の中にても、人間は人間として、勉むべきことを勉めねばならぬ。夢の世であるといふその夢の世だけが現在の自分の世であるから、夢の世であるから、どうでもよいと捨鉢になるべきではない。曲れるをため、邪なるを正さんとした阿仏尼はこの夢の世を自覚しながら、しかも自から身を捨てて自分が為すべきことと考えたことを力の限に実行したのである。  業報甘受  しかしながら、阿仏尼はただ他に対して曲直を争ふことにのみ心を注ぎて、些も自分をかへりみなかつたのではなかつた。「十六夜日記」の末に挙げてある長歌の中に、次のやうなことが述べてある。   「それが中にも名をとめて、三代までつぎし、ひとの子の、 親のとりわき、ゆづりてし、そのまことさへありながら、 思へばいやし、しなのなる、そのははきぎの、そのはらに、    種を蒔ける、とがとてや」  為相が賤しい母の腹に宿つたといふところから、其咎で、かく憂き目を見ることであらうと、阿仏尼は省みて自分の業報を甘受して居るやうな態度が認められる。それから又  「子を思ふとて、夜の鶴、なくなく都をいでしかど、身は数ならず、かまくらの、世の政しげければ、聞えあげてん、ことのはも、枝にこもりて、梅の花、四とせの春になりにけり」  微賤の身であるからと、自身を謙り下りて、四年の間も月影ヶ谷のわび住居に、身と心を静めて、じつと鎌倉幕府の裁判を待つて居つたのである。処が裁判は中中はかどらぬ。事件が込み入つたわけであつたのでもあらうが、何様当時は元寇襲来の頃、国家の一大事で、政事の繁忙この上もなく、一家の内紛をさばくどころの沙汰ではなかつた。退て待つほどに、早くも四年を過ぎたのであつた。  写経  かやうにして裁判を待つて居つた阿仏尼が鎌倉在住中には京都の人人と歌のとりやりをして居つたことは「十六夜日記」の後半に記されて居るが、その外に、「阿仏尼東下り」の中には、阿仏尼が鎌倉幕府へ訴えて、沙汰のなかつた間のことが次のやうに記されて居る。  「かかるあひだ、御いのりのために、おぼしめしたちて一乗妙典を自からかかせ玉ふ、無二無上にして心しづかに書き玉ふほどに、とかくして、暇あらず、よりよりにこれを全部せんことを仰ぎ玉ふほどに、やうやうにおいらせたまふぞありがたき。二尊の輪像を安置したまひてあさな夕なに読誦おはしましけり」  これに拠りて見ると、阿仏尼は裁判を待つ間に訴願のために「法華経」を写したとある。写経に大なる功徳がありとして仏を奉ずるもののために実行せられたことは奈良朝時代に始まり、平安朝時代を経て、鎌倉時代にまでもこのことは盛に行はれた。阿仏尼もその所願が達せられるやうにと「法華経」を写したのであつた。さうして阿仏尼は写経の外に、釈尊と阿弥陀仏との繪像を安置して朝夕その前に「法華経」を読誦したといふことである。写経といひ、読誦といひ、今よりこれを考えれば、かやうな形式の宗教的の価値につきて異議を挟まねばならぬこともあるが、しかし実際、阿仏尼の心としては、これによりてその心を鎮め、禅定に近きものとなりて、そこに真実の仏の智慧を感知することが出来たために、よく四年の間の退屈と煩悶とに堪えたのであらう。  念仏  阿仏尼が、鎌倉に下つたのは建治三年であるから、親鸞聖人の没後まさに十六年目である。法然上人の専修念仏の教が己に行はれて居つたことは言ふまでもない。阿仏尼も固より念仏のことは知つて居つたのであらう。阿仏尼がその子の紀内侍へ送つたものであると言はれて居る「乳母の文」(「庭の教」)の中に次のやうに書いてある。  「おさなくより、法文の師とたのみたる人の候しに、久しくかやうの事も、うけたまはり候はねば、濁に沈みて皆忘れ候と申して候しに、庭草はけれども、たえぬ物にて候ぞかし。とものみやつこの朝浄め、いそがしくのみつとめ候やうに、悪業のつもりたらんを常に拂はんと思召して、五濁悪世の我等、驕慢懈怠の心、しきりに起り候へば庭草のやうに、種をたえぬものにて候へども、たかき不思議のくわんは、朝きよめするとものみやつこまで常に沙汰し、怠なく念仏だに申候へば往生疑なく思召候へと申され候ひし、げにと、たのもしくうれしく候。いづれの法も、詞こそたがひ候へども、此心はしきりにうとくへだたりやすく、わろき心はすすみ近づきたがるものにて候を、我心ながらも常に慚愧して心を教へ行ひ候へば次第にたてなほさるるものにて候、我心のままに、振舞候はんにはいたづらごとにて候。」  怠なく念仏だに申せば往生疑ないとはたのもしく、うれしきことであると、阿仏尼は言つて居る。しかしながら、その念仏は我我が、今日考えて居るやうなものでなく、当時の宗教家が説いたものを奉じたのであつたから、その念仏といふものは仏と成るための一つの行であつたとせねばならぬ。さうして、これを一つの行とすれば読誦と同じ意味に外ならぬものである。平安朝時代から、鎌倉時代にかけての仏教は、観心と修行とを以て実際主要のものとしたので、天台宗では「法華経」の読誦が、禮拝、供養と共に盛につとめられたのであつた。念仏が読誦の一支であるとは「元亨釈書」にも記載してある位であるから、当時の宗教家も、又世の中の人人も念仏を以て簡単なるお経の読誦であるとしたことは明かである。  阿仏尼がその夫為家の五七日追善に作りたる願文が「阿仏仮名諷誦」と題して伝はりて居るものを見るに、阿仏尼は夫の為家が「世をのがれ、まことの道をたづねて、二もなく三もなき一乗法華の行者にて、日ごとに読誦をつむこと二千七百十部、やまひのゆか、いまはのきはまで念仏怠ることのなかつたこと」を挙げ、それから自分の心情を述べて  「霜と雪とのつもるにつけて、消えやすき命を思ふにも、朝夕になにはづのよしあしを語り合せて、いにしへ今のわかれぬふしをしたひ、夜も晝も法華の値遇をたのみて、おなじ蓮の上を契りおく。はかなき世に、おくれ先だたばかならず生れどころを告げ知らせんと、諸共に誓ひしを、嘆きにあまる涙のとこは、とけてぬる夜のなければ、さだかなる夢をだに見ず。うつつにとまるなごりとては何にしのぶのと、ひとつにもあらぬわすれがたみにも夜の鶴のこのうちのこゑたえず。いたづらになげき、ひとりかなしき人よりは仏のうてなにあつらひたてまつり、法の威力を仰ぎて滅罪生善をいのらむにはしくことなしやとて、今日の日にぞあたりたまひける地蔵菩薩一体、すがたをかきあらはしたてまつる。法華経一部、無量義経、普賢経、心経、阿弥陀経は型木をうつす。おなじくこれを供養讃嘆して、この功徳をもて入道大納言の生れどころをたづねて、長き夜の夢をさまし、もとよりのさとりをあらはして上なき菩提にみちびき給へ。仏は久しく却をつみし仏、経は命をともに力をいれし経なり。かくれても、あらはれても利益むなしからじ。この回向あまねく法界におよぼして、よろづの衆生を度さんとなり」  阿仏尼の表現は、どこまでも常時行はれたる仏教の形式によつたもので、願以此功徳往生安楽国の考に外ならぬのである。しかしながら、ここに説明を要することは、元来、我我の感情は不可解・不可説のもので、全然主観に属するものであるが、これを人に傅ふるために思考のはたらきによりて形式を造り、これを言葉に移すのであるから、宗教の感情も思考に移りて形式をあらはすのである。さうしてその形式は当時行はれたる宗教の何れにか属するものを取るのである。しかしながら、上章にも言つたやうに、表現の形式の如何によりて、その内心の宗教の相を彼此と云ふべきではない。表現の形式はその時の宗教家の指導によりて定まるものであるから、言葉の上ではいろいろであるが、宗教の心はさういふことには関せず、人人の心の中に自からあらはれる所の現象である。それ故に、単なる表現の形式に依らず、其人のすべての態度をよく観察して、果していかなる宗教の心があらはれて居るかを判知せねばならぬのである。この見地の上に立ちて、阿仏尼の態度をながむるに、阿仏尼の心は、明かに、自分の小さい心を、其儘に、大なる心の中に押し出して、自分の小さい心の上に、大なる心の光明を得やうと念願したことが明かに認められるのである。これは正に宗教の心である。阿仏尼はこの宗教の心に導かれて、その生活をつづけたのである。阿仏尼の意志が本来に強く、母性愛の盛なることは無論であるが、それがこの宗教の心によりてますます強くなつたことも亦明かである。  女子教調  阿仏尼はその「乳母の文」に於て、その子のために、家庭の教につきて細細と示して居るが、その中には  「らうたく美しき人の其形の浮世に並びなく候とも、心定まらずなど候へば、いたづらごとよと、御心をそへて、いかにならまほしく思召す御事なりとも、おのづから、人も見聞きてもどきそしりぬべからんことは御心に心を語らひて思召し忘れ候へ。心の儘なるが返す返すあしきことにて候」  「我が心、身の上をも、人の事をもおぼろげの人に打ち語ひ、色見ゆる御事など候はで大かた何事をも御心の内ばかりに思召しわき候へ。あさはかに物など仰せられ候はんはあしきことにて候ぞ」  「大かたにつけて人をはぐくみ、なさけあるやうに憐むは善き事にて候。富めるをば人毎にうらやみ、重くする習にて候。まことにそれほどいかでなくては候べきなれども御心の内には貧しきをあはれなるものにかずまへ思ふが本体にて候」  「たとえば人の上をそしり、たくみなどしても忍ふことを言ひあらはし打ちさざめきなど、かたへの人の候はんに、露ばかり、言葉まぜさせおはしまし候まじく候」  「何事も生けるほどこそせんなれ。此世を別れてん後はいかでもと申す人の候。世に僻事とおぼえ候。骨をば埋むとも名をば埋むまじと申事の候へば、今の歎きよりもまさりて心うかるべき事とおぼえ候」  「憂きは身に添ふ習の候へば、ここを去り、かしこへ行きても、人こそかはり、所こそ改まりぬるとも、さるべしと定めおきなん身の宿世、一且の事によるべしとは覚え候はねばただ御身をもてわづらはで、有るに任せて御覧候へ。あらぬ所をゆかしう心は人の落ち下る因縁にて候」  「何よりも心短く、ひききりなるが、あなづらはしく、わろき事にて候」  右のやうな教がいろいろと深切に列記してある。此等の事実によりても、阿仏尼が女子教訓として当時行はれたる思想に従ひて貞淑温順を主としたることは争ぶべからざることである。阿仏尼は所謂しつかりものであつても、しかし何事にも我執を通ほして他を顧みなかつたやうな婦人でなかつたことは明かである。まして人の上を譏り悪みなどする人がありてもそれに同じて彼比と言ふべきでないと誠めて居るほどであるから、阿仏尼が徒らに喧嘩を好むものでなかつたといふことをも考えねばならぬ。  又仏教のことにつきても「仏事などせさせ候はんにも、人ひとりを、わかずあまねき御心にそむえんに、心ぐるしく候はんあたりをしりて、まことに仏の御心にかなひぬべきやうにせさせ給ひ候べく候、うはべばかりの事はわろく候也」といひ、「たれはぐくみあはれをかはす人候はずとも、仏の御教のままにて、あきらかなる道の光をも見、親のありどころをも知らずやとおぼしめし候へ」「また機縁ますますなることにて候へども、いづれも同じ御法にてこそ候へなどとて、あれこれにかかりたち候へば、心もち散りて、ひとすぢにそまぬものにて候ぞ、かまえてかまえて一かたに思し定め候へ、ゆるがず、たじろがず、御心を起させ玉へ、さればとて、我宗ばかり法はありて、余の法はいたづらごとぞなどていの事をろんじて、おとしめなどすることは、かへすがへすあるまじき事にて候、世をもそしらず、我宗をもいかに人申そしるとも、それによりてあやぶきたがふ御心候まじく候」と教へて居るほどであるから、阿仏尼は仏教にも深き理解を有し、仏教によりてその心を修むることを人に勧めたるほどである。勿論自分もその教を奉ずることにつとめたのであらう。  正義の念  此の如く、阿仏尼は「法華経」の信者であり、その心には十分に宗教があらはれて居つたにも拘らず、身を捨てて為氏との争議を事としたのは、その心と行とが矛盾したものではないかといふ疑は多くの人人が持つところのものであらう。思ふに、阿仏尼が此の如き争議を事とした正真の理由は自己保存のためであつたことであらう。その子のために、又従つて自分の生活のために、さうしなければならぬ事情もあつたことであらう。それにしてもその心に牢固たる正義の信念がなかつたとすれば、かやうにまで猛烈に争闘することはしなかつたであらう。「十六夜日記」の末に載せてある長歌の中に  「妄りがましき、末の世に、麻は跡なくなりぬとか、いさめおきしを、忘れずば、ゆがめる事を、またたれか、引きなほすべき、とばかりに、身をかへりみず、頼むぞよ、この世を聞けば、さてもさは、残るよもぎと、かこちてし、人のなさけも、かかりけり」  曲がつたことを正しいといふことはない。それ故に正しい裁決を頼みに致すといふ。むかし俊成卿の息女が越部の荘を父から譲り受けたのを、地頭に横取せられたので、北條泰時に   「君ひとり跡なき麻の子を知らば        のこるよもぎが数をことわれ」 と詠じて送つた。それは泰時が   「世の中に麻はあとなくなりにけり        こころのままの蓬のみして」 との歌によみたることのあるを引きて。「あなたがこの世のさまを嘆かれて、真直な正しい心の人は無くて、蓬のやうな心の持主のみが跋扈して居ると、およみになつたほどであるから、私が邪曲の地頭の為に苦しめられて居る事を察し下さるだらう」との意を歌にして泰時に送つたのであるが、この俊成卿の息女の心情も、只今の私の心情と同じであると阿仏尼が言つたのである。  何れにしても、人人が争闘するといふことはお互に迷惑することである。好みて闘争すべきではないが、巳むに巳まれぬ事情のために曲直を争はねばならぬとすれば、むしろ退嬰的の態度をすてて進むで曲直を争ふべきである。阿仏尼はかやうな態度を取り、しかもこれを国法の裁判によりて曲直を決せむとしたのである。私に人の非を譏り、みだりに利害を争ふとは大にその趣を異にして居る。道義のすたれた澆季の世には曲がりくねつた蓬ばかりが繁茂して真直な麻はなくなつたと誡め置かれたる泰時の言葉を思へば自分が曲直を争ふことも無理はないと信ずる。又幕府の役人衆が彼の泰時の言葉を忘れなかつたならば曲つたことを誰が正しいといはふぞ。どこまでも正しい裁決を頼むと言つて、阿仏尼は更にその長歌の末に   「ながかれと朝夕いのる君が代を        やまと言葉に今日ぞのべつる」  といふ反歌を挙げて居る。君が代の千代に八千代に幾久しく栄えませと朝夕に祈つて居る心をかねてから何かの折に陳べたいと思つたと告白して居る。どこまでも国家を重んじ、憲法を貴とび、その公正なる裁判を待ちて事実の真相を明かにし、自分の主張の正しいことがわかるやうに念願するのである。たとひ野中の清水が一時は濁り滞ることがありても遂には再びもとの清水に立ちかへるが如く、一旦細川の荘が為氏に横領されても確かなる証拠の書類のあることであるから、やがて勝訴となり、鶴が岡の辺を照らす朝日の影は八千代の光をさしそへて聖代がますます光り輝くことであらうと歌つて居るのである。  「おなじ播磨の、さかひとて、ひとつの流を、くみしかば、野中の清水、淀むとも、もとの心に任かせつつ、滞りなき水茎の跡さへあらばいとどしく、鶴が岡べの朝日かげ、八千代の光、さしそへて、あきらけき世のなほもさかえん」  阿仏尼が仏法と国法とを併び貴とむで、その身と心とを全くそれに任かせたことは明かに認められることであらうと思ふ。元来、この争議の問題となつた法律上の事項は荘園に領家職と地頭職とありて領家職の進止は朝廷にあり、地頭職の進止は鎌倉幕府にあつたので、細川の荘につきてもこの二つを併せて為相に譲られむことを主張した阿仏尼は是非鎌倉幕府の裁決を請はねばならなかつたのであつた。それ故に阿仏尼が鎌倉幕府に訴えたのは主として地頭職の確認を得るがためであつた。しかるに急にその目的を達することが出来ずして阿仏尼は空しく京都に帰り弘安六年に死亡したと伝へられて居る。さうしてその後三年の弘安九年の院宣によりて領家職は為氏に帰することとなつた。同じ年に以前から反訴のために鎌倉に下つて居つた為氏も亦鎌倉に歿した。さうして訴訟は阿仏尼が訴訟を提起してから十五年の後の正応四年に遂に為相の勝訴に帰し、地頭職は為相のものと確認せられたが、領家職の方もまた為相のものに帰した、しかし此時阿仏尼は己に此世の人ではなかつた。為氏の子の為世がまたまた訴訟を起したので為相は再び鎌倉に下り、正和二年に為相の勝となつたが、為世のために阻まれてか、為相は京都に帰らず、嘉暦三年に鎌倉にて死去した。かやうにして、阿仏尼が為氏との間に起したる争議は遂にその目的が達せられたのであるが、阿仏尼自身は悲惨なる境遇にありて裁決の結果を見るに及ばなかつたのである。しかしながら阿仏尼は正義のために闘争したのであつた。正義は必ず勝つと信じて、それに信頼してその心に期するところがあつたことと思ふ。支那の古語に大義親を滅すといふことがある。阿仏尼が正義のために争をつづけたことも当然の態度であつたものと言はねばならぬ。これにつけても思ひ出されることは親鸞聖人がその実子の慈信房を勘当せられたことである。慈信房が関東にありて念仏の異義を唱へ、父親鸞聖人の教に背き本願の教をいひまぎらし、多くの人人を誤らしめたといふ事由で、親鸞聖人は遂に慈信房を勘当して親子の縁をきられた。言ふまでもなく、親鸞聖人は阿弥陀仏の本願の不思議を信じて念仏をまふした人であつた。阿弥陀仏の本願は一切衆生を包容して、漏すことなくこれをすくふことを期するのであるから、いかに悪人でありてもこれを排斥すべからざる筈である。しかるに正義のためには親鸞聖人もその実子を勘当せざるを得なかつたのである。阿仏尼が正義のために為氏と争はざるを得なかつたのも略ぼ同様の事情にある。まことに巳むに巳まれぬために曲直を争はざるを得ないとすれば進むでこれを行ふことが当然である。しかしながら、この場合、自から深くその心をかへりみればまことに醜悪の相であることが知られるのである。さうしてその責任を外のものに帰せずして、因由を内に求むるときは、さういふ事をせねばならぬやうな境遇に居るところの自分の業報を痛感せねばならぬのである。かやうに深く内観するときその心の醜悪の相そのものの上に仏の慈悲の心が加はつて居ることが感ぜられる。それをば仏の光明に照らされて心の醜悪の相が知られるのであると考へられるときに、我我は自分の心の醜悪の相を見ることによりて不可思議の仏の力に接することが出来るのである。かやうにして、日常の生活に於て、内観を深くして、煩悩具足・罪悪深重の心の醜悪なる相をかえりみるときに、そこに仏の広大なる慈悲が感知せられ、自分の身と心とをたのむやうな小智が捨てられて仏の智慧に導かれてその生活を進めることが出来るのである。阿仏尼がこの境地に達して居つたことは疑のないことであると私は信ずる。  宗教的生活  これを要するに、阿仏尼の宗教的生活はまことに推称すべきものであつた。宗教的生活といえばすぐに神仏を禮拝し、供養し、その恩徳を喜ぶ言葉を口にし、柔和忍辱にして喜怒哀楽の世界の外に立つと見ゆるやうな人物となるものであると考えられるのであるが、しかしながらそれは形式の上に、さういふやうにあらはれることがあるのみで、宗教的生活が必ず常に所謂ありがたや若しくは所謂喜び手として現はれるものではない。実際的に言えば宗教とは個個の人がある大なるものを偉大なる力として感受しその力に信順して生活するところにあらはるる一種特別の心の状態である。言ふまでもなく、我我人間の心は寸時も散乱して定まらぬものであり、さうして自己を中心としてはたらくものであるから、自是他非の心が強く、その人の智能に応じていろいろのことを考え、又これを企図する。まことに煩悩具足・罪業深重と評すべきほどのものである。若し人人がその心を内観して此の如き現実の相を見ることの出来たとき、それが自分の小智のはからひによるものでないと謙下して考えることの出来るやうな心の状態になれば、ある偉大なる力が不思議にも我我を包容することが感知せられて、そこに神仏の観念が造り上げられるのである。さうしてその人の生活はこの偉大なる力によりて常に指導せられるやうになる。これがすなはち宗教的生活と称せられるものである。阿仏尼は元来、理智に富み、意志が強く、殊に正義の念が盛であつたから、その精神的生活は固より優柔不断なる婦人とは相違して居つたであらう。しかも阿仏尼は、その信奉するところの「法華経」の中にある偉大なるものを見出し、自身が神仏と名づけて居るものの中にある偉大なるものを見出し、又国法の中にもある偉大なるものを見出し、この偉大なるものを掴みて、それに身と心とを委ねて、自分の心と行との平安を念願して生活をつづけたのであつた。 @  新選妙好人伝第十編 江戸庄之助 凡例 一。江戸庄之助の生涯に関する記録は「孝信庄之助話」(五巻)を始めとして「妙好人傅」初篇、「浅草のりのつと」「法の家つと」、その他二三の書物の中に載せられて居る。この篇は此等諸書に挙げられたる記事を本として庄之助の宗教的精神生活を叙述したのである。 二。庄之助の肖像は「孝信庄之助話」に載せられたるものを複写したのである。 三。この書の原稿は私が自から筆録したのであるが、その整理及び校正は一に秋山不二女史の尽精によるのである。この書を公にすることを得たるは厚徳書院長宗氏の厚意に依る。特に記して謹謝の意を表する。  昭和十三年三月上浣    富士川  遊 記 富士川遊述  如理智者  宗教とは、我我が内親を深くして真実の自己の相を知るときに自からにしてあらはるるところの心の状態である。さうして、それは自由にして且つ温和に一切を包容し、 又一切の事物に対して常に敬虔の心情があらはれて来ることを特徴とする。かやうな宗教の心より見れば、智者とはたとひ学問は無くとも自己の真実の相をよく知りたるもの をいふ。これに対して学問に精しく知識に富むとも自己の真実の相を知らざるものはこれを愚者とすべきである。普通に学問といはるるものが、我我の心の外にある事物を探ることをつとむるに異なりて、宗教の要は自分の心の内を観ることに在るからである。  むかし釈尊が舎衛城に居られたとき、朱利槃特《チュームパンタカ》といふもの、出家せむことを求めしが、極めて短かき偈文をも暗誦することが出来ず、自から其性愚鈍にして学業を受くることを得ざることを歎いて悲泣した。その時釈尊は朱利槃特に対して「愚人自から愚といふはこれを名づけて智者と為す。愚者が自から智といふはこれを真の愚癡《ぐち》と為す」といはれ、朱利槃特を奨励して遂にさとりを開かしめられたと伝へられて居る。学問と宗教とは別である。たとひ智能がすぐれて、経典などをよく理解したりとて、それによりて直ちに宗教の感情のあらはるべき筈はない。儒教の根本の典籍といはるる「大学」に  「共身を修めむと欲するものは先づ其心を正しふす。其心を正しふせむと欲するものは先づ其意を誠にす。其意を誠にせむと欲するものは先づ其知を致す。知を致すは物に格るにあり。物格りて而して後に知至る。知至りて而して後に意識なり」とあるが、その意味は、身を修めむとするには一身の主たる心を正しくすべく、心を正しくせむには意を誠実にせねばならぬ。さうして、その意を誠にするには先づ自分が接するところの事物につきてその道理を究め、これによりて知を推し究めて善悪是非の弁別に惑ふことのないやうにせねばならぬといふのである。しかしながら、此の如く、世間の事物に対してはたらくところの智慧は仏教にいふところの後得智又は俗智である。人人はこの俗智よりて是を是とし非を非として、それに本づきて生活をつづけて居るのであるが、俗智によりて善悪・是非の弁別をなすことは、全く自己を中心とするのであるから、それは常に我我をして迷執の世界に入れしめるものである。それ故に、仏教にては此の如き俗智を排して真智を貴ぶ。真智とは諸法の実相を照すところの智慧で、これを根本智又は如理智と名づけるのである。この如理智は我我が深く内観して真に自己の心の相を知るときに感知せられる真実の智慧である。「それ八萬の法蔵を知るといふとも後世を知らざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも後世を知るを智者とすといへり」との蓮如上人の言葉も全くこの意味を示すものに外ならぬ。たとひ、身賤しく心愚かにして学問は無くとも、人間として自己の相を知り、苦しかるべき後の世を怖れ、賢妙なる浄土無為を期する人は智者である。多くの書物を読みてその知識は博くとも自分の真の相を知らざるものは患者であると言はねばならぬ。ここに庄之助といふは、今から百六七十年前に江戸の四谷に住むで居つた人である。壮年の頃から宗教の心が著しく発展し始めて、中年の頃には江戸庄之助と呼ばれて既に妙好人の評判が高くなつた人である。この人は下賤に生れて教育も十分には受けず、固より学問はなかつたが、しかしながら、自分の真実の相をよく知つた所謂如理智者と呼ばるべき人であつた。今、「孝 信庄之助話「妙好人伝」「法の家つと」及びその他の諸書に載せられたる言行録などに拠りて、この人の宗教の心につきて叙述しやうと思ふ。  孝行  庄之助は初め四谷の町抱の火消頭役として、その職を奉じて居つたが、その職務の余暇には、他に雇はれて産業の助けとしたのであつた。あるとき、近処赤坂の成満寺に雇はれて仕事に行きしとき、折柄夏の最中にて、客僧縁側に出て涼を納れて居つた。庄之助も仕事を休みて煙草を吸ひながら、客僧に向ひて話しかけ「なむと和尚様、我我如きの強欲のものが助かる道もござりますか」と問ふた。さうすると、その客僧は「されば無戒愚痴のものの助かる教は惣じて浄土門に如くものはない。「観無量壽経」に、父母に孝養し師長に奉事せよと説いてある。苟も仏法に入らむと思はば、先づ親に孝行を尽して後、信仏の因縁もあらはるべし。さて孝行といえばとて、さのみむつかしきことにあらず。外典に違ふこと勿れと教えて、何にても親の仰に背かざるを軽きものの孝行とする。これすべて道を学ぶの手習である」と、深切に教示せられたのを聞いて庄之助は「さてさて孝行とは甚だむつかしきことのやうに思ひしに、それしきの安きことを、今まで知らずして不孝に過ぎたことは是非もないことである。以後は屹度御教に従ふべし」と約束して家に帰つた。それより後は、何事によらず、母親の言ふことにいささかも違はざりしかば、母親も初のほどは不審に思ひしが、あるとき庄之助を呼び「汝この頃は たましひの入れかはりたるにや。まことの孝心を尽し、わが心を安んじて呉れることはしほらしい。さりながら今一とつ不足あり。疾くより言ひ聞かせたく思ひしが、今日まで時の至るを待つて居つた。それは常常出火の節大勢にてすら消しかねて逃げ出すところを汝は好でかけ入り燃えたつ中をただひとり働いて手柄をなすはけなげであるが、親の身にては怪我あやまちもあらむと、見るたびに肝さきへこたへ生きた心地さらになし。今日を限りに火消役をやめて呉れよ」と言つた。庄之助はたと賞惑し、今急に役をはなれなば生活にこまるべし、いかがせんと、しばし頭を傾けたが、母親の命には背くべからずと考え直して、これからは運を天に任せて、たとひ餓死するとも悔ゆべからずと決断し、辞職を願ひ出でた。役人もその孝心の篤きに感じて、職を辞することを許し、別 に相当の金員を与へてその功労を謝した。母親も日頃の本望を達して満足し、親子いよいよ睦じく幕しけるが、その後新宿に火災のありしとき、庄之助に代りて火消人足となつたものが、疵を負て遂に死亡したるを見て、庄之助は痛く感激し「若し親の意に背き渡世の障なりとて退役せざりしならば、この歎我が身に来らむことは必定なり。しかれば今日の安泰は母のたまものである。されば世間の親とちがひ、産みつけられたる体と、今度の命と、二つまで全を得たり」とていやましに孝行をつくしたといふ。何分にも庄之助はその職業上の関係よりして粗暴の動作に慣れ、又教養も十分でなかつたために、その行動に於ては野卑の譏を免れることが出来なかつたにしても、生れつきその心が淳朴にして、従つて教を聞きてそれに従ふ柔順さが備はつて居つたやうに思はれる。宗教の礎質が強かつたのであらう。  頓機  庄之助はかやうに淳朴の性質であつたが、元来強気のものにて、仏とも法とも知らざる男であつたから、近処に朝晩仏前にておつとめをする音が聞ゆれば、またこごとが始まりたりとて嘲り、仏のお慈悲を喜ぶ人があればこれをうつけものとして笑ふのが常であつた。ところが、ある日、近処の家の老人が蓮如上人の白骨の「御文章」を読みけるをたちぎきして、宿善の至にや、何となくありがたく感じ、やがて内へ入り「親爺どの今読まれしは何でござる」と尋ねければ老人は「これは蓮如上人御製作の御文といふものなり」と答えた。庄之助は「さらば何にもせよ、今一遍読でお聞かせたまへ」とたのむだ。老人は笑ひながら「今日は何のむしのさしたるにや、嫌ひの御法を聞きたしとは ありがたきことなり。望みとあらば何にても」といひ、又くりかえして拝読した。庄之助は余念なく聴聞しけるが、双眼よりはらはらと涙を流し「さてさてありがたき御教化かな。これを今まで嘲り笑ひしは、我身ながらもそらおそろしき次第なり。口もゆがまず、罸もあたらざる不思議さよ」と懺悔した。庄之助はそれよりして仏法に志し、毎朝早く起きて居宅より七八町離れたる手次の寺へ参詣怠りなく、寒暑もゑらばず、晴雨も厭はず、一心に法を聴くことを怠ることがなかつた。せきとめし水の堤を截りて流すときはその勢猛くして防ぎ難きと同じく、「強悪の庄之助が善心にひるがへりぬるは大に格別なり」と見聞の人人をして大に感服せしめた。この事のあつた年代はよくわからぬが、前後の事情より推して、多分庄之助が年齢二十歳を過ぎて幾程もなき頃であつたのであらう。思ふに庄之助は生れつき宗教的の礎質が強く、二十歳を過ぐる頃にはそれが一種の愉快なる感情としてあらはれて居つたところへ、蓮如上人の白骨の「御文章」に世の無常を説かれたるを聞きて、その宗教的なる文句に自分の喜悦の感情が結びつけられて、頓《とみ》に仏の慈悲を喜ぶやうになつたのであらう。全く宿善の至であると言はねばならぬ。仏教の用語にては此の如くに忽然とその心の態度が一変して頓に仏の法を受け取つたと見ゆるものを指して頓機といふ。まことに庄之助は頓機として尤もすぐれたる一人であつた。  愚悪の信知  真実の宗教の心の発展が、自己の愚悪の信知に出発することは明かなる事実であるが、それはすなはち内観を深くして自己の心の相を明かにすることに本づくものである。庄之助が浄土真宗の教を聞いて仏の慈悲を喜ぶやうになつてから、その内省の度はますます深くなつた。さうして、その齢二十九歳の頃、庄之助は己によく我が身の悪しき徒者であるといふことを十分自覚したやうに見える。寳暦十一年は親鸞聖人五百回忌辰に当るので、京都の東本願寺に法要が行はれた。庄之助思ふやうは、「このたび離れ難き生死の迷をはなれ、生れ難き安養の往生を遂げられることは偏に祖師聖人の御高恩である。然れば身を摧きてもその恩に報ひねばならぬ。さるにても幸にこの御遠忌に遇ひたてまつることはまたと得られぬ機會である。何卒して御本廟へ御禮を遂げたし」と、上京の念しきりなれども、身貧にして自分のみにては旅行の費用を弁ずることが出来ぬ。いかがせむと思案にくれたる所に、懇意の酒屋某が上京、六條参詣の企をして居ることを聞き、渡りに船と早速その酒屋某を訪ふて随行者に加えられたしと懇願した。しかるに、その酒屋の主人の曰く「其元の性得、理強にてものにこらへぬ男なれば喧嘩の程も覚束なく、連れて行くことは出来ぬとて同行を断つた。庄之助いふやう、「それは昔になりました。今は聴聞のお蔭にて我身は悪しき徒者と知つたので、なかなか喧嘩口論の御気遣あるべからず」と、真実その面にあらはれしかば、酒屋の主人も納得して、一処に伴なふて上京することとなつた。時に庄之助年齢二十九歳であつた。其頃は本願寺の門徒にても真実の法の正意を知らざるもの多く、阿弥陀仏の本願を仰ぎながらなほ鬼神に事ゆるものも多かつたので、遠方へ出で立つときには齋戒などして発足するのが常であつた。しかるに、出立の前夜、庄之助の近処の宿屋某が喧嘩の末打殺された。この男は日頃より愛敬なく、従つてこれをあはれみて問ふ人もなく、死骸は牛馬の倒れしが如くに捨て置かれてあつたので、庄之助は不便に思ひ、せめて死骸なりとも片づけてやりたいと思つたが、明朝は京都へ向けて出発することであり、殊に途中参宮の筈であるから、 いかがはせんと案じけるが、「よしよし神明も光を和らげて塵に交りたまふと聞くからはどうして念仏の行者に崇をなしたまふことがあらうぞ」と、思ひ定めて彼の男の死骸を洗ひ浄めてやつた。検死の役人を始め、他の人人も庄之助の深切なる心情を賞讃したといふ。まことに、自己の愚悪を信知して仏の慈悲を喜びたる庄之助の心には、神は仏の和光同塵のすがたとしてあらはれたものと感ぜられたのであらう。従つてその神が仏の慈悲を喜びて念仏を申すものに対して害を加えられることはないと堅く信ぜられたのであらう。  不浄の身  かくて庄之助は酒屋某の随行者として上洛の途中、箱根権現に、親鸞聖人の昔を偲びて、社参することになり、皆皆打連れ参りたるに、一人の女中、一行におくれたれば、庄之助は立ち戻り、気分あしきかと尋ねたれば、彼女中小声にて「恥しながら、私は、この鳥居を超ゆるとひとしく、さわり出来たり、不浄なる身の上に、さわり出来ては神前へ参ることは恐あり、残念ながら私はここにて待ち合すべし」といふ。庄之助曰く「それは年頃の御聴聞にも似合ざることをのたまふものかな。凡夫こそ目に見てきたなしと嫌へども、心の不浄をわきまへず、神仏は心のけがれを忌み玉へども、身の不浄は咎めたまはず。然るに我等心に貪瞋・煩悩の穢ありて、身には三十六物の不浄を抱へたれば、同じ婆婆界の内ながら、天人にさへ嫌はるる身なり、神仏の御前へは恐るべきなれども、入一切衆生心想中と、如来の大悲は入り満ちて下さるればこそ大信心と名づけたり。これによりて真実報士の往生を遂げる身なれば、神明もさらに咎めたまふべからず、忌むも忌まぬも此方の心一とつにて、神仏には憎悪の汚心あるべからず」と諭したれば、女中の胸を忽ちに解けて、もろともに社参したといふ。  一体昔時の人人の考にては、宗教は普通人間の心とは別のもので、冒涜が己みて清浄となりて始めて宗教が成就するものとしたために、神の前に不浄を忌むといふことが重要のことであるとせられたのである。仏教にても不浄観とて身の不浄の相を観ずべきことが説かれて居るが、それは此身の厭ふべきことを教へて執著の念を停めしめやうとするのが趣旨である。不浄の身であるものを清浄と誤まり考へて、それに執著する心を離れねば仏の道に進むことは出来ぬと示されたのである。宗教の上よりして言えば、それは仏となりて真実のさとりを開くことのためには何等の障碍となるものでない。庄之助はこの心よりして、女中が不浄の身を恐れて社参を躊躇せるをさとしたのである。庄之助が、忌むも忌まぬも此方の心一とつにて、神仏には憎悪の御心あるべからずと言つたところは真に宗教的に神仏に奉事すべきことを説いたのである。庄之助の宗教的意識が明瞭であつたことはこの一事にてよく窺はれるのである。  懺悔の儀式  さて、庄之助は一行と共に京都の本廟に参詣し、ありがたき法要に遇ひて歓喜の思ひ胸に満ち、渇仰の心は肝に銘じたるが、上洛の序に、諸処の霊場をめぐることとなり、大和の大峰山に参りしとき、庄之助は行場廻りをせんといえば、案内者「さらば先づ懺悔したまへ」とて岩の上より谷の底をのぞかしむ。庄之助曰く「懺悔とは何ぞ文言でもありや」といへば「いや、これまで覚えのある悪事をざんげしたまふべし」といふ。庄之助はこれに対して「さやうなれば懺悔に及ぶべからず。其故は我ほどの悪人は広い世界に二人ともあるまじければ、中中十日や半月にては言ひ尽し難し、やはり、この儘にて廻るべしといひければ、案内者あきれはて「それでは御供なり難し、罪ありて懺悔せざる人が御山をかくれば大荒して怪我人など出来候こと度度なり」といふ。皆のものも、押して参るは宜しからずと留めけれども、庄之助は聞き入れず。「さらば我れ独り廻はるべし」とて称名しつつ、行場をさして行き、しばらくありてかへりければ、案内者、「さればこそ私申す通ほり独りにては叶はずして早や戻り玉ふにあらずや、情強き行人かな」と笑ひしに、庄之助は「いやいや、よき連衆がありて、残る所なく廻はりたり」とて、一一行場の難所や道順を物語れば、それが実際と些も違はず、案内者も肝を潰してさてさていかなる達人なりとも案内なくてはかなひ難き山なるに、ただ濁り懺悔もせずして、くはしく廻りたまふことの不審さよ、其上誰一人登りたるものも無きによき連衆ありしとはなほなほ奇妙なり。かへすがへす合黙ゆかず」と驚きたりといふ。釈尊の遺教を集めたる「四十二章経」にも「悪ありて非と知り、過を改めて善を得ば、罪直に消滅して後必ず道を得るなり」とありて、懺悔は罪を消滅することが説かれて居る。「心地観経」にも「若しよく如法に懺悔すれば所謂煩悩悉く皆除かる」と説きて、懺悔が仏の大円境を得るの道であることが示してある。道徳の上から見るも懺悔の法が世間を護ることは言ふまでもなく、又宗教の心の上から言えば、人人は懺悔の心によりて始めてよくその自己の心の相を明かにすることが出来るのである。さうして我我は実に無慚無 傀のものであることがこれによりてよく知られ、ここに始めて我我は実に仏の慈悲を感知することを得るのである。しかしながら、岩の上より深い谷の底をのぞきて、これまで覚えのある悪事を懺悔せよといふのは、ただ形式的に悪かつたと口に出して言ふのみのことである。庄之助が「我ほどの悪人は広い世界に二人ともあるまじ。中中十日や半月にては言ひ尽し難し」とて、形式的の懺悔をなすことを断つたのこそ真に心の内からの懺悔であると言ふべきである。さうして、そこに仰ぎたる仏の慈悲庄之助の心に強い力として感ぜられ、案内者の怖れて留むるをも聴かずしてただ一人危険の行場を巡拝することに何等の危惧をも感ぜしめなかつたのである。  機智の教化  安永元年。庄之助年四十歳のときに、さきに類焼したる江戸浅草の御坊再建の事があり、江戸中の門下がそれぞれその資金の中へ喜捨することになり、それが月賦上納のものもあつて、庄之助はそれを取り集めるために江戸中の門下を廻はつたのであるが、折節鮫が橋のある同行の夫婦喧嘩の最中へ行き合せ、その夫婦に向ひて真顔になりて「御堂再建の御奉加にその夫婦喧嘩を差上られよ」といふ。意外の言葉にあつけにとられた夫婦に向ひて庄之助がいふやう「たとひ千金をささぐとも修羅の火むらをもやすときははからず大悲の尊体を焦すにあたる。又一銭も上げずとも争ひやめてむつまじければ自から御法義もうるをふ筈、仏祖の御満足はいかばかりならむ。しかれば、その御冥加にて何ほどの御普請も不日に成就疑なし」といへば亭主も苦笑して「これが上げらるるものならば片時も早くあげて仕舞たし」といふ。女房もそれに同意しければ、庄之助は懐中より肩衣を取り出し仏檀へ御光りをあげ、夫婦を招き寄せ、御本尊に向ひて「此屋の兩人生生世世心に染みたる夫婦喧嘩廻心懺悔仕りさつぱりと差上候。この以後萬萬一夫婦の中にて少の争ひも致すに於ては忽ち仏の御罰を蒙むり、右兩人は申すに及ばず、御取次申上候拙者もろともに、無間地獄へ堕ち可申候」と声高かにいひて称名念仏しければ、夫婦は先非を悔ひ、それより互に慎しみて荒き言葉もつかはぬやうになりて睦じくくらすやうになつたといふ。夫婦喧嘩を寄附せしめてそれにより夫婦の和合をはかつたといふ訓話は、多くの心学の書物に見るところであるが、庄之助は実際に夫婦喧嘩をして居つたものに対して此の如き機智の教化をしたのである。庄之助の言動の中にはその他にも機に応じて相応の説明や処置をなしたことが見ゆるのであるから、庄之助は元来朴直の性質でありながら、案外機智に富み、如才のない人であつたかと思はしめるものがある。  後生の大事  戯作者平秩東作は本名を立松懐之といひ、本と尾州の人にして、通称は稲毛屋金右衛門、内藤新宿に住して煙草屋を業として居つた。始め儒学を修め、三十八九歳の頃までは法義の事は捨てて顧みなかつたが、三十九歳の時に火災に遇ひ、世の無常を感じて出離の道に志し、庄之助と交を結ぶやうになつた。此時庄之助は己に五十四歳の高齢にて妙好人としてその名が世に聞えて居つた。平秩東作がその著「浅草のりのつと」に「四谷に庄之助と申す同行ありて此程相識に成り申候。信仰の人にて言動共によき師匠と存候」とあるのを見れば、当時庄之助は己に多くの人人から法義の師と仰がれたことを推測することが出来る。天明七年十一月二十八日浅草御坊にて報恩講が修められたとき、平秩東作もその法筵に参り、庄之助と同座したが、この席にて庄之助がいろいろ法義につきて話せしことを記して「ここに四谷辺に庄之助とて信心に名の高き人あり。女中衆又は老人などの聴聞を望なき衆に、とりあへず折ふしのたとへなど言聞かさるるに諸人渇仰頭をかたむけありがたがらるる、云云」といひ、その時の法話の趣を自著の「法の家づと」に載せて居る。  「庄之助殿いはれけるは、霜月の始め日本橋へ参り候。生田子に、鯉二疋あり。何れも大なるものなり。予思ふに比鯉唯今心の内にて観念すらく、今まで何やら大なる河にあたたかに小鯉どもにかしづかれくらしたゆえ、これはいかなる業因にてかくあさましきうきめにあふことぞや。何卒して広き所へ出でたきるのかなと思ふ。其少し前に 中橋辺の男、あらまし直段をいたし、今川橋までゆく間とて預けるやうにして行きたり。其者かへらばなかなか広き川の処へはおよびもよるまじ。又泥龜なども例の如く手あしをちぢめ、入生死海の沈論、幾萬劫とも知らず、ただ煩悩にのみまとはれて成仏の時節も知らず、うかうかとして居るなるべし。今にも泥龜商ふ人来たらば、見るもかなしき烹法にて極罪人の如く引ぱり切りにされ、うかむ期さらにあるべからず。今在座のおのおの私ども、それらにくらべてはいかがと思し召ぞといはれて、皆皆青くなりたる人多し」  まことに鯉や泥龜が店先の桶の中にあえぎ居るを見れば、或はあはれ一杓の水にても欲しと思ひ、或は何とぞ暖かなる所へ出でたきものかなと、それのみ憂ひ思ふであらう。それもこれを望む人が来りて買取らるれば、はや俎板に上り刀を砌ぐもの、湯を沸すもの左右にありて今日の中にも人の腹中に葬られんとは、夢にも知らねばそれは苦とも思はず。唯水が欲しく、日あたりへ出たきものといふ願ひ、しばらくも息むことがないのである。我我が憂ひ苦しむことも亦此の如く、或は衣食の不足をなげき、萬の事心に任せぬを怒り、明くるより暮るるまで、いろいろさまざまのことを思ふ中に、只今、命終に臨まんも円り難し、若し此世の果報尽きなば、地獄におちて、業苦を受ることは定りたることなれば如何ともすべきやうなく、羅刹は刀を研ぎ、湯をわかして待つならんとは露も思ひよるものなし、さてもさても愚なることかなと庄之助は鯉や泥龜が小桶の中にてもがく有様の中に自分の相を発見して、現実の生活に夢うつつとなり、後生の大事を思はざる自分の愚なる心をしみじみと反省して居る。自然界の事物を見てかやうな内観をあらはすことこそ宗教の心の特徴とするもので、かやうな宗教の心を十分にあらはしたる庄之助が妙好人の名を得たることは当然である。  上洛  天明八年の春、庄之助は京都に上ぼつた。それはこの年の正月晦日京都の大火に東本願寺も類焼の災厄にかかり、南北三十七間、東西二十七間の大伽藍も一朝にして鳥有に帰したためであつた。庄之助は東本願寺類焼の報告を聞きて狂気の如くに悲しみ「わざと火をかけしとて容易に焼くべきやうのない大堂が、此度の類焼は不定の娑婆を厭はせて安養無為の浄土をねがはせたまふ巧妙の御方便か。敷き居るべきところにあらず。如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳は骨を碎きても謝すべしとは此時のことならむ。せめては心ばかり御恩報じに急ぎ京都へ上らむ」と支度する中に、庄之助は思ふやう、上方の銀は手なれぬ故につかひにくかるべしと自分が常に手なれし鍬をもちて急ぎ京都へ上り焼け残りたるところに宿をとり、翌早朝より焼釘をひろひに出でけるに、人人は先づ大なる釘を拾ひしに、庄之助は土に雑りし小釘ばかりを拾ふ故に、監視の役人は不審に思ひ「其方は何国のものにて名は何といふぞ」と問ひしに、庄之助は「私は江戸四谷の庄之助と申すものにて候」と言へば、役人は「昨日より釘を拾ひしが、その釘を如何するや」と尋ねしに、庄之助は「會所へ収め候」といふに「會所の帳面に庄之助といふ名前なし」とあるを、庄之助は「會所へ納める暇をいとひ、他の同行に誂へて納めもらひ申候」といふ。そこで役人は又、庄之助に向ひ「人人は大なる釘を拾ふに、其方は細かなる釘ばかりを拾ふはいかにぞ」と尋ねしに、庄之助は「大なる釘は誰も拾ひたまふなれども、小釘は拾ひ難くすたれ易き故に私はそのすたるものを拾ひてお取持を申し上たし」といふ。かやうに、庄之助が焼跡にて細かき釘のみを拾ひ集めたのは、全く仏法領の物を粗末にすまじき心からであつた。それも庄之助としては仏恩報謝の意であつたから、集めた釘をば自分の名にて役人の所へ持つて行くといふやうな我利的の態度はなかつた。その行動が普通の人情を離れて奇特にあらはれたので、監視の役人を始め、見聞する人人の感歎するところとなり、これによりて、庄之助の名はこの時広く喧伝せられたのであつた。  諸神奉祀  親鸞聖人の「愚禿悲歎述懐」和讃の中に「かなしきかなや道俗の良時吉日えらばしめ天神地祇をあがめつつト占祭祀つとめとす」「かなしきかなやこのごろの和国の道俗みなともに仏教の威儀をもととして天地の鬼神を尊敬す」とある。一切は法爾として自然の法則に従ふものであるのに、吉凶を分つことは外道のはからひである。我我人間の運命を司どる天神地祇がありとしてそれを奉祀するのは功利的の欲心である。まことに威儀は仏法のかたちを学びつつ内心は功利的に天地の鬼神を尊敬するのは、仏教の趣旨に背くものである。親鸞聖人はかやうに警告して居られる。  庄之助は京都滞在の中に、ある医者の許を尋ねしに、主人の曰く「私も近年後生は一大事と存じ折折御法座へ参詣いたし候へば、同行の衆中神棚を取拂ひ候やう申されけれども、私思ふやうは、心さへかけざればお邪魔にならぬ道理かと存じ候、いかが心得候はむや」と尋ねければ、庄之助の答に「まづ其儘にして置きたまえ。私が先年腫物が出来て膏薬をはりしとき、腫物がなほらぬ間は取れざりしが、腫物がなほると直ちにはなれ候」と語りければ、医者の事ゆへ早速合点して「なるほどさうじや、熱のある間ははなれぬものが、熱さえ取れると膏薬ははなれるものなり。今もその道理とは尤も至極のことなり」と感服して速に神棚を取り拂ひて、今こそ内外共に御門徒になりしといひて歓喜したりといふ。彼の医者の心は鬼碑を自分の住居の中に奉祀することは浄土真宗の規律に背くことであるにしても、しかしそれを心にかけぬ上は別に差支はないであらうと、自分の考に対して、庄之助の同意を求めたのである。庄之助としては、固より浄土真宗の同行が余の諸神を祭ることには反対であるが、しかしながら、この場合その医者に対してそれは善いとも悪るいとも言はず、熱のある間は貼つた膏薬が取れぬといふことを例にして神棚を取ると否とは自分の心の上の問題であるといふことを諷したのに止まつた。かやうな庄之助の態度は相手のものの心を動かすことが、徒らに可否の議論をなすよりも強く、その医者はこの庄之助の言に感服して直ちに神棚を取りのけたのであつた。  浄土真宗にありて、余の神仏を祭るべからずといふのは、固より余の神仏を蔑視して これを排斥すべしとするのではない。それは釈尊の教を奉ずる上に於て、愚悪の凡夫としては専修念仏の外に、安心立命を得るの道がないといふことを確信して、一心に念仏の教を奉ずべしと教えるためであつた。庄之助はよくこの事を知つて居つた。あるとき、深川に二十歳ばかりの座頭が居つて、庄之助に向ひ「私宅に年来大黒様を安置してあるが、若し祈念等に心をよせなば宗義に背くべきや」と問ふた。庄之助答ふ「さやうなことは雑修とて御堂流には深く戒めたまふことである。座頭の曰く「私もうすうす承はり候故に強く現世を祈り候にはあらず。在来の尊像なれば店の奥に深くおさめ参らせ候、さりながら御酒をも捧げず、額きもせざれば川へ流し申さむかと存ずれども、第一勿体なくもあり、其上母より大切に安置せよと譲られ候遺言に背き難し。いかがせむと大なる心ざはりとなり候」。庄之助曰く「なるほど雑修の失と気がついたならば、心ざはりならむ。やはり川へ流しまゐらするが善い。座頭の曰く「しかれども御文には諸神諸仏をおろそかにすべからずと候へば川へ流し捨て候も恐あるに似たり」。庄之助の曰く「さればおろそかにする心にて川へ流すは大に悪し。兎角諸神の御本懐をよくよく汲み奉るべし。その御本懐といふはもと法性の都より凡夫のありさまを見たまふに、仏菩薩に近づくときは延ばる命も早く死ぬることのやうに忌み恐るる故に神明の方便に權りの神とあらはれていささかなる縁を以てそれを便として終に弥陀の本願にすすめ入れむために和光の誓をあらはしたまふ御形を神明權現とは申すなり。しかれば一向専修の安心を得て念仏にひとりだちさせて助けをささぬ行者となれば、其人にはもはや使は入らぬ故に、 この道理よりうかがへば店の奥へ押こめ申すより川へ流し奉るがましならむ。神の御心は凡夫の我執とは異なりて、取るを喜ばず捨てるも怒らず、ただ正直のまことを好みして守りたまふとかや。これによりて罸のあたるあたらざるは其人の一心にあることなり。殊に念仏の行者は今生を仮の宿と知りて未来往生の大利を願ふ身なればいささかなる現世を祈らず、諸神諸仏に追従せず、後生こそ一大事なりと心得、生涯のたしなみは王法に背かざる人は蛭子も大黒もさらに所用なきなり」と、庄之助は諸神の本懐を説き、自宅にこれを奉祀することの不可を鄭寧に説いた。座頭「かやうの道理はじめて聴聞いたし明白に相わかり候。さりながら母の遺言には違背なるまじ。これをいかが心得べきや」といふ。庄之助曰く「それは一往の義なり。若し人法を聞いて歓喜するとき、父母これを怒りとどむるに於てはたとひ勘当を受るとも聴法すべし。即て孝行となるべしと、「父母恩重経」といふ御経に説いてあると聞く。この金言よりすれば其元の母人が大黒天に事へよと遺言せしならば、報土往生心もとなし。しかれば早く雑行雑善を投げ捨てて急ぎ往生を遂げ還相廻向の大悲をもて、迷える母を済度せばこれに過ぎたる孝行はあらじ」と懇ろに論した。座頭はこれによりて久久の不審がはれ、大に安心したとて喜むだ。さうして、座頭は更に「その諸神を祭るべからずと定めたまふは法然上人の御掟に候や、 また高祖聖人の御誡めに候や」と尋ねた。それに対して庄之助は「その儀は兩聖人の御さだめにあらず。大聖世尊の御きはめなり。されば何宗に限らず、惣じて三寳に帰せし人は大黒天等を安置すまじきことである。殊に浄土真宗の信者は堅く停止すべきなり」と言つた。  庄之助は前に京都にありしとき、ある医師の相談に対しては、委細を語らずして、しかも医師をして自発的に神棚を取り去らしめるやうにした。しかるに今、ここに深川の若い座頭に対しては諄諄と仏教の趣旨を説明した。庄之助が機に対して法を説いたことは大抵比類であつた。これによりても庄之助が十分によく宗教の心をあらはして居つたために、問ふものの態度に応じてそれぞれそれに応じたる説明を与へたことがよく窺はれるのである。  江戸気質  本願寺の殿堂が略ぼ己に出来上りて、次で寳物庫の建築工事が始まつたとき、庄之助はその建築事務の手傅を命ぜられた。この時、四方の壁土は厚さ三寸の積であると作事奉行より言ひ渡されたのに対して、庄之助は「最も大切なる御寳の壁なれば厚さ五寸につけさせ下さるべし」と提議した。作事奉行「なるほど御寳蔵大切と存じ候より申さるるところは奇特なれども、京都の土は江戸の土と違ひ石も同様であるから三寸にて苦しからず」と言つた。庄之助は重ねて「是非五寸になし下されたし」と争ふたが、その説が行はれさうもないので庄之助は遂に「よしよし五寸になり候はずば拙者を片壁へぬりこめ下さるべし。拙者一念にて壁は薄くとも焼き申すまじ」と言葉を荒くした。伊賀の三左衛門も其座に居合せて「私も片壁へぬりこめて下さるべし。たとひ土は一寸にても我我兩人の念力、この御寳蔵にとどまりて永く焼きも損じもいたさせまじ」と真実に歎願した。作事奉行もあぐみ果て、上司へ何ひ、法主の耳に達したところが、法主は大に感ぜられ、庄之助の願の通ほりに壁土を五寸につけさすべしと命ぜられた。庄之助は勇み喜びてその事に著手したが、程なく成就したのを見れば大丈夫なることいふばかりもなかつたので、法主もこれを見て満足のあまり菓子一箱を庄之助に下された。庄之助大に恐れ入り「これは伊賀の三左衛門殿へこそ下だしおかるべし。拙者はかやうの御褒美にあづかる筈なし。その故は三左衛門殿はまことにぬりこめらるる心にて申され候へども、拙者儀は江戸気質にて不意に申し候。性得江戸の風俗として負け惜しみを申し候癖になり候故、つい争ひよりいよいよ五寸にならずば拙者を片壁にぬりこめ下さるべしと申したるは、江戸気質にて御無禮申し上げ候。全くありがたき所存にてはござなく候」とて偏に褒美を辞退した。そこで詮議の末更に重ねて両人へ御菓子一箱づつ下されることになつた。元来庄之助は朴直でかざり気のない男であつたが、それに江戸の真中で、勇み肌を貴ばれた火消人足を職業として居つたために環境の影響もあつたと見えて、同じ妙好人の中でも彼の大和の清九郎のやうに、山の奥に生ひ立ちたる素撲の農夫とは相違し、庄之助自身にも言つて居るやうに江戸気質が強かつた。それ故に唯唯諾諾何でも蚊でも他の人の言ふ通ほりにはならず、自分が正しいと考へて言つたことが容れられない場合には「拙者を片壁の中へぬりこめて下されたし」といふやうな威嚇をも敢てしたほどであつた。しかも、それが上司に対して無禮の態度であつたことを承知して、率直にその罪を謝するところはまことに竹を割つたやうな性質であると評すべきである。庄之助自身としては、定めてかやうな凡夫の地体が仏の光明に照らされて、その醜い相を自分が見ることを得てますます仏の慈悲の広大なるを感謝したことであらう。  深切の教導  庄之助が京都に滞在の間に、江戸四谷より女中連三人にて上京し、久振にて庄之助に対面することを一とつの楽として、道すがら互にその事を話し合ひ、さて京都に著して早速に江戸小屋を訪問したるに、折節庄之助は晝飯を了り煙草をくゆらして居つた。女中連は「庄之助さむ、我等不思議に登ぼりたり。お前さむも無事に御手傅なさるるか」となつかしさうに話しかけしに、庄之助煙管をたたきながら「おおよふ参られた」と余所余所しくあしらひながら、羽織引きかけて何処かへ行つてしまつた。三人茫然として待てども帰り来らぬ故に、庄之助殿は何処へ行かれたのかと聞けば、留守居のものは、「あれは毎日御手傅の仕事に行かれしなり」といひければ、三人は互に顔を見合せて「さてさて庄之助殿は京都へ上ぼりて魂が入り替りしにや。大に邪見になられた」とつぶやきながら宿に落ちつき、口口に庄之助をうらみ、ふたたび小屋へ尋ねもせず、毎日御真影に拝禮ししばらく逗留して、此所彼所の霊場へも詣でて、江戸へ帰つた。その後、庄之助が寄附勧誘のために江戸に下つたとき、ある法座にて彼の三人の女中に遇ふた。その時三人は口を揃えて、先達て上京の節の庄之助の冷遇を恨むだ。この時庄之助のいふやう「女の身にて百里にあまる遠方へ恣なく上京し、御真影様を拝したまふこと優曇華の花ざかり。ああ、御類焼がなくばよも上京は出来まじ。されば御真影様へまことの御禮を遂げさしたさーぱいにて、わざとすげなく致したり。若し又、やれこれともてはやせば乗りの来る凡夫なれば、御真影様る善知識様も皆脇になり、毎日御小屋に来て役にも立たぬ雑談にひまを入れ、私とても御手傅の邪魔をされなば自損損他の咎のがれ難しと思ひたるによりてわざとつれなく致したり。腹が立つなら堪忍して御恩を喜びたまふべし」と、始めてその真意を明かしたるを聞て、三人の女中は涙を流し、「それほど難有き御引立の御心底ともわきまえず、女心のあさはかよりそれを恨みたるばかりでなく、帰るときに暇乞さへせざりし無禮を許したまはれ」と、はては互に仏祖の善巧方便を語り合ひて喜びしといふ。庄之助の心にては、はるばる江戸から上ぼつて来た女中を厚遇 してその相手となるときは、女中をして法を尊崇するの念を消さしめ、物見遊山に志を移すことがよくないと慮りてわざと冷遇したのであらう。普通に言えば人情が厚くないと言ふべきであらう。しかもそれが女中自身のための利益であるといふことに気がつけば、却て深切の教導であつたことが感謝せらるべきである。「若しそれに腹が立てば堪恐して念仏を申されよ」といふところに庄之助の真意は所謂聖道の慈悲をせず、浄土の慈悲によりて女中が念仏の道に精進するやうにと勧めたのであつた。これこそ真実の慈悲が衷心よりあらはれたものであらう。  易行の念仏  庄之助が京都にありて宿泊して居つた江戸小屋には、伊賀の三左衛門、三河の七三郎など当時名高かつた妙好人が同宿して、余暇があればすなはち法義の談話をつづけて居つた。そこへ能登の国から上つて来た僧某が参り合せて「さてさて各方には寄合さえすれば御法義を相続して互に喜びたまふこと何よりうらやましく候なり。我等は教化すべき身分なれば随分人を?むれども、兎角我身へ引きうけてしみじみとお慈悲も喜ばれぬあさましさ、まことに沙汰の限なり。いかが致して深く喜ばるべきや。各方の御いけんに預かりたし」と言ひたれば、三河の七三郎はものをもいはず、席を正してその僧を禮拝して「さてさてありがたきお引立かな」と、掌を合せて称名した。その僧は其意を得ざる様子であつたので三左衛門は「今三河のおやぢが禮拝念仏せられたのは、己に千遍萬遍の日課念仏をはげみとなふる人だにもお助けの御誓願なれば、まして懈怠がちの我等こそそのおめあてとあれば、ひとしほありがたく存ずるなり」といふ。僧某は大に感じ更に庄之助に対してその意見を尋ねた。庄之助は僧の質問に応じて「仏の本願を信じ、念仏をとなふるにも、功徳をたのむ心からはげみとなふると、またただありがたさに懈怠なく喜ぶとの二つあると存ぜられ候。そのただありがたさに唱ふる人は、たとえば船好きの人の如く、また懈怠がちにて念仏もまれまれに唱ふる人もお慈悲には漏るまじきなり。たとえば船好きの人と船嫌ひのものと道連れにてともに江戸より京都へ趣むくに、道をそろそろはこんで行つては間に合はぬ故に一人は嫌ながらも是非なく船に乗りけるに、七里半を片時に乗りつける宮の船、殊に順風なれば、矢を射るよりも早くはせるとき、船好きの人は煙草くわえて諸方を見廻はし、これは津島、かれは龜崎とたのしみながら乗れども、嫌ふ人は船べりにしがみつき眼をふさぎ、何処が名所やら何方は古跡やら夢中で乗るのは大に格別なり。されども桑名にさへ著けば好きも嫌ひもいらぬ。早早上りて急ぎ京へ上ぼるには違いはなし。今もその如く、聖道雑行の陸路では証りのはかが行かぬ故、十方衆生と、好き嫌ひも大願の船に乗り得たれば、三心四修の名所も五種 正行の古跡も弁へず、一向専念と眼をふさぎ、若不生者の船張にしがみつきたれば、臨終一念のタには涅槃の岸へ著くにはいささかも疑いなし」と、喜びければ、その僧を始め、座中の面面一同に感心して称名念仏したといふ。庄之助はこの時、齢己に五十歳を過ぎ、六十歳に近き頃で、己にその宗教の心は円熟して居つたので自然と当時の憐輩から崇敬せられて居つたのであつた。  衆生のため  その頃、同じ小屋に宿泊して居つた三河の長松といへる同行も「妙好人伝」にその名を列せるほどの仰信者であつたが、本願寺の再建につきて法主よりして「かさねがさね頼む」との言葉があるのを不審がり「さてさて常常のお勧めに、極楽さまに数数の荘厳を御成就なされしは寳の樹一本玉の木の葉一枚までも皆十方衆生のためなりと御かざりなされしとかや。然れば某とてもその十方衆生の一人なり。今にも往生すれば、私の極樂さまなり。その所へ早くまゐれと教えたまふ御本山は取も直さず、極樂さまの出店なり。さすれば、私の御本山様なり。その御普請なれば愛欲にけがれたる金銭なれども。なんとぞ御足しなされて早早成就下さるべしと、こちらから御願ひ申すべきを、あなたからの御たのみは逆さまごとなり」といふと庄之助は聞いて「さてさてそれは難有御心附に候」と挨拶する。長松しきりに「貴公の御引き請けを承はり不審晴らしたし」と所望するによりて、庄之助は拠なく「さらば某懺悔申さむ。御直し下さるべし」とて、自分は以前大なる心得違をして居つたとて、親鸞聖人が九十年の間素足の御苦労で、かく御門下も日本国中に広がり、日日月月の御繁昌は聖人が官も位も御捨てなされた御蔭である。しかるを只今の御本山は御門跡の大僧正に任じたまひ、剩へ御境内は八町四方の大造り、その御威勢は出家に似合ぬ名聞がましきことかなと思ふたが、今考へれば恐れ多きとも勿体なきとも申しやうのなき誤であつたと懺悔し、さうして自分の考を述べていふやう「第一御門下広くなれば広くなるほど御苦労がいやましたまふ道理、日本国の不法義者をあなた御一人の御苦労に御引き請けなされて、一人なりとも御済度あそばしたく思召せども、因人重法とて、軽き坊様の言ふことは釈迦の経文でも用ひざる人情ゆへ、是非なく大僧正に御なりなされ、緋の衣を見せてなりとも信を起させたやと思召す、我等がための御姿なり。しかれども辺部のものはその御姿さえ得おがまず、夢中に暮すもののために、八町四方の大伽藍をさらりと焼いて御見せなされ、この大変に驚き参り上りて信心を起せよとの御知らせとも思はず、いまだに参らぬ族も多きゆへ、祖師の大恩を九牛の一毛なりとも報じさせたさに、あなたから手を下げての御頼みぞや、さればこの愛欲の金なれども足してお立て下されといふやうなおとなしい我等ならば、よもや手を下げて御頼みはなされまい。打てもたたいても動かざる我儘のものゆへ、一倍御苦労をかけ逆さまごとをいはせますと思へば、身を粉にしても足らぬことである。善知識様もだまつて見て居たまふては中中一銭もはこぶやうなやさしきものはない故に、手を下げての御頼みは誰がためぞや。皆これ我身の御報謝となる。さすればどうぞどうぞと思召すやるせなき御慈悲とお引き請け申すなり」と諄諄と語りければ、長松始め小屋中の画面一同ありがたく感歎したといふ。九十年の一生を紙子で暮した親鸞聖人の末の ものが堂堂たる伽藍に住し、錦繍の衣服を著し、威勢を揮て居る状態はまことに矛盾の甚しきものと思はれるが、庄之助の意は、「自分も始めさう考へたが、それは誤りであつた。さういふことは全く我我衆生の頑迷の夢を破らうと思召すためであつた」とするのである。思ふに徒らに伽藍のみが堂堂として、その内容が空虚であることを挙げて、自分の心の外の問題とせず、宗教の心からして、自分の心の内を省みれば、ただ伽藍の堂堂たることや威勢の善いことなどを喜ぶところの我我の心の迷を見せしめられて、独り自から慚愧すべきである。庄之助がいふところの真意も全くここにあつたことと思はれるのである。  終焉  かくて庄之助は天明八年、齢五十六歳の春から、寛政三年、齢五十九歳まで四箇年の間、京都に滞在して、東本願寺再建のために丹誠を抽でて居つたが、この年よりいささか心地常ならず、ぶらぶらと光陰を送るやうになつたので、暇を乞て江戸へ帰らむとせしに、法主は庄之助に対して手傅せずとも苦しからず、今しばらく滞在せよとて医師を向けられしかば、庄之助は冥加にあまり感涙にむせびつつ、厳命に従ひ、しばらく京都にとどまりしが、夏の末の頃に至りて病勢も漸く募りければ、重ねて暇を乞ひ許を得て江戸に帰ることとなつた。その時、法主よりして家土産として、六字の御名號と庄之助法名釈宗閑と染筆を贈られ、喜むで京都の寓居を離れ、故郷の地に帰りつきて後、いよいよ定業と見えて病症は漸次に重く、疲弱甚しき中にもただ仏恩の深重なることを喜び、称名相続間断なかりしが、その死期の近づきたるときに、庄之助はちなみの深い同行を招き、なきあとのことを頼み、これまではたらきて得たる金銭少しばかり預けてあるから、死後によろしく配分したまはれと、金八十五兩の書附を差出し、これを京都の本山、浅草の御坊及び手次の源慶寺へ奉納し、残余の金にて自分の葬式・法要などの費用を辨するやうに願ふと遺言し「今こそ苦しみの娑婆を離れて楽しみの御国如来聖人の御側に参るなり。各方を蓮華勝會にて御待ち申すべし」と念仏もろともに息が絶えた。時に寛政七年六月二十三日、行年六十三歳であつた。  一念帰命  庄之助が壮年に阿弥陀仏の本願を聞信し、浄土往生の安心に住してより、六十三歳にて死亡するに至るまで、凡そ四十余年の間に於ける、その言動は庄之助が真に美しき宗教の心をあらはして居つたことを示して居る。今、これを証せむがために庄之助が折に觸れ、機に応じてなしたる法談の中から、その二、三のものをここに挙げやうと思ふ。  ある人、庄之助に対して一念帰命の意を尋ねけるに庄之助は答えて曰く  「或年の春、京都の粟田口にて獄門にかかりし罪人のやうなものぢや。それは四條畷に火をつけ、それがあらはれて三年入牢して、遂に獄門に行はれた。三年の中、日毎に吟味があり、罪人はどうか助かるやうにと思ふて、さまざまの申訳をすれども、その罪人の死は火をつけた時に定まりて居る。吟味は同類を詮議の為に三年の命が延びたばかり。それと同じこと、如来の御真実を聞きわけ、一念帰命の他力の信心を得るときに往生は定まる。五十年の腐れ体にだまされて、おしや、ほしやに日を暮し、此頃産んだ赤坊を懐にして、寝て居て母の思ふやうは、十八十九に育てて、嫁にやつたり、婿取りたり、拾はぬ金を拾ふて見、あたらぬ富を取りて見つ、儲けられぬ金を儲けて見つ、家を建てたり、蔵を立てたり、半時ほど眠られぬ其中に五十年の迷を思ひ煩ふ、せめてそれが一つ叶ふことか。叶はぬことは思ひくらせど、願へば叶ふ極楽参りは一つも願はぬ、是と同じことで、牢屋の中の罪人と同じ了簡なり、然るに一念帰命の他力の信心を得たる行者、迷ひの儘で往生は疑ない」  一念帰命とは、要するに、阿弥陀仏をたのみ、その本願に信順して浄土に往生することを願ふべきことをいふのである。それ故に「たのむ一念に往生は治定する」と説かれて居るのであるが、庄之助が正しくこの一念帰命の心を体得したことは、前記の説明によりて明かに認められることである。  寛政六年五月、庄之助が江戸に帰る際に、伊賀の三左衛門に遇ふたとき、庄之助は三左衛門に一念帰命のことを問ふた。そこで三左衛門が「此身此儘にて南無と帰命するとき、御助け一定、往生治定」といひたるに、庄之助「さてもさてもかたじけない。この庄之助がやうなものを、いかなる阿弥陀如来様」と喜むだ。さうして、同様のことを五日の内に二十度互に問答して、庄之助は「さてもさてもありがたい」と喜むで江戸に帰つたといふ。一念帰命の説明を聞いて、その意味を理解しやうとしたのではない。一念帰命の心を体得して居つた庄之助は一念帰命の言葉を聞くたび毎に喜びの情がますます強くあらはれるのを楽しむだのである。従つて同じことを幾度聞いても常に新しく喜びの情をあらはしたのである。これ正に宗教の心の特徴とするところである。  本願信受  庄之助、尾張へ参りしとき、同行大勢集まりて、「往生はたのむ一念ぢや」或は「念仏往生ぢや」など、さまざま法義の問答をして決定せず。このことを庄之助へ尋ねければ、庄之助の曰く「富士山を他力大信心にたとえて言えば、富士山を一つかみつかんで居るやうなものぢや。富士山ぢやと思ふても、一掴みでは、富士山ではない。高さ十里、四ヶ国に根がまたがりて居る故に、三国一の富士ぢやといふ。又大海の水を一桶汲で、これを大海とすることは出来ぬ。海の水には相異ないが、一桶の水では大海でない。手前であれでこれでと、押しつけの御法義は富士の山の土を一つかみつかみ、富士山と思ふと同じことぢや。どうぞ他力の大信心の富士山を丸で貰ひたいものぢや」といふ。尾張の同行「それでは他力信心を丸で貰ふには如何御受けを申すのでござりますか」といひければ、庄之助の答に「自力のはからひを止めて如来の比身此儘を助けるといふ御意を真受にするのぢや」といふ。真受にするとは、自分の兎角のはからひを止めて、仏の本願を其儘に信受することである。「行者の善からんとも、悪しからんとも思はぬ」ところに自然法爾の力が感知せられて、仏の本願を聞いて、疑なくこれを受けることが出来るのである。  聴聞  仏法は聴聞に極まると言はれて居る。言ふまでもなく、聴聞とは口にて法が説かれるのを耳にて聴くことであるが、もつと深くその意味を探れば、言葉の中に存するところの法をその霊に受け取るのである。しかしながら、法をその儘に受け取るがためには、先づ自己を空虚にせねばならぬ。若し自らの力をたのみ、自からの心をたのみ、彼比と計ふことがあればその心に真実の法を受け取ることは出来ぬ。或同行の曰く「数年聡聞すれども愚痴にて信心がすはらぬ、若存若亡の体に候。」庄之助これを聞きて曰く「それは勿体なき事に侍る。阿弥陀仏の本願を信じて念仏すれば、起るも臥すも、光明の中に摂取せられて何時命が終るとも浄土へ詣るに疑なし。これは釈尊の金言、諸仏の護念 証誠、疑ひたくも疑はれぬ本願なり」。同行それに対して「其の事は耳にたこの出来るほどに聴聞したれども、宿善未だ到らざるにや、共通なるべしとも存ぜず、動もすれば称名怠り勝に候」。庄之助の曰く「夫れは笑止千萬のことに侍る。聞ても信が起らずば、見て信ずるより外なし、見せる物あり」といふに、彼人不審して「御一流には聞其名號と申すことは承りつるが、見よとあるは珍しきことなり」とありければ、庄之助は松の梁を多く積みたる所へつれ行き「この松丸太は去る方の長屋の軒に此の如く積み重ねて あれど、いまだ普請の材木揃はぬ故に此の如く捨ててあり。諸色調ひて、かねて待ちうけし建前といふことになれば、下に積みたる木も、忽ち高き所に引上げられて棟梁の働きをなす。我等貪瞋煩悩の泥に埋められたる下積の木なれども、命終の時には弥陀の御用として無くてはならぬ材木となりて頼母敷なり」と言つた。真実の法は世界に充ち満ちて居る。それが人人の言葉の中に存するのみでなく、世の中の一切の物の中にも存して居る。それ故に、聞いて信ずることが出来ずば見て信ずべきである。かやうにして、庄之助は自分の周囲にある一切の事物の中に真実の法を認めることをつとめたのである。庄之助が鯉や泥龜が小桶の中に苦しみ居るのを見ても、その中に存する法に照してすなはち自分の愚なることを知ることを得たのは己に上段に述べた通ほりである。  因果の理  四谷藁店に藁屋某といふ同行があつた。庄之助から金二十兩を借りて年久しく利も元も勘定せずして過ぎて居つたが、その内に身上段段と不如意になりて、是非なく郷里へ引き込むよしを聞いて、庄之助は「浅草御坊の田地が一軒減るよ」と気の毒に思ひ、その同行を尋ねたるに、同行は「拙者も段段不仕合が続き拠なく店を仕舞ひ、故郷へかへらねばならぬ次第と相成り候。それにつき先達て貴方よりの借金一向御不沙汰に致し置き候処、かやうに相成候上はなほ以て返金かなひ難し。面目なき有様に御座候」と、手をつかねて言ひければ、庄之助は「イヤイヤそれは些とも心配せらるるな。私が前生にて借り置きたるを今ここで返済したのぢやほどに」と言ひて、借用の証文を藁屋に渡しければ、借主は責めらるることよと思ひの外、却て借用証文を貰ひ受け夢かとばかり驚き「貴方は凡人にてはよもあらじ」と言ひて喜びければ庄之助は「勿体なきことを言はるる人かな」と笑ひながら「もう外に借金はないか」と尋ぬれば藁屋は「恥かしながら、永永地代滞りてこれも金二十兩の証文あり」と言へば、庄之助は直ぐにその地主の家へ赴き、同宗門のものなれば法義の話に時を移し、折を見て地主へ尋ねけるは「貴公には因果のことはり聴聞届き候や」と言えば、地主の曰く「愚なる私なれども何事も過去の約束と聴聞いたし、萬事にあきらめの出来候は御法徳と難有存候」といふ。庄之助はそれは一段結構なることと賞讃して後「時に藁屋某に地代金二十兩の滞を貸したまふよし、一味の同行は四海兄弟とて他人にあらず、その兄弟が身上不如意になりて苦しむを余所目に捨て置くも本意にあらず、右の金二十兩思ひ切りて呉れてやりたまえ。そこで因果が入用なり。過去で借りたものを今返すと思へば惜しからず。今借りたらば元利揃えてやらずばなるまじ。それをただ元金ばかりですますは大なる徳分なり」と理を尽して説いたが、地主はこれを承引する様子がないので、庄之助は更に因果の理を挙げ「貴公藁屋が家を取り上げてあのものの家内を田舎へ遣りたまふても、因縁ならば、類焼に遇ふて互に恨を懐き恐しき迷の種となるべし。よしや千萬戸の主となりても我が居る所は畳半枚の外は入用にあらず。それも出る息は入る息を待たぬ習なれば、今をも期せぬ命ならずや。このたび本願を信じ往生せば、敵も味方も一蓮托生して娑婆の迷を話し合ふて楽しむと承はりぬ。その時恥かしからぬやうに曲げて証文を譲りたまへ」とさとした。地主も大に恥ぢ入り、遂に右の証文を藁屋へ渡すことになつた。藁屋はこれを受け取りて、ただ茫然としてあきれ果てたるばかりであつた。それから、庄之助は藁屋にすすめて離別の法莚を開かしめ、庄之助はその席にて錢別の金を募り、多額の金銭を集めてこれを藁屋に贈つた。藁屋はあまりの嬉しさに手を合せて庄之助を拝み「今までは常の人と思ひしが、ひとへに菩薩の所行なり」とて感謝せるを、庄之助は却て恐縮し「これひとへに如来様よりの御授けと歓びたまふべし。其元も私も必堕無間の罪人なれども、比度不思議の本願にめぐりあひ、地獄の火焔を転じ蓮の薹にのぼるべき身となし下されたる上に、現世まで漏れ出でたる広大の御利益なり。されば御約束もなき此世にさへ、かかる利益のましませば、若不生者の御誓言になどか相違のあるべきぞ」と涙を浮めて語りつつ、はてはただ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称名しつつわかれけるといふ。庄之助が因果の理といふのは、その心が己に我執を離れたる境地にありて、いかなる苦境にも忍従することが出来るので、何事も過去の因縁なりと喜ぶのである。彼の地主が何事も過去の約束と、萬事にあきらめの出来るは法徳の故とありがたく思ふといふは、因果の理によりて我執の心をおさへやうとするのである。それ故に、軽易の事項にて因果の理にておさえることが出来れば兎も角も、多額の金額の借用証文を借主に呉れてやるといふやうな場合には、我執が強くして因果の理といふ位でこれをおさへることは出来ぬのである。庄之助のやうに宗教の心の強くあらはれたるものにありては、仏教にて説かれるところの因果の理といふ言葉に、自分の我執を離れたる感情が結びつけられて、それが因果の理といふことにて外方に表出せられるのである。因果の理といふことを聞きて、なるほどと曾得し、それによりて自分の心を左右しやうとするやうな非宗教的の心の態度ではない。  凡夫の地体  恵心僧都の「法語」の中に「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来迎にあづかりて蓮薹にのるときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ」とある。率直に言えば妄念が凡夫である。仏の光明はこの妄念のために迷へる凡夫をあはれみて、それを照して妄念を自覚せしめたまふ。我我は仏の光明に照されて、始めて自己の妄念を知るところに仏の慈悲を仰がざるを得ぬのである。いかに仏の慈悲が強くはたらいても、我我凡夫の妄念が凡夫の世界から消えることはない筈である。ある同行、庄之助に向ひて「御法座に出て聴聞に耳かたふけて居るときは己を忘れて難有もよろこばれ候へども、御法座を立ちて我家へ帰ると、色色の煩悩が起りて称名も喜ばれざるは迷惑に存ずる」といひしに、庄之助はこれに対して「聞く折も聞かざるときも同じやうに喜ばるるは浄土にてのことぢやげな。信心得た同行は泥坊する猫と同じことと思ひたまへ。近処の鶏を取り、友猫をかみ、其上盗み喰ひをする故に、首を縛り柱につないで置けば日面へ出て居眠りをして居る故に、こいつはおとなしくなつた。もう盗喰もすまい、縛るにも及ぶまいと思へども、なまぐさき香でもすると耳を立ててそろそろ這出でやうとする。しかし首が縛ばつてあるから綱だけ行けばもう行かれぬから、また居眠りをする。今も同行は御法座にてうつむきて聴聞するときは悪人とは見えず。いかにも善男善女といはれさうなが、彼の猫がなまぐさき香がすると、さはぎ出すが如く、我家へ帰り敷居をまたげば煩悩のにほひがして、おれが留守なればはや此様なことをすると瞋恚を起すのである。それが一念の信心の首綱に繋がれた同行であれば、やがて信心の網に引き戻されて、かかるものをこの煩悩ながらお助け下さるることの嬉しやと喜ぶは、猫の居眠ると同じこと。煩悩の猫が居眠りして喜ばるるは称名ばかりである」と言つた。まことに南無阿弥陀仏の首綱に縛ばられて居る凡夫は、表面はたとひ隠にしてその妄念は居眠をして居るやうでも、我欲の香をきくときは忽ちに居眠からさめて妄念の世界をあらはすのである。それ故に凡夫としては、一念の信心の首綱につながれて居るより外はない。「妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ連のごとくにして、決定往生疑ひあるべからず。妄念をいとはずして信心のあさきをなげき、志を深くして常に名號を唱ふべし」と恵心僧都の「法語」にあるは、正にこの意味を示すものであらう。  袖口同行  あるとき、會合の席にて庄之助は「御法義よろこぶ人は高ぶる心甚だあしし」とて「真実の信得し人は藤の花さがるにつけてとうとかりけり」といふ道歌を引いて、兎角頭をたれてよろこぶに如くはなしと言つた。座中の面面これを聞きて「さればその下ぐべき頭をあぐる故にこまり候」と歎いた。この時、庄之助「随分我身は浅間敷いたづらものと見限るのが当流の教なれども兎角袖口同行が多い」と言つた。一座のものは袖口同行といふことの意味がわからず、そのいかなるわけであるやと問えば、庄之助はこれに対して次のやうに話した。「自分の近処に富者と貧者とあつたが、両方の家に娘一人づつあり、同じ師匠の所へ書き初めに行くとき、貧者の親が思ふやう、隣の娘はさぞ結構なる衣装を著てまゐるべし。せめて我娘にも表ばかりなりと新しくせんと心を尽して切切を集めて裏をば夜の目も寝ずにつぎあはせてこしらへ、先づ上の著物は出来たれども下に著さすべき襦袢なき故に、古き襦袢に袖口ばかり新しくして著せければ娘は大に喜び、隣家へ行けば、隣の内儀の曰く、さても結構に髪が出来た、うつくしき著物も、ツヤ襦袢も出来たといへば、この娘大に喜び上のをまくり見せれば奥のぼろが出る。その親の身になりて見たまえ。大抵恥しいことではあるまい。今同行もこれと同じく、今日は天気の悪るいによく御参なされましたと賞められては、うれしがりて私は昨日もまゐりましたとぼろを出し、よく御手傅をなされる御奇特といえば、いや私等は御講中つめ切りでござるとぼろの袖を出す。我心からかうまゐるやうに心得、懇志を運ぶやうに思へども、阿弥陀如来、五劫思惟の御苦労、聖人御一生の御難儀、代代の善知識、浅からざる 御勧化の御蔭にてなさしめたまふことを、自分でするやうに思ひなば、聖人善知識の親さまは、さぞ恥かしくかなしく思召さるるであらう」。庄之助はかやうに語りて、仏法を聴聞するには己を虚しうせねばならぬことを強く唱道したのである。  弘暫の駕籠  四谷の医師某、夫婦共に御法義を喜ぶ同行であつたが、あるとき?町に法?のありしに、庄之助も参りしが、彼の医師の内儀も参詣した。折節雨雪降りければ、内儀は家来をして自分の家の駕籠を持ち来らしめ、老人の庄之助を載せてその家へ帰らしめやうとした。庄之助は大に恐れ入り「私は生れてから今日まで町駕籠にさへ乗りたることなし。殊に旦那の召さるる駕籠に乗ることは思ひ寄らず、御免下され」と辞退すると、強て勤めて乗らしめたれば庄之助も己むことを得ず「さほどに仰せ下さらば乗りてまゐるべし。皆様の御蔭にて御和讃一首、今こそ身に引き受け候」とて「恒沙の諸仏の出世のみもとにありしとき、大菩提心起せども、自力かなはで流転せりと、度度諸仏方本願の駕籠に乗れ」と教へたまふのを辞退して、及ばぬ我力にてさとりの都へ行くべしと、菩提心を起したが、それがかなはずして迷ふたるものを、今また聖人善知識の御教化が耳に入り、弘誓の駕籠に乗せられて極楽へまゐる身として下されたことの嬉しやと、兩眼より涙を流して喜むだといふことである。庄之助が始め駕籠に乗ることを固辞せしは、人間として、自己の身分を考えて卑下したるのであるが、後には仏の前には卑下することを要しないと考え直したのみでなく、かかるものが本願の船に乗せられて浄土に赴くことの出来る喜びを感じたのであらう。  外儀と内心  ある同行、法座にて自讃していふやう「此間の御逮夜の法座には山の手からは拙者ばかりであつた。御坊様には珍敷人少なることであつた」といひければ皆皆言葉を揃えて「あの大雪に御奇特千萬、我等は勿体ない当年の納めの法座と存じながら彼の雪におそれて遂に懈怠いたし候」と挨拶した。この時その席に居つた庄之助は顔をしかめ「大荒れのとき、他の人の参らぬときに、ぬきんでて参詣しながら却て地獄の種を蒔く人もあり。又我家に火燵を離れずして極楽の道を運ぶものもある」と、つぶやきければ、彼の自讃せし男は「それは珍しき御示しなり、篤とその訳を承はりたし」といひければ、庄之助は「されば大方の人情は、人もまゐらぬやうな風雨の日に、泥にまみれて参詣し、 先づ足をそそぎ、御堂へあがり御禮も申さず、知己では誰が見えしぞと見分をする心は第一?慢の形なり。これ地獄の種にあらずや。又火燵に居ながら御逮夜なるに、雪が降ればとて参詣をひかへるやうな浅間敷ものをわけて不便に思召し、聖人様九十年の御辛労はただ私一人のためなり、さてもありがたや、南無阿弥陀仏と喜ぶときは、あなたの方より火燵の中へ御影向あそばして、さぞ御満足なさるべし」と言つた。かやうな場合、庄之助は自讃の人の言ふことを憎みて、これをいじめるといふやうなことではなく、さういふ人の言葉を聞いて、これと同様な自分の心のあさましさを省みて、外儀のすがたよりも内心の如何が重要であることを考えて、かやうに言つたのであらう。まことに南無阿弥陀仏と称えて仏に向ふ外儀のすがたよりか、南無阿弥陀仏と申さむと思ひ立つ心の上に、仏の力を感ずるところに、他力信心の真実の意味が存するのである。  余言  以上、叙述せるところに由りて、これを観るに、江戸庄之助の言行は、これを他の妙好人に比して著しい差異が認められるのである。すべて妙好人と言はれて居るものの多くは柔和忍辱にして、全く喜怒哀楽の世界の外に立つかと見ゆるやうな人物である。すべての妙好人はその愚直を守りて、他の人につきては何事をも言はず、人から害せられるやうなことがありても怒らず、又人を恨まず、世を呪はず、貧困に安んじて、常に自身の幸福を喜むで生活するのが比比皆然りである。しかるに江戸庄之助はこれに反して、他の人の言行に対して自己の意見を率直に吐露し、時に自分の意見に反することがある場合にはそれに反抗し、又他の人の仏法に対する態度を批評するなどをも辞しなかつたのである。一も二もなくありがたい一方でなかつた。妙好人の多くのものは田舎に生れたる素撲の農夫であつたに対して、庄之助は大都會の江戸の四谷で、勇み肌を貴ばれた江戸気質の火消人足であつた。その生れつきの性質も固より庄之助に特有のものもあつたやうであるが、それに環境の影響が加はりて、その宗教の心の表現にそれぞれ特殊の点が認められるやうになつたのであらう。庄之助が時に自分が奉ずるところの浄土真宗の要旨を他の同行に対して教示し、いかにも人の師たるが如く見ゆる場合もあるが、しかしながら、それは問はるるが儘に率直に自分の思ふところを吐露したのであらう。それに他の同志と相語るとき、庄之助の性質として自分の喜びをだまつて居ることが出来なかつたのであらう。言ふまでもなく、宗教の心はその人の固有の性格を消滅せしめ、木石と同様のものたらしめるものではない。又その倫理の感情を麻痺せしめて日常生活の上に於て道徳を無視せしめるものでもない。人人固有の精神作用をばその個性に応じて発達せしめ、人間として所謂凡夫生活をなす上に、内観を深くすることによりて我我の醜悪なる心がその儘仏の光明に照らされることを知り、さうしてこの如理智によりて新なる精神の力を獲て、それによりて我我の心の状態が自からにして我執を離れ、自由にして且つ温和なる精神生活をなすことが出来るのである。庄之助の如きは正に此の如き心の境地に達し得たるものである。  庄松があるとき木田郡田中村を通行したときに @  新選妙好人伝第十一編 讚岐庄松  凡例 一。讃岐の妙好人庄松のことは、庄松と昵近の間柄であつた人人の談話を筆記した「庄松ありのままの記」と、丹波の三田源七といふ人が各地の篤信者を歴訪して聞き取れるものの中の「讃岐庄松同行の物語」などに載せてある。「新妙好人伝」「真宗信者の模範」「信仰者の道草」などの諸書に記されたる庄松の快事は大概「庄松ありのままの記」に出でたるものに拠つたのである。私は此等の諸書に記述せられたる事実を本として、庄松妙好人が言葉や行状に表現したる宗教の大略を駆げてそれに私の説明を附したのである。 三。この書の原稿は私が自から筆録したのであるが、その整理及び校正は一に秋山不二女史の尽力を煩はした。又活版の校正につきては菊池弘女史の手を借りた。又この書を公にすることを得たるは厚徳書院長宗氏の厚意に依る。特に記して諸氏の厚意を謝する。 昭和十三年八月上浣  富士川游 記  讃岐庄松          富士川 游 述  目次 無智と宗教 讃岐の庄松 一念帰命 真実の体驗 三業安心 無我の態度 仏身観 阿弥陀仏 仏の仕事 聞其名號 無善造悪 後生の覚悟 批判と教訓 安心 読経 地獄極樂 敬神崇仏 臨終  無智と宗教  宗教は知識として外方から与へらるるものでなく、感情として人人の心の奥から湧き出づるものである。それ故に、宗教は智慧のはたらきには関係なく、賢愚老若男女何れの人にも同じやうにあらはれるものである。しかるに智慧の多いものと少ないものとにありて、その表現の模様が相異して居ることは実際であるから、無智のものの宗教と、有智のものの宗教とは同一でないやうに見えるのであるが、それはその人の心の奥にあらはれたる宗教の感情が、その人相応の智慧によりて取捨せられたものが言葉の上に又その態度の上に表現せられるがためである。「蓮如上人御一代聞書」に「聖教よみの仏法を申たてらるることはなく候。尼入道のたぐひのたうとやありがたやと申され候をききては人が信をとると前前住上人仰せられ候由に候。何も知らねども仏の加備力の故に尼入道などのよろこばるるをききては人も信をとるなり。聖教をよめども名聞がさきにたちて、心には法なき故に人の信用なきなり」と見えて居るが、この文句の意味をその文字通ほりに解釈すれば、名僧でも学者でも一分の法義大切の心のなきものは却て法義の邪魔をする。一文不知の尼入道でも仏の大慈大悲心より力を添へ加へて下さるによりてたやすく信心を獲てありがたく、又貴といことを喜むで口へ出すを縁ある人が尤もに思ふて法義に入るやうになるといふのである。しかしながら、この言葉は、一面には学間のあるものは常に宗教の心をあらはし難く、一文不知のものが却つてたやすく宗教の心に住することが出来るといふことをも示して居るのである。古来念仏の行者としてすぐれたるものが妙好人として挙げられて居るのを見るに、その多くは無学文盲の田夫野人にして、普通に世間でいふところの学問が皆無の輩であるばかりでなく、中にはその性質が甚だ魯鈍であるものが少なくない。それ故に、宗教の心は魯鈍にして一文不知と言はれるやうな人によくあらはれ、学問がありて智慧の多いものには宗教の心があらはれることが尠ないやうに思はれるが、事実は決してさうでなく、宗教の心は我我人間にはその生活のために是非とも起らねばならぬものであり、実際宗教の心は常に起りて、これによりてその生活が始めて安定せられるものである。それ故に、いかなる人にも皆それぞれ宗教の礎質が存して居り、さうしてその礎質が一定の刺戟に遇ふて覚醒せられるのである。従つて学問のあるものでも、又魯鈍のものでも、皆等しく宗教の心をあらはすことは全く衝動的といふべきである。ただ学問があり、従つて智慧のはたらきの多いものが宗教の心を表現するのと、一文不知の魯鈍のものがその宗教の心を表現するのとは、それぞれの特徴をあらはして居る。殊に魯鈍のものにありては思慮を深く分別を精しくして彼此と詮議することがないために、そこにあらはれたる宗教の感情が極めて率直の言葉にて、無造作に表現せられるのが常である。それ故に、時には奇想天外より来たるかと怪しまれるほどに意外にして、しかも適切の表現をなし、しかもそれが自己を中心としての思考から離れて居るがために、それに接する人人をして仰いでこれを尊敬せしめるものがある。宗教の心の上よりしてこれを見れば、それは貴とい仏の心がその人の心の上にあらはれたといふべきであるが、かやうに多くの妙好人がありがたしと喜び、貴としと仰ぐ態度はその人の宗教の感情が思慮分別の智慧のはたらきを離れて露骨に外方に発現せるがために、それを見たる人人が感歎するので、全くその貴とき心に共鳴するのである。讃岐の妙好人として名高かつた庄松の如きは、明かにこの種の典型的のものとして挙げらるべきものである。  讃岐の庄松  庄松は讃岐国大川郡壬生村字土居の農家に生れた。父を清七といふ。其家は真宗興正寺派勝覚寺の門徒である。大和の妙好人の清九郎は真宗本派本願寺派、江戸庄之助は真宗大谷派本願寺派、今この庄松は真宗興正寺派に属して居つたが、何れも同じく親鸞聖人の流を汲み、阿弥陀仏の本願を信じて、無我の生活をなしたことにかはりが無かつた。伝ふるところに拠れば、庄松は生れつき無欲で、且つ極めて正直であつた。一生妻を娶らず、世事には一向頓著せず、人に雇はれて田畠の仕事をしたり、又は家での内職に縄や草履造りなどをして居つた。さうして、法義のことを説いて、人に勧めたが、極めて朴訥で、少しもかざり気のない、時におどけを交えて人を笑はせた。まことに面白い性格であつたといふ。明治四年三月四日、七十三歳の高齢にて往生の素懐を遂げたときまで、庄松は貧困の生活の中にありて心のままに東西をあるき廻つて多くの人を論して法義へ導き入れた。庄松が没して後、松前の人徳太郎といふ同行がはるばる庄松の後を慕ひて来て、松崎の伊作、国安の仲蔵、富田のおよしなど庄松と親しかつた人人を尋ねて庄松の佚事を聞きて、一一これを録し、更に大仙華皐といふ人に乞てこれを編輯して一篇の冊子となし「庄松ありのままの記」と題し、活字版として二百五十部を施本として同志に頒つた。後に有志のものがこれに挿画を加へ再版としてこれを世に公にした。今の世に行はれて居るものはこれである。後に又それに漏れたる逸話の数種を増補して続篇として附加せられたものが大正十二年に出版せられた。それによりて庄松の法悦の生活は広く世に知れ渡つたが、庄松十三回忌の時には有志のものが相謀りて小沙の説教所にその墓を立てた。後大正九年、五十回忌の記念として更にそれが改修せられた。庄松が世間の多くの人人からその死後までも尊敬せられたことが察せれるのである。  一念帰命  庄松の宗教は約めてこれを言えば「一念帰命」であつた。たのむ一念に往生が治定すると仏教の言葉にて表現せられて居るものが庄松の宗教であつた。一念帰命といはれて居る宗教上の心の状態を平易の言葉にて説明すれば、全然自己のはからひを捨てて自然法爾の大道に随順することである。たのむ一念とは、実際、我我が自分の身と心とをたのみて、自分の力を拠どころに努力することを止めたときに、常にそこに自からにしてあらはれる心がすなはち阿弥陀仏をたのむのである。さうして、かやうに自分の身と心とをたのむことを捨てて、阿弥陀仏をたのむことは、小さな自分が大なる周囲の力に包容せられて居るといふことを自覚したのである。それ故に、一念帰命と言はるる状態の心になれば我我は阿弥陀仏の心の中におさめ取られて、この身が終れば極楽に往生することを得ると信じてその心の上に安住することが出来るのである。蓮如上人は「一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をばたとひ罪業は深重なりとも必ず弥陀如来はすくひましますべし」と説かれたが、それが寺院の説教によりて多くの人人に伝へられたためにたのむのは歎願するのであると誤解せられたのであらう。しかしながらたのむ一念とは全く自分のはからひを捨てて阿弥陀仏によりすがる意味の?《たの》みである。「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏まふさんとおもひたつところのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と「嘆異鈔」に説いてあるのも全くこの意味に外ならぬと言はねばならぬ。庄松の宗教はまさに此の如き「一念帰命」の心に安住して、自分が阿弥陀仏の光明の中に生活して居ることをありがたく感じ、一切を阿弥陀仏の本願に任じて、喜悦の世界に楽しみて、その日その日を暮したのである。  真実の体驗  かやうにして、庄松の宗教は、自分の思慮分別を離れて、直接に觸れることの出来る真実を体驗したのであつた。固より学問によりてさういふ知識を得たためではない。又知識によりて得らるべきものでもない。しかれども、成人が「信心はいかがすれば得られるか」と問ひたるに対して、庄松は「聖人一流の御文、又は末代無智の御文を百遍読むべし。しからば信心は得られるであらう」と言つた。その「聖人一流の御文」とは  「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもて本とせられ候。そのゆへはもろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。そのくらゐを一念発起、入正定之聚とも釈し、そのうへの称名念仏は如来、わが往生をさだめたまひし御恩報謝の念仏とこころうべきなり。あなかしこかしこ」  又「末代無智の御文」とは  「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとへにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへところをふらず、一心一向に仏たすけたまへとまうさん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへは、ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは称名念仏すべきものなり。あなかしこかしこ」  この二つの御文は蓮如上人が心を一にして阿弥陀仏の本願に信順すべきことを説かれたもので、まことに簡単至極のものである。庄松がこれ等の御文を百遍読めば信心が得られると言つたのは、その真意、自分の心の相をよく内観せよ、自分の心の相をよく内観してそれがたのむに足らぬといふことを知れば、そこに阿弥陀仏の本願と言はれる心が自からにしてあらはれて来るのであることを示したのである。いろいろのことを詮議して、その心を綺麗にするやうにつとめよといふのではない。世の中には智慧が少ないながらも、その智慧相応にいろいろの思慮詮索をするものもありて、さういふ輩は直接に世の中の真実に觸れることが出来ず、その人の智慧相応に、その心の奥にあらはれたる宗教の感情を言葉又は態度に表現するものであるが、庄松の如きは、さういふ智慧のはたらきがなく、思慮分別を離れて自然法爾の大道に信順するところに阿弥陀仏の本願をばありがたく信受することが出来たのであらう。  三業安心  しかれども、庄松が此の如く、「一念帰命」の安心に住し、阿弥陀仏の本願に信順するに至つたのは、宗教の心が現はれた当初からではなく、始めは自分の身と口と意とを善きものにして仏に助けて貰はふといふことを願求した。それは所謂三業安心であつたが、檀那寺の勝覚寺の弟子の周天といふものから、三業安心が異義であるといふことを説き示されたので、始めて正意の安心にかへり、「一念帰命」を深く信じて一心に阿弥陀仏の本願に信順するやうになつた。庄松は其恩を深く感じて、周天を指して周天如来と言つたといふ。後或る僧が三業安心の善悪を問ひたるに対して、庄松の曰く「三業どころか、一業もないには困る」。称えるか、拝むか、念ふかの三業の内、せめて一業でもあればよいが、自分は称へず、拝まず、念はずであるからと懺悔したのであらう。阿弥陀仏の本願が一切の衆生を助けるのであるなら、我我としてはどうすることも要らぬ筈である。ただ仏のお助けを仰ぐばかりで助けらるるといひて、自分を顧みることなく、仏に任せさえすればそれでよいと投げ遣りにするものはその人に宗教の心があらはれて居らぬのである。宗教の心があらはれて、自分が仏に助けられるといふ意味が明かに知らるれば、身には仏を拝み、口には仏の名を唱へ、意には仏を憶念するのが当然の結果である。かやうにして、庄松の意は自分が仏のお助けを受けながらそれをありがたく思はぬ自分の愚悪の相を顧みて大に慚愧したのである。  無我の態度  仏法には無我といふことが主として説かれて居る。宗教の心の上から言えば、それは我執といふものが道の障となるから、その我を無くすることをつとめねばならぬといふことではなく、自分の一切のはからひを捨てるところに我と執著する心が無いのが大切であるといふのである。我と思ふ心が無いのである。おれがおれがと思ふてたのみにする心がないのである。さうして、さういふ場合にあらはれるのが自由平等の宗教の心である。庄松が西讃岐の同行の所に迎えられて、先づ「正信偈」のおつとめが終るや、庄松は鐘を打ちながら「何ともない何ともない」といふだけで何の一言も口に出さない。多くの人は何かありがたいことを話すであらうと待つて居つたのに、一言もせぬのであてがはづれ小言をいひながら退散した。そこで主人が庄松に不足を言つた。これに対して庄松の曰く「何をいふ。今夜はありがたい話があつたではないか」。主人「何もありがたいことはなかつた」といへば庄松は「彼方にも南無阿弥陀仏、此方にも南無阿弥陀仏、己らはまことにありがたかつた。それでは比辺には南無阿弥陀仏より外に何かありがたい話があるのか」と言つたと。なほざりに法を聞くものの常として、自分が何かを得やうとするところに我が強くあらはれて居る。それ故にいくら法を聞いてもその我のために真に觸れることがない。法の真実に觸れたる庄松には自分で我と思ふものがなかつた。我といふものが全然無いのではないが、我といふものの価値がなかつた。或人庄松に向つて自督の安心を尋ねたるに庄松の曰く「何ともないが真実ぢや」。我執の強い人人の常として、真実を得たとて何か寳でもつかむだやうに喜ぶのに、無我の心の庄松は「何ともないのが真実ぢや」と自分の得手勝手の心をやめて自然法爾に安住して居つたのである。  仏身観  庄松の宗教の心にありて、崇敬の対象となつたものは勿論であつた。元来、仏教にて仏といふのは印度の言葉の仏陀(Buddha)の略で支那の言葉に訳すれば覚者である。覚者とはさとつたものといふ義で、迷を離れて自から諸法の真理をさとつたものを指すのである。本来は、生病老死の人間苦から免かれむがために、辛苦努力して遂に成道せる釈尊唯一人を指して仏と称したのであるが、仏教が漸次に学問として人から人に傅へられ、哲学的の思索が漸次に発展するに従ふて、仏とは諸法の真理が人間にあらはれるものであるとせられるやうになつた。それもこれを見るものの思索の深浅に準じて、最も深きは法身、それから、報身、最も浅きは化身と差別せらるるに至つた。それも過去、現在、未来の三世に渉る外に、所謂十方の諸仏があらはるるに至つた。しかしながら、かやうな哲学的の解澤は、固より庄松のやうな無学文盲のものに理解せらるる筈はなく、又強ちこれを理解することが必要ともせられぬのである。庄松の心に感ぜられたる仏とは慈悲の力にて、自分をたすけたまふ至上の人格であつた。ある老婆が法性身とは何のことであるかと尋ねたるに対して、庄松はすぐに唐紙の蔭に隠れて「庄松は此内に居るぞ」と、声のみで体を見せなかつた。「唯信鈔文意」に親鸞聖人が「しかれば仏について二種の法身まします。ひとつには法性法身とまうす。ふたつには方便法身とまうす。法性法身とまうすは、いろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよばず、ことばもたえたり」と説かれた通ほりに庄松の心に感ぜられたので、それを示すために、此の如き所作をなしたのであらう。まことに仏の本体は真如であるから言語に絶したものであるが、その力としての慈悲のはたらきは我我にも感知れるのである。庄松はこれを肉身の親にあらはれたる慈悲と同じものであると考へて、仏をば心の親であると考へたのであらう。あるとき、庄松は富田村の菊蔵といふものと三本松の勝覚寺へ参詣して本堂で横に寝た。そこで菊蔵がその不行儀を咎めて「これ御本尊様の前ではないか、御遠慮申さぬか」と言つたのに対して庄松は「親の内ぢや、遠慮には及ばぬ。さういふお前は継子であらう」と言つた。自分に加はる仏の慈悲を親の心と見て、親と子とは隔てる心がない。しかるに親の内に来て遠慮するのは真実の親子の情でないといふ。庄松が仏の心におさめ取られたことを感じて喜ぶことは常ならぬものがあつたことが知られる。又庄松は平常縄をなひ、草履を造りなどして居る間に、不国仏の慈悲を思ひ浮べると、仕事はそこへ投げ出して奥の間へ飛び込むで仏壇の障子を開き、本尊に向ひて「バーア、バーア」と言つたといふことである。又夏の頃、田の草を取りに晝休みに家へ帰ると、仏壇より本尊を取り出し、竹の先に結びつけて「やれやれ親様も今までは熱かつたであらう」と言つたと伝へられる。これは仏の尊容を拝してその大慈悲の貴とき心を想ひて、尚ほ生きたるものに対するやうな心持になるといふほどに志の厚いがためである。ある寺の住職某が庄松に向つて「御本尊は生きてござるか」と問ふたとき、庄松は「生きてござる。生きてござる」といふ。住職重ねて問ふ「生きて居られても物を言はれぬではないか」。その時庄松は「御本尊様が物を仰せられたら、お前様等は一時もここに生きて居られぬ」と言つた。庄松の仏身観はまことに徹底したものであつたことがこれにてよく察せられる。庄松は常にその心の上にあらはれるところの大慈悲の心を仰いで、そこに仏に接したので、「安心決定鈔」に「自力のひとの念仏は仏をさしのけて西方に置き、云云」とあるやうに偶像の仏を見たのではなかつた。  阿弥陀仏  かやうにして、庄松の例は仏教にて阿弥陀仏といはるる仏の大慈大悲の力が我我の心の上に加はるものに人格を附けたものであつた。己に前にも言つたやうに、庄松はこの仏の本願が我我をたすけむがためにはたらくことを信じて、その本願が大慈大悲の力として自分に加はるのに信順し、全く自分のはからひを捨てて、すべてを仏に任せたのである。これこそ真に宗教の心のあらはれといふべきである。金澤の山本良助といふ同行が、はるばる庄松を尋ねて「御免なさい」と案内を乞ふて戸を開いて中を見れば、庄松は布画を被むりて寝て居つた。そこで呼んでも呼んでも起きて出でず、一寸目を開いて見ては又寝込むで仕舞ふので、致方がなく、良助は言葉を改めて「私は外の事で参つたのではありませぬ。一大事の後生が苦になつたために加賀の国よりわざわざ尋ねて参りました。どうぞ御一言知らせて下さいませ」と言つたが、何とも返事がない。良助は困り切つて、詮方なく帰るといえば聞かせて呉れるかと思ひ、草鞋をはきながら「ああ、たよりないことぢや。遠方から尋ねて来たが一言のお知らせもない。このまま帰つて、聞かぬ仕舞で、死んだら何としませう」と濁り言を言つた。さうすると、庄松は始めて口を開き「阿弥陀様に任せてしまへ」と言つた。良助は今こそと思ひ「死んでから任すのか」と尋ねた。さうすると、庄松はむつくりと起き出でた。良助は改めて「たのむ一念を一口お聞かせ下さい」と尋ねた。さうすると、庄松は「それは仏様の言ふことぢや、己れは知らぬ」と言つた。「自然法爾の法語」の中に、親鸞聖人は「弥陀仏の御ちかひのもとより行者のはからひにあらずして南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを自然とはまふすぞとききてさふらふ」と説いて居られるが、庄松の心にては我我のやうな身心羸劣のものは如何ともすることが出来ぬ。仏の加被力によりて僅に生存するのであるから、仏に任すと言つても、仏をたのむと言つても、我我の方としては自分のはからひを捨てるより外には何もない。それにも拘らず、たのむ一念を聞かして下さいと尋ねらるれば、「それは仏様の言ふことぢや」とただ拒絶すべきのみである。すべての思慮分別を離れたるところに直ちに感ぜらるるところの心が率直に表現せらるればそれより外は無いのである。勝次郎といふ同行が庄松に対して「弥陀をたのむといふはどうたのむのか」と尋ねた。さうすると庄松は「お前は弥陀をたのむだことがないと見える。たのむで見よ、たのむで見よ」と答えた。かやうに弥陀をたのむといふことにつきて彼此と思慮分別を逞しくして居るものに対して、庄松は頭からさういふはからひの心を打ちこはすやうにした。顕ぶる禅宗的の態度である。何れにしても庄松の阿弥陀仏は真如から姿をあらはして、その光明を以て常に庄松の心を照して居らるるものと感受せられたもので、多くの人人が考えて居るやうに、自分を離れて何処かに存在するところの精靈ではなかつた。世間で多く其例を見るやうな偶像の仏ではなかつたことは勿論である。「唯信鈔文意」に「法性法身とまうすはいろもなしかたちもましまさず、しかればこころもおよばず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす。その御すがたに法蔵比丘となのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり。この誓願のなかに光明無量の本願、壽命無量の弘誓を本としてあらはれたまへる御かたちを世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。この如来すなはち誓願の業因にむくひたまひて報身如来とまうすなり。すなはち阿弥陀如来とまうすなり」と親鸞聖人が説いて居られる意味に於て、庄松の阿弥陀仏は方便法身の如来が四十八の本願を起し、それを本としてその形をあらはしたまふたのであつた。すなはち報身の阿弥陀仏であつた。さうして、それは智慧の光の形にて色もなく、形も見えざることは法性法身に同じやうなものである。この阿弥陀仏をばそのはたらきの上から無碍光如来といひ、又この如来が一切の衆生をたすけやうとの本願を起して更に仏になられた後の名称は南無阿弥陀仏と號するのである。それ故に仏の本体は何かと哲学的に見るときはそれは真如である。それが法性法身の仏となるのである。更にそれがかたちをあらはして方便法身の仏となり、一切の衆生をたすけむとの本願を起して遂に報身の仏となつた。南無阿弥陀仏といふはその尊號である。庄松の心には固より此の如き哲学的の思索を本として仏に接したのではない。庄松としては自分の心を虚しくして思慮分別を止めたために、元来周囲に存したる偉大なる力が大慈大悲として感受せられた。それを仏教の言葉にて表現して仏と言つたのである。しかしながら、かくの如きものこそ人間の世界に於ける偉大の存在である。まことに尽十方無碍光如来として、無碍の智慧光を放ちて十方衆生のために無明のやみを拂はるるのである。国安の仲蔵といふものと丸亀の御坊へ参詣したとき、仲蔵が「ありがたい繪像様ぢやなあ」と言つたのに対して、庄松は「お前は御繪像をおがむでも御声は聞えぬのかい」と言つた。或同行が庄松に向つて「私はこの度、御真影様へお暇乞にもう一度参拝を遂げて参ります」と言ひたるに、庄松はじつとにらみて「お暇するなら参るなよ。死んでも離れなさらぬとある御真影様へ己れが方から暇乞をするといふことがあるか」と叱りつけたといふことである。この一事に徹するも、庄松はたとひ自身には意識しなかつたにせよ、その仏身観は真に仏教の精神にかなふたものであつた。さうして、阿弥陀仏の大慈大悲の力が南無阿弥陀仏となつて我我に感受せられるのであるといふことを信じ、偏にこれを尊崇せることは、前にも挙げたやうに庄松が「南無阿弥陀仏より外にありがたいことはない」と言つたのに徹して明かに認められることである。何れにしても、庄松の口からさういふ言葉が出て来るのはその心の奥に存するところの宗教の感情が、既に世に行はれて居るところの仏教の言葉に結びつけられて表現せられたのである。固より自分で哲学的の思考を深くしたのではなく、又哲学的の思考に本づきて説明せられたところを聞いて後に、さういふ感情を起したのではない。智慧のはたらきは一切の事物を認識し、それに本づいてそれぞれの観念をあらはし、それから注意、記憶、判断及び思考などをあらはすものであるが、さういふ智慧のはたらきにてあらはしたる思考は決して真実の意味の宗教の心を起すものではない。無学文盲にして智慧のはたらきの少なかつた庄松にありて、かやうに宗教の心があらはれたのは、宗教の心が智慧に依らずして感情のはたらきに本づくものであるといふことをよく証明するものである。しかもその宗教の感情が、庄松にありては、智慧のはたらきによりて取捨せられることが無く、率直に純粋のままに表現せらるるところに、それがいかにも貴とく感ぜられるのである。  仏の仕事  宗教の心から言えば、我我人間の心の内には煩悩を具足するが故に虚仮である。一切の人間はまことの心を有せず、師長を軽慢し、父母に孝行せず、朋友に信なくして、悪をのみ好むが故に、この世の人は無実の心のみにして、いつはりへつらふて、名利を求むることを先とすると言ふべきである。しかるに、かやうな愚悪の人間をあはれみて、これに真実の信心を与へ、それによりて真実の報土に往生せしめて以て身心の円満なる至上の境地に至らしめむとするのが阿弥陀仏の本願である。親鸞聖人が八十三歳の時に、弟子の性信房に与へられたる書簡の中に、我身をたのみ、我がはからひの心を以て身口意の乱れ心をつくろひめでたふしなして浄土へ往生せむと思ふを自力といふと説き、この自力のはからひにては真実の報土へ往生すべからざることを明かにして後に「行者のをのをのの自力のみにては懈慢辺地の往生、胎生疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべきとぞ、うけたまはりたりし、第十八の本願成就のゆへに阿弥陀如来とならせたまひて不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらはしたまへり。このゆへによきわしき人をきらはず煩悩のこころをえらばず、ヘだてずして往生はかならずするなりとしるべしとなり。云云。しかれば無明煩悩を具して安養浄土に往生すればすなはち無上仏果にいたると釈迦如来ときたまへり。しかるに五濁悪世のわれら釈迦一仏のみことを信受せんことありがたかるべしとて、十方恒沙の諸仏人とならせたまふと善導和向は釈したまへり。釈迦弥陀十方の諸仏みなおなじ御心にて本願念仏の衆生にはかげの形にそへるがごとくはなれたまはずとあかせり。しかればこの信心の人を釈迦如来はわがしたしき友なりとよろこびまします。この信心の人を真の仏弟子といへり。この人を正念に住する人とす。この人は摂取してすてたまはざれば金剛心をえたる人とまふすなり、このひとを上上人とも、好人とも妙好人とも最勝人とも稀有人ともまふすなり。このひとは正定聚の位に定まれるなりとしるべし。しかれば、弥勒仏をいとしき人とのたまへり。これは真実信心をえたるゆへにかならず真実の報土に往生するなりとしるべし。この信心をうることは釈迦弥陀十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし」と説いて居られるが、親鸞聖人が真実の報土に往生すると説かれる意味は、我我の精神が円満至上の境地に至りて迷妄と苦悩とから全く離れる状態を指して言はれるのである。それには自分のはからひにては決して目的を達成することが出来ぬ。どうしても真実信心を得ねばならぬのであるが、それは仏の方から興へられるのである。それを我我の方から見れば大慈大悲の仏の力にたすけられるのであるから、全く他力の本願である。従つて我我がたすけられるのは仏の仕事である。それにつきて我我がはからふべきことは何にもない。庄松は実によくこの親鸞聖人の精神を体得して、さういふ仏の仕事をばただありがたく拝受して、それにつきて自分の心のはからひをすることは全くなかつた。勝覚寺の住職、あるとき庄松に向つて「お前は往相回向といふことを知つて居るか」と尋ねたとき、庄松は「あなたの御仕事を己れが知つたことかい」とはねつけた。元来普通に言はるるところの回向とは、自己が修したる善根功徳を回らし向けて自己又は他人の仏果菩提を得むとするのであるが、その回向に往相と還相との二様があるとせられて居る。往相回向とは自己がなせる功徳善根を衆生に回向して共に浄土往生を願ふことをいひ、還相回向とは浄土に往生して後更に大悲心を起して此土に還来し衆生を教化して共に仏道に入らしめむことをつとむるのである。しかるに、浄土真宗にては自力の回向は出来ぬことであるとし、往相も還相も共に阿弥陀仏より我我に回向したまふとするのである。庄松は此の如き煩瑣なることに心を注がず、仏の仕事は自分の知つたことではないと言つたのである。まことに我我が浄土に往生することを願ふのは、自分の力によるのでなく、仏の慈悲によりてさうせしめられるのであると己を虚しうするときに愉悦の心があらはれるのである。しかもその理由を明かにすることは宗教の心が起るためには何の役にも立たぬと知らねばならぬ。「蓮如上人御一代聞書」の中に次のやうなことが書いてある。  「順誓まうしあげられ候。一念発起のところにて罪みな消滅して正定聚不退のくらゐにさだまると御文にあそばされたり。しかるにつみはいのちのあるあいだ、つみもあるべしとおほせさふらふ。御文と別にきこえまうしさふらふやと、まうしあげ候とき、仰に一念のところにて罪皆きえてとあるは一念の信力にて往生さだまるときは罪はさはりともならず、去れば無き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは罪はつきざるなり。順誓ははや悟てつみはなきかや。聖教には一念のところにてつみきえてとあるなりと仰られ候。罪のあるなしの沙汰をせんよりは信心を取たるか取ざるかの沙汰をいくたびもいくたびも。よし罪きえて御たすけあらんとも、つみ消ずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり。我としてはからふべからず。ただ信心肝要なりとくれぐれ仰られ候なり」  助けるのは仏の仕事であり、助けられることを期するのは我我人間の希望である。我我としてはただ仏の仕事をば素直にありがたく受けるべきである。それを彼此と詮議することは宗教の心のあらはれることを妨ぐるものである。庄松がある年、播州赤穂の榊村の染物屋に逗留して居つたときに、三田源七といふ若い同行が庄松に向て「たのむ一念を一口聞かせて下さい」と言ひたるに、庄松はなに己が知つて居るものかといふやうな態度で、直ちに内仏を指した。源七はそれを聞いて「さうであつたか、私のする仕事でなくてたのむ一念は仏の仕事であつたか。嬉しいなあ」と言ふと、庄松は「そことも。そことも」と言つて共に喜むだといふ。又勝覚寺の住職が、「還相回向のお利益は如何」と問ふた。庄松の答に「それは己れが喜ぶと、人が拾ふて喜ぶのちや」とあつた。いかにもよく自分のはからひを離れて仏の真実を受け取つた心である。  聞其名號  「聞其名號信心歓喜」といふことが「大無量壽経」に記してある。その名號とは、阿弥陀仏が一切の衆生を浄土に往生せしめやうとの本願を起し、遂にその願が成就せられたことをあらはす称號である。南無阿弥陀仏がすなはちこれである。「安心決定鈔」に「浄土真宗の行者はまづ本願のをこりを存知すべきなり。弘誓は四十八なれども第十八の願を本意とす。余の四十七はこの願を信ぜしめんがためなり。この願を禮讃に釈したまふに、若我成仏,十方衆生、称我名號、下至十声、若不生者、不取正覚といへり。この文のこころは、十方衆生願行成就して往生せばわれも仏にならん。衆生往生せずばわれ正覚をとらじとなり。かるがゆへに、仏の正覚はわれらが往生するとせざるとによるべきなり。しかるに十方衆生いまだ往生せざるさきに正覚を成ずることはこころえがたきことなり。しかれども仏は衆生にかはりて願と行とを円満してわれらが往生をすでにしたためたまふなり。十方衆生の願行円満して往生成就せしとき、機法一体の南無阿弥陀仏の正覚を成じたまひしなり。かるがゆへに、仏の正覚のほかには凡夫の往生はなきなり。」と説きて、阿弥陀仏が凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはして南無阿弥陀仏といふのであると説明してある。「かるがゆえに、領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名號も機にはとどまらず。となふればやがて弘願にかへる。かるが故に浄土の法門は第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり、云云。第十八の願をこころうるといふは名號をこころうるなり。名號をこころうるといふは阿弥陀仏の衆生にかはりて願行を成就して凡夫の往生、機にさきだちて成就せしきざみ、十方衆生の往生を正覚の体とせしことを領解するなり。かるがゆへに、念仏の行者、名號をきかば、あは、はやわが往生は成就しにけり、十方衆生往生成就せずば正覚とらじとちかひたまひし法蔵菩薩の正覚果名なるがゆへにとおもふべし。云云。ひしとわれらが往生成就せしすがたを南無阿弥陀仏とはいひけるといふ信心おこりぬれば仏体すなはちわれらが往生の行なるがゆへに、一声のところに往生を決定するなり。」むづかしい理屈を尋ぬればまさにその通ほりである。しかしながら、さういふ理屈はさて置いて、庄松のやうに、宗教の感情が豊かにその心の内にあらはれて居るものにありては、南無阿弥陀仏の名號は阿弥陀仏がそのかたちをあらはして我我にその本願を示さるるものである。極めて通俗的の言葉にて言えば、阿弥陀仏が我我人間に呼びかけて助けてやると言はれる声である。この阿弥陀仏の喚声を聞いて一も二もなくそれに信順するのが正しく真実の宗教の心である。ある人が大病にかかり、医師も匙を投げて、絶対絶命の場合になりて、平生聴聞によりて仕上げた安心ががらりと崩れて「これではどうしやう、どうしやう」としきりに苦しみ始めて、早く庄松に遇ふて安心の道を求めやうと庄松を招待した。庄松は招請によりて其家に行つたが、内仏の戸を押開いて御禮をして居るばかりで、待つても待つても病人の室に行て病人に話をして呉れぬ。側の人は巳むなく庄松の所に来て「庄松さん、あなたに来て頂いたのは内仏へ御禮のためではない。今この隣室に九死一生の大病人が居る。それに早く聞かせて下さい。それがためにあなたを呼んで来たのぢやほどに」と不足の苦情を兼て催促をした。さうすると庄松がいふやうは「己れが本願を作つたではなし、助けてやるものを持つて居るのでもない。何も聞かせるものはない。衆生を生れさせずば正覚をとらぬと誓を立てた仏が、今ここに正覚を取つておはすではないか。これでも不足なことがあるかや」と大きな声で言つた。この一言を次の間にて病人が聞き「ああ、さうであつたか。ああさうであつたか。今まで何を聞いて居たやら。往生の体を見失ふて、この機の上に体をこしらへて居つたことのあさましや、恥かしや」と懺悔しつつ、称名諸共に安らかに息がたえたといふ。又あるとき庄松が大川郡の野崎某の所へ呼ばれて行つて、早速庭にて草履をつくりかけると、主人が「お前を呼んだのは御浄土参りの話を聞きたいためである。草履を造つて貰ふためではない」と言つた。さうすると庄松は「浄土参りは己れの話より如来様の喚声を聞け」と言つてその外には何も言はなかつたといふ。巳に前にも言つたやうに、我我が阿弥陀仏をたのむ心は我我が全く自己のはからひを止めたときに直ちに感ずるもので、我我から言えばたのむであるが、その実、大きなる力が外から加はることを感ずるのであるから、弥陀をたのむ心はすなはち南無阿弥陀仏である。信心といはるるものもこの南無阿弥陀仏の心に外ならぬものである。しかれども今仮に、これを区別して説明するときは、この信心の起るときに、南無阿弥陀仏の名號がその人の心の主となるのである。それも他方からして南無阿弥陀仏といふものが与へられるのではなく、信心を得るといふことそれ自身が南無阿弥陀仏が我が物となると言はれるのである。「助けてやるぞ」といふ声を聞きながら、それが得心のゆかぬのは「助けて貰はねばならぬ自分である」ことがわからぬからである。自力のはからひでは如何とも出来ぬ自分の心の相を内観することが十分であれば名號を聞くことによつて宗教の感情が直ぐに起きて来べき筈である。この点に於て庄松の内観は実に驚くべきほどに深刻のものがあつたと言はなければならぬ。  無善造悪  庄松の内観が深刻であつたといふことを証明すべき逸話はその他にも多く伝へられて居る。あるとき、大阪の蓮光寺住職が使僧として高松御坊へ下りたるとき、予て庄松が稀有の信者であることを聞き及むで居つたので、庄松と示談がしたいと、その由を講中達から庄松へ伝へたるに、庄松の曰く「己れは阿弥陀様さえ持てあましたのぢや。御使僧さん等の手に合ふか」と言つて到頭遇はなかつた。この言葉の意味は談義説法を職とする人人を誡めたといふところもあらうが、しかし無善造悪致し方のないものであるとふ内観の深刻を示したものであらう。  庄松京参りをして興正寺法主の御前へ出るに粗末なる袋をさげながら出でむとするので、役人達がこれを見咎めて、「その袋はここへ置いて御前へ出られよ」と制したれば、庄松「この袋は置けとあれば置きもせうが、胸の中のくそ袋を提げながら御前へ出るが恐れ多い」と言つた。法主これを聞き庄松の心に感ぜられて正真の法名を庄松に下されたといふ。  津田町神野に田中某といふ人、庄松に向つて「隣村の鐵造は罪を犯して牢屋へ行き、終に牢死をしたのぢやが、今は何虚へ行つたであらふ。あんな悪党でも御浄土へ参られやうか」といふ。庄松これに答えて「参れるとも、参れるとも、己れさへ参れる」と言つたといふ。多くの人人の心の中にある自是他非の考で他を責むることが庄松には全く無かつたのであらう。  ある同行が、庄松と共に或寺へ参詣して説教の間に、「庄松さん、何ぞありがたいことを聞かせてお呉れ」と言ひしに、庄松は「それはあの方に聞け」と言つて本尊を指した。同行は「いやお前さんの領解を」といへば庄松「己らはそんなことは知らぬ。今のあるだけは今夜食ひたいと思ふておぢやをたいてあるが、猫が食はにやよいが、説教が早ふすめばよいがと思ふて居るだけぢや」と言つた。それを聞いた一同は大に自分等の傲慢なる態度を慚ぢたといふ。  かやうに、庄松は自分を顧みて無善造悪致し方のないものとよく知つて居つた。しかも無善造悪のものを助けられるのが阿弥陀仏の本願であると言つて平気で居るやうなことをせず、如来の本願に対して感謝するに従つて自分の無善造悪を慚愧することが強かつた。或人が庄松に尋ねて「喜ばぬでも御浄土に参られるだらうか」と問ひしに対して庄松が答に「参られる、参られる」と。それから暫くして、「喜ばぬのに御浄土へ参られたら御阿弥陀様に愧しからふじや」。  後生の覚悟  庄松が五六人の同行につれられて始めて京都の本山(興正寺)へ参詣したとき、他の同行と共にお頭剃を受けた。そのとき法主が次から次へと移り、庄松の頭剃をすましてその次へ移らむとせられたとき、庄松はその法衣の袖を引き留めて「あにき覚悟はよいか」と言つた。いよいよ頭剃が済むで法主から「今自分の法衣の袖を引張つた同行を此処へ呼べ」と取次役へ命ぜられた。その役人が多くの同行の中へ出て「今大善知識の法衣の袖を引張つた同行は何処に居るか。御前へ出られよとの仰せぢや」と言つた。それを聞いても庄松は平気な顔をして居たが、連れて参つた同行等はびつくりして「まことに無禮千萬、すまぬことをした。しかし今さら致方がない、我等より御許を願ふより外に道はない」と話し合ふて、取次役に対し「誠に恐れ入りますが、此者は至つて馬鹿でありまして計らず御無禮を致しました。一文二文の銭の数をも知らぬものであります。どうぞ御慈悲を以て御許を願ひます」と謝罪した。取次役のものは其由法主へ伝へた。さうすると、法主は「いやどうでもよい、一度此処へ連れて来い」と命ぜられた。そこで巳むことを得ず、庄松を法主の前に連れて出た。元より禮儀作法は辨へず、法主の前にあぐらをかいて座り込むだ。さうすると、法主は「今法衣の袖を引張つたのはそちであつたか」と尋ねられた。庄松は「へえ、己れであつた」と無作法に答えた。法主は更に「何と思ふ心得から引張つたのであるか」と問はれた。庄松はそれに対して「なんぼ赤い法衣を著て居ても、赤い法衣ではこのたび地獄はのがれることはならぬで、後生の覚悟はよいかと思ふて言ふたのぢや」と率直に答えた。法主は更に「さあその心得が聞きたいためにそちを呼むだのぢや。敬ふて呉れるものは澤山あるが、後生の意見をして呉れるものはそち一人ぢや。よく意見をして呉れた。しかしそちは信を頂いたかや」と言はれた。さうすると庄松は「へえ頂きました」と答へた。そこで法主は「その得られた相を一言申して見よ」と尋ねられた。庄松は「何ともない」と答えた。法主は「それで後生の覚悟はよいかや」と言はれた。そこで庄松は言つた。「それは阿弥陀様に聞いたら早くわかる。己れの仕事ぢやなし、己れに聞いたとてわかるものか」とやつた。法主はこの庄松の言葉を聞いて、大に満足せられ「弥陀をたのむといふこともそれより外はない、兎ても多くは我機をたのみてならぬ。そちはあまり正直な男ぢやで、今日は兄弟の杯をするぞ」と、召使のものを呼びて、御酒を取り寄せられ、法主のお酌にて馳走せられたといふことである。尊長の方に対して禮儀を辨へず、無作法の態度をなすことは固より許すべきではないが、しかしながら、庄松が尊長をも憚らず、法の正しき意味を述べ、しかもそれが法を説くものの頂門に一針を刺すやうなことを敢てしながら、それによりて罪を得るに至らなかつたことは、それがその心の奥から出たる宗教の感情に本づく真実で、私利私欲を主とする思慮分別から出たのでなかつたからであらう。  批判と教訓  庄松は天性魯鈍で、京都参りをしたときでも「おれの行く所は何処ぢや」と呼んで居つた。さうするとそれを見つけたものが庄松と知りて案内をするのが常であつたといふ。庄松が京参りをするときその地の同行は、御禮金を庄松に託して差上げさせたが、庄松は銭の数を知らざる愚者ゆへ、御金を一とつづつ出して、これも一貫、これも一貫と、何ほどあつても一貫とより言はなむだとある。かやうな魯鈍のものは妙好人傅の中にも多くは無かつたが、その言語や行動にあらはれたことは真実の宗教の心であつたから、それが他人の言語や行動を批判すると見らるるのであつた。庄松あるとき、一人の同行に向つて「安心はいかが」と尋ねたるに、その人の曰く「本願を疑なく信じて念仏を称へて喜むで居ります」と言つた。庄松それを聞いて「お前の安心をたとへて言えば、或る母親が息子を下の関へ奉公に遣はしたが、母親はその子の可愛さ一杯に心をこめて袷衣をこしらへ、それを送つてやつた。息子はその著物ばかりを取りて真実こめた母親の慈悲を受け取らなむだ。それと同じことぢや」と論したといふ。又川東村の勝光寺の坊守は法義に志の深い人であつたが、あるとき、美濃の仏照寺に自督の安心を述べて正して貰ふたが、「それで結構ぢや、参れる」とて賞められた。その後京都の得雄寺に対して同じ安心を述べたところが、「それではいかぬ、参れぬ」と言ふて貶しめられた。そこで坊守も大に当惑して庄松に相談した。さうすると庄松が言ふには「参れぬと言はれた得雄寺様も、御浄土を持つてはござらぬ。参れるとおほめなされた仏照寺様も御浄土は持つてござらぬ。そむな御浄土を持つてござらぬ人人の言はれるところに迷はずと、御浄土を持つてござる親様の仰せに順ふより外に手はありませぬ。」まことに庄松はよく宗教の心をあらはし得たので、その言ふところが自から他の人の考を批判することになつたのである。  庄松が坂出村の阿田氏に居つたとき、その家の主人が真宗の家ながら現世を願ふ心が離れず、あるとき其家に祈祷の棚がかざつてあつたのを見て庄松は「まおとこを見つけた」と言つた。これは棚飾を見て強ちに間男見つけたと言つて神棚を軽蔑したのではないが、現世を祈ることは浄土真宗に於て為すまじき掟とせられて居るから、かく諧謔的に言つたのであらう。阿田氏はかく庄松に言はれてから早早祈祷の棚かざりを取り除けたが、又取り除けたことが気にかかつて居つたので庄松は「暇をやつても内縁はまだ切れぬ」と言つた。一旦迷へるものはその心が容易にうせるものでないといふことを諷したやうに思はれるが、庄松の心は強ちさうではなかつたであらう。  高松に泉屋某といふ人が居つたが、どうも後生のことに不審の廉があり、庄松は如実の同行であるから、庄松に質さむと、わざわざ庄松を招待して座敷に案内し、庄松に挨拶して「遠路の所ようこそおいで下された」と言へば、庄松は「ようは来ぬぞ、来いといふたから来たのぢや。して用事は何か」と言えば、主人は「安心に不審があるので御招待した」といふ。庄松「それでは袈裟衣を掛けた坊さんの説教は不足なむか」と聞く。主人「いやいや左様なわけではないが、あなたは無我の同行さむと承はり、一口聞かして貰ふたらと存じて」といへば、庄松「食ひもののさし嫌ひするは病のからだぢや」といふ。そこで主人は「しかれば誰方の御説教にもかはり目はござりませぬか」といえば、庄松の曰く「何でも食ふのも病のからだぢや」。法を聞かむと願ふものは先づ己れを虚しくせねばならぬ。己を虚しくせず、謙下の心にあらずして法を聞くものは、一言一句を聴聞するとも、ただ得手に法を聞くのであるから、自分の迷ふたる心をますます迷はすのみである。心得たと思ふは心得ぬのである。庄松の言ふことはこのことを教訓したものと思はれるが、無論それはその心の宗教的に開けた人にさう思はれるのである。  松屋村に岩造といふ人が居つたが、その人の母親は御法義に心をかけ、庄松も折折その家に行きて泊りけるに、あるとき、その母親は朝早く起き、本尊の給仕をなさむとて、御花をかへたり、仏飯を供えたり、たびたび庄松の枕元を通りければ、庄松は寝床の中より頭を挙げて「己らにそんなにあげいでもよいぞ」と言つた。これも心に法義がなくてただ形式に流れることを諷したものと心ある人には見らるべきである。  京都一條の浄教寺脇谷覚行師が本山よりの使僧として鹽谷別院に赴かれたとき、一日午後の法席が済みて間もなく風呂の案内を受けてすぐに這入られたが、手拭が無かつたので「手拭を持つて来いよ」と呼ばれた。すると間の抜けたやうな男が来た。幸と思ふて「背をすこし流して呉れ」と頼まれた。その男は物をも言はず、ごしごしとこすりながら「うまいものばかり喰らふて、駕籠に乗つてあるき、此奴につくい奴ぢや。よう肥えとりくさる、鬼が食ふたら甘からうな」とひとり小言をいひながら背を流した。それを聞いて覚行師は驚かれたが、兎角土地の訛りがあることゆる、確なことがわかりかねるので、一度よく聞いて見ねばならぬと思ふて、浴衣を著て涼んで居られる所へ、今の男が前を通ほつた。そこでその男を呼び留めて「先程背を流しながら言つたことは一寸分りかねたが、何といふことぢや」と聞かれた。さうすると其男は「貴僧は法を痩かして我身を太らせて居るから言ふたのぢや。今日の説教などは一言もこの私には徹しなむだ」と言つた。覚行師はこの一言が胸へ五寸釘を打たれたやうな心地がしたと自分で書いて居られたが、後にその男が庄松であつたといふことがわかつて、庄松が京参りのときには自分の寺へ連れて帰つて法の上の相談をせられた。覚行師は庄松のことを賞めて常並の御方ではなかつた。聖教の心の分からぬことを聞くと、もう一遍聞かせと言ふたが、二遍聞かせたら分つたと直ぐ話して呉れた。此世の事に就ては此上なしの馬鹿であつたが、仏法となつたら兎ても及ぶべきものではなかつたと記載して居られる。  これと同じやうな話が今一つ伝へられて居る。それは三殿村の大庄屋の娘へ、代官の侍が巡回して来て泊つたときのことである。庄松はその時風呂たきの役に当つた。その代官が風呂に入つたとき、庄松は代官の背の垢を流しながら「盗喰をしてようも肥えたものぢや、こんな人が澤山あるから御殿様も貧乏なさるのぢや」と手を広げてポンと一とつ打つて「御恩忘れな」と言つた。流石の代官もびつくりして座敷へ帰り「あれは全体何物ぢや」と尋ねた。居合せた人人は「あれは念仏の行者でござります」と答えた。庄屋始め一同のものは定めて重い咎があるであらうと心配して居ると、代官は庄屋を座敷へ呼び寄せて、庄松の正直なる言葉を賞めたといふことである。  この二つの話は何れもそれぞれの職務に任ずるものがその責任を重んぜず、漫然としてその日を暮すことはよろしくないといふことを責める心をそのままに口に出したのである。庄松の心としては強ちに他人を罵言したのではなく、現在の事実に直面して、その所見を率直に表現したのであらう。聞くものの心によりては他の人のことを悪口を言つたといふことにもなるが、しかしながら、これは固より人を見下げてこれを誹謗したのではない。庄松の心にては、自分の態度もそれと同じことであると、自分のことをも反省したのであらう。  元来、宗教の心があらはるればその心が和らぎ、同行にあらく物を言はぬやうになる。従つて他人と争ふこともなく、所謂觸光柔軟の益が得られるものである。しかしながら、宗教の心が起りたればとて独覚の心を振りまはすべきではない。又独善の心に甘むじて他人を顧みないといふこともよろしくない。信心を獲て阿弥陀仏の本願に信順するものは自分に仏に成ることを願ふのみでなく、又他人をも同じやうに仏に成らしめるやうにせねばならぬ。それ故に、自分にあらはれたるものは固より他の人にあらはれたる宗教の表現をも精細に批判して、お互に相攻めて仏に成るべき道を進むやうにすべきである。庄松が他の人の言ふことや、為すところを見て、直言したことは、その直言を受けた方から見れば、或はその所見の批判であり、或は教訓となるものであつた。しかしながら、それは庄松が意識的に為したことでなく、その心の奥から湧き出でたる宗教の感情に本づける自然の表現であつたものであらう。  安心  庄松が同行数人と共に京都の本山へ参詣したときの帰りに、大阪より商船に乗りしが、播磨灘へかかると、思ひ掛もなく暴風雨が起り、船は木の葉の如くに浮きつ沈みつ、今は海の藻屑とならむとする様子であつた。多くの人人は日頃の信心も何処へやら、南無金毘羅大権現を仰ぎて風波の穏かならむことを祈り、命の惜しい連中は大噪ぎをしたが、庄松は船底にて鼾声高く寝込むでしまつた。人人はあまりの度胸に不審を懐き、庄松をゆすり起し、「同行起きぬか、九死一生の場合ぢや」と言えば庄松は眼をあけて「此処はまだ娑婆か」と言つた。庄松とても命は惜しいに定つて居るが、乗船を船頭に任し、後生を阿弥陀の本願にまかしたる庄松に取りては何も狼狽すべきことはなく、晏然として船中に寝むることが出来たのである。それに狼狽の極度に達したる人人は身の危険を感じて庄松をゆすり起したので「此処はまだ娑婆であるか」と言つた。一寸諧謔的の態度と見ゆるのであるが、これも阿弥陀仏の本願を信受したる庄松に取りては、かかる場合にも心を安んじて決してその心を乱すことのなかつたことを示すものである。又あるとき田中半九郎といふ人が耶蘇教が国内に入りたることを聞いて大に心配し、庄松に向つて「さてさて困つたことには耶蘇教が入り込みかけた」と言わたるに、庄松はそれを軽く受けて「耶蘇教が入り込んでも凡夫が仏になるより上のことは来ぬぞ」と言つて少しも驚かなかつたといふ。  此等の話はその一例に過ぎぬものであるが、真に宗教の感情が強くあらはれたるときには、人間世界にあらはるる事につきては一向驚くことなく、常にその心を安んじて生活をなすことが出来ることを示すものである。それは言ふまでもなく、思慮分別の智慧のはたらきを捨てたところにあらはるるところの宗教の感情は、自己を中心とする思考を離れて自由なるがためである。  読経  仏教にては仏前に経典を読誦することを勤行といふ。元来、仏法には浄土に往生するがための正しき行業を五種ほど挙げて読誦をその正行の一とし、観察(阿弥陀仏及びその国土を観察すること)禮拝(阿弥陀仏を禮拝すること)称名(阿弥陀仏の名を称ふること)讃嘆供養(阿弥陀仏を讃嘆し供養すること)の四行と併せて五種正行と言つて居るが、仏教の経典を読誦することの意味は、これに依りて仏の功徳を念じ、仏の慈悲を念ずるのである。しかも、その主要とするところは、至心に経典を読誦することによりて内観を助けるためである。  勝覚寺の住職は庄松を非常に愛撫して居られたが、役僧の一人がそれをうらやましく思ひ、庄松をこまらせてやらふと考え、三部経の中の一巻を取り出して庄松に向ひ「お前はありがたい同行さむぢやが、この大無量壽経のここの御文を読むで見よ」と言えば、庄松は「庄松を助くるぞよ、庄松を助くるぞよ」と書いてあると言つたと。「大無量壽「継」の文句を一字一字細かに読み下しても、宗教の上から見てその真実の精神とすべきは自分一人を助けることが書いてあるといふに帰著するのである。この外にいくら字句の講澤をしてもそれは宗教の心の上から言えば何の役にも立たぬことである。庄松が番州赤穂の榊村の嘉七といふ染物屋に滞在して居つたときに、丹波の三田源七といふものが同宿した。この三田源七といふは十三歳の時に父に別れたのが動機となりて後生のことが心配になり、十九歳の時に我家を出て各地の有名なる信者や名師を尋ねて法を求めたのであるが、その染物屋にて、庄松が勤行をつとめ、「正信偈」「和讃」の三首引はどうやら勤め上げたが、さて「御文章」の一段になると「信心をもつて本とせられ候」「仏の方より往生は治定せしめたまふ」「信心を取るといふも只此六字の心なり」「此上の称名は仏恩報謝と心得べきものなり」と、飛び飛びにあげてやうやく済んだ。染物屋の婆さむが火を消しながら庄松に向て「それだからこの若い同行(源七)に頼むだものをお前が勤めて勿体ないぢやないか」と不平を言つた。さうすると、庄松は「お前達は勤行をして如来様に聞かせてあげるつもりだから勿体ないが、己れは如来様から下さるものを頂くのだから、より取りをしてうまい処を頂くのぢや」と言つた。経によりて仏の功徳を讃歌するといふことも要するに、仏に助けらるべき自身を内観するのであるから、かやうにありてこそ、それはまことに意義ある読経であつたと称すべきであらう。  地獄極樂  仏教にて地獄といふのは印度語のナラカ(那落迦)ニラヤ(泥梨)を訳したるもので、衆生が自から造れる悪業によりて趣くべき地下の牢獄といふ意味である。地獄にも種種あるが、その中で普通によく知られるものは無間地獄で、この地獄は地下二萬由旬(由旬は印度の里数単位)の処にありて、苦を受けることがひまが無いといふことより無間地獄と名づけられるのである。殺父、殺母、殺阿羅漢、出仏身血、破和合僧の五逆罪の一を犯すもの、因果を無視し、寺塔を破壊し、聖衆を誹謗し、空しく信施を食するものがこの地獄に落ちる。さうすると獄卒が罪人を捉えて皮を剥ぎ、その剥いだ皮にて罪人の身を纏ひ、火車輪にかけ、又大火中に罪人を入れ其身を焼炙し、又夜又ありて大鐵戟にて罪人の身を貫き、或は口鼻服背を貫き、空に抛ち或は爼上に置くなど、あらゆる酸鼻の状を窮めて居る。無間地獄の外に、大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒縄・等活の七熱地獄がある。その外に、小地獄が多数に存して、衆生が娑婆世界にて自から造りたる悪業に相応してそれぞれの地獄に堕ちて深甚の苦報を受くるとせられるのである。  極楽といふは印度語のスハーマーチー(須呵摩提)スカーヴアーチ(蘇阿縛帝)を訳したもので、又安楽、安養などとも訳し、極楽世界、極楽浄土、極楽国土ともいふ。この娑婆世界より西方。十萬憶仏土を過ぎたる処にありて、阿弥陀仏の前身たる法蔵菩薩の理想が実現せられる国土である。ここには現に阿弥陀仏が在しまして常に説法せられ、諸事円満具足し、樂ありて苦のなき所とせられて居る。  かやうに仏教の所説としての地獄・極楽のことは、その儘に寺院の説教にて説き示されたために、これを聞くものの多くはその宗教上の意味を理解することなくして、知識あるものも、ただ因果応報のことはりを示すものであるとなし、実際は空想であるが、善人は極端に赴むき、悪人は地獄に落つるといふやうに、勧善懲悪の道具に使ふものであると解釈するものもあつた。これに反して無学文盲にして仏語には一も二もなく信順する輩は、真に地獄極楽がこの世の外に現に存するものとして、ひたすら地獄に堕つることを避け、極楽に往生することを念願するのである。それにしても地獄や極楽が果して実在するものであるかといふことにつきては、多くの人人が疑惑を懐き、果して有るか、又は無きものか、これを明かにしやうとすることは多くの人人の要求であつた。庄松が大川郡日下の駒造といふものの家に招かれて法座を開いたとき、其中の一人が「地獄や極楽は有りといへども目に見えぬゆゑ疑が晴れぬ」と言つた。そのとき庄松は「この向ふの山の南に阿波といふ国があるぞ」と言つた。これは無論、眼に見えぬからとて実際に存在せぬとは言はれぬといふことを譬喩的に示したのであらう。あるとき十川村の光清寺の本堂にて小供を守り遊ばして居て、庄松自から両手をつき両足を空にして逆になり戯れて居るを講中達が見つけ、「あれあれ、同行が軽業をやらかす、奇妙、奇妙」と笑ひ噺したので、庄松の曰く、「お前達の落ちて行く真似ぢや」。又庄松が仲多度郡吉野村の岩崎といふ家に滞在して居つたとき、水車の樋の水で下帯を洗ふて居りしに手をとりはづして下帯が流れ落ちた。そのとき庄松は両手をあげて「落ちた、落ちた、地獄へ落ちるもこの通ほりか」と言つた。思ふに庄松の心には宗教的の意味にていふところの地獄の相が存在したのである。さうして、その地獄に堕つるといふことが下帯の落ちたのを見たときに更に新しくその考の上に浮むだのである。  あるとき、夜半の頃に、庄松は或寺の門をたたき「開けて呉れ、あけてくれ」と言つた。院主は葬式を頼みに来たかと思ひ、門をあけて見れば常に出入する庄松であつた。院主はあやしみて「この夜中に何の急用がありて来たか」と言つた。さうすると庄松は小声にて「誰も居らぬか」と問ふ。院主は更に「この夜中に誰も居らぬが、しかしお前は何用ありて来たか」と尋ねたるに、庄松は「本当に誰も居らぬか」と念を押すので、院主はすこし腹を立て、「居らぬといふたら居らぬ」と言ひ捨てて奥へ入らむとした。庄松は「一寸お待ち、今晩不審でならぬことがあつて来た。外ではない、地獄極楽は本当にあるか、聞かせて呉れ」と真面目に言つた。院主は「馬鹿なことをいふな。仏説に虚があるか。お前のやうな同行が何をいふのぢや」。庄松は向ほ繰返して「それは本当であるか。確かな所を聞かせて呉れ、どうも疑が晴れぬ」といふ。そこで院主は仏の仰せに嘘はないといふことをむしろ威厭的に答弁した。すると庄松の曰く「己らの疑の起きたのは、此世で一番可愛いは妻子ぢや。仏の仰に疑がないならば妻や子を一番に手引せにやならぬに、寺へ来て見ると仏法は無い。人にすすめるだけで、無いものを有るやうに教えて居るのではないかと思はれてならぬ。それでも本当にあるものであらうか」と。院主は不意に自分の不法義を咎められたことに気がつき、「庄松、堪忍して呉れ、よう意見して呉れた、これから心を改めて出離の道を求めるぞ」と懺悔したと伝へられて居る。  言ふまでもなく、宗教は自分一人の心の上の問題として見るべきものである。それ故に仏教にて地獄といふものも、極楽といふものも、すべて皆、自分の心の上にあらはれて居るのである。たとひ地獄とか極楽とかといふやうな世界が、この世界の外に別に独立して存在するとしてもそれは宗教上の意味を有するものではない。地獄といふも極楽といふも、共に自分の心の内容として現に存在することが自覚せられるときに、その宗教上の意味は頗ぶる重要のものである。しかるに、これを地理学上の独立の存在であるかのやうに考えてその有無を詮議することはただこれ一種の戯論に属するものである。  今や我我は現に道徳の世界に住して、身を修め、心を治めて、以て家を斉へ人を治めることをつとめて居るのである。しかるにこの人間の道徳の世界にありて、深く自己を省察するときは、戦我が常に精神生活の指導者として尊重するところの思慮分別は、すべて自己を保護し、又自己の利益を図るものであるから、いかなる場合にも功利的の思考を離れることが出来ず、朝から晩まで一瞬時も休むことなく、起り来るところのものは煩悩と言はるるもので、要するに、我我の現実の相は心に物を思はせ、思はせた心に使はれて自から苦しむところの生活であると言はねばならぬ。宗教の心があらはれたるときには、すべてこれを深き罪とし、又重き咎とせねばならぬのである。それ故に、かやうな罪悪深重の結果はと言へば、仏教にて説かれるやうな地獄に堕ちて相当の苦報を受けることが必然であると考えられるのである。さうしてそれは全く自分の心の内容に外ならぬもので、それが地獄と名づけられ、その地獄に堕つることが、一定我我凡夫の将来であると思考せらるるによりて地獄はさういふ意味に於て必ず我我の心の上に存在するものである。さうして、かやうに地獄の意識は我我をして真の宗教生活に入らしめる因由をなすものである。有るか無きかを疑ふべきでなく、有ることを信ずることによりて我我自身の宗教生活がますます真実になることを喜ばねばならぬのである。親鸞聖人が言はれたやうに「何れの行も及びがたき身なればとても地獄は一定すみか」であることが明瞭に意識せられて見れば誰人にも自分の造悪無善のすがたを如何ともすることの出来ぬことが知られることであらう。仏教にては持戒と禅定と智慧とを主要として、これを三学として仏の悟りを開くための修行の要法と説くのである。我我は真実の道に進むがために必ず如法に此の如き修行の道に進むべきことは勿論であるが、しかし如実に修行することが出来ぬ自分の現実の相を知るものとしては、どうしても希望を未来にかけねばならぬ。それは要するに現在の理想を現実化することを未来に期するので、親鸞聖人が説かるるところの真実報土に往生することが、それに相当するものである。さういふ心の内容が極楽といはれるので、現実の自分の相を醜悪として更に向上の道に進まうとする宗教人にありては極樂は必ず有るべき筈である。それが有るか無いかといふやうな無益の評論をなすべきではない。地獄につきても同様である。庄松は固よりかやうな理屈を立てて地獄極楽の存在を信じたのでなく、その宗教的の内観の深刻なりしに応じて、それがその心の内容となつたのである。庄松が香川郡笠居村に赴きて病気となつたので、庄松の眷属や同行等が、庄松を駕籠に乗せて十里ばかりの道を庄松の在所土居村まで送りつけて皆皆庄松に向ひて「最早我が内へ戻つた。安心して御慈悲を喜びなさい」と言へば、庄松は「どこに居ても寝て居る所が極楽の次の間ぢや」と言つた。これによりても庄松の極楽がその意識の内容であつたことはよく窺はれるのである。又筒井某といふ同行が庄松に向つて「私は往生の一段にどうも安心が出来ませぬ。どうしたらよからうか」と問ふたら、庄松は「それは極楽参りをやめにしたらよい」と教えた。これは筒井某が空想的に造り上げた極楽へ参らうとして、苦しみ悩むことを憐みて、さういふ極楽へ参ることを止めたらよいと教えたのであらう。地獄も亦庄松にありては極楽と同じくその意識の内容として実在を確認せられたものであらう。丸亀の別院にて実物の土用干のとき「往生要集」の繪を諸人に拝ませしが、庄松も多くの人人と共に別院に行き、他の人人が「往生要集」の輪の処に立止まつて拝み居るに、庄松は振り向きもせず、その前を通ほり過ぎるので、他の人人は庄松を呼び留め「なぜ拝まぬか」といへば、庄松「お前等はよく見て置け。己らはそんな処に用がないで見ぬ。正覚成就の上はもう縁が切れてある」と言つたといふ。「往生要集」の繪といふは、恵心僧都の「往生要集」に説かれたる地獄の相を繪にしたもので、地獄に落ちた罪人が獄卒のために苦しめられることを書いたので、その惨刻の有様は見るものをして戦慄せしむるのであるが、庄松は仏の正覚によりて自分が往生することを信ずるから地獄に堕ちないやうに用意することを必要とせぬと言ふのである。これはその意味を言葉通ほりに解釈したのであるが、もつと深く考えて見れば、地獄に堕ちる自分が阿弥陀仏の本願によりて極楽に往生すべき身となつたから、地獄の繪を見ることの必要がないといふところに、庄松が地獄をば自分の心の相として考へて居つたことが明かである。それ故に、かやうな主観的な状態を客観化した地獄の繪を見ることは無用であるとしたのであらう。  敬神崇仏  庄松が浄土真宗の同行として仏を崇めたことは言ふまでもない。庄松は平生有縁と無縁とを問はず諸方を訪問して法廷を結ぶことを常としたが、其家に到れば先づ本尊を拝禮して、花が枯れたり、又は御飯が供へてないのを見れば「御本尊様が痩せてござる」と悲しみ、掃除が行き届き、崇敬の香華の絶えぬのを見ては「ここの御本尊様はよく肥えて居らつしやる」と喜びたといふ。庄松が常に仏に関して崇敬の態度をあらはしたことは己に上段にも説いた通ほりであるが、その崇敬が偶像の仏に対してでなかつたことは次の一例によりて察せられる。  庄松があるとき木田郡田中村を通行したときに、或る僧侶と道連になつた。そのとき庄松は犬の前を御免といつて通つたので、道連れの僧侶は「お前何をいふ。犬に禮をするものがあるか」と嘲笑した。庄松は「己らは犬に禮を言やせぬ」といふ。「今言ふたではないか、それぢやでお前を人が馬鹿といふのぢや」と道連れの僧侶は庄松をたしなめた。さうすると、庄松は「お前さんは何を聞いて居る、僧分に似合はぬことを言ふではない、己らが犬に言つたと見たかや。犬に言つたのぢやない。犬も十方衆生の中、それぢやで、弥陀の誓がかかりてあると思ふたから、思はず御誓に御免を乞ふたのぢや」と言つた。庄松の心が真に宗教的であつたことがこの一事にても知られるのである。  庄松は当時この地方の太神宮の御秡の古きものは河へ流し、或は杏の木にくくりつけるのが習となつて居るのを見て「親様が雨露にうたれるのは勿体ないで、太神宮御難儀堂を建立しやう」と提議した。ところが庄屋は今までに例のないことをすることはならぬとてこれをさし止めた。さうすると庄松は御秡を澤山集めて風呂敷につつみ庄屋の所へ持つて行き「親様が雨露にうたれるは勿体ないから此家に預つて呉れ」と言つた。庄屋もこれには大に困却して、それならば建立せよといふことになり、遂に太神宮様御難儀堂が建立せられた。かやうに庄松の敬神崇仏は神仏を象徴的に表現して親様として、仰いだのである。徒らに神仏に対して自己の欲望が成就せられるやうにと功利的歎願的に神仏を尊敬したのとは全くその類を異にしたのである。  臨終  庄松年七十三にして、病に罹りて臨終間近くなり、春族のものや同行達が見舞に来たれば、その人に「五劫思惟の御文章を拝読してきかして呉れ」と、度度拝読させ、庄松はそれを聴聞して「ああ丈夫ぢや丈夫ぢや」と喜むだ。これに関して挙ぐべきことは、庄松の親しき同行某が永らく病気にて遂に臨終近くなつたとき、その息子が親の後生を案じ、萬一間違がありてはと、寺の院主にお論しを頼みければ、早速行くといふ返事で息子喜むで家に帰れば、庄松来たりしが病人の傍へも行かず、中の間の炬燵に足を入れて寝て居つた。やがて寺の院主が来りて、病人の枕辺に、御領解を聞けば「私は先が暗らい」といふ。院主がかほどまでに喜むで居るものが、先が暗らいとは如何かと不審に思つて居る所へ、庄松病人の枕元に来たり、両手を打ちてありがたいありがたいとおどる故他の人人は何がありがたいといえば、病人兩眼を開き、庄松をみつめ「庄松さんか、我は先がくらけれど、若不生者の御誓があるでありがたい」といふ。庄松それを聞いてさうぢやと喜むだといふ。庄松自身の臨終もこれと同じやうな心持であつたのであらう。親しき同行が庄松の臨終間近くなつて、見舞に行き、庄松に向つて「喜び居るか」といえば、庄松は「喜びどころか苦しくて居られぬ」と言つた。信心を獲たといえば直ぐに、死ぬるといふことなどは苦しくないやうになるであらうと考へるのが普通である。それは宗教の意味がよくわからず、宗教の心があらはれたといへば我我の平生の心が全く一変してすべての苦悩から離れることが出来ると思ふ誤である。或人が庄松に向ひ「真実領解が出来たら御恩御恩の日暮が出来ますか」と尋ねたとき、庄松「己らはそんなむつかしいことは知らぬ。お前はお前の持つたまま暮せ。己らは己らだけで暮す。そんなこと聞いて何にする」と言つた。他力の信心を獲て、阿弥陀仏の本願に信順するものは、暑いにつけ、寒いにつけ、善きにつけ悪しきにつけ、かやうなあさましきものが阿弥陀仏の本願によりてたすけられるといふことを喜ぶばかりである。その外に、自分として何もはからふべきことはない。阿弥陀仏の光明の中に生活し、阿弥陀仏にたすけられて往生すると信ずる以上は、後生は喜ぶべきで、すこしも心配するに及ばぬ。石田村の市蔵といふ親しい同行が見舞に来て「お前が死むだら墓を立ててやらう」といひしに、庄松は「石の下には居らぬぞ」と言つたといふ。すべての人人は宗教を以て人間の苦悩を免かれるための道具と心得、若し必要があればこれを求めやうとし、さしあたり必要がなければそれに心を向けぬのが常である。それ故に、宗教を求めながらもそれは全くその生活からは離れたものである。元来宗教といはるるものは実際的に見れば人人の生活を指導すべきもので、煩悩具足・罪悪深重の我我の精神生活は宗教の心によりて始終指導せられて始めて真実の道を進むことが出来るのである。しかるに、このことを十分に理解せぬ人人は、我我の生活は常に智慧のはたらきによりて指導せらるべきであるとのみ考へて、事実我我の精神生活が智慧によりては十分に指導せられず、感情の正しきあらはれによりて始めてよくその目的が達せられるといふことを知らず、従つて学問をのみ重く観て、宗教の心のはたらきを軽蔑するの傾向があることは歎ずべきことである。今この庄松の如きは、無学文盲の田夫でありながら、機縁が熟して、真実の宗教の心があらはれて、平生は固より臨終に至るまで、その心によく導かれて居つたのである。さうしてその言ふところや行ふところが仏教に於ける教訓として説かれたもののみでなく、世間の道徳の教にも背かぬものであつた。真に是れ宗教的の生活で、まことに貴むべきことであると言はねばならぬことである。 @  新選妙好人伝第十二編 盤珪禅師  新選妙好人伝序文  富士川游 撰  今から凡そ百十九年ほど前の文政元年戊寅の歳、本願寺の碩徳実成院仰警師二十五回年忌にあたりて、仰誓師がさきに撰び置かれたる「妙好人伝」初編がその法嗣芳淑房履善師の校正を経て、門人等有志のものの手によりて刊行せられた。ここに妙好人とは念仏者を指して言ふので、「観無量壽経」に「若念仏者、当知、此人是人中芬陀利華、観世音菩薩、勢至菩薩、為其勝友、当坐道場生諸仏家」とあるに本づいたのである。芬陀利華は梵語ブンタリーカの音訳にて支那の言葉にて言へば白蓮華である。其色雪の如く清浄潔白にして泥の中に生じて泥に穢がされず、微妙殊勝のものであるから妙好華とも名づけられる。善導大師の「散善義」に、芬陀利華といふは人中の好華と名づけ、希有華と名づけ、又人中の上上華と名づけ、又人中の妙好華と名づくるといふことが記してあるところから、念仏の行者を指して妙好人といふのである。親鸞聖人の「正信念仏偈」の中に「一切善悪凡夫人、聞信如来弘誓願、仏言広大勝解者、是人名芬陀利華」とあるはすなはちこれである。まことに、一切善悪の凡夫にして若し一念、阿弥陀仏の本願を聞信したならば、それは広大勝解のものである。愚闇にして自己の相の醜悪なることを知らず、又無智にして人間の虚仮なることを知らざる凡夫と雖も、如来の本願に照らされて、よく自己の実相を知り、又人間の虚仮が明かに信ぜられるときは、如来の光明の中に出でて、その身は依然として醜悪であり、無智であり、又人間は虚仮でありながら、闇黒は変じて光明となり、泥の中より出でて泥に染まざる白蓮華の如く妙好のものになることが出来る。これを妙好人と貴ぶことは当然である。  出雲安来徳応寺の警鎧師は「妙好人伝」初編に序を書きて「凡そ世の中にあらゆる人の静ならざることは春駒秋猿のごとく、歴対境して移り易く、一方にうつれば一方を忘れがちなるは世の常のならひぞかし、されば本願を信じ、念仏を行ぜん人は常に此文をよみて、殊にすぐれたる人の跡をあまんじて、このてかしはのふたばもなく、とにかくに、仏恩の方に心を移し、報酬のつとめを忘れざらましかば、賢を見ては齊しからむことをなどいひけんためしともいふべし」と言つて居られる。さうして後に   いにしへのかしこかりつる跡とひて   仏の道にすすめとぞおもふ 一首の和歌が附記してある。  「妙好人伝」初編に收められたる妙好人は和州清九郎、芸州喜兵衛、石州石橋壽閑等を始めて都合十七人で、その略伝が載せられて居る。「妙好人伝」二篇は美濃專精寺の僧純師が撰述せられたもので、天保十三年以後、順次刊行せられて第五編までに及び、更に安政六年に象王師撰述の「続妙好人伝」が刊行せられた。明治年間になりても妙好人の伝記は幾つとなく刊行せられた。何れも悪逆兇暴のものが阿弥陀仏の本願を聞信して、それに信托せるによりて穢質を無碍光中に投じ、妙果を芥爾心頭に結びたるものの記録であるから、これを熟読翫味《がんみ》するときはその妙好の妙好たる所以を明にすることが出来るのである。  しかも、その叙述の体裁に於て、十分なりといふことが出来ぬのは、妙好人の伝記の多くのものが、それが実に白道を踐み、みづから実號を行じて景福を享け、その化が家族郷党に及びたることを挙げたるに止まり、十分にくわしくその宗教の心の状態を明かにすることの出来ぬことである。私が今ここに公にしやうとするものは、その道の人からは妙好人と言はれるかどうかは知らず、その日常生活に於て、十分に宗教の心をあらはして居るものと認められる人々を撰び、その宗教の心の状態をなるべく精細に追究することが出来るものを挙げて、これを「新選妙好人伝」と題したのである。さうして、それ故にこの妙好人伝の中には、仏教の何れの宗派に属するに拘らず、又所謂念仏行者若しくは所謂難有屋連中でなく、仏教の僧侶は固より儒者の中にても、その心のはたらきが真実に宗教の心をあらはしたものであると認むべき人々の伝記を略述しやうと思ふ。これまでの妙好人伝といへば主に在俗の弥陀教信者が念仏の生活によりて自他を利益したことが叙述せられて居るのに反して、この「新選妙好人伝」は宗教の心が個々の人にあらはれる状態を示すことを主としたのであるから、所謂法悦の状況を記載することはなるべくこれを避けて、むしろ真実に宗教の心をあらはしたるものと認められたる人の精神の状態を心理学的に分拆することをつとめたのである。  惟ふに、宗教の感情は、己を虚うして一切の事物に対するときは、誰人と雖もこれをあらはすことの出来るものである。如来の本願といはるる宗教上の言葉は、この宗教の感情を本としてあらはるるところの宗教的意識を指すのである。今私はむかしの人人の中に、此の如き宗教的感情のよくあらはれたるを見て、これを鏡として自己の相を照らすことをつとむるの資料として太だ有益であることを信じ、故らに新選の文字を冠して、この妙好人伝を世に公にしたのである。聊か蕪辞を陳ねて、この書の序文とする。  昭和十一年八月上浣  目次 禅宗 盤珪禅師 その生立 不生の仏心 自是他非 不生不滅 本心の歌 慶喜の心 不生禅 奇特の心底 悪僧庇護 自律巌粛 癩人憐愍 損益得喪 慧命尊重 平生の行状 示寂 余言 凡例 一。盤珪禅師は禅宗の高僧である。しかしながらその説法は一切の形式を離れて自身を内観すべきことを主とせられたので、その宗教的生活は親鸞聖人と同じやうに、自力の一切のはからひを否定したところにあらはるる不生の仏心に信順せられたのである。不生の仏心と阿弥陀仏の本願とその表現は相違すれども両者共に自己意識を中心とする思慮分別を否定するところに貴とき仏心を感知せられたのである。 二。この書は、高僧としての盤珪禅師を伝ふるためでなく、宗教人として自由・安静の生活をなされたる盤珪禅師の一生を世に紹介しやうとして、「仏智弘済禅師行業略紀」「盤珪仏智弘済禅師御示聞書」「盤珪禅師」、その他諸書に載せられたる盤珪禅師の伝記・佚事の中より特に禅師の面目を窺ふに足るべきものを鈔出したのである。 三。この書の原稿は私が自から筆録したのであるが、その整理及び校正は一に秋山不二女史の尽力を煩はした。又この書を公にすることを得たるは全く厚徳書院長宗氏の厚意に依るのである。特に記して謹謝の意を表する。                           昭和十三年十二月中浣                             富士川遊  盤珪禅師  富士川遊述  禅宗  禅宗は仏教の中の一派に属し、又の名を仏心宗といふ。その教は言説によらずして、直ちに仏心を伝ふることを主とするを以て他の宗派と区別せられて居る。他の宗派にありてはたとへば浄土宗にありては「大無量壽経」、「観無量壽経」「阿弥陀経」の三経を以て所依の経典とするのであるが、其他何れの宗派にも、それぞれ依りて以て立つところの経典がある。しかるに禅宗にはさういふ経典を依用しない。それは釈尊が四十九年の間に説かれたことを記載せる経典も要するに月を指すところの指に過ぎないもので、真実の月は固より言説の外にあり、言説文字を以て法義を伝ふることは出来ぬとするが故である。禅宗にありては、それ故に直ちに仏祖の心を心に伝へて自から悟るべしとして遂に不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏といふことを標榜して、直裁に自己の心性を徹見することをつとむるのが其宗の主旨とするところである。それ故に禅宗は自力の教であると言はれ、浄土真宗の如き他力の教と言はれるものとは全然其趣む異にするものとせられて居るのである。  元来、禅とは梵語の禅那を略して言ふので、支那の言葉に翻訳すれば静慮又は定である。一に禅定ともいふが、それは梵語と支那語とを併せたものである。禅は静座して冥想をこらすところの方法として、戒と定と慧とを挙げて三学と称し、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧と併べて六度と名づけ、仏教にてはこれを修道の重要なるものとしてあるのである。しかるに禅宗の開祖たる菩提達磨が、西暦紀元後六世紀に支那に来た当時、支那の仏教は仏像を礼拝することと、経論を研究することとに没頭して、実地にその心を修めることが閑却せられて居つたのを見て、菩提達磨は実際の修行の方法としての坐禅を専らとし、徒らに文字の末に拘泥せずして、その中に含めるところの真実を体驗すべきことを唱道したのである。  かやうにして、支那に起りたる禅宗の教が鎌倉時代に我邦に伝はつて以来、漸次に其法は我が国民の間に行はれ、今日に至りては臨済宗と曹洞宗と黄檗宗の三宗が相併びて禅宗として世に立つに至つた。さうして、その宗風につきては、一は古則公案を授けてこれを目標として工夫せしめ、人人の普通の考へ方を根底から覆へして以て小智を一掃することをつとむるものと、一は只管打坐をすすめて黙照を専とし、智慧よりも禅定を重く見るものとの二種に大別することが出来るのである。しかしながら、それは単にその修行の方法手段の上の差異のみで、外に向つて成仏を求めることをせず、内に向つて直に自己の心性を見て是心是仏を悟ることに於ては各派共に皆同一である。かやうにして、仏教の他の宗派にありては信仰の対象として仏を尊崇し、それによりて敬虔の心をあらはすを主とするに反して、禅宗と奉ずるものにありては、仏を呵し、祖を罵り、時には寸鐵他の皮肉を刺し、或は又、時には飄逸として人生を一笑に附し、動もすれば常軌を脱せる奇言を放ち、或は洒落なる行為を敢てして以て対手を翻弄するかの如き感を懐かしめるものが少なくない。  しかしながら、禅宗といへども同じく仏教に属する以上、さうして宗教のはたらきをあらはすことは、それが仏を信ずる心を離れて成就すべき筈はない。曹洞宗の開祖たる道元禅師はその著「辨道話」の中に「おほよそ諸仏の境界は不可思議なり、心識の及ぶところにあらず、いはんや不信劣智の知ることを得んや、ただ正信の大機のみしることをうるなり、不信の人は教ふとも得べきことなし」と言つて、禅の修行にありても信仰の大切なることを示して居られる。世間の多くの人の中には、此の如き自力の教と称すべき禅宗は、これを浄土宗や浄土真宗の如く、仏の慈悲を信ずることを主とする所謂他力の教とは全く相反するものの如くに考へて居るものもある。しかしながら実際、宗教としての価値につきてはさういふ差別のある筈は無く、禅宗を奉ずる高僧の中にも、その心が十分に宗教的にあらはれたる場合にありては、仏を信ずるの心も強く、ありがたいといふ情も起り、従つて敬虔の態度がよくあらはれて居るのである。現に盤珪禅師の如きは、その一例として挙げらるべき人である。       盤珪禅師  盤珪禅師は元和八年三月八日播州網干町の家に生まれた。父名は三好竹庵、儒にして医を業とした。濱田の菅氏の家が絶えたので里正のすすめで其家を嗣いだ。盤珪禅師は初の名を母遽といふ。五男四女の中の三男であつた。幼少の時より死といふことを嫌つたといふことであるが、十一歳のとき、父の死に遭ひて、一層死に対する感想を深かめたといふ。十一、二歳の頃、郷先生につきて大学の素読を修めた、「大学の道は明徳を明かにするにあり」といふことを解するに、説かるる所が字句の上のみで、その真諦を握り得られぬのに苦慮し、明徳といふことにつきて疑を起し、彼此の儒者に質問せしに、誰人も明答を与へず。一人の儒者がそんな六かしいことはよく禅僧が知つて居るものであるから、禅僧に行て問へといひたれば、盤珪禅師はどうかして、明徳の埒をあけて、年寄りたる母に知らせて死なせたいと考へ、いろいろ心配せしが、儒者では到底駄目であるとて、仏門に入ることとなり、寛永十五年、年十七にして赤穂随鴎寺の雲甫和尚につきて得度して、その名を永琢と改めたのである。  それから静坐・冥想及び捨身的の苦行をして遂に病気になるまでであつたが、二十六歳の時に至りて、一旦忽然として年来の疑惑が解けて大悟の境に入つた。盤珪禅師はかやうにして自分が悟つたところのものを本とし、不生の仏心を説きて自から称して正法とせるところのものを宣伝し、元禄五年、年七十二にして示寂せられたる時まで五十年近くの間、病弱の身を持ちながら自己の信ずるところによりて、道を護り、法を弘むることに献身的の努力をせられたのである。  その生立  盤珪禅師が自からその幼時のことを記されたるものに「父には幼少ではなれまして、母が養育でそだちましたが、あんぱく(腕白)ものにて、そこら内の惣惣の子供の大将をして、わるひことしてござつたと、母が話しました。されども二三歳の時よりも、死ぬるといふことが嫌ひでござつたと申されたが、それ故、泣けば人の死んだときのまねをして見するか、人の死んだことをいふて聞すれば泣きやみ、わるきことをもしやみましたと申す」と記載してある。毎年端午の節句には少年が川を挟みて石合戦をやつたのであるが、盤珪禅師はいつでもその餓鬼大将であつたといはれて居つた。手習が嫌ひの盤珪禅師は隣村の師匠の大覚寺から逃げて帰る途中、船で揖保川を渡らねばならぬが、かねて長兄から頼まれて居つた船頭は渡して呉れぬ。そこで何糞と河の中へ飛び込て河を渡つたほどの元気者であつた。しかしながら、親に対しては従順なる子で、母に事へては至孝であつた。「幼年の頃、爰元には儒がいかふはやりまして、身共も師匠どりをして、母が大学の素読をならはせ、大学を読まするとき、大学の道は明徳を朋らかにするにあるといふ所に至り、この明徳がすみませひで、疑はしくござつて、久しくこの明徳を疑ひまして」と盤珪禅師が自から述べて居られる如く、明徳の意味を明かにしたいと、巳に上段にも述べたやうに苦学修行せられたのであるが、それも「どうかなしてこの明徳の埒をあけて年寄りました母にも知らせまして死なせたいことかな」といふ孝心から出発せられたのであつた。  不生の仏心  かやうに、年寄りたる母の心を安めやうとの孝心から出発したる盤珪禅師の研究心は予ねての希望の仏門に入ることになり、刻苦修行の後、正保四年の春、盤珪禅師二十六歳のとき、播州野中の俺にありて只管打坐・昼夜不臥、ただ正法を明めやうと念じて居られたとき、一朝梅香を嗅いで豁然として不生の仏心を悟られたのである。それは「我我は生れつき不生の仏心といふものを持つて居る。それを明かに知れば一切の事が調ふのである。しかるに、我我には生れてから後、智慧といふものがあらはれ、それによりていろいろの分別をするがために種種の迷妄の心が生ずるのである」といふことを悟ることが出来、これを正法であると主張せられたのである。  かやうにして、盤珪禅師が悟られたことは不生の仏心が我我の本心であるといふのであつた。盤珪禅師はそれを説明して「仏心は不生にして霊明なものでござつて、不生で一切の事がととのひまするわひの、其不生でととのひまする不生の証拠は、皆の衆がこちらむひて、身どもがいふことを聞いてござるうちに、うしろにて鳥の声、雀の声、それぞれの声をきかふと思ふ念を生ぜずに居るに、鳥の声、雀の声が通じわかれて、聞きたがわずにきこゆるは不生で聞くといふものでござるわひの、その如くにみな一切の事が不生でととのひまする、これが不生の証拠でござるわひの、その不生にして霊明なる仏心に極まつたと決定して直きに不生の仏心のままで居る人は今日より未来、永劫の活如来でござるわひの、今日より仏心で居るゆへに、我宗を仏心宗といひまするわひの」と居つて居られる。これに拠りて見ると、盤珪禅師が不生の仏心と言はれるものは、自己といふ意識を通ほさないで我我の心にあらはるるところの意識に外ならぬのである。すべて人が一生懸命に何かに対して居るときに、後の方で鳥が鳴くのを聞くともなしに聞いて、それを鳥の声か雀の声か、聞きたがはず、鐘の声を太鼓の声と聞きたがはず、男の声を女の声ともまちがへず、皆それぞれの声を一とつも聞きたがはず、明かに通じわかれて聞きそこなふことが無い。盤珪禅師はこれをもつて、仏心は不生にして霊明のものであるといはれるのである。それ故に人人が決定してこの不生の仏心で居れば今日より未来永劫活如来といふものであると説かれるのである。さうして仏といふも生じたあとの名であるから、不生の人は諸仏のもので居るのである。不生が一切のもと、不生が一切のはじめである。盤珪禅師はかやうに不生の仏心を説明して「四十年来仏心は不生にして霊明なるものが仏心に極つたところの不生の証拠をもつて人に示して説くことは自分が始めて説き出したのである」と言つて、自からそれを正法であると唱道して居られるのである。  自是他非  ある僧、盤珪禅師に問ふて曰く「それがしは生れつきて平生短気にござりまして、師匠もひたものいけんを致されますれどもなをりませず、私も是はあしき事ぢやと存じましてなをさふと致しますれども、これが生れつきでござりましてなほりませぬが、是は何と致しましたらばなをりませうぞ」とて、禅師の示教にあいたひと願つた。すると、盤珪禅師は「そなたはおもしろひものを生れつかれたの、今もここに短気がござるか、あらば只今ここへお出しやれ、なをして進上わひの」と言はれた。僧の曰く「只今はござりませぬ、何とぞ致しました時にひよつと短気が出まする」。禅師曰く「しからば短気は生れつきではござらぬ、何とぞしたときの縁によりてひよつとそれが出かすわひの、何とぞしたときも我でかさぬに、どこに短気があるものぞ、そなたが身のひいき故に、向ふのものに取り合ふて、我が思はくを立たがつて、そなたが出かして置いて、それを生れつきといふは、難題を親にいひかくる大不孝の人といふものでござるわいの、人人皆親の生みつけてたもつたは仏心ひとつで、余のものは一とつも生みつけはしませぬわひの、しかるに一切迷ひは我身のひいき故に、我出かしてそれを生れつきと思ふは愚なことでござる、我出かさぬに短気がどこにあらふぞ、一切の迷も皆是と同じことで、我迷はぬに迷はありはしませぬ」。まことに盤珪禅師が言はるるやうに、我我が親から生みつけられた心の始には、嬉しいとか、にくいとか、おしいとか、かなしいとかといふやうなものは無かつた。全く不生の仏心といふべきものであつた。しかるに生長するに従つて追追と智慧がつき、いろいろさまざまの思慮分別があらはれ、喜怒哀楽愛憎の情緒が起るやうになつたのであるが、概して言へばそれはいつでも自是他非の我ひいきの心を本とするのである。盤珪禅師はそれを説明して、我我が人を憎くしと思ふによりて生れつきの仏心を勝手に修羅道にかへ、我欲を出かしては仏心を餓鬼道にかへ、愚癡を出かしては畜生道にしかへるのである。若し怒り腹立つことなく、ほしやにくやの念をも起さず、つらしかはゆしの心もなければこれすなはち不生の仏心であると禅師は言はるるのである。  不生不滅  仏教の説にては、我我の肉体は地・水・火・風を借り集めて生じたるものであるから、生じたるものは必ず滅すべきであるによりて、肉体は滅するが、しかしながら心は不生のものであるから、肉体は土とも灰ともなれども心は焼ても焼けず、埋めてもくちるものではない。ただ生じたる肉体を一心の家として住むのであるから、肉体が滅せざる内は音を聞き、香を嗅ぎ、色を見、ものいふことも自由であるが、借り集めた肉体が滅すれば一心の住家が無くなるが故に、見ることも、聞くことも、ものいふことも出来ぬのである。かやうに肉体は一度こしらへたものであるから生滅するが、一心は元よりの一心にしていつまでも不生不滅と説くのである。かやうに形而上学的に考へたる不生不滅の心がすなはち仏心で、すべての人人の中に備はつて居るのであるが、この不生の仏心のあることを知らず、我身にひいきして或は怒り、或は喜び、或は悲しみ、或は笑ふなど、種種の迷妄の心があらはれる。人人が親から生れ出たときには此身にひいきする心は少しもないものであるのに、成長して段段と智慧のはたらきがあらはるるに従ふて身びいきが起り、我欲があらはれ、それを本として種種に思慮分別し、しかも何時でも自を是とし、他と非とするのである。なほ繰返して言へば、我我の心は六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)の縁に対して、向ふのものに取り合ひて、身のひいき故に、我をもわくを立てて思慮分別といふものをあらはし、ここに自分といふものが造り上げられ、その自分にひいきして自是他非と主とする一切の迷妄の心があらはれるのである。  此の如くに盤珪禅師が不生の一心を指して仏心と言はるるのは「大乗起信論」に於て、一切の法は不可説・不可念の故に名づけて真如となすといひ、真如は説くことも出来ず、説かるべきものでもなく、又念ずべきものでもなく、念ぜらるべきものでもなく、それは全く我我の思慮を超絶、又言説を離脱せるものであるが、我我がその真如の悟りに入らむとするには、その思慮や言語のはたらきをやめるより外はない、思慮や言語を離れたところにすなはち直ちに真如に得入することが出来ると説かれてあると同じやうに我我が我身びいきによりて起すところの生滅の心を離るればすなはち不生の仏心に接することが出来るとせられるのである。  本心の歌  此の如く、盤珪禅師の説かるるところに拠れば我我の本心は不生の仏心でまことに霊明なるものである。それを俗謠に造りて一文不知の尼入道の輩にまで、さとらしめて安心決定と得せしめむと企てられたのが本心の歌となつたのである。その中の二三の句を鈔出すれば、「不生不滅の本心なれば地水火風は仮の宿。かりの火宅に心をとめてわれからもやして身をこがす。生れ来りし古へとへば何も思はぬこの心。来るがの如くに心をもてば真に此身は活如来」。或は又「有為の転変我がなすことを知らで迷ふて身のひいき。」「無為の心はもとより不住知らで迷ふは我が損よ。過去も未来も本心ばかり心留むより思ひきりやれ」などとありて、不生の仏心をば極めて通俗的に、且つ甚だ簡単に叙述せられたものである。盤珪禅師の作には又「曰引歌」といふものがある。それは「われと浄土をたづねてみたらけつく仏にきらはれた」「鬼の心であつめた金と餓鬼に取られて目がまうた」「地獄きらひの極楽ずきで樂な世界に苦を受けた」「金がほしさに命を捨てて捨ててみたれば金入らず」「人にかたきは元ないものぢや是非をあらそふ我がある」などいふの類にて、我我の現実の心のありさまが、極めて迷妄であることを曰引歌として無智の婦女子などが暗誦することが出来るやうにせられたのであつた。これを見ても盤珪禅師の不生禅の説法がむつかしい理屈を離れて、国民の下層にまで行き渡るやうにとつとめられたことがよくわかるのである。  慶喜の心  盤珪禅師が不生の仏心といはるるものは、その実際の状態より言へば我我の思慮分別の心を見つめて、しかも如何ともすることの出来ぬことを知つてこれを捨てたところにあらはるるところの慶喜の心である。さうして、この慶喜の心がすなはち宗教の心のあらはれである。これにくらべて表現の言葉は違つて居るが、親鸞聖人が「自然といふはもとよりしからしむるといふことばなり、弥陀仏の御ちかひのもとより行者のはからひにあらずして南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんとはからはせたまひたるによりて行者のよからんともあしからんともおもはぬを自然とはまふすぞとききてさふらふ」と言はれたのも、その真意は同じことであらう。我我が何かにつけて善からむとか、悪しからむとかとはからふのは生滅の迷妄の心である。盤珪禅師が言はれるやうに我身びいきや我思はくのために得手勝手に起る迷妄の心であるが、この思慮分別を離れたるところに展開するのが自然法爾の境地である。親鸞聖人はこれを阿弥陀仏の本願として聞其名號、信心歓喜せられたのである。盤珪禅師にありても、不生の正法をさとりて、霊明なる仏心を仰ぐときは、その心が決定して、もはや人に教壊せられず、言ひくらまされず、人のまどひを受けず、金剛不壊のものとなつて活仏の生活をなすことが出来ると慶喜の心に安住せられたのであらう。親鸞聖人の「正信偈」に「能く一念喜愛の心を発せば煩悩を断ぜずして涅槃を得」とあるのがすなはち是で、一念の信心が得られたときに喜愛の心があらはれるのは宗教の心であるから、煩悩を断ぜずして涅槃を得せしめるものであるが、それは心のしみじみと身の毛がよだち、涙の落つるやうな狂喜の状態でなく、煩悩の世界にありて、しかもその煩悩に迷はさるることなく、平静・明朗にして何等のわだかまりも無い心である。さうしてさういふ境地に到ることが宗教の極致であるといはるることは盤珪禅師にありても、又親鸞聖人にありても全然同一である。  不生禅  盤珪禅師は、常時の禅が机上の禅にして実行を離れ、又口頭の禅にして言と行と一致せず、従つてその禅が日常の生活を離れたものであつたのとは相異して、自己の体驗に本づきて、人人に不生の仏心が備はりて居ることを説かれたのである。さうして、寝ても起きてもその不生の仏心で居るより貴といことは無いと主張せられた。それ故に、盤珪禅師が法を説かるるに方りては仏祖の語を引くことなく、仏法も説かず、又禅法も言はず、古人の古則話頭など古反故の詮議は無用として取らず、座禅は仏心の安座であるから平常が座禅にして勤めるときばかりを座禅と言はぬと主張し、座のときでも用事があれば立てもかまはぬ。「身共が所には不断不生の仏心でばかり居よとすすめて別に規矩といふて外に立て勤めさせは致さねども、毎日線香十二?づつは皆のものが談合して勤めうと申す程に、いかやうとも致せといふことでござる。十二?づつ定て置いてつとめさせよすることでござる。しかし不生の仏心は線香の上にありはしませぬ」と言つて盤珪禅師はどこまでも形式的のことを避け、座禅なども別にむづかしい規矩と立てることなく、ただ不断、不生の仏心で居れと探く自己を内観することをすすめられるのである。  「近代の知識は道具をもつて人を接して、道具でなければ埒があかぬやうに思ひて、道具なしに直路にさしつけて示すことをしませぬわひの、道具でなければかなはぬやうにして道具で人を接するは瞎漠の禅子といふものでござるわひの」と言ひ、又「身ども若い時分に、ひたと問答商量をしても見ましたが、しかしながら日本人に似合ふやうに平語で道を問ふがよふござる」と示し、普通に禅の問答といへば、わけもわからぬ漢語を用ひて得得として居つたのとは全く其類を異にしたものである。さういふ形式的のことや外面を飾るなどといふことを避けて、実際的にその心を内観して不生の仏心で居るべきことをすすめられたのが、盤珪禅師の不生禅で、親鸞聖人が形式のない念仏をすすめられたのと同様であつた。これを要するに、盤珪禅師が説かれたことは、自分の心の真実の相が不生の仏心であるといふことを明かに知るといふことを主とせられたのである。決して自分の乱れたる心を修めて仏にならふと努力せよと勧められたのではない。「仏にならふとせうより、皆、人人、親の産みつけたは余のものは産つけはせぬ、只不生の仏心一とつばかり産みつけたところで、常にその不生の仏心で居れば、寝りや仏心で寝、起きりや仏心で起て、平生活仏でござつて、いつ仏で悟らぬといふことはなひ、常が仏なれば此外、別になる仏といふてありやせぬ、仏にならふとせうより仏で居るが造作になふて近道でござるわひの」と盤珪禅師自身も言はれた通ほりに、元来、宗教といふものは彼の学問の如くに、知識を豊富にすることによりてその目的を達することの出来るものでもなく、又道徳のやうに一一その心の乱れたるところを善く治めて、その努力によりて向上する筈のものでもない。却て現実の心の相を見て、その乱れたる有様に気がつき、しかもそれが如何ともすることの出来ぬものであると知るにより、思慮分別のはたらきが駄目となつたとき、自からにしてあらはるるところの特殊の感情が感知せらるるところに慶喜の心があらはれる。それがすなはち宗教の心である。盤珪禅師が不生の仏心と言はれるものも、その心の状態は親鸞聖人が阿弥陀仏の本願として信知せられたるものと同じものであつたのであらう。  自己否定  元来、人人に宗教の心があらはれることにつきて第一に重要なるは自己否定である。親鸞聖人が「まづ自力とまふすことは行者のをのをのの縁にしたがひて余の仏號を称念し余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもて身口意のみだれごころをつくろひめでたふなして浄土へ往生せんとおもふを自力とまふすなり」と説かれたやうに、我我は自己の価値を重く見て、何かにつけて十分にこれをたのむものであるが、この自己を否定し法りて、始めて自由円満の心の境地に到ることが出来るのである。かやうにして親鸞聖人は浄土に往生するには我身と我心とをたのむことを止めて阿弥陀仏の本願に信順せねばならぬと言はれたのであるが、盤珪禅師が不生の仏心を説かるるに方りても、我我人間の心が我我人間の我身びいきによりてあらはれるものであるとして、これを排斥せられるところに自己否定を第一重要とせられたことが明かである。盤珪禅師が「面面生れつきたる仏心でござるに世間のならわしで、あしき世渡りをならひましたによつて、おしやかわいやの餓鬼道に仏心をかへましてござる。ここをとつくりと御丁簡あれば不生の気になりまする。しかし不生になりたいと思し召して、いかり腹立や、おしや貪やのおこるを止めふとおもわつしやつてもそれと留めますれば一心が二になります、走るものを追ふが如くでござる。おこる念を止めふとたしなみました分では永代おこる念と、止めふと存ずる念がたたかひまして止まぬものでござる、たとひふと思はず知らずに瞋ることがござるとも、又おしや貪やの念が出来ませうとも、それは出次第にいたし其念を重ねてそだてず、執著いたさず、おこる念を止めやふとも止めまいとも其念にかかわらざれば、おのづから止まひではかなひませぬ、たとひ色色の念が起り出すとも、そのおこり出ました当座ばかりにて重ねて其念にかかはらず、うれしきにも永く念をかけず、一心を二心にいたさぬがよふござる」と説かれたのも、親鸞聖人が「何れの行も及び難き身なればとても地獄は一定住家ぞかし」と自身の心のあさましき相に泣かれたのと同様に、全く自己を否定せられたのである。かやうにして、自己が全く否定せられて、自分といふものの内容が全く空虚となれば、そこに自からにして現れ来るものが盤珪禅師が言はるるところの不生の仏心である。言葉をかへて言へば、自己を空ふしたるところに本性の仏心が現はれたのである。行者の心のはからひを無くしたところに自然法爾の大道が開けて来ると言はれるのも同じことである。  奇特の心底  盤珪禅師が伊予の大洲の庵に説法して居られたとき、ある日、大洲より二里ばかりの在郷者が参詣した。このものは大洲の或人の娘で、その在郷の或家に縁づいたのであつたが、そこには姑もあり一人の子も出来た。しかるに、この夫婦の中が悪しく喧嘩がたえざりしが、遂に大喧嘩をして、女房は腹立ちまぎれに一人の子を夫に渡し前後の考もなく家出をして親の元へかへらむとした。夫は幼少の子を抱へ女房に向つて「汝が帰るならば此子を川へ流す」といふ。女房は「其方へ渡すからはいかやうに致されてもかまはぬ」と捨鉢である。又夫のいふやう「たとひ其方親元へ帰りたりとも著類道具は一つも戻さぬ」と威嚇して女房の家出を止めやうとした。しかるに女房は「此家を出づるからは著類道具おしからず」と言ひ捨てて家を飛び出した。かくしてこの女房はその親の家へ帰る途中、大洲の盤珪禅師の庵の前まで来たところ、折節盤珪禅師の説法の最中であつたので、この女房は何心なく庵に入りて説法を聴聞した。さて説法が了りて諸人が退散せるによりてこの女房も帰り道にて、親の隣の家の人に逢ふた。その人驚きて「何として参られしぞ」と問へば「私は今朝夫婦喧嘩をいたし、これまで参つたが、大勢説法の場ヘござるを見て、よき折柄参りあひたりと、親の所には参らず、参詣いたして説法を聴聞しましたが、今日の御説法はみな私の事でござつた、さてさて恥かしや、今日私が夫の家を出ましたは皆私の心のあしきためにて、夫は私を親の方へ戻しともながり、色色と申し、姑もろとも留められましたれど、私はよしなきことに腹を立て、姑や夫にも腹を立てさせました。今日の御説法にて我身のあしきことをとくと合点いたしましたほどに、親の方へは参らず、これより在所へ戻りて我あやまりを懺悔いたし、二人の人へ降参いたし、このありがたひ御説法を語り聞かせ、後世をすすめませいでは聴聞いたした甲斐はござらぬ」といふ。さうすると、隣の人の言ふやう「其方夫婦喧嘩をして、家を飛び出してこれまで来たり、又在所へ帰らふとは、沙汰の限である。どうして一人帰らるるものか、兎も角も親の所へ参られよ。在所へは我等同道いたして、首尾のよきやうにして戻さふ」とあれば、彼の女房の曰く「何の首尾といふこともござらぬ。兎に角、私が悪ふござる故に、二人の衆の機嫌をとり、首尾よきやうにいたして、其上にありがたい御説法を、自分ばかり聴聞いたしては何の詮もござらぬ、二人の衆へも聞かせよしてこそ、聴聞いたしたと申すものでござれ」と、二人道すがら話すのを、参詣の人人聞て、さてもこの女房は奇特なる人かな、今日一座の説法を聴聞いたして、我があやまりを悔み、女の身としてこれは稀代のためしと感じ、今一人のものはさてさて無分別なる申分かな、一人帰らふといふをおしとどめ、首尾をつくらひてもどさうとは何事ぞや、此者は大洲の住人なればこの説法もさいさい聴聞いたすであらふが、悪しき異見かなとて、聞くほどの人人、この者を叱つた。その後この女房は夫の方へ帰り、二人の衆に対して「私に帰れとも仰せられざるに我無分別にて各の御心にそむき、家出をいたし、親の所へ帰らむと、大洲に参りました。今日の家出は仏縁とこそ存じ候へ、道にて参詣の大勢に交はり御寺へ参りて御説法を聴聞いたし候へば、御説法一とつも余事なく、皆私の身の上のことでござりました。これを聴聞いたして、私の心底の悪しきことをよく知りましたほどに、親の方へも参らず、御寺よりすぐに帰りました。私の心あしきままに、何れへも野心を起させました。これより私をいかやうにもなされて、腹を居て下され、かやうに申す上はいかほどつらき目にあひまするともさらさら恨みござりませぬ」と謝罪した。姑も夫もこれを聞いて「汝こそ左もなきことに帰りを出しつれ、それをあやまりと思ひて戻るに何の意趣の残らむ」と、女房の戻りけるを満足して首尾よく事はすむだ。それからこの女房は姑を敬ひ夫に従ひて家庭は円満となり、後には姑と夫とを勧めて三人づれにて大洲に来りて、盤珪禅師の説法を聞くやうになつたといふ。盤珪禅師はこの事実を挙げて、仏へ縁のあるものは何の分別もなき愚痴のものも一座の説法にもとづき、腹を立てたり争つたりすることのなきやうになる、まことに奇特なる心底であると称揚して居られる。元来、宗教の心といはるるものは教によりて外から受け取られるものではなく、その心の奥から自からにしてあらはれ出づるものであるが、それは既に前にも言つた通ほりに、我が心のあさましき相を知りて、その価値を否定し、我が身と心とをたのむことが無くなつたときに自からにしてあらはるるところの慶喜の心である。大洲の女房が盤珪禅師の不生の仏心の説法を聞いて、普通ならば何等ありがたい心も起らぬのに、それを至つてありがたい説法と感じた心、それがすなはち真実の宗教の心である。仏の慈悲の広大なることや、死して後に生まるべき浄土の荘厳なることを聞いてありがたいと思ふのは人人の食欲の心であるから多くの人に起るべきであるが、聴聞する説法にありがたいことは無くしてこれを聴聞する心にありがたく感ずるのは、全く自己否定によりてあらはるる宗教の心に外ならぬのである。  悪僧庇護  龍門寺に大結制の行はれたとき、一僧が来りて掛錫を願ふた。結制とは道を修むるものが集まりて安居の行をなすのである。前掛錫の僧の中に、此僧の行履をよく知りたるものがありて、知客に告げて曰く「此僧倫盗の癖あり、所所にて擯出せらる、其事は我一人ならず、数人よく存じてのことなり、制中、若し癖病起り和合僧を破せんこともはかりがたし、人の渦失を言ひ顕はすことは恐あれども、大法にはかえがたく存じ申すなり」といふ。そこで知客石門和尚と相議して、盤珪禅師へ其事を申し上げたるに、盤珪禅師の曰く「今度の結制は第一、左様のもののために設けたることなり、悪心を改めて善心にならば大なる功徳にして、身どもが本意なり」とて、掛錫のことを許容せられた。しかるに結制中、終に癖病起らず無事に勤行したといふ。同じ結制のとき、不動堂にて金銀紛失の沙汰があつた。所が一僧出でて申して曰く「某は今冬、不動堂へ勤行仕る、然る処に隣単の僧、草鞋銭を失ふた、其隣単の故に疑惑を蒙むり、堂中の沙汰に及ぶ、御慈悲を以て御詮義を願ひ奉る」と。盤珪禅師曰く「こなたは倫みはせぬか」、僧の曰く「かやうなる未曾有の勝會にて、さやうなる無慚愧なること繋念にもあるべきにあらず」と、盤珪禅師曰く「それでよく候」、僧の曰く「然れども這回は日本の聚會にて候へば詮議なくては某、日本国へ虚名を播し申すこと迷惑仕候、只お慈悲を仰ぎ奉る」と。盤珪禅師曰く「詮議をすれば過《とが》人が出来るが、それでもよいか」と。僧の曰く「日日大法を聴聞いたし、これしきの事に我慢身びいき仕ること無慚愧至極」と感涙を流しつつ謝罪したといふ。釈尊はその弟子に対して、自から端心正念にして度を求むべしと誡められたが、端心とは他の過を見ること無きをいふ、他の過を見るときはすなはち自から其心を浄ふすることが出来ぬことに心をつけねばならぬと教へられたのである。盤珪禅師の如きは、その宗教の心のあらはれによりてよくこの見他過障を対治して、他の過を見ることなく、従つて悪人を排斥することなく、却てよくこれを摂取してその心を端しくせしめるやうにとつとめられたのである。  盤珪禅師が京の松尾村の地蔵寺に於て閑居して道念を養ふて居られたとき、網干の龍門寺の石門和尚より見舞として天球をつかはされた。天球は禅師に見参して、序でに申しけるは「龍門寺に若輩数人、寺役も疎略、行跡も粗行にて寺法の妨になるものが居る。如法か光林か他所へ参り勤めなば覚悟も改まり申すべきか、此趣を窮ふべしと、石門申され候」と申上げたれば、盤珪禅師いはるるやう「叢林といふは左様の悪党、いくらも取りあつめ、接得して善人となさむための設けなり。然るにその料簡もなく、無慈悲にて悪徒を余所へ譲り、余所の邪魔にせんと計るを叢林の住持といふべきか、慈悲寛容裕の心なきもの、住持すれば我法滅却の基たり」と人の言ふことを取り上げられず。総じて住持役人、或は左右の侍者にても、寺中僧侶の是非をいふことは憚るべきであると、盤珪禅師は常に門人を誡められたのであつた。  自律厳粛  盤珪禅師が道を修むる上に自から律することの厳粛であつたことは常人に異なるものがあつた。一生二時の粥飯の外、菓子類にても別食せす、又別甑の食物を喫せられなかつたが、あるとき奧旨軒にありて齲齒大に痛みしに、その時在郷より餅粟到来して、軒中日日粟飯を炊ぐ。しかるに、粟飯はこはきものにて禅師食事のときに痛歯にさはる様子と給仕のものの言ふにより、飯頭自完、別に軟かに炊き、飯熟せるとき別に二つの飯器に盛つた。その時偶然にも盤珪禅師この場に来りてこれを見て「何事にて飯を二鍋にたくぞ」と言はる。自完曰く「一鍋のは御前のあがるにて候」。盤珪禅師これを聞いて、「身ども一生、別甑の物を喫せず、しかるに今、別甑を喫せしむるは我を毒害するに同じ、自今巳後飯を喫せず」と厳しく叱られた.そのとき側にありし祖仁が弁解して「御歯痛にてこわき食御さわりありと何れも承はり、今日始めて別甑に致しました。これまで一度も別甑のものは上げず、重ねて仰せの通ほり堅く相守るべし」とて、二器の飯を一器に打ちまぜて備えたれば禅師はこれを喫せられた。祖仁は後にこの事を記して「余数年来左右に随侍しけるに、一出、一入、片言片行、皆後日の模範、護法の枢機のみであつた」と並べて居る。以てその平生を想ひ知るべきである。  盤珪禅師が地蔵寺に居られたとき、斎時飯を喫しながら、従容に言はれけるは「今日のさいはよくにえて味よし」と、給仕の小僧曰く、「御前のあがるのは鍋の内にてえらびあぐる」と。師の曰く、「誰がさいを盛りたるか」と。小僧曰く、「祖教」と。師の曰く「あさましきことなり、鍋の内にて差別を致す」と、其後さいを喫せられず。これによりて祖教も同じくさいを喫せず、数月を経て後に盤珪禅師は此事を聞かれ、再びさいを喫することにせられた。それから祖教も同じくさいを喫したりといふ。  龍門寺の隠居に居られたとき、常住へ出て斎を喫せられしに、あるとき、汁の味常より悪しきよし言はれたれば、給仕の小僧、「隠居の味噌は格別に念入るる」と言つた。盤珪禅師これを聞て、いたく咎め、「隠居の味噌とて、大衆に異なり別に拵へること身どもを毒害するに同じ」とて、それより隠居にて汁を喫せられず。大梁和上も又汁を喫せず。数日ありて大梁が汁を喫せざることを聞かれて、それより再び汁を喫せられたと。  あるとき、若宮庄屋方より御城慈光院殿へ茄子のはつなり小さきもの二個を献上した、ところでそれを御城からすぐに如法寺に遣はされた。祖徹典座にて、この小さきもの二つ、大衆へは及び難しとて、盤珪禅師一人へ汁に料理して上げた。盤珪禅師少しくこれを食して「城より来たれる茄子はなにとしたるぞ」と問はれたので、祖徹はありのままに答へた。すると禅師は大に叱りて「身どもに毒を喰はしむ」とて、その汁を喫せず。翌朝の小食並に日中の飯をも喫せられず、祖徹始め老僧等、種種の詫言にて漸く飯を喫せられたと。弟子として師長を尊敬するあまりにその食を別にするの心情はさることながら、盤珪禅師は「叢林の衰頽は主法の者の別食に起る」と言つて、同じく仏弟子であるものを、師長であるとて差別して待遇せらるるところに不愉快を感ぜられたのである。かやうな僑慢は仏の道を修める上に大なる障となることを自覚せられたのであらう。  癩人憐愍  盤珪禅師が予州戎川の西隆寺に居られたとき、癩病人が来たりて誡示に逢ひ、其上剃髪の願を致した。盤珪禅師はすなはち剃刀を取りて剃髪の儀式ををへられた。其頃月窓公より町田某を附け置かれけるが、町田某は傍にありて、膿みただれたるものを、丁寧に手をかけられるを見嫌ふ色ありて、早早手洗水を持ち来つた。盤珪禅師は、「身どもは彼の癩人よりも、こなたの嫌ふ心がきたない」とてその水を用ひられなかつた。又濃州玉瀧寺に居られたとき、十余人随持しけるが、時時癩病の乞人が来たりて、一衆嫌忌の様子が見えたが、盤珪禅師は一向に構はず、癩人の来るごとに自鉢にて飯を喫せしめられた。一衆はこれを見て禅師が癩人を憐愍する心の厚きに慚愧したといふ。今日の医学の所見に拠れば癩病は伝染病に属するものであるからみだりにこれに触接せぬやうにすべきは勿論であるが、それは別として、その外観がまことに醜悪であり、又不潔であるところの癩人に対して燐愍の心が深く、癩病人の不潔よりもそれを嫌忌する心の方が不潔であると言はれたる盤珪禅師の憐愍の心はいかにも美しいものであると感歎せねばならぬ。  損益得喪  盤珪禅師は何かのことにつきて損益得喪を語ることを嫌はれた。若し人がこれを語ることがあれば耳をふさぎて聞かれなかつた。ある年、龍門寺の檀越灘屋某の娘の他所へ嫁して居つたのが死去した。その父母、亡女の衣服臥具などを祖山の手を経て龍門寺へ寄贈し、旛・打敷になされ下さるべしと願ふた。祖山之を持ち来り、祖量に呈して主願の趣を伝達した。しかるに祖量の曰く、「旛・打敷は寺にあまりあり、臥具が不足にて珍客到来の時、毎毎施主家へ借用致すほどなれば、衣服は旛・打敷に用ひ、臥具は其儘に置きて珍客のために用ひて然るべし」と、。そこで祖山は盤珪禅師へ其趣を伺つたところが、禅師は大に叱りて「何者が左様のことを申すぞ」と責め問はれた。祖山「誰と申す事もなし、皆一同に其趣然るべしと申す」と言ひしに、盤珪禅師の曰く「動もすれば此寺へ、商人の様なる利勘のもの来りて、勝手に好きことのみ申し、施主の意樂に背くことあり、たとへ、旛・打敷は山の如くあるとも妨ぐることなし、施主の願に背くこと大罪是に過ぎたるはなし」と言つて、自分の勝手にて施主の意向に背くことの不可なることを説かれた。それも多くの人人がすべての物事につきて常に損益得喪の考を先にすることを汚穢として、これを誡められたのであらう。又平生盤珪禅師が用ひらるる薬を煎ずるには、銀の薬鑵を用ひて居つたが、あるとき、急に薬を煎ずべきことありて薪火にて煎じた。或人これを見て「銀の薬鑵を薪火にてたけば銀が減るものを」と言つた。盤珪禅師これを聞きて「その薬鑵打ち碎き捨つべし」と言はれた。かりそめにも損得といふことを先として物事をする商賣人のやうな利勘の心を排斥せられたのである。  慧命尊重  盤珪禅師が龍門寺に居られたとき、ある年の夏、大勢の客僧があつた。時に法事が行はれ、用ひた汁があまつたので、翌朝の小食の雑炊に入れた。ところが汁が少し損じて居つたので、雑炊に匂があつた。盤珪禅師その雑炊を喫して言はるるやう、「かやうにして、こねたる食物、暑の節、喫すれば多くは食傷するものなり、大勢客衲の内には若し腹中損ずれば大なる過失なり、皆菩薩の種子、仏祖の慧命を護持して後来いかほどの善知識になる人もあらむ。これより後、汁余りてそこねば捨つべし、必ず雑炊に用ふること勿れ」とて、納所宗壽は追出された。住持大梁はこの様子を見て「これは宗壽の所為ではない、自分が宗壽に言ひつけてのことなり」とて、自から出院して末寺の随応寺に蟄居した。数月の後、山中耆宿の詫言にて両人共に帰山したが、是より龍門寺にては雑炊を禁止して茶粥を用ふることになつたのである。仏の道に入り、仏の法を修めるものは、皆菩薩の種子であり、仏祖の慧命を護持するものであるからこれを尊重せねばならぬとするのが盤珪禅師の美しい心であつた。盤珪禅師は巳に古稀の坂を踰えてから後に、摂生に意を用ふること非常にして、毎食必ずきちんきちんと量を定めて用ひられた。ある人、それを見て、和尚は生死を透脱して心身の自由を得たる大知識である、それでも尚ほ食物と量つてまで身命を惜しまねばなりませぬか」と、露骨に問ふた。すると盤珪禅師は答へて曰く「おおさ、生死透脱三界の導師なればこそ、あくまで身命を護惜せねばならぬわい、我が身は我が身にして我身にあらず、我が一言一行はすべて衆生利益の大仏法じや、君子は一日世に在れば一日世を益す、世のため世に在る身は只世のために一日でも多く生きながらへるやう身命を護らねばならぬ」と言はれた。盤珪禅師は不生の仏心を明にして、活如来として此世に生きて居ると確信せられたのであるから、すべての人も凡夫ではなく、不生の仏心を煩悩にかへることをせねば皆、今日の活仏であるとせられたので、よくそれを体驗したる自身が菩薩であるとの自信は必ず強かつたのであらう。それ故に、その一言一行は、衆生利益のためになるものとして、自から慎しみ恐れ、又その身命を護惜せられたのであらう。親鸞聖人が熱烈なる求道の心から、罪業深重煩悩具足のものを正機として救はるる阿弥陀仏の本願を信じて、法悦の涙と共に常に自身の罪業の深きを概き、無慚無愧のあさましき姿を悲しみつつ、平安の生活をなされたのも、親鸞聖人には正定樂の菩薩となることが出来たとの確信が強く、その菩薩の行として、自から仏の本願を信じ、又人に教へてこれを信ぜしむることを大切とするの心から、日常その行動を謹しみ、身命を護りて、九十歳の高齢にまで達せられたのであらう。言葉の上では盤珪禅師と親鸞聖人とはその所見が相違して居るやうにも思はれるが、両師の心境には全く同じやうに真実の宗教の心があらはれて居つて、それによりてかやうな敬虔の態度があらはれたのであるとせねばならぬ。  平生の行状  盤珪禅師の行状及び佚事につきて記載せられたるものを見るに、元来その性格が謹厳であつた上に、宗教の心がよくあらはれて居つたために、上章に叙述した外に、その日常の生活の中に著しく人の目に著くやうなことが多かつたのである。「続日本高僧伝」に記するところに拠れば、盤珪禅師は「淳実慈愛、悪声暴色以て人に加へず、長斎欠かず、非時には密醤だも飲まず、人と世事を語らず、或は語の利害得喪に渉るものあれば、則ち聞かざるが如くす、若し夫れ扶宗輔教には奮て身を顧みず」とありて、まことに盤珪禅師は、その性質が淳実で、謹厳自から持し、無益の語を囂《やかま》しくせず、常に道行を以て心となし、世間のことには心を用ひず、又権勢に媚びて其志を曲ぐることをせず、しかも心から来るものはこれを追はずといふ風であつた。  盤珪禅師が地蔵寺に居られたとき、酒製の薬を服用せらるることがありて、酒を少し京より取寄せられたが、間もなく「此寺へ薬の為とて、酒を入るれば児孫の中に、身ども薬のために酒をとりよせたなど云ひて、何ぞにかこつけて、酒を取寄せ飲むものあるべし、取寄せたる酒壷共に打破りすつべし」とて、遂に酒を用ひられなかつた。明慧上人が薬用の酒をも飲まれなかつたと同じ話である。  盤珪禅師の居所は何れの所にても小用所が無かつた。小用も雪隠にてせられた。これ謹慎の致すところであつたことと思はれる。惣じて四威儀の内、軽忽なる挙動をなされなかつたが、しかし、生来至つて無性者にて、衣類は著たら破れるまで著て、綻びも垢も平気、弟子が注意するときまで其儘であつた。そこで「不生の禅は無性の禅」との悪口があつた。又盤珪禅師は概して異様のことを嫌はれ、常に「在家にても少し心ある者は世間にはかることには心を移さず、況や出家たるものは仏制の外には心を寄せず道行を以て心とすべきことである。しかるに世間無根のことに心を用ふること無道心の致すところである」と誡められた。ある僧が「不意に興によりおどけを申すこと苦しからずや」と言ひしに、盤珪禅師の曰く「信を失ひたくば言ふべし」。その謹厳想ふべきである。尚ほ一つ、盤珪禅師が自律厳粛であつたことを見るべき一佚事がある。それは盤珪禅師があるとき、たびの紐を解かむとせられしに、解けかぬるを、小僧これを解かむとしたるに、禅師はその小僧を押し倒し、「身ども一生、たびの紐を人に解かせしことなし」とひどく叱られたといふことである。  盤珪禅師が明暦元年、江戸に行かれたときの話。ある所にて一人の立派なる武士が乗馬の稽古を始めた。馬が思ふやうに走らないので武士の騎手は頻りに馬を責めたのである。盤珪禅師は之を見て 「何のざまだ」と言はれた。そこで武士は禅師に向ひ、「最前からどうやら拙者を叱て居られるやうだが、教はることがあらば承りたうござる」と言ふ。言葉は丁寧であるが返答によりては其儘には置かぬといふ有様である。禅師は従容として「馬ばかり責めるのは愚なことぢや、なぜ先づ自分を責めなさらぬ、乗る人と馬とが心が争ふては駄目ぢや、おわかりか」。その武士もまたえらい人であつた。禮を言つて帰り、主人松浦鎭信にこの事を話す、鎭信の曰く「盤珪禅師が近頃江戸に参つたといふ、それは盤珪禅師に相違ない」とて、人をして探索せしめしに、果して盤珪禅師であつた。武士は松浦八右衛門といふ旗本で、松浦候の分家であつた。そこで松浦氏は禅師を庭内に招請して法を聞いた。松浦鎭信は平戸の城主で、早く禅の道に志し、長崎にありて道者禅師に従ひて道に入り、円恵と號したほどであつた。伊予大洲の城主加藤出羽守泰興はこの松浦氏の紹介にて盤珪禅師に接したのであるが、この加藤泰興といふ人は闊達の人で、剣鎗の道に達し、予てから心術練磨にも心と傾け、愚堂和尚に参じて月窓の號を与へられたのであつた。この泰興が始めて盤珪禅師に見えて禅要を問ふたときに、禅師は「候はさきに中江藤樹の賢を用ふることが出来ずに他に去らしめたではござらぬか、今に至つて愚僧に心要を問ふ必要がござるか」と熱湯を面にそそぐやうな挨拶をせられた。泰興はいたく慚愧しながらしかもこれによりて深く盤珪禅師に敬服したといふ。あるとき泰興は自慢の鎗術を以て盤珪禅師の荒膽を挫かんとて、突然鎗をしごいて盤珪禅師の鼻先に突き出した。しかるに盤珪禅師は泰然として、念珠をもつてその鋒尖を払ひ「どうもその膽が据らぬ、心が先にのみ動いて居る」と呵呵大笑した。この膽勇には泰興も驚きてますます盤珪禅師に帰依するに至つたといふ。明暦二年の春、盤珪禅師は招請によりて加藤家の菩提寺曹渓院に赴いたことがあるが、曹渓院では盤珪禅師の来錫のことは、予て江戸よりの報知にて承知して居つたが、その風体が粗末で乞食坊主のやうであつたので、それとは知らず、雲水部屋に放り込んで残食を少し与へて置いた。後にそれが盤珪禅師であることがわかり、奧方丈に請じて詫びたが、禅師は平然として居られたといふ。その翌年に遍照庵が建立せられ、盤珪禅師がこれを主宰せらるることとなつたのである。  或日、城主の加藤泰興は医員の伯淵などを連れてわざわざ川舟にて一里余もある清谷俺に盤珪禅師を出迎へた。そのとき盤珪禅師は舟に乗りて泰興には碌碌挨拶もせず、後の方に向て伯淵に対して四方山の物語を始めた。盤珪禅師は泰興を弟子と思ふが故に意に介するところもなかつたのであるが、側近の人は城主に対する禅師の態度を見て恐縮して頭を上げ得なかつたといふ。  大洲にて一小史某といふもの、家族のために法話を請ひたるに、盤珪禅師は快諾せられた。其後城主の加藤泰興より法話を請ひたるに対して先約の故を以て断られた。左右の人は心配したるに、盤珪禅師は「小吏我を招ぜんに、薪水拭沸自から心を苦める、太守は咄嗟に辨ずるものだ」と言はれた。後に城主はこのことを聴いて盤珪禅師が尊卑を以て其志を二三にせぬことを感歎したといふ。  盤珪禅師あるとき、江戸より京都へ上らるるとき、明日光林寺発駕といふ場合に、石川主殿正が同姓備中守を以て「疑あり、面談にて決断致度」とて、明日の発駕延引のことを願つて来た。由て禅師は出立を延引せられた。然るに翌日又、備中守を使とし「急用ありて参謁なり難し、疑の事は備中守申すべし、御返答は備中守へ仰せきけらるべし」と言つて来た。すると盤珪禅師は備中守に対して「此事は直問答にても通じ難きものである。況や伝語にては猶以て通じ難し」と言はれたのみで其後は何も言はれず、備中守もかへす言葉が無くして退出したと。盤珪禅師が道の上に於て権勢の前に屈せざりしことは概ねこの類であつた。  盤珪禅師、美濃日立の玉龍俺の看坊として雪庭を遣はされたが、元録五年濃洲の宗門中、盤珪禅師の道風を好み、雪庭と相議して玉龍庵に就て、方丈、庫裡、禅堂、寝室、諸寮を造立したが、その土木の役に誰を施主といふことなく遠近の道俗感心のあまりその労役に走り、その功業を助けて成就した。そこで庵を改めて寺號とした。この時盤珪禅師は伊予の如法寺に居られたが、請待に応じて玉龍寺に到る途中加納の大法寺に一宿せられた。雲庭これまで出迎へて、申して曰く「地頭石河大和守片時も早く相見を願ひたきにより、加納より名古屋の宅へ御越、相見の後に玉龍寺へ参らるるやう取り計ひ給はるべし」と、石河大和守よりの依頼の趣を告げしに、盤珪禅師は懇望に応ずべしと快く承諾せられた。雲庭は又「然らば龍・隠太元両座元を同伴せられて大和守にちかづきになされ然るべし、今度玉龍寺建立の事は悉く皆、両座元の懇誠の荷擔より出で大功勲あり」といひしに、盤珪禅師は「玉龍寺建立につきて龍隠・太元、勳功あることは皆其身のために益あり、我事に預かるにあらず、汝左様の卑しき心にては今度の建立定めて謀略あるべし、わづかに謀慮ありては大法行ひ難し、此後口を閉ぢて居れ」と大に叱責せられた。実際、玉龍寺建立の事は雪庭の丹心より出たることにて、その多大の功労深切なることはかりがたきことである。しかるに一言の失によりてその勲功を放捨せらるること、まことに情なきに似たれども、深く考へれば、一言の失といへども万劫の偸心である。これを責めらるることは雪庭のために真薬が現前したのである。盤珪禅師が真実の心よりしてもその弟子を愛育せられたことはこの一事にて思ひ知られるのである。  此の如き行状を見れば盤珪禅師は常に峻厳その道を守り、何事にもやかましく、融通のきかぬやうな人物であつたやうであるが、一方にありては酒脱にして、人を翻弄せられたやうな逸話も伝はつて居る。或年の冬、岡山の三友寺にて結制の時、盤珪禅師出座の日は、備前備中の道俗が大に群集した。時に備中庭瀬に法華宗の大寺ありて、住持の上人は博究の学匠にて檀信の帰崇を得て居つたが、盤珪禅師の道風が遠近を偃伏せしめて彼の上人の檀那が悉く参謁するを見て、上人憤り檀那に向ひ言ひけるには「我れ聞く、盤珪は不学の人なりと、我往て難詰せば閉口せむ」とて、一日参謁し、衆の後にありて説法半ばに、大音声を発して「一座の衆皆師の説法を聞き受け信仰す、某甲が如きは師の法要を受けじ、受けざるとき如何にしてか救ひ得む」と言ふ。禅師中啓を学げて曰く、「前へ出られよ」と、住持の上人進前す、師又曰く「今少し前へ出られよ」と、上人又進前す。師曰く「なんと、よく受けられるではないか」と。上人罔然として言ふこと無くして退いたといふ。己を虚しうしてこそ、始めて法は聴かるべきである。しかるに驕慢にも自分の所見を堅く持して、法に接する障碍の心を退治するがために、盤珪禅師は此の如き所為を敢てせられたのであらう。  示寂  元録五年の六月、盤珪禅師は予州の奧旨軒にありて、一日門人等に告げてこの軒を開山塔にすべしとて、七月末より土木の役を挙げたのあるが、この普請に大工一人も用ひず、祖能が示図にて円智其他細工に功者なるもの数人、命を承けて造作に従事した。城主加藤氏その事を聞き開山塔のことならば我等造作申附くべしと言ひしも盤珪禅師は峻拒せられた。盤珪禅師は衆に告げて曰く「この開山堂建立のことは身どもに深き心あり、其故は身ども破滅の後、年久しくなりては常住は多衆なる故、法義を犯すもの間間あるべし、然らば自然の道理にて法流も衰微すべし、しかれども開山塔に於て真履実践のもの数人たりとも擇びて如法に勤行せば、身どもが法義は開山塔に残りてあるなり、其内に後来子孫の中に真実の志あるもの傑出して古風を聞たき志願あるときは、開山塔の作法を証拠として勤行するに於ては身どもが法義再び興隆すべし」と、さうしてその勤行の作法は三時の念誦、三時の坐禅、恒例の如くすべしと命じ、自身病中ながら開山塔の儀式を行ひ、爾後庵中の模範とし、後事は周蔭・祖廓・祖仁三人の協議によりて定むべしと言はれた。翌六年七月の初より盤珪禅師は不食にて身体次第に衰弱したるによりて耆宿のものが上方の名医を招くやうにと勧めたれども、聞き入れられず、但馬竹田の高田玄春は年来の帰依の人にて遠く来りて病床を見舞ひたるを「老人の遠方より見舞深切の至である、誰にも相見いたさずといへども玄春には特別を以て相見すべし」と病室に通ほさる、玄春診察して「御脈平生底なり、補養の薬服用ならば本復疑なし」と言ひたれども承引せられなかつた。遷化数日前、周蔭は盤珪禅師に対面して「何事にても仰せ置かるる義なしや」と問ひしに、禅師は「身ども一生言ひ置くことのなきことばかり人人に言ひ聞かせた」と言はれ、別に何事の遺言らしきことをせられなかつた。  余言  盤珪禅師が此の如くに、不生の正法を悟られたのはその年二十六歳の頃であつたが、そのことを諸家にたださうとの考を起して、先づ美濃の愚堂和尚の許に赴かれしも、そのとき愚堂和尚は江戸に赴きて不在なりしが故に、石翁和尚を訪ひ、日立に玉龍庵を結むでここに住せられた。慶安三年の秋、明の道者禅師が長崎に来りて盛に接化すると聞いて、長崎に赴き、道者禅師の會下に留まられた。しかしながら明風の課誦に做はずただ斑に備はるのみであつた。道者禅師がこれを責めたのに対して盤珪禅師は「身どもは大事因縁のためにここに来たのである。課誦は我国の叢林にももとより成規がある。かかる区区たる事に時を費すの要はない」と言つて、どこまでも宗教の本義を明かめやうと志して、課誦の末には心をとめられなかつたのである。間もなく道者禅師の許を辞して京都に赴き、吉野の山の奧に二年ほど居り、それから再び美濃の奮居に移り、又次に備前岡山の三友寺に住し、声名次第に上がりて伊予大洲の加藤泰興の懇請に応じてその頃創立の遍照俺を薫すること前後二十年、萬治二年丸亀の城主京極高豊がその領地の網干に龍門寺を建立したときに盤珪禅師はその開山となられた。時に年三十八であつた。それから盤珪禅師は諸処に縁を追て化を布かれたのであるが、多く来往せられたのは龍門寺、三友寺、遍照俺の三箇処であつた。かくて盤珪禅師は元禄六年七十二歳の八月四日に示寂せられたが、元文五年五十回忌のときには大法正眼国師の謚號が下賜せられた。まことに盤珪禅師は禅宗の高僧の中にても、他に比類の少ない人で、特に真実の宗教の心をあらはしたる高僧として推称すべきである。禅宗を奉じながら座禅の形式的規格をやかましく言はず、今日でも尚ほ一派の間には常に尊奉せらるるところの古則公案を見て、宗教の心をあらはす上には何等必要なきものとしてこれを一蹴し、更に経論の所説を講究することは古い反故をしらべるに過ぎずとしてこれを廃棄し、ただ一筋につとめて自分の心の現実の相を内観すべきことを説かれた。親鸞聖人が形式の無い念仏と主張して、実際悪人たるの自覚を主とし、煩悩具足・罪悪深重の業報に泣くところに阿弥陀仏の本願の光明に照らされつつあることを感知し、正定聚の菩薩として自由・安樂の世界に生活せられたと同様に盤珪禅師もまた、学問によらず、修業も主とせず、形式に拘泥せざる坐禅を自身内観の方便とし、不生の仏心を明かにして現在、活仏として慧命を尊重せられたところに自由・安樂の宗教的生活が営まれたのである。盤珪禅師自身は「我宗は自力にもあづからず、他力にもあづからず、自力他力を超えたが我宗でござる」といひて、世の人人が自力とか、他力とか、自身の思慮分別の上に立てたる一切のものを捨てて、不正の仏心で居れば一切の事がととのふ。「いろいろさまざまの脇事をいわいでも、不生の正法は皆、身の上の批判ですむことでござる」と主張して、宗教の心は教によりて受けられるのでなく、ただ一筋に自身の心の相を内観して、一切の迷妄は自身にこれを造るのであるといふことを明かに知るときに始めて宗教の心があらはれることを感知するのであると唱道せられた。そのことを極めて平易に人人に示されたのが盤珪禅師の一生の貴とき説法であつた。さうしてそれを体驗せられたのが盤珪禅師の一生の美しき生活であつた。私のこの小篇はさういふ方面に於て、宗教人としての盤珪禅師を世に紹介しやうとしたのである。 (新選妙好人伝第十二編・盤珪禅師) @  田原のお園  新選妙好人伝第十四偏  新選妙好人伝序文  富士川游撰  今から凡百十九年ほど前の文政元年戌寅の歳、本願寺の碩徳実成院仰誓師二十五回忌にあたりて、仰誓師がさきに撰び置かれたる「妙好人伝」初編がその法嗣芳淑房履善師の校正を経て、門人等有志のものの手によりて刊行せられた。ここに妙好人とは念仏者を指して言ふので、「観無量壽経」に「若念仏者、当知、此人是人中芬陀利華、観世音菩薩、勢至菩薩、為其勝友、当坐道場生諸仏家」とあるに本づいたのである。芬陀利華は梵語プンタリーカの音訳にて支那の言葉にて言へば白蓮華である。其色雪の如く清潔白にして泥の中に生じて泥に穢がされず、微妙殊勝のものであるから妙好華とも名づけられる。善導大師の「散善義」に芬陀利華といふは人中の好華と名づけ、希有華と名づけ、又人中の上上華と名づけ、又人中の妙好華と名づくるといふことが記してあるところから、念仏の行者を指して妙好人といふのである。親鸞聖人の「正信念仏偈」の中に「一切善悪凡夫人、聞信如来弘誓願仏言広大勝解者、是人名芬陀利華」とあるはすなはちこれである。まことに、一切善悪の凡夫にして若し一念、阿弥陀の本願を聞信したならば、それは広大勝解のものである。愚闇にして自己の相の醜悪なることを知らず、又無智にして人間の虚仮なることを知らざる凡夫と雖も、如来の本願に照らされて、よく自己の実相を知り、又人間の虚仮が明かに信ぜられるときは、如来の光明の中に出でて、その身は依然として醜悪であり、無智であり、又人間は虚仮でありながら、闇黒は変じて光明となり、泥の中より出でて泥に染まざる白蓮華の如く妙好のものになることが出来る。これを妙好人と貴ぶことは当然である。  出雲安徳寺の誓鎧師は「妙好人伝」初編に序を書きて「凡そ世の中にあらゆる人の静ならざることは春駒秋猿のごとく、歴対境して移り易く、一方にうつれば一方を忘れがちなるは世の常のならひぞかし、されば本願を信じ、念仏を行ぜん人は常に此文をよみて、殊にすぐれたる人の跡をあまんじて、このてかしはのふたばもなく、とにかくに、仏恩の方に心を移し、報謝のつとめを忘れざらましかば、賢を見ては斉しからむことをなどいひけんためしともいふべし」と言つて居られる。さうして後に   いにしへのかしこかりつる跡とひて   仏の道にすすめとぞおもふ 一首の和歌が附記してある。  「妙好人伝」初編に収められたる妙好人は和州清九郎、豪州喜兵衛、石州石橋壽閑等を始めて都合十七人で、その略伝が載せられて居る。「妙好人伝」二篇は美濃専精寺の僧純師が選択せられたもので、天保十三年以後、順次刊行せられて第五編までに及び、更に安政六年に象王師述の「続妙好人伝」が刊行せられた。明治年間になりても妙好人の伝記は幾つとなく刊行せられた。何れも悪逆凶暴のものが阿弥陀仏の本願を聞信して、それに信託せるによりて穢質を無碍光中に投じ、妙果を芥爾心頭に結びたるものの記録であるから、これを熟読翫味するときはその妙好の妙好たる所以を明にすることが出来るのである。  しかも、その叙述の体裁に於て、十分なりといふことが出来ぬのは、妙好人の伝記の多くのものが、それが実に白道を践み、みづから寶號を行じて景福を享け、その化が家族に及びたることを挙げたるに止まり、十分にくわしくその宗教の心の状態を明かにすることの出来ぬことである。私が今ここに公にしやうとするものは、その道の人からは妙好人と言はれるかどうかは知らず、その日常生活に於て、十分に宗教の心をあらはして居るものと認められる人々を撰び、その宗教の心の状態をなるべく精細に追究することが出来るものを挙げて、これを「新選妙好人伝」と題したのである。さうして、それ故にこの妙好人の中には、仏教の何れの宗派に属するに拘らず、又所謂念仏行者若しくは所謂有屋連中でなく、仏教の僧侶は固より儒者の中にても、その心のはたらきが真実に宗教の心をあらはしたものであると認むべき人々の伝記を略述しやうと思ふ。これまでの妙好人伝といへば主に在俗の弥陀教信者が念仏の生活によりて自他を利益したことが叙述せられて居るのに反して、この「新選妙好人伝」は宗教の心が個々の人にあらはれる状態を示すことを主としたのであるから、所謂法悦の状況を記載することはなるべくこれを避けて、むしろ真実に宗教の心をあらはしたるものと認められたる人の精神の状態を心理学的に分拆することをつとめたのである。  惟ふに、宗教の感情は、己を慮うして一切の事物に対するときは、誰人と雖もこれをあらはすことの出来るものである。如来の本願といはるる宗教上の言葉は、この宗教の感情を本としてあらはるるところの宗教的意識を指すのである。今私はむかしの人人の中に、此の如き宗教的感情のよくあらはれたるを見て、これを鏡として自己の相を照らすことをつとむるの資料として太だ有益であることを信じ、故らに新選の文字を冠して、この妙好人伝を世に公にしたのである。聊か蕉辞を陳ねて、この書の序文とする。 昭和十一年八月上浣 新選妙好人伝第十四編 目次 田原のお園 序説 一、宗教の心 二、阿弥陀仏の本願 三、本願成就の文 四、念仏往生 五本願の行 田原のお園 自然法爾 弥陀教 一心帰命 信心獲得 計度不定 開信一念 暗夜一燈 歡喜生活 愚人念仏 空念仏 自己省察 仏法繁昌 逸話余録 凡例 一。三河田原のお園は世に名高い妙好人で、その伝記に関することは諸書に散見するが、一部の書として纏まつたものは見当らぬ。又その画像もこれを手にすることが出来なかつたので、この書には前例を追はずして画像を欠ぎたるままに、その伝記・逸話の類を輯録したのである。 二。この書の原稿は私が自から筆録したのであるが、その整理及び校正は一に秋山不二女史の尽力を煩した。又この書を世に公にすることを得たるは厚徳書院長宗氏の厚意に依る。特に記して爾氏の厚意を謝する。 昭和十五年九月上浣 富士川游述 田原のお園  序説  一。宗教の心  宗教と名づけられる精神現象は我々人間の意識の内にあらはれるところの過程にして、それは内部から自から湧き出づるところの感情に本づくものである。さうしてそれは学問とは相違して智慧のはたらきによりて学びて得らるべきものではなく、宗は人々の主観の態度に外ならぬものにして、その外部にあらはれる状態はさまざまであるが、要するに、それは人々の内部にあらはれるところの或物に向つての憧憬の感情が根本をなすものである。その憧憬の対象たる或物は我々人間の精神のはたらきによりては思議すべからざるものであるが、しかもそのはたらきは大なる力として我々人間に向つて加はるものであるといふことが認められるのである。親鸞聖人の宗教にありては、これを阿弥陀仏の本願といふ言葉にてあらはして居られるのである。後段に説明するが如く、阿弥陀仏の本願は南無阿弥陀仏の六字にて表現せられて居るので、それに向つての憧憬の感情が宗教の心のはたらきをあらはするのであるから、親鸞聖人の宗教に於けるが如くに、阿弥陀仏の本願を信ずるものにありては、この南無阿弥陀が仏として崇拝の対象となるものである。  二。阿弥陀仏の本願  阿弥陀仏の本願のことは「大無量壽経」に説明してあるが、その文には 『設我得仏、十方衆生、至心信樂欲生我国、乃至十念、若不生者不取正覚、唯除五逆誹謗正法」  とあるが、此文の意は、「たとひ我れ仏を得たらむに、十方の衆生、心を至し信樂して我国(極樂淨土)に生むと欲して、乃至十念せむに、若し生れずば正覚を取らじ、ただ五逆のものと、正法を誹謗するものとを除く』といふのである。この本願の文には広く十方衆生と呼びかけてすべての衆生を相手とせられて居るのであるが、親鸞聖人の宗教にてはそれが末代無知の凡夫といふ意味にかつて居る。阿弥陀仏の本願の文には広く十方衆生と呼びかけてあるが、阿弥陀仏の御心を探れば、聖人よりは凡夫、善人よりは悪人、罪業多きものほど深くあはれみたまふことである。阿弥陀仏の慈悲は固より平等のもので、いづれをいづれと、わけ隔ては無いが、智者・聖人達は、阿弥陀仏の御手を離れても相応に修行が出来るのであるが、我々凡夫は罪業深重の病ひもの、その癖、愚愚痴無智で愚なること此上もなし、慈悲の仏の手を離れては、どうすることも出来ぬものであるから、阿弥陀仏の大悲の心は取り分けて、かやうなもの憐みたまふて、それで阿弥陀仏の本願は罪業重き我々凡夫のためのものであると、しみじみと考へられた親鸞聖人の宗教の心で十方衆生といふ言葉が、末代無・罪悪深重の凡夫といふことにかはつたのである。  それから願文に、心を至し、信樂して我国(極樂淨土)に生れむと欲して至十念せむにといふ言葉は「心を一つにして阿弥陀仏を深くたのみまゐらせて、更に余の方へ心をふらず、一心一向に仏助けたまへ』といふことになつたのが、親鸞聖人の宗教である。願文に若し極樂淨土に生れずば正覚を取らじとあるは「たとひ罪業は深重なりとも必ず阿弥陀仏はすくひまします」と、親鸞聖人の宗教の心にはさうなつて居るのである。  本願の文の意味を、文字通ほりに取るのと、自分の宗教の心にて読むのとの間には、かやうな相違がある。阿弥陀仏がまだ仏にならぬ前、法蔵菩薩のときに、我々人間が末代澆季の世に生まれて、その心が濁り、我も人も利欲のために身を使はれ、身のために心が苦しめられ、妻にまとはれ子にせがまれ、仏の教は有れども誰一人として修行するものなく、日々地獄の種をつくることにのみ隙のない、我々人間のあさましいすがたを見て、悲痛を感じ、かやうな愚痴・迷妄にして、自分の力にてはそれを如何ともすることの出来ぬ人々のために、そのあさましいすがたをその儘にして、成就することの出来る理想の境地をせしめむとて、永劫の間修行せられた後に、遂にその念願が成就して阿弥陀仏となられたのである。仏法の上にて、理想の心境といへば、涅槃寂静全く人間の心を離れて仏と成ることであるが、法蔵菩薩の念願には理想の内容を細かに分けて四十八種を数へてあるから四十八願と言はれるのである。その中にて第十八の願は上段に説いたやうに「心を一にして阿弥陀仏を深くたのみまゐらせて、更に余の方へ心をふらず、一心一向に仏たすけたまへと願へば、たとひ罪業は深重なりとも、必ず阿弥陀仏はたすける』といふのである。  三。本願成就の文  阿弥陀仏が此の如く、念仏往生の本願を起して修行せられて、その願が成就したのであるが、その本願成就の文に次のやうに書いてある。  「十方諸仏如来、皆共讃嘆無量壽仏威神功徳、不可思議、諸有衆生聞其名號、信心歓喜、乃至一念、至心回向願生彼国、即得往生、往不退転、唯除五逆誹謗正法』  その意は、阿弥陀仏の功徳は広大で諸仏が讃嘆するところであるから、あらゆる衆生が、その名號を聞いて、信心歓喜して、念仏まふすときは、すなはち極楽浄土に往生することが出来るといふのである。名號といふは南無阿弥陀仏である。名號を聞いて信心歓喜して念仏まふすときはすなはち極樂淨土に往生することを得ると言はれるのである。往生は阿弥陀仏の願力の不思議で、たのむ一念に定められるのであるから、そのありがたさから口に称あらはすは、皆仏恩報謝の称名である。命のつづくだけは御恩を喜ぶに飽きたることは無いが、しかし称へた力によりて極楽浄土に参るのでないといふことを挙げねばならぬ。  四。念仏往生  天明年間に著された粟津義圭師の「末代無智奨訓」の中に「総じて仏道修行といへば、大小乗ともに戒・定・慧の三学といふことを修せねばならぬ。智慧を礎くことが肝要ぢや。しかるに我等は三学無分、さしあたりてその智慧がない。いやいや我党も相応に智慧がある、まんざら白痴ではないと思はれふが、世間の智慧と出世の智慧と大きに訳がちがふ。仏法に智慧を先きだてたまへども、凡夫の持料の智慧のことでない。今日まで路頭にも立たず、世渡りをして居るはなかなか阿房ではゆかぬことぢやが、しかしその智慧が後世菩提のためには一とつも間に合はぬ。今日の凡夫が智慧ぢやと思ひ、かしこひと思ふて居るは、おほかたが今のやうな身知らずの猿智慧、この猿智慧が大に菩提の妨になる。まことに智慧を礎ぐ日には先づ戒を持ち、定を修せねばならぬ。戒は防止悪、身口意の三業の罪咎を犯さぬやうにたしなむのぢや。三業の悪とは殺生等の十悪、物の命をとらず、盗みかはきをせず、酒をのまず、嘘をつかず。これ等は身になし、口にいふ悪業、いつちまだ防ぎ易いが、兎角防ぎにくいは意業の罪なれども、その意業の悪を止めねば戒行具足とは言はれぬによりて、段々修練して後には腹を立てず、欲を起さぬやうになる。さうすれば心がおさまり湛然寂静しづまりきつて、浪風のない水の面を見るやうになる。それが禅定といふものぢや。その禅定を修得れば、それから無漏の智慧が起り、本有の仏性を照して、まことのさとりが得らるることなれども、先づ最初の戒だれも持つことがなかなかまねも出来ることではない。かう見たときは我等三国かからぬ紛れもない地獄の罪人なれども、ありがたいことには本願力の不思議ゆへに、かかるものも、たのめば必ず御助けにあづかる。いかに愚かに拙げなる煩惱具足の凡夫にて、ただありにかざる所なき姿にて侍んこそ、浄土真宗の本願の正機たるべけれ。愚なものは愚かながら、罪あるものは罪ありながら、ただもろもろの雜行雜修、自力のこざかしひ智慧だてを止めて、一心に余念なく、御助けへと、大悲にすがり奉れば、煩惱具足のたちのまま、愚痴無智のありべかかりで、このたび極楽へ参らせて下さるる」と説いてある。  いかにも平易に阿弥陀仏の本願のことが説明してあり、この意味からして阿弥陀仏の本願といはるるものは第十八の念仏往生の本願であるといふことが明かに知られるのである。さうして、その本願を言葉にあらはしたものが南無阿弥陀仏の六字であり、この南無阿弥陀仏の六字が我々凡夫の心の上に来たり、それが声となりて我々の口から出るのが称名で、それがすなはち念仏である。さうして、「各々十余箇国の境を超えて、身命をかへりみずして尋ね来たらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極樂の道をとひ聞かんがためなり、しかるに念仏より外に往生の道をも存知し、また法文等をも知りたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは大きなる誤りなり」と、親鸞聖人が関東の同行に対して教へられたやうに、平たく言へば、阿弥陀仏をたのましめ、さうして念仏せしめて以て極楽浄土に生れしむることを期するにあるのである。  五。本願の行  かやうにして南無阿弥陀仏は我々をして阿弥陀仏をたのしめる力として、阿弥陀仏の方から来りて我々に加はるもので、我々をして小智を捨て、とかくのはからひをなさず、善からむともあしからむとも思はず、ひたすらにこれを行ぜしめるものであるから、自分の行ではなく本願の行とせねばなりませぬ。従つて南無阿弥陀仏を行ずるものは、富めるものも貧しいものも、貴ときものも、賤しきものも、老いたるものも、若いものも、男であれ、女であれ、一様に南無阿弥陀仏に導かれて真実の世界に入り、途に極樂淨土往生することが出来るのである。  かやうにして、阿弥陀仏の本願の行たる南無阿弥陀仏に導かれて進むところの我々の生活は自からにして浄化せられるのである。固より修行の力によりて迷妄の心を断つのではなく、又観法によりて一切空の真理を知りて悟りを開くのでもなく、我々の生活の全体の上に南無阿弥陀仏の力がはたらくために、自身の日常生活の上に、いろいろの繋縛から免かれ、何事につけても恩恵を感じ、歓喜に満ちて幸福の中に暮すことが出来るのである。仏教にては此の如き念仏者を名づけて妙好人といふのであるが、その意は暗闇にして自己の相の醜悪なることを知らず、又無智にして人間の虚仮・不実なることを省みざる凡夫と雖も、阿弥陀仏の本願に信頼するに至れば、その身は依然として醜悪であり、無智であり、又虚仮のものでありながら、広大勝解のものとなり、人中の妙好のものと名づくべきであるとせられるのである。その意味に於て、妙好人と言はるるものは本願の行としての称名念仏を行ずるもので、宗教の心のはたらきが、美しく且つ強くあらはれるものであると言はねばならぬ。これから叙述する田原のお園の宗教生活は特にすぐれたもので、まことに稀有の妙好人と称すべきものである。  田原のお園  むかし三河の国田原にお園といふ念仏の行者が居た。若きときより親鸞聖人の教に帰依し、法座とあれば何方へも欠かさず参詣し、無我に法を喜ぶのを皆の人が随喜して、お園が住める地方にはこれがために親鸞聖人の法義が盛に行はるるに至つたといふ。お園は後に香月院師や一蓮院師などの高僧に親灸してその教を受け、浄土真宗の信者として、ますますその名が高くなつたのであるが、嘉永年間、七十拠歳にして死亡するときに至るまで、諸方をめぐりて、多くの人々に阿弥陀仏の本願の法を勧めたのであつた。安政三年に僧純師が撰ばれたる「妙好人伝」四編下巻に、三州そのとしての略伝が載せてあるが、それにはお園が無我に法を貴みよろこびけるを皆人随喜して所々へ招きて、「お話を承りたし』といへば「私は何も存じませぬが、この堕ち行くものを必ず助けるぞよ仰一とつを信じ奉りて、よきにつけてもあしきにつけても、御報謝の称名を喜ぶばかりなり」と言ふのを、皆人聞きて喜むだといふことと、それから、お園が或時矢矧の橋の上にて「摂取の橋に不捨の欄干、いかなる園でも落ちやうがない」と言つて喜むだといふ話が簡単に挙げてある。又あるとき誤りて風呂の落とし瓶へはまりしことありて、早速人来りて、やれ気の毒やと、引き上げければ、園の言ふやう「私が今まで地獄へ落つることを知らずしてうかうかと暮して居りますゆへお慈悲から御知らせにあづかりました」といひて落涙して喜びければ、皆人感じ入つたといふことが載せられて居る。これはただ零砕の逸話の記述に過ぎぬものであるが、お園が不思議の光明に照らされて、よく自分の愚悪の相を知り、人間の虚仮を明かにすることが出来て、一意専心に阿弥陀仏の本願に信頼し、これによりて全く無我にして且つ平和なる生活をしたといふことが、よく推察せられるのである。その一生の歴史につきては十分にこれを知ることのかなはざる点もあるが、その法スの生活の状態につきては多くの材料が提供せられて居るから、ここにその材料を挙げて、お園の仰信の美しきことと、又その信徳によりてあらはれたる善きことのいろいろを示さうと思ふのである。  自然法爾  親鸞聖人が此世にましましたとき、門人の願に依りて、浄土真宗の宗旨のことにつきて示されたる尺牘を、聖人の入滅後七十余年を経て、覚如上人の第二子従覚上人が輯められたものが「末燈妙」として「真宗法要」の中に収められて居る。その中に自然法爾の事と題したる一章がある。何人に与へたまひし尺牘か明かでないが、聖人御年八十六歳か、或は八十八歳の時の筆に成れるもので、聖人の晩年にありて、その円熟したる宗教の思考が極めて簡単に、しかも要領を挙げて適切に言ひあらはしてある。それに拠れば先づ自然の二字を解釈して、たとへば水は水、火は火と面々に其徳をそなへて、はじめて人の造り出だせるものにあらず。水は物をうるほし、火は物を焼く、それぞれの徳としてをのづから備はれるもので、人のしわざにあらず、人の思慮し、企図し得るところにあらざるをいふのである。法爾とは、法の徳の故にしからしむるといふ義にて、法とは阿弥陀仏が衆生をあはれみたまふて、この娑婆世界にて、法性の真理をさとりて以て仏となることが出来ぬものを、極楽浄土に迎へとりて、彼土にして法性法身をさらしめむとの本願を起したまふによりて、法の徳の故にしからしむるものであるから、行者のはじめて計ひなすにあらずといふ義である。「法然上人伝」に曰く「法爾自然といふことあり、焔そらにのぼり、水はくだりさまに流る。菓子の内にすきものあり、甘きものあり、これみな法爾の道理なり。阿弥陀仏の本願は名號を以て、罪悪の衆生を導かむと誓ひたまひたれば、ただ一向に弥陀をたのみ、念仏すれば法爾の理として往生するなり」と。又法然上人の「和語燈」にも法爾道理といふことありとて、同じやうなことが説明してある。親鸞聖人は此等の師教をあらはして「阿弥陀仏は人々をして自力のはからひを捨てて南無阿弥陀仏とたのませたまひて、無上仏にならしめむとの本願を起して、修行して仏となられたのであるから、行者はただ阿弥陀仏の本願を仰いで、その不思議の大なる力に信頼すべし」と言はれたのである。不思議の大なる力が自分を包囲して居るといふことを感知すれば、従つてその大なる力が自分に加はるにより、これを慈悲のはたらきとして受くるのが当然である。「自然法爾章」には阿弥陀仏は無上仏ならしめむと誓ひたまふたので、行者のはからひでなく、阿弥陀仏の徳のゆへに、自からにして、我々はたすけられるのを喜ぶべきであるといふ意味のことが説いてある。たとへば親の心がその子に加はつて居るのを子が感知するときは親の慈悲がありがたいと喜ぶのと同じことである。又ある人が「私はたのむ一とつでお助けと決定して居ります』と、自分の領解を述べたるに対して、お園は「たのむものがお助けなら、たのまぬものはなほお助けじや、たのむの我から見る世話は入らぬ、お助けがうれしうござります」と言つた。又或人がお園に向つて「お領解はいかが」と尋ねたときにお園は「やつて貰ひますわいのう」と答へた。さうすると其人が「それではたのむことが抜けて居る、しつかり聞かねば落ちますぞ』と難じたるにして、お園は「ありがたうござります、嬉しうござります」と言つてしきりに喜むだ。さうすると、其人は「あなたは落ちて、何が嬉しいのか」と尋ねた。お園はこれに対して「落ちればこそ、やつて貰ひますわいのう」と言つた。人は更に難じて「それでお慈悲の嬉しい日暮らしが出来ますか」といふた。そこでお園は「御恩や御慈悲は何ともない、何時も火事場の中じやわいのう」と言つた。「それで信心が頂かれますか、疑が晴れたのか、兎も角も弥陀をたのみ奉ると言はれますか」と詰問せられて、お園は『わたしは参らせてやらうの仰せの外には、あともさきも、一向に存じませぬ」と答へたのである。お園は法の徳のゆへに然らしむるといふ親鸞聖人の教を聞きて全く自分のはからひを止め、一心一向に南無阿弥陀仏を信じて、ただ『助けてやるぞとの仰せ」をそのまま受け取つて喜むだのであつた。又ある人がお園に向つて「一心一向といふことを聞かして下され」と尋ねたるに、お園は「一心一向に弥陀をたのめとは仰せられますが、園は存じませぬ」と言ひて、ただ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称名しながら「こんなことじやそうにござります」と、自分が聞いたことをその儘に述べて、その間に少しも自分の意見を交へなかつたのである。  「自然法爾章」に「弥陀仏の御ちかひのもとより行者のはからひにあらずして南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんとも思はぬ自然とはまふすぞとききて、ちかひのやうは無上仏にならしめんとちかひたまへるなり」とある。その意味は、たのむものをむかへたまふのが阿弥陀仏の本願であるから、むかへたまふことを喜ぶべきである。それも衆生のはからひにて力めてたのむにあらず、阿弥陀仏の方からたのませたまふのであるから、我々衆生の方から言へは阿弥陀仏の本願に乗托するのであり、阿弥陀仏の方から言へばたのむものを摂取して捨てたまはざるのである。かやうに、衆生をしてたのませてむかへたまふといふは、法の徳の故にしからしむるものであるから自然法爾である。寸毫も衆生の計度を要することなく、この身こそあさましき不浄造悪のものなれども本願の念仏を信樂するとき、必ず極樂淨土に往生するなりと喜ぶのみである」と説明せらるるのである。まことにこれ宗教の心のはたらきの神髄である。親鸞聖人は又、八十三歳のときに性信房に与へられたる文書の中にこのことを説明して「他力とまふすことは、弥陀如来の御誓の中に、選擇摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信樂するを他力とまふすなり。如来の御誓なれば他力には義なきを義とすと、聖人のおほせごとにてありき。義といふことははからふことばり。行者のはからひは自力なれば義といふなり、他力は本願を信樂して往生必定なるゆくに、さらに義なしとなり。しかればわが身のわるければ、いかでか如来むかへたまはんと思ふべからず、凡夫はもとより煩惱具足したるゆへに、わるきものと思ふべし。またわがこころのよければ往生すべしと思ふべからず。自力の御はからひにては真実の領土へ生ずべからざるなり。自力のみにては懈慢・辺土の往生、胎生・疑城の淨土までぞ、往生せらるることにてあるべきとぞうけたまはりたりし。第十八の本願成就のゆへに、阿弥陀如来とならせたまひたる、不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらはしたまへり。このゆへに、よきあしき人をきらはず、煩惱のこころをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりと知るべしとなり」と言つて、宗教の心は全く他力によりてあらはれることを説明して居られるのである。  かくの如くにして、親鸞聖人の教は、全く自力のはからひを捨てて、ただ、一心一向に阿弥陀仏をたのみ、その本願に順じて念ずれば、自然法爾の道理として極楽浄土に生することが出来ると言ふのである。それも自然法爾の道理であるから、我々人間の小智にて彼れ此れとはからふべきことにあらず。親鸞聖人が「本願を信じて念仏をまふさば仏になる、そのほか何の学問かは往生の要なるべきや、まことにこの理に迷ひはんべらん人は、いかにもいかにも学問して本願の旨を知るべきなり」と強く説いて居られるやうに、宗教の心のはたらきは決して学問によりて起るものではなく、我々人間が彼れ此れとはからふところをやめたとき、すべての事物につきて愉快の感情があらはれるのが本となり、それが意識にあらはれて、特別の思考ともなるのである。それ故に、親鸞聖人の教にありて、何の理窟もなく、ただ己を空しふして阿弥陀仏の本願をたのみ、それによりて極楽浄土に往生することが出来るといふ他力のはたらきを信受すべきのみである。この意味に於てお園の心は、よく親鸞聖人の宗教の精神を体得したるもので、その宗教の心が美しくあらはれたことも当然である。  弥陀教  かやうにして、親鸞聖人の宗教は、阿弥陀仏の本願をたのみ、自力を捨てて全くそれに乗托し、自然法爾の道を進みて、遂に極楽浄土に往生し、ここに自由安樂の生活をなすことを期するのである。全く自力のはからひを離れて他力のはたらきを仰ぐものである。これは仏教の一派に属するものでありながら、親鸞聖人以前の人々から奉ぜられて居つた釈迦教とはその旨趣を異にするもので、『ともかくも行者のはからひ、裏ばかりもあるべからず候へばこそ他力とまふすことにて候へ」と親聖人が言はれたやうに、全く自力を離れて阿弥陀仏の本願に帰するものであるから、これを阿弥陀仏のお、略して弥陀教と称して、自力の教と区別するのである。同じく浄土に往生することを期する宗派の中にも『行者のをのをのの縁に従ひて、余の仏號を称念し、余の善根を修行して、我が身をたのみ、我がはからひの心をもて、身・口・意のみだれ心をつくろひ、めでたうしなして淨土へ往生せんと思ふを自力とまふすなり」とありて、自力の心をはげまして修行すれども、その力には限りがありて、浄土往生の目的を達することの容易ならざるを知り、仏の力にすがるが如きは他力に交ゆるに自力を以てするものである。弥陀教にありては自力のはからひを全く捨てて、ひたすら阿弥陀仏の本願に信頼して、一心一向に南無阿弥陀仏の名號を称ふるもので、これをこそ始めて真言の宗教と称すべきである。  あるとき、お園は寒さのあまり、頭に手拭を被むりて居つたが、ふと気がついて見れば頭に手拭がない。これはしたり、何処に落したか知らんと、足元を見廻はして居つた。すると、その様子を見たる一人が「お園さむあなたの手拭は暖簾にかかつて居りますよ」と言へば、お園は「ああ左様であつたか、よく知らせてお呉れた、足元ばかりを捜して居たが、上から知らぬさきより取られてあつたか、もう聞いたときは取られたあとであつたかいな、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と念仏まふして喜むだといふことである。お園の心は自分が阿弥陀仏の本願の心の中に生きて居るものであるといふことを深く省みて、何事につけても親心に寄せて喜ぶのであつた。固よりそれは阿弥陀仏の他力に乗托して、自力のはからひを離れたるものであるが、外見は所謂十劫秘事といふものに似て居るのである。十劫秘事とは十劫安心とも言ひ、十劫のむかしに法蔵菩薩が衆生の成仏を誓ひて修行を始め、それが成就して阿弥陀仏となられたのであるから、このとき既に我等が往生を定められたことを疑はず忘れざるのが信心である。別に阿弥陀仏に帰命する心はなくてもよいとする異安心である。お園が何事につけても親心に寄せて喜むだのは自分の周囲に仏の慈悲の心が満ちて居り、さうしてそれが常に自分に加はつて居ることを喜ぶのであるから、それがすなはち阿弥陀仏の本願をたのむありさまである。かういふことをおろそかに考へて、阿弥陀仏は十劫正覚のむかしに衆生を助けることを決定されたのであるから、我々は既に仏に助けられて居るとて、仏を拝まずたのまず、既に此儘で助けられて居るものと心を定めて居るところの異安心と間違へてはならぬ。  あるとき赤羽御坊へ某嗣講が派出せられたる折に、同行中にお園の領解は正意にあらずとて、ひそかに嗣講に其旨を告げたものがあつた。嗣講も他の人ならば兎も角、多くの人を導きつつあるお園のことなれば捨て置くべきにあらずとて、早速使者を以てお園を呼び寄せられた。嗣講は先づ詰問の口を開いて「お前の領解は」と間はれた。さうするとお園の言く『私は今日御殿へ参らうとは夢にも存じませなんだが、貴方の仰せによりて参りました次第でござります。これが園の領解でござります」と。これを聞いて某嗣講もお園が真に阿弥陀仏の他力を信ずる心の厚きに驚かれたといふ。思ふに、お園の意は、自分がここに参つたのは自分の意志によるのではなく、参るやうにせしめられたといふのである。阿弥陀仏の本願も全く罪悪の我等がために起したまへる大悲のはたらきで、阿弥陀仏の摂取不捨の力が強く我々に加はるがためにそれに信頼する心があらはれるのであると喜ぶのである。これ全く自力を捨てて阿弥陀の他力に帰したる相である。  一心帰命  弥陀教の意によれば「阿弥陀仏の本願は行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、迎へんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんとも思はぬ』ことを要とするものである。この場合にたのむといふは自力の手をはなすことを言ふので、「自力の手をはなせ、何も持ち物なしになれ、自分のはからひの心を頼みて、その頼み心を力にするのではないぞ」といふほどの意味にてたのむといふのである。これがすなはち一心帰命であるが、一心とは仏の仰せを二心なく疑ふことなしといふこと、帰命とは仏の仰せに従ひたてまつるといふこと、共に自力のはからひを全く離れることを言ふのである。阿弥陀仏の本願はたのむものを助けむといふのであるから、たのむばかりのお助けであると教へられるのであるが、これを聴聞する人はたのむといふことを心に誓ふて、これを阿弥陀仏へ上げねば助けられぬと、たのみ心を進上するのであると思ふが故に、たのむことが容易でない。それ故に、弥陀をたのむといふのはさつぱりと自分のはからひを捨てて、一意専心に仏の仰せに従ふことであるといふことをよく辨へねばならぬ。  あるとき、越前の某寺に多くの僧侶と同行が集まりて、法義の講習會を催して居つた折に、お園は京参りの道すがら同地方にて同信のものが多勢集まりて居るところへ呼ばれて、いろいろ法義のことの相談に興かつた。そのことを講習会へつげ口をしたものがあつたので、講習會側では「此頃三州からお園といふ老婆が来て、異安心を勧めるといふことであるが、以ての外のことである。捨て置くべきことでないから、早く呼び寄せて懺悔させるがよからう」といふので、早速お園を呼び寄せたのである。會合の同行達は何れも心配して講習會の方へ行くことをとどめたが、お園は少しも心配する色なく「来いよとおつしやるから行きますわいのう、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と、念仏しつつ講習會へいつたのである。すると重立ちたる僧侶がお園に向つて「三河のお園とはお前のことか」と言つた。お園は「へー、私でござります』と答へた。すると僧侶は声を高くし「聞けばお前はこの頃、この地方で異安心を勧めるさうじやが、甚だ情ないことである。お前ばかりではない、他の人々まで迷はすといふはよろしくない。速かに懺悔して御正意にもとづけよ」ときびしく言つた。これを聞いたお園はにこにこと笑ひながら、「わたしは丸で違ふて居ります、若し違はなんだら何としませう、違ふて居りやこそなあ申し」と喜むだ。僧侶はこれにして「お前は何ほど喜むで居つても、違ふて居つては浄土参りはかなはぬ。今死ねばすぐ焔の中へ落ちねばならぬじやないか」と言はれると、お園は「はい落ちなんだらどうしませう、落つればこそ救はれるがなあ申し」と喜ぶ。それでは本願の御誓約に背くぞ、誓約に背きて往生が出来るものか」と、更にきびしく責められると、お園は「本願の御誓約にまで背けばこそ、無有出離之終と仰せられるがなあ申し」と言つた。そこで僧侶は「いや、誓約に背きて往生はかなはぬじやないか」と叱つた。叱られながらお園は「ああ、ありがたい、自分で生が出来たらお助けか他の人のものかなあ申し」と、すこしの心配げもなくして喜ぶのみで、何と言つても少しも驚く色がない、ただ何につけても我身のしあはせを喜ぶのみである。僧侶は閉口してこの婆は気違ひじや、何といふても喜んで居る、こんなものはほつて置くがよい、仕方がない」と、互に顔を見合せてささやぎ居るのであつた。さうすると、お園は「ああ、気違ひとは何たる嬉しいことであらう、この地獄行きの機を極樂行きの機と違へて下されたかなあ申し」と言つて嬉しがる。さうなると、僧侶も手のつけやうがなく大音あげて叱りつけた「うかうかしやべるじやない、外とは違ふぞよ。この奥の間には長濱の御連枝がお聞き取りになつてござるぞよ、分らぬことを言わな」と叱りつけた。お園はそれに対して「さうさう、御飯を食ふて生きてござる御方がわかつたら大騒動、わからぬでこそ不思議といふかなあ申し」とて、一層喜ぶのみであつた。この様子を始めから奥の室にて聞いて居た連枝は「その老女をこなたへ」と言はれた。そこでお園は早速連枝の前へ出ると、連枝は鄭寧に挨拶して「よく知らせて呉れた。弥陀をたのむだとは其姿であつたかや。今日始めてその領解を姿にあらはして示して呉れた」と深く感嘆せられたといふことである。まことに不思議の阿弥陀仏の本願は南無阿弥陀仏の名號にて標せられて居るのであるが、南無とは帰命と訳し、阿弥陀仏は無量壽如来と訳すべく、すなはち仏の仰せに従ふといふ意をあらはしたものである。それも「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんとはからはせたる」のであるとするのであるから、すべてがこれ他力のはたらきで、寸毫も衆生自己の計量を交へず、これによりて以て出離解説の大事を成就する他力安心の要諦を示すもので、歌に『南無阿弥陀仏、他力ならぬのりぞなき、たのむところもわれと起らじ」とあるはよくその意を示したものである。お園が阿弥陀仏の本願は法の徳として我々に回向したまへるものであるといふことをよく理解して、少しも自分のはからひを其間に交へず、仏の慈悲の力によりて極楽浄土に往生せしめられるといふことを聞いて疑はず、さうして帰命の一念も阿弥陀仏の催促によりて起るものであると喜ぶ無我の態度は、これを見たる長濱の連枝をして深く感嘆しめたのであつた。  信心獲得  かやうにして、阿弥陀仏の本願はたのむものを助けむと誓はれるのであるが、それもたのむことを知らぬ我々衆生に対してたのむ心を仏より回向せられるものであると感知せられるのである。すなはち阿弥陀仏の本願に対して一念帰命の心をあらすことも凡夫の迷心にあらずして、全く仏智が自分の心の上にあらはれたものであるとせねばならぬ。親鸞聖人の教にありてはこれを信心獲得といふのである。「唯信鈔文意」に親鸞聖人のこれに対する言葉が記してあるのを見ると「この信心は摂取のゆへに金剛心となる。これは念仏往生の本願の三信心なり。観経の三心にはあらず。この真実信心を世観菩薩は願作仏心とのたまへり。これ淨土の大菩提心なり。しかればこの願作仏心はすなはち度衆生心なり。この度衆生心とまふすは、すなはち衆生をして無上大涅槃にいたらしめたまふ心なり。この信心すなはち大慈大悲の心なり。この信心すなはち仏性なり。仏性すなはち如来たり」とありて、信心獲得は要するに、我々衆生の心が仏の心光と一味になるといふのであると示されて居るのである。又曰く『真実信心うるひとはすなはち定衆のかずにいる。不退の位に入りぬれば必ず滅度をさとらしむと候は、このたびとの身おはりさふらはんとき、真実信心の行者の心、報土にいたり候ひば、壽命無量を体として、光明無量の徳用はなれたまはざれば如来の心光に一味なり。このゆへに大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり」とありて、信心とは、仏の心を獲得したものであると示して居られるのである。或人がお園に向ひて『何ほど聞いても、愚図愚図して居ります。一言聞かして下さい」と言へば、お園は『お前も愚図か、わたしも愚図愚図じや。けれどもそのぐづぐづの儘で来いよと仰せられたら、まんざら嫌気もしないでのう」と言ふた『それでも信心肝要と仰せられるが、その信心が何時得られたやら、わかりませぬものを」と不安の心持を述べければ、お園答へて『信を得るといふははといふまでのことでありますげな」と言つた。まことに要領を得た説明である。本より親鸞聖人の教にありて信心を得ることが肝要であることは十分に説かれて居るのであるが、その信心とは普通の意味にて言ふやうにを仏を信ずる心ではない。若しそれが仏を信ずるの心であるならば我々は如何にして仏を信ずべきか。仏と言はるるものはもとより我々の眼で見ることが出来ず、又我々の手で觸れることの出来ぬものであるから、果して存在するか否かも我々の普通の心には判断のつくものではない。さればと言つて偶像や像などに対してそれが仏であると思ふのはたださう考へるので決してこれを信ずるのではない。それ故に「その信心が何時得られたやらわかりませぬもの』といふやうな歎きが出るのである。真実の宗教の心から言へば、信心とは我々が進みて仏信するのではなく、不思議の仏の心がそれ自身に我々の心の上にあらはれて来ると感ずるのである。それ故に信心は真実の心であり、真実の心は人間を離れたものであるからこれを仏の心であるとするのである。それ故に阿弥陀仏の仰せに「我をたのめ、必ず助くるぞ」とあるといふことを聞きて、何等のはからひなく、ただはいはいと、すなほにこれを受け取るのが阿弥陀仏をたのむのである。仏を信ずる心をあらはして精進努力するのではなく、ただはいと仏心するのである。信心獲得とは正にかやうな意味を示すもので、宗教の心のはたらきとして重要なるものである。  計度不定  阿弥陀仏の本願はたのむものを必ず摂取して捨てぬとあるから、その仰せを聞いてただはいと受け取るべきであるが、種々に計度し、さまざまに構画して、しかも本願に契当し難いのが常である。此等の人は阿弥陀仏の本願をたのむべき教を聞きて、いかにもたのむとは思へども、阿弥陀仏をたのむ一念の信はもと行者の方にあるにあらずして、全くこれ仏心なることを知らず、自分の心中より出づるものと心得て、捜し求むるが故に思慮詮索の迷情に沈みてますます仏智を隠蔽するによりて計度不定の弊に陥り、出離縁のあることといはねばならぬのである。この迷情の雲を除き、仏智を隠蔽するところの自力の心行を捨て、ただ不思議の願力ぞと仰ぐときは帰命の信心忽ち現前するのである。これを真心を開闡すといふのである。伊勢にて一人の婦人が、仏の仰せを聞いてもはいはいと受け取ることが出来ずして、困つて居るのに向ひて、お園は「お差支なし、御注文なし、と言ふことを、二三年つづけよ」と教へた。婦人は喜むで帰り、二三日たつと又やつて来て「仰せに従えて三日間朝から晩まで言ひつづけに致して居りましたが、何ともござりませぬ。胸の中は相らず、おかしなものでござりますが、こんな心でもようござりますか」と不安のおももちで問ふた。お園はそれに対してただ「お差支なし御註文なし」とのみ言ふ。「それでも何ともござりませぬ、変哲もない心中でござります」と重ねて言ふと、お園はまたただ「お差支し、御注文なし」とのみ言ふ。その婦人はこのとき、始めて、自分のはからひは何の役にも立たぬ、凡夫その儘のお助けであるといふことに気がつきて喜び勇むだといふことである。いろいろと胸の中ではからふて居るものに対して、「それではいかぬとか、それでよろしいとか』といふやうなことを言ふと、更にはからひの心のはたらきを増して始末のつかぬものである。親鸞聖人が「他力と申し候はとかくのはからひなきを申候なり」と言はれるのは、全くかやうな思慮詮索は自力のはたらきにして仏の心を受取るためには邪魔にこそなれ、素直にこれを受け入れるために何等の功能がないといふことを示されたのである。これと同じやうな話は越後塔の濱のある婦人が、心に悩むことがあつて、京都に上ぼつて香樹院師に謁して「この後生どう致しませう」と涙ながらに尋ねた。さうすると、香樹院師はただ「鶴の脚は長いなりに、鴨の脚は短いなりに、その儘のお助けじや」と言はれたきりで坐を起たれた。その婦人は本意なく思ひながらも是非なく帰路につき、旅行中終日、右の言葉を胸の中に繰返して居たが、何時となく、大悲の光明に照らされて「ああ、こ御恩をどうしやうどうしやう」と言ひながら喜むで家に帰つたといふ。お園が伊勢のある婦人に示したところもこれと同じで、思慮詮索を離れたところに、自から心の奥に湧き出づる宗教の感情はただ何となく喜悦の心を起さしめるものである。  お園が折にふれて人に向つて話したものに『團子汁の談合」といふものがあつた。それは「あの夕方になりますと、女中がお汁こしらへて、それへ團子を入れて下から焚き立てますね。すると團子は煮える気はないけれども、火の方でひとりで煮えあがりますね。煮え上つたと思ふ頃にはすぐすくひ上げて下さりますよ」と言ふのであつた。自分はいかにも、その調子のやうなもので、光明の力でそだてられ又救ひ上げられるものである。そこには何等自分の心のはからひを要せぬ。思慮詮索は却て光明のはたらきの邪魔をするものであるといふことを譬へて言つたものであるが、それがお園の口から出づればいかにもありがたく聴かれたといふ。  又美濃の藤川といふ所で、お園がある信者の門前を通ほり過ぎしに、その家の家内がこれを見つけて「ああ、今田原のお園さんが通ほる』と言へば、平素お園を慕ひ居れる主人が出て見れば、もう遙かに向ふに行つて居た。そこで後を追ひかけて「お園さん、どうか一言聞かせて下され』と、声をかけしにお園は振りかへり「もう思ふことも、言ふことも入りませぬげな、如来様が助けてやるとおつしやつて下さりますげな」と言ひ捨てて後をも見ずにさつさといつてしまふたといふ。思ふにお園の意は、阿弥陀仏の本願を如実に聞き得して自力の計度にて、本願にしがみつかむとするものの非を矯めむとするのである。若し深く内観して、出離の縁あることなきものを、阿弥陀仏は必ず助くるぞと仰せられるといふことを聞くときは、思ふことも入らず、考ふることなくしてただその恩徳の広大なることが喜ばれるのである。お園が「仏さまが助けてやるとおつしやつて下さりますげな」といふので十分である。それにつきて彼れ此れと思慮詮索することはすこしも必用でない。そこに宗教の心が強くあらはれて居ることが認められるのである。  聞信一念  弥陀教の意にては、南無阿弥陀仏の名號を聞き、そのいはれを信じて疑はぬのが聞信一念と言はれるのである。実成院仰誓師の説明に「敵に追ひかけられて仕方なさに、丈夫などと、修業を尋ねるもの、この空林寺の院主の如きものが、世に少なからず存在するのである。弥陀教にありて修業の法はただ一とつ法を聞くといふことで、それも私意を捨てて、何の慮るところなく、何の疑ふところなく、朴直にこれを信ずるところに宗教の心があらはれるのである。あるとき一蓮院秀存師の許へ、四五人の同行参りて「御聞かせに預かりたし」と願ひければ、秀存師は一同に対して「そのままの御助けぞ」と授けられた。さうすると一人「このままで御たすけでござりまするか」といふ。秀存師の曰く「違がふ」又同行の一人「このままで御たすけでござりまするか」といふ。秀存師又曰く「違がふ」、しばらくありて又他の一人、「なにとぞ今一度御きかせ下されたし」と願ひければ、秀存師また一同に対して「そのままの御助け」と言はれた、他の一人、その声に感じて「ありがたうござります」と喜びて受けた。秀存師も非常に喜びて、「御浄土で逢ふぞよ」と言はれたといふ。内観の深いものが「たのめ助けるぞ』の本願の声を聞くときは喜むでこれを受けるのみである。今お園が「わたしには微塵ばかりも仏法はない、ない故に、仏様に助けられるが嬉しいより外はない」と言ふのは、いかにもよく聞信一念の宗教の心をあらはすことの出来たものであるといふことを認めねばならぬ。  暗夜一燈  あるとき、お園は味濱御坊にて夜中に便所行かむとして戸惑ひ、がたがたして居つた。そこへある人があかりを持て行きたれば、お園の曰く「ああ、暗い所にこそ光りが御入用であつたかなあ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と言つた。法の光に照らされて自分の暗黒の心が明るくなるのが宗教の功能であるかの如くに因と果とを倒まに考へるものが多い、たとへば失明して何も見えぬ自分の眼が法の力によりて物が見えるやうにと望みて法を求むるものが、少なくないのであるが、それは間違つた考である。宗教といふ心のはたらきは諸法相実相とて、物のすがたをその儘に見て、しかもそれは自分の力にては如何ともすることの出来ぬことが知られて、自分の身と力とが全くその価値を無くしたときにあらはれるものであるから、盲目を盲目と知らしめられて、自分の眼が役に立たぬといふことがわかりて始めて光の力にすがるのである。佐藤一斎の「言志録」に「一燈を提げて暗夜を行く、暗夜を憂ふること勿れ、只一燈に頼れ』とあるが、それが確かに宗教の心持を示すものである。法の力によりて暗夜を無くするといふことが問題ではない。徒らに心配することなく、一燈に頼りて行くことが宗教の心のはたらきではない、五劫永劫の願行で助かるのじや」とある。釈迦教は自分の心の中に仏を求めるのであるが、自分の心の中には仏が求められぬといふことに気がついて、自分の心の外にある仏の慈悲を仰ぐのが浄土教である。しかもさういふ努力の出来ぬ煩惱具足・罪悪深重の我々は聞くこと一とつが修行で、我心をかきまわさずして、阿弥陀仏の本願に耳を傾けて何の理屈もなく、自分が仏に助けられることを喜ぶのが弥陀教の真諦である。  三河の高棚村の空林寺がある事情のために、同行衆のはからひにて、お園を招待したことがあつた。そのとき院主の曰く『御度御苦労をかけたのは余の義ではない。恥かしいことには、坊主に生れながら、私に仏法がないので、只今困つて居る事情がある。どうぞ仏法に入る近道を聞かして下さい」と懇願した。お園はこれに対して「わたしも仏法は少しもない、無いゆへに仏法様に助けられるが嬉しいのである」といふ。さうすると、院主は「そんな薄情なことを言はずに聞かして下さい、本当に私には仏法が無いから」と重ねて懇願した。お園は「わたしに仏法があると思ふて呼びつけなさつたか。それが間違ひといふものじや、嘘でも何でもない。わたしには微塵ばかりも仏法はない、ない故に仏さまに助けられるが嬉しいより外はないわいのう。まあ今日は寒いで帰ります。御免なされ」と一禮を述べてすぐに帰つた。あとで院主は同行衆に向ひ『坊主といふものは悲しいものじや。両手をついて尋ねても聞かせて呉れぬ」と、右の次第を物語た。さうすると、同行は手を打て喜び「それほどうまひことを聞かせて貰ふて、それが食はれぬといふは、あなたに仏法がないからじや。これから聞いて仏法があるやうになつてからの往生はまわり道。今の仏法のない儘で助けられる。これほどの近道を教へて呉れる方がどこにあらう」と言つた。ここに於て、院主は始めて其事に気がつきて、「さうであつたかや、私は仏法がないといふことだけ聞いて、仏様に助けられることを聞かなんだ』とて、我身の不行届を懺悔したといふ。それが縁となりて遂にはお園を迎へて空林寺でしばしば法筵が開かれたとのことである。元来、宗教の心といはれるものは特殊の感情を本とするもので、何事につけても愉快の心持として意識せられるものであるが、それが智能のはたらきに移りて後に、いろいろの思考を生じ、又いろいろの理論を生じてそれが文章や言語の上に表現せられるに至るものであるが、しかもその本質たる宗教的感情は人々の心の奥に自からにして湧き出づるもので、決して他からこれを注入することの出来るものでない。無論これを学びて得べきものでもない。しかるにこれを学問と同じやうに智能のはたらきであると考へて、仏法に入る近道はどうであるかなどと、修行を尋ねるもの、この空林寺の院の如きものが、世に少なからず存在するである。弥陀教にありて修業の法はただ一とつ法を聞くといふことで、それも私意を捨てて、何の違るところなく、何の疑ふところなく、朴直にこれを信ずるところに宗教心があらはれるのである。あるとき一蓮院秀存師の許へ、四五人の同行参りて「御聞かせに預かりたし」と願ひければ、秀存師は一同に対して「そのままの御助けぞ」と授けられた。さうすると一人「このままで御たすけでござりまするか」といふ。秀存師の曰く「違がふ」。又同行の一人「このままで御たすけでござりまするか」といふ。秀存師又曰く『違がふ」。しばらくありて又他の一人、「なにとぞ今一度御きかせ下されたし」と願ひければ、秀存師また一同に対して「そのままの御助けぞ」と言はれた、他の一人、その声に応じて「ありがたうござります」と喜びて受けた。秀存師も非常に喜びて、「御浄土で逢ふぞよ」と言はれたといふ。内観の深いものが「たのめ助けるぞ」の本願の声を聞くときは喜むでこれを受けるのみである。今お園が「わたしには微塵ばかりも仏法はないない故に、仏様に助けられるが嬉しいより外はない」と言ふのは、いかに宗教の心をあらはすことの出来たものであるといふことを認めねばならぬ。  暗夜一燈  あるとき、お園は味濱御坊にて夜中に便所へ行かむとして戸迷ひ、がたがたして居つた。そこへある人があかりを持て行きたれば、お園の曰く「ああ、暗い所にこそ光りが御入用であつたかなあ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と言つた。法の光に照らされて自分の暗黒の心が明るくなるのが宗教の功能であるかの如くに因と果とを倒まに考へるものが多い、たとへば失明して何も見えぬ自分の眼が法の力によりて物が見えるやうにと望みて法を求むるものが少なくないのであるが、それは間違つた考である。宗教といふ心のはたらきは諸法実相とて、物のすがたをその儘に見て、しかもそれは自分の力にては如何ともすることの出来ぬことが知られて、自分の身と力とが全くその値を無くしたときにあられるものであるから、盲目を盲目と知らしめられて、自分の眼が役に立たぬといふことがわかりて始めて光の力にすがるのである。佐藤一斎の「言志録」に「一燈を提げて暗夜を行く、暗夜を憂ふること勿れ、只一燈に頼れ」とあるが、それが確かに宗教の心持を示すものである。法の力によりて暗夜を無くするといふことが問題ではない。徒らに暗夜を心配することなく、一燈に頼りて行くことが宗教の心のはたらきである。お園が「暗い場にこそ光が御入用であつたかなあ」と言つたのは正にこの意を示したものである。寶晋斎其角の俳句に「松蔭のうつるも月の光かな』といふのがあるが、なるほど松の影が暗いのも月の光に照らされてのことであるから、これと同様に我々が自分の心の暗い蔭を見ることが出来るのも光のお蔭であると喜ばねばならぬ。それ故に、我々にして若し自分の心の蔭の暗黒であることを知れば知るほど、ますますこれを照すところの光の強きことを考ねばならぬ。さうして、この強き光に照らされて自分の心の暗黒なることがますますよく知られて、光に照らされつつ生活して行くことの喜びを感謝せねばならぬのである。「心が明るくならねばお助けにあへぬやう」に思ふのが人々の常であるが、宗教の心のはたらきとしては、それと反対に自分の心の暗いことを知らして貰のが光の力によることであるから、「暗い所にこそ光が御入用であつたかなあ」といふお園の言葉には宗教の心のはたらきが強くあらはれて居ることが想はれるのである。又心理学的に精神のはたらきの上から見れば、暗黒の実際に処して光明を望むことは憧憬の感情として必然的にあらはれて来るものであるから、我々人間の暗黒の心が、光明の仏を欣求することは、宗教の心のはたらきの重要なるものであるとせねばならぬ。  歎喜生活  三河の野田村に和兵衛といふ淨土真宗の信者が居つた。此家へお園はたびたび来て、同行と法義の話をしたことがあつた。或時晝飯のときにお園は茶を汲みに臺所へ出た。さうすると此家の女房がお園に向つて「お園さん、あなたがおいでると、同行の人々が集つてさも嬉しさに御相談をして居られますが、私は如何なる邪見者やら、ただ此世ばかりが面白ふて、後生のことは嫌でござります』といふた。お園は「さうさう、お前様もさうか、私もそれより外はない。毎日法の話はして居るけれども、仏法がすきではありませぬ。実は後生のことは大嫌で、此世のことが好きでござります。けれども嬉しいことには、後生嫌で此世の好きなものを親様がすいて下されますげなで、此世好きの後生嫌のものが一番がけに参らせて下されますげなで、それが何より嬉しいでのう。このことを毎日談合して居るのじや」と話した。お園のこの一言に女房はひどく感激して、本と禅宗であつたものが忽ちにして真宗の門徒となり、夫の和兵衛と共に阿弥陀仏の本願を喜ぶ身となつたといふ。まことにお園には真に宗教の心がよくあらはれて居たので、阿弥陀仏の慈悲は何れをいづれとわけへだてはないものなれども、智慧のあるものは仏の御手を離れても相応に修行することであるが、我々のやうに罪業深重の病ひのもの、その癖愚痴無智でおろかなること此上のないもの、仏の慈悲の御手を離れては一寸もひとりあるきの出来ぬものである。阿弥陀仏の大悲は取り分けて、かやうなものをふびんに思召してのことであると思へば五劫の思惟・永劫の修行も他人のためとは思はれぬ、「ただ親鸞一人がためなり」と、親鸞聖人が喜ばれたやうに、お園も阿弥陀仏の本願の力が罪深重・煩惱具足の我身に加はることを信じて、我が身の仕合を喜ぶのみであつた。それ故に、仏法のことを聞かれても、其道の人が説かれるやうに、戒・定・慧の三学を修めて以て涅槃・寂静の仏の境地に達せねばならぬといふやうな、むつかしい理屈はすこしも言はず、「此世ずきの後生嫌のものが一番がけに参らせて下されますげなで、それが何より嬉しいでのう」と歓喜するのみであつた。お園の心には阿弥陀仏の本願によりて浄土に往生することが出来るといふことを聞いて自身の幸福を喜ぶより外には何もなかつた。「此世ばかりが面白ふて、後生のことが嫌でござります」と言つて自分が邪見者であると歎じたる女房が、お園の言葉に接し、その心の奥から湧き出づる宗教の感情の真実に、全く自力のはからひを離れて、その教に帰したることは不思議である。しかもお園の言葉はこれを表面より見れば、ただ深き内観によりて知り得たる自分の相を話したるに過ぎず、仏法に入ることにつきては、何等の説明をもしたのでない。しかるにこれを聞いた女房の心はこれに動かされて、にはかに宗教の心をあらはすに至つたのである。親鸞聖人が「唯信鈔文意」に述べて居られるやうに「一切有情まことのこころなくして、師長を軽慢し、父母に孝せず朋友に信なくして悪を好むゆへに、世間・出世みな心口各異言念無実なりと教へたまへり。心口各異といふはこころと、口にいふことみなをのをのことなり。言念無実といふことばと、こころのうちと、実ならじといふなり。実はまことといふことばなり。この世の人は無実のこころのみにして、浄土をねがふ人は、いつはり、へつらひのこころのみなりときこへたり。世を捨つるも名のこころ、利のこころをさきとするゆへなり。しかれば善人にもあらず、賢人にもあらず、精進のこころもなし。懈怠のこころのみにして内は空しく、いつはり、へつらふこころのみ常にして、まことなき身と知るべし」といふべく、誰人にしても若し真面目に自己の内面を反省するときは、底の知れぬ虚偽・雑毒にしてまことなきものであることが知られるのである。お園が『毎日法の話はして居るけれども仏法がすきではありませぬ。実は後生のことは大嫌で、此世のことが好きでござります』といふ、その心持も全く親鸞聖人が我々人間の心を心口各異・言念無実なりと言はるるものと同じやうに、虚偽・雜毒にしてまことなきものとするのである。しかもこの虚偽雜毒のあしき心を自分で如何ともすることの出来ぬものであるとき、これも親鸞聖人が言はるるやうに「何れの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」である。かやうな心の状態にあるとき、阿弥陀仏の親様が後生嫌ひで此世の好きなものをすいて下されますげなで、此世好きの、後生嫌のものが一番がけに参らせて下されますげなと聞くだけで、それが何より嬉しいと、ありがたくこれを受け取ることが出来るのである。この意味に於て宗教の心のはたらきは実際歓喜に満ちた生活を為すことを特徴とするのである。浄土真宗一派にて此の如き妙好人を指して一に喜び手といふのはすなはちこの意味に外ならぬのである。  愚人念仏  越中の開悟院師が三河へ参られて法話をせられた折、お園は一坐も欠がさず聴聞したのであるが、いよいよ別れとなつた日に、お園は開悟院師に向ひて『永々御寧ろの御化導ありがたうござりましたが、この園は何も蚊も忘れてしまいました。どうぞおかたみにたつた一言お聴かせにあづかりたうござります」と願つた。開悟院師はしばらく黙して居られたが、何と思はれたか、突然と「お園や、聞けば此頃矢矧の橋が流れたさうなのう」と言はれた。お園「はい左様でござります」開悟院師「あの橋は流れさうもない丈夫な橋であつたがのう」お園「さればでござります、この度は非常の洪水で、あの丈夫な橋も流れてしまひました』開悟院師「さうか、非常な洪水で橋は流れたか、お園それでも天上から映つて下さる月影はよもや流れはせぬであらうの」その言葉の終らぬ内に、お園は莞爾として「お助けの月はまんまと映つて下さいました」と言つて大に喜むだといふ。人間の為したことはいかに丈夫さうに見えてもあてにはならぬ。それに反して仏の慈悲は広大にして永久にかはらぬものであると、これを月の光にたとへて感歎したのである。かういふ言葉に刺戟せられて感謝に堪えぬお園の心はまことに宗教に厚かつたといふことが窺はれるのである。享保年間に出版せられた「為愚痴物語」の中に「みな人、後生を願ふといふて、仏の内証をも知らざるよくなし坊主の示しを受けてなま智慧あるひは文経文論釈の片端を聞き、多く覚えてまことを知らざるまどひの義理講釈をつけ、又我と推量をなし、定めて是より外はあらじなどと思ひ定めて、我こそ仏法は明らめたれなどと自慢をなし、物をも知らざる出家をなぶり、仏法だてして、仏の戒を破ぶり、五常の道をそむき、他宗をよしあしとそしり、物知り顔して浮世を渡る人あり。少智は菩提のさはり、なま物知り川に流るるとはこれなるべし。惣じてこれにてあらんと推量をなしたるさとりだては中々、愚痴の念仏申す、よろづの看経にははるかに劣るべし。かやうの人の行跡を見れば慳貧《けんどん》邪見の道、一つも去らず、慈悲あはれみもなく、年たけ齢傾きて、明日の命を知らざる身となりても、浮世の望み一とつも離れず、口には賢者ぶりの無欲だて、心はあくまで欲深く、有徳の人をへつらひ媚をなし、貧者をそしり嘲りて我が身をば嘗て知らず、愚痴あつくして、いつはり多く、まことすくなく、心曲がりて意地わろく、人の能をそねみ、あしきを喜び、我慢名利を本意として仏の内証に一とつもかなはず。これ後生を願ふ人といふべきにや。寺へ参りて仏前に向ひ、念仏する間は、いかなる盗賊、大悪人の慳貧《けんどん》・邪見・放逸の人なりといへども、其間は疑念はらりと晴れて、無念・無想になる。これかた時の成仏にあらずや。されば念仏の修行いたり信心きはまりぬる人は、雨夜の月の如し、愚痴・妄念晴れねども、西方浄土に往生すると仏は説きたまへり。ここをもつて歌にも「弥陀たのむ人は雨夜の月なれや、雲晴れねども西にこそ行け』とよみたまへり。雨夜の月は光も見えず曇りながらも西に行きて又東にいでたまふが如し。さるほどに、弥陀の信心修行の功力つもり仏前の心我が胸の中にたしかにおさまり、慈悲あはれみの心いで来て、人をめぐみ、或は仏像をつくり、堂を建立し、或は僧法師を供養し、結縁をもととし、信心きはまり、常住不断・行住坐臥に仏前の如くに、常に我が心すなほになりたる人を愚人の念仏とは申すなり」とある。まことに愚人の念仏といふべきものはお園の宗教生活に於てこれを見ることが出来るのである。前にも既にしばしば述べた通ほりに、お園は仏教の経典の講釈などには耳を傾けず、又経文論釈に関することは、少しも口外せず、お園が仏の慈悲を喜ぶ相のいかにも美しきに感じてお話を承りたいと望むものに対しても常に「私は何も存じませぬが、この堕ちて行くものを必ず助けるぞよの仰せ一とつを信じ奉りて、善きにつけても、悪しきにつけても、御報謝の称名を喜ぶばかりである」と言つて喜ぶばかりであつた。かやうな純真の心に生きて居たお園には、至極丈夫であると思はれた矢矧の橋が洪水のために流がされたにも拘らず、天上の月は洪水の面にうつりてすこしも変ることが無いといふ事実はますます自然法爾の仏の慈悲を喜ぶの心を強くしたのであつた。  空念仏  仏教にて説かれるところに拠ると、前にも一寸言つた通ほりに、戒律によりて心を誠実にし、禅定によりて心を静寂にし、それによりて真実の智慧を得て遂に悟りを開くことが出来るといふのである。さうして、この戒・定・慧の三学の教を聴きて真面目にそれを実行しやうとすると、心想?劣にして、どうしてもその目的を達することが出来ぬといふ実際に逢著するのである。そこにあらはれたものが、仏を念ずるといふ行法である。「行願品疏鈔」といへる書物に説明せられたるところに拠ると、念仏には四種ありて、その一は称名念仏、二は観像念仏、三は観相念仏、四は実相念仏である。その称名念仏といふのは口に仏の名を称ふることである。観像念仏といふのは心に仏の画像や木像を観念することである。観相念仏といふのは仏の実体の相好や功徳を思ひこらすのである。実相念仏といふのは真如実相の真理を観念することである。この四種の念仏を縮めて言へば、語念と心念との二種で、口に仏の名を称ふる語念と、心に仏身を観念する心念との二種となるのであるが、共に行法に属するものであつた。現に鎌倉時代に著はされた「元亨釈書」に「念仏は読誦の一支なり」と言つてあるのを見ても、経典を読誦すると同じ意味にて念仏が用ひられたのであつた。華厳宗でも、真言宗でも、天台宗でも、念仏はその宗派に寓居して居たので、これを実宗として居たのである。この意味に於ての称名念仏は南無仏、南無釈迦牟尼仏、南無阿弥陀仏で、その功徳によりて極楽浄土に往生することを目的として居つたのであつた。しかるに空也上人に至りて始めて念仏が寓宗を離れて一とつの宗派となつたが、恵心僧都の「往生要集」に至りて称名念仏によりて極楽に往生すべきことが明かに説明せられたのである。それが法然上人に至りて更に一段の発展をなし、遂に専修念仏の教となつたのである。法然上人の説かるるところ拠ると、若し仏像を造り、塔を起すといふことが本願であるならば、貧窮困乏のものは往生することが出来ぬ。若し多聞多見を以て本願とするならば小聞小見のものは往生することが出来ぬ。若し多聞多見を以て本願とするならば少聞少見のものは往生することは出来ぬ。若し持戒持律を以て本願とするならば破戒無戒のものは往生することは出来ぬ。自余の諸行も皆これに同じで若しかやうなる諸行を以て本願とするならば、往生を得るものは少なくして往生せざるもの甚だ多いことである。それ故に阿弥陀仏は法蔵比丘のむかしに、平等の慈悲を催され、普ねく一切の衆生を摂取するがために、かやうな実行困難の諸行を以て往生の本願とせず、ただ称名念仏の一行を以てその本願とするといふのである。それ故に、阿弥陀仏の本願は人々をして一心に専ら称名念仏せしめ、さうして称名念仏するものをして極楽浄土に往生せしむるのであるから、その本願に順じて専修念仏するのが正定の業であると法然上人が説かれたのである。  此の如く、平安朝時代の仏教が漸次に宗教の真実を発揮するに従ふて、念仏して極楽浄土に往生することを期することも多くの人々の心を引きつけ、藤原氏榮華の夢から醒めて源平二氏の戦争を眼のあたりに見たる人々は、この浮世の転変のはかなき有様に驚き穢土を厭ひ離れて淨土を欣求すべしといふ教はますます盛に行はれ、それがためにはただ念仏するより外はないと知りて、法然上人の専修念仏に帰するものがますます多くなつたのである。固より法然上人の専修念仏は阿弥陀仏の本願に随順するのであるか自分はからひの心を離れたものであるが、しかも法然上人は念仏には必ず至誠心・深心・回向発願心の三心を具足せねばならぬと言はれるのであつた。三心とは、第一至誠の心にて念仏せねばならぬ、出鱈目にまうす念仏では駄目である。第二深く阿弥陀仏の本願を信ずること。第三功徳を淨土に回向して往生せむことを願ふ心、この三心を具足した念仏でなければならぬと説かれたのであつた。法然上人の言葉に「ただ一筋に仏の本願を信じて我が身をかへりみず、決定往生せむと思ひて申すを他力の念仏といふ。たとへば更なる石を舟に入れつれば、時のほどに向ひの岸につくが如し、これは全く石の力にあらず、舟の力なり、それがやうに、我等が力にてはなく、阿弥陀仏の御力なりこれすなはち他力なり」とありて、自力にて往生するのでないと説かれたことが明かである。しかしながら、三心具足の念仏であることを要すると説かれるのは、他力の中に自力がはたらくことを要するので、全く自分のはからひを捨てての念仏でないやうに思はれるのである。『深く本願をたのみて一向に名號をとなふべし、名號をとなふれば三心自から具足するなり」とも言つて居られるから、何のはからいもなく、ただとなふれば、往生するぞと信じてまふす念仏はその内に自から至誠心・深心・回向発願心の三心を具足するものである。別に三心の詮議を必要とせぬ訳であるが、しかしなが法然上人の意は「観無量壽経」に本づきて定機・散機の自力の心を主とするのである。定機とは定善をつむるものすなはち心を静めて善をするので、息慮凝心《そくりよぎようしん》といふのがこれである。散機とは散善をつとむるもの、すなはち散乱したる心を以て善をなすもので、廃悪修善といふのがこれである。つづめて言へば、諸行萬善を修めることである。親鸞聖人はそれに対して「大無量壽経」に本づき、至誠心・深心・回向発願心の三心は「大無量壽経」の三信、すなはち至心・信樂・欲生の三信を得るがための方便であるとなし、三心は畢竟するに真実信心の一とつに帰著するものであるとせられた。さうしてそれは全く仏の心を賜るものであるから、微塵だも我々自分のはからひを要せず、我々衆生が仏の本願を信じて念仏するのではなくして、仏の本願が我々衆生の心にあらはれて、我々衆生をして念仏せしめられるとすべきである。親鸞聖人の説明に拠れば、阿弥陀仏は我々人間の虚仮不実をあはれみたまひ、それを救はむがために修行し、その修行の功が積もりて至徳を成就せられたのである。さうしてこの至徳を南無阿弥陀仏の名號にて我々人間に対して表現せられたのである。それ故に、仏の真実の心はこの南無阿弥陀仏の名號によりて我々人間に対して表現せられ、我々はこの名號を聞くことによりて始めて仏の真実の心に接することが出来るのである。  かやうな次第によりて、親鸞聖人の教にありて念仏は、これまでの人々の説かれたる念仏に比して、その心の態度に於て著しく相違したものがあることを挙げねばならぬ。親鸞聖人の意に従へば、阿弥陀仏の本願によりて我々は救はれるのであるが、この本願を説いてあるのは「大無量壽経」である。それ故に、真実の教はすなはち「大無量壽経」である。さうして、その本願を信じて仏の名號をとなへるものを救ふといふのが阿弥陀仏の本願であるから、本願に随順して称名念仏することが我々に取りてはただ一とつの行である。しかもそれは阿弥陀仏の本願の心が南無阿弥陀仏の名號によりて我々に回向せられたものであるから、この名號をとなふることが真実の行であるとせられるのである。それも「行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんとはからはせたまひたる』によりてまうす念仏は全然、他力念仏であると言ふべきものである。聖道自力の教を奉ずる人々が萬善諸行を修めるのは畢竟、自己の内部に光を見出さうと努力するので、たとへば地を掘つて光を尋ねやうと念願するのである。たとひ一生懸命に努力しても地の中から光を見出すことは困難で、殆ど不可能である。さうする間に、その努力がに目的を達することを得ぬことを知り、仰いで天を見るとき、そこに明々皎々たる光に接することが出来るのである。光は天の彼方より来たりて、我々を照すのである。我々は唯仰いでその光に接すべきのみである。禅僧弘海が浄土真宗の教に帰し、香樹院師に就て、法を聞きたるとき「汝法を求むるに志あらば常に間断なく聞くべし」と言はれたるに対して「法縁の常になきを如何致すべきや」と言ひたるに、香樹院師の曰く「聞見常に縁なきときは口に常に名號を称ふべし、是れ亦、法を聞くなり」と弘海その意を解せず「念仏するを聞くと申すは、我れ称へて我が声を聞くことに候や」と問ひしを香樹院師は大喝して曰く「汝何事をか言ふ、我が称へる念仏といふもの何処にありや、称へさせる人なくして罪悪の我が身何ぞ称ふることを得む、称へさせる人ありて称へさせたまふ念仏なれば、そもそもこの念仏は何のために成就して、何のためにかさせたまふやと、心を砕きて思へば、すなはちこれ常に称へるのが、常に聞くのなり」と。まことに香樹院師の言の如くに、親鸞聖人の教にありて、阿弥陀仏の本願は南無阿弥陀仏の名號となりて我々の心の上に来るので、さうして、南無阿弥陀仏の声が我々の口から出づるのは仏の大行が行はれて居ることを示すものである。我々が南無阿弥陀仏の名號をとなふるのは、阿弥陀仏の願心によるものであるから、我々はただ称名念仏によりてのみ、自身が煩惱具足、罪悪深重の凡夫であることを悲しみながらも、凡夫その儘にして極楽浄土に往生せしめられるといふことを喜ぶべきである。  お園が、伊勢のある町で、念仏しながら道をあるいて居たとき、行き違ひの人が、その念仏の声を聞いて「婆さむが空念仏を称へて行かれるわい」と独言いふた。それを聞きつけてお園は「よういふて呉れたよういふて呉れた。何処に知識があるやら知れぬものじや」と言ひながら、その人の後を追ふた。すると其人は振りかへりて「そのやうに、腹を立てぬでもよいではないか」と言つた。お園は「いや、腹が立つのじやない、御禮が言ひたいのじや。この婆々の口に称へる念仏が、若し功になりて助かるなら何としやう。まるまる助けられた後の糠念仏とは嬉しい。よう知らせて下さつた』と、御禮の言を述べたのであつた。学問のなかつたお園の言葉は粗撲であるが、仏教によりて涅槃のさとりを開き、仏智を獲るがためにむつかしい学問を捨て、道徳の行を廃して、ただ阿弥陀仏の本願に随順して称名念仏の大行を行ずるのであるといふのである。それ故に自分の口から出づるところの称名念仏に功徳を認めないといふ意味にてこれを糖念仏と言つたのである。自分が称へる称名に浄土に往生することが出来るとの功徳があるとすればそれは言ふまでもなく、阿弥陀仏の力を無視するものであるから「何としやう」とかなしまねばならぬのであつた。お園は自分が称へる念仏を空念仏と悪口せられたのを聞いて、却てこれを縁として阿弥陀仏の恩恵を反省することが出来たのを喜むだのである。まことに美しき宗教の心のあらはれである。  自己省察  近江聖人中江藤樹の道歌に「何事も、ただかへりみよ、世の中に、学ぶ外なき、心ならずや」といふのがある。自己を省察してその相のあさましさを知ることが、宗教のこころのあらはれることを感ずる動機であるが、既に宗教の心が強くあらはれるときは自己省察のことはますます著しくなるものである。これも全く他力のはたらきによるのである。江戸築地の御坊が再建の出来上つたとき、お園は参詣して「このやうに御殿も出来上がり、表御門も出来上がり、御裏御門も出来上がり、お成りのない前に、また焼けてしまふたら、善知識さまはさぞ御残念でござりませう」と述懐しつつ、自分の胸をたたきて「このやうに御殿も出来上がり」自分の耳を指して「表御門も出来上がり」口に手をあてて「お裏御門も出来上がり、お成りのない前に焼けてしまふたら、如来様はさぞ御残念でござりませう。火をつけたは他人ではござりませぬ、この園でござります。火つけの咎によりて後手にくくられて無間地獄に送られて行く姿を如来様が御覧なされ、やれ待てお園、おぬし一人をやりはせぬ、弥陀も後からついて行く……落ちる私は自業自得で仕方もないが、大悲の親様までとは勿体ない」と、ほろりほろりと涙をこぼした。ややしばらく念仏して後に「どうやらお成りがあつたさうにござります。御報謝の御裏門からお出這入りがござります」と言つて大に喜むだといふ。お園は火災後に再建の成りたる築地御坊に参詣して、火災のために大厦の御坊が焼失したる惨状を想ひ起し、それを自分の一身に比較し、自分が自から火をつけて折角此世に生れさして頂いた一身を焼くといふことは罪の大なるものである。それによりて自分が無間地獄に落ちて行くことは業報として致方もないことであるが、かやうな罪業深重のものを助けたまふべき大悲の如来の苦労を増すことはまことに勿体ないことであると、一面には自分の罪業を慚愧し、又一面には仏の慈悲の広大なることを感謝したのである。  あるとき知り合の同行と共に京參りの途中、近江の瀬田の唐橋の東の方にて小供等が、雪達磨を造つて居つたのに出くはした。お園は道の片脇へ寄り、身につけて居た著蓙をそこに敷き、その上に坐し、手に珠数をかけてうれしさうに雪達磨を拝むだ。同行はこれを見て「お園さむ、あなたは雪達磨が何故にありがたいのか」と尋ねた。するとお園は曰く、「この雪達磨がわたしの信念を形にまで顕はして知らせておくれるのがうれしい。この姿達磨によく似て居るが、日の光に照らされたればすぐに消えてしまふ。わたしの信心も御教化の光に照らされて、聞けば聞くほど、残るところもなく消えてしまふ。これが嬉しうてならぬ故に拝むのじや」と言つた。普通の人々は信心と自分できめて居たものが消えて、仏の恩が思はれぬやうになれば、これではと心配するのが常である。しかるにお園は、雪達磨を見てそれが日の光に遇ふて段々と消えるが如くに消えて行くのを見て、自分が信心と思ふたものが、仏の慈悲の光にて消えて行くと喜ぶのであつた。信心が段々と消えて行くのは全くの慈悲の光が強くこれを照らすがためであると知られたからであつた。  かやうな場合の自己省察を宗教の心の上から見ると、お園は此世にありて、その眼にうつる一切のものにつきて、その中に存するところの仏の心を感受することが出来たのである。普通の人であれば此世の中にありて自分の眼にうつる一切の事物につきて、先づその善悪・美醜・真偽を判断し、さうしてその好めるものを探り、然らざるものを捨つるのであるが、宗教の心の十分に美しくあらはれたるお園にありては、一切の事物の善悪・美醜・真偽を判断することは後廻はしとして、第一にその事物からその中に存するところの偉大なるものを感知するのである。これを以て宗教人にありては世間一切のものに対する心の態度が通常の人に異なりて、そのものの自分に対する真実の価値を知ることが出来るのである。それも全く仏の慈悲の力によるものと感謝するのである。  仏法繁昌  京都西六條の人、明信寺実洲、若年の頃、香樹院師に謁して「私は後生に大事がかかりませぬ」と言ひたるに、香樹院師はただ「おれはおれの後生がある、その方は其方で心配したがよい、一人一人の後生じや、他人のことはおれの知ることでない」と、一言の下にしりぞけられたと。まことに宗教といはるる心のはたらきは自分一人の心を問題とするのである。それ故に、宗教のことにつきてはすべてを自分一人の心の問題とすることが、宗教人の特徴と認められるのである。  三州の味濱の普元寺の住職西脇善桂師がお園に始めて遇はれたとき、あまりに法の聞きやうが甘いので、お園に向ひ「田原辺は私もいつたことがあるが、あまり仏法繁昌ではない筈じやが、お前の処は繁昌して居ると見えるな」と言はれた。さうするとお園は「繁昌とも繁昌ともそれはそれは繁昌して居ります」と答へた。そこで「さうであるか。そなひに繁昌しておるかや」と言はれたに対してお園は「はい、人は知らんが、この私一人は」と言ふ。善桂師は言葉をついで「そのお前の一人の繁昌とはいかなる繁昌かや」と再び問はれたので、お園は「はい、朝から晩まで晩から朝まで、有るは無いは、足るは足らぬは、三毒やら五欲やら、それはそれは繁昌して居ります」と言ふ。それがお前の繁昌かや』『はい、これさへあつたら、なあ申し」と言つた。まことにお園の言つたことは宗教味の極めて濃厚なものであつた。普通に仏法が繁昌すると言へば、寺院の数が多く、寺院に参詣するものが多く、説教やら講話やら、その他、宗教の儀式・祭典などの賑かなることを指すのであるが、お園の言ふところはさういふ外部の状態を指すのでなく、自身の心が乱れて、全く煩悩具足・罪悪深重のすがたであるといふことが仏法繁昌の徴であると言つたのである。我々の心のはたらきの実際の状態は貧欲の煩惱にくるはされて欲が起り、瞋恚の煩悩にくるはされてねたむべくもなき因果を破る心が起り、愚痴の煩惱に迷はされて思ふまじきことが起るならはしである。この貧欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩惱に対応してあらはるるところのものが仏の慈悲の力であるから、自分の心の煩悩具足・罪悪深重の相を見れば、それを目あてにはたらくところの仏の慈悲が盛に行はるることが知られるのである。お園がかやうにして自分の心の醜き相を見て、仏法が繁盛であると言つたのはその内観が徹底して居たことを徴すべきものである。自分心の相の醜きが故に、阿弥陀仏の本願がそれを助けやうとしてはたらくのであると考ふるとき、仏法が繁昌することは自分の心の醜きがためであるといふべきである。寺院や説教や念仏などが盛に行はれるからと言つて、それがすなはち仏法であるとすることは出来ぬのである。  逸話余録  お園の宗教生活につきて、以上の大要を叙述したところに拠りて、その稀有最勝の妙好人であることは明かに認められることと信ずる。猶ほお園の行実数條を挙げて、以てその妙好人としての声譽を十分に伝て置きたいと思ふ。 一。丹波の龜岡の誓願寺の住職は道念の深き人なりしが、あるとき京都の本願寺に参詣したるに、白髪の一老婆が茶所に腰をかけて、己を忘れて法義の話をして居たので、住職はそばによりてその背をぽんと叩き「此処をどこと思ふや、御本山の前じやないか、うかうかしやべるな、無常の風は後より来るぞ』と大音声におどかした。さうすると、その老婆は後へ向きながら『親様に御油断があらうかなあ」と言つた。その意は自分は油断をしても、親さまには御油断がないと、親心に寄せて仏の慈悲を喜むだのである。住職もこれはゑらい同行と感じ、その名前を聞けば、これぞ音に聞えた田原のお園であつた。 二。美濃の仏照寺の住職が、使僧として三河に出張して、高座の上より参詣者をながめ「この度大善知識より三州の同行を一人も残らず、極樂参りをやめさせて地獄へ落して来いと貴とき役を蒙むりて来ました。皆様しつかり聞いておくれ」と言はれしに一同はびつくりして唖然として居つた。其中たつた一人、踊り上つて喜むだのはお園であつ『地獄は一定ぞかし』の自覚を深くすることによりて、此の如きいたづらものをお助けになるといふ阿弥陀仏のありがたく拝受したのであつた。 三。お園が平生念仏するのを傍から聞くと、何やらありがたさうにもなく、味なささうな念仏であつた。或る若者がこれを嘲りて「お園さんお園さん、お前さんの念仏はかすにもならぬぜ」と言へば、お園はすこしも逆はず「ありがたい、おらあそれは初聴聞じや、わしが称へる念仏が若しかすにもなつたらどうしませう、それがかすにもならぬとはありがたやありがたや」念仏まうすによりて助けられるのでなく、助けられることをお受けしてありがたやとまうすのがお園の念仏である。 四。ある人が「この機がどうも仕方がない」と言ひたるに対して、お園は「お前様も助けて貰ふものを澤山持つてござるのう」と答へた。それから又「何ともない心にまでして下されたは、いかい御苦労かけました。若し不足があつたらどうして、この機で居られませう」と言つた。お園の臨終に、ある人が「あなたの御領解を一言聞かして下さい」とたのみたるに、お園は「わたしに領解も何もない、一生の間ただ無駄骨折つただけじやわいのう」と言つた。人に向つて自分の領解はしかじかであると述べ、いかにも自分は宗教の道を心得たるものであるかの如くに自慢するものは真実の宗教の人ではないと言はねばならぬ。他の人から見て、真によく宗教の心をあらはし得たるものに対して「領解はいかに」と尋ねても「領解も何もない」といふのが本当である。宗教の心のあらはれたるものにありては、何の理屈もなくただ不思議に助けられるといふことを聞いて歓喜するのみである。 五。三州の某処にて、使僧の説教があまりに「疑ひ晴れよ」ときびしかつた。お園はその座にて兩手を振りながら「曇らば曇れ、晴れたとて花の浄土は見やせない。みんなそこらじやそこらじや」と囃し込むだ。使僧始め参詣の一同はびつくりして互に顔を見合せて居つたと。疑の晴れぬまま、阿弥陀仏の本願にたすけられるといふことを聞いて喜ぶのみである。 六。お文に「往き易くして人なし」とあるに不審が起り、お園は高倉学寮に赴き、香月院師におさとしを願つた。香月院師の言はれるやう「往き易くして人なしといふはなあ、お前や私がまだ飯食ふて娑婆に生きて居るさかい、お淨土に人がないと仰せられることじや」と。お園は踊り上がりて「それではこの園がまだ飲食ふて、娑婆に生きて居るからお浄土に人がないとはありがたいありがたい」と喜むだ。たつたこの一言のために、お園は往復百余里の道をあるいたのであつたが、帰路に野田の同行の和兵衛に向つて「粗末に聞いて呉れては封を切らぬ」と前置をしてこのことを話したといふ。 七。赤羽御坊で渡場の勘助といふ同行が「お園さむはありがたい人じやげな、そのお園さむはどの人じや」と言ふと、その席に居たお園は『ありがたいじや助かりませんげな、あなたがありがたいさうにござります」と言つた。これを聞いた一同のものはなるほどと感心したと。 八。あるとき、京都本山の御影堂にて四人の同行が集まりて法義を語つて居るとき、信州の僧が、その傍にてこれを聞き、法談終りて後、件の僧はその同行の一人に対して『ありがたきことをした、まことによき御相伴を致した」と禮を述べた。その一人はお園であつたが『御相伴とはいかなる御心得にて候や、御相伴にては今度の往生は覚束なし、我こそ本願の正客なりと、お受けが出来てこそ往生すべし」と言つた。件の僧これを聞きて「まことにありがたき御意見を受けたり、これ生涯の大幸なり」とて深く喜むだといふ。 九。お園は近処に法會のあるのに参らずして遠方まで尋ねて聴聞することがあつた。それを見て、何角と非難するものがあつた。お園はそれを聞いて「私一人の後生に、総掛りの御催促、これはこれは嬉しいなあ」と喜むだ。普通ならば人の小言を聞いて「入らざるお世話」と排斥するのであるが、宗教人たるお園は「私一人の後生に、総がかりの御催促」と喜ぶのであつた。普通の場合にありては、心のはたらきの統一体たる自我が中心となりて、その都合のよしあしによりて感情のはたらきがあらはれるのであるから、どうしても我執を免れることは出来ぬのであるが、宗教の心のはたらきの場合には心のはたらきの統一体たる自我の価値が否定せられるのであるから、普通ならば腹の立つときでも宗教の心のあらはれたときには、自分のために恩恵が興へられるものと感謝することが出来るのである。かやうにして、宗教の心のはたらきは感情を純情となし、又これを調整することによりて、我々の心のはたらきを自由・安樂・平和ならしめるものである。 昭和十六年一月廿八日 印刷 昭和十六年一月三十日 発行 厚徳書院