生死の問題  富士川游述  東京 厚徳書院  はしがき  医学及医学史の攷究に寧日のなかつた、文学博士医学博士富士川游先生が、大正四年九月中央公論に「親鸞聖人」を発表せられ、続いてその十一月に同誌に「親鸞聖人談」を、更に翌年五月同誌に「新一元論」を書いて、親鸞聖人の宗教に対する先生独自の見解を吐露せられたときには、世間はかなり注目を拂つた、そしてそれに対する批評や質問が直接間接に尠からず送られたものである。先生の信念はこれによつて弥々固くなつて、親鸞聖人を現代に鑽仰し、特に知識階級の間に真の宗教を持たしめようとの念願に燃えて、大正六年親鸞聖人讃仰會(後に正信協會と名を改む)を発起し、雜誌「法爾」を発刊して、地味ではあつたがしかし先生のその後の半生を傾けつくした宗教運動が発足したのである。  同時に先生の宗教に関する思索と読書とは深く又汎くなつて行つた。本書に蒐めたものはこの頃から約十年間に亙つて、特に先生の意見を訊ねんがために、或は先生の論述の不審を解かんがために、諸方から寄せられた質問の代表的なものを先生自ら選んで、それへの応答を「法爾」に載せられたものを、項目によつて類別したものである。質問は概ね当時公にせられてあつた先生の著述「親鸞聖人の宗教」、「金剛心」並に「真実の宗教」と、当時「法爾」に載せられた先生の論稿とに関してなされたものである。  これによつて先生の宗教的思索の発展の跡をたづねることができるであらう。而してそれは直に読者の宗教心の開発する道程でもあるのである。内外共に非常な事に直面してよく戦ひ生きなければならないこの秋に際りて、吾々は深く内に求める所がなくてはならぬ。特に本書を編んで刊行する所以である。  昭和十六年十二月  正信協會  生死の問題 目次  死後の世界  個性不死 未来生活に就て 死後に就て 個性の消滅 五蘊の離散 靈魂のゆくさき 来世に就て 後世に就て 死後の生命 未来の世界  業報問答  一、業の思想 二、業と不滅の命 三、宿業に就て 四、肉体の消滅と業の消滅 五、業と萬物創造 六、業報と聞信 七、業の不滅 八、業報の所感  往生  極樂往生 浄土往生 悪人成仏に就て 小児の往生 即得往生 極樂往生に就て 念仏往生と道徳 疑ながらの往生 小児の往生に就て 往生に就て  浄土  涅槃界及び救主に就て 極樂浄土に就て 安樂世界 極樂に就て 極樂浄土の真相に就て 涅槃界に就て 地極極樂に就て 浄土の実在 浄土に就て  仏  慈悲といふことに就て 自然法則と法蔵菩薩因位の願行とに就て 理仏と事仏 大きい力 信仰の対象に就て 阿弥陀仏に就て 法蔵菩薩に就て 如来の思召 仏と衆生との分裂 如来の三身 阿弥陀仏とは 如来の形相 菩薩行に就て 仏とは 法蔵菩薩 唯信の弥陀に就て 自己と仏 個体仏陀の有無 自然が如来か  死後の世界  個性不死  問 死後の地獄(業によりて造る)の実在を信じ喉へども、これは地獄の有るとしても、業が地獄に行くにて、現在の個性(個性とは小生自身を指す)には関係なきものに候哉。  答 仏教の説に、五蘊和合が生で、五蘊解散が死であるといふ如く、精神作用は身体の機能である以上、身体の死と共に、精神作用即ち意識(個性)が無くなるといふことは明かであります。しかしながら一旦解散したる五蘊は業の力によりて再び結合して第二の個性を生じますから、我我は業の力によりて生れて死し、死して生れ、個性を段々と新にして、しかも同一の業から起る所の個性を離るることはないのであります。現在生存中の我々に就て考ふるに、昨日の個性と今日の個性とは別のものであるべき筈であります。諸行無常の世の中に、身体の変化は寸刻も止まることは無い筈であります。しかるに昨日の個性と今日の個性とを同一のものと考ふるは記憶の作用によりて、昨日の個性と今日の個性とが連続して居るといふことを信ずるからであります。現在の個性と未来の個性との間に記憶がないから、これを同一とは考へぬのでありますが、同じ業の上に現はれる個性でありますから、どうしても同一の個性であります。故に地獄に行くのは現在の個性と同一の個性であります。同一系の業の上に現はれる所の個性であります。されば「私が地獄に行く」と感ずることが出来るのであります。又主観的にさう言つても差支ないのであります。 (大正九年八月)  未来生活に就て  問 「死ぬるといふことは、肉心共に消滅し、未来に於て現世の自己と何等関係なし、故に死後のことは案ずるに及ばず」と頑強に信じ居るものをして、真宗の教に入らしむるには如何に説法し、且つ如何なる書物を読ましてよろしきや。  答 生理学上より見るも、心理学上より見るも、精神は身体(脳髄)の作用に外ならぬものであるから、精神が身体と共に消滅するといふことは事実であります。しかしながら、これは精神の現象を自然科学的(客観的)に見て言ふことで、これで以て精神の作用の全体を説明し尽す訳ではない。心といふ言葉を意識に代へて、少しくこれを説明して見ませう。意識の起る根本は腦髄の機能にあることは疑のないことであるが、さて起り来りたる意識の内容に就て深く考を進めて行くと、到頭生理学や心理学などで説明することの出来ぬ所に達するのであります。たとへば意識は何が故に起るものであるか、意識の過去はどうであるか、意識の未来はどうであるか、すべて是等は我々の心の内の重大なる問題であるに拘らず、我々はこれを科学の上から説明することが出来ぬ。然かも科学の力で説明が出来ぬことは仕方が無いとして滿足して居る訳には行きませぬ。これ我々には限なき命と、限なき力に向つて進まむとする本来的の衝動があるからであります。そこで信仰と申す精神の作用が起るのであります。未来の生活を云々するのはすなはち信仰であります。故に、今の問題の如く、この信仰を理解せぬ人に対しては、先づ信仰といふものの本質を、十分論理的に説明することが必要であります。  現に我々は今、生きて居るけれども、明日は果してあるか無いかわかりませぬ。これは事実であります。それ故に明日のことは案ずるに及ばずと言つて、その日を安閑と暮すものがあるとすると、其人の考は全く間違つて居るといはなければなりませぬ。少なくとも其人の知識は小児の有様で、ただ現在の瞬間にのみ生きて居ることを知りて、理想(即ち未来の生活)を持つて居らぬものでありませう。又これを一面より見れば、其人は、現に明日は必ずあるといふ信仰の下に安心して其日を過して居りながら、それに気がつかずして、明日のことは案ずるに及ばずとすまして居るのでありませう。明日が必ず消滅するものであると確信して居るものであれば、其日が安心して暮せる筈がありませぬ。今日と明日とが果して連続して居るのか否かといふことは固より保証の出来ぬことであります。しかしながら、我々は從来の経驗に基づきて、今日の次には必ず明日ありと確く信仰して居るのであります。この信仰のあるがために、今日が安心して暮せるのであります。故に、未来の生活を信仰せぬ人々に対しては、心理学的に信仰のことを十分に説明することが必要であります。  しかしながら、未来の生活を説くことは、十分に注意して、聴くものをして誤解せしめぬやうにせねばなりませぬ。從来の仏教專門家の中には、未来の生活を以て恰かも個性の連続のやうに做して、順次生を説明する人があつたために、聴くものはこれを誤解して、所謂霊魂(心理学でいふ意識、仏教でいふ我)が次の世にまで存在するやうな考を起すやうになるの憂があります。現にそれがために極樂にいつて晝寝でもするやうな極めて功利的な考になるものが多くあります。今の「未来に於て現在の自己と何等関係なし」といふ言葉の如きは、未来の生活を以て全く「我」の連続であるとして、それに反対した考を現はして居るやうでありますから、是等の人々に対しては、その誤解を正し、宗教上で問題とする所のものが、常に主観的で、三界唯一心といへる仏教の言葉にて示される通であるといふことを、十分に理解せしめる必要があります。それ故に此の如き人々に対しては、先づ宗教心理学の書物を読ましむることが第一であると私は考へます。 (大正九年十一月)  死後に就て  問 死後には何にもない、丁度燈火が消えるやうに、人生が終ると共に、自己もまた消滅するものであるから、死んでから後のことは心配するには及ばぬ、人の道を正しく履みてさへ居れば、何時死んでも悔ゆるところはない、それ故に我々には宗教の必要はない、宗教といふものは愚夫愚婦を正しき道にみちびくための方便の教であるから、知識階級のもののためには何の役にも立たぬものであると、頑固に主張する人があります。かくの如き人は理性に富み、知識のすぐれた人でありますから、尋常一様の説明では承知しませぬ。私の知合の人にもさういふ人が居つて、それを説き伏せるのにこまるのでありますが、その人に対してどういふ風に説明すればよいのでありませうか。御教示をねがひます。  答 仰せのやうな人は、世の中には随分澤山に居ることでありませう。これ等の人は、真剣に生きやうといふ心がないのでありますから、先づその辺から説明することが大切でありませう。しかしそれは追々になるとして、当面の問題たる死んだ後にどうなるかといふことに就て述べませう。  死んだ後に私がどうなるか深く考へて見ねばならぬことでありませう。生きたるものが死ぬるといふことは生物界の事実でありまして、それを研究するために相当の学問がありますが、それは生きたものが死ぬるといふ事実を外から見てのことでありますから、肉体の消滅するといふことは確実に認められるのであります。しかしながら、それは生きものが死ぬるといふ事実の上のことでありまして、我々が死を経驗してそれを証明しての後に言ふのではありませぬ。これまで澤山の人が死んで居りますが、しかも死を経驗して、その実際の有様を我々に示して呉れた人はありませぬ。どこまでも私はひとりで生れ、ひとりで死なねばなりませぬ。生れるといふことは私自身に経驗したことでありますが、それさへ判然とせんのでありますから、未来のことであり、また私がそれを経驗せんとするときは、私の身体と精神とは無くなるのでありますから、死して後にどうなるかといふことをはつきりと考へることの困難なるは当然のことであります。しかるにそれをちやんとわかつて居るやうに考へて、死後は空であると主張するのはまことに浅薄の見識であります。すこし深く考へて見ると、死してから後の私がどうなるのであるかを知るといふことはむづかしいことで、学問の上でこれを決定することの出来ぬといふことは無論であります。  しかし、それは解決せねばならぬといふことでもないから、死して後にどうなるかといふ問題は未解決のままにして置き、死しての後は空になると決めたとして、それで、我々が平気で居られるのでありませうか。これが我々に取りて重要のことであります。世の中には死生命あり、何ぞ死することを恐れむやと大言する人もありますが、果して死を恐るることがないとすれば、それと同じやうに、逆境にありて悲しむことなく、苦痛に際してそれを物ともせぬ筈でありますが、実際は決してさうでありませぬ。それ故に死を恐れぬといふことも、畢竟死ぬるといふことが自然の法則であつて、これを如何ともすることが出来ぬものであるから、痩我慢でこれを恐るることが無いといふだけであります。自己保存の本能はいづれの生物にもあることで、我々が死を恐るるのは全くこの本能に基づくのでありますから、死をおそるるといふことは我々人間の自性であります。それ故に死をおそれぬといふは虚偽であります。死後は空なりと決めても、それで平気ですまして居られぬといふことは明かであります。仏教の中に本来空なりと悟れとの教もありますが、若し本来空なりと悟ることが出来るとすれば、我々は一切の煩悩からはなれて、すべての苦樂を超越すべき筈でありますが、此の如きことは実際に見ることが出来ませぬ。まして人の道さへ正しく守りて居れば死んでも悔ゆるところがないといふことは、事実を離れたものといはねばなりませぬ。人の道を正しく守るといふことはもとより我々の理想とするところでありますが、実際人の道を正しく守るといふことは出来ぬことであります。我々は虚言をいはねばならず、徹底して人に誠をつくすことが出来ず、道徳のことをくはしく知れば知るほど、それを守ることの出来ないことを痛切に感ずるのでありますから、人の道さへ守りて居ればといふのは、人の道を十分に守らぬ人のいふことであります。人の道が徹底して守られぬといふことを知りたるものは、人の道を守らねばならぬといふことにつきて、ますます苦心せねばなりませぬ。人の道さへ正しく守りて居ればなどと平気ですまして居ることは出来ぬ筈であります。  真剣に私自身をかへりみないために、死は恐るるに足らず、人の道さへ守りて居れば悔ゆるところがないと大言するのであります。すこし真面目に考へて見れば、死を恐れぬといふことは、ただ痩我慢を張るのであり、人の道さへ守りて居ればといふのは実際に出来ぬことを出来ることのやうに思ふて居るだけであるといふことがわかりませう。それ故に、真剣に私自身をかへりみる場合には、必ず此の如き苦痛からして解脱することをねがふのであります。ここに宗教といふものが現はれるのでありますから、宗教といふものは、いづれの人にも必要のもので、ひとり愚夫愚婦のために設けられたる勸善懲悪の教ではありませぬ。道徳さへ十分であれば宗教はいらぬといふやうなことを考へてゐる人は真剣に自己をかへりみない人であります。真剣に私自身をかへり見ると、さう平気ですましてゐることは出来ませぬ。あまり長くなりますから、この位でやぬねばなりませんが、かくのごとく論じて来ると、死しての後に現在の私がどうするかといふことは我々にはわからぬことであります。またそれはわからないでも差支のないことでありますがしかしながら、現在の私が単独にこの世に存在するものでない限り、死といふことは現在から未来にうつる間の一とつの現象で、それによりて私といふものが消えてなくなるものでないといふことは考へねばなりませぬ。いまそのことにつきて、すこしばかり小生の意見を述べて置きたいと思ひます。それも六かしい理窟をやめにして、大体のことを述べませう。  つらつら考へてみると、私には過去があります。すくなくとも母の胎内にやどつたときから現在までは私の過去であります。又私には現在があります。それ故に必ず未来がなくてはならぬ筈であります。しかるに私の現在は私の肉体と精神とに直接の関係をもつて居るに拘らず、過去の私は、私の肉体と精神とから離れて居る場合があります。すくなくと、過去の私自身の肉体と精神とはこれを意識して居らぬのであります。未来もまた必ず過去と同じことでありませう。さうしてみれば、私の肉体と精神とはただ現在の私にのみ関係をもつて居るのでありますから、現在の肉体と精神とが消滅した後にも、未来の私は過去の私とおなじやうに存在するものであります。それ故に現在の私を仮の私としますれば、その私が過去、現在、未来にわたりて存在するのを真の私とせなければなりませぬ。この真の私は不生不滅のものであります。この真の私が現在にあらはるる初が生であり、終りが死であります。現在の私は真の私が私の肉体及び精神を通じて現はれるがために、すべてが迷妄の有様であるが、この現在の私が死ぬるときには未来の真の私が生れるのであります。それ故に、死しての後に現在の私がないといふことはたしかでありますが、そこに未来の私がある筈でありますから、死しての後に何にもないと考へるのは間違つて居ります。しかるに此の如き道理を知らずして、死しての後は空でありといふのも、又死しての後にもなほ私は存在するといふのも共に自分勝手の考であります。我々はかくの如き無益の沙汰をやめて、真の私を見出すことにつとめねばなりませぬ。宗教はこれがために必要のものであります。(大正十年二月)  個性の消滅  問 「法爾」第四十九號「安心生活」の中に娑婆の縁つきて力なくして云々と説いてありますが、その御説によると、我々が死して、個性が物質的の浄土(生れるのではなくして、我々の心が理想の妙境に達するのでありますが、さうしますと、今までお寺で聞いて居つたことは大きなる相違でありまして、先日薬師寺照師の書かれた、靈魂のゆくさきを試みました中に、地獄、極樂実見談がありましたが、どうも私共には迷信と外おもはれません、一つの夢ではありますまいか、死して個性が消滅するといふ先生のお説とは反対のやうでありますがどうでありませうか、何卒御教を願ひます。  答 個性といふものには色々の意味もありますが、私が個性といふのは自我と同様の意味で、すなはち我々が自分を自分と意識する心持でありますから、これを自己意識と言つてよろしいのであります。この自己意識のために我々は生きて居るのでありますから、これが我々の生命でありますが、むかしの人々はそれを一個独立の霊魂が肉体の中に宿つて居るやうに思つて居つたのであります。しかるに近時の科学の研究によつて、この自己意識は身体殊に脳髄の機能によりて現はれるものであるといふことが認められたのであります。それ故に、肉体の外に靈魂があるのでなく、肉体の作用によりて靈魂と名づけられる心の現象があらはれるものであると説くのであります。從がつて肉体が死すれば、その作用であるところの靈魂も無くなるものでありますから、人々が死すればその個性が消滅するといふことは当然のことであります。これは今日の科学の説でありまして、私一個の考へではありませぬ。生理学ならびに心理学の上でさう説くのであります。仏教でもそれと同じやうに五蘊が集まつて居る間が生であり、五蘊が散乱するのが死であると説いて、個性は死と共に消滅するとするのであります。それ故に、仏教では靈魂といふやうな一個の独立のものを認めず、諸行無常であるから、我といふやうな常一主宰のものはないと説くのであります。從つて、人人が死して後に、靈魂がその肉体からぬけ出でて極楽に行くなどといふやうなことは仏教には決して説かぬのであります。印度にありても、仏教以前にはさうい風に説いて居つたのを釈尊が絶対に排斥して無我の説を立てられたのであります。地獄極楽の実見といふことはどういうことか知りませぬが、お寺の説教で聞くやうな話なれば、それは人間の想像であります。人間の境界にて人間が嘗て実驗したところを本として、想像によりて造り上げたものであります。それを信ずることは邪執であります。仏教は此の如きことを説かぬのであります。これは固より私一個の考へではありませぬ。すこしく仏教の書物を読む人はすぐわかることであります。  宗教といふものは元来、物質のことを離れて、精神の境界を論ずるものであるのに、それが動もすれば、物質的の考へになるがために、信仰が徹底せぬのであります。この点は我々の十分に注意すべきことでありませう。さうまうすと、個性が消滅して仕舞へば未来は無いから、宗教はいらぬではないかと、直ぐに宗教を否定する人がありますが、個性が無くなつても、自己意識の内容は決して消滅するものではないから、未来は必ずあります。自己意識に未来のあることはそれに過去、現在があると同じ具合でありますから、生死によりて生滅するところの自己意識の奥にありて、永遠不滅の自己を見つけるところに宗教は必ずその価値を有するものであります。個性といふものは仏教でいふところの仮我で、これは肉体と共に亡びるのでありますが、この生死を離れて真我と名づくべきものがありまして、これは個性の消滅と共に消滅するものではあませぬ。仏教はその真我を求むることを我々に教ゆるものであります。(大正十一年四月)  五蘊の離散  問 業力(カルマ)の存在を以て、三世の実在を説明するとすれば、その業力(カルマ)なるものはいづれに存在するものでありますか。現在の五蘊は我々の死とともに分散するものとせば、その分散したるものは空中に存在するものでありますか。  我々の行為によりて社會を利害する外に業の存在する理由がわかりませぬ。私の考へでは私の善なる行為は私が死滅する後もなほ永久に社會に存在して社會を利益するのみ(悪の行為はこれに反す)と考へて居るのであります。その外に、地獄とか餓鬼とかの別世界を現はすやうな業力は如何の理由によりて有り得るものでありますか。  又父母から遺伝さるるのは物質のみといはれますが、精神的作用も現に遺伝するではありませぬか。されば私の五蘊の全体は父母から遺伝されたるもので、たとへば一個の豆の種から幾個かの豆が出来るやうなものでありませぬか。  業の外に、我の主体が無いとすれば、この業を仏力によりて消滅されたるとき、浄土に參るものは何物でありますか、凡夫が仏になるといふのは、一切空になりて仕舞ふことでありますか。  又、「法爾」誌上に於て、人間が死ぬるのは五蘊が離散するので、同時に個性は消滅し、新に五蘊が業によりて結合して新なる個性が生れるやうに拝承いたしましたが、我々が死して個性が全く消滅し、新なる個性と何等意識の連絡が無いものとなれば、死後の五蘊の集散離合のことまで心配して業を除かんと努力する必要は無いと考へられますが、それと宗教は人格の向上を目的とするものでありますか。  答 業(カルマ)といふものは、我々個人の作法行為でありまして、それが因縁によりて連続して永く止む事が無いために我々は生死の苦界を流転するものであります。  それ故に業を「エネルギー」(勢力)として見るも差支はありますまいが、それにしても決して一個の実体として存在するものであるとは考へられませぬ。  いづれに存在するかと問はるれば、宇宙に存在するといふの外はありませぬが、彼の光をあらはす光の「エネルギー」電気をあらはす電気の「エネルギー」と同じやうに、もとより我々の眼には見えぬものであります。或は時間、空間といふやうな非実在的の概念であるといつてもよろしいと思はれます。  五蘊の離散するのがすなはち死であります。離散したる五蘊はもとより宇宙の中に存在するのであります。五蘊の中で、肉体を成して居るところの物質はそれぞれその原素に分れ、精神の現象を成して居るものは分れて、舊の形を失ひ、業となつたのは消滅することなく、宇宙に存在するのであります。  あなたは業力が永久に存在して社會を利し又は害することは認めるがそれ以外に業力の存在するといふことは無いと考へておられるやうでありますが、善く考へて御覧になれば、現在のあなたの意識といふものは、生前のあなたの業力の上にあらはれたものではありませぬか。あなたの現在の身体と神とは、あなたの業力によりて、親の身体その外のものを縁として、結合せられたる五蘊ではありませぬか。あなたは御自身の身体がどうして現はれたものであるかといふことにつきてどうお考へになりますか。親が産むで呉れたといふことはただ我々がこの世に現はれたる縁の一つに過ぎませぬ。それのみで我々がこの世にあらはれたことを説明することは出来ませぬ。仏教では業(カルマ)の因果的連続によりて五蘊が再び結合して我々があらはれると説くのでありますが、私もかならずさうであらうと信じて居ります。  地獄とか、餓鬼とかといふ、いはゆる六道は、全く我々の心の世界でありませう。我々の心の外には何物もあるべき筈はありませぬ。たとひ我々の心の外に地獄、餓鬼道があつたにしても、それが我々の宗教上の問題となるのは、それが我々の心の中にあらはれたる場合であります。業力は我々の意識の根本となるものでありますから、それによつて我々は地獄や餓鬼道を意識することを得るのであります。  父母から遺伝するのは生殖物質(遺伝物質)のみであります。その遺伝物質から、身体と精神とが現はれるのであります。  物質のみが遺伝して、精神が遣伝せぬといふことは決してありませぬ、あなたのお説の通りに五蘊が全体に父母から遺伝せられるものであります。  仏力によりて業が消滅するとき、浄土にまわるものは何物であるかとの御質問を見まして、あなたの御考へは、どこまでも、仏教以前の靈魂論の傾向を離れないといふことが察せられます。業が消滅したる場合、それによりては再び五蘊が結合することがないから、我々はここに生死の苦界を離れることを得るのであります。それが浄土にまわるのではありませぬか。我々が凡夫としての意識を無くするところに仏の国があらはれるのではありませぬか。浄土といふのは仏の国でありますから、我々の言葉でいふところの国とは違ひませう。我々の現在の心がかたまりとなりて、どこかロンドンかパリへでもゆくやうに考へるのは全く仏教以前の考へであります。親鸞聖人の教に拠れば真実の証は利他円滿の妙位、無上涅槃の極果でありまして、この妙位と極果とは浄土に至りて始めてこれを得るものであると説かれる(教行信証)のでありますから、真実の証といふことも、安樂淨土(無上涅槃)といふことも、これを我々の心の内面より見れば、畢竟するに同一のものでありまして、この同一の境地をば衆生よりしていふときには真実の証となり、如来の方よりしていへば浄土といふのでありますから、そこへ参るといふことも決して物質的のことをいふのではありませぬ。されば浄土へまゐるのは何物であるかと考へることはいりませぬ。我々の心が現象として生死の苦界を流転することから離れて、仏の国(法性のみやこ)に生れて極樂の境界に住することを浄土へまゐるといふのでありますから、我々が仏陀になるのであります。  此の如く考へて見れば凡夫が仏になるといふことが一切空になることでないといふことは無論であります。それにつきて別段に説明するの必要はありませぬ。しかしながら、この疑問に関聯して我々が死したるとき、個性が消滅して、更に新しき個性が出来ても、その間に意識の連続がないとすれば、死後の五蘊の集散まで心配して業を除かむとすることは無用ではないかとの質問に対して一寸一言いたして置きませう。  全体、我々の意識は、仏教にていふところの六識(眼、耳、口、鼻、身、意の六識)によつてあらはれるもので、これを今日の心理学の言葉にていへば感覚よりして知覚と統覚とがあらはれ、それより概念が生じてそれが意識となるのでありますから、感覚の器官たる身体が消滅するときは從つて意識は消滅するものであります。それ故に、この六識のみを知つて、その奥に大なる力があるといふことを認めないのは身体の消滅と共に一切が空になると考へるのでありませう。小乗の教を奉ずる人々が灰身滅智と説くのも全くこの六識のみを知つて居つたからであります。しかるに、善く考へて見ると、我々の意識はもとより、身体があるためにあらはれるのであるがこれをあらはすのは意識の奥底にある大なる力のためと考へねば、とても十分に我々の意識を説明することは出来ませぬ。それ故に仏教では六識の外に末那識、七識)と阿頼耶識(八識)とを説くのであります。生れてから間も無い乳児には意識があらはれて居るとはいはれませんが、外から見たところでは大人と甚だしき差異はありませぬから、感覚器官の発育して意識があらはれるとしても、そこには感覚器官の外に未知のX(何物)かがあるものと考へねばなりませぬ。これを阿頼耶識とするときはこの考は常に存在して我々の意識の根本をなすもので、意識は消滅しても、この根本の考は決して消滅するものではありませぬ。この意識が時々消滅することは熟睡したときに経驗せられるところで、一旦消滅してもまた再びあらはれて、しかも前の記憶があるから、それが連続して居るやうにおもはれるのであります。しかしながら意識のあらはれるといふことは前に述べたとほりでありますから、記憶がなくとも、現在の意識は過去の意識の根本の識の上にあらはれたるものと考へねばなりませぬ。また現在の意識はおなじく根本の識の上に再びあらはれるものでありますから、個性(意識)が消滅したといつても、それが全く消えて仕舞ふものではありませぬ。現在の我が過去の我の続きであるといふことは、すなはち現在の我は未来の我の前のものであるといふことを示すものでありますから。この道理がわかつたならば、死したる後はどうなつてもよろしいといふやうなことは言はれぬ筈であります。いづれにしても我といふ意識が一個独立のもの(靈魂)であると考へる(仏教以前の説)ことは今日の中等社會以下の人々の間に行はるるものでありますが、これは仏教の説にも、又今日の学問の説に反いた考へであります。彼の六識(感覚語官)のみを認めてそれより以上を考へず、心をば単に現象としてのみ見るのは今日の知識階級の間に行はれて居る考へでありまして、小乗の灰身滅智と同じ考へであるといはねばなりませぬ。さういふ考へからして個性の消滅といふことが問題とせられるのでありませう。篤と我が心の相を考へれば解決のつくものであると私は信じて疑ひませぬ。(大正十一年十一月)  霊魂のゆくさき  問 本願寺の特選巡教使薬師寺光照といふ人の著はした「霊魂のゆくさき」と題した書物(大正十一年第三版)の中に亡魂の活動すなはち巳に死亡したる人の魂魄が幽靈となつてあらはれることや、又今や世になき故人が再生したことが挙げてありまして、霊魂の不滅が事実であるといふことを主張してあります。甚しきは地獄極樂を実見したといふ人の談話が載せられて、我々の靈魂の行衛が示されて居ります。それに唯物論者が論ずるところには誤診があると言つて、種々に批難してあります。これまで本欄にての御説明に拠りますと、此の如きは仏教の前では無いやうであります。又我々は此の如き説明を信ずることは出来ませぬが、実際、今日の仏教家の中には此の如くに信じて居る人が多いのでありませうか。それは兎も角も、我々の霊魂の行衛といふことに就ては多くの人々が心配して居るのでありまして、それがために宗教も行なはれて居るのでありますから、正直のところ、私も私の靈魂の行衛に就ては、それがどうなることかと心配でたまりませぬ。靈魂がこのまま身体を離れて何処かに行くものであるとは思ひませぬが、靈魂が滅亡するものとも思ひませぬ、すべての物質と勢力とが不滅のものである以上、靈魂といふ者もその形がかはるだけで滅亡するものではあるまいと考へます。しからばこの霊魂といふのは果してどうなるものでありませうか。御面倒ながら御説明を願ひます。  答 亡魂が活動するとか、幽靈が現はれるとか、故人が再生したとかいふやうなことは、霊魂といふものを身体から離れて独立したものと考へるによつてあらはれる思想でありまして、無智蒙昧の野蛮人種の間に広く行はれて居る説であります。文明人種でも知識の幼稚なものはさう考へるのが常であります。全体ここに靈魂といふものは何であるかといいますと、それは「我」といふ意識をあらはすところの精神作用をいふのでありまして、仏教以前の印度の宗教では、宇宙の本態であるところの梵(ブラーマ)の一部から自性(ブラクリト)があらはれ、それが肉体と結合するによつて心のはたらきが起るものとして靈魂の実在を論じて居りました。これは今から三四千年も前のことでありますが、今日のやうに人類の知識が進歩したる世の中に此の如き幼稚の考へを持つて居る人のあるのは不思議のことであります。  仏教を興されたる釈尊は三千年前にすでに此の如き説を排斥して「無我」を主張せられました。仏教以前の印度の宗教では、靈魂といふものは永久無限の存在で超個人的な、超形態的なもので、個人の身心のみでなく、更に世界を支配するものであると説かれて居りました。しかるに、釈尊はそれに反対して此の如き絶対的の靈魂といふものは存在することも無く、又それを認識することを出来ぬものであると主張されました。勿論釈尊も靈魂といふやうな言葉は使つて居られますが、それは普通の意味でいふところの「自我」若しくは「我」といふやうな通俗的の言葉でありまして、常一主宰の「自我」といふやうなものは全然排斥して居られます。それを説明するために種々の譬喩が示されて居りますが、たとへば「車」といふものは何であるかといふに軌のことでなく、心棒のことでもなく、輪のことでもなく、またそれ等をあつめたものでもなく、ただ車といふ言葉に過ぎないのであります。「我」といふものも「車」といふと同じやうにただ一つの言葉で、実際に存在するものは無いと説かれたのであります。「我」といふものの本態は我々にはわからぬもので、我々にわかるのは、「我」といふものが無いといふことだけでありますから、釈尊は無我といふことを強く主張せられたのであります。  それ故に、釈尊が説かれたる仏教では霊魂といふものを実在とはせぬのであります。靈魂といふ言葉で、我々の精神のはたらきを示すのであります。釈尊が説かれたるところに拠ると、我々が常識でいふところの「我」は色、受、想、行、識の五蘊(要素)から成り立つて居るところの概念的の存在で始終変化しつつあるのであります。すなはち五蘊が一時的に結合してあらはれたる現象でありますから、決して一個独立の実在ではありませぬ。  概念といふのは共通の性質を有するところの物に名づくるところの称呼(言葉)でありますから、たとへば家といふものも一つの概念であります。それ故に世の中に家といふ者が存在するといふのは常識的にいふのでありまして、家といふものは決して実在するものではありませぬ。在するものは柱や、壁や、屋根や、障子や、畳などでありまして、家といふものは此等の要素を集めたる一時的の現象に名づけているのであります。概念的に家といふのでありますから、柱や壁などが分離して仕舞へば家といふものも消えて仕舞ます。それが実在として何時まで残るといふ事はありませぬ。靈魂といふものもそれと同じことでありますから、その要素であるところの五蘊が離れて仕舞へば、すなはち消えてなくなるものであります。此の如くに考へると、五蘊の結合によりて成立して居るところの「我」といふものは「仮の我」であります。しかるに我々はこの「仮の我」を永久的に存在するものと執著して居るから、種々の苦しみが起るのであります。殊に「死ぬる」といふやうな淋しく悲しい事柄に就きて考へて見ると、不安でなりませぬ。どうしても死にたくありませぬ。この自分の心身がなつかしくどうしてもそれから離れ難いから我々は常に死というものに悩まされるのであります。それ故に、霊魂といふのは決して死ぬるものでなく、ただ肉体のみが死ぬるのであると考へるやうにして、それによりて死の悩みから逃れやうと試みるものもあるのでありますが、これは仏教以前の人々の幼稚なる考へでありまして、「我」といふものを固定的のものと見て居るものであります。固定したる「我」といふものは無いと見るところの仏教にありて、此の如き靈魂の存在を考へる筈はありませぬ。  貴下も靈魂といふものを一個の力と考へて居られるやうでありますが、靈魂といふものは我々の精神作用を綜合したるものに名づけたる名称であります。すなはち一個の概念であります。それ故に靈魂の行衛はどうであるかといへば、それは「消えて無くなる」といふより外はありませぬ。靈魂といふものを特別の力と見るときはそれは不滅のものである筈だといふこともいはれませうが、それがただ概念であるといふことに気がつけば、靈魂が永久に存在するといふやうなことは考へられますまい。  仏教では諸行無常と説くのでありますから、世の中のものはすべて変化するものとするのであります。すべてのものは始終変化して連続するのでありますから、「死ぬる」といふことも我々を構成するところの要素が一個の形を変化するだけのことであります。我々が此の世界に死ぬるのは、更に新らしき存在の形に変化して行くのであります。我々を構成して居るところの要素は死によつて一時分解しますが、それは決して無くなるのではありませぬ。原素といふものは固より不滅であり、勢力といふものもまた不滅でありますから、我々の身体及び精神の要素たるものも無窮に存在するものであります。我々の行為思想も又永久に連続するものであります。「死ぬる」といふ事によつて「我々」が消えて亡くなるのではありません。我々が考へねばならぬのは実にこの点であります「仮の我」といふものは一時的のものでありますが、それをあらはすべき素地が永久に存在する以上、第二の仮の我、第三の仮の我といふものがあらはれて、我々は常に迷執の世界に住まねばならぬことであります、仏教ではこのことに重きを置くので、我々は業(カルマ)によつて常に存在を連続するものであると説くのであります。業のことにつきてはこれまでに数回の答弁をいたしましたから、今は略して置きますが、靈魂は消えても、我々の存在は決して消えるものではなく、それが業によりて連続するのでありますから、我々はそれに就いて考へねばなりませぬ。さうして、それが仏教の神髄でありませう。(大正十二年十一月)  来世に就て  問 弥陀の本願にこの身を全托いたしましたる上は、来世がどうであらうと、問題にはならない筈でありませうが、私はどうしてもその意義が判然と知りたいのであります。それで貴著や「法爾」に載せられたる業に関する御解答を再三再四拝読いたしまして種々に研究いたしました結果、我の来世といふものは「我と自覚するもの」すなはち「自我」又は仏教で説くところの「我」の内容の持続に外ならないといふことになりました。言葉をかへて言へば、過去幾億萬の祖先の心にやどりたる歴史上の人物はもとより我の一代において接し得たる東西古今の人々乃至は自然現象にいたるまで、苟《いや》しくも、「自我」の内容をなして居るものはすべてこれ我の前世にありて、「我」の自我の内容はこれと同様の意味に於いて「他」の自我の内容として受容せられ、一人が一人といふやうな狭い意味でなく、多数の人人の心の中に入り込みて新らしき生への飛躍を試みるといふところに来世があるのであらうといふやうな意味に考へましたが、どうでございませうか。  ところが、お寺で聞きますと、我々の来世はそのやうな安つぽいものではなく「我」は何処何処までも「我」として生きて行くので、我々が生れてから死ぬるまで、一生の間に於いて造りたるところの業は一つとして消滅することなし、すべて相互聯絡を保ちつつ未来永劫生きながらへて、何時かは又、五蘊を呼びあつめてこの世にあらはれて来るものであるといはれました。それで私は、さすれば人間の教は始めから一定して居りますかと尋ねたところ、如何にもその通りで、人間の教は始めから決つて居るといふ答でありました。なるほど左様考へた方が、ありがた味が深いやうでありますから、お寺では方便として斯く説くのではありますまいか。……しかしお寺関係の方は皆、左様に信じて居られるやうであります。私はこの点に蹲いて、どうしても先へ進むことが出来ませぬ。どうか御釈明くださいませ、お願ひまうし上げます。  答 「我」といふものが独立して居つて、それが現在から、未来の世界へ行くものであると考へることは今日の自然科学の知識では許されぬことであります。「我」といふものは我我の身体の機能の一つでありまして、赤坊のときにはあらはれず、身体殊に腦髄が発達すると共に段々と明々になつて来るものでありまして、身体に障碍があるとそれが無くなることは日常我我が実驗するところであります。若し身体が死して仕舞へば「我」といふものはすぐに消えて無くなるのであります。此の如くに、我々が「我」といふものは要するに「我と意識すること」、すなはち自分で自分といふことを知る心の作用でありますから、若し靈魂といふものを認めていふ場合にはこれを「自覚的の靈魂」と名づくべきものでありませう。巳に自覚するものでありますから、自覚の作用を起すところの身体殊に脳が無くなる上は、この自覚的の霊魂が自覚せらるべき筈はありませぬ。されば今日の生理学や、心理学の知識の上で言ふことでありますが、仏教でもこれと同じやうに「我」といふ固定した独立のものは無い、すなはち緒法は無我であると説くのであります。  全体、生れるということと、死ぬるといふことは自然の有様でありまして、生あるものは必らず死ありといふことは誰しも皆よく知れるところでありますが、我々は生に執著するの余り、死といふことを痛く恐れるのであります。我々が此の如くに死を恐るるといふことは生れつきの本能でありまして如何ともすることが出来ませぬ。それがためにどうにかして、この死の苦悩を免がれやうとして、遂に「我」を独立のものとして、身体から離れて未来に生存することを得ると考へるやうになつたのであります。これは人類の智慧が幼稚のときには、最もよく知れるところのものからして類推するのが常でありまして、その最もよく知れるものはいふまでもなく自分でありますから、人人は自分の周囲にあるところの事物に対しても常に自分と同じやうな心持を有するものと想定したのであります。この原始的の概念からして、死したるものは常人の如くに活動はせざれども、その靈魂は決して死ぬるのではないと信じ、それによりて死の恐怖から免かれるやうにとつとめたのであります。実際それによりて、知識の幼稚なるのは死の恐怖を免かれたのであります。しかしながら、此の如き盲目的の信仰が死を恐れるという本能に打ち勝つことが出来るのは単純幼稚なる性質のものか、又は信仰狂ともいふべき種類のもののみに限られるものでありまして、理性に富みたる多くの人々、尠なくとも今日の世にありて相当の教育を受けたる人々は到底此の如き盲目的の信仰によりて理性の満足を得ることは出来ません。しかしながら、生に執著し、死を恐るるといふことは理性の力にては如何ともすることの出来ぬものでありますから、種々の哲学的の考へが在りて、それによりて死の恐怖から免かれむことを企図したのであります。  ここに哲学の諸説を委しく挙ぐることは出来ませぬが。近代の哲学は個人的の靈魂の不滅を信ぜず、個人の生命が来世まで存続するといふことは認めませぬが、個人の自覚が将来に於いて摂取せらるべき或る原力が存在するといふことは許して居ります。これは汎神論的の考へでありまして、「自覚」は死によりて消滅する、しかれどもその自覚を生ぜる原因は永く存在する。個人の生命は終る、しかれども、その生命によりて現はれたる原力は終るものにあらずと考ふるに至つたのであります。然らばその原力といふものは何物であるか、哲学者の識見が区々でありて、或は観念でありとし、或は意思なりとし、或は一種の勢力なりとするなど、甚だ漠然としたものであるが、独逸の詩人シルレルが  「などか、死の近づくことを怖れて、朽ちざらむことを慕ふや、むしろ、「全きもの」の中に生きよ、たとひ汝は亡ぶとも、「全きもの」は永遠に亡びざるべし」といひしが如く、個人の靈魂が原力の中に包容せらるるによりて、永遠に存在することを得るといふことは知識に富みたるものの信仰となるに至つたのであります。  仏教は同じく汎神論の考への上に立つて、しかも哲学では無く、宗教として、「我」といふものを仮の相と見、この仮の相は死によりて消えるものであるが、この「我」の行為は決して消えるものでは無く、それが業(カルマ)となつて残ると説くのであります。この業のはたらきによりて再び五蘊が集められてここに又個性があらはれるので、「我」というものが独立して生きながらへて五蘊を集めるのではありませぬ。お寺の説教で、さういふ風に説かれたことがあるにしても、それは決して仏教の説では無いのであります、これまで繰返して説きました通り、仏教では死は五蘊の離散であると説くのでありますから、五蘊が離散して肉体精神とはなればなれになる以上、「我」といふものがその跡に残る訳はありませぬ。  此の如くにくだくだしく説明したところによつて考へて見ると、自覚的の靈魂に外ならぬ「我」といふものは身体が無くなると共に消えるのであるといふことは疑を容れぬことでありませう。さうすれば来世といふものは無いことになりはせぬか、若し来世が有つたとしても現在の「我」とは無関係のものでは無いかといふ疑問が起りませう。貴下がお寺の説教をお聴きになつて、現在の「我」がそのままに来世に趣きて、安樂の境にいたるといふやうな盲目的の信仰に安住しやうとせられても、それでは理性が滿足せず、それで理性の導びくところによりて、「我」といふものは身体と共に消えてなくなると考へれば、死したる後が空寂となり、来世といふものが無くなるやうでありますから、それが不安でたまらぬのでありませう。  なるほど「我」といふものは仏教でいふところの六蘊(眼、耳、口、鼻、身、意)によりて起るものであります、今日の心理学の言葉で言へば、感覚より知覚、統覚、概念と段々に精神の作用があらはれて遂に「我」といふ自覚を生ずるのでありますから、すべて是等の作用を起すところの機関(即ち身体殊に脳髄)が無くなればその意識は消えて無くなるものでありますが、此の如き自覚を起す力といふものは決して消えるものではありませぬ。  大乗仏教ではそこで六蘊の外に末那識と阿頼耶識といふものを説くのであります。この二識のことを説明することは簡単に出来ませぬが、しかし「我」といふ自覚が起るのは偶然にさうなるのでは無く、阿頼耶識といふやうな根本のものがあるためであると信ぜねば説明が出来ませぬ。それ故に我々が自覚するところの「我」は消えても、その根本たるところの力は無くなるものではありませんから、たとひ「我」の自覚は無くなりても、その根本たる力が消えない以上、「我」といふ自覚は再び起るものであります。さうして、この根本の力といふものは哲学上でいへば原力、仏教で言へば真如でありますが、我々としては直接にそれを知ることは出来ませぬ。仏教で説くところの業(カルマ)の力はすなはちこの根本の力を我々が感ずるときに知られるものでありますから、業の力によりて我々は再び五蘊を集めて「我」といふ自覚をあらはすものであるといふ所に、来世といふものがあるのであります。言葉をかへていへば、我々は業の力によりて新なる「我」をつくるものでありますから、常に生死の苦界を流転するものであります。今日の「我」といふ自覚を起すところの根本の力は過去に於いて、どうであつたか、我々にわからぬとおなじやうに、未来にありても果してどうであるか、我々にはわからぬものでありますが、若しさういふものが無いとすれば現在の「我」の自覚も無い訳でありますから、どうしてもさういふ力を信ぜずには居られません。これが我々の宗教上の要求であります。盲目的ではなくして理性的に考へての後の信仰であります。  我々は此の如き信仰の上に立つて、来世を期待しそれによりて苦界を離れやうと要求するのであります。身体が死しても決して空寂になるものではありませぬから来世といふものは我々に取りては大切のものであります。しかしながら此の如くに、来世を説明するのは、これを我々の心の外のものとして考へるのでありまして、つまり来世といふものを知識的に説明するのでありますが、宗教として、これを我々の心の内のものとして、考へる場合には、我々の来世といふものも畢竟するに「我」の内容の持続に外ならないものであります。心の外に考へるときは過去、現在、未来と区別して離して言ふことも出来ますが、心の内のものとして考へるときは過去も未来も皆現在の瞬間にあるのであります。昨日といふも今の瞬間であり、明日といふも今の瞬間でありますから、来世といつたところが、今の「我」を離れたものではありませぬ。しかるに、「仮の我」を独立のものと考へ、それが過去から現在に、現在から未来へと移り行くやうに考へるところに種々の迷執が起るのであります。「我」といふものの相がはつきりとするときは、来世といふものが「我」の内容の持続に外ならぬことも亦はつきりと致しませう。それをば極めて具体的に言へば、我々が宗教的の理想に向つて進み行くところに来世が期待せられるのであります。(大正十二年十二月)  後世に就て  問 仏教では霊魂の不滅は説かない、ただ業のみ永久に消えないと説くのであると承まはりますが、ここに私は一つの矛盾を感じますのは、往還二種の廻向を説き、浄土の荘厳を説く(未来の教を説く意味)ところの仏教として、よしそれは精神上の状態と言ふに致しましても、霊魂を不滅でないものとしましては浄土の荘厳、安養の淨土、往還二種の廻向といふが如きものは、何物が行ひ、何物が感ずるのでありませうか。結局仏は何物を救済せられ、死後霊魂なき私どもは何物によりて証を得るのでありませうか。  此の如くに考へて見ますと、遂に教は単に臨終を安心して死に至らしむる教ではないかといふ疑ひが起るのであります。すこぶる愚問かも知れませぬが、私にとりましては重大なる問題であります。なにとぞ御教示をねがひます。  答 仏教で霊魂の不滅を説かないといふことは御承知のことでありませう。これを言ひ換へれば、我々の生命はこの儘直接に後の世に伝はらずして、今の生命は滅びて更に新しい生命を生ずるものであるが、その間に連鎖となるものは業(カルマ)であるといふことは仏教の所説であります。このことは御承認になることでありませう。  しかるに貴下が矛盾を感ぜらるるといはるることは、しからば未来に、浄土に往くもの、又は還相廻向などをするものは果して何物であるかといふことでありませう。  それを説明するには先づ往相廻向と還相廻向とにつきて略説することが必要であります。むかしからの真宗学者の説明によりますると、往相といふのは浄土に往生する相で、還相といふのは浄土より穢土に還りて衆生を濟度する相であります。この二個のものを弥陀の方より我々に廻向せらるるのであると説くのであります。これを他の言葉にていふときは我々が仏となるべき原因も結果も又仏となりたる頃のはたらきも、皆弥陀の方より我々にたまはるものであると説かるるのであります。固より今の現在の我は死と共に消えるのでありますが、この現在の我につづきてあらはれるところの未来の我があるのでありますから、現在の靈魂が滅ぶるものであると言つても我といふものが未来に無くなるものではありませぬ。それ故に、還相といふことも少しも矛盾するものではありません。  浄土に往生するといつたところが浄土は仏の心にて造られたる淨き土といふ意味で、それを我我の心にてつくりたる土とおなじやうに考へるべきではありませぬ。浄土に往きて生れるといふことは我々の心持にあはせていはるることで、浄土には生も死もあるべき筈はありません。それ故に浄土に往生するといふことは我々の心にてつくりたる裟婆(忍土)から離れて、仏の心にてつくられたる境地に入るのをいふのであります。それ故に往生といふ言葉は現に生きて居るときにもいはれるのでありまして、親鸞聖人は即得往生の文字を用ひて居られるのであります。  「即得往生トイフハ即ハスナハチトイフ、トキヲへズ、日ヲモヘダテヌナリ、マタ即ハツクトイフ、ソノクラキニサダマリツクトイフコトバナリ、得ハウベキコトヲイタリトイフ、真実信心ヲウレバ、スナハチ無碍光仏ノ御ココロノウチニ摂取シテステタマハザルナリ、摂ハオサメタマフ、取ハムカヘトルトマウスナリ、オサメトリタマフトキ、スナハチトキ日ヲモヘダテズ正定聚ノクラキツキサダマルヲ往生ヲウトハノタマヘルナリ。」(親鸞聖人、一念多念証文)  「信受本願、前念命終即入正定聚之数即得往生、後念即生即時入必定」(親鸞聖人、愚禿鈔)  この文章の意味を案ずるに、本願を信受するときには、その心は穢土を去り(前念命終)、浄土に行く(後念即生)べき身とあることが正定であるから、されば即得往生といはれるのでありますから、後に蓮如上人が平生業成といはれたのとおなじ意味のところに即得往生の文字が用ひられて居るのであります。  此の如くに考ふるときは、浄土に往生するといふことは現在の靈魂を持ちたる私そのままが仏の国に往きて生れるといふやうな意味でないことは明かでありませう。他の言葉にていへば生死の苦界を離れることでありますから、我々は後世を期して再び生死の苦界に戻らぬやうに念願すべきであります。仏は我々をして我々の念願を達せしめるやうに努力して居られるのであります。それがすなはち仏の救濟でありますから、仏は生死に苦しみ居るところの我々をばその大慈悲の心の中に摂取せられるのであります。私の方よりいへばそれがすなはち証を得たる境界でありますから、我々が仏の心に摂取せられたるときに往生といふことがいはれ、又そこに証を得たといふことがいはれるのであります。  死後に靈魂がなくなるといつても、私といふものがなくなるのではありませぬ。私といふものは業(カルマ)によりて連続するものであります。ただ前の私と後の私とが意識の上に於いて直接に連続して居らぬのでありますから、前の生命と後の生命とは全く別のものでありますが、しかしながら前のものの続きであります。それ故に我々は後世を期して生死の苦界を離れることを念願せねばなりませぬ。仏教はただ臨終を安心せしむるための教ではありませぬ。死しての後にも霊魂がありとして死後の世界をば現在の世界よりも遙かに勝れたるものと予想せしめて、それにあこがれしむるところの教がむしろ臨終を安心せしむるに止まるものでありませう。(大正十四年二月)  死後の生命  問 生きて居るときの意識は死後にあるべき筈はない、死後に残るのは我々の行為のみであると説かれますが、その行為が業となりて、その業の有る限り、生死の苦界を流転せねばならぬといふことになれば死んでから人生があると思はねばならぬやうに思はれます。  何故我々の行為は不滅でせうか、死ねばそれで仕舞ではないでせうか、晩に寝て、朝に目が醒めると同じやうに考へることは出来ませぬ。眠つて居るときには肉体が有りますから、何事かに驚けばすぐに目が醒めますが、死ねばどうしても目が醒めず、肉体は焼いて仕舞へば灰となつて仕舞ひます。どうも死後の生命につきての考がはつきり致しませぬ。  答 自分が死してから後に、自分の生命がどうなるかといふことは自分としては重大の問題でありますが、この問題は生理学でも心理学でも、哲学でも、これを解決することは出来ますまい。科学的の知識や哲学的の思索によつて、自分の死後の生命をば如何やうに決定したとしてもそれによりて自分に滿足の感情を起すものではありませぬ。この場合に滿足の感情を起すことが出来るのはただ宗教のはたらきのみであります。  仏教の説に拠りますと、我々の身体は五蘊の結合によりて出来て居るのでありまして、五蘊が分散したときが死であります。それ故に死と共に意識のはたらきも無くなるのでありますから、我々が死してから後に残るものはただ業のみであります。業は我々の行為に本づくものでありまして、一旦行為にあらはしたものは消滅することはありませぬ。消滅することのない行為が積りて業となるのでありますから業も消滅するのではありませぬ。それからして更に第二の五蘊を集めて第二の生を作るものであります。それ故に我々は此の如くにして生死の苦界を流転するものであります。ここに前の生からは離るることなく、しかしながら前の生とは異なりたる後の生があらはれるのであります。  右のやうな訳でありますから、意識は死んでから後には有りませぬが、第二の生が引き続きてあらはれるときにはまた意識があらはれるのであります。しかしながらこの時の意識は前の生の意識ではありませぬ。元来我々の意識は身体のはたらきによりて時々刻々にあらはれて来るもので、前後連続のあるものではありませぬ。前の意識は消滅して後の意識が生じ、その意識がまた消滅して更に次の意識が生ずるものであります。しかるにそれを連続したる固定的のものと考へるところに我々の考に誤があります。執著の心もこの誤から起るのであります。かやうに考へて見れば死して後に新に生を得ることも、寝てから後に目が醒めるのと、同じことで、ただ以前の記憶があるか無いかの相違であります。しかしながら記憶があるといふのも畢竟するに自分といふものに執著する心持でありまして、それは肉体が存するためにあらはれるのであります。  しかしながら此の如き理窟は自分の死後の生命がどうなるかを決するためには、滿足の感情をあらはすものではありませぬ。我々はどうしても宗教的に考へて、我々が死してから後には仏となることを期すべきであります。生死の苦界には生れて来ないことを求むべきであります。釈尊が涅槃といはれたのはこの意味に外ならぬものであります。「中阿含経」の中に髭童子が釈尊に向ひて「世界は尽きる期がありませうか、身と心とは同じものでありませうか、命は終りのあるものでありませうか」と聞いたときに、釈尊はそれに答へて「かやうなことを知るといふことは解脱を得るといふことには何の関係もないことである。かやうなことを知つた後に人が四苦八苦に悩むといふことは、それを知らざる前と同じである」と言はれたということが書いてあります。いかにもその通りでありまして死後の生命につきての考ははつきりしても、はつきりしなくても、宗教の意味よりいへば同じことであります。(大正十四年十月)  未来の世界  問 仏教は現在未来に亘りての利益(現当二世)を説かれてあります。なるほど信じた後の現世の信後相続は妙好人としての生活が思ひやられます。未来に於ける私の心、勿論信心を得た人には最早私の心は無いのでありませうか、阿弥陀の命にかへり法の実体にかへつたのでありませうか、然しそれも現在から見てのみ意義があるのでは無いのでせうか。結局未来は法にかへつたものとすれば未来そのものは何だかボツとして真如に帰り宇宙に帰して一味平等、何だか頼りのないものではありませぬか。なるほど真如に帰ることは永遠不滅であり、無量壽無量光でありませう。それも現在から見てのみ、単に我々のある霊感とでも言ひませうか――意義のあることで、未来そのものは何だか漠然として居るやうに考えられます。一体この我々の心は未来にも残るものでせうか、人々のいふ靈魂として存在するでせうか、ただそれは現在から感ずることに過ぎないのでは無いでせうか。どうしてもこの点がはつきり致しません。私の永遠性はどういふものでせうか。  宗教は私の問題であるといはれる、然らば心の不具者は(例へば、狂人、痴人等)一体どうなりませうか。なるほど仏教では一切衆生とあるから、心の不具者も対機ではありませうが、然し助かることが出来るでせうか、若し助かるとすれば別段信ずることが問題とならなくなりはせないでせうか。信ずることが往生の因である以上、心の不具者は助かりませぬか。  仏の慈悲は広大である、一切衆生がその対機である。しかしすべては信ずる人の上にのみ恵まれることでございませう。  仏教以外の宗教或は迷信的信仰で、死んで行く人々の霊魂は一体どうなることでせうか。  こんな風に考へてまゐりますと、結局現在にありてのみ宗教はそのはたらきを完うし、又現在から見てのみ未来が生きて来るやうに思はれて、未来そのものの意義が、何だかハツキリ致しませぬ。しかるに後生大事といひ、未来仏果といひ、盛に未来の功徳を説き聞かされます。なるほど信じた人には未来が明るいか判りませぬ。しかしそれも現在ありての事とすれば未来そのものは何だかボツトして居るやうに考へられます。まことにくだらない質問かも知れませぬが、私は今、この心の未来に就て、大体以上のやうに考へて居りますからそれに就てお教をねがひます。  答 未来の世界がボツトしてわからぬと言はれるのは誠に御尤のことであります。自分のたましひがどうなるものか、それは我々にはわからぬことであります。心の行衛は我々にはわからぬことはいふまでもありませぬ。  たましいといふものが独立に存在して居つて、それが我々の身体に舎つて居るときに我々の心のはたらきがあらはれるのであるといふやうな考は古代の人々の信仰でありまして、今日の心理学や生理学では、決してさうは説かぬのであります。これは固より御承知のことでありませうが、今日の科学では我々の心のはたらきは身体殊に脳髄の機能であると信じて居るのであります。我我の身体には感覚のはたらきがありまして、それによりて外界の事物を感受し、それから知覚及び観念のはたらきが起りて、外界の事物を認識するのであります。それから記憶とか、想像とか、判断とか感情とか、意志とか、いろいろの精神のはたらきがあらはれるのでありますが、我々の心とはこれ等の精神作用をまとめて、それに附けたる名前であります。実際に存在するのは個個の精神作用でありまして、心といふのはそれをまとめて言ふのでありますから、実際に存在するのでありませぬ。独立して存在し、独立してはたらくところの心といふものが有るのでは無論ありませぬ。然るに、さういふ心を独立のものとして、その心の主人といふべきものがたましひ(靈魂)であると信じたのは昔時の人々で、今日の科学ではさういふ意味のたましひが身体を離れて存在するものであるとは信じませぬ。  それ故に、さういふ意味のたましいが我々の死したる後に、残りて存在するといふことは今日の科学の上では信ぜられぬことであります。身体のはたらきとして現はれるところの心は、身体のはたらきが止めば無くなるのは当然であります。身体が死してそのはたらきが止むだ後に、たましひが存在するならばこのたましひは身体のはたらきでは無くして、若しさういふものの存在を認めやうとするならば、身体のはたらきを起さしめる或物とせねばなりませぬ。かう考へるときには、それは我々の推理の力によりて認められるものでありまして、具体的の存在で無いといふことは無論であります。  かういふ風に考へますと、我々の心といふのは我々の身体のはたらきでありますから、我々の身体の死すると同時に消えるものであります。しかしながらそれは一般に我々人間の心のことにつきて論ずるのでありまして、私一個人の心のことにつきては未来どうなるか、私自身にはわからぬのであります。それ故に、私の心の未来は私の信仰によりてこれを定めるより外は有りませぬ。  明日は今日より見れば未来であります。しかし未来の明日は我々にはボツトしてわからぬものであります。如何に学問を十分にしても未来の明日はわからぬことであります。しかし未来の明日は必ず現はれるものであります。未来は必ず我々の現在の前に展開するのであります。それ故に我々はボツトした未来に心配することなく、しかも未来を信じて現在に生きることが出来るのであります。貴下が未来といふものの意義はただ現在から見るときに有るものだと言はれるのも全くこの意味でありませう。まことに左様であります。未来は我々にはわからぬもので、ボツトしたものでありますが、しかし現在から推理してこれを信ずることが出来ます。それ故に我々が信ずるところの明日は存在して居ることを証明したる明日では無くして存在して居らねばならぬ明日であります。それと同じやうに我々の心の未来の世界は存在することが証明せられる未来では無くして存在せねばならぬ未来であります。さうしてそれは現在から推理して、信ぜられるところの未来であります。  一体我々の心の世界は現在の瞬間より外には無いのでありまして、過去といひましても、又未来といひましても、皆この瞬間の現在の内に存在するものであります。それ故に未来の功徳といふものも、未来の果報といふものも、これを現在の心の瞬間に現はしてのみ、宗教上の意味があるのであります。私は平生、さういふ風に考へて居るものでありますから、未来と言つても現在と離れたものでなく、過去と同じやうに現在と連結して居るものであると信ずるものであります。それ故に私はボツトしたる未来を信じ、その果報を期待するものであります。未来の世界が現在の世界を離れたるところに、別に存在するものとは考へませぬ。  フタバラといふものが釈尊に向つて、如来は死してから後にも命がありませうかといふことを質問した所が、釈尊は「さういふことを私は説かぬ」といはれました。フタバラは「何故にそれを説かれぬのでありますか」と質問したところが「それは道を求むるために必要でないから説かぬ」と答へられました。まことに死してから後に我々の心がどうなるかといふやうなことは苦しみから脱れる道を求むるためには何の役に立ちませぬ。我々がたとひ死してから後に我々の心がどうなるかといふことを知り得たところで、しかしながらそれで安心が出来るものではありませぬ。たださういふことを考へることによりて我々は真面目に自分といふものを見つめることが出来るのでありますから、それが宗教の心のはたらきを起すの便宜となることがありますから、死後に就て考へるといふこともその点に於て全く意味が無いといふ訳ではありませぬ。  しかしながら、前にも言つた通りに、我々が未来といふのは現在の連続でありまして、それを証明して後に信ずるのでは無く、証明が出来なくてもその存在を信ぜねばならぬものであります。固より証明が出来ない未来の世界でありますから、ボツトして居るといふことは無論でありますが、今日から考へて明日もそれと同じやうにボツトしたものであります。しかも明日は存在せねばならぬものでありますから、証明を要しないのであります。それ故に未来仏果といふも、後生大事といふも、現在の心の状態の上に現はるるときにのみ我々の心のはたらきとして価値があるものでありまして、未来を遠き処に求め、後生をかけはなれた世界と考ふるとき、それは全く我々の心の外(客観的、知識的)に出るものでありまして、宗教の意味は無くなるのであります。  これを心の外から言ふときに、仏の慈悲といひますが、我々の心の内から見れば、それは仏の慈悲と名づくべき心持があらはれたときをいふのでありまして、仏の慈悲と名づくべきものが独立して存在するのではありませぬ。それ故に宗教は我々の心の内の問題でありまして、助かるといふことも、慈悲といふこともすべて、それを感知するときにその価値があらはれるものでありまして、それを感知せざるときには何等の価値もないことであります。それ故に幼若の小児や狂人、痴人にしてそれを感知することが出来ぬものには宗教のはたらきはないものと言はねばなりませぬ。(大正十五年六月)  業報問答  一、業の思想  問 仏教に言ふところの業(カルマ)は、今日のやうに遺伝説が明かになりかけた時に尚ほ真理として認めらるべきものでありませうか、この世に於ける業によりて来世に再生するとしても、それは子となりて再生する外はない筈であります。それ故に、吾がこの一生の間になせる業は、子の無い限りは全く亡びて再生せぬものと見るべきではありませぬか。靈魂を否定せる仏教が、死後に物質散乱、精神消滅以外に業感説を立つることは二元論に堕するものではありませぬか。  答 先づ過去現在未来の三世のことにつきて私の考へを申上げる必要があります。宗教はいふまでもなく我々の心の内のことを説くのであり、又仏教の説では三界はすべて心の作るところでありますから、三世といふこともこれを「我と意識するもの」の内容として考へねばならぬものでありませう。さうしてここに「我と意識するもの」といふのは他の言葉にていへば「自我」又は「仮我」のことで「自己の生命」でありますから、それが我我の肉体(感覚)に本づきて現れるといふことは疑のないことであります。それ故に我々の前世はすなはち父母であると考へられるのでありますが、遺伝学の上より見ても、父母から伝へられるのは生殖物質であつて、身体の組織は我々が自らこれをつくるものであります。さうして生殖物質は不変化のままに甲より乙に伝へられるものでありますから、我々の前世はこれを肉体の上よりいふときは、父母ばかりでなく祖父母曾祖父母より進みて、測り知られざるところまで遡らねばなりませぬ。しかしながらこれは生殖物質につきていふので、身体の組織意識の形成には関係があるものでありますから、それを考へると我々の前世は単に父母であると簡単にいふ訳にはまゐりませぬ。これを意識の内容より見るときは、自己意識(自我)は我々の肉体を離れるものであります。肉体を離れたる自我の内容の中には、幾萬年も前のこともあり、幾萬里の遠方のこともあるといふことは誰人も知るところでありませう。それ故に、我々の過去は久遠劫の古昔より生死の苦界を流転せるもので、我々の前世がただ父母であるとするのはあまりに簡単無雑作でありませう。これを自己意識の内容として考ふるときは、我々の前世はもつと複雑のものであります。未来亦これと同様でありまして、我々の来世は子であるとばかりいふ訳にはまゐりませぬ。もとより肉体の上より見れば我々の後継者たるものは子であるから、それが来世であると考へられますが、しかし自己意識の内容として見るときには、子の有る無しには関係なく我々の未来は必ず有るものであります。宗教としては常に自己意識の内容として「我と意識するもの」の未来を考へるのですから、肉体的に父母から子へと伝へて、過去・現在・未来と進み行くのでなくして、肉体を離れての自我の過去・現在・未来を考へるのであります。故に、たとひ子は無くとも自我の来世は必ず有るものといはねばなりませぬ。  あなたは肉体的に考へて、我々の前世は父母の一生で、我々の未来世は子である。若し子が無ければ、この世から続いた来世は無いが、前世から続いた来世がある。すなはち前世から分岐したる甥姪などとなりて続くと考へられますが、如何にも肉体的に考へればそのとほりでありませう。しかしながら、これは自然科学的に見たる自我でありまして、哲学的に考へれば自我のありさまはこれとは大分相異するのであります。宗教的に考へれば更に相異するところが著しいのであります。あなたが、業といふことを宗教的に見るといふことであれば、先づ自我を宗教的に考へ、その自我の内容につきて過去・現在・未来の三世を考へなることが大切であります。  自我の内容としての過去・現在・未来の三世を考ふるときは、常に因果の関係が思はれます。さうして因果の関係が思はれるところに、どうしても業(カルマ)の説が採用せられねばなりませぬ。業(カルマ)といふものは、もと仏教より前「ウパニシャツド」時代の所説でありまして、この時代の考へにては、自我(アートマン)といふ独立のものを立て、宇宙的精神は唯一の実在で萬有の源泉であり、個人的精神はこの唯一実在の波瀾である。すなはち宇宙的精神の一部分であると説いたのであります。さうして個人の作法行為は業(カルマ)となるといふのでありますから、「カルマ」(業)はすなはち罪悪責任の負擔者であり、それがすなはち個人的存在(自己でありますから、罪悪善行の報償を受くるものであります。その報償として転生の考へが起り、個人は他の新しき形を取りて再生するのであると説かれたのであります。仏教にては、此の如き独立の存在としての自我を否定して無我の説を立て、自我といふものは我々の意識が前後連続して生起するところの現象で、常一主宰の自我があるのではないと主張するのであります。前生と後生とは固より同一のものではなく、その間に因果の連続があるのみであります。死亡すればその身は亡ぶもの(五蘊分散)で、この身の外に靈魂はないから、この身の再生するといふ筈はありませぬ。輪廻の中にあるのは固より此の身でありますが、輪廻の本態として、生死反復の因となるのは業(カルマ)であると説くのであります。業(カルマ)といふのは、因縁によりて連続して永く止むことのない個人の行為であります。さうしてこの業(カルマ)は無明より起り、業よりして萬物心身の開発を見るのでありますが、これを行と名づけ、行の結果がすなはち識で、これが自我であると説くのであります。独逸のヘツケル博士は仏教の業(カルマ)を「エネルギー」(勢力)なりとして居られますが、我々の意識の根本をなすところのものでありますから、私もこれを「エネルギー」と見ても差支はないと考へます。此の如くにして「我を意識するもの」を独立の存在とするところの我論を否定し、我々が自己とするのは業(カルマ)の因果的連続によりて現れるところの意識であると説くのでありますから、仏教にていふところの業(カルマ)は結果を生ずべき一切の活動であります。  それ故に仏教にありては、現象上の個人格の実在を否定して、道徳上の個人格を認むるので、再生するといつても個人の人格が再生するのではなく、生死を輪廻するといつても靈魂が輪廻するのではなく、ただ業(カルマ)の善悪の性格が輪廻再生するのであります。これを具体的にいへば、我々が愛と執著とに苦しむのは業(カルマ)のためでありますが、この業(カルマ)によりて身体が生じ、身体が生ずるによりて生死の流転といふことがあるのでありますから、子がなければ来世はないといふやうなことはいはれぬのであります。我々は現に今、意識して居るところのものは現在の我でありますが、それは全く生前の業(カルマ)の上にあらはれたるものであります。我々の死後にも、この業(カルマ)の上に更に新しき意識があらはれるでありませう。そこに我々の来世があるのであります。決して二元論的に肉体と精神とをわけて説くのではありませぬ。又業(カルマ)といふものは一個の実体として考へるのでもありませぬ。(大正十一年四月)  問 先生のお答に「我と意識するものの内容として考へねばならぬものでありませう」とあります。その自己意識の内容といふことを委細にお知らせ下さいますやう願ひあげます。自己意識の内容がどうであれば我々の未来は必ずあるのでありますか。  答 御質問の記載があまりに簡単で、どういふ点に御不審があるのかよくわかりませぬが、大体に於て未来といふことにお疑ひがあるやうでありますから、そのことにつきてお答いたします。  先づ前世と来世といふことの意味をおはなし致して置く必要があります。前世といふのはもとより前の世で、まだ生れぬ前の世、来世といふのは死して後の世のことでありますが、それはすべて我々の意識の内容としているのでありまして、靈魂がこの身体を離れて来世に赴くといふやうなことを申すのではありませぬ。意識の内容とは何であるかといへば、それは全く我々の感情や思考や意志などに外ならぬものであります。簡単に通俗の言葉にていふときは我々の心であります。我々が自己を自己と識りて、いろいろのことを考へたり、或は苦しみ、或は楽しみ、或は喜び、或は哀しみ、若しくは思ふことを言つたりすることがすべて意識の内容でありますから、すなはち「我と意識するもの」であります。平たくいへば我という心持であります。この我といふ心は現在に我我の身体がありてはじめて現れるものでありますが、すでに現在がある以上は必ず過去と未来があるでありませう。その過去が前世であり、その未来が来世であります。つまり我といふ心持の前世であり、又その来世でありまして、決して我々の身体から離れて存するところの靈魂のやうなものを考へて、それの前世とか、それが来世におもむくとかといふのではありませぬ。  我といふ意識は我々の身体から現れるものでありまして、外界の刺戟によつて時々刻々に生ずるところの感覚や感情や概念などの精神作用をあつめてこれを意識といふのでありますから、この意識は自体の死滅すると共に無くなるものであります。身体が死滅するに至らずとも、身体のはたらきがやみて外界の刺戟に応ぜぬ場合には、この意識といふものはなくなります。睡つて居る間や、麻酔薬を用いて麻酔して居る間はさうでありまして、この時には意識といふものはありませぬ。身体と精神とは全く一とつのものでありますから、身体が死滅すれば精神もまたそれと共に死滅するものであります。これは今日の心理学や生理学、などにてさう説くのでありますが、仏教でも全くこれと同じやうに、身体が無くなれば精神も無くなると説くのであります。  仏教の説に拠ると、我々は五蘊の集合によりて出来て居るのでありまして、その五蘊といふのは  (一)色蘊 耳・目・鼻・舌・身(骨・筋・臓腑等)を指す。物質的の性質をいふのである。  (二)受蘊 感覚又は感情を指す。  (三)想蘊 感覚を通じての認識。概念又は思想を指す。  (四)行蘊 意識の要素で、善悪諸行を造るところの心的傾向を指す。  (五)識蘊 分別又は明識を指す。  この五蘊が集まつたときに生があり、この五蘊が離れたときに死があらはれると説くのであります。さうしてその五蘊には、一とつとして常住のものはなく、すべてが常に変化しつつあるものであるから、身体も精神も常一主宰のものとして独立に存在するのは無いと説くのであります。それ故に、身体の死滅したる後に個性的の精神が我として残るといふことは決してない訳であります。仏教以前の婆羅門学派の説では、我々の身体には常一主宰の我(ブドカラ)がありて、この我は身体の死滅とともに消滅するのでなく、他の身体に移り住みて、いはゆる輪廻転生をするものであると説いたのでありますが、仏教にありてはこの我といふものを否定して、無我といふことを主張し、我々は五蘊の集合より成れるもので、この五蘊が離るれば、身体精神も散りて我といふものは無くなつてしまふといふのであります。  我々人類の死滅といふことを自然の現象の一とつとして考へるときには、どうしても、事実の上から、さういふやうに説くことが正当であります。しかしながら死滅といふことを自然の現象として客観的に考へるといふことは全く学問的のことでありまして、それで我々の心に滿足が得られぬことは無論であります。それ故に、そこに宗教的の説明が現れて、はじめて我々はそれに満足することが出来るのであります。仏教の業(カルマ)の説はすなはち斯樣にして現れたものであります。身体の死滅とともに精神が無くなるといふことは固より疑ひのないことでありますが、しかしながら、身体となり精神となる要素(五蘊)は決して死滅するものではないから、その要素が再び集合すれば又もとのやうに身体ならびに精神が現れる筈であります。たださういふ答であるといふばかりでなく、それは事実でありまして、もし五蘊が離れるだけで集合するといふことがないとすれば、我々は生れるといふ訳がわかりませぬ。我々が生れるといふことが五蘊の集合である以上、離散したる五蘊はまた集合するものであると考へねばなりませぬ。しからばその五蘊が集合するのは何によるものであるかといふに、それはそれが集合せねばならぬやうな因縁によるのであります。総体の事情がどうしても五蘊を集合せしめねばならぬによるので、ここに五蘊の集合が出来るのであります。それ故に、それを一種の勢力(エネルギー)と見ることが出来ます。仏教にていふところの業(カルマ)はすなはち此の如き一種の勢力(エネルギー)のやうに見られるものであります。  我といふ意識はもとより身体とともに消滅するものでありますが、身体が消滅するといつても、ただそれが形態を換へたのみで、決して無くなるのではありませぬから、五蘊に分れたる要素は再び結合するによつて意識が現れるものであると考へねばなりませぬ。そこに来世があるのでありますから、来世といつても、今の我がそのまま来世に移り行くのではありませぬ。一種の力(因縁のはたらき)によりて、来世に新しき個性を造り、それに意識を現すのであります。さうして、この一種の力は我々の行為によりて生ずるもので、これがすなはち業(カルマ)と名づけられるものであります。更に詳細にいへば、我々は感覚によりて外界を認識するがために、自己の欠乏を補はんとする心すなはち愛が起り、それから、望みて得たものを失ふまいといふ執著が起るのでありまして、この愛と執著とによりて新に五蘊を結合せしむるのであります。それを一種の力として業といふのでありますから、前世の五蘊の結合を成さしめるところの業が、また来世の五蘊の結合を成さしめるのであると説くのであります。それ故に、我々が死して五蘊が離れて身体も精神も共に無くなつたときでも、業と名づけらるるところの一種の力(すなはち五蘊の結合を成すべき因縁のはたらき)は無くなることはなく、その力によりて更に新しく五蘊の結合を生じて来世の個性を現して、そこに我の意識が起るものであります。もとよりこの時に於ける意識は、前世の意識と同じものが個体となりて移り来つたものではありませぬが、しかしながら、同じ業の力の上にあらはれたるものでありますから、前世と来世とは全く続いて居るものでありまして、決して離れたるものではありませぬ。さういふ次第でありますから、仏教にては生死を流転するといふのでありまして、我々が現に今、意識して居るところのものは現在の我でありますが、それは全く前世の業(カルマ)の上にあらはれたる意識に外ならぬものであります。我その死したる後にも、この業(カルマ)は引続き存在して、その上に更に新しい意識を生ずるものでありますが、それがすなはち来世の我であります。既に説いたとほり、業(カルマ)といふものは、因縁によりて連続して永く止むことのない個人の行為の勢力(エネルギー)と言ふべきものでありますから、それが無くならない以上、生死のさかひを流転することは止まないのであります。  斯くの如き次第でありますから、我々の身体及び精神は死滅しても、意識に来世があるといふことは明かでありませう。父母が前世で子が来世であるといふ考へはあまりに身体的でありまして、我といふ意識の前世と来世とはさう簡単に考へることは出来ませぬ。なるほど身体からいヘば父母より分れたものに相違ありませんが、しかしながら、父母より子に伝はるのはただ生殖物質のみでありまして、その余の身体の大部分はその子が外界から集めて造るものでありますから、意識を生ずる本であるところの身体を全く父母から得たとはいはれません。それ故に、意識にあらはれたる我の前世が父母であり、来世が子であるといふことは、合理的でないといはねばなりませぬ。宗教としては常に我々の心の内面のことを考へるのでありますから、これを意識の内容として考へることが至当であり、又それを物質的(身体的)に考へるべきことではありませぬ。自己意識の内容がどうあれば我々の未来は必ずあるのであるかといふやうな疑問が出るのは、我々の心を物質的のものとして考へ、また未来をも物質的のものとして考へるためではありませぬか。我々の心は、常に愛と執著とによりて業(カルマ)を造り、その業(カルマ)の力にて更に我々の心を造るのでありますから、どうせぬでも、我々の意識には未来があるものであります。その未来が業(カルマ)のために生死を流転するのでありますから、業(カルマ)を除くことによりて、はじめて我々の未来は光明の境にいたることが出来るのであります。それがすなはち涅槃の都でありますから、我々が涅槃を得るといふことは要するに、我々の業(カルマ)の上にあらはれるところの意識から離れることであります。それがすなはち浄土に往生するといはれるのであります。若しその業(カルマ)が除かれない場合には、我々の心の未来は常に生死の流転であります。  いふまでもなく、この業(カルマ)の説は仏教の信仰でありまして、それが十分に會得せられて後に、はじめて仏教の真理が体得せられるのでありますから、これを考へることが必要でありませう。(大正十一年五月)  問 御説によりて考へますと、人として如来に信順し業が除かれ五蘊が離散したるものは、報土に往生して再びこの人間界に生れることがありませぬ。されば今全人類がみな如来に信順し業が除かれたと仮定すれば、未来の人類は無くなることになります。事実斯様になるものとすれば、亡国の結果となる訳でありますが如何でございませう。  答 なるほど我々は業のはたらきによりて生死の苦界を流転するのでありますから、業が除かるれば生死を離るることが出来るのであります。生死を離るれば娑婆世界を転じて如来の心の国に生れるのでありますから、娑婆世界は固より一人の人も居ないやうになりませう。從つてその国は亡びるでありませう。宗教といふものは固より意識の内容(心持)につきて考へるもので、決して物質的のことをいうのではありませぬから、今もし仮りにすべての人々が如来に信順し業が除かれる場合があるとすれば、その時には凡夫の国が亡びて如来の国が現れるのであります。  仏教で人間界といふことは、常識でいふところの人類の世界の意味ではなくして、苦樂に責められる我々人類の心の世界をいふのでありますから、すべての人類が如来に信順して業が除かれたる場合には、この意味でいふところの人間界は亡びるのが当然であります。全体人が死ぬるといふことは自然の現象でありまして、生活の機転が止むことを指していふので、仏教で五蘊が離散するといふのも大体同じやうな意味であります。五蘊が離散すれば身体精神共に無くなるものであると説くのは、死ぬるといふことを自然の現象としての話でありまして、仏教の説では、五蘊は離散しても、その五蘊が集合して居つた間の行為が業(カルマ)となりて永く残るから、一旦離散した五蘊もまた集合して新なる身体と精神とをつくるのであるといふのであります。それ故に我々は業のために繋がれて、常に生死の苦界を流転してこれを離れることの出来ないものであるといふのでありまして、全く物質(身体、精神を併せていふ、精神多くの人は物質のやうに考へて居る、丁度ラヂウムか何かのやうに、眼には見えぬが一個の物質であるやうに思ふて居る)的のことを説くのではありませぬ。全く我々が自我と意識する心の有様につきていふのでありますから、我々が如来に信順し業が除かれて報土に往生するといふのは、これを現象の我々の上につきて言ふときは、業の根本によりて現れたる意識から離れることであります。我々の精神が一個の物質であるかの如く考へて、靈魂が報土(浄土)と名づくる国に往くといふやうに思ふのは大いなる誤謬であります。本願を信受するとき、すなはち前念命終でありまして、身体はその儘で心は浄土に遊ぶことが出来ると説くのであります。  あなたの御不審は、如来に信順して業が除かれるときには、五蘊の結合を再びせぬによりて、その結果が亡国になるではないかといふ点にあるやうでありますが、それは勿論、人類の残らずが如来に信順するといふことを條件としたのでありまして、若し仮に人類のすべてが如来に信順するとすれば、既に前にも言つたとほりに、我々人類は無くなつて、すべてのものが如来になる訳でありますから、今日我々が言ふところの意味の国は亡ぶること勿論であります。その代りにそこに如来の国が現れることでありませう。娑婆世界が亡びて仏の国が現れるのでありますから、ただ日本だけが無くなつて西洋の国のみが残るといふことでなく、苦樂の心に住するところの人類が残らず亡びて、常佳安樂の心を持つところの仏陀があらはれるのであります。斯様になるといふことは我々の理想とするところでありまして、若しさういふ国が現れたならば、道徳もいらず、法律もいらず、それこそ本当の天下泰平でありませう。人類の形態をその儘にして居つたにしても、その精神が如来と同じやうであるとすれば、地理学的の国の境は有つて無くても、人種学的の差別は有つても無くても、おなじく苦楽を超越した世界に住するのでありますから、我々が現に言ふところの国は亡びるのであります。  業が除かれて五蘊が離散するときに再び人類の身体は出来ない訳であるから、世の中に人といふものが居らなくなるといふことは勿論でありますが、それでも人類の形態をもつて居るものが全く居らなくなるといふ訳ではありませぬ。仏陀の身も時には人類の形態(化身)を現すこともありますから(固よりこれは人類が世の中に居るといふことを土台としていることで、人類が全くないといふ場合には、その名称はこれに異れるものである)人類の形態は業によりてのみ出来るのではありませぬ。しかしながらこれは論理的に言ふので、実際にはすべての人々の業が除かるれば、人類としての五蘊の結合が止みて、人類と名のつくものは全く亡びるでありませう。  業が除かれるといふことも、これを要するに、我々の行為によりて出来たる業(カルマ)の基礎の上に現れるところの意識(感情・思考・判断)から離れることでありますから、どこまで意識の内容としてこれを考へねばなりませぬ。しかるに、我々はややもすれば眼に見えるところの身体のことを考へるによりて、その考へが何時でも物質的になりて、真実の意味が理解せられぬのであります。それ故に、業(カルマ)といふことにつきても、ややもすればそれが物質的の考へになりて、種々の疑ひが起るのでありませう。  若し我々にして、物質的に自己といふものを考へることなく、自己といふ意識(自我意識)が現実の自己であると知るとき、それを道徳的に考へることによつて業(カルマ)のはたらきが認められるのであります。既に述べたとほり、我々の身体は消えても、意識は業によりて再びあらはれて、決して消えるものではないといふところに道徳的の意味があります。仮にすべての人々が如来に信順して業が除かれるとすれば、我々がいふところの国は亡びても、そこに理想的の仏の国が建つわけでありますが、しかしながら実際としては、すべての人々が業から離れるといふことは無い筈でありますから、この意味から見れば、我々が業から離れむとして向上し努力するところの宗教といふものがあらはれるのであります。(大正十一年六月)  二、業と不滅の命  問 私は始め、浄土往生すなはち永遠の生命に帰るといふことは、不滅なるエネルギーに還ることと解釈して自ら歓喜して居りましたところ、業(エネルギーと思ふの外なし)より離るることが往生を遂げることであるといふことがわかりまして失望の淵に落ちてしまひました。勿論、観念が永遠に持続するといふことは考へられませぬし、生命の不滅といふことは現代の科学が既に認定するところでありますから、宗教の未来(来世)観の任務は単に迷はざる生命の永遠といふことにのみなりました。今私の申す科学上の生命とは、個性を離れたる霊魂、繁能又は衝動の単位を指すものでありまして、宇宙間の生物無生物に遍滿し、因縁によりて極りなき変化をなし、永遠に不滅なるものをいふのであります。このものは個性を離れて居りますから、未来に迷ひとか悟りとかの厄介なのは全く無く、真実で実在で普遍でありますから、科学の謎のままに從つても何の不安も不足もありませぬ。しかるに仏教で、この生命の永遠の作用たるエネルギー(業)を排斥するのは生命を否定することになりはしますまいか。  宗教が主観のものであるといふことは無論でありますが、心と体とは一とつのものの両面で、心を語るものは体を語るものである以上、なほも不可解のものは楽であります。信心獲得後は、一部分の心は浄土に住み遊びても、他の一部分は迷執を固持して凡夫となりてあらはれ、その所業は種々な形で肉体にあらはれないでは居られぬから、このあらはれの一部分として子孫といふ形をとりますことは必然の果であります。しかるときは、信後は一半は浄土にあそび、他の一半は生涯迷執を有し業をつくり永遠に迷の部分をつくるわけになります。この点が最も私の了解に苦しむ点であります。貴説の「迷執が信後には自己の真相を知る資料となり安心生活を得る」ことはよくわかりますが、私の望むところは安心は第二として、唯々人生とは如何なるものかの徹底的なる科学的の解決を得たいのみであります。  要するに私の希望は、靈肉一体とエネルギー不滅の真理とを仏教の根本思想の中に求め得たいのであります。それから、往生を遂げて、無意味なエネルギー(科学的エネルギー)すなはち業が有意義な善良なエネルギーに代ると考へて見たところで、個体を離れる以上、どんな因縁によりて如何なる状態に変化して行くやらは科学的の生命の未来に対しては少しの力ともなり得ない訳であります。斯く考へて見ますと仏教の三世因果の類推的真理は認めますが、その限目はやはり現世救済の外に出でないやうに思はれますが、どんなものでありませう。  答 あなたが永遠に不滅なる科学上の生命といはれるのは、普遍の真理のことでありませう。個性を離れたる靈魂・靈能又は衝動の単位を指すといはれるのも、差別の現象を離れたるところに平等普遍の真実があるといふことに帰著するでありませう。ここに普遍の真理又は真実といふものは仏教にいふところの真如でありまして、この真如が生物の間にあらはれたるときは仏性といはれ、無生物の間にみとめられたるときは法性と名づけられるのであります。仏性といふも法性といふも、皆これ真如でありまして、宗教的にいへば、十方微塵世界に充ち満ちて居るところの如来であります。あなたがそれを科学的に見て、永遠の生命といはれるのもつまり同じものでありませう。  この永遠の生命は固より個人の生命(個性)に離れたるもので、永遠に不滅のものであるといふことは勿論であります。個人の生命を離れたるものである以上、迷ひとか、悟りとかといふやうな厄介なものの全くないものであるといふことも亦言ふを待たぬところであります。迷ひとか、悟りとかといふやうなことは差別の現象でありまして、みな我々の心のはたらき(個性)によりて現れるものでありますから、この個人の生命を離れて永遠の生命に帰るとき、迷ひとか悟りとかといふやうな差別の現象が無くなるといふことは疑がありませぬ。あなたが言はれるとほりに、迷はざる生命の永遠といふことがここにあらはれるのでありますから、身体と共に心も死して(靈と肉とは一致体のものであるから)後に永遠の生命にかへるといふことは科学的に考へられることでありませう。それを他の言葉にていへば、我々が生きて居る間は心身の作用にて意識が生じ、それによりて迷ひとか悟りとかといふやうな現象をあらはすのでありますが、死して後に意識が無くなつたときには、意識の根本たる普遍の生命にかへりて、その生命は滅ぶことのないものであります。あなたが科学上の生命といはれるのも全くこれと同じものでありませう。  それで、個人の意識が無くなれば、すなはち個人の生命を離れて、永遠(普遍)の生命にかへるのであるから、そこには迷ひのあるべき筈はないといふことも無論でありますが、しかしながら、我々が個人としてこの世にある時に思つたり行つたりしたことは、いつまでも消えずして長くやるのでありますから、我々の個性は死と共に無くなつた後でも、個性の作用は常に業(カルマ)として後に残るものであります。それ故に、身体と心とが無くなつても、体と心とから現れたるはたらきが業(カルマ)として残つて居る限り、我々はなほ全然個性から離れないで居るので、ただそれと意識しないまでのことでありますから、どうしても我々はこの業(カルマ)から離れねば永遠の生命にかへることは出来ない訳であります。業(カルマ)といふものをエネルギー(勢力)と見るも差支はありませぬが、或は業といふものは時間・空間と同じく、非力的の存在であると考へることも出来ますが、いづれにしても我々の個性によりて現れたものであります。その根本を言へば、業といふものも、その他、煩悩といふやうなものも、あなたの言はるるとほりに、永遠の生命(普遍の真理)からあらはれるものでありますが、業と名づけられるはたらきは、我々の個性があつてはじめて現れるのでありますから、我々の個性がこれを造るものであるとすべきであります。若し我々の個性(我々の心)が無かつたならば、業といふものはあらはれる筈はありません。それ故に、業を排斥してそれから離れるといふことは普遍の真理(永遠の生命)に帰るべき唯一の道でありまして、決して永遠の生命を否定するのではありませぬ。  あなたの言はるるとほり、宗教の未来は迷はざる永遠の生命に帰るのであります。親鸞聖人の言葉を用ふれば、法性の都にかへるのであります。しかしながら、現在の意識が無くなれば、すぐに普遍の生命にかへることが出来るといふやうに簡単に考へることは出来ませぬ。それは我々の意識はすべて感覚から起りて、仏教にいふところの六識をなすものでありますが、それ以上に第七識(マナ識)及び第八識(アラヤ識)といふものがありて、我々の個性はそれによりて成立するものでありますから、意識が無くなればすぐに普遍の真理にかへることが出来るのではなく、我々は業(カルマ)を排斥することによりて全然個性の作用から離れて、始めて永遠の生命にかへることが出来るのであります。  体と心とはもとより一とつの兩面で別に異なつたものではありませぬ。仏教の説によると、五蘊が集まつたときが生で、それが離れたときが死でありますから、あなたの言はるるとほりに靈肉一体と見るのであります。体を離れて心があるのではなく、心を離れて体があるのではありません。これは今日の生理学や心理学で説くところと同じで全く心身一如の考へであります。私も常にそれを主張して居るのでありまして、心と体とを一とつのものとして考へて居るのでありますが、信心獲得の後でも、我々の心と体とのはたらき(すなはち個性)が全く無くならない以上は、一部は浄土にあそびても、一部は迷執の境界にあることは議論のないことでありませう。体と心とを別けていふときは、体があつて心があらはれるとしても差支はありませぬから、業によりて肉体があらはれるといつて、それはすなはち心があらはれるのであります。業(カルマ)から離れない限りは、我々は我我の心から離れることは出来ないのであります。あなたはそれが諒解に苦しむ点であるといはれますが、この上どういふ点が疑問であるか私にはちよつとわかりませぬ。どこまでも心身一如の考へでありますから、業のはたらきが肉体としてあらはれると言つたところが、それは常に心のことを指して居るのであります。その心が、信後は一部分は浄土にあそぶやうでも、一部分はなほ迷執を離るることがなくして、永遠の生命にかへることが出来ないのは、現在の肉体が感覚・知覚・観念、その他種々のはたらきをなして、個性をつくるからであります。それ故に、個性(肉体と心)が無くなるといふことは浄土に往生すべき要件でありますが、個性のはたらきとしてあらはれたる業が消えない限り、我々はなほ全く個性から離れたのではありませぬから、業から離れなければ、浄土に往生する(永遠の生命に帰る)ことは出来ぬ筈であります。  あなたは又、仏教の三世因果の説は認めるが、その眼目は現世救濟の外に出ないやうに思はれると言はれますが、それは必ずさうでありませう。未来を説き過去を談じ因果の法則を考へるといふことは、畢竟するに現実の我を救はむがためのものでありまして、宗教の意義はここにあることであります。この意味に於て、現世救済といふことは、道徳的に我が心の内面を見つめたるときに要求せらるるものでありますから、その根本の考へが道徳から出発して居るといふことは明かであります。業(カルマ)の説も、我々が我々の心を道徳的に見ることの深さがためにあらはれるところの心持であります。(大正十二年1月)  問 「意識が無くなればすぐに普遍の真理にかへることが出来るのでは無く、我々は業を排斥することによりて、全然個性の作用から離れて、始めて永遠の生命にかへることが出来るのであります」とありますが、右の業を排斥するにはどのやうにすればよろしきや。  答 意識の奥にまだ何物かがあるといふことを考へるところに宗教といふものが真実の相にてあらはれるものであります。それ故に宗教的に論ずるときには、意識が無くなつたからと言つて、直ぐに普遍の真理にかへるといふやうに浅薄に考へてはなりませぬ。意識が無くなつても、我々の行為のためにあらはれるところの業(カルマ)といふものは無くなるものではありませぬから、肉体は死滅しても、業が無くならないために我々は生死を流転せねばならぬのであります。此の如き次第でありますから、業を排斥することによつて全然個性の作用から離れることによつて我々は始めて真実の報土に往生することが出来ると説くのであります。しからば我々は如何にしてこの業を排斥すべきであるか。あなたの御質問も全くこの点にあることと思ひますが、業(カルマ)といふものは我々自身が曠劫の昔時から生死を流転する間につくつたものでありますから、これを如何ともすることが出来ませぬ。我々にして若し自身の心の有様を道徳的に考へて、その根本が業(すなはち自身の行為)に存するといふことを知つたとき、我々はこの業を排斥することの出来ぬといふことを痛切に感ぜねばなりません。業(カルマ)といふものはもとより一個独立の実体とみるべきものでは無くして、我々が自身の心の有様を道徳的に考へるときに感知せられるものでありますから、我々が道徳的に考へる限り、この業を排斥する(正しく言へば業を感知することが止む)ことはありませぬ。それ故に、親鸞聖人が言はるるやうに我々は地獄が一定住家であります。地獄に堕つるより外に行く所のないものであります。しかるにこの業を排斥して地獄に堕つることを免かれやうとつとむるところに、我々はますます真実の道から遠ざかるのであります。「阿含経」の中に、釈尊が、石を堀の中へ投げて、この石浮べと願つたところで浮ぶべき道理はないと言はれたといふことが書いてありますが、この譬喩の通ほりに、石は重い自性のものであります、いかに如来といへども、その重みを消すことは出来ませぬ。業は我々のつくるところであります、いかに如来といへどもこれを消すことは出来ませぬ。我々として自身にこの業を排斥せむことは思ひもよらぬことであります。石の重味を消さむことも思いもよらぬことであります。此の如くに自覚して、宗教的に、我々自身を見つめるとき、いかにも業の深くして且つ重いといふことを知るのであります。さうして、我々自身には、この業を排斥するの力が無いといふことが知られて、始めてここに如来の慈悲が仰がれるのであります。業を排斥して如来の心におなじやうにならうとするのでは無く、業の重くして沈まねばならぬものであると。いふことに気がつくとき、そこに如来の光明が認められるのであります。重い石、その儘が弘誓の船に乗せられて如来の本願の海に浮ぶことが出来るのであります。(大正十二年二月)  三、宿業に就て  問 我々は無始以来の宿業が現世にあらはれて人間生活といふ業果を受けつつあります。しかるに業果のあらはるるのは現世ばかりではなく、遠い未来(人間生活を終つた死後の境涯)にあらはるると聞いてをりますが、ことに仏智不思議の誓願を信ずれば、その刹那に於て正定聚の位に入り未来(人間境涯を終らば)は安養の浄土にいたりて生死を離れ、弥陀同体の証が得られると聞いて居ります。但し信後といへども現世の業果は果さねばならぬとも聞いて居ります。  そこで若し、信後に於ても過去の業果(殘る現世に於ける人間苦)をはたさねばならぬものなれば、無始以来の宿業にして遠き未来にあらはるべき業果も当然はたさねばならぬこととなりて、一部は浄土往生を遂げ、一部は業に苦しめられねばならぬやうに考へられます。  更に又、未来(来世の意)に於て、過去の業果の苦しみがなきものならば、信ずる刹那に、無始以来の業果(殘る現世に受くべき業果)は消滅して生死海を離れることになりて、人身はあるとも苦・樂・非苦非樂を超越した仏心となるやうに考へられます。否その域に達せねば真に信を戴いたことにはならないやうに考へられます。その辺をどうか御教示をねがひます。  答 御説の通ほりに、我々人間としてこの世に生れ出でたのは宿業の結果であります。我々の行為が業(カルマ)となつて消滅することが無いために、過去から現在、現在から未来へと生死を流転するのであります。この宿業はもとより現在ばかりでなく、未来にもまた現はるるものであるといふことは論のない次第でありませう。しかしながら、前にも度々言つた通ほり、仏教にいふところの業(カルマ)の範囲はもとより広いものでありますが、これを要するに、業とは我々の行為の力で自己の心の有様を道徳的に見て、自己が為したるところにつきて一切の責任を負ふ心のあらはれたるときに感知せられるものであります。しかしながら、それは独立の個体として存在するものではありませぬから、現在の身体が消滅してもなほ過去の業が残つて居るということはありませぬ。因果の法則に基きて、現在の果は過去の因により、現在の因が未来の果をなすといふことは勿論でありますから、業といはるるものが何処まで持続して、それがために我々が生死の苦界を流転するといふことは疑のない訳であります。ただし業といふものは我々が現在にありて過去のものを感知するのでありますから、現在に我我の心にあらはれたる業は過去の行為の力であります。全く過去の行為の力をば感知してこれを業と名づくるのでありますから、これは身体の死滅するとともに、我々の意識の中から消滅するものであります。それが未来に至りて再び意識の中にあらはれるのは現在の業に基くものでありまして、一旦身体が死滅して意識があらはれないやうになつても、更に再び身体があらはれて意識を生ずるときにはまた業が感知せられるのでありますから、我々の身体(心)は自己の業によつて過去より現在へ、現在より未来へと続くものであると考へられるのであります。しかるに如来の本願を信ずれば、その刹那に於て即得往生して、未来は安養の浄土にいたり、生死の苦海から離るることを得ると説くのは、如来の光明に照らされたる後には過去の業よりしてあらはれるところの意識が以前のやうにあらはれぬといふことを示するのであります。しかしながら以前のやうにあらはれたる意識でありますから、全く如来の心とおなじやうになることは出来ません。それ故に、如来の本願を信じた後にもこの身体が存在する限り、業として感知せらるべき我々の行為は止むことはありませぬ。このことはこれまで度々繰返して述べたところでありますから十分御承知のことでありませう。  ここに於て疑問が起るのは、如来の本願を信じたる後に至りても、なほ宿業といふものははたらいて居るものであるとすれば、一部は浄土往生をしても、一部はなほ業に苦しめられるではないかといふことでありませう。この疑問は宿業といふことをば自分より離して、自分の外にあるところの何物かが自分に加はるやうに考へるために起るのであります。業(カルマ)といふのを一種の力とするにしてもそれはただそれを感知することによりて我々の意識にあらはれるものでありますから、全く我々の心持(主観)であります。これを業(カルマ)と称して言葉にあらはすときは自分の外にあるところの何物かであるやうに思はれますが、決してさうではありませぬ。どこまでも意識の内容として考へねばならぬものであります。それ故に、我々の心持(主観)がかはらぬ間はどこまでも業といふものに苦しめられねばなりませぬ。しかしながら、若し信を獲たときには我々の心持(主観)がかけるのでありますから、業(カルマ)に苦しめられるということは無くなるのであります。このことは蓮如上人の御一代記聞書に「一念のところに罪みな消えてとあるは予念の信力にて往生さだまるときは罪はさはりとならず、されば無き分なり、命の娑婆にあらむかぎりは罪はつきざるなり」と説いてある通ほりで、信を獲たのちに業はあつても無いと同様であるとすべきであります。しからば、信を獲たる刹那に、宿業は消滅して、苦楽を超越したる仏心となるものではないか、又さういふやうになりてこそ真に信を獲たといはれるのでは無いかといふ貴方の御疑問でありますが、これは前に段々と説いたところによりてお考へになれば、決してさうでないといふことは判然いたしませう。道徳的に考へてみるときは、我々はどうしても悪業の塊でありますが、悪業の塊であるといふことは、我々が無始以来つくり来たりたる業の集積であるといふ意味でありまして、我々はこの業によりて生を人間界に受けたのでありますから、この身体の存在する限り、さういふ意味の業の苦しみから免かれることは出来ぬ筈であります。これを他の言葉にて言へば、苦樂を別けて考へるやうな自性をもつているところの自分を自分の業でつくつたのでありますから、我々はこの身体のあるかぎり、到底、苦楽を超越することは出来ませぬ。斯の如くに内省して、我々はどうして業から免かれることが出来ないと痛切に感ずるとき、ことに道徳的の考へから超越して如来の光明を感ずることが出来るのであります。ここに於て、如来の光明は我々の業の上をてらすものであるといふことに気がつくとき、我々の心持(主観)は一変して、親鸞聖人の和讃にあるやうに「有漏の穢身はかはらねども、心は浄土にあそぶ」といふやうになるのであります。それを即得往生と名づけるのでありますから信を獲たものは弥勒と等しいといふやうなこともいはれますが、直ちに仏になつて仕舞ふといふことは出来ぬ筈であります。私はこの点につきてはすこしの疑惑もないことと信じて居ります。どこまでも、業といふものを自分の心持として考へ、これを客観のものとして自分より離すことのないやうにせねば真に業(カルマ)の意味を理解することが困難であるといふことを繰返してまうし述べます。(大正十二年三月)  四、肉体の消滅と業の消滅  問 「若し現在の肉体が無くなつて、業といふものが如来の光明の中にあるといふ場合、すなはち涅槃の都にいたれば、我々の業の上にあらはれる意識からは全く離れることが出来るのでありますから、これを真実報土の往生であるといふのでありませう」とありますが、私はその意味を解することが出来ませぬ。私の考へでは、過去の業が現在にあらはれ、現在の業が又未来にあらはれるといふ法則によれば、我々は矢張未来に於ても、全く業の上に現はれる意識より離れることが出来ないやうに思はれますが、如何でありませう。  答 貴方は業といふものを一個独立の個体であるかの如くに考へて居られるのではないかと思はれますから、そのことについて、一寸説明いたしておくことが必要でありませう。  業(カルマ)といふものは我々の行為の力を指していふのであります。我々がこの世にありて、思ふたり、考へたり、行つたりしたことは、いつまでも消えずに永久に伝はるものであります。  これを内面よりして見れば、我我が一度行つたことは、古く記憶の存する限りは、我々の念頭から消えることはありませぬ。又これを外面よりして見れば、人々が一旦行つたことは、これを取消すことの出来ぬものであります。これは疑ひなき事実でありまして、我々の行為といふものはどうしても消えて無くなるものではありませぬ。それで、この事実をば我々の心の内の問題として、道徳的に深く考へるとき、我々の現在は、我々自身の過去の行為の結果であると信ぜざるを得ざるやうになるのであります。ことに業(カルマ)といふものを認めて、我々の心は業によりて常に流転するものであると説くのであります。それ故に、業といふものは畢竟するに、我々の心の作用で、別に一個独立のものがありて、それが業と名づけられるのではありませぬ。  業といふものはどういふものであるかと問はれるときは、業は我々の行為の力であると答へるの外はありませぬ。それ故に我々が業をつくるとか、業の綱にしばられるとか、業といふものを抽象的に言ひあらはすことはありますが、実際には、業はかやうな抽象的のものではなく、我々が我々自身の行為の結果であるといふことを感知したるときに現はれるところの意識であります。  それ故に、我々にして現在の肉体を有し、それのはたらきによりて意識を生じて居る間は、この業の上にあらはれたる意識からは全く離れることは出来ぬ筈であります。我々が自己の全体を道徳的に見て、自己がなしたることにつきて、一切の責任を負ふ心のあらはれたるときに、それが我々自己の過去の行為の結果であるといふことが感知せられますから、業の意識から離れることは出来ませぬ。しかしながら、過去の業が現在に現はれたのであるといつたところで、業といふものが、我々の心を離れて別にあるのではありませぬ。それ故に、心の外に出しているところの業は消えぬにしても、我々が若干の業を持ちながら、それがその儘に、如来の光明に照らされて、その大慈悲の心の中に摂取せられるときは、過去の業につきての意識が、以前のやうにあらはれることが無いやうになるのであります。親鸞聖人が即得往生といはれるのは正しくこの心持でありませう。又、現在の業が未来にあらはれるといふことは理論の上からいふても疑のない訳でありますから、我々は過去及び現在の業の結果として、生死の苦界を離るることが出来ないことであります。しかしながら、現在の肉体が無くなつて、業といふものが如来の光明の中にあるときには、我々の業の上にあらはれたる意識が、現在の肉体を有するときにあらはれる意識と全く相異のものであることはいふまでもない次第でありませう。  それ故に私は我々の業の上にあらはれたる意識から離れることが出来るといふのであります。肉体が死亡したからと言つて、すぐに業が無くなることは無い筈でありますが、意識の状態が相異して居つて、それが如来の光明の中にある上は、現在の我々の心の状態にていふところの意識からは全く離れることが出来る筈であります。すなはち涅槃の都にいたれば、我々の業の上にあらはれる意識からは全く離れることが出来るのでありますから、それが其実報土の往生でありませう。  貴方がその意味を解することが出来ぬといはれるのはどの点でありませうか。理論的に考へてみて、現在の肉体が無くなつた後、そこに残つた業が、それをこれまでのやうに意識する作用のない場合に、業としてのはたらきが認められぬといふことは当然ではありませんか。若し業の結果として再び肉体をつくるときはその業の意識は現はれること必定でありませうが、涅槃の都に入りて、これまでの意識の世界とは相違する世界に生るるときは業の上にあらはれたる意識から離れることの出来るといふことは疑のない次第であると私は信じます。(大正十二年四月)  五、業と萬物創造  問 仏教では萬物はみな業より現はれたるものとされますが、耶蘇教では萬物は神の造るところであるといはれて居ります。どうも神の造るところとする方がよくわかるやうに思はれてなりませぬ。何となれば第一、男女陰陽のごとき、これは一切萬物を生育する機関でありますが、この男女陰陽なるものは業のあらはれとはいはれますまい。男女の二性は花にも水にも石にも備はり、草木等にいたるまで皆これを備へてをります。しかるに草木土石に業があるとはいはれますまい。この男女陰陽は神の宇宙発展の第一用具として造られたるものであるとする方がよく解るやうに思はれます。さなくば男女陰陽の起原はわからぬやうに思はれます。この奇妙なる問題に就て御高見をたまはりたく存じます。  答 業といふことに就ては、これまで度々の質問に応じて、大体業に就ての私の意見は申し上げておきましたが、今又草木土石にも業があるかとの質問がありましたので、そのことに就てすこしばかり私の考へをまうしあげてみませう。万物が何によつて起りたるかといふことを詮索するのは宗教の上には決して大切のことではありませぬ。その由りて起るところは容易にわかるものではありませぬから、仏教では無始無終の現象として、有りの儘の相をみて行くのであります。耶蘇教ではお説の通ほりに、人間を始め他の一切の動物は今日の儘の相で、神からつくられたものであるとの信仰として、近頃まで伝はつて居りましたが、輓近の生物学の説では、人間は他の生物とおなじやうに進化したものであるといふことが明かになりましたから、人類の祖先としてアダム、イーヴが神からつくられたといふ聖書の記事は根柢からこわされて仕舞ました。しかしながらそれは耶蘇教が宗教として必要でない余計なことを説いて居つたのが自然科学の進歩によりて訂正せられたのでありまして、耶蘇教の宗教としての本領には関係のないことであります。貴方は万物は神が造つたものであると言つた方がわかりやすいと言はれますが、わかりやすいといふ意味はどういふことでありますか。神が造つたのであると言つた方が愚昧の人が合点しやすいといはれるのでありますか、それとも神がつくつたといふ方が合理的であるといはれるのでありますか。男女陰陽は神の宇宙発展の第一用具として製造せられたのであるとするにあらざれば男女陰陽の起原がわからぬやうに思ひます。といはれるところから推して考へると、貴下は神といふ特別のものが、世界の外にあつて、それが世界を造つたものであるが如くに考へる方がよろしいといはるるやうでありますが、此の如き特別の神が存在するといふことは今日の我々の知識では信ぜられぬことであります。我々の今日の知識では、世界の万物は皆、進化発展するのは遺伝と適応とによるものであります。外界に適応するがためにその形相と機能とがかはり、それが遺伝によりて世代を経るうちに、進化発展が行はれて居るのであります。しかしながらそれが神と名づくる特別のもののはたらきによるものであるといふことは合点の出来ぬことであります。自然に関する知識がすくなかつた時代には此の如き説がわかり易かつたでありませうが、今日では――すくなくとも自然科学の知識を持つてゐるものには、此の如き神の創造説は決してわかり易いことではありませぬ。宗教として考へる場合は此の如きことは余計なことでありまして、我々が問題とするところは現在の世界の相であります。仏教ではそれ故に現在の世界の相を説いて諸行無常、有為転変といひ、これを我々の心の内の問題として業(カルマ)といふことを説くのであります。神が世界をつくつたのでもなく、又神が人間をつくつたのでもなく、無始の昔から尽未来際まで、我々が生死の苦界を流転するには全く我々の行為の結果すなはち業(カルマ)によるものであると説くのであります。それ故に業といふものは自己の内面を反省して、道徳的の責任を感ずることの深刻なるときに我々の心の内に起るところの心持であると言ふべきであります。我々の心を離れて、別に業といふものが存在するのではありませぬ。  我々は元来、どうして人間に生れて来たかわかりませぬ。進化の法則によれば、他の生物から、遺伝と適応とによりて人間といふものが始めて現はれてから、幾万年を経たる後に、父母の身体からわかれてこの世に出て来たのであるといふ事実は明かでありますが、それが何のためでありますか。我々には一寸もわかりませぬ。しかしながら世の中のことが皆因果の法則によりて、行はれて居るところから考へてみると、我々がこの世に生れ出るといふことも決して偶然のことではありませぬ。しかるに退いて我々の心の内面を反省するに実に罪悪深重であります、煩悩具足であります。道徳的に考へてみて、我々自己の行為の責任を感ぜずには居られませぬ。ここに業(カルマ)といふ心持が我々の心の内にあらはれるのであります。それ故に我々にして若し道徳的の意識がこの点に於いて十分にあらはれないときには、業(カルマ)といふことは考へられないでありませう。又業といふことを考へたところが、それは神の作用の一つであるか、若しくは天命か運命かのやうなものになるのでありませう。草木土石にも、若し人間とおなじやうに意識の作用があらはれるものとしたならば、おなじく業(カルマ)といふ心持をあらはすでありませう。これを外面よりながめて、草木土石にも業があるか無いかと詮索するのは、業といふものを我々の心の外に独立に存在するところのもの(或はそれを一種の力として)として考へるからであります。私はこの点に就てこれまで繰返し繰返し述べたのでありますが、どうも、これを心の外に置いて考へる人が多いやうでありまして、仏教でいふところの業の意味が徹底せぬやうに思はれます。どうか今一層ふかく考へていただきたいものであります。(大正十三年一月)  六、業報と聞信  問 私等の過去ならびに現在の心口意の三業がカルマ(業)となりて将来に私等の境遇をつくりあらはれて来ること、而して絶対にカルマは消すことも、どうすることも出来ず、因果の道理にて、苦境に陥ることと信じて居ります。然るに蓮如上人の御文五帖目五通に「サレバ無始巳来ツクリトツクル悪業煩悩ヲ、ノコルトコロモナク、願力不思議ヲモツテ消滅スルイワレアルガ故ニ正定聚不退、クラキニ住ストナリ」とありますが、さすれば弥陀の本願を聞信するものは未来の業報を免かれ得ることと解釈が出来て、自然弥陀如来ばかりは我等のカルマを消したまふ力あり、如来の前には我等の業報はあれども無きが如き微力なるものなりといひ得られるものと思はれますが、斯樣な考へは間違つて居るでせうか、御教示を願ひあげます。  答 私等の心口意の三業が業(カルマ)をつくるといふことは仏教の説でありまして、わたくし等は宗教として、これを信ずるの外はありませぬ。さうしてこの業(カルマ)といふものは消すこともどうすることも出来ぬといふことも無論であります。業といふものは、我々自身にこれをつくつたものである以上、いかに大慈悲の力でもこれを如何ともすることが出来ませぬ。我々は自身の行為(罪悪の業)のために常に苦悩の淵にしづまねばならぬのであります。親鸞聖人が「イヅレノ行モオヨビガタキ身ナレバ、トテモ地獄ハ一定住家ゾカシ」といはれるのは正しくこの心持でありませう。あなたが因果の道理にて苦境におち入ることを信じて居りますといはれるのも、おなじ業といふものを自身の行為に基づくものとして、深く道徳的に考へられたためでありませう。これまでたびたび述べました通ほりに、業(カルマ)といふものは、道徳的に深く我々の心をきはめたときにあらはれる心持でありまして、これを一種の「エネルギー」とみても差支はありますまいが、しかしながらこれを客観的のものとして心の外に見るべきものではありませぬ。これを心の内に見て、自己の行為に対しての責任を感ずるときに業(カルマ)といふものは痛切に感じられるところの心持であります。それ故に我々は決してこの業を消すこともどうすることも出来ぬのであります。正しく言へば、我々の心がはたらいて居る限り、業といふものを感知することの止むときは無い筈であります。  此の如くに、業といふものは我々の行為の結果としてあらはれるもので、我々としてはそれを消すことは出来ぬものでありますが、しかしながら阿弥陀仏の本願にはこの業といふものはさはりとはならぬのでありますから、この意味からして業は消えると言つても差支はありませぬが、業が消えるといふときには客観に考へられますから、業を感知することが無くなると言ふ方がよろしいでありませう。されば蓮如上人も「願力不思議ヲモツテ消滅スル」といはれるのでありませう。蓮如上人の「御一代記聞書」の中にはさらに明瞭に「一念ノトコロニテ罪ミナ消エテトアルハ、一念信力ニテ往生サダマルトキハ罪ハサハリトモナラズ、サレバ無キ分ナリ、命ノ娑婆ニアランカギリハ罪ハツキザルナリ」と言つて居られます。その意味は我としてわが心のありさまを道徳的に考へるときは業といふものに帰著して、とてもこれを消すことは出来ぬけれども、如来の本願に摂取せられて、この光明の中に這入るときは業を感知することが無くなるものであるから、業は消えると言つても差支がない訳でありませう。されば貴下が今、此の如くにお考へになつて居るのは、まことに至当のことであり、又かういふ考へは決して間違つては居らぬと私は信じて居ります。しかしながら、業といふものを心の外に見て、その業といふものが我々の心を縛るのを、如来の力でこれを解きはなすものであるかの如くに考へるのは正当とはいはれませぬ。どこまでも業といふものは我々の心の中のものとして見ねばならぬものでありまして、我々が宗教的に自覚して、我々自身の心の中を見つめるとき、それが罪悪深重のものであると見るより外は無いのであります。さうしてその業から免かれることが出来ぬといふことが知られて、ここに始めて痛切に如来の慈悲が仰がれるのであります。自から業を消すことは出来ぬが、如来の力によりてこれを消して貰はふとするのではなく、業が重くしてどうしても沈まねばならぬものであるといふことを明確に知りたるとき、そこに始めて如来の本願が信ぜられるのであります。  さうして如来の本願には業があつても障とならぬのでありますから、業はあつても、それが感知されぬのであります。それ故に蓮如上人も「罪キエテ御タスケアラントモ、罪キエズシテ御タスケアルベシトモ、弥陀ノ御ハカラヒナリ、我トシテハカナフベカラズ、タダ信心肝要ナリ」と説いて居られるのであります。貴下は「弥陀如来ばかりは我等のカルマを消したまふ力あり」といはれるのも、かならず私がいまここにいるやうな意味でありませうと思ひます。若しさうであればそれは間違のない考へであると私は信じます。(大正十三年三月)  七、業の不滅  問 仏教にては我といふ靈魂は無いと説くといふことは承知いたしてをります。さうしてこの靈魂は消えても、後に業といふものが残りてそれが何時までもなくなるものでないといふことも一応は承知いたして居ります。しかしながら私が念願いたすところは、今現にあるところの靈魂をどこまでも保存したいのであります。現在の意識が消えて無くなるのでは未来に意識が再びあらはれるとしましてもそれは違つた意識でありますから、私の未来としては何でもないものであります。業といふものが幾るのでありますればこの業から意識があらはれるといふことは信ぜられますが、しかしながらそれが今の意識と同じものでないといふことも明かでありますから、さういふ意識の再生は私にはそれは望ましいものではありませぬ。私が念願するところは今の意識をその儘に未来につづけたいといふことであります。若しこの念願の滿足を得ることが出来ないとすれば宗教といふものも私に取りては頼りのないものとなつて仕舞ふのであります。  私は元来科学を專門に修めたものでありますから、機械観に傾むき易いものでありますが、仏教の業不滅の謎には滿足し得られない点があります。如何でございませう。  答 輓今の生理学や心理学を学むだ人であれば、意識(心)が身体の機能としてあらはれるものであるといふことを疑ふ余地はありますまい。身体殊に脳髄の機能がやめば、すぐに意識が無くなるといふことは現にこれを目撃することを得るところの事実であります。身体の機能が一部休みたるときでも、意識はそれに相応して減却することは眠つたときを考へてみればよくわかることであります。麻酔薬を用ひて脳髄の機能をやめますと、意識が甚だしく衰へるものであります。是等の事実も日常我々が目撃するところでありまして、科学の知識あるものにこの事実を疑ふものはありますまい。あなたもそれを承知して居るといはれますから、靈魂が身体の死亡すると同時に消えるといふことには御異論はないことと認めます。  しかしながら、それは科学の知識にて知ることを得たるところの事実でありまして、勿論この事実を知ることだけで十分であるとはいはれませぬ。それは我々の心の奥に潜めるところの「生きむとする要求」が強いために、消え行くべき靈魂の永久に消えざらむことを切望するからであります。あなたが望むといはれるところも全くそれでありまして、どうにかして現在の意識をその儘に未来に伝へたいと念願せられるのでありませう。ここに我々の内心の要求として宗教のはたらきがあらはれるのであります。それ故に、この場合は科学の領分ではなくして全く宗教の範囲でありますから、科学としてこれを研究することは出来ませぬ。どうしてもこれを宗教のはたらきとして考へねば解決することが出来ませぬ。  宗教としての仏教ではそれを業不滅の考へによつて解決するのであります。すなはち靈魂と名づけらるるところの現在の意識は消えるが、現在の靈魂によつて造られたる業は決して消滅するものでないから、その業からして再び意識があらはれて、我々は生れては死し、死しては生れ、いはゆる生死の苦界を流転するものであります。靈魂が消えるといふ事実を知つて、しかもその靈魂を永く伝へやうとする内心の要求を滿足せしむるために業の考へが起るのは全く宗教のはたらきでありまして、それによりて我々は不死の念願を達することが出来るのであります。又それによりて現在の生活を真実の道に進むることが出来るのであります。しかるにあなたは現在の意識がその儘に未来につづくのではないから、それでは満足が出来ないといはれる。そこには少しくお考への足らぬところがあります。  あなたは現在の意識といふものを何か確乎としたるもののやうに考へて、それをその儘に未来に伝へたいと言はれますが、それは大いなる間違であります。仏教では諸法無我と説きまして常一主宰の我は無いといふのであります。我々の意識といふものは観念の澤山のものが統一せられたもので、感覚や、感情やなどの集つたものをいうのでありますから、念々生滅するのであります。昔からの譬喩にある通ほりに、川の水が始終流れて止まないにかかはらず、常に同一の流であるやうに思はれると同じく、我々の意識は刻々に消えたりあらはれたりするので、現在の意識といへども決して確乎とした独立のものではありませぬ。今日の意識は昨日の意識の連続したるものではありませぬ。それを連続したるもののやうに考へるのは記憶の力によりて昨日の意識の一部を今日に思ひ出すことが出来るからであります。それ故にこれを同じ意識の連続であると考へるのでありますから、業の不滅のために未来にあらはれるところの意識も、その実は現在の意識の連続であると言ふべきものであります。この場合には記憶が欠けてをりますから、前世のことを知らぬと同じやうに、未来にありて現在のことを想ひ出すことは出来ないのであります。しかしながらそれは直接に出来ないといふまでのことで、深く考へればそれを想ひ出すことが出来ないのではありませぬ。因果の法則によりて現在の事情は過去の原因に本づくものであると考へるとき、前世のことを想ひ出すことは不可能ではありませぬ。あなたが現在その儘の意識といはれるものは其実決して其儘ではなくして、仏教にいふところの諸行無常の相にて、常に変遷しつつあるものであります。其儘に伝ふべきものは何もありませぬ。あなたのお考へでは、理論上にはその儘でないにしても、実際の靈魂をその儘、未来に伝へたいのでありませうが、それならば昨日の意識が今日に伝はつたと同じやうに、明日にも伝はるのに相違ありませぬから、現在の意識が未来に傅はるのそれと同じことであると考へても差支はありませぬ。  今日の意識が昨日の意識と相違したものであるといふ事実を考へずして、それを同一のものとみるのは、雑駁な考へでありますが、実際的にさう考へる場合には、現在の意識がそのまに未来に伝はることは丁度、昨日の意識が、今日の意識に傅はつたとおなじことであると言つても差支はありませぬ。かういふ風に考へることによりてあなたの疑は解けること、考へますが、如何でせう。(大正十四年四月)  八、業報の所感  問 業(カルマ)といふものは我々の行為を指していふので、我々の行為は消えることがないから、それが業となりて来世の果を感ずることとなるといふ御説でありますが、さすればその行為をあまり念頭に留めぬ行為は業も軽き道理になるのでありますか。たとへば殺生罪に就て考へましても、茲に一匹の虫を殺しても非常に心持悪しく感じ、念頭に留めて一生涯それが心を離れざるほどに悪感を生じて心を苦しめるものもあり、又日々魚鳥牛豚を殺せどもそれを不愍とも感ぜず、大根牛蒡を引拔くと同様に考へ居るものもあります。かやうのものは大殺生を行ふても、前者よりも業が軽い道理になりはせぬかと思ひます。  要するに、罪を怖れて念頭に記憶するものほど来世に持越す業(カルマ)が強きことになりませう。又罪を怖れず念頭に留めざるものは来世に感ずる業(カルマ)も軽きことになるものかと考へられますが、如何なのものでありませう。  答 業(カルマ)といふものを物質的に考へて、それが一種の力であるとするところに、その業(カルマ)といふものは我々の心を離れて別に存在するものと信ぜらるるに至るものであります。あなたの業(カルマ)といはるるものも、一種の力(若しくはそれに相当したもの)と考へて居られるのではありませぬか。私が業(カルマ)といふのは我々の行為につきて内視するときにあらはれ来るところの倫理的感情であります。我々の心を離れて別に業(カルマ)と名づけられるものが独立に存在して居るのとは考へぬのであります。自ら殺生をしながらそれをあはれとも思はず又わるい行為とも考へず、平気ですまして居るものは倫理的内観の十分でないのであります。さういふものには業(カルマ)を感ずることはないでありませう。業(カルマ)といふものを別に造り出して心の外に置くのではありませぬから、業(カルマ)が軽いか重いかといふことは内観の問題でありまして、倫理的内観が十分になればその業(カルマ)を感ずることは愈々重大でありませう。私がいふところの業(カルマ)は倫理的感情でありますから、自分が内観を十分にすれば何時でもそれを業(カルマ)として感ずることが出来るのであります。それ故に、業(カルマ)が軽いか重いかといふことは、当人の倫理的内観の如何によることでありまして、業(カルマ)を感知することが少きが故に業が軽いとは決して言はれませぬ。業が軽いと考へることが若し有つたとすれば、それは倫理的内観がまだ十分でない証拠でありまして、從つて真実の宗教があらはれて居ないのであります。日々鳥獣を屠り殺しながら不純で居るやうなものは、倫理的の感情が鈍いのでありまして、その人の業(カルマ)が軽いと言うことは出来ませぬ。  これに反して罪を怖れて常にそれを念頭にかけて忘れないのは、倫理的感情が十分にあらはれたのでありまして、業(カルマ)を感ずることが強いのであります。すなはち、倫理的内観が十分であるために、自分の行為に関して責任を負ふといふ考へが強くあらはれたのであります。かういふやうに倫理的内観の十分なる場合に真実の宗教があらはれるのであります。  業(カルマ)をば一種の力であるかのやうに説く人もありまして、その説に拠りますと、業(カルマ)は行為の結果として生じて我々の心の外にありて我々の心を左右するものであるやうであります。それを一理ある説として、それによりて業(カルマ)を説明することが出来るのでありませう。しかしながら私の考へでは、さういふ風に考へると業(カルマ)といふものが物質的の存在となつて、我々の心から離れるやうになるのであります。さうしてさういふ考への上には、真実の宗教の意味をあらはすところの業(カルマ)の感情はあらはれるのでないと私は信じて居ります。(大正十五年二月)  問 業報といふことを聞きまして、何事も業報と諦めやうと思ひましても、どうしても諦めることが出来ませぬ。私は自身の智慧の足らぬといふこともよく承知して居ります。又我々人間の力にてはどうすることも出来ないといふことを考へるのでありますから、どうしても煩悩が起りまして、何時も苦しみを重ねて居るのであります。業報は自身の行為の結果であると聞きましても、それに対して責任を負はねばならぬといふことには得心がまゐりませぬ。どうか御教示を願ひます。  答 業報といふことにつきましては、これまで度々申し述べたのでありますが、つまるところ、業報といふのは道徳的に自分の心の内面を観て、一切のことは皆自分の心から起るのであると感知するときの心持でありまして、別に業報といふものが存在して居るのではありませぬ。一切のことは皆自分の心から起るのでありますから、苦しいと思ふことも、哀しいと思ふことも皆全く自分の心にそれだけの原因があつて、その結果として苦しいとか哀しいとかいふことが現はれるのであります。それを道徳的に内省して、現在の苦しみは過去になしたる行為の結果であると考へるときにそれを業報といふのであります。それに業報といふことを真に感知したる場合には、「我」といふ心持は離れて居ります。真に自分といふものの無力と無智と罪悪とを知り得たるときに始めて何事も業報と考へることが出来るのであります。すなはち「己を虚しうする」ことが出来るのでありますから、あきらめるといふことは無用であります。さういふ心持になつた人を見て「あきらめのよい人」であるといふこともありますが、真に業報を感じたる人が平和の精神状態をあらはして居るのはあきらめではなくして「己を虚しうした」のであります。  世間で普通に言うところの諦めは「巳むを得ぬこと」と我慢をすることでありまして、「我」の心持を無くするのではなく却つて「我」の心持を強くするのであります。「我」といふものをくづさないやうにと願ふ心が強いに拘らず、その願が滿足せられないからどうも致方が無いと忍耐しやうとするのであります。忍耐するといふことは人間の行為として美しいものでありますから、我々はつとめて忍耐をせねばなりませぬ。忍耐の修行をせねばなりませぬ。しかしながらそれは道徳に属するのでありまして、それによりて安心の境に達することは出来ませぬ。あなたが何事も業報とあきらめやうと思ふがどうもあきらめることが出来ないといはるるのはすなはちそれであります。あなたは自身の無智と無力とは承知して居るがといはれますが、若しあなたが真に自身の無智と無力とを知つて居られるのであれば、あきらめやうといふやうな「我」を強くあらはさむとすることは無い筈であります。あなたは無智であるといひながらどうかして苦しみを免れやうと智慧をはたらかして、その結果致し方が無いからあきらめやうと考へられるのでありませう。それであきらめることの出来ないのは当然であります。もつと深く内省して御覧なさい。現在の我々の心は過去の我々の心の継続せるものでありますから、現在の心の苦しみは過去の心のはたらきがさうせしめるのであると考へねばなりませぬ。此の如く考へるときに、我々は何事も業報に差任せるより外は無い筈であります。すなはち甘んじてその境遇に順応すべきでありまして、いやいやながら屈従しやうとする諦めの心を起すべきではありませぬ。  煩悩が増し苦しみが加はるのは「我」といふ心持が強いためにあらはれるものでありますから、「己を虚しうすること」が出来ぬ以上、業報といふことはただこれを諦めの道具に使用せらるるのみで、決して安心立命のはたらきをあらはすのではありませぬ。  我々の心を離れて業報といふものを考へて居るのでは到底我々の心の平和の状態をあらはすことは出来ませぬ。又さういふ風に業報を考へるといふことも如何のものでありませうか。私は業報といふものを一個特別の力のやうに見ることには反対の考へを持つて居るのでありますが、しかしながら業報といふ考へによりて我々の心のはたらきが強い力をあらはするのであるといふ意味からして、それを一種の力であるといふことには賛成いたします。しかしながらそれは客観的に外部から考へてのことでありまして、我々の心がさういふ力に動かされるといふのであります。それ故にさういふ考へ方では動もすれば業報といふものが我々の心の外にあるところのものと信ぜらるるやうになりまして、真実の業報の意味が徹底しませぬ。あなたが業報と考へられて居るものも、どうもこの客観的の方面ではないかと思はれます。もう少し深く考へて御覧なさることが肝腎であります。  問 信心を得さしていただいた人はどんなことがあつても、平生の生活が立派に出来さうなものであると考へられます。しかるに私は自分の罪の多いことに気がついて、どうしても地獄に落ちるより外は仕方のないもので、ただ自分から自分の業に泣いてゐるばかりであるのを如来が引き受けて下さるのであると、我が機をながめお手元をながめて喜むでをります。又あるときは喜ばぬ浅間敷き心こそお目あてであると喜むで日を送らせていただいてをりますが、どうしても完全なる生活が出来ませぬ。それが苦になつてなりませぬ。出来ないもの、この業の儘をお助け下さると日暮しをすれば我儘邪見に流れるといはれる人があります。それと申して完全なる生活がせられぬ苦しさに私は悩み苦しみてをります。如何いたしたらよいことでございませうか。  答 自分から自分の業に泣くといふことは、道徳的に自己の内面を反省して後に真実の意味があらはれるものであります。自分が完全の生活をすることが出来ぬといふことも自分の業でありませう。それにつきて悩み苦しまねばならぬといふことも自分の業でありませう。その業をばどうすることも出来ぬ我々のことでありますから、すべてを挙げて如来にお任せする外に何事も我々には出来ぬことであります。何事も自分には出来ないことであるということが徹底的にわかれば、我々は自分の業に泣くより外はないのであります。  あなたも、このことはおわかりになつたと自分で言はれる位でありますから、その業をば自分でどうしやうかといふ心は起されない筈であります。自分でどうすることも出来ないといふことを承知しながら、それをどうにかしやうとすることは矛盾であります。さういふ矛盾した心を持つて居るのは我々の常のことでありまして、いはゆる凡夫の浅間敷き心であります。この浅間敷き凡夫を目当に如来の慈悲がはたらくものであるとすれば我々は浅間敷き凡夫であるといふ自覚と同時に、それにつきて如来の慈悲を受くることが出来るといふことを喜ばねばならぬ筈であります。  さういふ心が起るときは生活が完全になる筈であるとあなたが言はれるのは立派な道徳生活がせられる筈であるとお考へになるのでありませうが、しかしながら、よく考へて御覧なさい、立派なる道徳生活がせられるやうな我々の心であれば別に如来の慈悲を仰ぐことは要らぬ筈ではありませぬか。さういふやうに如来の慈悲を仰ぐといふ信心は我が心の浅間敷きことを痛感する場合にあらはれるのでありますから、立派なる道徳生活をなすことが出来ると感ぜられぬのが当然であります。さうしてそれに就て苦しみ悩むというところに如来の慈悲がはたらくのでありますから、苦しみ悩むところに喜びが起るのであります。しかるに当然起るべき喜びが起らぬのは我々の心の常、すなはち煩悩のためでありまして、その煩悩を目当に如来の慈悲がはたらくといふことを知れば、立派なる道徳生活が出来ぬといふことに苦しみ悩むところに、我々の心は安定せられるのであります。  我々の心はどうしても道徳的に立派なものになることはありませぬ。それはどうしても我々の業のためであると考へねばなりませぬ。その業その儘におたすけ下さるといふ意味は自分の業そのものに対して自分が責任を負ふといふことでありまして、言葉を換へて言へばどうしても助からぬといふことを自覚することであります。助かると言つても我々の浅間敷き心がすぐに善い心に替つて行くといふことを指して言ふのではありませぬ。助かるといふことをさういふ風に解釈するときは、動もすれば悪るいことをやめずに、その罪が消えるやうにと望む心が起つて来るのであります。すなはちあなたが言はれるやうに、我儘邪見になるのであります。しかしながらこれはその考へが間違つて居るので、正当ではないと言はねばなりませぬ。正常に考へれば、我々が業そのままに助けられるといふことは自己の罪悪を自覚し、地獄一定のものであるということを信じて疑はぬことをいふのでありまして、それがすなはち、助けられたのであります。  さういふ意味で助けられたものは、自分としてはどこまでも罪悪に苦しみ悩むものでありまして、道徳生活に猛進するのであります。それ故に第三者からみればさういふ人は立派なる道徳生活をして居るのでありますが、しかしながら自分としてはどこまでも立派なる道徳生活がせられぬといふことに苦しみ悩むのであります。苦しみの中に入ることによりて苦しみから離れることが出来ます。助けられるといふことはこの苦しみから離れさして貰つたことであります。(大正十五年三月)  往生  極樂往生  問 私は某事業に失敗し、失意の縁によりて宗教に志し、雑誌法話等によりて修養することここに二箇年に及び申候。然るに二年以前の無宗教当時の愚劣には明かに気がつき、現今に於ては萬有の千纏萬化、無常迅速を感じ、貪欲瞋恚等の生じたる場合に、この無常を思ひ出す時、実に「戯事空事」なりと思ひかへして、その貪欲瞋恚等は経に消滅致し候、反対に無常寂莫の感甚しく起り申候て、却て以前の無常を感ぜざりし時の仕合なしかを疑ふ場合さへ之あり候。最も萬物一如の理「平等にして差別」の理は感得致し候へども、それが未だ究極に達せざるによるものならむか、この貪欲瞋恚の起りたるとき「斯る浅ましき悪人と思し召して御助け下さるる本願のかたじけなさよ云々」との喜び心が更に生じ申さず、如何なる仏が如何なる本願を起し如何に我々を憐み居らるるかを感じ申さず、又此身終たるとき極樂往生疑なしとの意味が了得出来申さず、甚だ遺憾に有之候。何卒御教示下され度願上候。  答 御尋ねの趣はよくわかりました。宗教のことに気がつくやうになりて、無常の世界はすべてのこと「タワゴト、ソラゴト、マコトアルコトナキ」の道理がわかつて、貪欲瞋恚等の情が速かに消滅するやうになつたとの仰せ、まことに結構のことでありますが、あなたはそれを自分の力によりてのことと御考になりますか。一寸考へて見ると、いかにも自分の努力の結果自分がさう考へるやうになつたと思はれますが、しかし深く考へて見るとそれは必ず周囲の関係からしてかく考へねばならぬやうになつたのであります。以前には何とも気のつかなかつたものに気のつくやうになつたのは、畢竟気をつけさせるやうになつたので、それを仏教の言葉では如来の光明に照されるといふのであります。あなたの心に貪欲の情が起つたとき「無常の世界はタワゴト、ソラゴト、マコトアルコトナキ」といふことを御考になるのは、要するにあなたの周囲にある真理があなたに向つて活動するによりて、さう考へねばならぬやうになるのであつて、それはあなたの心が真理の活動を受けたためであります。しかるにそれをば自分の修養の力によりて自分ひとりでさう考へたのであると思ふのは「我は賢なり」といふ心が我々にあるためであります。斯く自分を「賢者なり」と考へて居る間は、我々は自から如来の光明に照らされて居ることに気がつきませぬ。斯くいふと、自分とても、決して「我は賢者なり」と考へては居らぬと仰せられませうが、「我は賢者なり」と思ふことは我々人類の常でありまして、ひとりあなたには限らず、誰人でも「我」を否定せぬ限りは「我は賢者なり」といふ考を去ることは出来ませぬ。さうして、我々の考は皆この我は「賢者なり」から割出されるものでありますから、そこに強く「自分の力」が認められるのであります。それ故に、若しそれが他からおびやかされる場合には不快の感が起るので、無常迅速の事に思ひ及ぼすとき寂莫の感が甚しく現れるのも全くこれがためであります。しかるに、それが苦痛を揩キがために、むしろ無常を感ぜざりし以前が仕合せであつたといふやうに覚ゆるは「我は賢者なり」といふ心が強く現はれて、すべての事をば善し悪しと勝手に判断する「我」が強いためであります。すなはち迷執の「我」が自ら造り出したる観念のために、自らが苦しめられてゐるのであります。それが、如来の光明に照されて見れば、我々が「我は賢者なり」と考へて居るところの「我」は全く迷執のもので、しかもそれが小さくて、弱くて、且つ愚悪のものであるといふことが知られる。しかもこの小さくて、弱くて、且つ愚劣なる「我」が尚ほ存在し得るのは、全くその周囲に存するところの不思議の力のためであることを思へば、ますます我々が「我賢なり」と考へて居ることの愚悪なるを慚ぢねばなりませぬ。我々は平生何事も皆、自分の力で、自から生活して居るやうに考へて居りますが、実際は水や空気や日光や、飲食物や、衣服や住居やなどの力によりて生活を保存せしめられて居るのであります。これ等のものは我々が求めて得たものではなく、我々から見れば、それは全く我々をして生存せしめんがためにこの世にあるものといはねばなりませぬ。まことに不思議の事実でありますが、よく考へて見ると、此の如き不思議の事実は、畢竟するに、宇宙が統一発展しつつあるといふことに基づくものと説明すべきであります。  宇宙が統一発展しつつある間に、我々はその一部分として現れたのでありますから、必ずそれに包容せらるべき筈であります。我々が周囲の力から生存を保持せしめられて居るのは、全くこれがためであります。この事実から考へて見ると、我々にして若し迷執の「我」が小さく、弱く且つ愚悪なることを徹底的に知りたる場合には、我々が大なる力(真理)の中に摂取せられて生活して居るといふことを悟り、此の如き浅間しきものを助けんと思し召す如来のましますといふことを感ぜずには居られませぬ。仏体が如何のものであるかといふやうなことは固より我々にはわからぬことでありますが、我々が深く自らを省みて「我は賢者なり」の考を離れたるとき、如来の本願の力が我々の周囲にはたらきつつあることに始めて気がつき、その慈悲を仰ぐばかりであります。  此身の終りたるときに極樂に往生すといふことは、如来の光明の中に摂取せられて、如来の国に生れるといふ意味でありまして、迷執の「我」をそのままに、安楽極まりなき国へ移転するといふやうな享楽的のことをいふのではありませぬ。それ故に極楽往生といふことは我々のはからひを為すべきでなく、如来の御はからひに任すべきであります。我々は如来の本願の力に乗じて必ず極楽に往生すべきことを期すべきであります。それが喜ばれぬといふは迷執の「我」のためで、如来の本願は此の如き迷執の「我」に対して常に変ることなく、はたらいて居るのであります。(大正十年一月)  問 私共が今日まで、御寺の説教で聴いて居りますことは、阿弥陀如来といふ慈悲に充ちました尊とい御方が居られて、その仏のお助けを信じて疑はざれば極樂といふて、寝て居て、百味の飲食が味はれるといふが如き享樂の浄土へ往生が出来るといふ風に聴いて居りますが、こんな説法は愚痴愚夫の気休めとしか思はれませぬので、宗教といふものには幾分か心掛をもつて居りながら今日まで真面目に聴聞し、又信ずる気になれませぬ。しかるに「法爾」第三十六號の問答欄に於て、御説を伺がひますと、宇宙の真理が如来であつて、極樂往生とはその宇宙に帰ることであるやうに拝聴しました。左すれば、日光とか、空気とか、土とか、水とかといふものが如来の一部であつて、我々が死んだ後に、身体の一部が土になり、水になり、空気となることのそれが、すなはち極樂往生であると解してよろしきや、かく解釈して差支なしとせば、これまで気休め方便とのみ思ひ居りし仏法も、稍々眼鼻がつきかけたやうな気持がいたします。何卒御明教を仰ぎ奉ります。  答 阿弥陀如来とまふす仏が慈悲に充ちました尊とい御方であるといふ言葉には間違はありませぬ。しかるに、これを凡情に照して三十二相八十種好を備へたる、しかも我々人間とおなじやうなる形体をもつて居るもののやうに説くがために、そこに間違が起るのであります。親鸞聖人は「唯信鈔文意」の中に、如来の説明を下して、仏に二種の法身のあることをいひ、その一とつの法性法身は色もなく、形もなく、心もおよばず、言もたえるものであるが、この法性法身から形をあらはして方便法身となりてあらはれたる御形を十方無碍光如来と名づける。これが報身如来とまふすもので、阿弥陀如来とまふすので、それが微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふが故にこれを尽十方無碍光仏とまふすのであると説いて、またその次ぎに「ヒカリノ御カタチニテ色モマシマサズ、カタチモマシマサズ、スナハチ法性法身ニオナジクシテ、無明ノヤミヲハラヒ、悪業ニサヘラレズ、コノユへニ無碍光トマウスナリ、無碍ハ有情ノ悪業煩悩ニサヘラレズトナリ、シカレバ阿弥陀仏ハ光明ナリ、光明ハ智慧ノカタチナリトシルベシ」と説明して居られる。これによりて見ると、阿弥陀如来が法性法身の活動であるといふことは明かなことでありますが、法性といふはすなはち真如のことであります。一如といふ、仏性といふも、無為といふも、実相といふもみな同じことであります。仏教ではこの真如を以て宇宙の本態として居るのでありますから、その仏といふものが宇宙の真理であるといふことは疑のないことでありませう。  仏陀といふことを支那の言葉に訳すると覚者でありますが、覚者とはさとりたるものであります、すなはち宇宙の真理を体得したるものであります。  此の如くに考へると、宇宙の一切のものは皆、真如から現はれたるものである以上、草も木も山も土も皆如来の一部であるに相違ありませぬ。かるが故に仏教にては「草木国土悉くみな成仏す」と説くのであります。「摩訶止観」第一に「一色一香、中道にあらざることなし、己界及び仏界、衆生界も亦然り」と説いてありますが、一色一香とは草木瓦礫山河大地大海虚空等のものをいひ、己界とは我々の心、仏界とは十方の諸仏、衆生とは一切の有情のものをいふ、これ等の萬物はみなこれ中道にあらざるはなしといふものであるが、その中道といふのは実相、法界、法身、法性その他、いろいろの名称もある中に真如といふ称呼が最も普通に用いられてある。すなはち宇宙の一切のものは、真如(すなはち如来)の現象であると見るのが仏教の通説であります。  然れば、我々も真如から現はれたものであるといふことは疑のないことでありませう。それ故に我が心すなはち如の理である、法界に遍満せるところの真如すなはち我が体であると思ふときは、ここに一切の法を知ることが出来る、それによりて我々は仏になることが出来ると説くのであります。これが聖道門の教であります。しかるに、我々は事実に於て、我が心すなはち真如の理であると思ふことが出来ず、真如すなはち我体であると思ふことが出来ず、無明と煩悩とに迷はされて生死の苦界を離るることの出来ぬものであります。しかしながら周囲の一切の事物に動かされて、我が身を顧みるときは、それが宇宙の一部であるといふことに気がつく筈であります、それが宇宙の一部である以上、すなはち仏教でいふところの真如の現象であるといふことに気がつく訳であります。ふかくそれを考へて見ると、我々はどうしても真如から出でて、真如に帰るべきものであります。しかもそれが我々自身の力によるのではなくして全く宇宙の真理の力によるのであります。それを專門の言葉にて本願の力といふのであります。すなはち他力であります。  親鸞聖人は「唯信鈔文意」の中に極樂無為涅槃界といふことを説明して「極樂トマウスハカノ安楽浄土ナリ、ヨロヅノタノシミツネニシテクルシミマジハラザルナリ」「涅槃界トイフハ無明ノマドヒヲヒルガへシテ無上覚ヲサトルナリ」「涅樂トマウスニ、ソノ名無量ナリ、クハシクマウスニアタハズ、オロオロソノ名ヲアラハスベシ、涅槃ヲバ滅度トイフ、無為トフ、安樂トイフ、常樂トイフ、骨相トイフ、法身トイフ、法性トイフ、真如トイフ、一如トイフ、仏性トイフ、仏性スナハチ如来ナリ」と説いて居られますが、これによると、極樂は無為涅槃界のことで、親鸞聖人はこれを「法性の都」と言つて居られます。それ故に極楽浄土に往生するということは、如来の本願の中に入るによつてかならず涅槃にいたることをいふので、親鸞聖人の御言葉によると、「法性ノミヤコトイフハ法身トマウス如来ノサトリヲ自然ヒラクナリ、サトリヒラクトキヲ法性ノミヤコへカヘルトマウスナリ」といふべきであります。覚如上人の「顕名鈔」には明かにこのことを記して「諸仏モ弥陀智慧ヨリ流出シ、衆生モマタ、カノ壽命ヨリイデテ、カヘリテ、ミナ如来ノ壽命ヲ流入スベキナリ」と言つてあります。かるが故に、極樂往生といふことは、愚夫愚婦の気休めのための仮話でなく、我々の生命の行末を哲理的に考へるときは必ず到達すべき結論であります。しかるにそれを単に享樂的のものにして、凡情に照して説くことは甚だよろしくないことであると私は思ひます。親鸞聖人も多くは真実の報土と仰せられて、享樂的の所であるかの如くに間違へ易い言葉は用ひて居られませぬ。  蓮如上人も「極樂ハタノシムト聞キテ參ラント願ヒノゾム人ハ仏ニナラズ」と誡しめて居られます。  右に述べた所で明かなるが如く、極樂浄土に往生するといふことは、全く如来の国に生れるのであります。如来の間に生れるといふのは、その実、如来の国にかへるのであります。法性の都から出て来て迷ひて居つたものが、法性の都へむかへ取られるのであります。真如から出たものが真如へかへるのであります。斯様に申すと、すぐに御質問通ほりに、我々の身体が土になり、水になり、空気に混ずるのがすなはち極樂往生であるかといふ問題が起るのであります。しかしそれはさうではありませぬ。なるほど既に前にも言つた通ほり、諸法実相と申して、宇宙のすべてのものは真如の相(現象)でありますが、しかし我々が現に見て居り、又考へて居るところの、一切のものは皆、我々の迷の心に本づくものでありまして、決して真如の相その儘のものではありませぬ。故に我々は、我々が目に見る所の土や水のその奥底に真如が存すると考へねばなりませぬ。我々が死して後にそれが分解して土となり、水となるといふことも、同じく真如の現象でありますから、その奥底には必ず真如の理が動いて居るのでありますが、それが直ぐに極樂浄土に往生するのであるとは申されませぬ。極樂浄土は真実報土であります。如来の国であります。我々の言説を離れたる所であります。思議すべからざる所であります。我々はそこに到りて始めて生死の苦を離るるを得るのであります。あまり長くなりますからこの位で止めますが、極楽浄土につきては今少しくくはしく説明するの必要がありませうと思ひます。(大正十年三月)  浄土往生  問 浄土往生といふ事に就て、貴著「真宗」一一二頁に「浄土もまた決して物質的のものではない」とあり又一一四頁に「浄土に往生するといふことは結局如来の本願の中に生きることを言ふに外ならず」とありますが、然れば今日までの所謂念仏の信者は物質的の浄土に往生することを信じて「此世の苦は今暫く」と当来の仏果を非常なる慶喜を以て期待して居りますが、それは虚喜びに終るので御座いませうか、又如上の博士の前に拠れば真宗の信仰なるものは人生処世上の精神的方向転換にて宗教の信仰の範囲を脱することになりますまいか、――現実相手の安心になりまして、未来思想がございませんから理想生活になりませんか。御教示を願ひます。  答 浄土往生といふことは、仏の国(浄土)に生れるといふことでありませう。親鸞聖人は「一念慶喜の真実信、よく発すればかならず本願の実報土にむまる」(尊號真像銘文)と述べられて居られますが、真実報土は無為、涅槃、法性の妙境でありますから言葉を換へていへば、「念仏往生の原因によりて必至滅度の願果を得る」(浄土三継往生文類、大経往生)のがすなはち淨土往生でありませう。これは我々の思議すべき所でありませぬから難思議往生とも言はるるのであります。しかれば、それが我々の思議するやうな物質的でないといふことは勿論でありませう。  然るに、「大無量壽経」に、ここを去ること十萬億仏土の西方に安樂浄土があると説いてあるがために動すれば浄土が物質的の国土のやうに解決せられるのでありませう。しかしながら、「大無量壽経」に西方に浄土ありと説くは、我我の心にてつくりたる国土(娑婆世界)の外に、仏の本願によりて造られたる境界(浄土)があるといふ意味に解釈すべきものであることは、同じ「大無量壽経」の中に、浄土の量相につきては恢廓?蕩《かいかくこうとう》にして限局すべからずと説いてあるのを見ても知られます。現在の我々の心の世界の外にある浄土をば、仮に方角を指して西方といふ、それは何れの国の人でも、日が東方より出でて、西方に入るを見て、西方は萬物の成就をあらはすものと考へるのが常であるから、この心理状態からして如来の本願の成就によりて現はれたる浄土を西方にありとするは当然のことでありませう。  親鸞聖人の教に拠れば、真実の証は利他円滿の妙位、無上涅槃の極果であるが、この妙位と極果とは淨土に至りて始めてこれを得るのであるから、真実の証といふことも、安樂浄土といふことも、これを我々の心の内面より見れば、畢竟するに同一のもので、この同一の境地をば衆生としている時に真実の証となり、如来の方よりしていへば浄土と名づくものであります。宗教といふものは我々の心の内面のことを問題とするものでありますから、この点はよくよく考へねばならぬことであります。安樂浄土に至りて真実の証を得るといふことは我々が主観的に言ふことで、「往生といふは凡夫の情量におほせて、これをいふことばなり、実の生死にはあらざるなり」(顕名跡)と知らねばなりませぬ。それ故に往生の文字は我々が現生にありて如来の本願を信受したる場合にも同じく用ひられることに注意して、それによりて浄土往生の真の意義を理解することが肝要であります。親鸞聖人が、真実心をうれば、すなはち無碍光仏の御心のうちにおさめとりたまふとき、すなはち時日をもへだてず、正定聚の位につきさだまるを往生をうとはのたまへるなりと説かれる(一念多念証文)のも全くこの意味でありませう。もとよりこの往生は即得往生で、真実報土に往生するのではないから、ここに真実の意を得るのではないが、往生といふ言葉が如来の本願の中に生れるといふことを示すために用いられて居るといふことは疑のないことであります。  此の如くに考へ来れば、我々が身の命おはりて後に真実報土に生るることは言ふまでもなく、如来の本願である以上、如来の本願の中に生れることが浄土往生であると解釈するのが至当であると私は信じます。所謂念仏の信者が死後物質的の浄土に往生することを期待するといはるるものでも、それが物質的の浄土を観念し、その莊厳を観念して其処に至らむことを欣求するのであれば、それは必らず化土であります。懈慢界であります。蓮如上人が、「極樂はたのしむときいて參らんとねがひのぞむひとは仏にならず」(御一代聞書)と言はるるのは此の如き浄土の欣求は虚喜びであるといふ事を示されたものでありませう。当来の仏果を喜ぶべきことは無論でありますが、その人の自己の心(精神)につきての考へが幼稚で、自己の心が「見えざる物質」すなはち靈魂と名づくる独立のものであると心得て居る場合には、この靈魂が死後に、此国から彼国に往くといふやうなることも考へられるのであります。しかしこれは仏教の思想ではありませぬ。仏教は諸法無我の説を立てて、婆羅門の教に反対し、我々の心は他の諸法と同じく流動しつつある現象にして常一主宰の我(即ち靈魂)は有ることなしと説くのでありますから、物質的に此国から彼国にうつり行くべきものは無い筈であります。しかるに、此の如き独立の霊魂の存在を信じて居るのが仏教を奉じやうとするところから、勢ひ物質的の浄土が考へ出されたのでありませう。それ故に我々が死して後に浄土に往生するといふことも、此の如き独立の霊魂ではなくして、我々の現在の心が現象として生死の苦界を流転することから離れて、仏の国に生れて極楽の境界に住することであらねばならぬ。簡単に言へば、苦痛に充ちたる現象界から、安樂との上もなき真如界にかへることが浄土往生の真の意義でなければならぬ。我々が勝手に考へたる独立の靈魂の行末を予想することが浄土往生ではない。  此の如くに論ずるときは、現実相手の安心になりて未来思想が無いと言はるる貴説は私には瞭解が出来ませぬ。如来の本願の中に生きるといふことは現生には本願を信受して、正定聚の位につき、必ず浄土にいたることを得るの身となることを喜びて、如来の光明の中に生活し、死して後は本願の力に乗せられて、浄土に往生して真実の証を得るのであるから、決して現実相手の安心ではありませぬ。我々の心にて造れる娑婆世界を離れることはこの身の命のある間は望むべきことではありませぬから、当来の仏果を死後に期することは言ふまでもないことであります。察するに貴下の御考では、何か確りした所をつかまへねば宗教の信仰とはいはれぬやうに見えますが、しかしながら、さういふ場合は多くは予想でありまして真実の信仰でありませぬ。自分が心得たる概念若しくは自分が造り出したる観念を信條として、他律的に自分の心を制しやうと試むるのでありますから、それが真実の宗教になることはありませぬ。浄土往生の予想と、浄土往生の信仰との間には著しき区別があります。信仰が、処世上の精神的方向転換ではありませぬが、信仰の結果、その人の精神生活の方向が転換するのは事実でありますから議論の余地はありませぬ。しかしながらそれも未来の浄土往生を信ずるによりて始めて現はれるものでありますから、親鸞聖人も現生の十益をかぞへて居られます。私はどこまでも未来の浄土往生を信ずるのでありましてその事はくはしく拙著「真宗」に説明して置いた積りでありますが、それが、現実相手の安心であるやうに解釈せらるるのは甚だ遺憾であります。まだ申すべきことがありますが、あまりに長くなりますから、あとは他日に讓りませう。(大正十年九月)  悪人成仏に就て  問 善人も悪人も、ともに、死せる後は真如の本体へかへり、自由に、又真の樂が得られるとすれば、道徳的生活と、自分を無量壽にしてやろうとされる如来を信ずるの教との交渉は、一体、どんなものでせうか。  答 悪人も善人も、如来の本願を信知するときは、共に真実の報土に往生して真の安樂に住することが出来るというのが、弥陀教の説でありますが、それなれば、悪を廢し、善を修めることをつとむべき道徳的生活とこの弥陀教とは互に相背く訳ではないかといふ疑問が起るでありませう。御質問の要旨もこの点にあることと思はれます。この疑問を解くには先づ弥陀教の神髄たる如来の本願を明らかにするの必要がありますが、これを委しくここに述べることは出来ませぬからざつとその要点を挙げて見ますと「阿弥陀仏は常に光明を放ちて十方の世界を照して居る、この光明を認めてそれに信順するものを摂取して捨てぬ」のが如来の本願であります。更にこれを平易にいへば、「阿弥陀仏は真理の活動し来りて我々の心の中に人格の形をあらはしたものである。光明といふは智慧である。智慧のはたらきは慈悲である。如来の智慧と慈悲とは我々を包擁してこれをこの中におさめむとして居る。それ故にそれに信順すれば必ず如来の智慧と慈悲との中に生活することが出来る。如来の本願といふは我々をしてこの境遇に居らしめむことをつとむるにある」のであります。此の如き摂取不捨の利益にあづかるのが、すなはち「たすけられる」ので、御質問に「真如の本体にかへりて自由に又真の楽しみが得られる」とあるのは正にこの境地を指すのであります。それ故に此の如き境地に達することは全く如来の本願に依ることで、我我の力に依ることでないといふことは無論の義であります。又此の如くにして如来の智慧と慈悲とを感知することは我々の理性と道徳的欲求に基づくものでありますから「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし、このゆへは罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」(歎異鈔)といはねばなりませぬ。我々は煩悩を具足したるまま、罪悪深重の身を持ちたるまま、如来の本願に乗ずるによりてたすけられるのでありますが、此の如くに素朴に如来の本願に信順するものは自己が煩悩を具足し、罪悪が深重であるといふことを自覚したものでありますから、如来の本願は悪人を正客として摂取するといふことになるのであります。  煩悩具足罪悪深重のものは、諸仏のために棄てられて、自力にては生死の苦界を離るること能はざるを憐みて、これをたすけたまふのが如来の本願であるから、その本願に信順すべきものは必ず我身は悪きいたづらものなりと自覚したものでなければならぬ筈であります。それ故に如来の本来の本願が罪悪深重煩悩熾盛のものをたすけるためとあるは、如来の本願が大慈大悲で、その御たすけが絶対のものである。平易に言へば、如来は我々の愚悪をあはれみたまひて、一切を引き受けたまふのであるといふことを示すものであります。我々は平生、他人の上や周囲の事情に一切の罪を負はしめて、すこしも自己の愚悪を知らぬものでありますが、一たび如来の光明に照されて如来の本願が此の如き罪悪深重のもののために起れるものであるといふことを知るに至りて、我々はこれまですこし自己の愚悪を知らざりしことを慚ぢ、又ますますその罪悪の深きことを痛切に感ぜざるを得ぬのであります。  それ故に、如来の本願は我々の罪悪を除くのではなく、却つて我々をして自己の罪悪を自覚せしむるものであります。我々は、如来の光明に照されて始めて自己の罪悪の深きことを知るによりて、ますます自己の内面を反省するやうになり、親鸞聖人が言はるるやうに現生利益を得て、その言ふところ、為すところが、自然に世の所謂道徳の法則にかなふやうになるのであります。これは徹底して弥陀教の本旨を体得したる妙好人の伝記を調べて見れば明かに認められる事実でありまして、悪人正機を唱ふる弥陀教と道徳的生活との間にはすこしの衝突もないばかりでなく、弥陀教を体得したるものの道徳的生活には常に生命があつて、それが単に形式一遍の道徳でないといふこともまた事実の上に明らかに認められます。  親鸞聖人は阿弥陀仏といふ薬があつても好みて毒を飲むではならぬと関東の同行をいましめたまひ、斯様のものはこの世の厭はしからず、身のわろきことを知らぬものぞと叱りたまひ、念仏の行者はよろづの仏菩薩を軽しめず、よろづの神祗を侮どらず、朝家のため、国民のために念仏まうし、世の中安穩なれ仏法ひろまれと念仏せよと勧めて居られるのであります。又「もと、ぬすみごころあらん人も、極樂をねがひ、念仏をまふぶすほどのことになりなば、もとひがうたる心をおもひなをしてこそあるべきに、そのしるしもなからんひとびとに、悪くるしからずといふことゆめゆめあるべからず」(末燈鈔)と言ひたまひて、煩悩にくるはされて罪悪を重ぬることは凡夫の本性にて致方なけれども、それが往生のさわりにならぬからと言つて、故意と、すまじきことをするはかへすがへすあるまじきことなりと誡めて居られるのであります。  全体、道徳といふものは善悪といふことを標準とするものでありますが、真の善悪といふものは固より我々にわかるべきものではありませぬ。それ故に相対的に考へたる善悪を以て、道徳の標準とするのでありますから、十分に徹底する訳には行きませぬ。又道徳といふものは理想でありますから、これを実践するといふことになると甚だしき困難に思ふものでありまして、むかしから論語読みの論語知らずといふ諺のあるが如くに実行のむづかしいものでありますが、弥陀教を奉じて悪人正機の真精神を体得するものにありては、罪悪深重煩悩熾盛の内面が如来の光明に照されてそれがますます明かに自覚せらるるやうになるので、その言ふところ、為すところが、自然に道徳の規範にかなふやうになるのでありますから、この点より見るも、悪人成仏の教と、道徳的生活とはすこしも衝突せぬばかりでなく、この教によりて我々の道徳的生活は立派になる筈であります。しかるに、悪人成仏の教であるからと言つて、故意に悪事をなして、すまして居るといふやうな人は、全く弥陀教の精神を誤解して居るのであります。しかしながら、我々は自己の愚悪に覚むることのむづかしいものでありますから、この点に注意しないと、動もすれば弥陀の本願にそむきて、道徳の法則を犯すやうになるものでありますから、これは我も人も共にいましむべき事であります。(大正十一年一月)  小児の往生  問 信ずるが故に、如来の救済に遇ひ、不信なるが故にこれに漏るといふことは無いのでありますまいか。善悪邪正の判断は相対的のものであつて、絶対的の無限大悲の前には区別のあらう筈がないと思ひます。それ故に、我々は信じても、信じないでも、知つても、知らないでも、皆未来は極樂往生をとげさして貰ふのではありますまいか。有縁のものは助かり、無縁のものは助からないとすれば、幼児はすべてたすからぬ訳であります。それではあまり御慈悲が差別的で、絶対他力とは言はれぬではありますまいか。私にはどうも合点が参りませぬ。何卒御教示を願ひます。  答 如来のために我々が救濟せられるといふことは我々が如来の光明の中に摂収せられることをいふので、たとへば、貧困のものが富者から金銭を恵まれるといふやうなことを指すのではありませぬ。物質的の享楽を求め、利己的の欲望を達せむがために祈願して我々の欠乏するところが充たされることを以て如来の救済といふのではありませぬ。我々が心にてつくるところの世界から離れて、如来の心の国に生れるといふことがすなはち如来の救濟にあづかつた訳でありますから、如来の救済といふものは我々が如来に信順することによりて始めて感知せられるものであります。如来の慈悲は固より平等のものでありますが、それを慈悲と感知せざる以上、これを慈悲と名づくべきではありませぬ。たとへば日光は普ねく世界を照するのでその恩恵は大なるものでありますが、それを感ぜざる人のためには恩恵でも何でも無いことでありませう。それ故に如来の救濟にあづかるといふことは如来に信順するによりて始めて現はれるものでありまして、若し如来に信順しなければ、その光明の中に摂取せられることは無い筈であります。  信ずるといふことも、その実、我々が如来を信ずるといふのではなくて、如来によりて信ぜしめられるのであります。信心は全く如来の心でありますから、信ずるといふこと、それ自身が救濟のあらはれであります。如来の力はすべての人々の上に平等に觸れるのでありますが、それがその人に感ぜられたときに、始めて慈悲といはれるのであります。それ故に、如来に信順するのみが救濟に遇ふのであります。善悪邪正の判断によりて信ずるのでは決してありませぬ。如来の救濟を心の外に考へて、我々に欠乏して居るところのものを補充するやうに思ふのは大なる誤謬であります。  前にも述べた通ほりに、日光は遍ねく世界を照して居るから、世界のすべてのものが同一にその恩恵を受けて居るといふのは第三者が、心の外に見て(客観的に)言ふのでありまして、恩恵の中に居て、その恩恵を心の中にあらはさないものは、日光を見て何とも思はぬでありませう。すなはち日光のために救はれるといふことを感ずることが無い訳であります。宗教といふものはこの心の中(主観的)のことを考へるものでありまして、決して客観的の問題を取扱ふものではありませぬ。それ故に第三者の往生を彼此と批評することは出来ませぬ。幼児であつても、信ずるといふ心が現はるれば往生は必ずするものであります。而してこの信ずる心は、如来の心で、我々はこれを如来より賜はるのでありますから、幼児といへども苟しくも意識がある以上、之れを受けることが出来ますから、智慧は無くとも、修行することは、不可能であつても、如来に救済せられるといふことは出来る筈であります。しかしながら全く主観的のものでありますから、第三者が彼此とこれを批評することは出来ませぬ。昔時香月院深励師の書かれたる「小児往生の辨」といふ書物の中に「人ありて問ふに、この間生まれたる子が極樂へ往生したか、往生せぬか問ふなり、これは全体無理なり……親の信心を子が知ることならず、子の信心を親が知ることならず、往生は如来の御はからひなれば、凡夫の知るところにあらず……小児の往生もまた斯のごとし、決して往生するの、往生せぬのと定められぬなり、大人でも小児でも同じことなり、何れでも、一念の信心を得たれば往生は出来ぬると存ずるなり」と説いてありますが、いかにもその通りで、救済されるといふことはその人の心の中(主観的)のことで、如来に信順することによりて出来ることであります。而かもその如来に信順するといふことは主観的のもので、外からこれを彼此といふことは出来ませぬ。(大正十一年七月)  即得往生  問 法爾第四十四號問答欄「浄土往生」につきての御説明に「一念多念証文」を引いて、真実信心をうればすなはち無碍光仏の御心のうちにおさめとりたまふとき、すなはち時日をへだてず、正定聚の位につきさだまるを、往生を得とはのたまへるなりと述べられた。後に、もとよりこの往生は即得往生で、真実報土に往生するのではないと述べてあります。その次に我々の身の命をはりて後に真実報土に生るることは言ふまでもなく、如来の本願である以上、如来の本願の中に生れることが浄土往生と解釈するのが至当であると信じます、とあります。  これによりて見ますと、即得往生(正定聚に入る)如来の本願の中に入ることでありますから、矢張淨土往生といふことが出来るやうに思はれます。さうして即得往生と、全く異つた意味のものでもないやうに思はれます。つまり、即得往生と浄土往生とは一事の始終をいふたことのやうに考へられますが、如何でありませう。如来の本願の中に生れることが浄土往生でありとすれば、浄土は法性の都(滅度)でありますから、智的及び道徳的の完全を得ねばなりませぬが、私共はどうも左樣には思はれませぬ。ここのところが、どうもはつきりせぬので、煩つて居ります。なにとぞ今一応御説明をねがひます。  答 常識的に言へば、往生といふことは、往きて生れるといふことで、娑婆世界から浄土に往きて生れるという意味であります。娑婆世界は我々の心にて造られたる国でありますが、浄土といふのは仏の心の世界であります。それ故に、我々が娑婆世界を離れて浄土に往生するといふことは、これを要するに、我々の心が如来の心の中におさめられることを指すのであります。これを我々の心よりして言へば、真実の証をひらくときが、すなはち浄土往生であります。  如来の心の中におさめ取られるときはすなはち往生を得るので、親鸞聖人は「愚禿鈔」の中に「本願を信受するときは前念命終、すなはち正定聚の数に入る、即得往生は後念即生、即時必定に入る」と説いて居られます。本願を信受して如来の心の中に、生れるときに心の命はここに終りを告げて、新に必定(正定)の境に生れるのであります。正定聚の数に入るといふことも如来の心の中におさめられたのでありますから、如来の方から言へば淨土でありませう。浄土はいふまでもなく、仏の心の世界でありますから、現在のこの世に存在することもありませうが、我々の心が仏の心の世界に生れること(すなはち、我々の心を本としていへば、真実の証をひらくこと)は妄念の基礎を成すところの肉体が無くなつたときでなければなりませぬ。それは何故かといふに、我々が肉体を有する限り、その作用によりて、種々の煩悩を起して、それが全く仏の心の中におさめ取られるということは出来ませぬから、これを浄土往生といはずして即得往生といふのであります。早く言へば、我々の心が、一部分の往生を得るのであります。これを我々の心の方面よりいへば、真実の証をひらくことを得るといふ保証を得たのであります。それ故に、これを主観的に言へば「超世の悲願ききしより、われらは生死の凡夫かは、有漏の穢身はかはらねど、こころは浄土にあそぶなり(親鸞聖人、和讃)であります。  肉体の存在する限り、我々は煩悩の心をはたらかして、たとひそれが仏の心の中におさめ取られたにしても、その全体が摂取せられるのではないから、真実の証をひらくこと(浄土往生)は出来ませぬ。ただ未来によりて必ず浄土往生を得るといふ保証(即得往生)を得るのであります。それ故に、如来の方からいへば、即得往生も、浄土往生も、おなじなのであるに相異ありませぬが、我々の心の方から見れば、現世には即得往生、未来(肉体の無くなりたる後)には浄土往生と、二段に別れるのであります。  我々の心の全体が、如来の心の中に生れる(すなはち煩悩を断ち得たるとき)ときは、現世にてもこれを浄土往生といふことが出来ませうが、肉体の存在する限り、煩悩を断つといふことは到底不可能のことで、たとひ、如来の心の中におさめ取られたとても、それは我々の心の全体ではありませぬから、これを即得往生と名づけて、浄土往生と区別せねばなりませぬ。どこまでも浄土は仏の心の国でありますから、この仏の心の国(法性の都)へ往きて生れるのは、有漏の穢身の無くなつた後でなければなりませぬ。この肉体の存在する間は、それに基づきて起るところの我々の心は仏の心と同一となることは出来ませぬ。ただ仏の心に導かれて、その光明に照らされ、未来は必ず仏の国へ往きて生れるといふ保証を得るのであります。  又、親鸞聖人の「唯信鈔文意」に「願海ニ入リヌルニヨリテ必ズ大涅槃ニイタルヲ法性ノミヤコヘカヘルトマウスナリ、法性ノミヤコトマウスハ、法身トイフ如来ノサトリヲ自然ニヒラクナリ、サトリヒラクトキヲ法性ノミヤコヘカヘルトマウスナリ」とあるを見れば本願の中におさめられて、のちに法身(真如実相)のさとりをひらくときが浄土往生であるといふことが、明かに示されて居ります。言ふまでもなく、宗教といふのは我々の心の内の問題でありますから、たとひ如来の心が我々の心をとりまいて居るとしても、それが心の内に透徹せざる限りは、いつまでも凡夫の心を離るることは出来ませぬ。さうして、我々がこの肉体を有する間は到底、我々の心を如来の心にすることは出来ませぬ。ただ我々の心が如来の心におさめとられたといふことを感ずるとき、未来は必ず真実の証をひらくことを得る(正定聚)といふことを信じて、心を安んずるのであります。それ故に、これを即得往生と名づくることは最も適切でありませう。(大正十一年八月)  極樂往生に就て  阿弥陀仏といふは色もなく形もましまさず、しかれば心も及ばず言葉もたへたりとあつて、何等個性体を有せぬものでありませう。我々が往生を得たる後も亦同じく然りとせば法蔵菩薩の四十八願中に無有好醜願、宿命智通願、天眼智通願、天耳智通願、他心智通願、衣服隱念願等の事項は、これを得むとするも得ること能はざることと思はれますが、如何のものでありませう。又考へて見ますと、極樂往生を得たる曉にありて、四十八願の條件が悉く体得せられたるに於ては、過去未来萬事判明せぬといふことは無い筈でありますから、前に掲げたる願は贅條に属するやうに思はれます。  若し、無色無形のものでなくして極樂に生るるものとせば、一とつの仏体をあらはすものと思はれますが、果して然らばそれは母体を経て生ずるのでありますか。母体を経るとすればそれは何れの母体でありますか。  答 阿弥陀仏といふときには、真如の理仏より、形をあらはして我々の心の中にあらはれたる仏でありますから、それは確かに人格的のものであります。このことに就てはすでに述べた通りであります。しかしながら、人格的のものであるとはいひまして、それは色もなく、形もないものであります。たとへていへば、多くの人々はよく「低気圧が今某処に居る、それが漸次此方にやつて来る」といふやうなことをいひますが、このときには明かに低気圧をば人格的のものとして居るのであります。もとより色もなく形もないものでありまして、低気圧と名づくる個性的の身体を有するものを認むるのではありませぬ。又たとへていへば、今我々が、昔時、楠木正成といふ忠臣が居つたといふことを考へることで、正成といふ個性の身体をその儘に認むるのではなく、正成につきて歴史的に知つたことをまとめて、人格的にこれを認めるのであります。もとより我々は正成といふ個人を見たこともなく、話をしたこともなく、正成といふ個人につきては何事をも知らぬのでありますが、しかしながら正成が南朝の忠臣であつたといふ事実を歴史の上で知つて居るから、それを人格的に考へて、我々の心の中に正成を描いて居るのであります。そういふ訳でありますから、正成といふ個人が果して世に存在して居つたか否かといふことは詮索することを要せぬのであります。かういふ意味にて、阿弥陀仏は確に人格的のものとして我々の心にあらはれるものであります。從つて阿弥陀仏が個性的の身体を有するものでないといふことは無論であります。  この前にもくはしく述べました通り、阿弥陀仏は方便法身の仏、すなはち報身でありますから、法身と異つて、我々はそれに就て考へることが出来、いふことも出来るものであります。しかしながら固より色もなく、形もないもので、この点は法身とおなじであります。親鸞聖人の「唯信鈔文意」の中にも、このことは詳らかに説いてあります。すなはち阿弥陀仏といふのは真如の理仏(法性法身)が光明無量、壽命無量の本願を本としてあらはれたるすがたであるから方便法身といふのであるといふことを説明したる後、この方便法身の阿弥陀仏も「色モマシマサズ、形モマシマサズ、スナハチ法性法身ニオナジクシテ」と説いてあります。  我々が往生を得たる後もまたもとより(この人間界に再び生れざる限りは)おなじく色もなく形もなきすがたとあるのであります。往生を得るといふことは我々の心にて造られたる差別の世界から、仏の心にて造られたる平等の世界に生れることでありますから、個性といふやうな差別の相はない筈であります。さうすれば極楽へ生れるものは一目にみな器量よしに生れさそふといふやうな願は無用ではないかの貴下の御質問はすこし見当が違つて居ります。法蔵菩薩の四十八願といふものは(もとより四十八に限つたことではなく、澤山にあるのであります)人間の欲求を挙げたものでありまして、この世にありて人間が欲求して居るものの中には貴下が無用ではないかといはるるものがあるので、この欲求のために仏となる道がある(すなはち宗教を必要とする心が起るのである)。若しこの願が成就して仏になつたときには、それは何でもないことであります。要するにこれは到達せんとする理想でありますから、理想に到達したときにはそれは何でもないものであります。  仏体といひましても、固より色もなく、形もないものでありますから、個性的の母体を経て生れるものでないことは言ふまでもありませぬ。殊に親鸞聖人の教のやうに名號(南無阿弥陀仏)を本尊とするところの教では、個性的の身体をそなへたる仏を認むることは出来ぬ筈であります。(大正十三年四月)  念仏往生と道徳  問 善き人も悪しき人も共に死ぬるときは同じやうに浄土に往生して自由に又真実の樂しみを得るものとすれば、この世にありて道徳につとめるといふことはいらぬやうに考へられます。いかなる悪人でも如来の慈悲にすがりて極楽に往くことが出来るとすればむしろ悪いことをした方が得であるといふ考へが起るでありませう。現に浄土真宗の信者といはれる人々の内にはさういふ風に考へて居るものがありまして道徳といふものを無視して居るやうな行ひをするものが澤山にありますが、これは如何のものでありませうか。  答 御説の通りに、浄土真宗の信者といはれる人々の中に、道徳を無視するばかりでなく、かへつて道徳を修むることは自力であると主張してこれを非難するのがあります。これは全く如来の本願は悪人正機であるといふことを誤解して居るがためでありまして、それを誤解するやうにしたのは從来の談義僧の罪に帰すべきものでありませう。善き人悪き人も、如来の本願に乗ずれば共に浄土に往生するといふ意味は、これを外の方面から言へば、我々が善し悪しといふ考へから離れるときは真実の道に進むことが出来るといふことに外ならぬことであります。「蓮如上人御一代開書」の中に「往生は一人のしのぎなり、一人一人仏法を信じて後生をたすかることなり、よそごとのやうにおもふことは且は我身をしらぬことなり」とある通りに、宗教といふものは全く主観的のもので、私一人の心の内の問題でありますから、自分を離れて善い人が往生するとか悪い人が往生するとかと、よそごとのやうに考へて居る場合にはそれはただ往生の道理を知つて居るばかりで、自分が往生するのではありませぬ。自分が往生するといふことになれば、自分が善いものか、悪いものか、どちらかでなくてはならぬ筈でありますが、それには善いとか、悪いとかといふ差別の考へを離れるやうにするのが第一であります。段々と修行して善悪不二と観ずる心まで自分の心を研ぎ上げるのが往生の道であります。それ故に「自分は善い人である」と考へるものは悪を廢して善を行ふことに努力して仏となることを期するのであります。しかしながら、大多数の場合にありて、このやうな努力が不徹底のものであるといふことは無論であります。これに反して「自分は悪人である」と考へるのは悪を廃して善を行ふことが出来ぬといふことを痛切に感じて、ひとへに如来の本願にすがるのであります。自分のいささかの智慧をはたらかして、いろいろのはからひをすることを止めて宇宙の大法に順応するところに真実の道が得られるのであります。それ故に「我はわろきいたづらものである」と感知したるときに如来の本願が始めて知られるのであります。如来の本願は悪人を正機とするといふのは全くこの意味でありますから「我はわろきいたづらものである」と道徳の心からして深く自身を反省したるときに我々は始めて如来の慈悲によりて往生することが出来るのであります。悪人正機とは悪いのを正機に如来がたすけて下さるといふ意味であることは勿論でありますが、自分の心の中でこれを味はふときは道徳の心に深く責められて、自分の罪悪(道徳の上の)がしみじみと感知せられたるものを悪人正機というのであります。外の言葉にていへば穢土を厭ひ離れるといふこともまた同じことであります。この世を厭ふといふことは道徳の心でいふべきことでありまして、道徳を拔にして、自分の勝手にならぬからこの世を厭ふといふやうな心では決して往生することは出来ませぬ。さういふ心持は実際にこの世を厭ふのではなくして、却つてこの世に執著する心持であります。それでは浄土を願ふ心の起ることはありませぬ。若し淨土を願ふとしてもそれはこの世を延長してこの世にて思ふままにならぬことを思ふままにしやうといふ貪欲の心に過ぎぬのであります。  しかるに、從来の談義僧の中には、「ただ悪いものがその儘に如来の慈悲にてたすかる」「如来の本願は悪人を正機であるから、その身その儘で往生が出来る」といふやうな説教をして、そのたすかる理由をばすこしも説明せぬから、「聴聞を心に入れむとおもふもの」はあれど「信をとらむずる人は無い」世の中であるから、聴くのは得手勝手にそれを自分の都合のよいやうに合点して遂に道徳を無視してはばからぬやうになるのであります。それ故に浄土真宗をして社會的価値を保たしめるためには、かくの如き説教をやめて、真正の意味を戴くことが肝要でありませう。  論より証拠、むかしから妙好人と賞められたる浄土真宗の信者のすべては、みな深く道徳の心を興して一生懸命に世俗の事をつとめて居るのであります。いふまでもなく、我々が善し悪しといふ考へ(すなはち道徳の心)を離れたるところに真実の宗教はなり立つものでありますから、宗教が道徳を離れたるものであるといふことは論の無いことでありますが、真実の宗教が何のために起るかといへば、それは道徳上の罪悪を感じてそれから免かれやうとするために宗教があらはれるのであるから、悪人正機といふことも、穢土を厭ひ離れるといふことも、みな道徳の自覚が深いためにあらはれる心持であるといふことを知らねばなりませぬ。  それ故に親鸞聖人も念仏をまふすものが、道徳に背くことを戒めたまひて「阿弥陀仏の薬があるからと言つて、好みて毒(貪、瞋、痴の三毒)を飲みてはならぬ」と説いて居られます。かくの如くに内省することは決して自力のはからひではありませぬ。自力といふのはいろいろにはからうて、仏にまゐらせ心を向けることであります。悪人と感じて道徳的に自覚するときに我々は如来の本願を知ることが出来るのでありますから、ことに力の限り道徳につとむることは如来の本願に対する感謝の心であります。私の親は私等兄弟を同じやうにかあいがつてくれるのでありますが、その中で私が放蕩をして不孝の罪をかさねたときには、一層強く私に向つて慈愛の心をおこすでありませう。その親の心を知つたとき私は出来るだけ自分の行為をあらためて親の慈愛に酬いねばなりません。如来の本願の教と、道徳的生活とは、すこしも矛盾するものではありませぬ。(大正十三年九月)  疑ながらの往生  問 法爾第百六號の余白に「恵空師語録」の中の一章が抄出しておりましたが、その中に「疑ながらも往生をするなり」とある一句の意味がわかりませぬ。どうか御説明を願ひたい。私如き無学文盲のものにわかり易く御示しを願ひます。  答 「法爾」第百六號に抄出せられたるものは「恵空語録」の中に出でて居る文句でありますが、恵空といふは大谷派本願寺第一代の講師で、学問に秀で徳望の高い方でありました。この恵空師が「疑ひながら往生をするなり」といふ高祖上人(法然上人を指している)の言葉を引て「疑は愚にして迷へるのである。凡夫は愚にして迷へるものであるから、疑ひのないやうになるには解脱せねばならぬ、しかしながら浄土に生れるといふことは、解脱してから後に始めて生れるのではない。疑のあるものが往生を遂ぐる本願であるから、まことにありがたいことである」と説いて居られるのであります。  その意味をくはしく説明するときは、大略次の通ほりであります。  疑ふといふことも、又それに反して信ずるといふことも、皆我々の心であります。この我々の心はいかやうに考へたにしてもとりとめのないものであります。それ故にこの我々の心では浄土に生れることは出来ませぬ。浄土に生れるといふことは、全く我々の生活の苦しみから離れるといふ意味であります。固より、言葉通ほりにその儘に説明すれば、仏の国に生れる(正しく言へば仏の淨き心にて造られたる淨国に生れること)ことでありますが、これは単に言葉通ほりの説明でありまして、その実際の意味は我々の穢れたる心の世界を離れて、仏の淨き心の世界に生れることをいふのであります。すなはち我々の心が、日々の生活によりてあらはすところの苦しみのないやうになることを言ふに外ならぬのであります。  さうして、さういふ世界に生れるのは我々の心では出来ることではない。どうしても法(不可思議)の徳によらねばなりませぬ。それが不可思議の法の徳(如来の願力)によるのであるから、智慧のあるものも、智慧のないものも、考の浅いものも、考の深いものも、心の善いものも心の悪るいものも、皆ともに浄き心の世界に生れることが出来るのであります。決して我々の心によるものではありませぬ。しかるに「疑ふといふこと」「疑はぬといふこと」も皆我々の心でありまして、この心によりて生れるのではなくして、この心を離れたる不可思議の法によりて生れるのでありますから、「疑ひながらに往生することが出来る」のであります。(昭和二年三月) 77@ 小児の往生に就て  問 私は近頃愛児を失ひました。まことに頑是ない小児でありまして、今頃は何処にどうして居ることやらと案じて見ますると実に心配でたまりませぬ。かやうな頑是ない小児で仏教を聴いたこともありませぬから、浄土に生れることも出来ないかと考へますが如何なものでございませうか、お示しを願ひます。  答 小児が浄土へ往生するといふことに就きては古来真宗学派の内に種々の説があります。一説には、真宗の宗門に生れたは宿縁深厚の人であるから仏智不思議で往生するといふ。一説には、小児は法を聴かぬ故に信を得ることがないから決して往生せぬといふ。又一説には、小児には何の辨へもなけれども、親がその子を仏前へ抱へ出でて小児の後生をおんたすけ下さいと頼むときは小児でも助け玉ふといふ。これはこれまで普通に行はれた説でありますが、これは全く宗教といふ精神の現象を十分に理解せぬために起るところの疑問であります。  宗教といふものは我々の精神のはたらきでありまして、それは仏教にていへば、仏といはれる或物に対してあらはれるところの自我の態度でありますから、まだ頑是ない小児の心に宗教といはれるやうな精神のはたらきがあらはれることはありませぬ。固より特別の場合は別でありますが、普通の場合、頑是ない小児は宗教の世界に這入ることはないのであります。宗教の世界に這入ることがないばかりでなく、その前の段階たる、道徳の世界にも這入ることはないのであります。  たとひ、例外として、小児が宗教の心のはたらきをあらはすことがあつたとしましても、宗教といふものは全く主観的のものでありまして、外方から彼此といふべきものではありませぬ。往生は不思議なる如来の御はからひで、凡夫の知るところにあらずといはれるのは当然でありまして、彼の人は往生した、此の人は往生せぬなどと、外方から判断せらるべきものではありませぬ。  香月院師が述べられたる「小児往生辨」の内に次のやうなことが書いてあります「人ありて問ふに、此間生れた子が往生せうや、せまひやと問ふなり、これは全体無理なり、無用な問をなすものには、こちらから返難するがよい。それは問者に問ふには、汝大人の死んだは必ず往生すると思ふか往生せぬと思ふかと問へ、若し問ふもの聴聞して居るものなれば、大人じやによつて往生するとは申すまい。親の信心を子が知ることあらず、子の信心を親が知ることあらず、往生は如来の御はからひなれば凡夫の知るところならずと答へるであらう。それなら小児の往生亦かくの如し、決して往生するの、往生せぬのと定められぬなり」とありますが、香月院師も宗教のはたらきが全く主観的のものであるといふことを説いて居られるのであります。ただ香月院師は此の如き主観的のはたらきが小児にもあらはれるやうに考へて居られたやうでありますが、それは実際ではない。  香月院師は又「無宿善のものは往生を遂げぬ、宿善のあるものなれば往生を遂ぐるなり、大人が死んだならば、今頃は楽しみ暮すであらうと思ふたがよい、ここへ至らば大人でも小児でも同じことなり、何れでも一念の信心を得たれば往生は出来ると存ずるなり」と述べて居られますが、これによると宿善のあるのは小児といへども往生するといはれるのでありますが、かういふ風に就かれると、浄土に往生するといふことは何処か立派なる場所に往くやうに思はれて、多くの人々は間違つた考方をするやうになるのであります。しかしながら、若し往生といふことを何処か立派なる所に往くのであると考へる人であれば、香月院師のこの説は受け入れられることでありませう。(昭和四年五月)  問 阿弥陀如来は全智全能にましまして極重の悪人さへ救済したまふ大慈悲の御方にて、現に「御文章」を押しても、三世の諸仏に捨てられたるあさましき我等凡夫女人を救はむといふ大願を起されて、五劫の思惟と永劫の修行をあそばされ、十悪五逆謗法聞提の輩までも救済の対象となり居れども、一つも小児に及び居るを見ず候、私事先日四歳になる愛孫を急病にてなくし、一家を挙げて悲欺やる方なく、真宗の教義には背くとか承り候へども、何か彼がために回向し、彼が追善供養をもなし、弥陀大悲の御手にお救ひにあづからせ度存じ居の申候。幼児は仏の救済の外に置かるるものなりや否や、御教示をあふぎ度奉存候。  答 御幼児がお亡くなりになつて一家挙つて悲歎の淵に沈み居られる趣、御同情申し上げます。就て阿弥陀仏の慈悲は幼児には及ばぬものか。幼児は仏の救済の外に置かるるものであるかとの御質問は実際宗教上の問題に関しての思考でありまして、しかもあなたの御考は宗教といはるるものからは遠く離れておるやうであります。それで御質問に対して先づ宗教といふものがどういふものであるかといふことを概略申し上げることが必要であります。  「蓮如上人御一代聞書」に「往生ハ一人ノシノギナリ、一人一人仏法ヲ信ジテ後生ヲタスカル事ナリ、ヨソ事ノヤウ思フ事ハ且ハ我身ヲ知ラヌコトナリ」とあります通ほり、宗教の上にて往生することは一人のしのぎであります。一人一人がたすかるので、余所事のやうに思ふてはならぬのであります。仏にたすけられるといふことは一人一人のものが仏の本願を信じてこれを疑ふことなく、心をここに安んじて自由安樂に生きて行くことをいふのでありますから、宗教の上にて仏にたすけられるといふことは、実際人々が仏に助けられると自分に感ずるときに、さう言はれるのでありまして、助けられて居りながら助けられたと自分で感ぜぬものには宗教の心のはたらきが無いのであります。それ故に、仏が人々を助けられるといふことは仏の方の問題で人間の方からは如何といふことの出来ぬことであります。しかるに、かやうに人々の心の内の問題であるべき宗教をば心の外に考へて、たとへば人が誤まつてどぶや川などに落ちたのを見て慈悲の心にてこれを引き上げるのが助けるのであるとするときは、小児が往生するかといふことはすぐに問題となるのである。それで昔から小児往生のことは真宗では議論の種となつたので、香月院師は「小児往生辨」といふ書物を造つて、人々の往生のことはどこまでも阿弥陀仏のしろしめす所で私共の更に知るところではないと説いて居られる。宗教といふものは何処までも自分一人のためのもので「弥陀の五劫思惟の願もひとへに親鸞一人がためなりけり」と感ずべきもので、自分を除いた他のものにつきて言ふべきことではありませぬ。  あなたが愛孫の夭死をかなしみて、追善供養などをせられるといふことは情に於てまことに然るべきことでありましても、それは決して宗教の心であるとすべきものではありませぬ。(昭和十四年十月)  往生に就て  問 五月號の「法爾」の質疑問答欄に幼児の死に就て富士川先生の説が見えましたが、この問題は中々諸所にあるものと見えまして、昨夕一寸ある寺へ行きましたら、その話が出て、色々話し合つたことですが、その寺の住職が檀家へ行くと、よくこの問題にぶつかるので閉口致すとのこと。なるほど富士川先生のお説の通ほり、死んだ子供の行つた先は誰にわかりますまい。又真宗を信じないものが極樂に生るる訳はないでせう。又信じて居たからとて我々の樂しいとする極樂に生るることはないでせう。要するに死んだ我子の行先の案ぜられるのも我あるが故でありまして、その故がわからないのでありませう。実際我の外に我子もなければ、我子の行先もないのであります。しかし高田派の御書の中に、家内眷族勤行し経を誦すれば亡者地獄を出でて極楽に生るるとあります。これは一応いはれもないかのやうでありますが、それには深き御計ひがあるのでありましてよくよく大悲の故であることがわかります。釈尊の御説法の中にもそんなことが見えます。あるとき死せる愛児を抱へて泣き入る一人の母親がこの子を何とかして生かす方法がないかと死骸に取りついて泣いて居つた。この訴を聞いた釈尊は懇にその母親をさとしてのたまはく、汝人家に往いて未だ嘗て死人を出さぬ家のゴマを貰つて来てこれを焚いて供養すればこの子の命は蘇生すると教へ玉ふた。彼女は泣き泣き戸別訪問してそのゴマを貰ひ歩いたが一戸として死人を出さない家はなかつた。さうして居る中に、彼女の心の中に光が見えた。それは生あるものは必ず死す、やがて我身も死するのだ、いかにともすべきやうはない。死すべき時に死するのだといふことがはつきり會得が出来た。その時涙と共に釈尊に体して弟子となつたといふ伝説か何か知らぬが見えて居ります。釈尊が教へていまだ曾て死人を出さぬ家を訪問させたのは方便である、慈悲である、よく真理を悟らしめるに慈悲を以てせられた。極樂はたのしみ極りない処として我等の意識する極樂は否定せられて居る。それは一応尤である。大悲を本としての方便は真実である。如何に学問があつても、知識があつても我等の観念できめることそのことが間違ひますから、祖聖の方々の御言葉は御言葉としてその根本が慈悲であるといふ風に頂いた方がよいと信じますが如何でせうか。  答 高田派の御書に家内眷族勤行し経を誦すれば亡者地獄を出でて極樂に生ずると書いてあるといふお話でありますが、まことに驚き入つたことであります。亡者というのは何でありませうか。死んだ人のたましひを指しているのでありませうか。たましひが身体の死亡した後に地獄に堕ちたものが、その家族のものの読経によつて極楽に生れるといふのでせうか。さういふやうなことは釈尊の教には全く無いことであります。釈尊の説はどこまでも諸行無常、從つて諸法無我でありまして、進むべきところは涅槃寂靜であります。高田派の誰人の書かれたものですか別に承る必要もありませぬが、さういふことを説く人は恐らくは仏教の思想を正当に理解せず、外道の説が仏教に混入したのをその儘に信奉する人でありませう。  あなたはそれを深き御計であると言はれますが、それはどういふ計ひでありませうか。キーサ・ゴータミ女の話を例にお述べになつて居るところを見ますと、極樂に生れると説かれることは方便であるとお考になつて居るやうでありますが、方便といふのは我々のやうなものをして真実の極樂をさとらしめるために仮の極樂を説かれたのであるといふ意味でありますか。私は地獄、極樂といふものはさういふ方便のものでなく、我々の精神の事実として見るべきものであると信ずるのであります。空想でなく、推定でなく、実際に我々の精神の上の事実として極樂を見るときに、それはまさに涅槃寂靜(真実報土)であります。しかしながらそれはどこまでも主観のものでありますから、子供が往生したかどうかといふやうなことを考へるべきではありませぬ。 あなたのお説では、子供の死を哀しむで止まない親のために極樂へ往生したと考へしめてそのかなしみを除くのが慈悲であるかのやうに聞えますが、さういふ風に人の思想を間違つた方に導くのが果して慈悲でありませうか。さういふことは小智のはからひに過ぎないものであると私は考へます。  如何に学問があつても、知識があつても我々の概念できめることは間違ひますから、祖聖の方方の御言葉は御言葉としてその根本が慈悲であるといふ風に頂く云々といはれまする、その意味が私にはハツキリしませぬが、祖聖といはれるのは誰人でありますか。学問と知識とが役に立たぬといふのでありますから、それは一切の人の考(言葉)が役に立たぬといふことであります。人間の一切の知識や学問が役に立たぬとすれば祖聖も何もあつたものではありませぬ。祖聖だけの知識と学問(それが言葉で伝へられる)は役に立つが、我々の知識や学問は役に立たぬといふことは矛盾の悲しいものであります。宗教として考ふるときは、人間の智慧は一切駄目で、仏の不思議の智慧を頂くより外はないといふのでありませう。さういふことを祖聖より教へられるのでありまして、人間としての祖聖も我々と同じく知識を捨てて仏の不思議を頂いたのでありませう。さうでなければ、祖聖の言葉を頂くといふことそのことが自分の計ひに過ぎませぬ。私はこの点につきては多くの人々がその因襲的の考を一新せねばならぬことであると信じます。(昭和四年五月)  問 前號の紙上小児の往生の応答の終末に「浄土に往生するといふことは何か立派なる場所に往くやうに思はれて多くの人々は間違つた考へ方をするやうになるのであります。しかしながら若し往生といふことを何処か立派なる所に往くのであると考へる人であれば香月院師のこの説は受け入れられることでありませう」とあり、私はこれを試みて甚だ不審に堪へませぬ。從来の我宗の教、即ち親鸞聖人の教は欣求浄土の教であつて、立派なる浄土を目あてとし、死後は弥陀の救済によりて必ずその浄土に往かれると信じもし、又教へられて居られるやうに思ひます。然るに、今先生のお説に從へば明かに我が真宗の教義にもとりたるものとなりますやうです。親鸞主義を高唱される先生のお言葉として見れば私共はその去就に迷ふものであります。先生のお考では、そんな立派な場所があるのではなく、死後は平たく一言にして尽せば消えてなくなるのでありますか。さう致しますと、宗教といふものは倫理道徳と連絡して死後の世界を仮想し、悪を懲し善を勤め、曾て人の臨終を安からしめるために、死後の善美の世界を憧憬せしめるものでせうか。  それとも死後の世界は何人と雖も判るものではないのであるから、色々の教義を聞く中に我々凡夫の力では如何ともならぬものであるといふことが明かになりますから、ただ絶対に仏に信頼せよといふ事になるのでありますか。  最後にお顔ひ致したいのは先生の御信仰であります。何卒私共未信のもののために先生の本当の信仰の御話をお聞き致したいのであります。然らば自然、往生といふことも明かになることであらうと思ひます。  答 簡単にお答へ致します。第一に「我真宗の教、即ち親鸞聖人の教」とありますが、親鸞聖人が浄土真宗といはれるのは仏教のことであるといふことはその著「教行信証」を一見すれ明瞭であります。さうして親鸞聖人が仏教といはれるものは、阿弥陀仏の名を称ふることによつて真実の報土に往生するといふことであるといふこともこの書を一見して明瞭であります。  しからば阿弥陀仏の勅命を奉じて真実の報土に往生するということに何等の「教義」を要することはない筈であります。それ故に親鸞聖人は「弟子一人も持たず、何を教へて弟子といふべきぞや」と言つて居られるのであります。「弥陀の教法を我も信じ人にも信ぜしめたかつた」のが親鸞聖人の心持であつたことと察します。  すべての真実の宗教に「教義」といふものが必要であるといはれませぬ。さういふことは弥陀の教法ではなくして人間の教法であります。いかに知識が進歩して居つたからと言つても、その考は我々の未来を明かにすることは出来ぬものでありますから、我々の一切のはからひを捨てて阿弥陀仏に帰命することが仏教の神髄でありませう。  浄土を欣求するといふことは仏教の理想とするところでありまして、阿弥陀仏に帰命するといふことも畢竟欣求浄土の心であることは疑のないことであります。欣求浄土の心はすなはち願生心であります。しかもそれは阿弥陀仏の心でありますから、阿弥陀仏に帰命することによつて初めて我々の心にあらはれるのであります。しかるに、自分の心のはからひを以て、浄土を欣求する人々の心は浄土をば何か立派なる場処のやうに心得て、その極樂へ行きたいと念願するのでありますから、それこそ死後の世界を仮想するに過ぎぬのであります。さういふ風に説く人も仮想して居るのでありませう。それ故に地獄極楽は勧善懲悪のための方便に説かれたものであると言ふ人が多いやうでありますが、私はしばしばそれに就て説明したやうに、決して方便のものでなく、現実の我々の精神上の事実であると考へて居るのであります。  私の説が真宗の教義に悖《もと》つて居ると言はれますが、真宗の教義といふものが、極樂を仮想して、その仮想の極樂へ往くといふことに定まつて居るのなら、私の説はそれとは明かに相違して居ります。本願寺にて公刊せられたる「真宗法要」の中に存覚上人の著「顕名鈔」が収めてありますが、その書の中に「往生トイフハ凡夫情量ニオホセテコレヲイフコトバナリ、実ノ生死ハアラザルナリ、他力ノ本願ニ乗ジ、無生ノ名號ヲ称シテ、一乗清浄ノ土ニ往生スレバ、カノ土ハコレ法性無生ノ境ナルガ故ニ、凡情ニハ生ズトオモヘバ、自然ニ無生ノ理ニカナフナリ」と説いてあります。私も往生といふことはかういふやうに説明すべきものであると信じて居るものであります。欣求浄土といふことは畢竟するに生死を解脱することでありまして、死ぬる後までのことをも仮想して生死に執著することではありませぬ。親鸞聖人はその著「一念多念証文」に即得往生の意味を説明して「即得往生トイフハ即ハスナハチトイフ、時ヲヘズ日ヲモヘダテヌナリ、マタ即ハツクトイフ、ソノ位ニ定リツクトイフコトバナリ、得ハウベキコトヲエタリトイフ、真実信心ヲウレバ、スナハチ無碍光仏ノ御心ノウチニ摂取シテステタマハザルナリ、摂ハオサメタマフ、取ハムカヘトルトマウスナリ、オサメトリタマフトキ、即チ時日ヲモヘダテズ、正定聚ノ位ニツキ定マルヲ往生ヲ得トハノタマヘルナリ」と説いて居られます。又親鸞聖人は「愚禿鈔」の内に「本願ヲ信受スルハ前念命終ナリ、即得往生ハ後念即生ナリ」と説明して居られます。又親鸞聖人は「唯信鈔文意」の中に「願海ニ入リヌルヨリテ、必ズ大涅槃ニ至ルヲ法性ノ都へカヘルトマウスナリ。法性ノ都トイフハ法身トマウス如来ノサトリヲ自然ニヒラクナリ、サトリヒラクトキヲ法性ノ都ヘカヘルトマウスナリ云々」と明瞭に浄土往生のことを説いて居られます。これはあなたの言はれまする所謂真宗の教義に明かに悖《もと》つて居るものでありませう。  しかしながら言葉の上にて極樂浄土に往生するとか、西方浄土へ参るとかといふことは、凡情におほせていることでありまして、それは全く宗教的感情の上のあらはれでありますから、それを事実の説明と混同してはなりませぬ。  死したる後は全く消えるものであるかといふ御質問に対しては二様にお答せねばなりませぬ。「我」といふ意識のみを以て「命」とする場合には死後には「命」はありませぬ。生理学や心理学で説く通ほりであります。しかしながら「心」全体として考ふるとき死後に「命」は消えるものではありませぬ。仏教の「阿頼耶識」の考への通ほりであります、勿論これは形而上学的に考へるのであります。何れにしてもこの問題は真実の宗教には関係のないことであります。真実の宗教は「死」といふ現実の問題に当面するものでありまして、死後の予想をつとむるものではありませぬ。釈尊はこのことに就て鄭寧に説明をして居られますが、すべて真実の宗教は現実の私を問題とするのでありまして、現実でないところの死後を予想して、決心の臍《ほぞ》をきめるといふやうなものではありませぬ。  何人も死を免れることは出来ませぬ。この無常の世に生活して居る我々は一日も早く阿弥陀仏の心の中におさめ取られて、その他力のはからひによりて正定聚の位に住し、命終りて後は法性の都へかへりて涅槃のさとりをひらくことを念願すべきでありませう。さうしてこれが阿弥陀仏の教でありませう。私が親鸞聖人の教につきて知つて居るところはただそれだけであります。(昭和四年六月)  浄土  涅槃界及び救主に就て  問 御多用の先生を煩はすことの罪を恐れ、感疑の反復は差控へる考でありましたところ、遠慮なく申し来れとの御宏量に甘えまして、次の如を冗漫なる質疑を奉呈いたしまする。  宇宙現象が無始無終であるとすれば、甚だ意識的な言方ではありまするが、宇宙は永久に涅槃を好まずして現象を好むものであると言つて宜しいと思ひまする。  私は思ひまする。現象界には相殺と言ふ事実が行はれて居りまするが、この相殺を全然排除しては現象界は到底成立し難い筈である。故に、宇宙現象が無始無終であるといふことは宇宙がこの相殺を罪悪と認めて居らない証拠であるやうに思はれまする。果して然ればこの相殺世界を厭ふは宇宙の法則に背くものであつて、又相殺を罪悪と認めぬ宇宙に三世因果のやうな矛盾した法則の有る筈はないと思はれます。若し又、三世因果が真理であるとしても、宇宙の時空及び現象が無限で、且つ無始無終である以上、輪廻転生者の絶滅する時期は決してないと言はねばならぬと思ひまする。そして一方に於て、入涅槃者も涅槃に住する能はず、直ちに現象界へ引返して、衆生救済のために努力せねばならぬとすれば、迷ふも苦あり、悟るも苦あり、結局、宇宙は永久に一大苦海であるといふ、極めて悲観的な断定に到達いたしまする。斯く考へて見ると、宇宙法則中、三世因果ほど、厄介至極な、呪咀すべき法則は無いと痛黙に堪へぬ次第でありまする。  さて涅槃界の実在を信ずるに致しましても、之を相対界を離れて、超然として存在する平等界といふ工合に考へることは不合理ではありますまいか。相対を全離して平等的一物を執ずるは悪平等であるとは大乗哲学の原則であると聞いて居りまする。真宗本派雲山司教は其著「正信偈講義」に於て  「先づ法身とは本体理性のことにて、宇宙に遍満せる真如法性の理体をいひ、次に報身とは何れの仏も各々願を発し、行を修し、以てその願行に酬報せる区劃ある仏土を縁起し、仏身を示現し、説法利生し給へるものをいふ、換言せば、前者は平等無差別の本体理性にして、後者は現象を差別せる人格的なる仏陀を指す」  と述べて居られまするが、涅槃界(報土)を事相の上に認め、救主(報身仏には方便法身仏)を其処に住し給ふ人格的の仏陀と考ふるは私のみでは無いと見えまする。  大体釈尊や親鸞聖人が、入涅槃されたといふことは具体的に説明すると、どういふことになるのでありませうか。無我を説く仏教では靈魂の入涅槃を語る筈もありますまい。然らば身体でせうか。身体は十数原素で成立して居りまするがそれ等原素は夫々物質の儘に分散して他の現象中に混入するのであつて、人涅槃者の身体原素のみが特に真如の本体に還つて再び現象するといふことは決して無からうと思はれまする。その証拠には、釈尊や、親鸞聖人の火葬後、白骨が残つた所で明かでありまする。して見ると、人涅槃者と言つても身体中一物も真如に還るものは無いのであつて、唯無始以来の流転生死の生活が断絶されたと言ふだけに過ぎないものでせうか。それでは往還二回向の教義が虚談になりまする。斯く考へると私は如何しても事相の浄土や、事相の救主を認めねば理論が成立せぬと思はれまする。事相の浄土を認めると、入涅槃の具体的説明が、次の如くに出来ると思ひまする。  即ち、釈尊や親鸞聖人やの死と同時に、善業の感応作用によりて事相の浄土に於て、浄土の材料によりてその相続者たる仏が生れる、丁度地獄行の悪人の死と同時に悪業の感応作用によりて事相の地獄に於て地獄の材料によりてその相続者たる罪人が生れる、そして入涅槃者の生前の身心も、喧地獄者の生前の身心も、先方へ行くものは、一も無く、止つて物質のまま、或は勢力(エネルギー)のまま分散して、他の現象の中に混人し変転して行くものである、と斯ういふ工合に説明が出来ると思ひまする。  然し乍ら、私は敢て「各留半坐乗華臺、待我閻浮同行人」といふ如き物質的享樂を望むものではありませぬが、人格的を失つた平等無差別の真如に合一するといふことは、理論は兎も角も、感情に於て、第一滿足が出来難いのでありまする。「仏説無基壽経」等の説相が、必しも平等無差別に偏して居ない、否大に理想的事相を詳説して居ることは、決して誘引の方便のみでなく、必ずや古人の情感も私と同一報に出でて居たことでもらうと思はれまする。  答 宇宙の本体は真如(涅槃)であり、その現象は常に差別であります。さうして、その差別の現象は因縁によりて真如から縁起するものであります。故に、因縁によりて生じたる差別の現象を本態の真如に復帰せしむることは宇宙の好む所でありませう、あなたの御考では「宇宙現象が無始無終であるとすれば、宇宙は永久に涅槃を好まずして、現象を好むものであると言つてよろしい」といふことでありますが、私にはさうとは考へられませぬ。三世因果といふことも、個性の転生を指すのではなく、一の個性からして、業(カルマ)の力によりて、新なる一の個性が生ずるといふ意味であると私は信ずるから(この事に就ては妻木直良氏著「仏教靈魂論」を參照ありたし)、あなたの言はるるやうな厄介至極なる法則ではありませぬ。  私といふ意識は、私の身体が現存するときに始めて現はれて、ここに私といふ個性が現はれるのでありますが、私の身体が死してその原素が離散するとき、私といふ意識は消失するのであります。しかしながら、私の身体であつた所の原素は固より消失するのではないから、それが更に一種の力(仏教の業の力)によりて更に結合するとき新しい意識が現はれて、ここに又新しい個性が出来ます。これは固より前と同一の個性ではないが、しかしながら因果の関係によりて連続したるものであります。私はこの意味に於て、過去、現在、当来の三世に渉りて、因果の関係は現存するものであると信ずる。  「宇宙の時空及び現象が無始無終である以上、輪廻転生者の絶滅する時期は決して無いと言はねばならぬ」といふ御説は、尤のことで、私も宇宙の現象の絶滅する時期は断じて之なきことを信じます。從つて、生死の現象を離るる事、現象をその儘としては到底不可能であるといふことを疑ひませぬ(私のは、転生といふ用語の意味が違ひますから、それを御承知下さい)。故に、あなたの言はるる通ほり、迷の境界は苦しみであります。しかしながら、入涅槃者が現象界へ引き返して、衆生救濟のために努力するといふことが苦しみであるか否か、私にはそれが、苦しみであるとは考へられませぬ。現に私共がこの娑婆にありて如来の行を行ずるといふことは慶喜の心をこそ起せ、決して苦しみの情を起さぬといふことは私共の実驗する所であります。兎も角も、宇宙は一大苦海ではありませぬ。それを苦海と見るのは私共が差別の現象に迷つて居るからであります。  どう考へて見ても、宇宙の本態は真如(涅槃)でありますから、宇宙は私共をしてその本態たる真如(涅槃)に帰らしめむと欲し、私共は真如(涅槃)に帰るによりて生死の苦界を離るることを得ると信ぜしめられるのであります。これが、他力の本態であります。さて、その涅槃界が相対界を離れて居るといふことに就て、あなたはそれを非難されるのでありますが、理想界が相対界を離れたる所にあるといふことは不合理ではないと私は考へます。私の申すことはどこまでも客観的でありますから、その御積で御考を願ひたい。あなたが相対を離れて絶対を考ふることは不合理であるといはれる意味が私にハツキリわかりませぬと、前前號の応答の欄に述べて置きましたが、今回の御説に相対を全離して平等的一物を執ずるは悪平等であると御述べになつたのを見て、始めて、あなたの御考が主観的であるといふことがわかりました。なるほど主観的に、心の内から言へば、相対も、絶対も、同じ心の問題であります。相対を離れて絶対を考ふることは出来ませぬが、私が言ふのは、客観的に心の外から説くのでありまして、現実(現象)が差別であり、相対界であり、その現実の根本に存する所の或物が平等であり、絶対界であるといふのであります。  故に、理想が平等で、絶対の界にあり、この絶対の界が相対界を離れたる所にありといふは決して不合理ではないと私は考へます。又平等が差別を離れたる所にありといふも、その平等が、差別に即して居るといふことは無論のことである。即ち理想は現実に内在して居るものであるから、此の如き場合、決して差別を無視して、平等的一物を執ずるに至ることは無い筈である。 あなたは更に雲山司教の説を引いて「涅槃界(報土)を事相の上に認め、救主(報身仏又は方便法身仏)を其処に住し給ふ人格的の仏陀と考へる」と言はれますが、あなたが涅槃界を事相の上に認めるといはれる意味は、相対界の一部に区劃せる場所がありて、これが涅槃界であるとせられるのでありませう。混槃界は如来の理想(光明無量、壽命無量の本願)に応じて実現せられたる妙境(理想界)で、固より遠近広狭の制限を離れたるものである。故に現に淨土は西方十萬億利の処にありと説いてある所の「大無量壽経」にも、浄土の量相につきては恢廓曠蕩《かいかくこうとう》にして限極すべからずと記してある。娑婆世界は貪欲、瞋恚、愚痴の三毒を忍受すべき忍土である、さうしてこれ実に我々の心の現在の住する所である。しかるに、私共が如来の本願を信知するとき、無明滅して真如の本態が全部を現はすに至りたる境が法性の都である、涅槃の界である。我々が智的及び道徳的の完全を得べき理想の境である。理想が現実に基づきて起ることは勿論であるが、この理想の実現が、現実を離れたる後に、始めて成就すべきものであるといふことは自明の理である。しかしながら、我々の現実が娑婆世界であるといふのと同一の意味にて涅槃界(浄土)もまた、決して物質的のものではない。親鸞聖人の教に拠れば、真実の証は利他円滿の妙位、無上涅槃の極果であるが、この妙位と極果とは、報士(浄土)に到りて始めて之を獲得すべきものであるから、同一の境地をば、衆生の方から真実の証といひ、如来の方から浄土と名づくるものであるといふことが明瞭であります。結局、涅槃界に入るといふことは、如来の本願の中に生きるといふことを言ふに外ならぬのであります。  しかるに、主観的に言へば、穢土をすてて真実の報土に入るとか、極樂世界に往生するとかいふやうな情緒が現はれて来る。それ故に、西方に極樂がありて、そこに如来が現に説法してござるといふやうな情緒が現はれて来るのであります。あなたが、区劃せられたる場所を指して涅槃界とするといはれるのは、恐らくはこの意味でありませう。  たとへて言へば、大気中の低気圧が移動する場合、我々は「低気圧が遣つて来た」といひ、丁度、「低気圧」といふ人格的のものが、飛行して来たかの如くに考へるのが常である。あなたが涅槃界を事相の上に認めるといはれるのも、畢竟此の如き心の有様を指していはれるのでありませう。真宗にて指方立相が八釜敷言はれるのも同じく、此般の心の有様に基づくものであります。救主(報身仏又は方便法身仏)を浄土(涅槃界)に住し給ふ人格的の仏陀と考ふるのもこれと同様に、真如の理が、抽象的の概念から、具体化せられて、我々の意識の内容(感情の方面)に現はれるためであります。故に親鸞聖人が報身如来を証明して「ひかりの御形にて、色をましまさず、形もましまさず、即ち法性法身に同じくして」と言つて居られる通ほりに、我々は救主の尊形を見ること能はずして、実に其の力を感知するのであります。  然らば、入涅槃といふことを、具体的に説明すれば、我々の身体及び精神(意識)の死亡すると共に我々の個性は消失する、しかし我々の業の力によりて更に新なる個性が現はれる、此の個性は我々の業によりて同じく生死の苦を受くべきものである。それが尋常普通の場合である。若し我々にして如来の本願に信順する場合には、新に生れたる個性は、如来の本願の中に生きるがために、智的及び道徳的完全のものである。即ち真如の証を得たるものである。これを入涅槃といふのである。  あなたの御説に「死と同時に、善業の感応作用によりて、事相の浄土に於て、浄土の材料によりて此の相続者たる仏が生れる」といはれるのも、大体に於て、私の説明に同じやうに思はれます。唯善業の感応にては、浄土の材料によりて其の相続者たる仏が生れる、悪業の感応にては其の相続者たる罪人が生れると言はれることが、私の言ふ所と相違して居るやうに考へられます。生前の身体と精神とは共に分散して、或は他の現象中に混入することもありませう。しかしながら固より滅し尽すものではありませぬから、それが或力によりて再び結合せられて、ここに更に新しい個性が出来ることがありませう。其の或力といふのは仏教に言ふ所の業の力(我々の意志及び行為によりて現はれるもの)でありますから、我々は第二の個性として同じく生死の苦界を離れることの出来ぬものであります。  此の如き次第であるから、平等無差別の真如は事実に於て抽象的概念であります。此の抽象的の概念たる真如は、即ち理仏であります。故に此の抽象的概念に対して、我々がこれと合一するといふ理論は、到底我々の感情に於て滿足が出来ぬといふことは勿論であります。此の抽象的概念から具体化せられて、そこに方便法身仏が現はれる、我々はそれを救主と仰ぐのであります。それが即ち南無阿弥陀仏といはれる所の事仏であります。仏教は固より汎神論で、一切衆生、悉有仏性と説いて、世の中のすべてのものに神性を認めるのであるが、それでは神仏の尊厳を保つことが出来ず、我々の宗教心を満足することが出来ぬ。それ故に、何等かの意味にて、神仏を自然的事物以上の位置に高めやうとするのが自然の要求であつて、それがために、神仏の観念を自然から離して、人格の姿にするのである。これ畢竟、神仏が物質でなくして、理性であるからである。  まだ不充分ではあるが、あまり長くなりますから、これにて筆を止めませう。(大正八年十二月)  極樂浄土に就て  問 前號に、烏町無明氏が「涅槃界及び救主に就て」述べられたやうな考は、私も常々、不審に思つて居つた所でありました。それで、私も畠町氏の驥尾に附して「極樂浄土とは果して何物であるか」といふ甚だ幼稚なる質問を致します。無遠慮の段はおゆるしを願ひ、次に露骨に私の考を述べます。  お寺での説教で聞くやうな極樂浄土が実際に存するといふことは私には信ぜられませぬ。恐らくは、私どもと同じやうな学問をした人々の頭には、此の如き極樂浄土は、到底考へられぬことでありませう。これまで学者といはれる人々の間には、地獄極楽といふものは、人間に善を勧め、悪を懲すために、仮に説かたるもので、実際にそれが存在するものでは無いといふ説が唱へられて居りました。私もどちらかといば、極樂は方便のために、仮りに説かれるもののやうに考へて居ります。しかるに、前回、畠町氏への御答弁の内には、浄土は涅槃界で、如来の理想に応じて実現せられたる妙境であると御説きになつて居りまして、極樂淨土が実際に存して居ることと考へられます。しからば、その極樂浄土の位置及び内容は如何でありませうか。極樂浄土と名づくべき区劃ある土地がどこかにあるのでありませうか。それを伺ひたい。  答 仏教に説く所の極樂淨土は、実際に存するものであると私は信じて居ります。然らばどこに存在するかといへば、御経に説いてある通に、西方の十萬億仏土の所にありといふべしであります。極楽浄土は固より如来の理想(本願)に応じて実現せられたる妙境(理想界)であるから、遠近広狭の制限を離れたるものであるが、我々人類が差別的の現象界に住みて、思考する所では、此の如き理想界が、何れかの方角に存するとするは正常の心理状態であります。さうして、すべての物の始を東とし、終を西とするは、世界到る所の人類の心理であるから、極樂浄土を西方と指定するのもまた、我々人類の正常の心理に基づくものでありませう。我々の方からいへば東西南北の別のあることは勿論であるが、我々を離れて宇宙の方からいへば固より東西南北の別のあるべき筈はありませぬ。十萬億仏土は計るべからざるほどの遠距離といふほどの意味と見るべきであります。  元来、極樂浄土というべきものは涅槃界であります。法性の都であります。平たく言へば仏の国であります。我々が智力的及び道徳的の完全を得べき理想の妙境であります。我々が如来の本願を信知するによつて、無明が滅して、真如の本態がその全部を現はすに至りたる境であります。これを説明するためには種々の言葉を用ひますが、畢竟するに、我々が如来の本願(理想)の中に生きることを得るの境地が即ち極楽浄土であります。故に、極楽浄土といふ名前は如来の方から見て附けたもので、我々衆生の方からいへば真実の証といふもので、この兩者は全く同一のものであります。されば親鸞聖人は、真実の証は、利他円滿の妙位、無上涅槃の極果で、この妙位と極果とは報土(浄土)に至りてこれを獲得すべしと説いて居られるのであります。  此の如く、極楽浄土の説明をするに方りて、特に注意を乞ひたいことは、宗教は我々の心の働きに就て論ずるもので、すべてが主観的の事柄であるといふことであります。從て、我々の現実が苦界であると宗教的にいふのと同一の意味に於て、浄土(涅槃界)もまた決して物質的のものでないといふことは明瞭でありませう。即ち極樂浄土は我々が凡情でいふ所の物質的の国土では無いので、「大無量壽経」にも、浄土の量相に就きては恢廓曠蕩にして限極すべからずと明かに記載してあります。宇宙の一部に区劃せられたる神聖の場所が存して居つて、それが浄土であるとい訳では決してありませぬ。  此の如き次第でありますから、仏教の中でも、聖道自力教のやうに此土で聖果を獲るの考によれば、娑婆即寂光土といふことも出来るのであります。我々の主観の世界が一変して、真実の証を得るほどの境界に到れば、客観の世界もそれに相応して寂光土となるものであります。その時にはこの世界がそのまま極樂浄土と変ずるものであります。しかるに、弥陀教にありては、如来の本願に乗じて、その理想の妙境に到ることを期するのであるから、極樂淨土は一定の方位(たとへば西方十萬億仏土)にあるものと信じて、それに向つて進むのが、我々の正常の心理であります。  この心理状態からして、主観的に、穢土を捨てて真実の報士に入るとか、極樂浄土に往生して待ち申すべしとかといふやうな感情が現はれて来るのであります。その量相をいへば、遠近広狭の制限の無い淨土で、固より区劃せられたるものでは無いけれども、それが我々の主観に現はれて、理想の妙境と感ぜられるときには、それが西方に区劃せられて存するやうに信ぜられるのであります。決して勸善のために架空の説を立つるのではありません。  極樂淨土の内容につきては、それが真実の証を獲得したる境地であるといふことにて十分に説明せらるるものであります。詳かに言へば、生ぜず、滅せず、寂靜無為にして有無を離れ、苦樂善悪の束縛なく、永久の光明を以て一切の差別を照すことを得るの境地であります。我々が利己的の欲求によりて、物質的享樂を得べき場所ではありませぬ。蓮如上人「極樂はたのしむと聞いて參らんと願ひのぞむ人は仏にならず」と言つて居られるのであります。(大正九年一月)  安樂世界  問 大谷光瑞師の「第一義諦」の中に「肉体が滅すると同時に精神を滅する、しかしその本体は生滅するものではない」と書いてありますが、その精神が空中の本体に帰ることを安樂世界に至るといふのでありますか、さうしますれば、我執我慢のこの精神が帰るところは安樂世界ではなくして言葉もたえたる本体でありますか。  答 肉体が滅すると同時に精神が滅するといふ事は生理学や心理学の上から見て、疑のない事実であります。世の中のものはすべて無常でありますから生滅せぬものは一とつとしてありませぬ。この事は仏教でも、五蘊が和合したる場合に生があり、五蘊が解散したる場合に死があらはれると説いて、精神が肉体とともに生滅するものであるとして居るので、從つて常住不変の我といふものは無いと主張するのであります。多くの人々が考へて居るやうに、精神が肉体から脱け出でていづれにか往くといふやうな幼稚なことは仏教では説かぬのであります。  しかしながら、肉体にしても、精神にしても、それは我々の知ることを得る部分であつて、その奥に我々の知ることが出来ぬ本体がありまして、それは不生不滅のものであると説くのであります。それが空中にあるか、どこにあるかは我々にはわかりませぬが、兎も角も、不生不滅の本体にかへるのを安樂世界に至るといふのであります。言葉もたえたる本体でありとすれば決して安樂ではあるまいと考へる人もありませうが、それは安樂といふことを此世の苦悶に対して考へるためでありまして、安樂といふのは、全く苦樂を超越した境であります。  不生不滅の本体はもとより我々にわからぬものでありますが、それを宇宙の大精神と考へてもよろしいのであります。哲学的にむつかしくいへば普通の真理と考へても差支はありませぬが、宗教的に暖かい心持から言へば仏の国であります。淨土であります。しかしながらそれは固より我々人間の思慮を離れたる境でありますから、我々が平生考へて居るやうな地理学的の国土とおなじもののやうに思ふてはなりませぬ。このことに就きては、本誌前號以来に載せたる「安心生活」の中にくはしく私の考へを記して置きましたから、それを御覧くださるやうに願ひます。  大谷光瑞師は又「極樂莊厳」と題する書物を公にして居られますから、あなたはそれを御読になつたことでありませうが、すべて宗教のことは主観のことで我々の心の内の問題であるといふことをよく考へねばなりませぬ。安樂世界が客観的に存在するといひましても、それが我々の心の内の存在と一致したものでなければ、我々にとりては何の関係もないものであります。安樂世界が我々の心の内に存在して居つてこそ、始めて客観的の安樂世界に意味があるものであります。しかるにこれを心の内と、心の外とに引きはなして、心の外にのみ安樂世界を考へるために、いろいろの疑問や間違がおこるのであります。(大正十一年三月)  極樂に就て  問 「この自分はまことに地獄必定の姿である、何ともすることの出来ないおそろしい境界である、しかしよくこの世の中を見つめると、この苦土が他面樂境で、何物も微妙な光明につつまれて居らぬものはない、この身はつまらぬ苦界輪廻の身で、これまでの果を受けて朝夕苦しみの生活をして居る、これは薬でのがれることは出来ないが、この汚濁その儘光明につつまれて居るのだと気付かせられたのは、その光明もろとも仏の力で、実にありがたいことである。喜んで暮さねばならぬ、感謝して日を送らねばならぬ、この喜び、この感謝の心はもう苦しみの業にはなることはない、すなはち往生一定だ」と考へて居るのは如何でありませうか。  自分は此の如くに極樂の状態を考へて現在に安心して居るのでありますが、それでよろしいのでありませうか。お示しを願ひます。  答 自分はまことに地獄必定の姿である、何ともすることの出来ない恐ろしい境界であるとのお言葉、全く自分の愚悪を自覚せられたやうに見えますが、しかし徹底的に自分の愚悪が自覚せられたのであるか否かといふことはこのお言葉のみではわかりませぬ。若し真実に地獄必定のものと自分の愚悪が知られたものでありとすれば、そこに大安心に住することは出来る筈であります。  しかしながら、世間多くの人が、自分はまことに地獄必定の姿であるといふのを見ると、それは自分といふものを、自分の外に置いて、それが地獄行のものであると決めて居るのであります。口には自分とはいひますけれども、よく考へて見ると自分では無くして、自分の外に自分といふものを考へて居るのであります。すなはち自分といふものを客観的に見て、その自分が愚悪であると決めて居るのであります。かういふやうな自分ではそれがいくら地獄必定の姿であるといつても真実に自分の愚悪を自覚したものではありませぬ。あなたのお言葉が実際どうであるか私にはわかりませぬが、あなたとしてはこの点について篤とお考へをねがひたい。徹底的に自分の愚悪といふことがわかれば何ともすることの出来ない恐ろしい境界でありませう。然らば極樂が、どうであらうが、未来がどうであらうが、考へることも、どうすることも出来ぬ筈ではありませぬか。自分は地獄必定の悪者ではあるが、未来を考へ得るところの智慧があると考へるのはまだ十分に自覚したものであるとはいはれませぬ。  我々はどこまでも自からを是とし、他を非とするものであります。そこに罪悪深重、煩悩具足といふことが言はれるのであります。この凡夫のあさましい心の相に気がついたとき、我々はよろづのことみなもてそらごとたはごと、まことあることなしと知らねばなりませぬ。それ故に我我が自分を地獄必定のものと知つたといふ事もおなじくたはごとそらごとでありませう、すくなくとも自分の一部を知つたのみであつて、真実に自分の至体を知つたものではありませぬ。自分はまことに地獄必定のものであるといふ言葉に間違のない事は勿論でありますが、しかしながら言葉だけでは何にもならぬことであります。  自分は地獄必定のものであると片づけて、それで安心して居る人も隨分多いやうでありますが、さういふやうな人が自分は地獄必定のものでありますといふ言葉は取も直さず、自分の愚悪を知つて居るから極樂へ行くことが出来るといふ、自是他非の本性をあらはして居るものと言はねばなりませぬ。地獄必定と口には言ひながら、心には地獄には堕ちぬと威張つて居るのであります。  さういふ心持で、この世は樂境で何物もみな微妙な光明に包まれて居る、自分は汚濁そのままに光明につつまれて居るのであると考へたところが、それは畢竟自分のために都合のよいことに考へて居るに過ぎませぬ。光明に包まれて居るといふことに間違はありませぬが、自分といふものの愚悪を知ることが十分でない限り、光明につつまれて居るといふことも自分のために都合のよいことを、さういふやうに考へて居るに過ぎませぬ。自分の周囲に光明を認め、仏の慈悲を仰ぐといふことは自分を立てて行く上に最も都合のよいことでありますから、多くの場合、それによりて安心が得られるのでありますが、しかしながらそれによりて真実の安心が得られるのはどうしても自分の愚悪といふことが徹底的に知られたときに限るのであります。  よく考へて見れば、この世は苦しみの中に楽しみがありまして、すべての物はみな私を生かすために世の中に存して居るやうに考へられます。萬物の恩が感じられます。衆生の恩が思はれます。微妙なる光明につつまれて居るといふことを感ぜられます。しかしながら、自分といふものに目醒めぬ限り、かやうの感じはみな自分といふものの外にこれをながめて居るのでありまして、さう感ずることによりて、自分に都合がよいためにさうして居るのでありまして、若し何等かの場合にあつて、自分の内容(心の中の有様)に変動が起つたときには、萬物の恩は感ずることが出来なくなりませう。たとへていへば、或程度までの病気には、如来の慈悲を感じ、そこに光明を認めることも出来ませうが、それが度を過ぎて、心の有様がかはるときは、病気によりて如来の慈悲を感ずることは出来なくなりませう。これが凡夫の心の常であります。  太平無事で余裕がある場合には冷静に考へることが出来ますが、感情が動揺するときにはさうは行かぬものであります。汚濁そのまま光明に包まれて居るのだと気付かせられたのは、その光明もろともに如来の力で実にありがたいことであると感ずるといふ言葉には無理はありませぬが、凡夫の心の常としては、さういふことをありがたく感ぜぬ方が本当ではありませぬか。恩を恩とも思はぬといふことが我々の本性ではありませぬか。それを恩恵と感じ、慈悲と仰ぐところに、たはごとそらごとの心があらはれて居るのではありませぬか。我々はいつまでもそれを反省せねばなりませぬ。親鸞聖人が「浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし」と述懐せられたることは大いに味はねばならぬことであります。  此の如き場合にありて、萬物の恩恵を感ずるも、如来の慈悲を仰ぐも、ともに我々の心の所作でありますから、心の有様によりては、それがどうにでもなるものであります。平たくいへば、地獄必定といへばすぐにそれに腰を掛けて安心し、如来の慈悲を考へればすぐにそれを自分の方に引張りよせて、丁度寝椅子のやうに心得て、その上に寝て、心持がよいと感ずるのであります。しかしながらその腰掛も寝椅子も共に人間の造つたものでありますから、破壊せらるる畏れがあります。それによりて十分に安心の出来ぬといふことは無論でありませう。  地獄必定ときまれば、どうすることも出来ぬ筈であります。どうすることも出来ないものが極樂を予想してもだめではありませぬか。極楽は楽しむと聞いて參らむとねがひのぞみても、そこに行くことの出来ぬ地獄必定のものではありませぬか。自分の周囲に光明を認めるといふことは道理至極でありまして、それが間違つて居るといふのでは決してありませぬが、自分の愚悪を知ることが徹底せぬ限り、それは単に光明を知るといふだけに止まるのでありますから、その心持は道徳の程度にあるものであります。道徳的に考へるとき、周囲の光明を認めるといふことは大切のことで、それによつて我々は不平の大部分を除き去りて、安心の境界にあることが出来ます。しかしながらそれは要するに一種の諦めでありまして、どこまでも道徳の範囲を脱することは出来ませぬ。  しかしながら、宗教は此の如き道徳の方面から進むものでありますから、周囲の光明を認めるといふことは道徳から宗教に入るの階梯であると言つても差支はありませぬ。周囲の光明を認めるとはいふけれども、我々の心はどうしても自是他非のもので、よろづのことそらごとたはごとであるから、光明をも真に認めては居ないのであらうと、自分の愚悪を反省するとき、そこに道徳の力は、全く無くなつて、どうにもすることの出来ぬことがわかりませう。そのどうにもすることが出来ぬといふことが真に知られるといふことが、それが如来の光明に照らされたのでありますから、そこに如来の国(すなはち極樂)に入ることの出来る道があるのであります。しかしながら我々としては極樂がどういところであるかわかる筈はありませぬ。これを予想することも出来ませぬ。ただ如来の心によりて造られたる国であるといふの外はありませぬ。国といつても固より地理学上のものではないのであります。それ故に宗教としては我々が極樂に行くといふことは如来の御はからひであつて、我として、はからふべきことではないといふに止まるのであります。  如来の光明に摂取せられたるときはすなはち即得往生といはれるので、我々の心に如来の心が入り充ちたときにはそれが如来の国に往きたのであるといふことが出来ます。しかしながら、それは心の有樣を言葉にあらはしたのみで、それが体驗せられない限り、我々は決して安心の境界に達することは出来ませぬ。(大正十二年七月)  極楽浄土の真相に就て  問 極樂浄土の真相に就て再三再四本欄に於て解説ありたる中に、第二十三號に於て「若し我々にありて如来の本願に信順する場合には新に生れたる個性は如来の本願の中に生きるが故に智的道徳的完全のものである」と解説せられ、第七十四號に於ては「往生を得るといふことは我々の心にて造られたる差別の世界から仏の心にて造られたる平等の世界に生れることであるから個性といふやうな差別はないのである」と解説せられて居りますが、何となく矛盾のやうに受取られます。  若し外面的にも実質的にも極樂浄土と十方浄土との区別はない、又阿弥陀仏及びその聖衆と十方諸仏及びその聖衆との区別もない。名前は別々でもその実区劃もなく個性的自己意識もない。入口は別々のやうでも入り込めば其処は主観客観の区別のない平等一体の真如界即ち涅槃界である。丁度、四川海に入て同一海水となるが如くであるといふが真義であれば、その涅槃界は現象界と対立的に存在するものでせうか。具体的にいへば真如を百としてその何%は現象界となつて居つて、何%は真如其儘の状態で涅槃界となつて居るといふ有様でせうか。又全真如は百が百ながら現象して居る、その現象の内在界が涅槃界であるとすべきでせうか。若し後者であれば真如が現象したる場合は現象当分の働きしかない故に、全真如が百が百ながら現象して居れば真如其儘の働きは現はれないやうに考へられます。さうすると智的道徳的完全郷といふ涅槃界は単なる概念の世界であつて、実際に靈活的に存在して居る境地ではないといふことになると思はれますが如何でありませう。  曾て京都六條学館で宗余乗の講義を聴きたるとき、某講師が「極樂浄土は法蔵比丘の願行に感応して表はれたる世界であるから区劃ある境地であつて、阿弥陀仏は絶大なる自己の意識を持つた個性的救主である。往生者も自己意識を持つた個性として其処に生れて行くのである。それは最高級の世界であり個性であるから肉眼では見えない靈妙なる現象であつて且つ進化もなく退化もない完成された境地である。お経にはそれを無衰無変と説いてある。そしてお経に恢廊曠蕩不可限極とか、虚無之身無極之体とか説いてあるのは略門の果体を言つたもので、広門示現としての形相はたしかに表現的である。極樂浄土の真相は古来有名な金獅子の譬喩を以て説明せられてある」といふやうな意味を説かれたと記憶いたして居りますが、私は極楽浄土はどうぞ斯ういふ境地であつてほしいと思ひまする。  自己意識のない平等界は高尚は高尚でも、結局虚無と相去る只一歩の境地のやうで淋しく感じます。然し私は決して個我的靈魂の実在を信じは致しませぬから、表現的極樂浄土へ自己意識を持つた個性として往生すると言つても現在の精神が死後極樂浄土へ進入して生れ行くとは思つて居りませぬ。  尚ほ法蔵比丘の発心修行は地理史的事実と信ずべきでありませうか、又単なる譬喩であるとすべきでありませうか。  答 最初に私が「本願に信順するときは新に生れたる個性は如来の本願の中に生きるが故に」といひ、又「往生を得るといふことは仏の心にて造られたる平等の世界に生れることであるから個性といふやうな差別はない」と言つたのを指摘して前後言ふところが矛盾して居るとの御説はいかにも尤であります。なるほど、説いた場合が違ひますから言ひ方が違ひ、一方では個性があるやうに聞え、一方には個性がないやうに聞え、互に矛盾して居るのでありますが、私の考は何れの場合でも、自己意識を有する個性は身体と共に滅亡することを説くのでありますから、そのお積りで読むで下さればよく理解して頂くことが出来ませう。「新に生れたる個性が智力的道徳的完全のものである」といへば、すなはち我々が今現に考へて居るところの個性といふやうな差別はない筈であります。曇鸞大師の浄土論註に「彼ノ浄土ハ是阿弥陀如来、清浄本願、無生之生、非如三有虚妄生、也、何ヲ以テ言之、夫法性清浄、畢竟無生、言生者、是得生者之情耳」とあるやうに、往生といふことは凡夫の心持にていふ言葉で、真実の生死のことでないことは明かであります。それ故に我々が現象界にありて「個性」といふやうな差別が涅槃界には無いといふことは無論でありませう。言葉の端のみを見れば矛盾して居るようでありますが、その根本の意見に於ては決して矛盾しては居ないのであります。浄土というのは法性清浄の土で、そこは無生の境であるから、浄土に往生するといふことを我々の現在の心の有様よりしていふときは無生の理をさとるといふことと同じことであります。真に無生の理を証るときは我々の一我」(心の過程)といふ心持は無くなるのであります。それを指して一方では「智力的道徳的完全のものであるといひ、一方では「個性といふやうな差別はない」といふたのであります。その根本の問題は「自己意識を有する個性は身体と共に滅亡する」といふ点に存するのであります。しかるに貴下も「私は決して個我的靈魂の実在を信じは致しませぬ」といはれるのでありますから、この点につきては定めて御異存のないことと思ひます。  次に現象界(凡夫の世界)と涅槃界(如来の世界)とが、対立的に存在するかどうかといふ御質問に対しては、兩者は対立的のものではないと私は信じて居ります。丁度、真と偽と、善と悪とが、真に対立するものではないのに、我々の心情にありてそれを対立せしめて考へると同じやうに、真如を本体として、それが我々の心の有様として現象となり涅槃となるのであります。それ故に貴下が言はるるやうに「全真如が百が百ながら現象して居れば真如其儘の働きは表はれない」のであります。從て我々の現在の心の有様としては智力的道徳的完全の境地に到ることは不可能であります。現在の我々の心の有様よりしていへば智力的道徳的完全の境地(涅槃界)は固より理想の境地でありまして、現在の身命をもちながら此境地に達することは出来ませぬ。しかしながら此理想の境地に向つて進み行かうとするところに宗教の価値が存するのであります。現在の世界を離れたるところに靈活的の境地が存在してそれが涅槃界であると説いたところで、我々の現在の心の有様よりしていへばそれも全く夢想的のものでありまして実際にそれを目撃することは出来ぬ筈であります。事実の上から見ればただ理想と夢想との相違でありますが、理想とするところには智力的及び道徳的の努力の限を尽しての後にといふ真実味があります。夢想とするところには努力的及び道徳的の努力を抜きにして、蓮如上人が言はるるやうに、「極樂はたのしむと聞いて參らむと願ひ望む」心がすぐに起つて来るのでありますから、凡夫の欲情としては、それによりて滿足を得ることが容易でありませうが、それは畢竟するに一種の自己欺瞞でありまして、宗教としての価値は甚だ少ない訳でありますから、結局此の如き説明は宗教的方法として浄土往生を説くには不徹底であるといはねばなりませぬ。  某講師の説に「阿弥陀仏は絶大なる自己意識を持つた個性的救主である」とのことでありますが、それは仏教以前の印度の宗教が自在天の救濟を信じて居つたと同じ信仰でありませう。釈尊はこれを排斥して、正しき思索と冥想とによりて我々の意識に膠著せる誤謬を打破して、我々の思考の上に現象界を超越して永久的の実在(涅槃界)に到るべきことを説かれたのであります。 それ故に釈尊は我々の心の外に何れの神をも求めず、又天の一方に極樂の世界を夢想することなく、我々自身の存在をば深く内観し、我々の心を覆ふところの誤謬を排除することによりて自然に現はるるところの永久的の実在を求むべきことを教へられたのであります。釈尊の説かれたところを綜合して考ふるに、涅槃とは決して具体的のものでなく、実体的のものでなく、又それと反対に幽冥的なものでなく、幻影的のものでなく、実に合理的なる認識の上に発見せらるべき精神的体驗であります。  宗教でいふところの神の存在はこれを我々の言葉や思考にてあらはすことの出来ないものであります。釈尊は十分にこのことを理解して居られたから有形的にして人間的なる、又神話的なる婆羅門教の神の観念を排斥して居られるのであります。このことは幾多の経典にあらはれたる釈尊の言行を注意して見れば疑惑を容れぬところであります。私は宗教としての仏教を理解するためには先づこの根本の精神をつかむことが必要であると思ひます。法蔵比丘の発心修行は地理的歴史的事実と信ずべきであるかとの御質問に対しては、私は何とも御答することは出来ませぬ。しかしながら私の考によりますると、法蔵比丘のことがたとひ歴史上の事実であつたにしても、又歴史上の事実ではなくして神話的のものであつたにしても、宗教としてこれを見るときには何の関係ないことであります。宗教として考ふるときは法蔵比丘の発心修業は我々自身をして菩提を獲得するの心を起さしめるものであります。宗教として考ふる場合には、我々の心の中に、法蔵比丘があらはれてこそ始めて我々は救濟せらるるものであります。我々の心を離れたる法蔵比丘は我々を救濟するためには何の役にも立たぬものであります。ただこれだけのことをお答へ致して置きます。  貴下は自己意識のない平等界(涅槃界)は高尚は高尚でも、虚無と殆ど同じであるから淋しい感じがするといはれますが、いかにもさうであります。それ故に往生は必定と聞いても踊躍歓喜の心が起らぬのでありませう。この世を厭ひ離れて浄土を欣求することが出来ぬのでありませう。それ故に浄土といへばすぐに人間的の樂園を夢想し、未来といひながらただ徒らに現在を延長しやうとして居るのでありませう。すべてこれ誤謬の思想で釈尊が排斥せられたるところのものはこの誤謬の考であつたのであります。我々にして若しこの誤謬の思想から全然離るることが出来たとすればそれがすなはち涅槃界であります。(大正十三年十一月)  涅槃界に就て  問 これまで「法爾」誌上にての御説明によりますると、涅槃界即ち淨土は現象に内在して居る本体界のことで、そこが法性の都であり、本願に相応してあらはれた浄土であり、智的道徳的完全を得べき理想の妙境であるといふやうに承知せられます。若し涅槃が現象の上の最上級のものでなく、現象に内在して居る本体界であるとしますると、私の頭には種々の疑問が生じまする。  若し涅槃界が本体界でありとすれば報土と化土との区別が判然しないことになりませう。又諸仏が願を異にしてそれに報酬した浄土が十方に存在するといふことも、平等無差別の本体界では更に意味をなさぬことになります。  涅槃界が智的道徳的完全を得べき理想の妙境であるといひましても、智的とか道徳的とかは個人意識ありて始めて意味のある言葉でありまして、本体界は平等無差別でありますから智的道徳的といふやうな個人意識が消滅する筈であります。個人意識が無くなつた場合には智的道徳的といふこともなくなる筈でありませぬか。  此の如くでありますから、涅槃界を平等無差別の本体界であるといふことは真宗の教義と合致せず、涅槃界は現象界中の最上級の存在であるとすれば真宗の教義と合致し得るが如くに思はれまする。  古来兜率願生者もあり、又西方願生者もありましたが、何れも現象上にこの境地を認めたことは明かであります。  斯くは考へまするものの、「大無量壽経」の上には恢廊曠蕩不可限極とか、皆受自然虚無之身無極之体などの文字があり、親鸞聖人の「チカヒノヤウハ無上仏ニナラシメントチカヒタマヘルナリ、無上仏トマフスハカタチモナクマシマス云々」の御判決が有つたりしまするところから考へると、矢張現象上では無いことは明かであるし、それかと申して現象界内在の平等界としては前陳の如を疑問が有りまして全く何が何やら訳が分らなくなるのでござりまする。  答 涅槃といふことの意味につきては種々の説があるにしても、釈尊が説かれたるところ「阿含経」に説かれたるところによりて見ると、我々が貪欲・瞋恚・愚痴の三つの毒から解脱して苦悩を免るる有様を指していることは明瞭であります。我々は我々の生命のために苦悩を得るのであるから、この生命を離れ、最早生れかわることの無い状態を得ることによりて苦悩の境界から解脱することが出来るものであります。釈尊の説かれたるところに拠ると、認識を正しくして無智を征服し、自己を中心とするところの意識を変じて純粋の意識とすることによりて自由の精神状態が得られるのであります。涅槃といふのは明かにこの精神の状態を指していふのであります。これを他の言葉にて言へば混槃とは次ぎに起るところの生命から解脱することであります。苦悩の生命から離れて自由の境界に入ることであります。  涅槃を以て絶対的否定の状態であるやうに考へるのは誤謬であります。「死」と「混槃」とは全く相違したものであります。涅槃は最高の存在でありまして、存在が消滅するのではありませぬ。涅槃の界に入ることによりて我々は束縛せられたる生活を超越して自由の意思の活動をなすことが出来るのであります。  それ故に、涅槃は理想の妙境であります。滅ぶることのない状態であります。生命の苦悩に気が附きてそれから免れんとする心のあらはれたるとき(穢土を厭離する)はどうしても到達せむことを求むる(浄土を欣求する)ところの境地であります。しかしながら我々がこの涅槃の界を理解することは容易でありませぬ。我々の認識の形式は滅ぶべきものでありますから、滅びざる涅槃の境地を認知することは出来ませぬ。我々の思考は時間と空間とに支配せられるのでありますから、この時間と空間とを超越したる混槃の状態を思考することは不可能であります。  かやうの次第でありますから、涅槃の状態を積極的に説明することは到底我々には出来ぬことであります。ただ消極的に我々の認識と概念とを否定することによりてこれを言ひあらはすことが出来るのみであります。  貴下も言はるる通ほりに、我々の世界は現象の世界であります、差別の世界であります。さうして現象といひ、差別といふも、皆我々の個人の意識がはたらくために生ずるものであります。しかるにこの意識の世界から離れて、自己を中心とするところの意識(それから現はれるところの概念)から離れたるところに涅槃の状態があらはれるのであります。それ故に、どうしても現 象界を離れたるものであります。決して現象界の最上級のものではありませぬ。貴下が言はるるところの本体界(すなはち法性の世界)であるといふことは疑のないことであると私は信じて居ります。貴下もさう思ふには思ふが、さうすると種々の疑問があらはれると言はれますが、私には貴下の言はるるやうな疑問は起らぬのであります。  涅槃界が現象界にあらずして本体界なりとすれば化土と報士との差別はない筈であると貴下はいはれます。又私は涅槃界は智的道徳的完全の妙境であるといふのを非難して、個人意識が無くなつた涅槃界では智的といふことも道徳的といふことも意味のないものではないかといはれます。これは貴下のお考が違ひませう。涅槃界は固より差別のない平等の境地であります。しかしながらその状態は前にも言ふ通ほりに我々が認識することの出来ぬものであります。それ故に我我は我々の現象の世界にありて差別の相を見るのであります。  涅槃の境地は我々の思議すべからざるところであります。蓮如上人が「極樂は樂シムトキイテ參ラント願ヒ望ムヒトハ仏ニナラズ」といはれたのは明かにこの意味を示したもので、凡夫の心情によりて「樂しき所」と思ふても、「極樂」はその実我々がいふととろの「楽しみ」からは離れたものであるといふことは明かであります。  それに貴下は、此の如き平等無差別の涅槃を説くことは浄土真宗の教義に合致せぬといはれますが、私は浄土真宗釈尊の流れを汲むで居るのでありますから、涅槃の意味が釈尊の教に相違して居るものとは考へませぬ。現に親鸞聖人は「唯信鈔文意」の中に、涅槃の説明をしてそれが「法性の都」であるといつて居られます。さうでなくてはならぬことと思はれます。  世の中には涅槃を以て、我々の現象の世界の最上級のものと考へ、この浄土をあこがれて生まれむと念願するものも多いことでありませう。さう心得るところに何時でも自己を中心とする考があらはれて、蓮如上人が言はるるやうにその結果は「仏ニハナラズ」であります。さういふ念仏者の行くべきところは懈慢辺土であります、浄土の中でも極めて辺鄙のところであります。念仏の往生で、その念仏の模様によりて生まるべき淨土(涅槃界)が相違するといふのは、我々の現象の世界にていふことでありまして、つまり我々の言葉では涅槃界の説明が出来ぬといふことを示すものであります。平等無差別の境地に差別があるといふのではありませぬ。  仏教では我々が通常の認識によりて認知するところのものはすべて仮の相(現象)でありとしてこれを実在とは見ないのであります。常に変転して巳むことの現象でありますからすこしも永久性のものではありませぬ。まことに諸行無常の相であります。我々の心にあらはれるところの一切のものは皆、刹那刹那に変化しつつあるところの虚仮の相(現象)であります。しかしながらそれはどうしても宇宙の本態(真如)からあらはれて来るものでありますから、この虚仮の相(現象)を離れて、実在があるのでなく、現象の内に実在は現在するのであります。涅槃といはるる状態は永久性の実在でありますから、時間空間の制限を離れてすべての現象を直観するときには実在性があらはれるものであります。それがすなはち涅槃といはるるものでありますから、まだ生きて居つても涅槃に入るといふことは出来ます。弥陀教で涅槃に入るといふことは、肉体が滅亡した後(死んだ後)であるとするが正当でありませうが、しかしながら「有漏ノ穢身ハカハラネド、心ハ淨土ニアソブナリ」の心持になることが出来ます。(大正十四年五月)  地獄極樂に就て  問 地獄及び極樂といへることにつきて或る仏書には地域を有する場所あるが如く説明するものあり、或は別にその場所があるのではないと説明するものあり、或は地獄極樂とは死後に行く場所ではない、人間界にて心に苦悶するを地獄といひ、清浄なるを極樂といふのであると説明するものあり、この地獄極樂といへるは仏教にては如何に説明するものか、なるべく詳細に平易の言辞にて御教示ありたし。  答 地獄極楽といふところは死んだ人が往くべき場所であるものとして印度の古い時代にいはれて居つたのであります。もとより仏教以前の考でありまして、たましひといふものが死したる人の身体をはなれて地獄か極樂かに行くものであると考へられて居つたのであります。「我」といふ独立の存在を信じて居つたのでありますから、さういふ考があつたのは無理もないことであります。しかるに釈尊の仏教では「無我」といふことを主張して、人が死してたましひが何処かに行くといやうなことは考へられぬやうになつたのであります。釈尊の仏教では、「我」といふ独立のたましひが死後に生存するのではなくして業(カルマ)のはたらきによりて死して又生まれ、生れては又死する、いはゆる生死の苦界を流転すると説くのであります。  ところが、その道理を通俗的に説明するために地獄極樂といふ言葉がしばしば用ひられて居るのであります。しかしながら言葉は同じことでもその意味は仏教以前の地獄極楽とは全く相違したるのであります。人が死しても何処かに行くべき独立のたましひがないと説くものでありますから、地獄極樂と言つたところが仏教以前の説にあるやうな地獄極樂でないことは明なることであります。  しかしながら宗教感情の上からして我々が死んでから行くべき場所を予想することも出来ますから、この場合には極樂は西方でここから十萬億仏土を離れたところにあるといふのであります。それは宗教感情の上でいふことでありますから別に定まつた土地を指しているのではありませぬ。又さういふ場所が真に存在して居るか否かを詮索するの必要もないことであります。「大無量壽経」や「観無量壽経」などに西方の極樂を説いてあるのは全くこの宗教感情の発露を記したものでありますから、西方といつてもただ我々が西方と指すのでありまして、この世界を離れて東西南北はない筈であります。宗教感情によりて我々が死して後に帰趣すべき場所を考へることは出来る訳でありますから、それにつきて地獄極樂を一定の地域のやうに説明しても差支はありませぬ。またさう説明したものもあります。  しかしながらそれがただ宗教感情の上のことで、実際にさういふ地域のないといふことは「究竟虚空の如く、広大にして辺際なし」と説いてあるのを見て知られます。地域あるが如くにいふのは宗教感情の上のことで、それが地域のあるものでないといふのは理論上にさう説くのであります。決して兩者が矛盾して居るのではありません。  さういふ訳でありますから、地獄極樂は死後に行くべきところではなく現在の心の相が地獄であり或は極樂であると説くことも出来るのであります。善導大師の「般舟讃」に「厭へばすなはち娑婆ながく隔たり、忻《よろこ》べばすなはち淨土に常に居せり」とあるのはすなはち現在の心の中に地獄と極楽との有様を見ることをいふのでありまして、日蓮宗などで娑婆即寂光土といふのは全くこの意味であります。地獄とか極樂とかいふ地域がたとひ有つたとしても、宗教として考へる場合、それが現在に生きて居る我々の心の上にはたらきをあらはさねば何でもないことでありますから、宗教の意味にていふときは地獄といふのは穢土の相、極樂といふのは浄土の相であるとすべきであります。  なほそれを徹底的にいふときは、地獄に落つるとは我々の心の相の醜悪なることをいひ、極樂に往くとは我々の心にて造りたる娑婆を離れて仏の心にて造られたる浄土に生まれることであります。(大正十四年八月)  浄土の実在。  問 現代科学の発展は吾人の予想以上にして、既に世界各国は幾千里の山海を隔てながら「ラヂオ」放送によりて吾人は居ながらにして肉声を聞き得つつあり、古昔より宗教家は、死後浄土があるなどと説いて居るが、彼等の言ふが如き教説が果して実在すれば人間を超越したる覚者が「ラヂオ」放送で、その居所を人間界に報ずる位は容易に出来る筈であるが、しかし此の如き事の不可能なるを考へても浄土の実在は信ずべきものではないと、動もすれば反駁するものがあり、此の如き問題はいかに解決すべきものなりや愚問ながら御教示を願ひたい次第なり。  答 死後浄土の実在といふことにつきて先づこれを説明するの必要があります。ここに実在といふのは単一なる現実の意味ではなくして、形而上学的の存在であります。苟も思惟せられ得るところの一切の事物に共通なる賓辞としての有りの意味でありますから、死後淨土といふ事は、我々が死したる後に、我々のたましひが行くべきところであるといはねばなりませぬ。むしろ行かねばならぬところであります。それが有りと言つても、我々の眼の前に現前するものであるといふ意味ではないのであります。  これを外の言葉にて説明すれば淨土は無為涅槃界であります。それが西方にありとするは、我我の宗教的感情の発露でありまして、円るい世界の上で西方とすることも一定の方位を指すものでないことは言ふまでもないことであります。この世界の上で、我々が西方を望みて、そこに浄土がありとすることは、何れの地方の人の間にも行はれることでありまして、日の入る方が我々の死後の世界のあるところであるやうに思はれるのは人情の常でありませう。  それにしても、死後浄土の実在は、結局、我々の精神作用の将来を指して言ふものに外ならぬものでありまして、全然精神的のものであります。それを物質的の現実と考ふるところに、大なる誤が存するものであります。  言ふまでもなく、宗教は我々の精神の上の問題でありまして、早く申せば、我々のたましひの赴むくところが、我々が現に目撃するやうな物質的の邦土であるといふことは恐らくは常識にても考へられぬことでありませう。不可思議の仏の浄土に赴むくのでありますから、それは必ず不可思議の仏の願力による外はないのであります。全体が精神の世界の事を説いて居るところの仏教に、ひとり浄土のみを物質的の世界とすることは無い筈であります。  しかしながら、さういふ風に、浄土の実在を説明しますと真ぐに、それを我々の概念にて、造り上げるところの幻想の世界であると誤解して、それに対して抗議する俗輩が多いのであります。これ等は宗教といふ精神のはたらきが如何なるものであるかといふことを理解せぬものでありまして、共に論ずるには足らぬものでありますが、しかもさういふ俗論も広い世の中ではそれで通用するところもあるのであります。  兎も角も、実在と言つても、物質として我々の眼前に現存するものではありませぬ。どこまでも精神的のものに外ならぬものでありますから、それを現実の邦土のやうに考へることは間違ひであります。淨土は仏の心にて造られたる邦土であると説明せられて居りましても、仏の心にて造られたる世界は、仏の心でなくてはなりませぬ。仏の心の世界が時々我々の心にて見聞するところの邦土と同じやうでないことは言ふまでもないことでありませう。(昭和六年九月)  問 浄土の実在につきて御教示を得ましたことを感謝致します。浄土といふのは形而上学的一切事物に共通なる賓辞としての浄土である。吾人が目前に現存するやうな物質的のものではなく、精神的のものであるといふ御説明のやうに拝承して居ります。しかしながら御説の如く、浄土は仏の造られた涅槃不可称不可説の境地でありますから、我々の言葉にも想像にも及ばぬところでありませう。さうとすれば徹頭徹尾絶対的物質的でないと断言は出来ないと思ひます。浄土に往生した暁に於て始めて其感の形状はわかるので、現在の我々は全然わかるものではないと思はれます。  我々が現世及び来世を通じてたましひの落ちつき処に就ては、思慮分別一切を離れたとき、即ち仏に一切を全託したとき、浄土に赴くか、又我々の未知の世界に人間性を受くるやもわからぬと言つて可なりではないかと思ひます。従つてその赴むく所に於ても主あれは必ず精神あり、精神あれば必ず自から行為が現はれるのは当然でありませう。しかるに浄土に赴むいて後、すがたを見せない。又通報も出来ないといふにつきては仏教は信ずべきでないと反駁せられるに至るのであります。これにつきて如何に解釈すればよろしいか。御説明を願ひます。  答 往生するといふことを普通の意味にて考へるために、さういふ問題が起るのであります。浄土に往生するといふことは、仏の心の国に生れるのでありますから、これを他の方面から申せば最早、煩悩の世界に生れぬことをいふのであります、この煩悩の世界を離れるのでありますから全然死にきることを指していふのであります。凡夫の常の考によりて、往生するといはれるのでありまして、決してこの世にて我々がいふところの生ではありませぬ。この事は仏教にてはくはしく説明せられて居ります。  しかるに、宗教の上にて、常に淨土は死後に我々が赴くところであるといふのは、我々の感情の要求を客観化するものでありまして、現実に我々が持つて居ると考へて居るところのたましひの将来を考へて、超越の世界を想定するがためであります。この事につきては本誌前號から本號にわたりて、宗教の心理のことをお話致して居るところに稍々くはしく説明してありますから、それを御覧下さるやうに願ひます。  何れにしても、浄土に生れてこの世に居るときのやうな精神があるものとするのは決して正当の思考とは申されませぬ。(昭和七年二月)  問 重ねて御面倒をお願ひ致し恐縮致しますが、左記の事項につきて御教示をお願致します。たましひの落ち著き所があるとの御説を拝承して居りますが、その落ち著き所より吾人に対して通信連絡が出来ねばならぬに、それが不可能なるがために、仏教所説を反駁せらるるにつき、その不可能なるは如何なる理由であるかと質問致したのであります。質問の仕方が不徹底であつたためか、ハツキリとお答の得られぬのを遺憾に思ひます。兎も角、質問の要点は、例へば甲の人は死す、乙の人は此世に生存して居る。その甲の人と乙の人との間に通信の不可能なることの理由を御説明お願ひ致すのであります。  答 御質問に対して、ハツキリとお答致した積りでありましたが、更に御質問に対してお答致します。先づ淨土が実在するといふことから申し上げませう。宗教の意味にて申す淨土の実在は前にも繰返して申した通ほりに、精神的のものであります。精神的のものといふ意味は、我々の思考の内容であるといふことであります。早く言へば、我々が浄土ありと考へるのであります。しかしながら、尋常の思考と異なりて、その根本に宗教的感情が強くはたらいてゐるために実在性が著しくあらはれて居るものであります。我々が現に目撃するものよりも一層その実在性が強く感知せられるものであります。  さうして、その浄土は、我々が死して後に行くべきところ(若しくは生れるところ)であると考へられるところでありまして、つまり我々のたましひの落ちつくところであります。  此の如き精神的存在に、個人的の身体や、個人的の精神が存在するものであるという思考は、哲学的に精練せられたる宗教的観象には決してあらはれることのないものであります。幼稚の宗教にありては、此の如き場合にも、個人的身体及び精神の他界に於ける存在を考へて、しかもそれを実在化することもありますが、それは思索の不十分なる人々の思考でありまして、高等の宗教にありては、決して此の如き実在性を認むることはないのであります。  從つて、死したる人と生きて居る人との間に談話などによりての交通が出来る道理は断然ありませぬ。御質問のやうに浄土に居るものと此世に居るものとの間に通信が出来さうなものであると言ふのは、第一に浄土の何物たるやを十分に理解せぬのであります。第二に我々人間のたましひを目に見えざる物質、たとへばラヂウムのやうなものであるとの独断に本づくものであります。(昭和七年四月)  浄土に就て  問 神も仏も浄土も精神的のもので、実在的のものでないとの御説を拝聴致しまして、これに依つて考へますると、宇宙間には吾人を救済する一種名状すべからざる最大偉力が存在して、それより無限の活動を起し、自然的に吾人を向上せしめて居るもので、たとへば草木が知らず知らずの中に太陽の光線や雨露に遇ふて成長すると同様の現象であるが、吾人はその偉大なる救済に浴して居るといふことを感ぜしむる活動力を仏と称へて居る。これは仏といはふが、神といはふが、各人精神の持ちやうによりて異なつて居りても、教育を脱線して居ない限りは既に吾人は自然的に助かつて居る。又浄土といふのは因果応報に由る、此の現実をば宇宙無限の大偉力によりて、苦境を脱せしめられるものであると聞得したるとき、ここに始めて前途安らかなる精神を抱くに至る。即ちこの心持を浄土といふのである。さうしてこの心持は死後、継続して、ここに最高の位置を得ると感ぜられる。而して、この死後最高の位置たるや他界であるか、将た人間界であるか、全然わからぬ。全体死後の意義は何れへ落ちつくのでありますか。御教示を願ひます。  答 我々の意識は、身体が無くなると共に消滅するものであります。身体が全く無くならないまでも、この機能が一部分で無くなる場合、たとへば麻酔中にも一時的に意識は無くなるものである。又脳卒中の如き脳髄の一部を傷つけてこの機能を失はしめるときに意識は無くなるものであります。これは誰人でも知つて居る事実でありませう。それ故に、意識が我々の死後に全く無くなるといふことは疑のないことであります。  宗教といふものは固より此の如き意識の継続を望むものではありませぬ。又さういふことにつきて考へることも宗教の領分ではありませぬ。固より、意識が我々の身体の機能によりてあらはれるものであるといふことは、我々の現在の知識に本づきて言ふのでありますから、この知識があてにならぬといふ論法よりすれば、死したる後に意識がどうなるかわからぬといふの畢竟同一の意味であります。どちらにしてもさういふ意味の死後の問題は到底我々にはわからぬことでありまして、それがわかつても致方のないことであります。釈尊は弟子に向つて、さういふことは道を得るためには何の役にも立たないと言つて居られるのであります。  問題となるのは、我々の現在の意識の世界にありて、我々の生命が、未来どうなるかといふことであります。既に過去があり、又現に現在があるものでありますから、未来はどうなるかといふことが宗教の上に考へられるのであります。過去といふも、現在の意識の内容としてのことであると同じやうに、未来といふも現在の意識の内容としては、我々には宗教の意味があるのであります。早く言へば、我々は我々の未来につきて、どういふやうに考へるかといふことが重要の問題であります。  そこで死して後に浄土に生れるといふ宗教上の思考があらはれるのであります。さうして、この浄土は我々の思考の及ばぬ世界、仏の国であると考へられるのであります。我々の思考の及ばぬ世界といふのは、我々の妄念を離れたる世界でありますから、それが何処にあるか、どういふ処であるか、すべて我々にはわからぬ筈のものであります。しかしながら、我々は我々の宗教感情によりて、それは我々を摂取して捨て給はざる仏の国であると信ずるのであります。信ずると言つても、さう確信するのではなく、たださう感知せられるのであります。それ故に、ただそれを不可思議と仰ぐのみで、それにつき彼此の詮議をすべきではありませぬ。(昭和七年十月)  仏  慈悲といふことに就て  問 富士川先生、御著述の「真宗」の第百六十頁に於て、自然現象の事々物々、皆これ弥陀の大慈大悲の顕現の外なきなりと感得すべしとの御説、萬々斯くあるべきこととは存じ居り候へども、地震、落雷、飢饉、水害等の自然現象と弥陀慈悲心の顕現たる諸有恩恵とは如何なる関係の存するものに候哉。  又弥陀慈悲心の顕現せる恩恵が、若しもそれが如来の慈悲心の現はれたるにあらずとせば、個々の恩恵はあるにせよ、此の如く無数無量の恩恵のあるべき筈なしとの御説に対して、天災の有る限、無数無量とはいはれざるやうに考へ候、且つ又、自然の種々の恩恵を如来慈悲心の顕現にあらずとせば、個々の恩恵はあるべきも、此の如く無数無量の恩恵のあるべき筈なしとの御説は、独断の如くに思惟致し候、御多忙を顧みず、拙き事を申上げ、御手数をかけ甚だ御迷惑とは存じ候へども、御都合のよき時に御解答下され候はば誠に滿足の至に御座候。  答 我々にして、若し自己の真相を内観するときは、自己が此世に生まれたることから、今日まで生命を続けて居るといふことに至るまで、全く我々の周囲に存する所の不可思議の現象のお蔭であるといふことに気がつく。これ畢竟この不可思議の現象が深く我々の心の内奥に入りたるがために、我々が覚醒せられたのであるが、それによりて我々は周囲の事物に対してその恩恵を感ずることが出来るのである。既に周囲の事物の恩恵を感ずることが出来れば、それより思惟を深くして、この根本たる如来の恩恵を感ぜずには居られぬ筈である。このことは貴下も私と同じ考へで、萬々斯くあるべしと言つて居られるのであるが、しかし、貴下の御考では私が言ふやうに自然界のすべてのものを如来の慈悲の顕現と見ることは如何であらうかと、そこに疑を存して居られるやうであります。すくなくとも、地震、落雷、飢饉、水害等の天災をも如来の慈悲と見ることは如何であらうかと言はれるやうであります。  なるほど、凡夫の心の浅間しさには、たとへば旱魃《かんばつ》の時に雨が降り、蒸し暑い時に凉風が吹くといふやうな、自分の心持に快く覚ゆる場合には、これを慈悲と感ずることは誰でも出来ることでありますが、それに反して、たとへば旱魃《かんばつ》の時に晴天や、蒸し暑いときに風が無いといふやうな苦しい場合にも、それが慈悲であると感ずるのは容易ではありませぬ。しかしながら地震、雷、飢饉、水害等が自然現象の一として、宇宙の発展に於ける個々の作用であり、その個々の作用はすべて統一的に同一の目的、即ち宇宙の発展のために現はれるものでありとすれば、それが、たとひ我々には都合が悪るく感ぜられる場合でも、他の自然現象と同じく、その中に、如来の慈悲を認めねばならぬのであります。天災といふ名称は、人間が自分勝手のためにつけたものでありますから、その名称から考へれば慈悲とは思はれませぬ。同じ雨でも、自分に都合のよい時は善い雨といひ都合の悪るい時には悪るい雨といふ我々でありますから、天災といふことが、全く自分勝手から出たことであるといふことは疑のない次第でありませう。  如来の慈悲は無縁の慈悲、平等の慈悲でありますから、我々が喜ぶときにも、哀しむときにも、乃至は地震にも、雷にも、飢饉にも、水害にも、常に如来の慈悲が顕現して居ると考へねばなりませぬ。たとへて言へば、小児が菓子を望むとき母親がその小児の胃を害することを心配して、菓子を与へぬのは、固より親の慈悲でありますが、その小児は定めて苦痛を感ずることでありませう。かるが故に、我々が苦痛を感ずることの中にも、我々は如来の慈悲を拝まねばなりませぬ。私は世の人々が天災として苦痛を感ずる場合にも、これを如来の大慈悲の顕現と見ねばならぬと信ずるのであります。  貴下は、天災を以て如来の大慈大悲とは見るべからざるものと考へて居らるるやうでありますから、無数無量の恩恵といふことを非難せらるるのでありませう。しかし私は前に申したやうに、自然界のすべての事物や現象の中に如来の大慈大悲の顕現を認むるのでありますから、それで、これを無数無量といふのであります。地震や、雷や、飢饉や、水害などは、固より我々に恐怖の心を起さしめ、苦痛、不快を感ぜしむるものでありますが、しかしながら、此の如き天災によりて我々は始めて諸行無常の真理に覚醒する場合もありませう。又これによりて其他に何等かの訓戒を得る場合もありませう。或は又、これによりて自重自愛の念を増すこともありませう。故に、これ等の天災の中に如来の慈悲を認むることは、自己を内観することが深刻である以上、何人と雖も、必然到達すべきことでありませう。  若しこれに反して、我々が自分に都合のよく感ぜられることだけを慈悲とするならば、それは隨縁の小慈悲でありまして無縁の大慈悲ではありませぬ。如来の慈悲はどこまでや大慈大悲でありまして、無縁平等のものでありますから、私は自己を内観することを深刻にして、その無縁の大慈悲を感得すべしと申すのであります。(大正九年四月)  自然法則と法蔵菩薩因位の願行とに就て  問 慈悲といふことに就て、前號の紙上に、くはしい御説明がありまして、よく瞭解しました。しかしながら御説の如く自然の力を慈悲と感ずるにしても、彼の法蔵菩薩の因位の願行、即ち法蔵菩薩が出現して、五劫の思惟、永劫の行業、みな我等凡夫に代りて、我等がための願行をせられたといふことと、この大自然の力と如何に関係して居るものでありませうか、私の心の中を率直に申せば私は、大自然の力(真如の活動)はこれを力として感ずるが、それは私が救済せられる所以とは思はれませぬ。私の救済せられるのは矢張り願行成就の南無阿弥陀仏によるもので、これによりて「五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり」といはれた聖人の御言葉に共鳴することが出来るのではないかと思はれます。なにとぞ御教示を願ひます。  答 貴下の御言葉によると、自然の力を力として認めることは出来るが、しかしそれは理論の上でのことで、それを認めるといふことが、如来の慈悲を感ずることにはならぬとの御考のやうであります。斯の如き類の質問は、たびたび提出せらるるもので、現に広島県の某氏からも「法蔵比丘出現、五劫の願、永劫の行業、皆我等凡夫に代り、火の中に幾萬年、毒の中にも幾千年云云、右は今日拝承せる大自然=宇宙靈妙なる活動=法性=真如等の如きと如何に関聯せる具体的法語に候哉」との質問も来て居りますが、この某氏の質問も貴下の質問と略ぼ同様のものであると考へます。  先づ、自然の力といふことを説明せねばならぬ。ここに自然の力といふのは我々の周囲にある事物の奥底に存するところのもので、これを自然の法則といふも、宇宙の大法といふも、若しくは真如、法性といふも、つまる所は同一のもので、実に不可称・不可説・不可思議のものであります。この自然の力、即ち真如・法性から、宇宙のすべての事物が顕現するのであるから、仏教では一切衆生悉有仏性と説くのであります。從つて私が前に述べた通ほり、我々は自然界のすべてのものの中に、如来の大慈大悲を拝むことが出来るのであります。  貴下が自然の力を力として認むることが出来るといはれるのは自然の力といふことを抽象的の概念として知ることが出来るといはれるのでありませう。もとより自然の力といふことは抽象的の概念であります。而して抽象的の概念たる真如・仏性は、我々の理性を滿足せしむるのでありますから、理智の宗教では、この抽象的の概念を仏として、これを景仰するのであります。仏教の理仏といふのは即ちこれであります。しかしながら我々の感情にては、この抽象的概念たる真如・仏性と合一するといふやうな理論に滿足することは出来ませぬ、理性として自然の力を認めるも、感情としてその救濟を仰ぐといふことを得心と貴下が言はれるのは当然であります。どうしても抽象的概念たる真如から、具体化せられたる或物が我々の心の中に現はれない以上は、我々は我々の宗教的欲求を満足することが出来ぬのであります。  此の如き、自然の要求によりて、我々は神仏の観念を自然から離して、人格の姿にするのであります。これ畢竟、神仏が物質でなく、抽象的概念であるためで、つまる所、不可称、不可説、不可思議のものであるからであります。神仏の概念を自然から離して人格の姿にするといふ意味は、抽象的概念たる自然の力(真如・法性)から、具体化せられたる或物が我々の心の中に現はれることで、その具体化せられたる或物が即ち方便法身の阿弥陀如来(即ち南無阿弥陀仏)であります。  真如の理仏から、具体化せられたる南無阿弥陀仏(如来)が私の心の中に現はれる有樣が、法蔵菩薩の因位の願行で示される。私一人のために法蔵菩薩が思惟を深くし、苦行を修めたる後、遂に南無阿弥陀仏を成就して、私をしてそれに隨順せしめたまふといふことを知りて、私はそれを救主と仰がざるを得ぬのであります。故に南無阿弥陀仏は抽象的の概念ではなく、それから具体化せられたるものが、私の心の中に現はれたのでありますから、私の心はそれによりて救はるるのであります。まことに「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり」と感得せられるのであります。  此の如くに、我々が具体的の或物を我々の心の中に受けることを得るのも、畢竟、自然の力のはたらきでありまして、不可思議の力が若し無かつたなら、この方便法身の如来もまた現はれることはありますまい。されば、これを「真如より来り生ずる」の意味にて如来と名づけるのであります。これを他の言葉にて言へば、不可思議なる自然の力の一部を、我々が觸れ得るもの、それが如来である。故に、如来は衆生に対して幾度も顕現したまふもので、法蔵菩薩と名のりたまひたるは我々に対して顕現したまひたるのである。されば、法蔵菩薩が成仏したまひしよりいまに十劫を経たりといふことであるが、もとより久遠のむかしからの仏に相違ないのである。この辺の所をよくお考へを願ひたい。(大正九年五月)  理仏と事仏  問 小生は今日まで法身仏(理仏)の有ることは信ずると共に、方便仏(事仏)の実在をも信じ居申候。正邪御示下され度候。  答 法身仏といふは真如の理仏で、その理仏が衆生濟度のために真如より形をあらはし玉ふのが方便法身仏であります。我々はこれを如来と仰ぐのであります。貴下が方便仏の実在を信ずるといはるるは正しいことであります。方便法身仏は人格をあらはして我々に対して下さるのであります。  大きい力  問 実は私、從来にも多少は感じないでは無かつたのでございますが、最近に至りて、ますます人間なるものの淋しさと浅間しさを、最もあざやかに覚えてまゐりました。これ等のことを考へましては殆ど堪へがたいまでの苦痛を感じて居りました。いらだたしい心に段々荒み行く自分の心を自から救ひたいと思ひましては、薄弱な力を以てこのたたかひに毎日苦しみて居りました。畢竟するに自分の精神修養が足りないせいだと思ひまして、進むで修身の講話を聞き、出来るだけ自分の心を責むるものにぶつかりたいと願ひ、いろいろ力めましたが、心に喜びを滿すことは出来ませんでした。所が「出家と其弟子」を拝読して、この書物の中から一とつのことを見出しました。「すべてはまだまだ忍ばねばならぬ、赦さねばならぬ」これまでも自分には随分忍むでまゐつた積りではございましたけれども、まだまだ忍んでゆかねばならぬ、何だの斯うだのと申した所でより以上の力で、如何ともすることの出来ない、これだけの人生なのだ、殊にその中に、最も小さい弱い私なのだ、僅かのさだめの間にお互は赦しあはねばならぬ、大きな心ですべてを見ねばならぬ、とおそまきながらに気がつきました、まだ時折は真剣になつて、囚へられた苦しみも致すのでございますが、やうやくにさめかけました、この心を何とかして大きく育ててゆきたいと願つて居ります。しかし私にはまだまだ大きく心のよりどころが他にあるやうに思はれまして至方がございませぬ。それは信仰といふものでございませうか、何んだかすべてが淋しいやうに思はれて致方がございませぬ。  答 人間の淋しさと、浅間しさとを痛切に感ずるやうになつたとの御言葉、また御若い女性の御身として、斯くまでに人生の孤独と悲惨とに目が醒めて、その苦痛から解脱しようといふ御考の起つたことは、誠に結構といはねばなりませぬ。此の如き考の起るのは畢竟、自己の真相に目が醒めたのでありまして、宗教的に言へば如来の光明に照らされたのであります。  あなたが、人生の孤独と、悲惨とを感ぜられたといふことを、一面から見ると、感傷的なる性格に本づくと言ふのでありませう。人間の苦痛を感じて、自からこの心を救はむとすることは決して無頓著の性格のよくする所ではありませぬ。しかしながら、これを性格に本づくとした所が、その性格がどうして生ずるものか、何が故に感傷的であるかといふ疑問の最後の解決はつきませぬ。遺伝や身体の構造や環境の影響等によつて性格は成立するとしても、何が故に感傷的であるかといふことを説明することは出来ませぬ。それ故に、性格が感傷的であるがために、人間の無常を痛切に感ずるとしても、それは必ずより大なる力のあらはれであると考へねばなりませぬ。より大なる力のために、斯く考へさせられるのであると考へねばなりませぬ。より大なる力とは何であるか、それは畢竟するに自然の不可思議の力であると言ふより外にはありますまい。我々の心も、必ずこのより大なる力の一部分である筈であるから、我々が自分で考へたと思ふことも要するにこのより大なる力のために、斯く考へさせられたのであります。自分が悧巧で、ひとりで考へたと思ふのは、まだ十分に自己の真相に目が醒めぬのであります。より大なる力といふのは、畢竟するに、自然の不可思議なる力であります。それに対して我々はまことに小さくして且つ弱いものであります。從つてそれに抵抗することは出来ぬといふ考からして、あなたの言はるる「忍ばねばならぬ」といふ言葉が現はれたのでありませう。それから考が進むで、小我を捨てて大我に帰入せねばならぬといふことに到達するでありませう。あなたが、「大きな心ですべてを見ねばならぬ」といはれるのは即ちこれと同一の意味でありませう。人体を小宇宙として、大宇宙の模型であるとすることは西洋でも東洋でも昔時から多くの人が言つたことであるが、宇宙を大我とし、自己を小我とし、それが互に対立して居ると考ふるときに、より大なる力が宇宙であると言はるるのである。大我の宇宙と、小我の自己とが対立して居るから、我々は抵抗することの出来ない宇宙に対して忍ばねばならぬといふ考が起るのであります。これは全く我を哲学的に見て居るのであります。我を離れて我といふ概念を取扱つて居るのであります。  平易に言へば、我といふものを常住不変の独立個体のやうに考へて、それがひとりで思考したり、又いろいろの行為をしたりするのであると思うのが、我々の常であるが、事実はさうでなく、我といふ意識は、我々の身体によりて、周囲の事情から起るものであります。それ故に、我々は我と考ふる自己意識の外に、我々の周囲に存する所の自然の不可思議の力を知らねばならぬ。その大なる力が我々の思考の根本となるものでありながら、我々はそれを意識せずして、我といふものに執著して居るから、自己の真相が十分に認められぬのであります。  此の如くにして、小我は大我の一部分であるといふことがわかる筈であります。しからば大我に抵抗することが出来ぬかといふやうなことではなくして、我々は必ず大我に隨順して行かねばならぬことであります。我々は固より小さくして且つ弱いが、しかしそれが大我の一部分である以上、大我はそれを摂取して捨てることは無い筈であります。むしろ小さくして且つ弱い所の小我のために、大我はこれをその中に摂取することに努力するのであります。故に、我々は「忍ばねばならぬ」のでは無くして「好みて忍ぶやうにせしめられる」のであります。  「我々の力では如何ともすることが出来ない、これだけの人生である」といふことは、いかにも自暴自棄の悲しきものであるやうに考へられます。不可思議の大なる力に順応して行く所に我我の生活は愉快であると感ぜられます。人生は決して悲観すべきものではありませぬ。それを自己意識の内容の不愉快なる場合に、自己意識の根本を顧みずして、我々は力が小さくして且つ弱いから、より大なる力の助けをかりて、その苦痛からのがれやうと望むのは、功利的の甚しいものでありまして、此の如き自己を中心としたる功利的の望の満足を得ることはありませぬ。  これを宗教的に言へば、大なる力は如来であります。如来は常に我々を助けんとしつつあるのでありますから、我々は我を離れてその命に從ふべきであります。そこに精神上に自由の別天地が開かれて来るのであります。これによりて我々は自然法爾の大道をふみつつ、自由にして且つ愉快なる生活をなすことを得るのであります。(大正九年十月)  信仰の対象に就て  問 「法」といふ雑誌の三月號に或る求道者の質問に対して、松島勘学の答に斯様な事が書いてあります。問ふて曰く、私は宇宙の大真理を信仰して十劫の如来を認めません、即ち久遠の本体の智慧と慈悲とを円滿せる偉大なる絶対の弥陀である云々。これに対しての松島勘学の答に曰く、久遠の真理は法界に遍満して真ならざるはなし、左すれば無差別の智慧が起る筈である。差別の智慧で無差別を知ることは出来ぬ、云々、久遠は智慧門、十功は慈悲門なり、直ぐに久遠の真理を対象とすれば浄土の法義とは大違ひである、古来の大徳すら聖道眼を以て浄土を過り、云々、三経の淨土は厳然として西方に実在すとて、善導大師「定善義」の文を引き、何処までも十劫の弥陀を信仰の対象とするが浄土門の実義であると、縷々評細に説明してありますが、先生の説明とは多少相違して居ると思ひます、如何のものでございませう。  答 某氏が宇宙の大真理といはるるのは、宇宙の本態を指して言はるるのでありませう。宇宙の本態はすなはち仏教にて真如といはれて居るのでありますから、某氏は真如の真理を信仰するといはれるのでありませう。これは正しく釈迦教で説くところでありまして、真如の真理を体得したものはすなはち仏陀であります。この場合にありて、仏陀は無上の理想で、この理想を実現せむがために修行せねばならぬのであります。言葉を換へて言へば、真如の真理に順応してその真理を自分の心の上に証り現はすことによりて我々は仏陀となることを得るのであります。馬鳴菩薩の「大乗起信論」に説いてあるところはすなはちこの方面の仏教で、その考は全く哲学的のものであります。某氏がこの宇宙の大真理を信仰するといはれるのは無理のないことであります。私もこの真理が仏陀であるといふことは信じて居ります。しかしながら、これは我々が信ずるとか、信ぜぬとかといふやうなことでは無くして、苟も仏教を奉ずるものが認めねばならぬところの原則であります。それ故に親鸞聖人も「涅槃ヲバ滅度トイフ、無為トイフ、安全トイフ、常樂トイフ、実相トイフ、法身トイフ、法性トイフ、真如トイフ、一如トイフ、仏性トイフ、仏性スナハチ如来ナリ、コノ如来、微塵世界ニミチミチテマシマス」(唯信鈔文意)と述べて居られるのであります。  斯の如く仏教では宇宙の本態を真如とするのでありますから、この真如に帰命するといふところに宗教が成り立つのであります。弥陀教といへども同じく仏教である以上、この原則を離れることはない筈であります。浄土門の教にて説くところも宇宙は我々をしてその本態たる真如に帰らしめむとするに外ならぬものであります。しかしながらたとへば馬鳴菩薩のやうにその人の哲学がすなはち宗教であるといふやうな上根の人でない限り直に真如の大真理を信仰の対象とすることは出来ぬことであります。真如即ち久遠の真理を哲学的に認めることは出来ます。又その真理を信ずるといふことも出来ます。しかしながら、それは抽象的のもので、ただ知ることを得るだけのことであります。この場合にありては、真如といふも、宇宙の大真理といふも、皆抽象的の概念でありまして、この抽象的概念を仏教では理仏といふのでありますが、この理仏は到底我々のやうな下根のものの信仰の対象となるものではありませぬ。某氏が宇宙の大真理を信ずるといはれるのも、つまるところは哲学的に考へて、我々は宇宙の真理に支配せられて居るものであるといふことを覚られただけのことでありませう。若し真に宇宙の真理の支配を受けて居るといふことが感ぜられたとすれば、従つてその広大無辺なる恩恵が感ぜられねばならぬ訳であります。この広大無辺なる恩恵の感ぜられるといふことは、どうしても抽象的概念たる真如(久遠の真理)からして、具体化せられたる或物が我々の心の中に現はれるのであると考へねばなりませぬ。これがすなはち阿弥陀仏であります。親鸞聖人が「法性法身トマウスハイロモナシ、カタチモマシマサズ、シカレバココロモオヨバズ、コトバモタエタリ、コノ一如ヨリカタチヲアラハシテ方便法身トマウス、ソノ御スガタニ法蔵比丘トナノリタマヒテ云々」(唯信鈔文意)と述べて居られるのは全く此の意味であらうと思はれます。それ故に此阿弥陀仏のことを説明して「尽十方無碍光仏トマウス、ヒカリノ御カタチニテ、イロモマシマサズ、カタチモマシマサズ、スナハチ法性法身ニオナジクシテ云々」と述べて居られるのであります。久遠の真理は宇宙にみちみちて居ります。しかしながら我々はそれを抽象的の概念として知ることを得るばかりであります。ただ我々が自己を内省して宇宙の真理に摂取せられて居るといふことを知りたるとき、この真理が具体化して我々の心の中に現はれるのであります。これが十劫正覚の阿弥陀仏であります。仏教にていふところの事仏であります。某氏が久遠の本体が絶対の弥陀であるといはれるのは、前にもいつたとほりに、抽象的概念でありまして、もとよりこの概念に誤謬はありませぬが、それでは宗教にはなりませぬ。どこまでも哲学であります。久遠の真理がその智慧と慈悲とを我々に感ぜしめるのは、それが具体化して我々の心の中に現はれたときでありますから、それは必ず十劫正覚の阿弥陀仏(方便法身)であります。  宗教は我々の心のはたらきでありますから、真理が具体的にならねば何でもないことであります。真如の真理が具体的化するところに阿弥陀仏が現はれるのでありますから、我々の信仰の対象となるべきものはこの方便法身の如来であります。  而してこの方便法身の如来は法蔵菩薩と名のりたまひて、私一人のために苦労せられて私をして真如の真理をさとらしめむとせられるのであります。ここに我々は大満足を得るのであります。  しからばその方便法身の阿弥陀仏は何処にましますやと問へば、それは西方浄土にましますと御経に説いてある、松島勘学が厳然として西方に実在すといはれるのはこの御経に説いてあることをいはれるので、古来、浄土真宗の学者の間には指方立相といつて重大のこととせられて居るのであります。しかしながら阿弥陀仏は「大無量壽経」に説いてあるやうに現に西方にましますとしたところで、此を去ること十萬億仏土といふのであるから、我々の思慮の及ぶところではないのであります。前にも言つたとほりに、我々は抽象的の阿弥陀仏を考へて居るのではなく、阿弥陀仏が具体的に我々の心の中に現はれるのでありますから、我々は阿弥陀仏を信仰の対象とすると言つて居りますが、実際のところは阿弥陀仏の活動を信仰の対象として居るのであります。阿弥陀仏の活動といふのはすなはち南無阿弥陀仏であります。これすなはち阿弥陀仏の本願であります。故に指方立相といふやうなことは如来の本願を信ずる上にありては無益の戯論であると私は考へて居ります。この考へは正統派の学者達の説とは相違して居ります。勿論これには双方共に意見のあるところでありますから討論すれば面白いことでありませうが、南無阿弥陀仏を信ずるといふことの上には関係のすくないことであります。これを要するに、私の信ずるところは阿弥陀仏(十劫の弥陀)が私を摂取せむとして下さる本願の力であります。仏をさしのけて西方に置くといふやうな抽象的のものでなく、機法一体の南無阿弥陀仏といはるべき具体的のものであります。(大正十年五月)  阿弥陀仏に就て  問 貴著「真宗」を読みて疑問を生じました。阿弥陀仏の説明に就て、同書七八頁に「絶対真理の人格化であつて、空間に延長を有するところの個体ではない、これを人格的の仏陀であると言ふても決して人類の形体を有する個体ではない」とありますが、私は今日まで、信仰の対象物たる西方浄土の十劫の阿陀仏は形体を有する(人類の形体ではないにしても)個体であつて、場合によりては色も形もなき所謂無の身、無極の体ともある広略執れになりと融通の利く人間の想像の及ばぬ不可思議の仏体と信じて居ましたが、博士の「個体でない」との断言は想像で御座いますか、或は経文上に所拠が御座いますか、御尋ね申上ます。  答 阿弥陀仏につき、因習的の思想を離れて、自由にこれを研究することは宗教意識を明瞭にするために極めて必要のことであると考へますから、私はあなたの質問を機會に、すこしく、卑見を述べて見ようと思ひます。  全体、阿弥陀仏といふことは梵語にて無量光又は無量壽仏といふ意味の言葉で、一切の大乗経に説かれて居りますから、大乗の諸宗で、皆これを説くのであります。しかしながらその見解に至りては諸宗の談ずる所に相異があります。これ阿弥陀仏が絶対真理であるから、思考の程度及び方向の異なるによりて如何様にも解釈することが出来るためでありませう。すなはち理性を主として見れば、唯心の弥陀己心の浄土といふことになり、事相を主として見れば、娑婆界以外に浄土を立て、現在説法の弥陀を説くことになるのであります。しかしながら、唯心の弥陀といふも、浄土の弥陀といふも、その本態を究むれば、同一の絶対真理で、これを冷かなる真理として見るときに理仏となり、これを暖かなる人格として感ずるときに事仏となるのでありませう。それ故に華厳宗にありては阿弥陀仏は毘盧遮那仏と同体であるとして居り、天台宗にあつては極樂世界の阿弥陀仏は応身であるとし、真言宗にありては阿弥陀仏は大日如来の別徳を主としたものであると説いて居る。同じ浄土門の中でも、鎮西派と西山派とで互にその見解を異にし、真宗ではこれを報身の如来としてありますが、此の如く阿弥陀仏につきての見解が、諸宗にありて区々として一定せぬといふことは、畢竟するに、それが絶対真理でありて、見るひとによりてその解釈が相異するためであるといはなければなりませぬ。  それは兎も角、親鸞聖人の阿弥陀仏に関する思想は「唯信鈔文意」及び「一念多念証文」に述べられたるところを見れば明瞭であります。念のために「唯信鈔文意」に載せてある文句を引用すれば次の通であります。  「涅槃とまうすに、その名、無量なり、くはしくまうすにあたはず、おろおろその名をあらはすべし、涅槃をば滅度といふ、云云、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ、仏性すなはち如来なり、この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち、一切群生海の心なり、草木国土ことごとくみな成仏すと説けり」  これによりて見ると、真如といふのも、仏性といふのも、涅槃といふのも、如来といふのも皆同一のもので、この如来は一切群生海の心にみちて居るといふのでありますから、今日の言葉で言へば絶対真理でありませう。ところが、親鸞聖人は更に言葉を次ぎて  「しかれば仏について二種の法身まします、ひとつには法性法身とまうす、ふたつには方便法身とまうす、法性法身とまうすは、いろもなし、かたちもましまさず、しかればこころもおよばず、ことばもたえたり」  と述べて居られます。これによりて見ると、前に述べられたる如来は仏教通途の説で、さきに述べられたることが聖人の思想であると見て差支ないやうに思はれます。これによると、仏に二種の法身がありて、一は法性法身であるが、これは色もなく、形もなく、我々の考へ及ばぬところの絶対真理で、法界に遍満して居るものであります。それ故に、この法性法身の仏が或る形態を有する個体でないといふことは固より論のないことでありませう。次ぎに  「この一如よりかたちをあらはして、方便法身とまうす、その御すがたに法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の四十八願をおこしあらはしたまふなり、この誓願のなかに、光明無量の本願、壽命無量の弘誓を本としてあらはれたまへる御かたちを、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり、この如来すなはち誓願の業因にむくひたまひて報身如来とまうすなり、すなはち阿弥陀如来とまうすなり」  と述べて、阿弥陀仏は法性法身が一如から形を現はし、名を示して、報身の如来となられたのであると説明して居られます。そこで「大無量壽経」に見えて居る所の法蔵比丘が四十八願を起して修業して阿弥陀如来とならせ給ひたることを述べて居られます。さてこの阿弥陀如来が或る形態を有する所の個体であるか否かといふことが、当面の問題であります。しかしながら、それにつきては、この御経の文句の意味をよく味はねばなりませぬ。親鸞聖人は「この一如よりかたちをあらはして」とまうされ、又「弘誓を本としてあらはれたまへるおんかたちを」とまうされて居るから、形態のある個体のやうに考へられますが、更にその次の文句に  「この報身より応化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまふゆへに、尽十方無碍光仏とまうす、ひかりの御形にて、いろもましまさず、かたちもましまさず、すなはち法性法身におなじくして、無明のやみをはらひ、悪業にさへられず、このゆへに無碍光とまうすなり、無碍は有情の悪業煩悩にさへられずとなり、しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりと知るべし」  と説いて居られますのを見ると、方便法身の阿弥陀仏も矢張り、法性法身におなじくして、形態を具へたる個体でないといふことは明瞭であると私は考へます。聖人が形といはるるのもひかりのおんかたちと明かに断はつてあります。又「阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなり」と説明してあります。親鸞聖人は又、「一念多念証文」の中に同じことを説いて  「この如来を方便法身とはまうすなり、方便とまうすはかたちをあらはし、御名をしめして、衆生に知らしめたまふをまうすなり、すなはち阿弥陀仏なり、この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり、智慧またかたちなければ不可思議光仏とまうすなり、この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆへに無辺光仏とまうす」  と述べて居られます。これに拠りて見るも、阿弥陀仏はその名と、光の形にて認めらるべきものでありまして、或る形態を有する所の個体であるとは考へられませぬ。阿弥陀仏といふ名を知り、またこの光の形を見るといふ以上は、それを人格的のものとして居るといふことは無論でありますが微塵世界に充ち満ちてあるべき如来を或る形態を有する所の個体として考へることは不自然であると思ひます。殊に真宗にありて信仰の対象とすべきものは機法一体の南無阿弥陀仏でありますから、いよいよ阿弥陀仏は光のかたちでなくてはならぬ筈であります。  あなたが「広略いづれになりと融通の利く人間の想像の及ばぬ不可思議の仏体なりと信じて居る」といはれる言葉そのものを論理的に考へて見れば、それがすなはち絶対真理を人格化したもので、しかもそれが法身のこともあれば報身のこともあり、また応身のこともあるが、しかしながら法身を離れて報身や応身がある訳でなく、つまり広略いづれにも融通のきくものであると考へる以上は、それが或る一定の形態を有する個体でないといふより外はないことと思はれます。人間の想像の及ばぬものであるとする上は、ますますそれが個体であると考ふることは出来ぬ筈であります。(大正十年七月)  法蔵菩薩に就て  問 阿弥陀仏は遠き古へに、まだ仏陀となりたまはぬ前には法蔵菩薩と名のりたまふて国王の一人であつた。それが王位を捨てて出家して世自在王仏と呼びたてまつる御師匠の許にまゐりて、多くの仏陀のすみたまへる浄土の基因と、その国柄や人柄の善悪を見たまひ、五劫の間、思案して、その中からよいものを抜き取りて、この上もなき誓願を建てて、一切の衆生を救はむと思ひ立ち、段々と修行して、遂に阿弥陀仏とならせられたといふことが、むかしから説かれて居りますが、この法蔵菩薩といふ仏陀は歴史上の人物でありますか、但しは神話的のものでありますか、近頃或人の前に、法蔵菩薩のことは「大無量壽経」に出て居るところによると、世自在王仏について修行したといふことであるから、まさに一個の人間であつたであらうが、しかしこれを歴史上の実在の人物として見ることを得るか否かは疑問であるといふことであります。私にもそこがはつきりといたしませぬ。どうか御教示を願ひます。  答 宗教の上よりして見れば、法蔵菩薩は真如から形をあらはし名を示して人々をしてそれを信ぜしむるものでありますから、それが歴史上の人物として実際に存在して居つたか否かといふことは固より問題ではありませぬ。さればといつて、それが神話であるといふことも出来ませぬ。それが歴史上の人物ではなかつたにせよ、我々の心の上にあらはれて、阿弥陀仏と仰ぐべく、我々をつとめしむるところの法蔵菩薩には何等の影響のないことであります。  それ故に、私は法蔵菩薩の因位の修行として説かれて居るところの事実は、全く宗教的感情の発露であると信じて居ります。つらつら考へて見ると、宇宙広しといへども、因果の大法をはづれたものはなく、すべてのものが悉く、原因結果の法則に支配せられて居るものでありますから、我々を救濟したまふ仏陀もまたこの大法によりてこの世に現はれたまふのであります。仏陀のことを如来といふのは、真如より来生するといふ意味で、阿弥陀仏もこの真如から来生したもふのでありますが、それなれば如来は何のためにこの世に来生したまふたのであるか、それはいふまでもなく衆生を救済したまはむがためであります。しからば衆生をすくふために必要なる救済の力がなくてはならぬ、この救濟の力は因果の法則によりて、つくりあげられねばならぬ。ここに法蔵菩薩と名のりたまひて、五劫の思惟と兆載の修行とをせられる必要がある。「大無量壽経」に説かれてあるところは、まさにこの趣きであります。  斯の如くにして、我々は法蔵菩薩の名を聞くとき、阿弥陀仏は我々を救はむがために、いかに深く思案したまひしか、又いかに困苦せられしかといふことを憶ひ起して、ここに感謝の念が起り、崇敬の心が現はるるに至り、我々はここに安心生活を営むことを得るのであります。それ故に、現在の我々の心の上に現はるるところの法蔵菩薩は、我々の生命をして力あらしむるところの直接の原因をなすものでありまして、それが歴史上の人物であるか否かといふことは更に問題とすべきではありませぬ。(大正十年八月)  如来の思召  問 我々が如来の恩寵中に生活して居りながら、如来の思召に反するやうな考へや行がちよいちよい出来るのはどういふ訳でありませうか、宇宙の森羅萬象一切が如来の恩寵であり、常に如来がこの現象のうちに如来自身の思召を実現せんとしつつありながら、この思召にするやうな考へや行が出来るというのは、如来の外にまだ何かあるのではありますまいか、私は全世界ありとあらゆるもの一切がみな如来の思召であり、自己の考へや行までがみな如来の思召であると信じて居りながら、時々良心に恥るやうな考へや行のあるときにかやうな考へを思ひ浮べます。私といふものが如来の寵児でありながら、なぜ良心に恥るやうな考へや行をしでかすのであらうか、まさか如来が自分の寵児にかやうな反抗的な考へや行をさせたまふ筈がない、これは他に何か反如来内のものがあるに違ひないと、かやうな考へが時々起るのであります、こんな問題は私の目下の安心生活より見れば、それを覆へすほどの大問題ではないと思ひますが、これを哲学的に考察するときに於てたまたま起きる疑問であります。なにとぞ御高教をたまはらんことを。  答 あなたが、如来の恩籠の中に生活して居るといはれるのは全くあなたの心持(主観)でありませう。宇宙の森羅萬象一切が如来の恩寵であり、如来がこの現象のうちに如来自身の思召を実現せんとしつつあるのであるといふことも全くあなたの感じ(主観)でありませう。  あなたが此の如き心持になり、此の如き感じを起さるるやうになられたのには固よりいろいろの因縁もあるでありませうが、しかし直接又は間接に仏教の説を聴かれたといふことがその主なる原因でありませう。仏教の中でも、哲学的思索が最も進歩して居るところの天台では、諸法実相の説を立て、一色一香、中道にあらざるはなしと説くのでありますが、一色一香とは草木瓦礫山河大地大海虚空等の一切のものを指し、中道とは実相のことで、これには種々の名称もありますが、要するに真如のことであります。真如はすなはち仏でありますから、山川草木国土、一切のものがみな仏であると説かるるのであります。萬法みな真如であるから我が目の前の一塵もまた真如で三世十方の諸仏もみなこの一連の中にましますと説かるるのであります。此の如くにして理性の仏を世界一切のものの中に見るといふことは、畢竟するに哲学的思索によるもので、この哲学的思索からして、如来の恩寵の中に生活して居るという心持が現はれ、一切の現象はみな如来自身の思召を実現せんとしつつあるのであるとの感じが起るのでありませう。  それ故に、あなたが如来の恩寵を感ずるといはれることも、今一層深く考へて見ると、あなたが、哲学的思索(それをあなたが意識してなされたのでは無いにしても)によりて知られたためにさういふ心持や感じが起るのでありませう。すなはちあなたの主観であります。あなたの心の外にあらはれたるものに対してのあなたの心の内のあらはれであります。それを信じて疑はないと言はれてもどこまでもあなたの心持や感じでありますから、あなたの知識(思索)に変があるときはどう変るかも知れません。  しかるに、あなたは一切の現象をば如来の思召であると信ずる心持(主観)はありながら、時として如来の思召に背くと思はれることがあるのに気がついて、如来の外にまだ何かあるのではありますまいかと言はれますが、あなたが如来の思召に反くといふ心持の起るのは、すべてを如来の思召であると感ずるあなたの考へ方から見れば、これも如来の恩寵ではありませぬか。如来の思召によりてあなたがあなた自身に良心に恥づるやうになるのではありませぬか。如来の思召に背くか背かぬかといふやうなことは、固より我々の知り得ることではありませぬから、あなたが如来の思召に背くやうなといはれるのも、全くあなたの心持(主観)に過ぎぬといふことも勿論でありますから、あなたが如来の恩寵を信じて居られる以上、如来の思召に背くと考へられるのも、背かぬと考へられるのも、共に如来の恩寵であるとせねばならぬ筈でありませう。  私の考へでは、諸法実相といふことはもとより正当の思索であるから、一切のものが理性の仏(真如)であるといふことも異論のないところでありますが、しかしながら事実に於て、我々は一切のものを仏と見ることが出来ませぬ。たとひ一切のものを仏の恩寵であると感じたと言つても、つまり自分に都合のよいことばかりを恩寵にして、自分が苦痛を感ずることにつきては如来の恩寵を疑ふのでありますから、結局、我々は一切のものを仏と信じては居ないのであります。つまり抽象的には理性の仏と知ることが出来ますが、具体的にはそれを感じて居ないのであります。それ故に理性の仏を知つたといふだけでは宗教にはなりませぬ。宗教としては理性の仏のはたらきを我々の心の内に感ぜねばなりませぬ。理性の仏のはたらきが我々の心の内に感ぜられて起るところの心持も同じく主観でありますが、これは我々の知識(観念の作用)によらぬものでありますからそれを私は純粋主観と名づけて居ります(根本主観又は真主観と名づくべきであります)。通俗の言葉にていへば、我々が「さう思ふ」のでなく、「さう思はせられる」のであります。我々がさう思はせられるといふのは畢竟するに真如(仏性)のために動かさるるのであるから、それがすなはち如来の思召であると感ずることが出来るのでありませう。しかしこの場合にあつて、一切を如来の思召と感ずる以上は、それが如来の思召にそむくか、そむかぬかといふやうな考へが起る筈はありませぬ。  斯の如くにして、我々が純粋主観の心持となるのは真如(理性の仏)に動かされるのであり、そこに始めて我々の如来が現はれるのでありますから、我々が仏というのは方便法身の如来でありますから、一切のものが如来の思召であると言つたところが、我々が理性の仏に向つて、その思召を知るのではなく、理性の仏のはたらきが我々の心の内に現はれたるときに我々がさう思はせられるのであります。あなたが如来の外にまだ何かありはしないかといはれるのは、恐らくはこの場合の心持をあらはせるもので、あなたの心持又は感じ(主観)の外に、純粋主観があらねばならぬといふことに気がつかれたのでありませう。この純粋主観は真如のはたらきに動かされてあらはれるものであるから、我々の思慮を超越して居るので、我々はそれに絶対に信順せざるを得ぬものであるから、それを如来の恩籠と感ずる以上はすべてのものの上にその恩寵を感ぜねばならぬ訳でありませう。  あなたは如来が自分の寵児に反抗的な考へや行ひをさせたまふ筈がないから、他に何か反如来的のものがあるのではないかといふ考へが起るといはれますが、あなたが反如来的だとの考へを起されるのは畢竟するに純粋主観のはたらきでありますから、反如来的のものではなく、却つて如来の思召によるものと感ずるのが当然でありませう。如来がその籠児たる我々に反抗的の考へや行ひをさせたまふ筈がないといはるる言葉によると、我々の心の外に如来がましまして、それがすべて我々に命じたまふやうに聞えますが、理性の仏なればさうでありませうが、方便法身の如来では決してさういふことは考へられませぬ。我々が反抗的と考へるとも、それが果して反抗的であるか否かはもとより我々にはわからぬことでありますが、兎も角も、我々がそれを反抗的と感じて良心に恥るといふことは全く純粋主観に動かされてのことでありますから、我々はそれに対しても如来の恩寵を喜ばねばならぬことでありませう。(大正十一年二月)  仏と衆生との分裂  問 基督教の神学教理を素朴的に非難するものありて曰く、神は宇宙一切萬有をつくりたる全智全能のものなりとせば、何が故に、この罪悪の人類をつくりしか、解すべからざるなり、又仏教にありてもこれに似たるものあり、彼の真如は絶対平等なる本体にして、阿弥陀仏を始として一切諸仏なるも悉くこの中より来生せしむると同時に、三界の衆生なるものを造つて無量永劫の間、罪悪煩悩の下に苦しましむるは実に不可解のことなりといはざるを得ず。  若しこれを彼の馬鳴師の「大乗起信論」によりて、真如は単に実在としてあるばかりでなく、あらゆる萬有を生起せしめ、活動せしむるところの現象的性能を備へ居るものとし、これを如来蔵、すなはち阿頼耶識とすれば、この性能に覚と不覚との二義がありて、それが自覚的に活動するか無自覚的に活動するかによりて迷悟の差別を生ずるものなりと説明することを得べきも、斯の如き説明より見れば、三世十方の諸仏なるものは阿頼耶識の自覚的活動の産物とすべく、三界流転の吾人衆生はこの無自覚的活動の産物と見ざるを得ず、而して此の如き結果を起さしめたるは真如そのものの活動すること無論なれば、現実の吾人衆生は斯くして真如の都より迷ひ出でて大罪業者となつたものでありとするも、それは何のためであるか、不可解なり。  問 貴著「真実の宗教」を拝見するに、森羅萬象、一切の萬物は宇宙の大法に司配せられ、吾人も亦この大法即ち真如の一部分にしてこの真如に帰するを以つて目的とす。これすなはち宗教の必要なる所以のやうに伺がへり、果して真如より迷ひ出でたるものなれば、如何なる理由にて真如より無明即ち迷を生ずるか、御教示を仰ぐ。  答 この御質問は共に、真如よりして我々罪悪の凡夫があらはれたる理由の説明を求められるのでありますから、ここに併せて、私の考へをまうし上げませう。  それに就ては、先づ衆生と仏とが、全然別々のものでは無いとするところの仏教の思想をば一応説明せねばなりませぬ。仏教の他の経典は兎も角、真宗法要に収められて居るところの存覚上人の「題名鈔」の中に「壽命ハ一切根元ナレバ諸仏モ弥陀ノ智慧ヨリ流出シ、衆生モマタカノ壽命ヨリイデテカヘリテミナ如来ノ壽命ニ流入スベキナリ」「一切衆生悉有仏性トイヒ、心ト仏ト及ビ衆生、コノ三、差別ナシトイヘル、トモニ経文ナリ、タレカコレヲ信ゼザラン」と説いてあります。これと同じやうなことは「安心決定鈔」の中にも出て居りまして、衆生と仏と心とが全く一体のものであると論ずるのは仏教の思想であります。  基督教のやうに、全智全能の神が人間をつくつたとすれば、神と人間とは対立したものでありませうが、仏教にありては仏と衆生とはその機が別であるのみで、その理はすなはち一であるとするのであるから、仏は衆生に対立したものではなく、おなじく真如より出でて悟れるものを仏といひ、迷へるものを衆生といふのであります。それ故に、基督教を疑ふものは何故に全智全能の神が罪悪の人間をつくつたかといふ不審も起るでありませうが、仏教の方では、何が故に大慈大悲の仏が罪業深重の衆生を造つてそれをして苦しましむるかといふやうなことは問題にならぬ筈であります。仏教にありては、衆生も仏と同じく本は真如のみやこに居つたのであるが、一念の迷妄によりて真如のみやこより迷ひ出でて流転の凡夫となつたのであると説くのであります。たとへば水と波とのやうなもので、真如の海の水が無明の風によりて波を起したのが迷の衆生であり、波を起さない水が仏であるといはれるのである。道元禅師の法語に「心は本と空にして空にあらず、妙にして妙に非ず、邪正もなく、迷悟もなく、三世をなく、十方もなく、東西もなく、南北もなし、故に仏もきたまはば、迷ふが故に三界は城なり、悟るが故に十方空なり、本来東西なし、何れの処にか南北あらむと、祖師のいはく、此心をば有とも無ともいはざれ、一とも二ともいはざれ、一二有無をならべて主なし、この心は法界の心なるが故に、衆生の心といふ心もなく諸仏の心といふ心もなし、たとへば大河の水の如し、浅きところの水、深きところの水とて差別なきが如し、衆生この心に迷ふを浅きところの水にたとへ、諸仏この心をさとりたまふを深きところの水にたとふ、しかれども水はもと一なり、されば悟にも住せず、迷にとどまらず」とあるのは、よくこの点を説明したものであると思ひます。しかしながら、道元禅師はもとより聖道門の人でありますから、「萬法は心を離れず心もとより仏なり」といふの論法を本として此の如くに説かれたもので、他力の教では我心すなはち仏なりとは考へられぬから、衆生と仏とを一体のものとすることは出来ぬといふ人もありませうが、しかしながら、他力の教でも、決して衆生と仏とを離して別々のものとして考へることは無い筈であります。仏をさしのけて西方に置くのは自力の人の念仏でありまして、他力の人の念仏は機法一体であります。この場合にありて、衆生の機と阿弥陀仏の法とが合体するのでは無く、如来の心光に照らされるときは、我心を離れて仏心もなく、仏心を離れて我心無い、これがすなはち南無阿弥陀仏でありますから、他力の教にありても、衆生と仏とを一とつのものとして見て居るといふことは、疑のない次第であります。  此の如くに、衆生と仏とを一とつのものとして見るといふことは畢竟するに、唯心的一元論で、衆生といふも仏といふもみなこれを自己の意識の内容として見るのでありますから、心と仏と衆生との三つのものは差別が無いと説くのであります。それ故に、実際的に言へば、仏といふも、衆生といふも、形態を離れたる心のありさまとして、これを考へねばなりませぬ。これを心のありさまとして考へるときは、真如から衆生があらはれるといふことは、平等の真理から差別の現象があらはれるといふことで、何が故に平等の真理から差別の現象があらはれるかといへば、それは我々人間に意識があらはれたのであるといふの外はありませぬ。我々人間に意識があらはれて、認識の作用が行はれるときに、我々は我々が認識したる差別の相をその儘に実在のものであるかのやうに誤まるがために、ここに迷妄があらはれるのであります。これは我々の心の現在のありさまから考へてのことでありまして、それを真如の活動によるものとするのは仏教の信仰であります。さうして、この仏教の信仰は、迷妄のあらはれるありさまを客観的に見て、真如の活動に外ならぬとするのでありまして、我々の心の内からいふときは真如の活動が外にありて、それを感知したるときに迷妄を覚えしむるのであります。すなはち、真如の活動は平等のもので差別は無いが、我々の心の内にこれを受けて差別的のものにするのでありますから、真如が我々をして罪悪煩悩に苦しましむると考へるのは不当でありませう。  これと同一の意味にて、仏も衆生とおなじく、真如からあらはれるのであると言つても、仏と衆生とが同時に対立して、並びてそこに存在するのではありませぬ。我々人類の習性として、上といへば下といひ、左といへば右、東といへば西、苦といへばそれに対して樂といふやうに、すべて対立的に、差別して考へるのが常でありますから、仏と衆生とを対立するのも巳むを得ぬことでありますが、この迷妄の考へを離れたるところに仏は常に存するので、これを卑近の言葉にていへば、衆生は仏に対しているのであり、仏は衆生に対しているものであります、それ故に衆生が無ければ仏はなく、仏が無ければ衆生も無い訳であります。このことにつきて、平易なる事実を挙げて説明すれば、彼の水が溪間から流れ出でて、川となり、遂に海に入るまで、流れて止まないところにこの真理があります。ところが、それが岩に激して浪をなすところを見ると、随分はげしい有様でありますが、それは流れて止まないといふ真理のあらはれでありまして、決して別のものではありませぬ。静なる水も、浪の劇しい水も、共に流れて止まないといふ真理に動かされて居るものであります。  このありさまを「大乗起信論」には真如の自覚的活動と無自覚的活動とに別けて、説明してあるのでありまして、真如が無自覚的に活動するときに迷妄があらはれるとするのであります。それを私は我々の心の現在のありさまから考へて、ことに迷妄といふものは我々の意識のはたらきを指していふので、それは我々の個性があらはれたときから始まつたものであるから、我々は曠劫《こうごう》のむかしから生死の苦界を流転するものであると説くのであると説明するのであります。  しからば、此の如き意識は何が故に起るのであるか、個性はどうしてあらはれるのであるかといふ疑問が起るのでありませうが、これは到底我々の知識にて解釈すべきことではありませぬ。しかしながらそれを解釈することを得ると否とは宗教的生活をなす上には影響の無いものでありまして、我々は我々の真実の相に目が醒めて、始めて自己の罪悪を知ることが出来るのでありますから、現実のすがたをみとめて、それを説明するには、これ以上に進みて思索することは、不必要であると考へます。(大正十二年五月)  如来の三身  問 如来には三身ありて法身は全宇宙にみちたまふと聞いて居りますが、この法身の如来とは真如のことを指すのではありませぬか。しからば一片の石ころ乃至吾人の身体も亦真如でありませうから、これ等も亦法身の如来でありませう。しかしながら吾人は自己の身体や石ころなどを如来として考ふることは出来ませぬ。しからば吾人の身体だけでも法身にあらざるものが存在して居る訳でありますから、法身が全宇宙にみちて居るとはいはれぬ筈でありませう。何卒如来の三身につきて御示教を願ひます。又久遠の弥陀とは真如そのものを指すのでありますか。これも序に御説明をねがひます。  答 仏の三身といふことについて先づ仏教にて説かれて居るところを紹介するの必要があります。仏教にて三身といふのは  一に法身(一に自性身)  二に報身(一に受用身)  三に応身(一に変化身)  であります。今少しくこれを説明すれば大略次の通りであります。  法身は梵語に毘盧遮那といひ、漢語に訳して?一切処といひます。身といふのは聚集の義で、諸法を聚集して身を成すが故に斯く名づくるのであるから、法身とはすなはち法を以て身となすものである。言葉をかへて言へば、一切の法の平等の実性すなはち法性を以て法身と名づくるのである。  法性といふのはすなはち真如のことであるから、我々としては心も及ばず、言葉もたえたるものが法身であるといはねばなりませぬ。法といふ場合には山も川も草も木も皆そのまま法でありますから、しからば山、川、草、木すなはちこれそのまま法身であるかといふに決してさうではありませぬ。山も川も草も木も皆、真如の顕現でありますから、その中には法性があり、從つて、成仏するといふことは疑ひのない訳でありますが、法身といふ場合には言語を離れて、見ることも、また考へることも出来ない真如を指すのであります。山や川や草や木やの中に法身があつたにしても我々にはそれが認識せられぬのであります。山や川や草や木の中にも真如はありますからそれが仏身をあらはすこともありませうが、我々にはそれがわからぬのでありますから、山、川、草、木そのまま法身であるといふことは出来ませぬ。平たく言へば、法身とは平等の真理を指していふのでありまして、この真理は宇宙に充ち滿ちて居るのであります。色もなく、形もないものでありますから、いふことも考へることも出来ませぬが、十方の世界に充ち満ちて居ることは確であります。それ故に法身のことを一に?一切処といふのであります。  しかるにあなたは自身が法身でないから、宇宙の中に法身でないものがあることは明かである。それ故に法身が宇宙に充ち満ちて居るといふことは信ぜられぬといはれますが、それはお考へが違ひませう、あなたがあなた自身を法身でないとお認めになつたところで、法身が宇宙に充ち満ちて居るといふことの当否には関係のないことであります。卑近なる例を集げて言へば、世界の表面に空気が充ちて居るといふに、自身は空気ではない、空気でない自身があるのに、空気が充ちて居るといふことは信ぜられぬといふことは如何のものでありませう。私はむしろそれと反対に、宇宙の中に法身が充ちて居る、自身の中にもそれがあるかも知れないが、色もなく、形もない法身のことであるから、言葉絶え、考へおよばぬものであると信ずるのであります。  報身とは梵語に盧舍那といひ、漢語に訳して淨滿といひ、又光明編照といひます。因に酬ひ、果を感ずるによりてあらはれるのであるから、報身といふのであります。前の法身を法性法身と名づけて、この報身を方便法身と名づくることもありますが、方便法身といふは、方は正直のことで真実を尽すといふ意味、便は己を外にすることで己れが身のためにあらず、すなはち法性法身より出でて事理融通して正覚を成すものであるから、これを方便法身といふのであります。法身には色々なく形もなく、言語を絶したものであるが、その法身からかたちをあらはし、名を示して我々にそのはたらきを知らしめるのが報身である。  それ故に法身は体である。たとへていへば日のごとし、これすなはち理である。報身は相である。たとへていへば照すといふがごとし、これすなはち智である。親鸞聖人の「唯信鈔文意」にこれを説明して  「法性法身とまうすはいろもなし、かたちましまさず、しかればこころもおよばず、ことばもたえたり、この一如(法性法身は一如すなはち真如である)よりかたちをあらはして方便法身とまうす、その御すがたに法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の四十八の大誓願をおこしたまふなり、この誓願のなかに光明無量の本願壽命無量の弘誓を本としてあらはれたまへるかたちを世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり、この如来すなはち誓願の業因にむくひたまひて報身如来とまうすなり、すなはち阿弥陀如来とまうすなり……ひかりの御かたちにて、いろもましまさず、かたちもましまさず、すなはち法性法身におなじくして無明のやみをはらひ、悪業にさへられず、このゆへに無碍光とまうすなり、……しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし」  と述べてありますが、これによりて我々が尊崇するところの阿弥陀如来が報身の仏であるといふことがよくわかりませう。報身は法身より形をあらはし、その名を示してはありますが、しかしながら形もましまさず色もましまさずして法性法身におなじきものであると説明してありますが、いかにもその通りでありまして、方便法身の如来といつても光明でありまして、光明は智慧のかたちでありますから、法性法身では心もおよばず、言葉も絶えたものであるが、方便法身すなはち報身では、それが心もおよび、言葉になることも出来るが矢張り、色もましまさず、形もましまさぬのであります。真理から形があらはれて智慧のはたらきとなつたとき、我々にそれが感知せられるのであります。たとへていへば、光はエーテルの震動によるといつたところで、それが果して真理であるかどうか我々にはわかりませぬ。固より光の本機たるべき真理があるには相違ありませぬが、その真理は我々にはわかりませぬ。我々にわかるのはその真理がはたらきを起して、かたちをあらはして光となつた場合であります。それがすなはち報身であります。  この理由よりして考ふるときは、阿弥陀如来は報身の仏であります。久遠実成の弥陀もおなじく報身でありまして、真如(すなはち法身)ではありませぬ。このことは覚如上人の「日伝鈔」に  「弥陀如来を報身如来とさだむること自他宗をいはず、古来の義勢ことふりたり、……これによりて久遠実成の弥陀をもて、報身如来の本体とさだめて、これより応迹をたるる諸仏、通総の法報応等の三身はみな弥陀の化用たりといふことをしるべきなり、しかれば報身といふ名言は久遠実成の弥陀に属して常住法身の体たるべし、通総の三身はかれよりひらきいだすところの浅近の機におむくところの作用なり」  と、くはしく説明してあります。この説明によれば、我々が知ることを得たるところの最初の仏から釈迦如来に至るまで、すべての仏は皆阿弥陀如来よりわかれ出でたるものとせられるので、法身といふことも、此の如き報身のあらはれることによりてはじめて知られる訳であります。たとへていへば、日の本体(真理)は我々の心にはおよばぬことであります、言葉にたえたところであります。さればその法身(真理)は見ることも出来ず、考へるととも出来ぬのでありますが、それが光といふはたらきをあらはしたるとき、我々はこれを感知して、考へることも、言葉になることも出来るのであります。この光の作用がすなはち報身であります。  それ故に、我々は如来の本体(法身)といふものを知ることが出来ませぬから、ただ不可称、不可説、不可思議としてこれをあるくのみであります。我々が感知することを得るのはその報身でありまして、これは法身真理)のはたらきでありますから、我々は直接にその影響をうけるのであります。親鸞聖人の宗教につきていへば如来の本願の力であります。如来の本体たるべき法身は、我々にはわからぬものでありますが、その法身からあらはれて、作用として我々に加はるところの本願力は我々によくわかります。それがすなはち報身の如来でありますから、我々と直接の交渉のあるのは報身であります。  此の如くに考へて、この場合の報身に名称をつければ、すなはち南無阿弥陀仏であります。この名を称ふるものを救はむとするのが阿弥陀仏の本願でありますから、その本願を信知したるものが感知するところのものはこの本願の力で、それがすなはち報身の如来でありますから、南無阿弥陀仏の六字の名號は取も直さず我々の心にあらはれたる報身をあらはすものであります。  応身といふは梵語に釈迦牟尼といひ、漢語に訳して能仁寂黙といひます。萬物に応じて身を成すといふ意味で、機に随ひて普ねく現はれ、体に從ふて用を起すと説明せられてあります。又それが仏身をあらはさずして人体及びその他の形を示すときには化身といはれるのであります。彼の世自在王仏も釈尊もこの応身の中に入るべきものでありますが、応身は無量無数にあらはれるもので、如来はそれによりて無得の智慧光をはなたしめたまふと説くのであります。(大正十二年八月)  阿弥陀仏とは  問 阿弥陀仏とは宇宙間の無限性に名づけたるものではありますまいか。光明無量とは空間的に、壽命無量とは時間的に、無限を意味したる美名詞でありませう。別に人格的の仏身が他方にある訳ではありますまい。有限性の萬物には無限性が基礎づけて居ります。しかるに吾人は有限界に局分する、これ迷心であります、この有限の個性即ち無限性であると心眼を開くが信仰でありませう。さうして無限に一致したる生活をするやうになるのが証でありませう。この無限性を美的に表現したものが阿弥陀仏の形像で、私がいふところの無限に一致したる円滿なる相が彼の弥陀の形像でありませう。阿弥陀仏とはすなはち我身自身のことではありますまいか。  答 貴下が宇宙間の無限性といはれるのは仏法にいふところの真如に比すべきものでありませう。色もなく。形もなく、心も及ばず、言葉もたえたものでありませう。これを真理と言つても差支はありますまい。兎も角も我々の有限の考へを離れたるものを指しているのでありますから、仏法ではまたこれを実相とか、法性とか言つて居るのであります。この無限性すなはち真如を仏とする場合にはこれを法性法身といふのであります。略して法身仏といふ。真理そのものを仏と見るのでありますから、これを理仏とも名づけてあります。  それ故に、仏法で仏といふものは、宇宙の無限性に名づけたのであるといふことには間違はありませぬ。  しかしながら、この仏は理仏でありまして、阿弥陀仏ではありませぬ。阿弥陀仏といふのは、真如の理仏が形をあらはして、光明無量、壽命無量の本願を本としてあらはれたるすがたであるから方便法身といふのであります。略して報身仏といふ。この方便法身の仏も、おなじく色もなく、形もないが、しかしながらこの仏は我々が考へることも出来、いふことも出来るものであります。これを簡単にいへば、真理のはたらきが阿弥陀仏として、我々の心の中にあらはれるのであります。それ故に、親鸞聖人は阿弥陀仏のことを説明して、  「ヒカリノ御カタチニテ、イロモマシマサズ、カタチモマシマサズ、スナハチ法性法身ニオナジクシテ、無明ノヤミヲハラヒ、悪業ニサヘラレズ、コノユへニ無碍光トマウスナリ、無碍ハ有情ノ悪業煩悩ニサヘラレズトナリ、シカレバ阿弥陀仏ハ光明ナリ、光明ハ智慧ノカタチナリトシルベシ。」(唯信勁文意)と言つて居られます。  光明無量、壽命無量とは時間的に空間的に永久であるといふことを示すもので、貴下のお説の通りに無限を意味するものであります。人体の形像をそなへたる仏身が存在する訳ではないことは勿論であります。  阿弥陀仏は報身仏であります。真如の理仏よりかたちをあらはして、我々の心の中にあらはれたる仏であります。しかしながら固より「色モマシマサズ、形モマシマサズ、スナハチ法性法身ニオナジキ」ものであります。それ故に我々は真如の理仏をば、その智慧(仏)のはたらきによりてこれを認むるのみであります。智慧のはたらきは光明でありますから、我々は仏の光明のみを知ることが出来るのであります。  貴下の言葉を借りて六か敷くいへば、無限は真如であります。その無限が我々の心の中にあらはれるのは時間と空間との範疇の内に入れて我々がそれを考へるためでありますから、阿弥陀仏といふときには、無限の一部が我々の心の中にはたらきをあらはしたのであります。  しかしながら、この時の我々の心の中には阿弥陀仏は人格的の力をあらはするのであります。たとへていへば、低気圧がやつて来たと言ふ場合に低気圧といふものが人格的であるとおなじ意味に於て、阿弥陀仏もまた人格的のものであります。貴下が人格的の仏身が他方にあるばかりではないといはれるのは、人体の形態をそなへたる仏身がないといふことでありますから、それはさうに違ひありませんが、阿弥陀仏と言ふときには単なる真理ではなく、真理がはたらきを起して我々に向つて居るのでありますから、それは確に人格的のものであります。  この阿弥陀仏(すなはち真如のはたらき)が、私一人のためにはたらくのであるといふ感じが我々の心にあらはれたるときに、それを南無阿弥陀仏といふのであります。  それ故に阿弥陀仏といへば広くすべての人々に通じての仏でありますが、南無阿弥陀仏といふときは私ひとりの仏であります。すなはち機法一体の南無阿弥陀仏といはれるのであります。かやうにして我々が仏の光明に照らされるとき(我々の方から言へば、仏の智慧を獲得したるとき)我々は身も心も南無阿弥陀仏となるのであります。この心持にいたることを信仰といふのでありますから、貴下のお説の通ほりに、有限の個性すなはち無限性であると心眼を開くことが信仰であると言ふことも出来ます。  さうして無限に一致して生活をするやうになるのが証であると言はれるのもまた、その通であります。しかしながら現在の我々の心の有樣にありては、到底この境に至りて無限に一致することは出来ませぬ。我々の心のはたらきは、すべてのものを時間と空間との範疇に入れて考へるのでありますから、無限がどうしても有限のものになりますか。  それ故に我身は阿弥陀仏となることを得るの素質をそなへて居るといふことは出来るが、我身自身が阿弥陀仏である、といふことは決して出来ませぬ。  言ふまでもなく、宗教といふものは我々の心の中の問題で、心の外のことを考へるのではありませぬ。しかるに多くの人々が自身の心をそのままにして外のことを考へるところにいろいろの間違が起るのであります。我々の心にあらはれたるものとして見るときは結局、南無阿弥陀仏の六字に帰するのであります。それ故に我々はこの六字を阿弥陀仏の名號(氏名)として、それを信仰の対照とすべきであります。阿弥陀仏そのものを信ずるのではありませぬ。又決して我々自身が阿弥陀仏であるといふことを信ずるものではありませぬ。(大正十三年三月)  如来の形相  問 「法爾」の前號を拝読いたしましが、阿弥陀仏につきての御説明はあまりに無相に偏しては居りませんか。「往生論註」下二十五丁に二種の法身の説明の所に「法身は無相の故に相あらざるなし、是故に相好荘厳即ち法身なり」とあります。方便法身は差別相の方にして無量の相とある方四十八願はこれである。  何ぞ仮説虚説として、何でもないものとなさむや。しかるに色もなく形もなくと、宗祖のいへるものは迷界の如き偏固的色形をなしとせられたるもので、相即無相の相好までを否認せるものではありますまい。又阿弥陀仏は吾人の心の中にあらはれた。人格的のものとあるが、若し然らば吾等の妄想と何の簡ぶところがありすか、その吾人の心とは真如心のことでありますか、妄識のことでありますか、唯識宗の阿頼耶識のことでありますか、若し低気圧を人格的と思ふのと同然ならば、たしかに妄想的認識で、浄土に行つて見れば浄土もなく、弥陀もなく、空漠たるものであるとするのでありますか、若し然らば浄土教は凡夫欺しの虚構でありますか。  答 專門的に真宗の学問をなさつたと見えまして、因襲的のお考へが隨分強いやうであります。私の申すことは御講師方の説明の通ではありませぬから、貴下が平生お考へうになつて居るのとは違ふ故に質問ではなくて、私のいふところを反駁なさる心持で、私のいふことが無相に偏して居るとお考へになるのでありませう。それにつきて申して置きたいことがあります。むかしから宗乗と申して、仏教各派の宗義を説明する学問があります。真宗でいへば真宗学といふべきものでありますが、この真宗学といふのは宗祖親鸞聖人の精神を理解して、その宗教を多くの人人に体驗せしめるやうに説明すべきものでありますから、現代の学問に相応して改修せられねばならぬ筈のものであります。一個の死むだ学問としてならば兎も角、生きたる宗教として多くの人々の心の中にそのはたらきをあらはすためにはその説明を改めねばなりませぬ。私は固よりその道に居るものではありませぬから、真宗学を改修しようなどとは決して思はぬのでありますが、しかしながら親鸞聖人の宗教を多くの人々に宣伝するには、これまでの宗乗学者の説くやうな方法では、まことに迂潤の評を免がれぬといふことを信じて居ります。それ故に私は心理学的にこれを説明せむことを企てて居るのであります。  宗教といふものが、吾人の精神の作用である以上、心理学の上よりしてこれを説明することは合理的であると私は確く信じて居ります。それ故に多くの人々が哲学的に説かれるのと、私が心理学的にいふのとは無論、説明の上には相違がありますが、私はどこまでも宗教は人々の精神の作用として心の内から湧き出るもので、外方からこれを注入すべきものではないと信じて居りますから、宗教の宣伝はつまり人々をしてその銘々の宗教意識を精確にせしむることをつとむるの外はないと考へて居るのであります。この意味に於て、私は生命の無い宗乗の文字や思考などを捨てて、直ちに釈尊の精神や親鸞聖人の精神を理解するといふことにつとめたいと思ひます。貴下も定めてさういふ考へをもつて居られることでありませうから、貴下のお言葉に対して私の考ふるところを申し上げませう。  貴下が私のいふところを以て無相に偏して居るといはれるのは、私が方便法身(即ち報身)の如来は色もましまさず、形もましまさずとあるのを引いて、我々が普通に考へて居るやうな個性的人格をそなへたものでないというのを非難せらるるのでありませう。貴下もいはれる通ほり「色なく形もなく」と宗祖のいへるものは迷界の如き偏固的色形なしとせられたもので、法性法身は青黄赤白の色もなく、長短方円の形もなく、十相を離れ、十二相を離れ、?ぬく法界にみちて、心も言も及ばぬところの境界であります。(易行院法海師の講説に拠る)仏教の言葉にていへば理法身であります。隠れたる如来蔵が現はれて法性法身となつたのであります。この説明には貴下も異論はありますまい。  さすれば法性法身といふのは、これを真理としても差支はありますまい。法海師の「唯信鈔文意辛巳録」巻四に「爾れば法性法身とは所証の理なり、方便法身とは能証の智なり」とありますが、ここに所証の理とあるは、証らるべき真如の理を指しているのであります。又この法性法身を証り現はしたるが方便法身でありますから、能証の智なりといふのであります。法性と方便と二種の法身があるといへば、すぐにそれを別々に分けて考へるのが凡夫の常でありますが、決してさう二個にわけて別々のものとして考へるべきものではありませぬ。法海師の講演にはこのことがよく説明してありまして「方便法身ハヒカリノ御カタチユへニ、法性法身トハ違ヒテ、色モアリ形モアルカト思ヘバ、ソノ色アリ形アリト思フトコロノ思慮ニワタル色ヤ形ハナイ、光カガヤク御相ニテソノママ色モナキ形モナキ法性法身ナリ、法性ノ方ヨリ見レバ色モマシマサズ、報身ノ方ヨリ見レバ、光カガヤク御相ナリ、ココガ論註下ニ相好莊厳即法身トノタマフトコロナリ」と述べてあります。私もさういふやうに考へるべきであるとおもいます。  それ故に、真如より形をあらはしてとありましても、それは矢張り我々が思慮するやうな、色もなく形もないのであります。方便法身のすがたといふは光明で、全く智慧の相であります。相好円滿といひましても、個性的人相をそなへたといふ意味ではありませぬ。親鸞聖人が「阿弥陀仏ハ光明ナリ、光明ハ智慧ノカタチナリ」といはれるのを見ると、カタチといはれるのもスガタといはれるのも、みな真理がはたらく力のことであることが明らかでありませう。  その真理がはたらく力が感ぜられたときに、相好円滿の如来のすがたが仰がれるのであります。ひかりかがやくといふたところが絵に書いたやうな光明がみえるのではありませぬ。若しさういふ光明が見えることがあつたならばそれは幻想でありませう。それこそ貴下がいはれる妄想的認識でありませう。それ故に阿弥陀仏とは、真如の理がはたらきをあらはして(形をあらはして)、我々の心の中にあらはれたるとき、その真如のはたらきの力を人格的のものとしてこれを仰ぐのであります。しかしながらそれは決して幻視ではありませぬ、妄想ではありませぬ。又決して凡夫だましの虚構ではありません。  全体我々が何物かを見るといふ場合にあたりては、その何物かからして来たところの光線が眼の中の網膜を刺戟し、それから脳の中枢に知覚を起して、それが心の内容(意識)にあらはれる(主観)それを元の何物かに出して(客観)さうして始めてその何物かを見るといふのであります。それ故に心の中に、外力の何物かに相当して出来た心のはたらきは決して妄想でなく、又幻視でなく、客観に見るところのものは畢竟主観の投影でありますから、我々の主観が真如の理のはたらきに動かされて(自分の思慮分別によることなく)そこにあらはれたるものは妄想とは全く異なれるものでありまして、阿弥陀仏といへる真如のはたらきのために、その力が感ぜられて、我我の主観に真如の理がはたらくときに、その主観によりて阿弥陀仏を客観にながむることが出来るのであります。我々の心といふのは現在はたらいて居るところの我々の精神のことであります。真如心のことでもなければ阿頼耶識のことでもありませぬ。思慮分別をするところの我々の心であります。それ故に、この心その儘にては決して真如の理を感ずることは出来ませぬ。若しその儘にして如の理を感じたといへばそれは全く妄想でありませう。  しかしながら、その我々の心の思慮分別から離れて真如の理のはたらきを感じたるとき、それは決して我々の妄想とすべきものではありませぬ。貴下は低気圧を人格的に感ずるは妄想であるといはれるやうでありますが、しからば楠木正成といふ人格を心の中に想ひ起すのも妄想であると考へられるのでありますか。親が死むだ後に親の人格を感ずるのも同じく妄想であると思はれるのでありますか、これ等は決して漠然とつくり上げるところの妄想ではありませぬ。(大正十三年五月)  菩薩行に就て  問 過日さる知識が当地を巡講されました際に、念仏行者は「南無」の二字で浄土に往生し「阿弥陀仏」の四字で還相して来るのであるから、この身は浅川敷不浄造悪の身なれども、心は還相の菩薩であるから、この命の続かん限り、一生身を粉にして菩薩行を行ぜさせて貰ふべきであるとて、この身この儘が菩薩であるといふことを継論釈を引いてくはしくお説きになりました。  ところが門信徒一部の人々から異議が唱へられまして、未熟な信者達はその帰趨《きすう》に迷つて居られるやうであります、然るにこれを難ずる人々の所論はいろいろでありませうが、これを要するに、自己以外の人々を仏菩薩の化身として仰ぐのは当然のことであるが、自分自身が菩薩に高上りしてはならぬ、自分の手元はどこまでも罪悪無力の結晶であらねばならぬといふにあるやうであります。それに就いて私が考へますのに、難者の所論は飽くまでも浄土真宗に立脚し、某知識の所説は宗派を離れたる絶対論ではありますまいか、地獄一定の心持は何処まで行つても地獄一定であつて自分が救はれるといふ機會は遂に来ない筈でありますが、それがその儘救はれた姿であるといふことは理窟でなく真実の発現でありますから、唯体驗によりて味ふより外はないので、以上の二論はこれ等の「嬉し恥かし」の兩面をなして居るのではありますまいか、未信なもののためにこの点を御釈明くださいませ、おねがひ申しあげます。  答 親鸞聖人の消息の中に「往生ハナニゴトモナニゴトモ、凡夫ノハカマヒナラズ、如来ノ御チカヒニマカセマイラセタレバコソ、他力ニテハサフラヘ、……如来ノ誓願ヲ信ズル心ノサダマルトマフスハ摂取不捨ノ利益ニアヅカルユヘニ不退ノクラキニサダマルト御ココロエサフラフベシ、真実信心ノサダマルトマフスモ摂取不捨ノユヘニマフスナリ、サレバコソ無上覚ニイタルベキ心ノオコルトマフスナリ、……コノココロノサダマルヲ十方諸仏ノヨロコビテ諸仏ノ御ココロニヒトシトホメタマフナリ、コノユヘニマコトノ信心ノ人ヲバ諸仏トヒトシトマフスナリ」と説いてありますが、その意味は信心を得たるものはすでに仏となるべき身であるから仏とひとしきものであるといふのでありませう。おなじく聖人の消息の中に「弥勒ハイマダ仏ナリタマハネドモ、コノタビ、カナラズ仏ニナリタマフベキニヨリテ弥勒ヲバスデニ弥勒仏トマフシソフラフナリ、ソノ定ニ、真実信心フエタルヒトヲバ如来トヒトシトオホセラレテサフラフナリ」と述べてあるのを見ればいまだ仏となつたのではないが、仏となるべき身であるから、その心は仏と等しきものであるといはれることは明かでありませう。これをつづめて言へば「信を得てよろこぶ心は如来と同じである」(親鸞聖人の消息の中に見ゆる言葉)といふことでありませう。  罪悪の深い、我々のために起したまひたる大悲の誓願のめでたく感ぜられて、言葉にいひ尽されぬ喜びの心があふれるのは他力によることでありますから、それが仏の心とおなじであるといはれるのでありませう。決して自分からして「我はすなはち仏である」と感ずるのではありますまい。それ故に菩薩行を行するといいましても菩薩行を行ぜさせてもらふのでありませう。決して「我はこれ菩薩である」と高上りをするのではありませぬから、これを自力であるとはいはれませぬ。いはゆる己心の弥陀、唯心の浄土といふのとは全く違つたものであります。それ故に親鸞聖人の教によつて信心を獲たるのちは、その心が仏とおなじであると感ずることのあるべきは当然のことでありまして、それは決して自力ではありませぬ。貴下の言はれます通りに、地獄一定の心持はどこまで行つても地獄一定でありますが、この地獄一定のものが、如来の本願に包容せらるるといふことを知つたときには、いかに言はれぬ喜が湧き出るので、そこに仏とおなじ心があらはれるのでありますから、そのよろこびにつきて菩薩行を行ぜさせてもらふといふ心持があらはれるのでありますから、全く他力の催しであります。自分から進みて菩薩の行をするといふ心持では無い筈であります。  それ故に親鸞聖人の消息の中にも「自力ノココロニテワガ身ハ如来トヒトシト、サフラハンハマコトニアシク候ベシ、他力信心ノユへニ、乗信房ノヨロコバセタマヒ候ランハ、ナニカハ自力ニテサフラフベキ」と述べて居られます。自分として「我は如来である」と考へるといふやうなことは親鸞聖人の教によりては決して起ることのない心持でありますから、信心を得ないものが「我は如来である」と考へることは自力のこころであるといはねばなりませぬ。親鸞聖人もそれは悪しく候べしといはれて居ります。この点につきて某知識の説明には聞く人の誤解を招くやうなことがあるかと思はれますが、私はもとより直接にその説教を聞いたのでありませぬから、その点につきては何とも申しあげかねます。(大正十三年六月)  仏とは  問 「仏とは、真如であるとか、宇宙の本体であるとか聞かされますと、仏とは自然其物のやうな心持になります。なるほど斯の如く観じますと、自然には何物も打ち勝つことは出来ない。どうしても徹頭徹尾スガル、マカスより外いたしかたがありませぬ。米一粒水一滴も自然の賜ですから、ありがたいといへば、いへないこともありますまいが、これは人類への附き物であるともいへないこともありますまい。故に其返には何等の感じもなく、随つて更に感謝とか、ありがたいとかの感じも起りませぬ。仏とは如何なるものでありませうか、ご面倒おそれ入りますが、御答の価値のあるものでしたら、誌上でご発表をねがひます。  答 仏は真如であるとか、宇宙は真如からあらはれたるものであるから宇宙の本体が仏であるとかといふのは学問の上から仏を説明するのであります。それ故に学問の上よりして仏を説明するにはどうしてもさういふやうに説くより外に仕方はありますまい。それ故に自然其物が仏であるやうに思はれるのも無理はありません。少なくとも宇宙の一切のものは真如よりしてあらはれるものでありますから、宇宙の一切のものの中に仏の相を見ることは出来る筈であります。  しかるに貴下のお説のやうに自然其物を仏と思ふたところが何等の感じも起らないのが実際でありますから、我々としては自然其物を仏とは思ふことが出来ぬと言つた方が確かでありませう。若し真にそれを仏と知ることが出来たならば感謝の念も起りませうが、それが起らないのを見ると、我々が自然其物を見て直ちにそれを仏であると信ずることは六つかしいことでありませう。  仏教でいへば仏は真如からあらはれたのに相異ありませぬ。しかしながらそれは学問的にさう説明するのでありまして、仏といふものはこれを、我々の言葉にて説明することの出来ぬものであるといふのが確実であります。我々の思惟の形式では仏を考へることが出来ぬといふ方が事実であります。それ故に、仏は真如のあらはれであると言つても、我々がそれを仏として感知することは我々の言説(言語及び思惟の形式)を離れて、宇宙の本体を直観したるときであります。言葉を換へて言へば、我々が一切のはからひ(思慮穿鑿《しりよせんさく》)をやめて宇宙の本体の相(真如)に当面したるときに、そこにあらはれて来るものが、仏の相であります。  自然其物が仏であるといふことは客観的に見ての説明であります。説明として更に無理ではありませぬ。しかしながらその説明を聴いて直にそれを仏と信すると言つたところが、その人の自分のはからひでさう信ずるといふのでは、要するにその人の考へに過ぎませぬ。その人の心持でさう信ずるだけのことであります。むしろ、それを信じやうとするのでありますから、感謝の念が起ることが無いのも当然でありませう。  自然には勝つことが出来ないから、それにマカスより外に仕方がない、それを頼むより外に致し方がないといふのは屈服するのであります。致し方がないからさうするのでありますから、若し致方があればさうはしないのでありませう。この場合には力の強いことを自から信じ、しかもその強い力でもなほ出来ないときに更に大いなる力をたのむといふのでありますから、その偉大なる力といふものも畢竟我々人間が考へているところの偉大であります。高の知れたる偉大であります。決して言説を離れたる真如ではありませぬ。自分で勝手に決めたところの偉大の力でありますから、それをたのむと言つたところで全体を投げ出してそれにすがるのではありませぬ。真実にたのむのとは大いに違つた心持であるといはねばなりませぬ。自然其物をばすぐに偉大なる力として、その力に隨順するといふのはこれを客観的に説くので、その偉大なる力といふものは、我々の思慮にも言葉にも及ばぬものでなければなりませぬ、從つて其力に随順するといふことも、自身の力が足らぬからこれを偉大なる力によりて補充しやうといふやうな心持をいふのではなく、我々としてはどうすることも出来ない境に到りて、何ともいひやうのない偉大なる力に動かされて居るといふことを知ることであります。  全体仏教の哲学からいへば、萬物が真如からあらはれたのでありますから、我が心すなはち真如と知らねばなりませぬ。我が心真如と知りたるときに仏となることが出来ると説くのであります。それ故に自然其物といふ中には我が自身の心も這入つて居るのであります。我が心を離れて、外に仏としての自然其物がある訳ではありませぬ。これを客観的にいへば仏も衆生も極樂地獄も皆真如からあらはれるものでありますが、これを我々の心の有様からいへば、我々の心が迷執を離れたるときが仏であります。それ故に説明するときには、自然の相すなはち真如が仏であるといつても、我々の心よりして見れば、その真如が直接にそのはたらきを我々の心の上にあらはしたときに、始めて仏の相はあらはれるのであります。  貴下の御説に米一粒も水一滴も皆自然の賜物であるからありがたいといへばありがたいが、それは人間の附物であるとすればありがたくはないとありますが、人間の附物であるにしても、その附物の御蔭にて人間が生活をつづけることが出来るのでありますから、自身を大切におもふ人はその恩恵を感ずる筈であると私は思ひます。たとひそれは偶然であるにしても、その偶然のことで我々の命がつながれて居るといふことを考へれば感謝の心が起ることがありませう。しかしながらその偶然のことがすなはち仏であると云ふのではありませぬ。萬物の恩を感ずるほどまでに自身を内省したときに始めて仏の相が知られるのであります。それ故に萬物を見て、何れも仏の物であるといふ感じを起すことは決して不合理のことではありませぬ。もとより、これは自身の心から離れて、外にあるところの自然其物を仏とするのとは、その心持が違つて居るのであります。  右のやうな次第でありますから、仏といふものは不可思議である、不可称であるといふべきであります。真如は常に我々の言説を離れたるところにあるのであります。それ故に仏といふものは我々が一切の思慮穿鑿を離れて、宇宙に接したるときに直観するところのものであります。具体的にいふときは我々は仏の真実の相に当面すること能はずして、常にそのはたらきを感知することを得るのみであります。仏のはたらきは仏教の言葉にていふところの光明として我々はこれを感知するのでありますから、我々が仏といふのは光のかたちであるところの方便法身の如来であります。もつと明瞭に言へば如来の本願の力であります。すなはち南無阿弥陀仏であります。  方便法身といつたところが、法性法身とおなじやうに色もましまさず形もましまさぬものでありますが、法性法身がはたらきをあらはしたのでありますから、法身の如来は我々の心に及ぶのであります。我々の言葉に遺入るのであります。それ故に我々としては直接に仏に当面することは出来ないで、ただその仏のはたらき、すなはち光明に觸れることが出来る訳であります。さうして光明は智慧の形でありますから、仏智不思議はこれを感知することが出来るのであります。この仏智不思議を感知するところに南無阿弥陀仏といふ名號があらはれるのであります。我々の心の上にあらはれるところの仏の光明はこの関係を明らかに我々に感知せしめるのであります。  よくよく考へて見れば一粒の米も一滴の水も皆これ自然のものでありますが、それが我々の生活を続けるための大切の資料であります。もとより我々が生れぬ前からして米も水も既に存在して居つたのでありますから、おのづからにして、我々はそれを食ひ、それを飲むでをるといへば、それまでのことでありますが、それによりて我々が生きてゆくことが出来るといふことを考へれば、それが我々に取りて恩恵であると感ずるのであります。それを恩恵と感ずるところに自己の内省が深くなるのであります。むしろ自己の内省が深くなるによりて萬物の恩恵を感ずるものであります。それ故にその恩恵を感ずるところに、すぐに仏の大慈大悲を感知することが出来るのであります。  斯の如き訳でありますから、自然其物が仏であると感ずることの出来ない我々――到底仏に当面することの出来ない我々でも、自然其物によりて仏のはたらきを感知することが出来るのであります。(大正十三年十一月)  法蔵菩薩  問 「法爾」誌上問答欄の御明答は一歩一歩私を光の世界へ引き出して頂くかの感じがいたします。ありがたく感謝いたします。第八十一號の御答に法蔵菩薩のことが出て居ります。これは私が久敷疑問としたるところであります。しかるに記事簡単にして真意のあるところが私にはわかりませぬ。法蔵比丘の発心修行は我々自身として菩提を獲得する心をおこさしめるものである――我々の心の中に法蔵菩薩があらはれてこそ云々」の記事は、いかにも深意あるものと、幾度も拝読しましたが、どうもはつきりわかりませぬ。なにとぞ今一度くはしく御説明をねがひます。  答 宗教といふものは、心理学的に考へるときは、宗教は我々の心の向きをかへるものであるといつても差支はありませぬ。我々が人間世界のことにつきて、いろいろに考へるとき、そこに種々の思考が起るのであるが、その思考を離れて、直観的に宇宙の大法に接觸したるときは何ともいへない崇高の感に打たれて、それまでの思考とはかはりたるものがあらはれるのであります。それを宗教のはたらきといふのであります。それ故に、我々の思考をそのままにしては宗教のはたらきは十分にはあらはれませぬ。それ故に、宗教といふものは智慧のはたらきを離れて居るものであると説くのでありますが、決して思索が無益であるとするのではありませぬ。我々は思索するやうに教へられて居り、又思索しなければ十分に事物を理解することの出来ぬものでありますから、思索することは大切であります。しかしながら思索するといふことは智慧のはたらきで、つまり学問でありますから、それによりて宗教のはたらきをあらはすことのないといふことをよく承知して置かねばなりませぬ。  ただ知るといふことは思索によりて達せられますが、それによりて考への向きをかへるといふことは知ることだけで出来ることではありませぬ。さうして宗教といふものは知るのではなくして、考への向きをかへるのでありますから、この点につきて先づ第一に注意せねばなりませぬ。それで、法蔵菩薩が衆生をすくはむがために長い間の辛苦修行をせられたといふことも、さういふ事実があつたか、あるひはさういふ歴史上の事実はなくして、ただ一つの神話であつたか、それを詮索することは全く学問でありますから、詮索したところが、ただその事実を知るといふことだけに止まるのであります。法蔵菩薩といふお方が、我々のために永い間の修行をして遂に我々をして仏の国に往かしむる道を開かれたのであるといふことを知つても、それによりて我々の考への向きがかはることがなければ決して宗教にはなりませぬ。それが宗教のはたらきをなしたる場合は、我々の心の中に法蔵菩薩のはたらき(菩提心を求むる)が観れたるときでなければなりません。  「大無量壽経」に書いてあるところによつて見ると、法蔵菩薩がまだ仏にならない前に、衆生をすくはむといふ本願を起して、それから兆載永劫の間修行して到頭その本願を成就して、仏になられたといふのである。この話を聞いて、まことに有難いことである。我々のために此の如き艱難辛苦を嘗められたのであると感謝すると言つたところで、それは我々自身を離れたる法蔵菩薩のことであるから、要するに法蔵菩薩の事実を知つたといふに過ぎませぬ。法蔵菩薩が感謝すべき方であることを知つただけであります。  法蔵菩薩のことを知つて居つたところで、その法蔵菩薩のはたらきが我々の心にあらはれない限りは、そこに宗教としてのはたらきはあらはれませぬ。それ故に法蔵菩薩といふお方が歴史上に居つたのであるか否かは別段に問ふところではありませぬ。それは神話であつても、決して宗教上のはたらきをあらはすに不都合はありませぬ。  法蔵菩薩は衆生をすくはむがために本願をおこされたのであります、さうしてその目的を達せむがために修行せられたのであります。それ故に法蔵菩薩のはたらきといへば、衆生をすくはむがために本願をおこして修行したことであります。さうしてその法蔵菩薩のはたらきが我々の心にあらはれるといふのは、その本願によりてすくはれむことを求むるの心のあらはれることでもあります。それを私は「我々の心の中に法蔵菩薩があらはれる」といふのであります。  繰返してまうしますが、宗教といふものはただこれを知つて真理なりと會得するのではありませぬ。宗教として説かれたることを味はふて、それによりて我々の考への向きをかへるのであります、一口にいへばこれを体驗するのであります。  それ故に、仏教を宗教として、我々の心のはたらきとするには、釈尊も、親鸞聖人も、みな我我の心の中に現に活動して居らねばなりませぬ。この意味に於いて如来も我々の心の中に活動して居らねばなりませぬ。機法一体という言葉にて示されたる心持は、あきらかにこのことを指すのでありませう。(大正十四年一月)  問 法蔵菩薩といふ仏はそのむかし我等に代りて修行して仏となられた、その仏が阿弥陀仏であるといふことをお説教で拝聴して実に有難いことであると信じて居りましたが、「法爾」に載せられた皆樣のお話によつて見ますると、法蔵菩薩は我々の心のはたらきに過ぎないやうに思はれて有難いとも何ともありませぬが、如何のものでありませう。又或人の前に法蔵菩薩は神話に過ぎぬといふことでありますが、若しそれが神話であるならば、それを信ずることは何の意味もないことでありませうと思はれますが、どういふものでありませう。  答 法蔵菩薩のことは「大無量壽経」に書いてあるのでありますが、その記事によりますと、むかし或る王さまが道に志して出家して法蔵菩薩と名乗つて修行して阿弥陀仏となられたといふことであります。お説教ではその記事をその儘に説き示されるのでありますが、あなたはそのお説教を聴きてどうお考へになりますか、先づそれをお尋ねしたいのであります。あなたはむかし法蔵菩薩といふ人物が居られたとお考へになりますか、若しさうお考へになるとすれば、法蔵菩薩は何時頃の人で、その来歴はどうでありますか。さういふことは一切わからぬとして、しかも法蔵菩薩の存在は確かであるとお考へになるのでありますか。若しさうであるならば釈尊が言はれるやうに盲人と盲人とが互に手を引張り合ふて居るやうなもので、法蔵菩薩といふ名前だけがわかつて居るに過ぎぬではありませぬか。それでどうして宗教のはたらきがあらはれませうか。  むかし王さまが居られたが、その王様が王位を捨てて出家し、辛苦して道を求められたといふことを聴いて、それと同じやうに道を求めるといふ心が動いたときに我々は始めて宗教のはたらきをあらはすことが出来るのであります。それ故に法蔵菩薩のはたらきが我々の心の中にあらはれたといはれるのであります。法蔵菩薩はすなはち我々の求道の心そのものに外ならないのであります。さういふやうに我々の心が動いてこそそとに始めて宗教のはたらきがあらはれるのでありまして、若し法蔵菩薩が我々の心の外にあるならば、それは何時まで経つても宗教のはたらきをなすことは出来ないのであります。我々の心の外にある法蔵菩薩が我々を救ふために努力せられたといふことを聴いて難有く感ずるにしても、それは得手勝手の欲望でありまして、それが宗教のはたらきをあらはすものではありませぬ。  しかしながら、「大無量壽経」に書いてあることが、我々の心の中のはたらきとしての法蔵菩薩のことであるといふのではありませぬ。法蔵菩薩といふ人物として、発心修行のことが記載してあるに相違ないにしても、その発心修行を我々の心のはたらきとして実現するときに、始めて法蔵菩薩のはたらきがあらはれるのであります。法蔵菩薩のはたらきが我々の心の中にあらはれてこそ、そこに始めて宗教のはたらきが実現するのであります。  それは宗教といふものは我々の精神の状態であるといふことを理解するによりて始めて合点せられることであります。宗教といふものをば理想と考へたり、又は実際生活を絶対化することであるやうに考へたりするやうでは、法蔵菩薩といふものを我々の心の中のはたらきとして考へることは出来ないでありませう。釈尊の言葉に「汝自からを助くるものは汝自身の外にない」「汝自身の外に依所とするものはない」「汝自からの燈火を以て汝自からの道を照せ」とあるやうに、宗教といふものはどうしても我々の心の内のはたらきで無くてはならぬものであります。我々の主観のはたらきとして、法蔵菩薩があらはれて発心修行するといふ処に宗教のはたらきがあるのであります。  若し「大無量壽経」に書いてある文面通ほりに、これを我々の心の外の有様として考へるときはどうしてもそれは神話というより外は有りますまい。時代も分らず、人物もわからず、果してそんな人物が存在して居つたか否かもわからぬものを?史上の事実として考へることは到底出来ぬことであります。従つてさういふ事由によりてこれを神話といふことは当然であります。しかしながら宗教の意味にていふときには全くそれとは別にしてそれは決して神話ではありませぬ。宗教のはたらきから考へれば法蔵菩薩といふ人物が存在して居つたか否かといふことは問題ではありませぬ。法蔵菩薩といふ名前によりて我々の心が動かされて発心修行するといふところに宗教のはたらきがあらはれるものでありまして、法蔵菩薩のはたらきが我々の心の内にあらはれるのであります。我々の心の外にあるところの法蔵菩薩に向ひて努力することや、哀願するやうなことは事実の宗教――精神の宗教のはたらきをなすものではありませぬ。さういふ風に法蔵菩薩を考へるときには、それは何時でも一とつの偶像となるものであります。偶像をおがむといふことは決して真実の宗教のはたらきを我々の心の内にあらはすの道ではありませぬ。  繰返していひますが、宗教は我々の心の状態でありまして、理想でもなければ、努力でもありませぬ。哲学的のものでもなければ倫理的のものでもありませぬ。まして芸術的のものでもありませぬ。宇宙の真実に觸れて直観的に起るところの感情が本となりて宗教のはたらきがあらはれるのでありますから、法蔵菩薩とその修行の話を知つただけでは宗教にはなりませぬ。法蔵菩薩が我々のために修行して真実の道を開かれたといふことを信じて難有いといふ心持をあらはしたところが、それは菓子か何かを貰つたときに難有いと感ずると同じやうなものでありまして、利己的の感情のあらはれに過ぎませぬ。宗教としての感情のあらはれは利己的でないものでありますから、我々の心の状態が改まらなければ宗教のはたらきをあらはすことは出来ませぬ。  同じ法蔵菩薩でもこれを客観に投げ出して、それをおがむときと、主観の上にあらはれて来る法蔵菩薩とは、そのはたらきが異なつて居ります。宗教としての法蔵菩薩のはたらきはいつでもそれが主観の上にあらはれたるときであります。(大正十五年一月)  唯心の弥陀に就て  問 仏といふのは別にあるものでは無くして、我が心に仏が有りとするのは唯心の弥陀と言はれて、我が浄土の教では排斥せられて居るやうでありますが「法爾」の誌上にて度々承はるところの御説では、仏といふものが心の外に別に有るのでは無いといふやうなことであるやうに思はれますが、それでは矢張り唯心の弥陀を認められるのでありますか。  我が心に仏がありといふのは理想を仏と化して我が心の内に置くのでありますから、それでは少し有難いといふ心持が起りませぬが、それで宗教のはたらきがあるといはれませうか。甚だ幼稚の疑問でありますが、なにとぞ御示しを願ひます。  答、御質問に答へるのには、先づ仏といふものは何であるかといふことを定めて置く必要があります。  仏教で仏といふのは仏陀の略でありまして、無上正?福知を獲得したものをいふのであります。支那の言葉に直して言へば、覚者といふのであります。真理を覚りたるものが即ち仏であります。さうして、真理を覚《さとる》といふことは畢竟するに人間の心のはたらきでありまして、その心のはたらきを現はすところの人間の身体を離れているときは、仏とはその人をして真理を覚らしめるところのものを指すのであります。又人間が真理を覚るといふことは、真理を覚らしめるもののはたらきに由るのであります。  しからば、何物が真理を覚らしめるのであるか、我々にはわからぬのでありますから、我々としては、仏は不可思議のものであるといふより外はありませぬ。仏教の言葉で言へば、真如が即ち仏でありまして、それは固より我々の心にも及ばず言葉にも断えたものであります。しかしながらその真如のはたらきが我々の心の内にそのはたらきを現はすときには、我々はそれに就て知ることが出来ます。不思議の力として感ずることが出来るのであります。これが仏教で言ふところの方便法身の仏でありまして、真如(即ち理仏)そのものでは無く、真如のはたらきが我々に感知せられるのであります。南無阿弥陀仏といふ言葉はこの不可思議の力を感知する場合の心のありさまを指すのでありまして、それは仏のはたらきとして、我々の心の内に現はれたのであります。  この我々の心の内に現はれたる不可思議の力が、我々に取りては仏の力の現はれたるものとして感知せられるのであります。それ故に我々の心の外に、仏が有りと考へて、それに向つて恭敬禮拝するのでは無く、我々の心の内に現はれたる仏の力(我々には慈悲と感ぜられる)を感知するところに歡喜の心が現はれるのであります。決して我が心の内に仏が有るとするのではありませぬ。唯心の弥陀といはれるものとは全然相違したものであります。  我々の心を外にあるところの仏に向けるといふことは一体どういうことでありませうか。心の外にあるところの仏は固より不可思議のものでありませうからそれを仏と感知するより外に致方は有りますまい。若し然らざれば仏ありと空想してそれに向つて恭敬禮拝するのでありませう。それで有難いといふ心持が起るとすれば得手勝手の空想を喜ぶより外はありますまいと思はれるのであります。世の中の人々のやうな法悦は多くは病的のものでありまして、それが真実の宗教的のものであるとは言はれませぬ。  有難いと感ずると言ひましても、それがすなはち宗教的のものであると速断することは出来ませぬ。我々はまことに得手勝手のものでありまして、有難いと感ずる場合にそれが自分の勝手のよいことであるといふことが多くあります。自分の勝手を離れて、全く功利的でない心持の所に宗教のはたらきが現はれるものであるといふことを考へるときは、有難いといふ心持はよく分析して見ねばならぬことであります。(大正十五年十月)  自己と仏  問 釈尊の金言が「法句経」に載せてあるところを見ますると、「自己心為師、不随他為師」とありますが、この言葉の意味は自己の心を師として生活すべきものであるといふことでありませうと思ひます。さうすると、仏といふものも無いわけでありませうか、若しくは自己の心が仏であるといふことになるのでありませうか。自己と仏との関係がわからぬやうになつて参りまして不安でなりませぬ。どうか御説明を願ひ上げます。  答 釈尊が「自己の心を師となせ」といはれるのは、我々が拠るべきものは自己の外にはないといふことでありませう。釈尊が死なれる少し前に阿難に対して言はれた言葉に「汝自身の外に汝がたよるべきものはないから汝自身をたよりとせよ」とあります。又「汝自からの燈火を以て汝自らの道を照らせよ」といふ言葉ありますから、自己の心の外に何にもたよるべきでないといはれるのでありませう。さうすれば自己の心の外なる仏にもたよるべきではないのであるかといふことになりませうが、それにつきては釈尊の言はれたことが「法句経」にも載つて居りまして、釈尊は自己の心の外にある仏(自在天や、その他の神)に臨依することは最上の帰依ではない、それによりて自己の苦しみが無くなることはないと断言して居られます。自己の心の外には何ものも師とすべきでないと言はれるのでありますから、自己の心の仏を排斥せられることは無論であります。  自己の心が苦しみを覚ゆるのでありますから、他のものがそれをなほすといふことは出来ない筈であります。自分で痛みを感じて居るのでありますから外からはそれをどうすることも出来ないのであります。「自己を師となすものは真の智人の法を獲る」と言はれるのはまことに無理のないことであります。  さうすると、阿弥陀仏にたよると説かれて居るのは釈尊の教に背いて居るのであるかという疑問があるでありませう。これは少しく説明を要することであります。阿弥陀仏といはるるものはこれを哲学的に言へば法であります、真如であります。その法を心の外にながめてそれに帰依したところで、その法は来りて我々をたすけることは出来ないのであります。ところが宗教的に考へるとその法が我々の心の内にあらはれて、我々はそれにたすけられるのであります。宗教的に考へるといふのは自己といふものを見つめて、いかにも罪悪深重煩悩具足と深知して、それによりて自己を中心とする意識が無くなつたときに現はれて来るのがすなはち法のはたらきであります。それを阿弥陀仏(即ち法)のはたらきであると感ずるときにそれは全く宗教的の意識であります。その時に我々の心の内にあらはれる心持がすなはち南無阿弥陀仏であります。  これは我々が心の外にある仏に向ひて祈願するによりてあらはれるものではなく、心の内をながめたるときにあらはれるところの光明でありますから、全く他力の法であります。自然法爾にあらはれるものであります。  この南無阿弥陀仏の心持をば客観的に我々の心に対立せしめることは宗教的意識のあらはれとして必然的のものであります。さうしてさう客観的に対立せしめることによりて我々の宗教的感情は満足を得るものであります。しかしながらそれは決して我々の心の外に存する仏ではありませぬ。不可思議(すなはち法)の力(願力)が我々の心の内にあらはれたのであります。我々はそれによりて光明を得るのであります。釈尊が「汝自からの燈火を以て汝自からの道を照らせよ」と言はれるのも全くこの心持を指して言はれたのであらうと思ひます。  それ故に自己の心を師とせよと言はれても、自己の心が即ち仏であるといふのではありませぬ。自己の心を阿弥陀仏に対立せしめて、その客観的の仏に向ふとき、我々は我々自己の心が阿弥陀仏に離るることが遠いといふことを知るのであります。我々自己の心はどうしても仏には近づくことの出来ないといふことを知るのであります。さう知ることの出来たときに我々自己の心は客観的の阿弥陀仏に対立して、いよいよ明かに我々自己の罪悪深重、煩悩具足の相を知ることが出来るのであります。かやうにして我々が自己の心の相を知るときに心の奥底から涌いて出るところの心持がすなはち南無阿弥陀仏であります。我々はこの心持をば阿弥陀仏の本願の力として感ずるのであります。阿弥陀仏は固より不可思議の法でありますから、我々はそれに觸れることは出来ないのであります。又固より我々がこの不可思議の仏となるといふことは出来ぬことであります。ただ我々は阿弥陀仏の本願の力が我々の心の中にあらはれることによりて阿弥陀仏の光明に觸れたことを感ずるのであります。さうして我々はこの光明が我々の心の上にあらはれることによりて、我々の道が照らされることを知るのであります。(昭和二年十一月)  個体仏陀の有無  問 仏は衆生を助けるとあるから、これを信仰すれば我は助かるものといふ単簡の意味に受取つて、毎朝毎晩仏をおがみ、仏につかみついて居りました。ところが「法爾」を拝読して仏教の大体がわかりまして、回顧すれば実に愚の頂天であつたことを自覚して、徒に仏につかみつくことの無益であることを知りました。我が道は我が照す外はないと道を進めて行き、行き詰つたところに他力本願の光明にぶつかりました。  しかるに現世利益和讃に南無阿弥陀仏をとなふれば此世の利益際もなし、又南無阿弥陀仏をとなふれば梵王帝釈帰敬す、諸天善神悉くよるひる常にまもるなり、云々とありまして、あたかも念仏は魔除けの如く、鉄條網の如くに思はれます。又梵王帝釈無量の諸仏とは個体的の仏で、念仏をとなふれば我々の身辺を保護せられるものでありますか。私は自力念仏は勿論、信徒の念仏と雖も護身の利益はないものと信じて居りますが、これは誤信でおりませうか。まことに愚問にて手数を備へ恐縮に堪えませぬが何卒平易に御教へ願ひます。  答 自分の進むべき道は自分が求むべきであるといふことはまことに当然すぎるほど当然であります。たとへて申せば私の腹が痛いといふときに、痛いといふ心は私の心でありまして、その痛みは私の心のはたらきによりて私が造つたものでありますから、私の心がそれを変化せざる以上、決して改まるものではありませぬ。固より薬を用ふるといふやうな外からの助縁といふものはありましても、それにしても私の心に痛みを感ぜぬやうにならなければ駄目であります。しかるに私の心を棚に上げて置いて、いたづらに他の人に頼みて痛みの巳むやうとつとむるは無益のことであり、又これによりて目的を達することの出来ぬことは言ふまでもありませぬ。  釈尊が「汝自らの燈火を以て汝自らの道を照らせ」と言はれたのは明かにこの意味でありまして、「心を法の本とする」といふ思想に本づきたるものであります。「心」が一切萬物の本であるといふ考から見れば、世の中は皆自分の心から造られたものであるといふ考に帰著するのでありますから、実際に我々が宗教といふことを考へ、仏といふものを考へるに方りて第一に著目すべきは自分の心であります。さうしてその自分の心が煩悩具足であり、罪悪深重であると知られたるとき、あなたの言はれるやうな行き詰りになるでありませう。さうなつたときに自分の予想や、想定や、思慮や、詮索やが消えて、あらはれるものが他力のはたらきであります。あなたが他力本願の光明といはれるのはすなはちこれでありませう。あなたがそれを光明と感じ、他力と感じ、本願と感ぜられるところに、あなたはそれを自分よりも偉大なるものと信じて、その偉大なるものを仰がるるのでありませう。まことに不思議のものでありますけれども、あなたの心には明かにそれを光明として感ぜられるのであります。それがあなたを助けたまふところの仏であるとあなた自身が感ぜられるのであります。  かういふ場合、仏が果して助けらるるか否かといふやうなことは問題ではありませぬ。仏にたのみて助けて貰ふといふやうなことは更に問題ではありませぬ。自分は助からぬものであると信ずる自分の心の上に自からあらはれて自分を導きたまふ偉大なるものを感ずるのであります。それを仏陀と名づけるのであります。この心持が強くあらはれたときには、そこに人格が考へられて著しい客観性をあらはするのであります。あなたが個体仏陀といはれるやうな仏陀が、我々の考の中にあらはれるものであります。  しかしそれは固より我々人間と同じやうな身体を所有したる仏陀といふ意味ではなくして、自分の心にあらはれたる仏陀を人格的に考へたまでのことであります。それ故に箱に書きたる仏像や、木に刻みたる仏像を見て、それに力ありとして崇拝するのではなく、その仏像に対して自分の心の上にあらはれたる仏陀を想ふのであります。早く言へば親の名前を聴いてその慈悲を想ひ出すと同じ意味のものであります。それ故に仏像は全く象徴的のものとして見るべきものでありまして、自分の宗教的意識が明かであるときに、それに対して崇敬の念が起るのであります。仏像そのものに力がありて我々をして崇拝の念を起さしめるものではありませぬ。この故にあなたの言はれるやうな個体仏陀が存在する筈はありませぬ。たとひ百歩を譲りてさういふものが存在して居つたにしても、我々には何の関係もないものであると言はねばなりませぬ。  親鸞聖人の「現世利益和讃」は、宗教的感情を述べられたもので、南無阿弥陀仏の心持になつて居るのは、いかなる場合でもその心が金剛堅固であるという心持も、諸神諸仏が守護して下さるといふ意味のものでありませう。かういふ感情は宗教的のものとして誰人にも起るところのものでありまして、これは全く精神的のものであります。(昭和三年七月)|  自然が如来か  某師の講話に大自然が如来であるといふやうなお話でありましたが、私は如来と自然とは別のものであると思ひます。いかがでございませうか。  答 如来が大自然であると言はれた意味は、多分大自然の不思議の力が、如来とあらはれるのであるといふやうなことであつたのであらうと考へます。勿論私はその講話を聴いたのではありませぬから、その人の考がどうであつたかといふことはわかりませぬから、その講話のことは別問題として、大自然が如来かといふ御質問にお答を致しませう。  大自然は広大無辺のものでありまして、固より我々の考の及ぶところではありませぬ。それを大なる力として見るとき、それが如来であるとすることは常識的に多くの人々から信ぜられることでありませう。大自然が偉大なる力をあらはして、我々に対するために我々はそれによりて生活することが出来るのであるといふことは疑のない事実として考へられるものでありますから、大自然の偉大なる力を綜合して、これを如来とすることも出来る筈であります。しかしながらかういふ意味で考へるところの如来は、知識的につくり上げたる一個の概念でありまして、直ちにそれを如来であると知るのではありませぬ。これを如来であると信ずるのでありますから、要するに、さう考へるだけのものであります。  大自然が如来であるといふ言葉はまことに簡単の言葉でありますから、これを解釈するには多大の注意を拂はねばなりませぬ。考へ方の如何によりては、大自然が如来であると約言することが正しいことがあります。又それが正しくないことがあります。それ故に、さういふ言葉が正しいか正しくないかといふことを穿鑿するに先ちて、先づ如来とは如何かなものであるかといふことを考へるのが緊要であります。  如来とは如(真如)より来り生ずるものでありますから、それが真如からあらはれるのであるといふことは認められませう。若しこの真如といふものを大自然と同じものと見ることが出来るならば、大自然が如来であるといふことが出来るでありませう。  固より大自然といふものは我々の思慮に及ばぬ広大のものでありますから、それから如来があらはれると言ひましても、実際に我々はただそれをさうと感知するのみであります。それ故に、大自然と如来とは別のものであると考へることも出来るでありませう。  如来が我々の前にあらはれると感知するのは、その力が我々に感知せられるためでありまして、その如来は法性法身の如来にしても、方便法身の如来にしても、何れも色も形もましまさぬものでありますから、それが大自然でありとするのも、この意味は、我々の心の及ばぬものであるといふに過ぎぬのであります。  かやうにして、我々が不可思議の力に動かされたと感知するときに、それは正しく如来の力によるものであると知られるのであります。これは決してさふ考へるのではなく、さう考へざるを得ないのであります。それが大自然であると言ひましても、我々が大自然を考へて、その広大無辺なる力を認めて、それを如来とするのとは大なる相違であります。 昭和十六年十二月十七日 印刷 昭和十六年十二月二十日 発行 東京市?町区内幸町一丁目二番地東拓ビルヂング四階 山文化研究所内 編輯者 正信協会 右代表者 桐原葆見 東京市小石川区高田豐川町三十七番地 発行兼印刷者 長宗泰造 東京市小石川区高田豐川町三十七番地 刷所所 厚徳社 発行所 東京市小石川区高田豐川町三十七番地 厚徳書院