親鸞聖人  文学博士 医学博士  富士川游 著  無我山房発行  はしがき  この一小篇は余が嘗て、中央公論の紙上に掲げたるものに多少の修正を施したものである。余が始めて親鸞聖人の教を聴きてから三十年、聖人の教を伝へたる書籍なども略ぼ閲読して大体真宗の要旨を瞭解することが出来たと信じ、親鸞聖人の教につきて、余が考ふるところを叙述したのである。これにつきては、幾多の方面より、種種の批評が出たやうであるが、余はこれ等の諸家と意見を闘はす積では無い。余はただ余が親鸞聖人の教より得たる宗教的経驗に対して感謝の意を表する考で聖人の教を今の世の有識者の間に広めたいのである。まことに、つまらぬ一小篇ではあるが、原子氏が、これを別刷にして、広く世に頒布するやうに勧めらるるので、中央公論社主麻田氏の快諾を得て、これを一小冊として、ここに刊行することとしたのである。  大正四年十二月中旬  富士川 游  親鸞聖人  富士川 游著  親鸞聖人の教につきて、余はここに、卑見を述べて見ようと思ふ。それには、まづ浄土宗の元祖たる法然聖人の教のことを略述するの必要がある。  法然聖人  保元平治の乱が平定してから十六年、平清盛が太政大臣として栄華を窮めた最中、高倉天皇の安元元年に当年四十三歳の元気盛りの僧、法然は、二十年来、苦心に苦心を重ねて、自得したる出離生死の道を述べ、聖道自力の修行を捨てて、浄土他力の法門を挙げ往生の業は唯、念仏を以て本とすることを説いた。法然は、もと美作の国、久米の南條、稲岡の荘の押領使の子である。九歳のときに父を失ひ、十五歳の時に比叡山に登つた。幼時より聡敏で文殊に擬せらるるほどであつた。久安六年、出離生死の道を求むるの念が急であつたために山を下りて、黒谷の慈眼房叡空の門に投じた。叡空随喜して、「汝少年にして出離の心を起せり、まことにこれ法然道理の聖人なり」といひて法然を房號とした。時に法然は十八歳の少年であつた。それから、報恩蔵に入りて、幾たびとなく一切経を読むで見たけれども、胸裡の煩悶を慰することが出来ず、保元元年、花の都が修羅の街となつた頃に叡空の許を辞し、嵯峨の清凉寺に七日の参籠をしたけれども何等の験もなかつた。それから奈良へ赴き、興福寺の蔵俊に就て唯識を学び、又京に帰て、醍醐寺の寛雅から三論の教を受けた。すべてこれ仮名の学問、空虚の形式であつた、出離生死の道を求むる為には何の益にもたたなかつた。それで法然は数年の修行も少しも得るところがなく、茫然として黒谷の叡空の許に帰つて来た。いかにもして、凡夫の出離を許すの道を求めむと、寝食を忘れて、聖教に向ひ、我が凡夫に相応する法門ありやと焦慮せしが、はからずも源信僧都の往生要集を読み「往生極楽の教行は濁世末代の目足なり」とあるを見て忽ちここに希望の曙光を認めた。それから善導大師の散善義を読みて「一心専念弥陀名號行往坐臥不問時節久近念念不拾者是名正定之業順彼仏願故」といふことを知り、胸中の苦悶忽ちに去り、「出離生死の要道は唯念仏の一行にあり」といふことを悟つた。  聖道と浄土  法然が説教する所を聴くと、仏の道に入るには種々の門があるが、大別してこれを聖道と浄土との二門とする。聖道門といふのは娑婆世界にありながら煩悩を断ち、悟りを開くの道で、これに大乗と小乗との別がある。しかしながら、聖道門は開き難く、入り難く、末世の凡夫の行には相応せぬ。浄土門といふのは娑婆世界を厭ひ捨てて浄土に生まるることを期するので、浄土に生まるるといふことは阿弥陀仏の本願である。故に人の善悪を選ばず、弥陀仏の本願を頼めばよろしい。故に、いかなる凡夫でもこの道に入ることは容易である。しからば、この浄土門に入りて、浄土に生まれんことを望まば、如何にすればよろしいかといふに、安心と起行とが必要である。安心とは至誠心深心、廻向発願心の三心を具ふることをいふのである。至誠心とは真実の心である。深心とは我身が煩悩を具足せる凡夫であるといふことを深く信ずる、又阿弥陀仏が四十八通の誓願を立てて、衆生を摂取したまふといふことを深く信ずるのである。廻向発願心とは我が身の過去並に現在に於ける功徳を浄土に廻向して往生を願ふのである。起行とは往生の行に読誦、禮拝称名、讃歎供養など多数ある内、一心に専ら弥陀の名號を唱へて行住座臥に忘るることなく、念々に捨てざるを正定の業と名づけて、これを極樂往生の正行とするのである。それで浄土に往生せんと思はば、この念仏の行を起して阿弥陀仏の本願の力を頼めといふのである。  専修念仏  法然が説くところの義は、此の如くに実に明瞭である。阿弥陀仏の本願は衆生を摂取するにある。我等凡夫は阿弥陀仏の慈悲に対して至誠心、深心、廻向心を具ふればよろしい、至誠心、深心、廻向心の三心、これを約めて言へば信の一字である。信心即ち往生である。我等は煩悩具足の凡夫である、自力の行を以ては往生の出来にくいものである。只管に阿弥陀仏の慈悲に頼り、その本願の力を借るより外はない、一切の疑念を去つてただこれを信ずる外に何もないのである。阿弥陀仏の智慧と慈悲とを信じて仏の御名を呼ぶ外に往生の行といふべきものは無い。これが法然の念仏の要義である。  これを要するに法然が専修念仏を主旨として、興したる浄土宗の教は、阿弥陀仏の慈悲を説くのである。もとより八萬四千の聖教の中には種々のことが説いてあるがその主眼とする所は阿弥陀仏の慈悲である、この慈悲を認めて、その力に頼るのが専修念仏の本旨であるといふのが法然の主張である。  形式的修行  法然が黒谷を出て、吉水に移り、専修念仏の法を説いたのは承安四年である。桓武天皇の時に、最澄空海の二僧が出で、最澄は比叡山に延暦寺を開きて天台宗を伝へ、空海は高野山に金剛峰寺を立てて真言宗を伝へ、その時までの教旨に一段の進歩を示してから四百年になる。奈良朝以来我邦に伝はつた仏教には三論、法相、倶舎、成実、律、華厳等の各派があつたが法然が専修念仏を唱へたる当時は、天台と真言とが最も盛で行はれて居つた。天台宗は法華経に拠り、真言宗は釈迦の外に大日を立て、即身成仏の新義を唱へて其他の宗旨とは面目を異にして居つたが、しかし此等諸宗の僧徒が、寺院で講釈する所は深玄高妙を窮めたる仏教哲学で、その日常行つた所は形式的なる修行であつた。それで仏法とそのものも、僧徒と名づくる一種の階級のものの外には殆ど無関係といふべき状態であつた。又その出離生死の道は、六度萬行の功徳によつて成仏が出来るといふのであるから、従て諸仏に祈請し、或は病気の平癒を祈るなどいふやうなことが始まり、僧徒の多数はこれを日常の業務として居つた。  念仏停止  しかるに、法然の専修念往生の教は、此の如き思想を根柢から覆へし、煩瑣なる哲学を排するために僧徒の生命なる経論が無益となり、又如何なる悪人も専修念仏によりて往生することを主張するがために当時の宗教が重きを置いた戒律がその権威を失なふことになつた。此の如き、宗教界の一大革命に対し、始めは「法然果して何事をか成さむ」と嘲笑せる南都北嶺の学僧等も、これまで久しく無益の経釈に厭き一切を捨てて出離生死の道を求むるものが歓喜して法然の教に帰依すること、草の風に靡くが如くなるを見て、大に忿怒し、比叡山の僧徒先づ噪ぎ立ち、次で奈良の僧侶も法然を攻撃し始めた。その中には、明慧上人、解脱上人等の名僧も居つたのである。その言ふ所に拠ると法然が菩提心を以て極樂往生の行とせざるは誤である、菩提心とは無上正覚の心であるのに、この仏法妙華の菩提心を捨てて往生の果実を結ばむと望むは無理である。仏果の功徳が名號の功徳に及ばぬといふも誤りであると論ずるのである。もとよりこれは新舊思想の衝突で、法然の方から言へば、這般の駁論はすべて見当違のもので、すこしも駁論としての価値はない、しかし反抗の火の手は益々熾になつた。比叡山の僧徒は法然が差出したる起請文によりて一旦その怒を鎮めたが、南都与福寺は邪宗を立つる罪、釈尊を軽侮するの失、萬善を廃するの事、国家を乱壊するの賊等九箇條の罪目を挙げて、念仏停止の儀を朝延に訴へた。此の如くにして、法然の教は、教権の方からと、教理の方からと、教化の方からと、三方面から圧迫せられた所へ、宮中の女官などに念仏の信者が出来て、それが物議の種となり、一時は旭日の昇るが如き勢のあつた吉水も、到底包囲攻撃に堪ゆることが出来ず承元元年二月、法然は、僧儀を廢せられ、藤井元彦の俗称で土佐の国へ流さるることになつた。この時門人の内で死刑に処せられたものが四人、流罪に処せられたものが七人、その一人、善信房といふが越後国に流された。善信房、罪名藤井善信、いふまでもなく、これが、すなはち親鸞聖人である。  親鸞聖人  親鸞聖人、俗姓は藤原氏、父は皇太后宮大進有範、母は吉光女源氏の出である。早く父母を失ひ、伯父範綱に養はれしが心何となく悲しく、明けても暮れても、心を痛め居しが養和元年、遂に青蓮院慈円僧正の室に投じて得度し、法名を範宴少納言と称した。時にその年九歳であつた。養和元年は安徳天皇の元年でこの年二月には平相国入道が熱を病みて薨じ、翌年は壽永元年で木曽義仲が京師に入り、平宗盛は天皇を奉じて讃岐に走つた、歴史上興味の多い年である。それから範宴少納言は叡山に登り、入壇して円頓菩薩戒を受け、南都にも往来して、天台、華厳の奥旨を窮め、廿五歳の時には既に聖光院の門跡となつた。親鸞聖人は叡山にありて倶舎論も読むだ、唯識論も読むだ、天台の三大部も読むだ、又奈良に赴きて法相、三論をも修めた、律をも修めた、華厳をも学んだ、一切経をも読み破つた。大小の教相、顕密の深義を研究すること二十年の久しきに及んだ。しかも出離の道を求めむと焦慮せる胸裡の煩悶は却つて日に益々其度を強くし、寝むれば覚め、覚むれば思ふといふ有様にて殆ど身の置所なきまでに苦しむだ。到底人力の施しがたきことを認めて、六角堂に参り、上宮太子の霊告を祈つた、その帰り途に安居院聖覚法師に遭ひ、吉水に法然が浄土他力の教を説くことを聞て大に喜び、直ちに法然の許に走つた。出離生死の要道は唯念仏して阿弥陀仏に助けられる外は無いといふことを法然から説き聞かされ、ここに忽ち聖道自力の道を捨てて、凡夫直入の真心を決定し、法然の門人となつた。法然も斯く速かに聖道の法を捨て、浄土の教に入りたる者はその類が稀なりと感嘆し、西河禅師の余風ありとて、その名を綽空と授けた。この時、親鸞聖人は齢二十九歳であつた。それから三十五歳の春、その師と共に流罪に処せられたときまで丁度六年の間、聖人は法然に親炙したのである。入門の順序からいふと、他に多くの先輩があつて、元久元年の冬、法然が比叡の忿怒に遭つて起請文を送つた時、親鸞聖人は綽空の名前で百八十五人の門人中、第七十九番目に自署して居た位であるが、しかし、親鸞聖人が法然の信用を得て居つたといふことは、法然が自選の選擇本願念仏集を第一番に親鸞聖人に附属したといふ一事でもわかる。選擇本願念仏集といふのは法然が元久元年に月輪禅定兼実公の命によりて選集したもので念仏の奥義を説いたもので法然は秘して誰にも見せなかつたのを、その翌年に親鸞聖人に写すことを許したと伝へられて居る。正信偈に「本師源空明仏教、憐愍善悪凡夫人、真宗教証興片州、選擇本願弘悪世」と言つて、親鸞聖人は明かに法然を以て日本念仏の祖師と仰ぎ、始めて浄土宗を立て又選擇集を作りて善悪の凡夫のものをあはれみ、その教を悪世に弘めたる徳を頌して居る。その他にも、親鸞聖人は屡々その師、法然を推称して居る。  淨土真宗  一代の高僧法然が全力を挙げて企図したる宗教界の大革命は、その門人たる親鸞聖人に至りて遂に成功した。親鸞聖人は、その師法然が「往生之業、念仏為本」と説いて、称名往生説を唱へたる真意義を掴み、更に一歩深く進みて、「称名則是、最勝真妙正業、正業則是念仏、念仏則是、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏則是正念」なりと言ひて、信心往生説を唱へたるは、真に念仏の意義を徹底せしめたもので、親鸞聖人はまことに法然の門人たるに恥ぢぬ人と言べきである、然るに親鸞聖人が法然の門下にありながら、此の如く、師説を廢し、自から、信心往生の説を立てたのを、異解であるとして、法然門下の他の人々が親鸞を排斥して居るのは、畢竟門人等が凡庸でその師匠の真意を受くることが出来ぬためである。法然の選擇集には「若し善導に依らば廃立を以て正しとす」とありて、廃立とは雑行往生を廃して念仏往生ばかりを立つるといふ意味で善導大師の説に拠れば雑行を許さぬ方が正しいと言つて居る。故に法然が謂ふ所の念仏は如来選擇の願心より廻向したまはりたる念仏で、強ち自力の雑行を要するものでは無い。しかるを、法然の門人等、「雑行も念仏も往生するとして、二類各生を立て雑行雑修も至心廻向すれば往生する。」といふ説を立て「念仏の中にはらみてある萬善萬行なれば雑行も念仏胎内の功徳なるゆゑ、別に捨てることなし」として雑行を許した。それ故、親鸞は「浄土宗の中に真あり、仮あり、真といふは選擇本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり、浄土真宗は大乗の中の至極なり」と唱道し法然門下の一派に対抗して浄土真宗の名称を選び、自から新しい一派を成した。しかも親鸞聖人は、これが法然の真意であると繰返し、高僧和讃の法然の條下にも「本師源空あらはれて、浄土真宗を開きつつ、選擇本願のべ給ふ、善導源信勧むとも、本師源空弘めずば、片州濁世のともがらは、いかでか真宗をさとらまじ」と、法然の源空を讃仰して居る。  師教の紹述  元来、宗教といふものは卓越した箇人の人格に現はれたる宇宙観と人生観とに基いて生れ出づるものであるが、法然は実にこの点から見て偉大の人格である、法然が専修念仏の唱道は当時の有様では実に大胆不敵の振舞であつた。  しかも法然は嘲罵の中にありて少しも争ふことなく、ただ孜々として、その思ふ所を実行した。法然は一切を南無阿弥陀仏の六字に包むで、只管に念仏称名を勧めた。浄土門は易行道を行くものであると言つて、経論の詮索を無用とした。阿弥陀仏の御誓は有智無智を問はずと言つて、僧俗の障壁を破つた。法然は又、寺院を建てるなと言つた。その新宗教を実際生活に副はしむるために山より都に下して、又その門人親鸞聖人をして妻帯せしめた。法然の門下には数多の英才も居つたが、此の如き法然の真意を瞭解したものはなかつた。親鸞聖人は自著の教行信証の末に「竊に以みれば、聖道諸教は行証久しく廢たれ、浄土真宗は証道今に盛なり、然るに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷て邪正の道路を辨ふることなし、斯を以て興福寺学徒太上天皇號後鳥羽院諱聖?承元卯歳仲春上旬の候に奏達す、主上臣下、法に背き義に違し忿を成し怨みを結ぶ、茲に因て真宗興隆の太祖源空法師並門に徒数輩、罪科を考へず、猥がはしく死罪に坐し、或は僧義を改めて姓名を賜ひ、遠流に処す、予も其一なり、しかればすでに僧にあらず、俗にあらず、是の故に禿の字をもつて姓となす、空師ならびに弟子ら諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たり、皇帝佐渡院諱守成聖代建暦辛未歳子月中旬第七日勅免を蒙むりて洛に入る以後空しく洛陽東山の西麓鳥部野の北の辺大谷に居し玉へき。同二年壬の申寅月下旬第五日午時入滅し玉ふ、奇瑞称計すべからず別伝に見えたり、然れども、愚禿釈親鸞建仁辛酉の暦雑行を捨てて本願に帰す、元久乙丑の歳、恩恕を蒙むりて、選擇を書しき同年初夏中旬第四日、選擇本願念仏集の内題の字、並に南無阿弥陀仏往生之業念仏為本と釈綽空の字と、空の真筆を以て之を書かしめたまへき、同日空の真影を申預かりて図画し奉る、同二年閏七月下旬第九日、真影の銘は真筆を以て南無阿弥陀仏と若我成仏十方衆生称我名號云々、必得往生之真文とを書かしめ玉へき、又夢告により綽空の字を改めて同日御筆を以て名の字を書かしめたまひ畢ぬ、本師聖人今年は七句三の御歳なり、選擇本願念仏集は禅定博陸月輪殿兼実法名円照の教命によりて擇集せしめ玉ふ所なり真宗の簡要念仏の奥義、斯に擇在せり、見るもの諭り易し誠に是れ稀有最勝の華文、無上甚深の寶典なり、年を渉り日を渉りて其教誨を蒙るの人、千萬と雖も、親といひ、疎といひ、この見写を獲るの徒は甚だ以て難し、しかるに既に制作を書写し、真影を図画す、是れ専念正業の徳なり、是れ決定往生の微ない、よつて悲喜の涙を抑へて由来の縁をしるす、云々」と書いて居る。これによつて、如何に親鸞聖人がその師法然に心服したかといふことが想像せられる。法然も亦、私かにその門下に此の如き立派の紹述者を出したことを喜んだことと思はれる。親鸞聖人は越後より関東に出で諸所に往来して、熱心に信心往生の説を唱へ、六十歳を過ぎてから京都に帰つたが京都には法然の門下が亡師の遺業を承けて念仏往生の教を布きその勢力が盛んであつたので親鸞聖人も殆んど手を下すの余地がなく、其後の四十年間の長日月を著述で送つたのである。  親鸞聖人の信仰  親鸞聖人の信仰は教行信証文類六巻、浄土文類聚鈔一巻、愚禿鈔二巻、浄土三経往生文類一巻、尊號真像銘文一巻、一念他念証文一巻、末燈鈔一巻、御消息一巻等の著書によりてこれを明にすることが出来るが、何の理屈も無い、何人と雖も出離生死の道を求むるには、ただ「信ずる」の一事で足りるのである。しかしながら、これを宗教として、世の人に勧めるには釈尊以来歴代の高僧の所説を依拠とせねばならぬ。それで親鸞聖人は印度に於ける龍樹菩薩、天親菩薩の二僧、漢土に於ける曇鸞和尚、道綽禅師、善導大師の三僧、我那に於ける源信大師、源空聖人の二僧を選びて、浄土真宗の七祖を立て大無量壽経観無量壽経阿弥陀経の三経を挙げて、これを浄土真宗の依拠とした。すなはちこれ等高僧の所説経典の記述は自家の信仰を証明するための用に供したのである。試みに親鸞聖人が自から説く所を考ふるに  「夫れ真実の教を顕はさば、則ち大無量壽経是なり、この経の大意は弥陀誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀み、選びて功徳の寶を施することを致す、釈迦世に出興して、道教を光?して群萠をすくひ、恵むに真実の利を以てせんと欲してなり、是を以て如来の本願を説くを経の宗致となす、即ち仏の名號を以て経の体としるなり。(教行信証)  「如来選擇の本願不可思議の願海、これを他力とまをす、これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果を得るなり、現生に正定聚の位に住して必ず真実報土に至る、これは阿弥陀如来の、往相廻向の真因なるが故に、無上涅槃のさとりをひらく、これを大経の宗致とす。(浄土三経往生文類)  固より釈尊一代の教は悉く弥陀の功徳を説くものであるが、文字の上に、明かに浄土願生を勧めてゐるのは、大無量壽経、観無量壽経、阿弥陀経の三部のみである。それから、この三部経は勿論、廻向の信心をあらはすを主旨とすれども、経文には差異があつて、直接に如来の本願を説いてあるのは大無量壽経である。故に親鸞聖人はこの経を真実の教として、  「念仏往生の願は、如来の往相迴向の正業正因なりと見えて候、誠の信心ある人は等正覚の弥勒とひとしければ、如来とひとしとも、諸仏のほめさせたまひたりとこそ、きこえて候、又弥陀の本願を信じさふらひぬる上には、義なきを義とすとこそ、大師聖人の仰にて候へ、かやうに義のさふらふらん限は他力にはあらず、自力なりときこえて候、又他力と申すは仏智不思議にて候なるときに煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候なることをは仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候、しかれば義なきを義とすと候なり、義とまふすことは自力の人のはからひを申すなり」(御消息集)  此の如くに説いて居る。約めてこれを言へば阿弥陀を信ずるのである。この信心を本として、出離生死の道を求むるのである。自力の行を捨てて、全く他力に慈悲に頼るのである。  阿弥陀仏  親鸞聖人は此の如く、声を大にして、「無量壽如来に帰命せよ」と勧める。無量壽如来とは壽命の限のない如来で、すなはち阿弥陀仏である、帰命とは命に從ふといふ意味である。しからば、その阿弥陀仏といふは果して何物であるかといふことを考へねばならぬ。  「涅槃と申すに、その名無量なり、くはしく申すに能はず、おろおろ其名をあらはすべし、涅槃をば滅度といふ無為といふ、安楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ、仏性すなはち如来なり、この如来微塵世界にみちみちてまします。即ち一切群生海の心にみち玉へるなり、草木国土悉くみな成仏すと説けり、この一切有情に心に方便法身の誓願を信樂するが故に、この信心即ち仏性なり、この仏性即ち法性なり、法性即ち法身なり、しかれば仏について二種の法身まします、一には法性法身と申す、二には方便法身と申す、法性法身と申すは色もなし形もましまさずしかれば心も及ばず、ことばもたえたり、この一如により形をあらはして方便法身と申す、その御すがたに宝蔵比丘となり玉ひて、不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはし玉ふなり、この誓願の中に、光明無量の本願、壽命無量の弘誓を本として、あらはれ玉へる御形を世親菩薩は尽十方無得光如来となづけ奉り玉へり、この如来、すなはち誓願の業因にむくい玉ひて報身如来と申すなり、すなはち阿弥陀如来と申すなり報といふはたねにむくいたるゆゑなり、この報身より応化等の無量無数のみをあらはして微塵世界に無碍の知恵光を放たしめ玉ふ故に尽十方無碍光仏と申す光の御形にて色もましまさず、形もましまさず、即ち法性法身《ほつしやうほつしん》に同しくして無明の闇を拂ひ、悪業にさへられず、この故に、無碍光と申すなり、無碍《むげ》は有情《うじやう》の悪業煩悩にさへられずとなり、しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は知恵の形なりと知るべし。」(唯心鈔文意)  「一実真如と申すは、無常大涅槃なり。涅槃即ち法性なり、法性即ち如来なり寶海と申すは萬の衆生をきらはず、さはりなくへたてず、導き玉ふを大海の水のへたてなきに玉へるなり、この一如寶海より形をあらはして宝蔵菩薩となり玉ひて無碍の誓を起し玉ふを種として阿弥陀仏となり玉ふが故に、報身如来と申すなり、これを尽十方無碍光仏と名づけ奉れるなり、この如来を南無不可思光仏と申すなり、この如来を方便法身とは申すなり、方便と申すは形をあらはし、御名を示して衆生に知らしめ玉ふを申すなり、すなはち阿弥陀仏なり、この如来は光明なり、光明は知恵なり、知恵は光の形なり、知恵亦形なければ不可思議光仏と申すなり、この如来十方微塵世界にみちみち玉へるが故に、無辺光仏と申す、しかれば世親菩薩は尽十方無碍光如来と名づけたてまつり玉へり」(一念多念証文)  これに由りて観るに阿弥陀如来は光明無量壽命無量の覚体である。  宇宙の本体  光明無量壽命無量の覚体は、即ち宇宙の本態に外ならずと、余は解釈する。専門学者の所説に拠れば仏身論に種々の解釈があることは無論であるが、余は門外漢として、自己の知識に本づきて、親鸞聖人の所説を解釈し、聖人が真如といひ、一如といひ、一実真如といひ、又は一如寶海といふところのものは、即ち宇宙の本態で、法性即ちこれであると信ずる。而して、この法性、即ちこれ阿弥陀如来に、外ならぬのである、しかるに、これには、色もなく、形もないから真如から、その形を現はして方便法身如来となるのであると説明する。全体救済及び歓喜の本源たる「自己より偉大なるもの」に交じはるといふことは、宗教的意識が醇正なる事実を現はすもので又宗教的経験の対象が真実なることも、この経験の中に存在するものであるが、親鸞聖人が阿弥陀仏を真如に求めこれを光明無量壽命無量即ち智慧と慈悲との最大のものとしたのは、聖人の宗教的情操が的確に且つ円満に発達して居つたといふことを示すものと云はねばならぬ。  今日、吾人が自然科学的宇宙観として信奉するところの一元論(Monismus)の思想に本づき、此の如き阿弥陀仏を見るに、両者の間に、一致するところがある、少なくとも、此の如き推論は自然科学的宇宙観から見て合理であることを認められる。余はここに、このことにつきて論述したいと思ふ。  精神科学  科学には、固より多般の種類があるが、大凡、これを区別して、精神科学と自然科学とにする。精神科学とは人類の精神の妙用によつて成生するところの現象を研究するものである。  近時、自然科学が非常の発展をしたために、精神科学が著明の影響を受けたことは巳に広く知られたる事実である。今日の学者の多数が説く所を聴くと、精神科学と自然科学とを区画して、互ひに相同じからざる法則の下に研究すべしと言ふのであるが、しかし批評的に深く考へて見ると、精神科学と名づけらるる学科もその実は自然界の現象を研究するもので、その系統は自然科学の一種に属するものである。たとへば広い意味で言ふ所の歴史、世界史、国家史、地球史並に自然史などは、すべて発生学の一分科に外ならぬのである。言語学、比較言語研究及び心理学は生理学の一部分と看做すべきものである。人類の精神から作り出す所のもの、即ち文学でも、同じく自然の現象に外ならぬものである。故に、狭い意味の自然科学、たとへば理学、化学、動物学、解剖学、鉱物学、地質学などの類から所謂精神科学を区画して、これを違つた法則の下に研究せらるべきものであるとするのは正当の考でないと言はねばならぬ。只自然科学の対象と所謂精神科学の対象とは大に同じからず、複雑なると、単簡なると形而上なると、形而下なるとの差異があるから互に相同じからざる性質のもののやうに見えるのである。自然科学が発展すれば、それに従て、所謂精神科学が著明の影響を受くるといふのは全くこの理に基づくものである。然しながら、吾人の認識の一定の限界あることは明かで、自然の実験的研究には不十分な点が多く、到底自然科学が到達することの出来ぬ部分が多いといふことは明らかである。故に、仮定説によりてこれを補はねばならぬ、仮定説を立つることは固より戒心せねばならぬことで、これは必ず自然的の合理的認識に矛盾せざる範囲で、せねばならぬ。百般科学の王と誇る所の哲学も、各個科学の結果をば宇宙観の一焼点に集中するものとしては、必ず自然科学の知識と背馳せぬやうでなければならぬ。余の考では、所謂精神科学が自然科学の影響を受るといふよりも、寧ろ所謂精神科学も自然科学と同一の法則に遭ひ、その成果に就て説を立つべきものである。  自然科学  自然科学は自然の物質及び現象を認識することに主として努力するものであるが、その認識の進歩は今や理学及び化学の方面に於いて、殊に著明であつて、これによつて勢力恒存の法則と物質不滅の法則とが発見せられた。吾人はこの法則により宇宙の勢力は常に一定にして、その分量は変化せず、若し或勢力が消失し又は新に起るが如く見ゆることあらば、それは唯、或勢力が他の勢力に変化したるに過ぎざることを知る。又宇宙の物質は常に一定にして、その量を増減することが無く、若し或物質が燃えて消失し、若しくは結晶して形を現はす場合あるも、それは単に形式又は結合の変化に過ぎざるものであるといふことを知る。此の如く理学上から立てたる勢力恒存の法則と化学上から立てられたる物質不滅の法則との二大法則を拠として、吾人は哲学の上にも実体恒存の原則を立つるのである。斯の如くにして成立せる自然哲学の見解によれば、宇宙は物質と勢力とにより成るもので、物質はこれを分析すれば極微の原子又は電子となる。而してその原子又は電子の交互の間には「エーテル」と名づくる極めて軽き薄き物が充満して居る。この「エーテル」はこれまでは量るべからざるものとせられ、全く無いに均しいものとして居られたが、近時、理学の進歩によりて、光、電気等の現象がこれに基づくことを認め又遂にその密度を測ることができるやうになつた。それから又、輓近の実験に拠れば原子又は電子は引力を有し、「エーテル」は反対に斥力を有し、宇宙の機械的作用は全くこの引力と斥力とに帰する事を得べしとせらるるまでになつたのである。故に、吾人の今日の知識から言へば、物質と勢力とは宇宙の統一的実体であつて、吾人の周囲に於ける有機体及び無機体すべての不可思議なる現象も、畢竟、同一の物体の形態と結合とが変化したるに過ぎないといふに帰著する。輓近自然科学者が唱道する所の一元論(Monisms)は即ちこの意義に外ならぬのである。  二元論  保守的の頭脳の人々、殊に伝説的の活力論(Vitalisms)を奉ずる人々の間には、二元論(Dualisms)が行はれて居る。この二元論は勢力と物質、体と心とを全く相離れたる実体なりとするもので、哲学の系統としては甚だ古きものである。この考から進むで、人格神が作られ、これを創造主として世界の保持者とし、人類はこの神より下れるものにして、世界にありて特別の地位を占め、自然界の他のものとは懸隔せるものとする。又人類は宇宙の中心で、他のものはただ人類の用をなすために造られたものであるといふことを信じられて居つた。しかるに、近時、古生物学、比較解剖学、個体発生学等の努力によりて簡単なる複製細胞動物から発達して人類に至るまでの経路が詳にせられ、又ラマルクの適応論、ダルウインの淘汰論のために、地球上の有機物は進化の方法によりて、漸次に発達したものであるといふことが明にせられ、これによりて人類中心の説は破壊せられたのである。今日、吾人は、現に地球上に存在する動物と植物とはその始め一個の同一物体から発生し、進化の法則によりて分岐し、人類は脊椎動物中の最も高等のものになつたのであると解釈するのである。又人類を宇宙の中心とするの説に併びて地球を宇宙の中心とするの説があつたが、これも一千五百四十三年コペルニクスのために打破せられて仕舞つた。  新活力論  此の如くにして、古き生活力論は輓近の発生学のために葬られたので、新活力論が新に起つてこれに代はつた、しかるに、これは人類の意識を神秘的に見て、動物の意識と区別しやうとするので、一元論の説く所に背いて居る。輓近の自然科学は人類を始め、他の有機物及び無機物の進化と同様に、精神の進化をも認めて居る。吾人の身体が吾人の祖先たる有脊椎動物から漸次に進化し来りたると同様に、吾人の精神も、脳髄の一種の機能として、下等動物から漸次に発達し来つたものであると認められる。  無機界及び有機界の発達が、此の如き次第であるために、吾人は今日、植物界と動物界とを絶対的に区別することが出来ぬ。これと同様に、下等動物と人類とをも絶対的に区別することが出来ぬ。又更に進みて、有機界と無機界との間にも画然たる分界をなすことが出来ぬ。故に、吾人は人類の認識の全体は一個の統一体であると信ぜねばならぬ。従て、この範囲にありて物質界と精神界とを区別することは出来ぬ訳である。すなはち、吾人の認識に入る所の全宇宙は一個の統一体で、一個の共通なる法則によりて構成せられ、又発展したるものである。  一元論  一元論と名づけらるる学説にも、種々の派がある。大別して二類とする。一は哲学上の一元論で、希脳のターレス一派の一元論がこれである。一は輓近の一元論で、自然科学的の宇宙観と名づくべきものである。即ち輓近の一元論は、輓近の発生学、人類学、解剖学、生理学、動物学、植物学、理化学等自然科学によりて認識したるところを綜合して、結論したる統一的宇宙観である。この一元論に従へば、、物質と勢力とが区別せらるるべきものでなく、宇宙の統一実体であつて、一個の共通なる法則によりて構成せられ、また、発展したものである。吾人の認識に入るところの物体と現象とには種々のものがあるけれども、これはすべて、同一の実体が、この形態と結合とを変化したものに過ぎないと論ずるのである。近世の大自然科学者、即ち医家から出でて、動物学を研究し、発生学の泰斗として名高きヘツケル博士も、物理学の祖にして、「エネルグチック」学説を立て、勢力の形式を以て、宇宙を説明せんとするオストワルド博士も皆、この輓近一元論を唱道するのである。  唯物論  唯物論と一元論とは外観が類似して居る。しかし、その内容は大に相異して居る。オストソルド博士はこれを辨明して「唯物論者或は機械論者は、全宇宙をば精神の流失なりと説く。これは両方共に同一の方法上の誤謬に陥て居る。即ち、この両者場合に於て、いづれも、単一から、多般を発展せしめんとし、事実上に現存せる多般の因子を明にすることを忽にして居る。輓近の一元論は、何か唯一の原理を求めて、これから全宇宙は発展し来たりたることを仮定するのでなく、寧ろ輓近の一元論者は、まづ宇宙を以て無限の多般なる渾沌なりと実観し、それより、人の精神力が、科学に一致して、漸次にこの渾沌の中に秩序をつけ、或はこの渾沌より一の斉和を得べしと説くのである。故に、輓近一元論者にありては、単一が思考の最初をなすものにあらず、却て人の思考の結末として単一が現はれる次第である。」と言つて居る。又ヘツケル博士も、この事を論じて「唯物論は厳格なる生物学的見解、即ち勢力と物質との関係の一元論的解釈に反対するもので、又その意味は甚だ漠然である。その正反対たる唯物論の名を以てこれに代ゆることも出来る。実に唯物論の名は全く分別せらるべき理論上と実際上の意味を混同するの嫌がある」と痛言して居る。これによりて、輓近の一元論と、ターレス一派の一元論及び唯物論などと、その外観が、一寸似て、内容の全然相異して居ることが明瞭である。実に輓近の一元論は、普通の哲学ではない、哲学的説といふことは妨ないが、形而上のものと混淆せらるる憂があるので、これを科学的の方法と言ふべきである。  汎神論  一面から見れば一元論は機械的哲学的説であるが又一方から言へば汎神論的哲学的説である。「萬物には一貫の精神がある、精神は宇宙のものに存在する。吾人の身体は単に大宇宙物質の一小部分に過ぎざると同様に、吾人の精神も亦、ただ大宇宙精神の一小部分に過ぎぬ。」と説くのであるから、この点は仏教の説に同じである。  靈魂不滅  輓近の一元論は、多般なる自然的現象及び文化的現象の統一を認むるもので、神と世界とを区別せず、物質と勢力とを区別せず、身体と精神とを区別せず、物体と現象とはすべて、統一的のものであると信じ、又これを不滅のものと信ずるのであるから、この意味に於て靈魂不滅の説は認められる。即ち吾人が死亡するときは、脳神経の組織をなせる個人的の形態と、これによつて行はれたる慟作の表現たる個人的の精神とは、共に消散するが、その脳神経の組織をなす所の物質は勿論消滅するものでなく、その化学的結合は分解せられて、更に他の結合を作り、再び一定の作用をなすものとせられる。他の言葉にて言へば、物質の集団的生活が廃絶して、単独の生活に還るのである。又一方から言へば、吾人の身体の組織が死亡するのは一時でなく、甲の細胞が死して、乙の細胞がこれに代り、甲乙丙丁互に相代謝しつつあるのであるから、第一の「我」と第二の「我」との間には離るべからざず連鎖がある。この意味で、吾人の霊魂は不滅であるといふことが出来る。しかしながら、固より個人的霊魂が不滅であるといふのでは無い。今日の宗教家の多数のものが言ふやうな二元論的の霊魂不滅は一元論の認容する所では無い。宗教でも個人的霊魂の消滅を説くものがある。現に我が仏教では五蘊(色、受、想、行、識)の集合が「生」で、五蘊の解散が「死」であるとなし、個人の霊魂を成す所の蘊は、死と共に解散すると説いて居るから、その説は同じく、一元論的の霊魂不滅である。親鸞聖人が浄土往生を説くも、また、この意義に於ける靈魂不滅に本づいて言ふものと、余は信ずる。即ち涅槃といふことは、狭隘《けふあい》なる固有の人格が消散して、単一存在の感情が他のすべての生活本態にて充たされ、人格的の苦痛が全く成立することの出来ぬやうになることを言ふのであるから、この場合に於て、個人的の精神に就て、云々するのでないことは明瞭である。  一元論と仏教  近頃、マドラスのラクシユミ、ナラスといふ人は「仏教の本態」と題する一書を著はし、輓近の仏教は実際に於て一元論と同一のものであるといふことを論じた。オストワルド博士はこの書を読みて、「少なくとも、この書に書いてある所では、仏教と一元論とが互に一致して居る点があるといふことを断言する」ことが出来ると言つて居る。オストワルド博士の見た所では、仏教の哲学にては、身体と精神とは区別することの出来ぬ統一体である。而して身体的及び精神的機能は同一の本態の作用の相異に止まるものである、従て自然律の認識につとめ、無生活体と生活体との関係を明にすることを以て倫理の法則を立つるの標準とし、又超自然的の神を排斥するといふことが全く一元論に一致した点である。  基督教  全体、神の信仰は、今日行はるる所の宗教のすべてに通有のものであるが、基督教の如きは、二元論に本づいて、人格的神を立て、この神が世界を造り、人類及び萬物を造り、これを支配して居ると言つて居る。又一方から論ずれば、真善美の人格化したものを神とするに過ぎぬとも言はれる。しかしながら、此の如き自然を超越したる人格神は、吾人が現代の自然科学的認識と調和するものでない。  一元論的宗教  ヘツケル博士は今から二十三年ほど前、千八百九十二年九月アルランブルヒに開かれたる第七十五回独逸医士及び自然科学者大会の席で「宗教と科学との連鎖としての一元論」と題する演説をなし、一元論に就て、委しく述べた後に、「知識としての自然の一元論的研究、善の教としての一元論的倫理学、美の詮索としての一元論的審美学、この三つのものは吾人の一元論の三大部門である。この三部門の円満なる調和によりて、今日多数の人が求めんとして未だ求め得ざる所の宗教と科学との統一が出来る。これ等の円満なる調和の存る所にすなはち、純粋なる神の概念が生ずる」と論じて居る。ヘツケルより前に、シユレージンゲル氏も科学的信仰論と題する著述を公にし、ヘツケル博士と殆ど同様の説を立て無限の空間に充満せる宇宙的「エーテル」を名づけて神とすることは差支ないとして居る。その他、ストラウス氏の舊信仰と新信仰、ドレーバー氏の宗教と科学との衝突の歴史、レツシエル氏の自然科学的宇宙観、コツホ氏の進化論に於ける自然及び人類の精神、サヴエージ氏の「ダルウイン説に本づきたる宗教」等数種の著述があつて、皆一元論的に宗教を改革せむとつとめて居る。  この意味で言ふ所の神は抽象的のもので、宗教的意識の象徴に過ぎないと言つてもよろしい。故に、基督教のやうな宗教の神の見方からいへば、一元論の所説は無神論である。しかし、この場合にありて、無神論の宗教が成立することが出来る。即ち科学的の宗教が存在することが出来るといふことは巳にクラインソルゲン、ステルン等の諸家が熱心に唱道する所であるがヘツケル博士も、「輓近の自然科学の発立は、単純の理性をして、まづ単に理論的の宇宙観を立つるに止まつて居るが、早晩実際の人生問題に這入て来て、社会的、倫理的、政治的、教育的の諸方面に行はれて、遂に一元論的宗教を成立するに至るべしと言つて居る。ヘツケル博士等が始めてこの言をなしてから二十年、今日では、ヘツケル、オストワルド等諸家が自から張本人となつて、一元論者団体を造つて、盛に運動して居るが、余の考ではこれは巳に宗教である。少なくとも宗教的運動であると言ふことが出来るのである。」  宇宙即如来  親鸞聖人の仏身論は、既に、前にも言つた通り、「法性を指して阿弥陀如来とする」のである。法性は実相ともいひ、常樂ともいひ、真如ともいひ、一如ともいひ、無為法身ともいひ、無上涅槃ともいひ、実に宇宙の本態と見らるるものである。仏身を指して直ちに法性、真如。一如如等とせしは、その意義実に明白で、ヘツケル博士が輓近の一元論に本づきて、宇宙の勢力の総和を指してこれを神とすべしと説くのと相異がない。固より親鸞聖人の説は内省的思索に出で、今日の意味で言ふ所の自然科学の知識に本づいたものではない。しかしながら、「如来は一切群生海の心にみち玉へり」とか「草木国土悉く成仏す」とかいふやうな、汎神論の考から、論理的に推論すれば、此の如く、宇宙の本態を阿弥陀如来とするといふことは、必ず帰著すべき標点である。  親鸞聖人は、更に説明して、「法性に二つある。一は法性法身で、一は方便法身である。法性法身といふは色もなく、形もなく、従て心も及ばず、言も及ばず、これ即ち真如である。この真如より形をあらはしたのを方便法身といふのである。」といひ、唯心鈔文意に「法性のみやこより、衆生利益のために娑婆界に来たり玉ふ故に来をきたるといふなり、経に従如来生とのたまへり、従如といふは真如なりと申す。来生といふは来たり生ずといふなり。」と説いて居る。これによつて、親鸞聖人の思想が、今日の一元論の所説と同じく、宇宙の本態を認めて、これを真如とし、生ぜしとし、この法性から阿弥陀如来をこの世に来たり生ぜしめたと説くも強ち不合理では無いと余は信ずる。  仏教の各派中、天台は諸法実相とて、靈妙自在の理が活動して宇宙の萬有を生じたりと做し、華厳は自性清浄の一理で以て宇宙の発展を説いて居る。何れも主観の上に宇宙の本態を発見せんとするものであるが、浄土門の教では、これに反して、如来の上に、宇宙を発見せんとする如来即ち法性、宇宙即ち如来とするのである。この場合に於て、仏性の文字の用ひらるるに対して、ヘツケル博士は、神性の文字を用ひて居る。神性といふは宇宙の本態で、物質といふも、物質の根元といふも、皆同一のものである。故に、一元論でも、親鸞聖人の教に於けると同じく、宇宙がなければ神が無いといふことになる。  宗教的象徴  親鸞聖人は此の如く真如より来生せる仏を尊崇するに、「南無阿弥陀仏」、又は「尽十方無碍光如来」、又は「帰命無量壽如来」の名號を用ひて居る。無量壽如来に帰命し阿弥陀仏に南無するといふ意味は、全く抽象的のシンボルであるとは、蓮如上人御一代記聞書に、「他流には名號よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には木像よりは絵像、絵像よりは名號といふなり」と言つて居るのでもよくわかる。この蓮如上人の言は、よく親鸞聖人の意思を明白に示したものでといつてもよろしい。  しかるに、此の如き、抽象的の神では、宗教的意識の満足を得ることが六ケ敷いといふ論者もある。殊に超自然的のものでなければ、宗教の中心とならないなどと論ずる人もあるが、実際決してさうでない。卑近の例であるが、たとへば、ここに故人の遺著若しくは遺墨があるとする。若し故人の人格を知つて居るものがこの遺著若しくは来たりて、崇拝の念がここに起るのである。若しその故人に就て何等の知る所が無い場合であれば、その遺著若しくは遺墨に対するも、少しも崇拝の念が起るものでない。全体、宗教は、その究極に於て、個人的事項で、その人の知識、経験によりて左右せらるるものである。従て、各人各個、自己が最も有効なりと認むる方法で宗教的事項を処置するものであるから、仏陀を見る場合にも人によりて相異がある。親鸞聖人は阿弥陀如来を以て知恵の塊、慈悲の塊と見た。宇宙勢力は実際に知恵の最大なるもの慈悲の最大なるものとするのは合理である。仏教中、他の宗旨が、観念を主とし仏の相好等を重く見るに反してでもよくわかる。この蓮如上人の言は、よく親鸞聖人の意思を明白に示したものであるといつてよろしい。  しかるに、此の如き、抽象的の神では、宗教的意識の満足を得ることが六ケ敷いといふ論者もある。殊に超自然的のものでなければ、宗教の中心とならないなどと論ずる人もあるが、実際決してそうではない。卑近の例であるが、たとへば、ここに故人の遺著若しくは遺墨があるとする。若し故人の人格を知つて居るものがこの遺著若しくは遺墨を見ると、故人の人格が髣髴として眼の前に現はれ来りて、崇拝の念がここに起るのである。若しその故人に就て何等の知る所が無い場合であれば、その遺著若しくは遺墨に対するも、少しも崇拝の念が起るものでない。全体宗教は、その究極に於て、個人的事項で、その人の知識経験によりて左右せらるるものである。従て、各人各個、自己が最も有効なりと認むる方法で宗教的事項を処置するものであるから、仏陀を見る場合にも人によりて相異がある。親鸞聖人は阿弥陀如来を以て知恵の塊、慈悲の塊と見た。宇宙勢力は実際に知恵の最大なるもの慈悲の最大なるものとするのは合理である。仏教中、他の宗旨が、観念を主とし仏の相好等を重く見るに反して、親鸞聖人の教が、どこまでも、「聞其名號、信心歓喜」で名號を本尊として居ることは注意すべき点である。  仏凡一体  此の如くに、論し来たれば、慈悲無量壽命無量の覚体たる如来が、衆生を摂取して捨てざるは無論のこと、如来と衆生と、その体は各別なれども、如来の心と、衆生の心とは全く相通じたものであると考へねばならぬ。これに依りて他力信心の宗旨が徹底する訳である。親鸞聖人が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、助けんと思召たちける、本願のかたしけなさよ」といへるは、実にこの真意を示すもので、如来の本願も、衆生の信心も、つまり同じものであるといふことに帰著する。若し如来が超自然的のものであつて、衆生と対立して居るものとすれば、それは吾人に取りては誠に頼りの少ないものである。如来の心即ち仏心と、衆生の心即ち凡心とか、同一のものであるといふことが自覚せられ、自分は今、如来の慈悲心の内に懐抱せられて居る。どこまでも如来と一処に生活して居るものであると考へて、始めて、南無阿弥陀仏の有難味がわかるのである。  安養浄土  クラインソルゲン氏は宗教の神髄は、美しくして且つ貴とき、未来の福音であると言つて居るが、親鸞聖人の教では、  「吾人は如来の本願によりて未来は必ず安養浄土に往生すべし」  と説くのである。唯信鈔文意に  「極楽と申すはかの安楽浄土なり萬の樂を常にして苦しみまじはらざるなり。彼国をば安養といへり。曇鸞和尚はほめたてまつりて安養と申すなりとのたまへり。論には蓮華蔵世界ともいへり、無為ともいへり。涅槃界といふは無明の迷をひるがへして無上覚をさとるなり」  と、説いてある。故に、この教に従へば、  「真実の信心を得たる人は摂取の光にをさめ取られまゐらせたりとたしかにあらはせり。しかれば、無明煩悩を具して、安養浄土に往生すれば、即ち、無上仏果にいたる」  「大経往生といふは如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力と申すなり。これ即ち念仏往生の原因によりて必死滅度の願果を得るなり、現生に正定聚の位に住して必ず真実報土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるが故に無上涅槃のさとりを開く、これを大経の宗致とす」  「本願力に乗ずれば真実報土に生まれること疑ひなければゆきやすし」  「真実信を得たる人は本願業力の故に、自然に浄土の業因たがはずして、かの業力にひがるる故にゆき易く、無上大涅槃にのぼるにきはまりなし」  といふことになる。その安養の浄土、安楽の浄土、極楽浄土、等といふものは、全く如来の国である。如来即ち法性、法性即ち宇宙勢力であるから、吾人の身体に結合せる五蘊は、命の終りで、解散せる五蘊は故の法性即ち宇宙勢力に帰るといふのである。往生は即ち成仏で、成仏は仏になる。即ち如来となるのである。即ち宇宙勢力に復帰するのである。これ、即ち滅度、一に涅槃といふので、煩悩もなく、苦痛もなく、誠に極楽の世界である。  此の如く、吾人が平生に於て往生せんと望むで居るのは極楽浄土、無為涅槃界であるが、この一生を終らざる前も、巳に如来の本願を知り得たるときは、即ちこれ涅槃の境界に入りたるものにして、これを平生業成とも、即得往生ともいふのである。即ち、臨終の時来れば、直ちに無為涅槃界に至りて如来と同一の体となることが出来る資格を得るといふ次第である。  安養浄土は何処にあるか、これは詮索を要する所でない。主観的の意識生活が滅びて、ここに死といふ事実が起つても、吾人の霊魂、詳しく言へば勢力は決して滅亡するのではない。故に、人類の後生を説いて、安養浄土に往生するといふのは、宇宙勢力の一部が、結合して吾人の身体を成して居つたのが、その結合を解いて、又故の宇宙勢力に帰つたとするのは今日の一元論から見て、合理のものである。これに宗教上の色彩を附けて、浄土の名目を立つることは、宗教生活の上に有用である。  往還廻向  親鸞聖人は又、往相廻向と、還相廻向とを説いて居る。往相とは往生浄土の相で、還相とは還来穢国の相である。廻向とは廻転趣向の義で、自を廻して他に向ふことをいふのである。この説に拠ると、衆生が浄土に往生するための信心は如来よりの廻向(往相廻向)で、既に浄土に往生したるものが、還り来りて、再びこの娑婆に廻入し、衆生を救済する大悲の作業も同じく如来より廻向せられたるものである(還相廻向)。これ一方から見れば、衆生の信心が、如来の慈悲より賜はるるものとして、絶対他力を示すものであるが、又一方から見れば、吾人衆生は如来の慈悲によりて、娑婆より浄土に往き、浄土より娑婆に還ることを得るものとする考を示すものである。而して、此の如き生生世世の生死の反復は輓近の一元論的にも、同じく推論し得らるるところである。  在家の宗教  親鸞聖人は、在来僧侶の俗を破ぶり、断然在家の行儀を以て妻を持て、子を持ち、無戒の一比丘として本願の念仏を証明した。これ実に非常のことである。尋常一様の凡人の偽し得べき事でない。浄土宗の徒の書いた正邪強會辨に「親鸞は何ものぞや、頭を禿にして妻子を畜へ、肉味に耽著する一個の禿居士にあらずや」と罵倒してあるが、この種の俗論は、今日でも、親鸞聖人を批難するの材料となつて居る。親鸞聖人は師匠法然が瀕死のときまで口にしたる「寺院を建つるな」の戒告を守り、仰山な建物を造らず、普通の民家より少し手広い所で、布教をした。又その説教の時の姿はといへば、墨の衣に墨の袈裟であつたと伝へられて居る。当時の僧侶は一体に華美彩色の法衣を著けたもので、墨の衣、墨の袈裟はまづ俗人に近い姿であつた。此の如くにして法然のために、山から下されたる宗教は、親鸞聖人のために、全く町の真中にまで移されて仕舞つたのである。出離生死の道を求むるためには家を捨てねばならぬ、妻子を捨てねばならぬ、山へ登らねばならぬ、世間から離れねばならぬといふことでは、その宗教は吾人の実際生活からは隔離したものである。法然が早くこの点に著目し、親鸞聖人がその意思を承けて、浄土真宗を在家の宗教としたのは実に卓見と称せねばならぬ。而して、親鸞聖人が、法然門下の他のものと異なりて、法然の真意を攫み、浄土真宗の真意義を発揮したために却て法然の門下より排斥せられ、浄土宗では何時の間にやら、その記録を訂正して、親鸞聖人を法然の門下の列から削除した。これ実に不可思議のことである。  宗教と科学  宗教は固より科学では無い。科学は智力に本づき、宗教は感情に基づくものである。言ふまでもなく、宗教の情操は、真、善、美を綜合したる完全の理想によりて生ずるもので、理想の完全のものである。これによりて、その人の人格的中心を変じ、利己的の物質的境涯から、利他的の精神的境涯に遷すものである。若しこの宗教の情操が十分発達して居ないときは、吾人の精神生活は寂莫で、殆ど堪ゆることが出来ないやうになることがある。  全体精神活動の状態に比較して考ふるに、科学は覚官に相当するもので、その研究の対象は現存せる事物と、その生成の経路とである。その性質的の研究をするのは哲学の範囲に属する。即ち哲学は自由の思惟作用で、精神内部に於て如何の感じが生ずるかを研究する、これで道徳の基礎を作り、又これを教ふることも出来るが、その道徳に生命を興ふるに至りては宗教の力に頼らねばならぬ。即ち宗教は社會組織の意思に相当するもので、すべての最高芸術及び偉大なる行為はこれから生ずるものである。何れにしても、宗教は感情の範囲に属する者で智力を本とする科学とは殊別のものである。故に、親鸞聖人も「他力真実の旨をあかせるもろもろの正教は、本願を信じ、念仏をまをさば仏になる、この外、なにの学問かは往生の要なるべきや」と往生の業に学問の要なきことを言つて居る。しかしながら感情も智力と同じ精神の妙用で、その発達を十分にするには智力の力を籍ることを要する。故に宗教も、科学と、相関渉する場合がある。即ち真実の宗教は、当時の人々の科学的知識に相応せるものでなければならぬ。親鸞聖人の浄土真宗の教が、輓近の一元論に相背馳せぬといふことは、実にこれ真実の宗教であることを証明するものであると余は信ずる。又、学問して仏の本意を知ることは、宗教的情操を満足せしむる上に、大なる効果がある。故に、親鸞聖人も「学問せば、いよいよ如来の御本意を知り、悲願の広大の旨をも存知して云々」と説いて居る。  親鸞聖人終 大正五年一月廿五日 印刷 大正五年一月廿七日 発行 著作者 富士川游 発行者 原子広宣 印刷者 守岡功 印刷所 凸版印刷会社 発行所 無我山房