月例会 2014年

八起会 忘年会 (2014/12/20)

12月は毎年恒例の忘年会を行いました。
年に一回の締めくくり。普段なかなか参加できない会員も集い、約30名にて3時間歓談に加え、ビンゴゲームや寸劇?で交流を深めました。

忘年会に先立ち、野口会長は以下のように語られました。

総選挙も終わりました。誰が政権をとっても良いが、経済を良くして、失業者を減らすような本物の政治をして欲しい。もちろん、政治家任せでは駄目。経営者は会社を潰さない、一般の方なら人間倒産しないよう、毎日努力すべき。

毎年、10大ニュースを発表しているが、今回は自分に関する2つのことを取り上げたい。

1つは、今年85歳になるが、初めて席を譲られた。戸惑ったが、譲ってくれた方の思いに応えて、感謝して座った。しかし、自分の中では何かうれしくない、がっかりした。まだまだ元気で、席を譲られるような老人になりたくない。そのためにも若々しく健康になるよう頑張りたい。

もう1つは体重が80キロを切ったこと。いくつになったかと言えば、79.9キロ(笑)。笑い事のようだが、自分にとっては55年ぶりの大変なニュース。目指すのは「七転び八起き」の78キロ。こんな、どうでもよいような小さなことでも目標を持ち、好奇心を持つことが大切。

今年も忘年会の時期が来ましたが、毎年、寄付やお酒・物品などを提供してくれる人がいる。また、いろいろと準備してくれた世話人さんがいてくれる。本当にありがたい。

皆さんの笑顔もおかずの1つ。皆で楽しく歓談し、来年をもっと良いとしにしましょう。

ところで、36年前に八起会はここ(浅草)で旗揚げしたが、これには理由がある。今から36年前、浅草は死んだ街だった。キャバレーや場外馬券場ができてから、若い人はほとんど来なくなった。タクシーさえほとんどいなかった。

街の有志が集まり、何とか浅草に元の賑わいを取り戻したいと、一生懸命に復活させた。倒産者も浅草と同じように復活させたいという思いをこめて、ここでの旗揚げを決めた。

浅草を見習い、浅草に負けないように、復活・再起を目指したい。

※ 野口会長の言葉は、会員専用HPにアップしています。

八起会 11月例会 (2014/11/15)

(野口会長の資料として配布された「同族経営心得10か条」)



海産珍味の卸売を営む、Iさんによる「私の履歴書」講演会を行いました。

Iさんは、S17年 大阪に生まれ、現在72歳。東京の足立に生まれ、工業高校を卒業後、日産自動車に入社。しかし、大卒との給料の違いに愕然とし、3ヶ月で辞職。夜間大学で物理を学ぶ。

大学卒業後は、兄がやっていた海産物会社に入社。昭和42年に海産珍味の卸売で独立、51年には会社組織化する。

「1万円で仕入れた商品だが、7000円でよいから買ってくれないか」とある仕入先から持ちかけられたことがあった。いわゆるバッタ品。仕入れた商品は2倍の額で売れ、大いに儲けた。

「利益が出ればいい」。仕入先の苦しい事情は考えなかった。同じように何度か商品を持ってくるが、資金繰りが苦しいと言う。お金を貸した。あるときから連絡が途絶えてしまった。お金も返してもらえなくなった。妻には「あの人と商売すべきではない」と忠告されていた。妻の意見を聞くべきだった。

八起会との縁は、新宿で講演会を聞いてから。会長のテープを購入し何度も聞いた。友人を通じ、梅崎さんを紹介してもらい、息子と共に入会した。

息子には「今の商売はやめたほうがいい」と言われる。コンビニが増えるため、得意先である小売店は減っている。今は息子が継いでいるが、別の商売も平行して行っている。

バブルの時に店舗と家を買い、仕事を始めた得意先がいた。一年で一日しか休まずに、364日働き大いに儲けて、たくさんの商品を買ってくれた。しかし、その後急速に売上を落とし、平成9年に倒産。お得意さんがなくなるのは残念なことと感じた。

海産珍味の組合は、最盛期48社あった。今では数社しか残っていない。

バブルも終わる頃、48歳のときに母親の土地に事務所兼用でマンションを建てることにした。しかし、日照権を巡って近隣とトラブルになり、裁判に発展した。幸い3ヶ月ほどで勝訴できたが、和解のために保証金を出したり、子供がいじめられ転校するなど大変であった。

建設資金は銀行で借りたが、当時の金利は8.3%。湾岸戦争が始まったことで銀行からは「土地の半分を売却し処分したほうがいい」と言われたが、承知できなかった。資金不足で、自分たちの住む家はかなり狭いものになってしまった。妻に「いつになったら広いところに移れるのか」と今でも言われる。

資金は何度か銀行を変えることで、1%台の金利で借りられるようになり、一息ついている。それでも、クロスの張替えから屋上工事まで自分たちで全て行うことで、何とか経営している。家賃は新築当初に比べ、30%落ちている。近隣の相場から見れば仕方ない。

残念ながら、本業の珍味はジリ貧。利益を出そうとすれば売れない。ただ、現金商売なので手形がないのは幸い。

【野口会長の言葉】

経営の目的は継続すること。継続さえできれば運が向くことがあり、そのときに成長もできる。問題はそのためにどうしたらいいのか。答えは2つ。

1つは「トップを高める」こと。もう1つは「当たり前」をきちんとやること。当たり前とは、誰でもわかっていること。理念、教育、計画、良い人脈、自己改革、公私混同しないこと。

Iさんは倒産していない、継続している。息子にバトンタッチできている。これは素晴らしいこと。

苦労は誰でもしている。しかし、自分(会長)の場合は、楽天的で苦労していない。だから駄目(笑)。ある人が言った。「苦労しているときが、経営しているとき」。

Iさんと同じく、後継者の問題は多い。「息子は駄目だから、自分が社長に戻った」とか、「子供がいないから甥に譲りたい。しかし、妻は会社を売りたい。そのことで離婚の危機」など。

4年前に来た人は、「会社は黒字で問題ないが親父が弟の方ばかり持つ」というので、「一年間、あなたが黙りなさい」とアドバイスした。一年間沈黙していたら、父親のほうから「社長になれ」と言われた。しかし、今度は弟との仲が悪くなった。「弟は自分で何とかやっているなら、その分野に関しては任せなさい」とアドバイスした。

(各会員に後継者に譲ったとき、先代から譲られたときのことを聞く)

Uさん「経営者にとって一番大事なことはお客さんを裏切らないことと、引き受けた仕事は必ず守れ」。

Kさん「特に何も言わなかったが、自分のやっていた卸売りから小売にした。実績がでないのが心配」

Nさん「スタッフを大事にして欲しい」

Oさん「父から譲られたが、若い自分の気持ちも汲み取って欲しかった」

Nさん「反発はしなかったが、引き継ぐことをもう少し考えて欲しかった」

Kさん「会社を閉じ、子供に渡さなかった。性格的に建築業が向かいないと判断した」

(再び、会長)

Iさんの息子は責任を持ってやってくれている。Iさんは寂しいというが、聞き流すというのは息子の成長の証。息子さんはシビアに経営している。

息子が後を継がないほうが良い場合もある。相談にもケースバイケースで答えている。何でもかんでも社長にすることはない。

※ 野口会長の言葉は、会員専用HPにアップしています。

八起会 10月例会 (2014/10/17)

(野口会長の資料として配布された「存亡の分岐点」)

 

看板業を営む、Oさんによる「私の履歴書」講演会を行いました。

Oさんは、S26年 大阪に生まれ、現在63歳。

父親は製紙会社に勤めており、転勤が多かった。小学校のころは、ほぼ毎年で、兵庫、岐阜、東北に引越。高知に転勤した後、ようやく落ち着いた。

高校一年のとき、足にボールがあたり、あまりに痛いので医者に行った。地元の病院では原因が分からず岡山大学に。骨腫瘍とわかる。「あと、2,3ヶ月発見が遅れたら、足は切断」と医者に言われた。自分は運がいいと思った。

岡山大学入院中に、岡山大学院生二人と仲良くなる。両手両足の指が無い。山登りで凍傷に掛かったとのことだった。2年後、たまたま新聞を読んでいると、この二人が登山で死んだというニュースがあった。将来有望だったはずなのに親不孝な二人だと思った。

2年浪人して近畿大学に入る。卒業後は、石油会社に入社。27歳で東京勤務。2年後に結婚し、二人の子供を持ったが、このころから将来は独立したいと夢を持つようになる。

知り合いの社長から「メディア事業部を作りたいので、君やってくれないか」と声を掛けられる。メディア事業部という名目であったが、実際には看板屋であった。一度は断ったが、再三誘われ、事業部長として新たなスタートを切る。

一年半やってみたが、赤字続きで社長がやめるという。「それならば、独立してやってみたい」と思った。看板協会の支部長に相談したところ、「やってみろ、仕事を回して応援する」と言われた。実際に独立後は仕事を世話してくれた。

独立は平成11年。社員は雇わず、一人だけで営業。看板作成・設置は外注任せでビジネスし、リーマンショック前は2億まで売上を伸ばした。リーマンショックが下降の原因になった。

H24年に心筋梗塞を患い、入院。仕事にも行き詰っている中で、奥様から、野口会長の本を渡され、これがきっかけで入会。

H25年、野口会長に強く勧められたこともあり、会社を倒産させ、自己破産。会長の薦めてくれた弁護士さんのお陰で無事免責となった。

倒産の直接のきっかけは、ある大手企業A社の大型商談 2500万円の看板設置。無事納品したにも限らず、お金が入ってこない。A社との間にB社がおり、その下にさらにC社がいたが、B社が約束の代金を払ってくれない。B社とC社で裁判になったが、結局、Oさんの直接の親請けC社が負ける。C社自体も経営が悪化しており、必要な契約ができていなかった。(結局、C社も会社を清算することになる)

倒産の原因はもっと根深くあったと思う。営業マンとしては能力があったが、経営者としての能力が無かった。「人がよい」のもアダになったと思う。真面目だけではダメ、もっと緻密に経営すべきだった。

具体的に言えば、借金が一番問題だった。銀行から「無借金経営などできないですよ」と言われた。これを鵜呑みにした。500万がスグに出た。2億まで売上が伸びて、借りやすくなったこともあり、一億近くまで雪だるま式に膨らんでしまった。今考えると恥を忍んでも、借金は身内に頼むべきだったと思う。

お客から貰うことより、外注に支払うことを優先した人の良さもあった。上も下も同列に思いたかった。自分としては、これを原因の1つとは思いたくないが・・・

一流の経営者になるには「倒産、大病、投獄」が必要だと言う。自分は2つ経験できたと前向きに捉えている。

今年7月、新しい会社を作り、娘が代表となり、自分は営業マンとして、再起のスタートを切っている。迷惑を掛けた取引先が、皆応援してくれた。まだまだ実績は少ない。家内がクリーニング店で働き、家計を支えてくれている。

倒産前に迷っていたとき、会長の「事業の失敗は、人生の失敗ではない」という言葉に救われた。今は、一日一生の思いで、毎日努力している。


【野口会長の言葉】

「倒産、大病、投獄」の3つは、規則正しい生活になるためには必要と言うこと。入院しても、投獄されても、強制的に規則正しい生活をせざるを得ない。ただ、その後が問題。元の生活に戻ったら意味がない。

事故が多発している。一年前の伊豆大島、広島、御嶽山。多くの人が死んでいる。家族の気持ちを考えるといたたまれない。山の怖さを教訓にしなければいけない。
社長は定年したらゴルフに行くが、ゴルフ場では年間7000人が死んでいるそうだ。ケガの無い生き方をすべきではないか。

ノーベル賞は明るいニュース。日本人はすばらしい。受賞した人は、意外に小さいころ勉強が嫌いで苦手な人が多かったとのこと。大人になって頑張れば良いと言う事であり、勉強がダメだった人には嬉しい話。

Oさんは、勇気を持って倒産の話してくれた。倒産後、すぐに再起できた。幸せな人だと思う。Kさん、Yさん、Nさんと同じようにすぐ再起できた人は、人徳のある人。人徳があれば、いい出会いがある。いい人に囲まれて再出発できる。

自分は徳がないので、倒産したとき、皆逃げていった。自分ひとりで商売しなくてはいけなかった。結果、いろいろな商売で失敗した。勤め人も50をすぎて3年やった。

すべて八起会をやりながらだったが、いろいろな商売を経験したことで、いろいろな人の相談に乗れるようにもなった。ムダはなかった。倒産してよかった。

Oさんは人がよく、騙されやすい。これは直らない。部下を持ったらよいと思う。Oさんは年上の人と付き合うより、年下の人間を使うのがうまいはず。これからが勝負。無理をしてでも、一人雇ったらよい。

八起会 9月例会 (2014/9/20)

不動産業を営む、Mさんによる「私の履歴書」講演会を行いました。

Mさんの父親は20歳前に結婚、タクシー、ダンプの運転手や、土木作業などに励みながら不動産会社を立ち上げた。

Mさんは二代目。父親から経営を引き継いだ。バブルのころに最絶頂期を迎え、一時期は売上1000億、支社40拠点、社員は500人まで拡大した。しかし、平成に入りバブル崩壊で急落。借金は2000億にまで膨らんだと言う。

経営が傾いた後は「銀行と二人三脚で経営した」。銀行はとても協力的であった。
会社には、銀行から5~6人の専門家が来てくれた。銀行の社員であるために、給料も銀行持ちで働いてくれた。

当時、毎月の金利が5億あった。銀行からは「利息はいらないから、不動産を整理してくれ」「担保物件の不動産は5割でも7割でも良い」と言われた。これらのアドバイスで徐々に借金を整理できた。

多額の借金があるのに、会社が倒産しなかったのは、次のような原因があったと思う。

1)銀行の好意的な支援。
2)手形を使わず、現金商売だった。
3)支援してくれる人がいた。

かなり大きな会社であったために、毎日記者に追いかけられたり、地上げ屋との関係から街宣車が会社の前に着たりした。また、債権回収機構には、300億ほどの借金があり、個人的な貸金庫まで調べられたこともあった。

平成10年、かなりの額の借金が清算できたこともあり、銀行からの出向社員はいなくなった。自由な経営ができるようになった半面で、今後どのように経営すべきか悩むようにもなった。

そのころ、八起会の20周年記念があることを新聞で知り、参加することにした。
20周年記念に10分ほど遅れたら、会場が一杯で入れず、外のモニターで皆さんの発表を聞いた。

八起会で経営が学べるのではないかと思い、入会させていただくことになった。

八起会に入ってから16年になる。毎月の例会での皆さんの発表は、自分の経営にとても参考になった。会長の本やテープでも学んだ。NHKのラジオ放送のテープは数え切れないほど聞いている。

八起会五則の中では、特に早起きを実践している。3時に起きて、6時過ぎには会社に出社、午前中には仕事を終えている。脳梗塞になったこともあるが、夜お酒を飲まなくなった。飲めば、早起きできなくなる。

現在、会社は10人まで縮小した半面で、多くの社員が独立してくれた。


野口会長の言葉。

デング熱、スズメバチ、毒グモなどの悪いニュースが多い中、錦織の快挙とiPSの移植成功はすばらしいニュースだった。日本全体に勇気と感動を与えてくれた。

医療が進み、平均年齢で100歳まで生きることができるようになるかもしれない。しかし、油断してはいけない。暴飲・暴食・睡眠不足は体の倒産を招く。

会社も同じ。アベノミクスでよくても油断大敵。自信過剰と公私混同という自分の甘さはきちんと抑えること。

Mさんは不動産屋さん。私が不動産を買ったのは、会社を興して4年間に4軒の家を買ったこと。「妻と子供3人に家を残してやれる」「男とは太く短く」「後は使ってしまえばいい」とその後は縁が無かった。

70歳を過ぎて入院し「俺が死んだら妻はどうなる」と考えた。家賃を払わなくてもいいようにするため、40年ぶりに家を買おうと思った。買うときには、Mさんに相談した。「あの不動産屋、あの建築業者のマンションですから、大丈夫です」と太鼓判を押してくれた。

Mさんは、八起会に夜逃げしてくる人の住まいも見つけてくれた。本当に良い人である。大変な借金を背負って、それでも潰さずに経営し続けた。普通の人には出来ない。並大抵ではない。普段の努力ができる人である。

今は小さな会社になったが、必ず生き残ってくれると思う。油断せずに頑張ってください。

八起会 8月例会 (2014/8/23)

建築・リフォームの工務店を営む、Nさんによる「私の履歴書」講演会を行いました。

Nさんは昭和44年 東京生まれ、45歳。調布に生まれ、小学校一年のとき、町田の「山の中」に家を建て移り住んだ。父親は大工で、元々は作業場であった場所にこの家を建てた。

中学ではサッカー部に所属したが怪我をして、ブラスバンド部に変更。ここで生涯の趣味とする「サキソフォーン」と出会う。当時この楽器の名前を知る人はいなかったが、チェッカーズで使われたことで、一気に有名になった。高校もブラスバンドに所属。そのまま音楽の道に行きたかったが、父親と同じ建築の道を目指し、建築系の専門学校に行く。

学校卒業、父親と一緒に働くつもりだったが、「よその飯を食って来い」と言われ、新宿の工務店に就職する。現場監督の仕事であったが、新人のうちは職人と同じ仕事を経験した。3年目に現場主任となるが、ほとんど休みがなく一年で360日働いていた。

4年目に父親に「そろそろ戻ってくれないか」と言われ、実家の工務店に入る。

会社員時代ほど忙しくなくなったため、この時期を利用して建築士の資格を取ることを決意する。一年で絶対に資格を取ると決めた。勉強漬けの毎日は大変辛かったが、乗り越えて決めたとおりに一級建築士の資格を取得した。

専門学校で建築CADを使っていたことから、パソコンCADにも挑戦した。Windowsが出る前の時代であり、パソコンもCADも高額で、安いものを見つけたがそれでも100万円掛かった。CADに使うだけでは勿体無いと、パソコンで会計ソフトも導入した。自らも会計が少しずつ分かるようになってゆく。

会計をやるようになり、何か変だと思った。(会社化したが)個人の頃に貰えていた前受金が、徐々に受け取ることができなくなっていった。その半面で職人にはスグ払っていた。入金が遅く、支払いが早い。結果、足りない分は借り入れに頼るようになっていった。借り入れは、銀行のいうがままに、何本かを長期返済に変えた。自分は現場ばかりに気をとられて頭が廻らなかった。

個人から有限会社に変える際、元々予備校講師を勤めていた弟が未経験のまま入社。人数が増え、コストアップの原因となった。このままでは数字的に危ないと思い、営業も始めた。

会社設立から10年後には自分が代表になる。なかなか小さい仕事しかなく、大きな仕事を取るために新築に力を入れた。チラシで失敗したが、フリーペーパーへの広告では効果があり、少しずつだが問い合わせを受けるようになる。

しかし、このころにローコスト住宅が流行りだす。アイダ設計やタマホームとぶつかり、結果的に見積を安く出さざるをえなくなり、結局、利益を削ることになる。利益を上げるために、新築を取りに行ったはずであったのに。

この新築事業で実家工務店を潰すことになる。以前から知り合いだったある女性建築士に頼まれた新築の施工だったが、出来上がった物件を見て、施主であったおばあさんが「自分がお願いしたものと違う」「だから、お金は払わない」と突然、言い出した。施工主だけでなく、建築士とも揉めて、結局3800万円の代金は未回収となった。

この事件を知ったメイン信金が「とにかく600万円だけ返してください」といってきた。手元にはちょうど600万円しかなかったが、長い付き合いで信金なので次も考えてくれるだろうと返した。しかし、すぐに「残金はいつ返してくれますか」と言って来て、貸してくれる状況でなくなった。

信用保証協会の代理弁済が決まった瞬間には、パニック状態に。意識しないうちに車を飛ばし、知らない場所に来ていた。飛び出してきた女の子を轢きそうになって、われに返った。そのとき思った。「借金が返せないくらいで、死ぬのはおかしい」。

家族会議を開いた。「これ以上は持たない。どうにもならない。」、倒産と父親と自分の自己破産を決めた。父親に申し訳ないと頭を下げた。「お前のせいではない。俺がちゃんとフォローできなかった。責任を感じることは無い」。涙が流れ、止まらなかった。

平成22年の年末、倒産そして自己破産。41才のときである。借金のことを考えなくて良くなり、安心できる正月休みだった。紅白歌合戦を見るのも本当に久しぶりだった。

借金の抵当に入っていた実家は、競売に掛けられることになった。貸家を探したが、自己破産した自分に貸してくれる家は無い。多くの不動産屋をまわって、ようやく見つけたのが神奈川のボロアパート。姉に保証人になってもらい、ようやく落ち着くことができた。

住むところが見つかったが、何かをして働かなくてはいけない。自分には建築系しかなかった。初めて入った会社に頼み込み、日当仕事を貰って食いつないだ。

若手の経営者の会で知り合った人間に声を掛けられ、UR団地の改修工事の監督を下請けで手伝うようになった。あるとき、二人の姉妹のおばあさんが住む家を改修したとき、「ありがとう、ありがとう」と本当に喜んでもらえた。まるで孫のように接してくれた。お菓子も貰った。

「お客さんに感謝される仕事がしたい」心からそう思った。雇い主に独立させてくれと頼み、個人でやり直すことになった。

独立したが、当然お客などいない。考えた末に前の会社時代のお客さんに、手紙やメールを出し、挨拶を兼ね再開することを説明した。いろいろなお客さんから「また来てくれるんでしょ」言われた。縁の大切さに気づいた。八起会五則の「いい出会い」だと思う。

倒産を忘れてはいけないと思い、八起会に電話。2年前の8月に入会した。

独立後は、建築組合の下請けをするようになり、その信頼関係の中、再起3年で建築業務の許可も得ることができた。これで下請けでなく仕事ができるようになり、昔のお客様から新築の請負まであり、少しずつ順調に業績を伸ばしている。

野口会長の言葉。

8月6日と言えば、広島に原爆が落ちた日であるが、実は八起会の設立日でもある。設立当初は、今のように落ち着いた状況で無く、倒産したばかりの人間が集まっていた。毎週日曜日に集まったが、「何か良い商売は無いか」そんなことばかり言っていた。

ネズミ講やマルチ商法を持ち込む者もいて「こんな状態では一年持たない」と思った。しかし、一年なんとか生き残れた。この感謝を一周年記念として世間にお返ししたいと考えた。

しかし、8月になれば、夏休みでありお盆がある。考えた末、一周年記念は「7転び8起き」にちなんで7月8日に決めた。これが今でも続いている。

例会は8月だけは第四土曜日に行っている。第三土曜日はお盆にあたるからである。年に一度のお盆。ぜひお墓参りに行ってほしい。以前は8月の例会に必ずお坊さんを呼び、仏教の説教を聴いた。

松下幸之助は、「どうやって人を育てたのですか」と聞かれると「いつも祈っています」と答えた。祈ることで、天から知恵を授かっていたのだと思う。

私も倒産後、いつも祈り拝んでいる。毎朝3回祈る。自宅と事務所の神棚、そして事務所の隣にある下谷神社。

「相談者に良い回答ができますように、勇気と知恵を与えてください」と祈る。
神に頼み、委ねるので安心を得る。だから、多くの相談を受けたがストレスはない。八起会の会員が病気のときは、一人ひとり元気になるように祈る。

ある会員が喉と胃がんで入院している。今は、皆100歳まで生きる時代。だからこそ、時々故障する。入退院は当たり前、身体の修理である。病気をして休むと、心も健康に成る。倒産も同じ。自分の場合は、天が倒産させてくれた。強制的に真人間にしてくれた。お金がないと真面目にならざるを得ない。

講演したNさん。これからは絶対大丈夫。ゼロから成功する人は、①働き者であり、②環境に対応できる人間。環境に対応できるとは、金持ちでも貧乏人でも対応できる人間のこと。

多くの人には「多角化」を勧めない。しかし、Nさんだけには多角化経営にチャレンジして欲しい。会社を3つも4つも持って大いに頑張ってほしい。

八起会 7月例会 (2014/7/19)

7月は、36周年目の年次総会を行いました。その後、野口会長のお話。関西に帰られたN会員の講演を行いました。

会長からは、36年を振り返り、八起会を金銭的にも支えた「会長の講演」について、お話をいただきました。

※ 例会の様子は、会員専用HPにアップしています。

八起会 6月例会 (2014/6/21)

防災関連の会社を経営されている Sさんによる「私の履歴書」講演会を行いました。

Sさんは昭和22年生まれ66才。熊本県に生まれ、中学2年生のときに父親の仕事の都合で東京に状況。高校時代に精神を鍛えるため、合気道を始め、これに没頭。自ら合気道部をつくり、50人を集めた。20才の時に、ほとんど寝ずにいながら参加した寒稽古で無理をしすぎ、20日間意識不明の状態になる。

24才で仙台に。選挙活動を手伝いながら、トンネル工事用などに使用される防水関連の会社に入社する。7年間仙台で仕事をし、結婚後30才で東京に戻る。東京ではホンダの防災を請け負う会社に入社。

3年後に独立。最初は新築時の防災用具(火災報知機など)の販売からスタート。
当時盛んだったマンションの立体駐車場の点検業務などに拡大し、社員は20名、月商2000~3000万円程度に成長した。

しかし、新日鉄の新商品の登場などで売上が下がり、平成8年には下請けに支払う買掛金を中心に1億5000万円まで借金が膨らむ。

当時49才。この時から60才になるまでの11年間は、ほとんど記憶がない。
必死で働き、仕事のし過ぎ・疲労で3回死に掛けた。
特に平成8年から半年は自分がわからないほど働いた。人間忙しすぎると性欲さえ失うと知った。

営業力には自信があったが、いろいろな意味で知らないことが多すぎたと反省している。平成21年になって、ようやくほとんどの債務を返済できたが、この間に離婚、再婚も経験した。現在の社員は15名。マンションの防災点検を中心に無理せず順調に経営できている。

八起会との縁は、会社を始める前の1981年に野口会長の本を読んだことに始まる。

会社が潰れそうだった平成8年から会長に何かと相談に載っていただいた。正式な入会は6年前だが、ずっと前から所属していたと自分では感じていた。今年から放送大学に入学し、学び始めている。

野口会長の言葉。

世の中、良いニュースが少ない。悪いニュースが8割ある。殺人なども毎日のようにある。驚くことに、最近は高齢の夫婦で奥さんが旦那を殺すという事件まで起きた。

悪いニュースは、そのときだけ騒ぐが、その後どうなったかを報道しない。リーマンショックのとき、自動車産業が危ないと言っていたが、近頃になれば最高益だといっている。

ブタの病気で2万頭死んだとき、ブタの業者は大変だろうと聞いてみたら、実は値上がりして儲けた人間のほうが多いと言う。

PC遠隔操作の片山被告は、眉が繋がっている。昔から、多くの相談に答えるため、相手の本性を見抜く意味で「観相学」を学んできた。「観相学」で言えば、眉が繋がっている人間は「悪巧み」をするのが多いと言う。

眉の間は目1つ分離れているのが良い相であり、たとえば自分のように「八」の字型だと、争いを好む、浪費癖あり・・・。目は横に長いほど他人に対する思いやりがあり、丸いほど自己中心。

ただ、手相も人相も変わる。変えるのに一番良いのは、八起会五則をしっかり実行すること。

Sさんのお話しについて。

相談に来た中で一番困ったのが、夫婦の問題。もう変更ができないほど悪くなっていれば、最後は「自分が思ったとおりにするのが一番正解」。借金がある上で離婚すると、奥さんにも仕送りしないといけないので二重に大変だったろう。

Sさんは、借金と離婚の2つの苦しみを経験して、3つの能力を得たと思う。

1)コツコツ努力する人になった。
2)まとめる能力がついた。
3)後始末がうまくなった。

もう、失敗することはない。

※ 野口会長の言葉は、会員専用HPにアップしています。

八起会 5月例会 (2014/5/17)

コンビニ経営されているNさんによる「私の履歴書」講演会を行いました。

Nさんは47才ながら、八起会入会は平成2年、会員暦は20年。倒産経験者ではなく、倒産に学ぶ現役経営者として活躍中です。

入会当時は青年会議所(JC)にも所属していたが、JCよりも八起会参加を優先した。

小さいころに岐阜から東京に引越し。当時は訛りや名前のことでイジメも受けた。小学校のころ、実家のアイス運びの手伝いをしたが、ずいぶん怒られ嫌な思いをした。

長じて、父親が経営するアイス卸売と自動販売機の設置・補充の会社に入社。母親の入院が原因であったが、今から考えると一時的にでも他人の飯を食べてくるべきであったと思う。

八起会に入って学んだために、会社の倒産は無いが、家庭の倒産を経験。一度目の結婚に失敗。二度と結婚しないと決めた。しかし、縁あって感謝できるすばらしい今の奥様と再婚できた。

自分の心の中で、父親の会社を引き継ぎたい思いから、独立し自分でやりたいと思うようになった。H15年、コンビニ経営をすることとなったが、工場中心の立地。他のコンビニの出展例が無かった。市の条例に引っかかり、実際に店を開けるようになるまで、ずいぶん時間が掛かった。

コンビニのFC加入には最大手のS社を選んだ。もっともFC料が高かったが、お客様の立場で考えて、お客様が一番望むFCを選んだ。

店を始めても最初はお客が来なかった。店の周りを掃除し、元気に挨拶をする中で、徐々にお客が集まってきた。今では9割が常連の顧客。

順調に行き始めたが今度は競合店が近くにできた。3割売り上げが下がり、利益は半分になった。体制を作り直し、特に接客(笑顔と挨拶)に力を入れてアルバイトを教育し直した。

昨年は2つの競合店ができたが、今度は15%しか下がらなかった。今はすでに5%減まで戻っている。(常連さんが多いため)人に人格があるように、店にも店格がある。これを上げてゆくのは一人ひとりの努力が必要。

うちの店は本部から廃棄が多いと言われる。しかし、夜来たときでも商品が少なければ、お客の信用を失う。廃棄は宣伝料と思って、お客様の都合に合わせている。

お客様のクレームにも感謝。クレームいただいたお客様との付き合いのほうが長くしっかりしたものになる。マニュアルは100%ではない。自店の立地によって工夫を加えている。

野口会長の言葉は、次の通りです。

前回、「いくらあれば、お金持ちと言えるのか」という課題をいただいた。

それを自分なりに考えてみたが、答えとしては「人によって違う」としか言いようが無い。人によっては数千万と言うし、1億と言う。どちらでも良い。その人にとっての正解。

八起会としては、金持ちよりも「心の金持ち」を目指すべき。

手形で潰したある人は「次に商売するときは、絶対に手形を使わない」と決めた。実際に行ってみて、「手形を気にしなくて良い。これほど嬉しいことは無い」。小さなことで喜びを得られる人。これが「心の金持ち」である。

うちの家内は倒産したとき「これで借金が無くなった。こんなに幸せなことはありません。」と言った。小さなことに幸せを感じる人=「心の金持ち」は、心豊かな人でもある。

ある会員は倒産した上に、しばらくして脳梗塞で倒れた。その奥様に「大変ですね」と言ったら、「いえいえ、倒産してから倒れるまでに時間がありました。それで余裕があった。とても良かったのです。」

心の金持ちは苦労した人である。苦労が元になって心の金持ちになれた。
だから、苦労は最高の教育でもある。

Nさんも苦労した人。イジメを受けたり、手伝いで怒られたり、離婚したり。
苦労したからこそ、今の幸せがある。

八起会 4月例会 (2014/4/19)

2月の大雪で延期となっていた、Fさんの「雑談力」講演。

本人曰く、「上がり症で、口べた」。朴訥な語り口ではあったもののFさんの誠実な人柄が伝わる講演となりました。

Fさんは、1951年生まれ。小さい頃から親に言われ、小学校2年の納豆売りをはじめとして、様々な仕事を経験。中学校の時には修理工の工場に。子供のいない主人夫婦に「将来の養子に」と期待され、出された豪華な食事に感動。修理工になることを決意。自動車学校に通い、スバルに就職。2級整備士の資格も取得する。

20歳になったとき「世界旅行に行きたい」と思い立ち、安い船旅でアメリカに。
手にした5万円は船の中でなくなり、アルバイトで稼ぎ、ヒッチハイクで移動、出会ったばかりの人に泊めてもらうなどし、6ヶ月間アメリカ中を旅する。アメリカの豊さを知って日本に帰ってからは、「もっと儲かる仕事をしよう」と考え、損保の代理店になる。

三男であることから、特に娘しかいない顧客から可愛がってもらい、仕事は順調。結婚もした。ダメになってきたのは、保険料の自由化以降。かなり、収入が減ってしまった。

15年前、周りの同僚や先輩があいついで亡くなり、二人の子供は大学生、住宅ローンもありながら、業績が悪化。不安が募っていた。

そんなときに八起会を知る。入会後は、徐々に借金を減らしてゆき、現在まで事業も継続している。

夢は、20歳のときに果たせなかったアメリカ旅行にゆくこと。趣味は読書。本に囲まれて寝て、朝4時におきては、ゆっくりと読書を楽しんでいる。

今月の野口会長のお話は次の通りです。

Fさんは入会後すぐに「八起会のビデオを全て見せてください」と申し込んできた。
こんなことを言ったのは、数多くの八起会会員の中で、Fさんともう一人だけ。

八起会の事務所に来るたびに、2本、3本と借りては勉強を続けた。彼のような熱心な会員はあまりいない。

倒産者には、話し上手が多い。しかし、本当は下手なくらいがいい。

自分は、テレビやラジオに多数出てきたが、どうも普段よりも丁寧になりすぎる。
テレビでは、ついつい欠点の無いように話してしまう。

※ 野口会長の言葉は、会員専用HPにアップしています。

八起会 3月例会 (2014/3/15)

「私の履歴書」と題し、O会員の人生体験を語る講演を行いました。

戦後、父親が靴の卸売を開業。品物があれば売れる時代。あっという間に資金を作った。

Oさんは、1962年に入社。4年後に白血病で父親が倒れ、経営の勉強をしないまま、社長に。

昭和30年代後半から40年代。安いビニール靴を神戸から仕入れ、業績を伸ばした。その後「流行」で売れる時代が始まった。「ブーツ」のブームで、9800円のブーツが飛ぶように売れた。如何にたくさん仕入れできるかが勝負の時代だった。また、10cmの厚底靴もパンタロンブームで、品物があるだけ売れた。

ここまでは、メーカーが作り、卸が売る時代だったが、徐々に「卸が企画し、メーカーに作らせる」時代に。オリジナル商品を作りたいと思っていたところに、できたばかりのメーカーが「企画をいただければ小ロットでも作ります」と、渡りに船で売り込みに来た。

他の卸にはない商品が目玉になり、5年間は好調を維持。事業規模は拡大し、12億の年商に育つ。

ところがその好調が悪夢に変わってゆく・・・

自社の手形が、暴力団に流れていた。調べてみると、このメーカーから仕入れたはずの品物が実際には入っていないことがわかる。入荷の無いまま、手形だけメーカーに切っていた。

その金額の合計2億円。年商12億の会社からすればとんでもない金額の手形が流れていた。ここから必死の資金繰りが始まる。家や土地を担保に銀行から借りまくり凌いだが、結果、仕事をして儲けた利益は、ほとんど銀行に吸い取られた。

何とか借金を返し、家の担保が外れたそのとき。第二の危機が訪れる。阪神大震災だった。

生命線の仕入先のほとんどが、神戸市長田区の中小メーカー。区画整理できていない土地にプレハブで建てただけの工場は潰れ、火災で焼けてしまった。結果、日本での仕入先を失った。

この震災を契機に多くの同業者は問屋を廃業した。早く辞めた人は大きな傷を負う事は無かったが、自分は「残ったものが勝てる」と考えてしまった。

時代的にも日本の軽産業はダメになっていた。中国から仕入れざるを得なかったが、当時の中国製品は仕入れロットが大きい上に品質も悪かった。ずいぶん騙された。

残った土地、建物も全部つぎ込んだが、平成12年ついに倒産。債権者会議には20社が集まったが、自分を責める人間はおらず、むしろ「今まで良く頑張った」とねぎらってくれた。

小学校の頃から会社の手伝いで靴の扱いを始め長年やってきたが、時代の流れが変わっていたと思う。それに気づくことができなかった。2代目の甘さだった。初代であれば「時代の流れ」を読むことができたと思う。

その後、八起会にお世話になり、就職先も紹介してもらえた。就職先で必要になったため、パソコンも勉強し、今でも大変役に立っている。

経営は「場面場面で自分を冷静に見つめられるか」が重要だと感じている。

今月の野口会長のお話は次の通りです。

30周年のとき、3人のご夫人が話をしてくれた。この3人は忘年会でもいつも活躍してくれる。

そのうちのIさんはとても夫婦円満。その秘訣は夫が言いたいことを言うときは妻が黙って聞く。妻が言うときは夫が聞く。できるだけ、口論しないようにしているのが秘訣。これも長年の失敗から学んでいる。なかなか簡単にはできない。

Oさんも体験談を語るのは辛いと思う。しかし、皆のために話してくれた。

2代目と初代の倒産の苦しみは違う。初代は「自分で起こした会社、潰しても仕方ない」と思える。しかし、2代目は初代に申し訳ないと思う。ここがさらに苦しい。

オリンピックのスケートで真央ちゃんは初日の演技で失敗し、地獄を感じたと思う。しかし、その分、次の日の演技が素晴らしく天国に感じただろう。これを見ながら「地獄に落ちても、必ず天国に戻ることができる。」と確信できた。

※ 野口会長の言葉とOさんの講演の動画は、会員専用HPにアップしています。

八起会 2月例会 (2014/2/15)

大雪の影響で講話者の会員が来場できないハプニングで、野口会長が急遽司会を担当されました。来場者も普段の半分。少人数ながら、楽しい例会となりました。

野口会長の挨拶は、次の通りです。

若い人にとって、失敗は最高の教育。自分で失敗できない代りに、八起会で失敗者に学ぶ。

成功者と失敗者、何が違うのか?
カンブリア宮殿では「ワンマンだから成功するが、ワンマンだから倒産もする」と話した。同じワンマンでもその質が違う。

イトーヨーカドーの社長に成功の秘訣を聞いたときには「秘訣はありません。普通にやるべきことやっているだけです」と言われた。しかし、倒産した人間も普通に努力していたはず。「普通」にも違いがある。

今回のテーマは「話し下手とあがりの防止」について。
「話し上手」な人にも成功者と失敗者がいる。結婚式の挨拶を頼まれたとき、3分以内で収まるか。3分を超えてだらだら話す人は、周りのことを考えていない。

ある町に「一言町長」がいた。どんな席でも本当に「一言」で話したと言う。それが気に入られ、ずっと長く町長したという。

ある大きな食品会社の社長は、幹部200人を集めた研修会で、一言「食べ物はおいしくなければなりません」と語った。5分後にまた「食べ物はおいしくなければなりません」。この一言を30分言い続けた。この研修は、200名の幹部にとって「伝説の研修」となり、未だに語り継がれている。

自分も昔は「あがり症」で赤面症。それを克服するために、弁論部に入り、努力した。また、講演の前には必ず、守り本尊が入ったお守りを胸に抱きながら「立派に講演できますように」と祈る。

「あがり症と口下手の克服」に対して、会員各位が次のように答えました。

・話すのは苦手。しかし、回数を重ねたら、話せるようになった。
・観音経を3回唱えてから話す。来ている人は、自分の社員と思って話す。
・営業に出て、一日10人と話すようにしている。
・小学校のころはどもり(吃音)があった。漫才を見て、関西弁や栃木弁のように話すことで克服した。
・上手に話そうとして欲張るのがいけない。
・練習あるのみ。25周年のときも一言一句間違えないほどに練習した。
・いつも新聞の面白い記事の切抜きを持っている。話がないとき、これを読む。
・聞いている人を石ころと思って話す。

※ 野口会長の言葉は、会員専用HPにアップしています。

八起会 1月例会 (2014/1/18)

年初めの例会として、野口会長が司会となり、今年の目標とテーマごとの各自発表を行いました。

最初に野口会長の年始の言葉がありました。今回は、この一部をご紹介します。
今年は午年。「馬」という漢字の上がタテガミを示し、下の点は4つの足を示しています。

馬にはいくつかの諺(ことわざ)があります。

・馬には乗ってみよ、人にはそうてみよ。
・牛を馬に乗り換える。
・馬の耳に念仏。
・馬耳東風

午年生まれの特徴。(野口会長も昭和5年 午年生まれ)
長所は、知恵・才能あり。人情肌。短所は、怒りやすい。喜怒哀楽激しい。軽率。

アベノミクスで経済は上向き。しかし、良いときに悪いことが起こる。良いときには何をすべきか。

1)儲かりすぎが危ない。税金払うなら使ったほうが良いという間違い。税金をきちんと払い、内部留保すること。
2)儲かると人に騙されやすくなる。金がなかったらやらないのに、持っていると引っかかる。
3)調子に乗って、拡大しない。

※ 野口会長の言葉は、会員専用HPにアップしています。